十日後の城内にて。
わんわんと、いつまでたっても鳴り止まぬ幼児の泣く声。
質素な、しかし質の良い桜色の着物に身を包んだこの大粒の涙を零す女児こそが、お市の方であるらしい。
周りにいる大人達が右往左往としている様は、何とも面白可笑しいが、お市の方はまるでこの世の終わりだとでも言わんばかりに声を張り上げては泣き叫ぶ。
「おおっ、これは猿夜叉丸様、よいところに!」
「見ての通り、先ほどから姫君が泣きやんでくれず、皆とんと困り果てておったのです」
「良き武将となるには、女人の扱いにも長けておらねばなりませぬ」
「ささ、猿夜叉丸様、あとは若い二人で時をお過ごしなさいませ!」
「ささ、ささ!」
「さささささ!」
「お前達あとで覚えておれよ……」
一瞬で退室していく大人達。
一気にがらんとした室内に、ひぐひぐとしゃくりあげる女児の声が響いていた。
何ぞかんぞとシリアスぶってはいたが、某の周りはこんな大人たちだらけ。
と、つられて泣きたくなる猿夜叉丸であった。
ともあれ、お市の方である。
「お市殿、お市殿、そろそろ顔を上げてはもらえないだろうか」
「うえっ、ぐ、ひっ、ぐ……えええん、えええん」
「ああ、ほら、そんなに目を擦るものではない。顔が腫れてしまうぞ。そんな顔をしていては、綺麗な着物が台無しだ。
せっかく可愛らしいお顔をしているのだから、ほら、顔を上げて」
言ってから後悔する台詞とは多々あるものだ。
歯の浮くような己の言葉に胸中で唾を吐きながら、手ぬぐいで顔を拭いてやる。これくらい解り易くなければ、幼児には伝わらぬだろう。
目を擦るなと言われてその通りに、なすがままにされているのだから、この女児は存外素直な性格をしているようだ。
こんな鼻水と涙を垂れ流しているような女児が、魔王の妹とは到底思えない。
「いったい何がそんなに悲しいのだ。某に教えてくれぬか」
「ぷりんが……ぷりんがいなくなっちゃったの」
「ぷりん……? なんだそれは」
「いちと、ずっといっしょだったの。でも、いなくなっちゃったの。いちのこと、きらいになっちゃったから……うう、うう、えええん」
「ああ、ほら、泣くな泣くな」
要領を得ない話であったが、まとめると、どうやら飼っていた動物が逃げてしまったらしい。
このお市の方は見た目と違ってお転婆のようで、城内に着いて即、探検だとやたらと広い庭を走り回っていたところ、その動物とはぐれてしまったらしい。
それが、自分が嫌われたから、どこかにいってしまったのだ、と思い込んで泣いていたのだ。
初めて来た場所で、よほど懐いていたとしても、動物をリード無しで離し飼いにしてはそれははぐれてしまうだろう。
しかし犬か猫か、はたまた鳥かは解らぬが、ぷりん、という名前には驚いた。
一瞬前世で食したことのある甘味が思い浮かんだが、冷静に考えれば子共特有の、擬音というか意味を成さない音で付けた名前だろうと思い至る。
「大丈夫。きっとすぐに見つかるさ」
「でも、ひっぐ、ぷりんが、いちのこと、きらいだったら、うっく、もう、もう……うええ」
「ぷりんは、お市殿のことを嫌ってはいないよ」
「ほん、と?」
「本当だとも。なんとならば、この某が探しに行ってもいい」
本音は、この女児を放って置きたいというものであったが。
「いっしょ、いく……いちもいっしょ、いく」
「いや、お市殿はここで待って」
「うええ」
「わかった、わかった! 一緒に行こう!」
さあ行くぞ、と振り向いた猿夜叉丸の手を、ぐずぐずと鼻を啜りながら、極めて自然にお市の方は絡め取ったのであった。
途端に襖の向こうから聞こえるひそひそ声。
「さすがは若君よ」
「さす若」
「手が早いのう、よきかなよきかな」
「女泣かせは武将の甲斐性よ。わっはっは」
「しかし相手はあの尾張の妹君ぞ。これで縁が結ばれるようなことがあっては事では?」
「よい、よい。これで若が籠絡なされば、内側より骨抜きに出来るかもしれん。尾張に打撃を与える一手と考えれば、愉快なものよ」
「聞こえておるからなお前達」
もうどうにでもなれ、と言わんばかりの顔で、お市の方の手を引いて、猿夜叉丸は庭へと足を向けた。
「あの……」
「うん?」
「おなまえは、なんですか? いちは、いち、だよ!」
「ああ、聞き及んでいる。良い名だ」
「えへへ……」
「某は、今は猿夜叉丸と申す」
「さるやちゃ。さりゅやちゃまりゅ? ん……おさるさん?」
「それは、ちょっと。太閤は某には荷が重い」
「じゃあ、なんてよべばいいの?」
「ううむ……そうだな。ええい、仕方ない。長政と呼んでくれ」
「ながまさ、さま?」
「そうだ」
「ながまささま!」
「うむ。だがその名は、もうしばらく隠しておいてくれ。予定、だからな。ここだけの秘密ということにしてほしい」
「どうして?」
「渾名だ、渾名。まだそう呼ばれるには早いのだ」
「えと、じゃあ、ながまささまのことながまささまってよぶのは、みんなにはないしょにするね」
「うむ」
「いちとながまささまだけのひみつだね!」
「ああ、そうだな。さあ、ここから庭に降りられるぞ。ほら」
空が眩しい。
日の光が目に染みた。
新鮮な空気が鼻腔を抜け、肺を涼やかにしていく。
少しばかり、涙腺が緩んだ。
こんなことで心動かされることはないと、思っていたが。
「どうしたの? ながまささま、どこか、いたいの?」
「いや……久しぶりに外に出たからかな。日の光が眩しかっただけだよ。さあ、ぷりんを探そう」
ぷりん、ぷりん、と叫んではみても、何の声も音もしない。
あらかた庭を探し終えたが、姿が見えないとなると、裏の林が怪しいか。
城というものは攻められることを想定して、山の上に築かれているものが多い。
猿夜叉丸が軟禁されていた城も同じであり、城壁に囲まれてはいるものの、しかしその直ぐ脇に天然のより強固な城壁が、生い茂った木々が並び立っているような造りとなっていた。
探しても見つからなかったのだから、向こう側に行ってしまったと考えるのが妥当だろう。
どうしようかと思案する猿夜叉丸だったが、またお市の方がぐずり始めたため、仕方なしと、崩れた壁を二人して潜って外へ。
産まれて初めて踏んだ城の外の土は、不思議な感動を与えてくれるものだったが、今はぷりんの捜索が第一である。
あまり浅井家縁ではない城内の者達に、お付きもおらず外に出ている姿を見られたくは無い。
「ぷりんー、ぷりんー! どこー!」
「ん……? 今、何か動いたような」
「あ、あそこ!」
「ああ、走ってはいけないよ。藪の中じゃないか。どれ、某が行ってくるから、ここで待っているように」
「はい、ながまささま!」
落ち着かせるように繋いだ手を二度ほど軽く叩いてやると、ぎゅっと一度強く手を握ってから、お市の方は力を抜いた。
やれやれと頭を振って藪の中へ踏み込んでいく。
運命の出会いがそこにあった。