しとしとと降る雨の中、青年が独り、丘を歩いていた。
傘も差さず、安物のスーツも濡れるに任せて、黙々と歩いていた。
歩みを進める青年の眼は、何も映してはいなかった。瞳に濁りは無く、振り続ける雨の滴のように色が無く、透明だった。
考えて考え果てて、思考を放棄してしまったかのように、表情は呆けていた。
重い足取りは、行く宛てが無いように思える。
項垂れて歩く様は、まるで迷子の様。
ふらふらと危なっかしい青年を盗み見て、外来人か、と多々良小傘はほくそ笑む。
これはこれは、随分とまた無防備な獲物が来たものだ。
外来人であるのだから当然だけれども。
奴らは皆、自分が害されるなどと、夢にも思ってはいないのだ。
一体どれだけぬるま湯に漬かった世界で過ごして来たのだろう、と妬ましく思ってしまう時もあるが、橋姫でもあるまいしそれを口にすることはない。
自分は自分の仕事・・・・・・ライフワークをするだけだ。生きるための仕事を。
さあ、恐れ慄くがいい。
人間め。
「うらめしやー」
わあ、と青年が声を上げて飛び退る。
しきりに首筋を擦っているのは、不快感を拭うためか。
わあわあと喚く青年に、満足そうに小傘は頷く。
やはり、こんにゃくはいい。
芋をつぶして灰汁に浸して固めただけの物体、こんにゃくは、いつも私に勇気を与えてくれる。
人間を驚かすには、こんにゃくを首筋に当てるのが一番だ。
「ふっふっふ、驚いた?」
青年は眼を白黒とさせながら辺りを見回していた。
当然だ。
声の主は今、空に居るのだから。
小傘は空中から、青年にこんにゃくの一撃を浴びせたのだった。
雨音が強くなる――――――。
雨を受ければ受ける程、小傘の胸の内に暗い炎が燃え上がった。
憎い。
憎い。
人間が憎い。
私を捨てた、人間が憎い。
「だから驚け。もっと驚け。さあ、わちきを見て驚くがいいわ」
小傘は青年の前へと飛んで降りる。
急に現れた小傘に、青年はうわあと声を上げて尻餅を突いた。水溜りに腰を突いたようで、ばしゃんと泥が跳ね、青年の安っぽいスーツの尻が、どんどんと茶色に染まっていった。
いい気味だ、と小傘は笑う。
それでは、トドメだ。
「当たって砕け、うらめしやー!」
ずずい、と小傘は肩に差していた薄紫の傘を、青年へと突き付ける。
ぎょろり、と眼を剥く傘。
傘には巨大な眼球と、大きな舌が生えていた。軸の先、取っ手には下駄が。小傘の傘は、化け傘だった。
小傘は人間ではなかった。小傘はからかさお化け、と呼ばれる妖怪だった。小傘の本体は、つまりはこの薄紫の傘であった。
さて、どのような反応を青年は見せてくれるのだろうと小傘はにやりとしたが、小傘が期待していた程、青年は驚いてはいなかった。
呆、としたまま小傘を見上げる青年。
もしや驚き過ぎて気をやってしまったのか、つまらない、と小傘が疑いを抱き始めた頃、化け傘の長い舌が、小傘の背を舐め上げた。
「・・・・・・あれ?」
はて、と小傘は小首を傾げる。
おかしい。
化け傘の目玉と舌を、この青年に見せ付けてやったはず。
だというのに、舌が背を舐めるとは、どういうことか。
もしや、全く向きが逆ではないのだろうか。
「もしかして・・・・・・間違え、ちゃった?」
つまり、小傘は今、化け傘の裏を青年に突き付けていることになる。
急に現れた小傘に驚いて倒れた青年だったが、見目が幼い少女と知るや、驚愕は疑問の表情へと変わっている。
また失敗した、と小傘は頭を抱えたくなった。
なんだ、これは。
倒れた人間にただの傘を突き付けて、これでは馬鹿のようではないか。
「ええと」
ここでようやく青年が声を上げた。
戸惑いながら、青年は小傘へと話しかける。
「もしかして、傘、貸してくれるのかな?」
起き上がりながら手を伸ばした青年は、化け傘の柄を掴んだ。
変わった柄だね、などと言いながら、化け傘の下駄をそっと握る。
体から離れた感覚器から送られる刺激に、小傘はひゃあっ、と驚きの声を上げた。
そして、うわっと両手で口を塞ぐ。
しまった。
自分が驚いてどうするのだ。
これではあべこべではないか。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
小傘の手が離れた隙に、青年は傘をひょいと掲げた。
青年の頭上で、化け傘が眼を白黒とさせている。
小傘もどうすべきか解らなくなった。
どうしようか。
弾幕をばら撒いて逃げようか、と小傘が指先に妖力を集中させると同時、青年がその指をそっと握った。
集中が乱され、妖力が霧散する。
「お嬢ちゃん、君の善意は有り難いけれど、さっきみたいなのは危ないよ。傘は刺すものじゃなくて、差すものなんだから」
「いや、そうじゃなくて、わちきはあんたを驚かせようと・・・・・・」
「驚かせる? もしかして、このこんにゃく、お嬢ちゃんが投げたの?」
「そうそう、それそれ! どうだ、驚いたかー」
「いや、まあ、確かに驚いたけども。でも今時首にこんにゃくって、ちょっと古いんじゃあ」
「なんと、わちきが時代遅れともうすか」
「それはいいとして、駄目だよ、傘を人に向けたら。道具はちゃんと使ってやらないと、可哀想じゃないか。こんなに綺麗な傘なんだから」
「・・・・・・あ」
「でも、ありがとう。もうずぶ濡れだから、あんまり意味は無いかもしれないけれど、嬉しいよ」
服が濡れちゃうよ、などと頬笑みながら、髪から水を滴らせて青年は小傘と並んで傘を差す。
どこに行くのかな、という優し気な問いに、小傘は思わず、あっち、と指を指し示してしまった。
別段、どこかに行こうと思っていたわけではない。
ただ反射的に、指を指してしまったのだ。
どうしてか小傘は、凶暴な妖怪が出没しない人里までのルートを、この青年と一緒に歩くことになった。
道すがら、無言で歩き続けるのも気まずいと、何となく小傘は幻想郷について青年に語る。
やはり青年は外来人であったらしい。結界で外界と遮断された異世界が在ったことに、ははあ、と感心していたようだった。
もちろん小傘は妖怪についても語ったが、これもどうしてか、自分がその妖怪であるとは言いだせずにいた。
「どうしてこうなったのか。うらめしや」
「君は変わった子だね。こんなボロ男を助けてやろうだなんて、今時珍しい思いやりを持ってる。ああ、幻想郷では珍しくないのかな」
「知らないよ、もう」
青年に手を引かれたまま、小傘は肩を落とした。
雨で体温を失った青年の手が、ひんやりとした冷たさを伝えてくる。
自分の手の体温が青年の手へと移ればいいのに、と小傘は何となく思った。
「・・・・・・ねえ」
「うん」
「さっき、この傘が綺麗だなんて言ってたけど、本当?」
知らず、握った手に力が込められた。
どうしてか。
どうしてか、小傘は、青年に問わずにはいられなかった。
本当はすぐにでも問い返したかったが、これも何となくすぐに聞く事がためらわれ、幻想郷の話だとか妖怪の話だとか、どうでもいい話題ばかり振っていたのだ。
青年はしきりに感心したように頷いていたが、本当に信じているのだろうか。
ここは異世界です、などと説明されたとしたら、自分ならばそう言った奴の正気を疑うか、これは夢かしらんと自分を疑うかのどちらかだろう。
青年の言葉が真実であるかどうかの確証が持てず、小傘は恐怖を抱いていた。
馬鹿な、と自分の冷静な部分が警鐘を鳴らす。
何を恐れているのか。
青年が幼子の話に相槌を打っているだけのお人よしだったとしたら、何だというのだ。
だというのにどうして、こんなにも心の臓が痛いくらいに脈打つ。
どうして、どうして・・・・・・こんなにも期待で胸が膨らむのだ。その期待が打ち砕かれるかもしれないと、恐ろしく思うのだ。
今更人間などに、何の期待を抱いているというのだ。
「本当だよ」
「・・・・・・嘘をお言いよ。穴だって空いてるし、色も形も、まるで茄子みたいじゃないか。ねえ、正直に言っておくれよ。こんなヘンテコな傘、いらないって。
オンボロ傘なんて捨ててしまえって」
「捨てるだなんて、とんでもない。立派な番傘じゃないか。骨は痛んでいないし、穴もふさげばいい。これぐらいなら、俺でも直せるよ。
まだまだ現役だぜ、こいつは。番傘職人の居る町で生まれ育った俺が言うんだ、間違いない」
なんて、おどけたように肩を竦める青年に、小傘は飛び付いた。
いや、縋り付いた。
その時には小傘にはもう、どうしてか、などと自問する余裕などなかった。
「ほんと? ねえ、本当? 本当にまだ使えるの? 使ってもらえるの?」
「本当だとも。これだけしっかりした良い傘なんだ。使ってやらなきゃ、もったいない」
小傘の全身に震えが奔った。
雨の寒さに凍えたわけでも、先ほどから鳴いている雷に撃たれたわけでもない。
歓喜に小傘は震えていた。
嬉しい。
嬉しい。
震えが止まらない。
ぶるぶると震える手に、青年が怪訝な顔をして小傘と眼を合わせる。
大丈夫だよ、と頬笑みを返したが、うまく笑えているのだろうか。
たぶん無理だろうな、と小傘は思った。
だって、雨が眼に入ったわけでもないのに、こんなにも視界が滲んでいる。
「ねえ、お嬢ちゃん、どうしたの? そんなに震えて、寒くなったの?」
「うん、そうだよお兄さん。だからもっとひっついてもいいかい?」
「それは構わないけれど。どこか具合でも悪いの? 大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。嬉し過ぎて、死んじゃいそうなだけだから。ううん、違う。消えちゃいそうなだけだから」
「それは大丈夫じゃないんじゃあ・・・・・・」
「いいんだよ」
いいんだよ、ともう一度言って、小傘はにっこりと笑う。
「恨みつらみ雨あられで、打たれて濡れて妖怪になったのなら、お天道様が晴れたなら、からっと乾いて消えて無くなるのは道理だよ。
ね、お兄さん。笑っておくれよ。わちきはお兄さんのその気の抜けた笑い顔が、好きになっちゃったんだ。だから、笑っておくれよ。
そうじゃないと化けて出てやるぞ。うらめしやー」
「お嬢ちゃんみたいに可愛いお化けなら、大歓迎だよ」
「そうそう、その顔。あはは、なーんにも考えてないの丸出しの顔。あはははは」
「ひどいな。そんなに面白い顔してるかな、俺」
あはは、とひとしきりに笑って、小傘は目元を拭う。
涙が出るのは、笑いすぎたからだ。そう思った。
「ね、お兄さん」
小傘は青年の手を離し、たっと傘から駆け出る。
青年がきょとんとした顔でいるのが面白くて、また小傘は笑った。
「その傘、お兄さんに上げるよ。捨てるなりなんなり、好きにしておくれ。
でももし大事にしてくれるなら、きっとその傘はお兄さんを守ってくれるよ。
お兄さんがそうやって能天気に笑っていられるように、お兄さんを凍えさせる雨から、ぜーんぶ守ってくれる」
濡れちゃうよ、と伸ばされた青年の手を切なそうに見詰めて、小傘は首を振った。
「この道を真っ直ぐに行けば、人里がある。ここから先は、あちきは一緒には行けない。お兄さん一人で行くんだ。いいね」
小傘は青年の背後を指差す。
つられて青年が後ろを向いた。もう人里の灯りが見えていた。
この先は人の生活圏だ。
商売以外で足を踏み入れる妖怪はいない。
この道を真っ直ぐに歩いて行けば、問題無く青年は人里の守護者に保護されるだろう。
それが小傘には、何にも変え難い程に嬉しく思えた。
「それじゃあお兄さん。短い間だったけれど、本当に楽しかったよ。ありがとう」
「お嬢ちゃん?」
青年が振り返った時にはもう、小傘の姿はどこにも無かった。
しばらく考え込んだ後、青年は人里へと足を進める。
ふと、何処からか声が聞こえてきたような気がした。
「“わたし”を大事にしてね。お兄さん」
こうして青年は、傘職人として人里に受け入れられることとなった。
青年の作る傘は評判が良く、雨漏りもせず色使いが斬新で美しいことから、里中に重宝されたという。
傘の彩りに魅せられた物造りの職人達が、幻想郷の文化に新たな風を吹かすことになるのだが、それはまた別の話。
何の障害もなく人里に受け入れられた青年に、ケチが付いたとしたならば、唯一つ。
それは傘職人の癖に、自分の使う傘の趣味が、非常に悪いということだけだった。
紫色の、大きな目玉模様が描かれた薄気味の悪い傘。閉じればまるで茄子のような、所々ツギハギだらけのオンボロ傘。
そんな傘捨ててしまえ、と里人に言われる度、青年は能天気に笑って、これでいいのだと肩に傘を差してみせた。
あの雨の日から、オンボロ傘は青年の肩にある。