「――――――は」
気の抜けた声が自分の声であると思い至るまで数秒。
「――――――はは」
頬がにやけていると自覚するまで数十秒。
妖力の輝きが失せた後、地に倒れていたのは女だった。
奥義をかい潜って男が何か攻撃を仕掛けてきた訳ではない。
足首に何か違和感を感じ、気が付いた時には天地が逆さになっていた。
恐らくは、あの趣味の悪いオンボロ傘の柄を、足首に引っ掛けたのだろう。
使用された技は膂力と妖力を受け流して一方向に誘導するという、とんでもなく高度なものだったが、まさか命がけの勝負でそんな子供騙しを使ってくるとは。
笑いが込み上げてくる。
そしてそんな子供騙しにまんまと引っ掛かった自分にも。
思えばここまで人間に近付かれたことはなかったか。人を舐めたら痛い目を見ると身内連中に幾度も聞かされていたが、なるほどこういうことか。
出来ればもう少し派手にやられたかったが、人に対する警戒がまったく無かった自分が悪い。
笑ってしまう。
人間が弱いなどと勝手に失望し、人の強さを舐め切っていたのは自分だ。
文句なく、自分の負けだ。
零れた酒が顔を濡らしていた。
鬼に二言はない。
一滴どころか、酒を全て空にさせられたのだから。
「俺の勝ち、ですね」
「ああ、そうか、そうだね。負けたのか。私は負けたのか・・・・・・」
ゆっくりと女は身体を起こした。
負けたのか、と繰り返す女は、どこか憑き物が落ちたような、すっきりとした顔をしていた。
「なあ、すまないんだけどさ、盃が空になっちまったんだ。お前さんがよけりゃ、注いでくれないかい? 安心おしよ、暴れやしないから」
「喜んで」
男は女から瓢箪を受け取ると、とくとくと酒を注いだ。
くい、と盃を煽る。
熱い塊が喉を通り、胃に溜まり、体の内側から熱を放つ。
「・・・・・・美味い」
「もう一献いかがですか?」
言うが速いか注がれる酒に、女はありがとうよと一言返し、それを口元に運んだ。
気付けば夜の帳が落ちていた。空には円い月。月は狂気を誘うというが、女の心は波一つなく静かに凪いでいた。
水鏡となった盃に、月の光が満ちる。
水月は円ではなく、揺ら揺らと幾つもの波紋に歪んでいた。
波紋を生んでいたのは、女の両眼からぽろりと一粒だけ落ちた涙だった。
それに女が気付いたのは、水鏡に映る自分の顔を見て後だった。
「ああ、美味い、美味いねえ・・・・・・」
酒とはこんなにも美味いものだったのだろうか。
何時も飲んでいたものと同じもののはず。
だというのに、どうしてこんなにも染み渡る。
人に負けた時に飲む酒が一番美味いのだと、友である女鬼は言っていた。
その通りだと思った。
「ありがとうよ、傘屋さんよ。酒がこんなに美味いもんだと、もっと早くに気付いていればよかったよ。
出来れば今少しお前さんに酌をしてもらいたいが、これ以上手間を取らせるのもなんだ、さっくりやってくれ」
「はあ、さっくりとですか。ええと、さっくりととは、何をしたらいいのですか?」
「首を。やると言っただろう。持っていきな。なあに、私もそれなりに名の知れた暴れ鬼だ。都の大臣にでも献上すりゃあ、一生遊んで暮らせる金子を貰えるだろうよ。
流れる血を飲めばきっと寿命も延びるだろう。鬼は酒呑みだからね、臭みはないから、一気にいってくれ」
「いや、それは」
心底困ったなと男は頭をかいていた。
「あの、首とかは要らないですから」
「だめだめ、何を言ってるんだ。鬼に二言は無いんだ。ちゃんと持って行ってくれないと、困るよ。鬼を倒したつわものには褒美を。当然だろう?」
「いや困るのは俺の方で。じ、じゃあ別のもので。首は要らないから、別のものを下さい」
「私は別に首くらいくれてやってもいいんだけどねえ・・・・・・。お前さんがそう言うならいいけどさ。
しかし、別のものか。金銀財宝なんてないしねえ。他になんて、私には身一つしかないわけで・・・・・・。ははあん、そういうことか」
合点がいったと頷いて、女は手を打った。
酒が美味いと感じたと同時、酔いも回るようになったのだろうか。
頬が熱くなっていく。
身体が熱くなって、じっとりと汗が噴き出てくる。女の肌がてらてらと艶やかになっていく。
女が僧衣の端をもって仰ぎ、風を入れてやる様から、男は目を離せないようであった。
そんな男を見て女は気付いたのか、にやりと子供が悪戯を思い付いたような笑みを浮かべる。
ほれ、と僧衣の襟元をもっと大きく開いてやった。
ごくりと喉のなる音。
他者が混じっている男である。
元より酷く存在が薄く気配が希薄であり、しかしその精神性の濃いという相反する特性を持つ男は、人の気配の機微に敏感である妖怪にはそれは好かれることだろう。
しかし逆に人間には、そう関心を向けられなかったに違いない。
人肌恋しかったのだろう。男の視線が更にぎらつくのを感じる。
礼儀正しく冷静ぶってはいるが、人並みに性欲はあるということだ。
並外れた艶やかな身体を持つ女は人間に情欲を向けられることが多く、そのほとんどを鬱陶しく感じていたが、男のそれには嫌悪を感じることはなかった。
むしろ、とても気分が良かった。
「お前さん、私が欲しいのか」
「はあ・・・・・・ええっ?」
「そうかそうか。いやあ、何て言うか、そう真っ直ぐに言われると照れるねえ。ええと、確かこうするんだっけか」
女は佇まいを正すと正座をして、三つ指をつき、頭を下げる。
角が地面を引っ掻いた。
「末永く・・・・・・」
「いや、だから違いますって! そういうのは冗談でもやらないでくださいよ」
「冗談なもんか。お前さんだったらいいって、お前さんがいいって思ったんだ」
「うぐ・・・・・・いや、その」
「なんて、ね。そうなったらいいなって、ちょこっと思っただけさ。
私だって鬼じゃないんだ、嫌がってる奴のとこに無理矢理押しかけることはしないさ。ああ、いやさ、鬼だけれども。
しかしねお前さん、本気で私を殺さないつもりなのか?」
「はい。御察しの通り、依頼を受けてあなたを負かしには来ましたが、殺せだなどとは一言も言われてませんから。俺も貴女を手に掛けたくはありません」
依頼、と聞いて女の顔が申し訳なさそうに歪む。
やはり、祓い屋か退魔師であったか。ここまで凄腕なのだ、間違いなかろう。
女は、だがそんな凄腕の男が望むものをくれてやれないことに、とても申し訳なく思ってしまう。
鬼殺しの名すらくれてやれないとは。
「それはどうして? 私は人殺しの鬼なんだぞ? 生かしておいたって人間に益はないぞ。それとも、依頼主に生かしたまま連れてこいとでも言われたか?」
「いいえ。ただ貴女を倒せ、とだけ」
「じゃあいいじゃないか、堂々と首を取りなよ。さっきも言ったが、首を取る前に、私を好きにしたっていいんだぞ。お前さんも体温があるほうがいいだろう」
「見境無い殺人鬼であったなら考えますが、でも貴女は理由のない殺しは好まないでしょう?
そこに積まれているのは、近くの村を襲っては女子供を攫っていく盗賊団なのでは? 近くの洞窟に奴らのねぐらがありましたよ。中は酷い有様でした」
「・・・・・・ふん。人攫いなんて、鬼のお株を盗むからだよ。別に人間のためにやったんじゃあないさ」
「ここに来る道中で奴らに襲われた村に立ち寄ったんですけれど、生き残っていた姉弟が、角が生えた優しいお姉さんがきっと仇をとってくれるって、泣きながら話してくれましたよ」
「これだから、人間は・・・・・・」
天を仰ぐ。
また涙が零れそうになるが、それは耐えることが出来た。
何を泣くことがあるのかと。
月の光が目に染みたのだ。
そういうことに女はしておいた。
鬼の目に涙など。人のために泣く鬼があるものか。
「あそこは戦で親を失った孤児を集めた集落でね、村なんていう程の規模はなかったんだ。子供たちだけで肩を寄せ合って何とか生きていたってのに、あいつらが・・・・・・」
「どうりで、大人の死体が無いと・・・・・・」
女があの村でどのように過ごしていたかを、男は問うことはしなかった。
ただ、女が子供が好きであることと、子供達を守れなかったことを悔いていることだけは理解できた。
脆く、弱く、儚く、直ぐに死んでしまう人間。子供であれば、尚更直ぐに死ぬ。
そんな人間を、女は深く愛していたのだ。
人が鬼を倒すために技を鍛え、知恵を凝らすこと。
例えそれが殺意によるものからであっても、それだけの時間と労力でもって真摯に想いながら、人は鬼のために全てを費やすのだ。
鬼は、そんな真っ直ぐに自分達に向って来てくれる人間が、好きでたまらないのだろう。
いつか倒されてしまいたいと思うくらいに。
殺し愛い、そんな言葉が男の胸に浮かんだ。
「ねえ、勇儀さん」
男が女の隣に膝立ちになる。
弾かれたように、女は顔を上げた。
「傘屋、お前さん、どうして私の名を・・・・・・。都には大江山の鬼としか伝わっていないはずだが」
「そんなことはどうでもいいじゃあないですか。ねえ勇儀さん、面白い事を教えてあげましょうか?」
「面白い事だって?」
「ええ、今よりずっと未来の話です。何百年か先、貴女は不思議な場所に招かれることになる。そこは人と妖怪が等しく住まう場所。
宴をしたり、力試しをしたり、きっと楽しいですよ。郷を飛び回っている巫女さんがこれまた色々な意味で凄くて――――――」
男の語る内容は破天荒で、理解不能な事ばかりだった。
人と妖怪が等しく在り続ける、そんな場所があるならばそこは妖怪にとっての楽園だろう。
鬼に匹敵する人間が居るのならば、最高だ。そこが地の底だって構わない。
面白いね、と女は素直に頷いた。
法螺話にしては、面白い。
ただ、遍く妖怪を幻想にしてしまうくらいに人間が脆弱となったとしたら、自分がこの男と出会うまで感じていた失望を、全ての鬼が抱くようになるだろうという、確信めいた予感を胸に。
「そんな所があるなら、いつか行ってみたいもんだね」
「ええ、きっと行けますよ。そこでまた、一緒にお酒でも飲みましょう」
「あっはっは、何だよそれ。お前さんは一応人間だろう。何百年も生きていられるもんか」
「はは、そうですね」
笑って、男は懐から何か丸いものを取りだした。
それが懐中時計という物であることは、この時代に生きる女には知る由もない。
「おっと、そろそろ咲夜さんが復活したのかな」
「確かに、お前さんの話は面白かったよ。そいつが法螺話でも、騙されてみたいって思うくらいには」
「じゃあ騙されたと思って生きてください。人と鬼との勝負はね、本当はきっと、もっと楽しいものなんですよ。楽しむべきものなんですよ。命掛けなんてやめましょう」
「そいつが出来たらいいんだけどねえ」
「勝負は楽しむもの。命のやりとりは、殺し合いでするものですよ」
「ふうん、お前さんはそういう区別をしてるのか。鬼にとっちゃあどっちも同じだが、まあ、鬼が嫌われ者だってのは、昔から決まり切ったことさ。生き辛い世の中だよ、まったく。こいつも目立つしね」
「そうですね。それだけ綺麗な星ですから、そりゃあ目立ちますよね」
「そういう意味で言ったんじゃあないんだけれどねえ。だけど嬉しいよ。角を褒められたのは初めてだ」
「そんな貴女に、はい、これをどうぞ」
「何だいこりゃあ。傘、いやさ笠かい?」
「はい。傘屋の笠ですよ。ほら、ここの窪みに角を通して、あご紐をしっかり締めて。もう少し上を向いて、締めてあげますから」
「お、おう」
「うん、よく似合う。それではご注文の品、確かにお届けしましたよ」
「いや、注文なんてしてないだろう。お前さんとはこれが初対面だぞ」
「何百年後か先の話、ですよ。大丈夫ですよ、勇儀さん。人は、貴女が思っているよりもずっと強いのだから。
貴女が見て来た人なんて、ほんの少しですよ。それをかぶって、人の世を歩いてみれば、すぐに解りますよ」
「傘屋?」
「それでは、また。何百年後か先に、幻想郷で会いましょう」
「おい、傘屋? あれ・・・・・・どこいったんだよ、おーい」
笠の据わりを気にしていた女が振り向いた時、そこに男の姿は無かった。
しばらく首を傾げ、何をかを納得した風に女は立ちあがった。
にいっと不敵に笑って笠を持ち上げる。
男とじゃれあっている時と同じ、獰猛でいて美しい笑みだった。
「鬼を前にして一年先どころか数百年先の話とは、笑わせるじゃないか。いいぞ、生きてやる。人に寄り添いながら、喰らい合って生き抜いて、生き合ってやるさ。
だからお前さんも忘れるなよ。私の命は、お前のものだ」
さてと、と軽く砂を払ってから、女は何処へなと無く歩きだした。
「とりあえずあの村のガキんちょ共を寺にでも放りこんで、それからどうするかな。ああ、頼光とかいうお偉いさんの相手をしてやるのもいいねえ」
盃に口を付け、傾ける。
満足そうに女は息を吐いた。
数百年後の約束に想いを馳せながら。
「――――――ああ、美味い」
――――――やがて山の四天王と称されるまで登り詰めた女鬼の、未だ若かりし頃の話であった。
この日を境に頻繁に鬼の宴に顔を出すようになった女鬼は、酒の肴にと毎回事あるごとに自分を打ち負かした不思議な傘屋の話を語るものだから、惚気はたくさんと同じく四天王となる友人にまで呆れられ、身内から非常に迷惑がられることになる。
結局鬼達から避けられ遠ざけられるのは変わらないまま、女は各地を旅することになるのだが。
それはまた別の話、別の機会に。
■ □ ■
「お帰りなさいませ、傘屋様。ご無事のようで、安心しました」
「ああ、咲夜さん、ただいま。無事に時間旅行から戻りました。体調は良くなったみたいですね」
「その節はとんだご迷惑をおかけして・・・・・・お詫びのしようもございません。
能力の暴走にお客様を巻き込むなど、この咲夜、一生の恥でございます。どうかお気の済むまで鞭を」
「いや、鞭打ちはちょっと。脱がなくてもいいですから」
「そう、ですか。残念です。ではお詫びはまたの機会としまして、そうそう、黒白にはパチュリー様がけじめを付けておきましたので。触手で」
「らめぇぇぇぇ・・・・・・」
「うわー遠くの方から声が」
「気のせいですわ」
「は、はは、しかし過去に跳ぶなんて、貴重な経験でした。急に勇儀さんが紅魔館に押し掛けて来た理由が解りましたよ。
やさぐれ鬼に笠を渡すついでにぶっ飛ばしてやって欲しい、なんて、一体どうしたのかと思いましたよ」
「そうですか。詳しい理由を聞いても、教えては頂けないのでしょうね」
「ええ、ヒミツです。ところでお嬢様は?」
「居間で睨みあっていますよ。西洋鬼のプライドとカリスマに掛けて、東洋鬼には負けられないと」
「いまいち仲が悪いですもんね、あの二人。まあ、大抵の妖怪は仲が悪いですけれど。やっぱり種族の壁は大きいのかなあ」
「それだけが理由とは思えませんが。私も間に入ってしまおうかしら、ぬるりとね」
東方ここまで!
続き? ないよ!!
でも東方だけじゃなくこれこれの続きが読みたいぜって言われると嬉しいな(小声)