小高い山の上に、大柄な女が一人、胡坐を掻いて座っている。
頭の先から足の先まで、全てが朱色の女だった。
否・・・・・・朱色に染まった女だった。
坊主の死体から剥ぎ取ったのだろう、襤褸同然の黒衣もまた朱に染まり、だらしなくそれを着こなす女にこの上なく似合っていた。
女の前髪からは朱の雫が落ち、掲げた赤漆の大盃に波紋を広げる。
一つ、二つ、三つ、四つ――――――。
落ちた雫の数は、それでも未だ、女が摘み取った命には届かない。その長い髪から滴る雫の全てを合わせても、まだ届かない。
女が腰掛けていたのは、人の死骸によって築かれた山だった。
血に染まった女が夕暮れの中、小高い人の肉の山の上で、女は憂鬱に盃を傾ける。
適当に積み上げられたそれらは皆、薄汚れた鎧兜を着た武者姿。目視だけでも30は下らない数がある。どこぞの戦場から落ち延びて来たのか、あるいは死体剥ぎを生業とする野党崩れであるか、あるいは彼女を滅ぼすために組織された調伏師であったか。
まあそんなことはどうでもいいと、心底興味無さ気に女はぐいと盃を背ごと反らす。
ごぶり、ごぶり――――――。酒か血か、もうどちらか解らなくなった液体を喉を鳴らして嚥下する。
ぶふう、と豪快に息を吐く姿は決して下品には見えず、むしろ女の魅力を妖しく惹き立てていた。
「――――――ああ、まずい」
口直しにと、大盃へ腰に吊るした瓢箪より明らかに容量以上の酒を注ぎ出し、再び盃を傾ける。
ごぶり、ごぶり――――――。呑み干して、女は吐き捨てた。
「ご、ぶ、ふぅぅ――――――。ああ、まずい。まずいねえ」
女が酒を飲む時の台詞は、決まってそれだった。
女は酒を美味いと感じた事は無かった。酒に呑まれて酔っぱらったこともない。女が吐く息は酒気の混じった満足の吐息ではなく、嫌悪の呻きだった。
それでも酒を飲むのを辞められないのは、女の産れの業だろうか。
しかしどれ程の美酒を口にしても悪態しか口にしない女は、身内連中からも避けられ、遠ざけられていた。
最近はありがたくもない渾名を付けられる始末。
構うものか、と女は嗤う。
不味いものは不味いのだ。
身内連中は酔うために酒を飲むが、女は違った。酒には浄の力が宿る。女は身を内側より清めるために酒を飲んでいた。
だがいくら酒を流し込んでも、身の内に澱む泥は流れない。そこいらの神社から奪い取って来たのがいけなかったか。酒に浄の気を感じない。
まずいまずいと繰り返し、女は盃を傾け続ける。
「百薬の長とは言うけれど、それ以上は体に毒ですよ」
不意に、男の声が聞こえた。
チィ、と忌々し気に女は舌打ちを零した。
此処は村から離れた死体ばかりが転がる合戦跡だ。野党がたむろするこんな場所にわざわざ足を運ぶ者など、どうせろくな人間ではない。しかも自分の風体を見て驚きもしないとは。
知り合いに声を掛けるような気安さは、自分達が何たるかを熟知しているからだろう。呼び声の一つも上げない客は迷惑なだけだ。
肺腑の奥から絞りだされる熱く酒臭い溜息。
酒を飲むといつも鬱屈とした気分になる。これだけ近付かれても気配に気が付かなかった程、滅入っていたのか。
ああいやだいやだ、と女は髪を掻き回して水気を飛ばすと、面倒だと言わんばかりに男を睨みつけた。
空気を含んで、彼女の元来の髪の色である金が、空にぶわっと舞った。
金色に燃える炎のようだった。
「消えな。今なら見逃してやる」
言って、高密度の殺気を雨あられと飛ばしてやる。
心臓が弱い者ならば、そのまま死んでしまいかねないほどの殺気だ。
相手が唯の人間ならば、よほどの実力者かよほどの馬鹿かでない限り、立っているのすら困難だろう。
これでケツを捲くって逃げ出すはず。
男から視線を外し、盃に瓢箪を傾けようとする女は、しかし目論見が外れたことに目を細める。
「そんなに不味いのなら、飲まなければいいのでは?」
「・・・・・・聞こえなかったのか? 私は消えろと言ったんだ」
男は困ったように笑うだけだった。
まいったな、と女は内心辟易とする。
馬鹿か強者か、どうやら後者のようだった。
「俺としても立ち去りたいのは山々なんですが・・・・・・。
どうやらキノコの毒からまだ咲夜さんが回復してないみたいで、時間が逆さに回ったままなんですよ」
「訳の解らんことを・・・・・・変な奴に捕まっちまったよ、まったく」
魔理沙さんにも困ったものです、と男は苦笑いを零すが、女は男が何を言っているのか少しも理解が出来ない。
理解するつもりもない。
全てがどうでもいい事だった。
「能力を狂わせるとか、魔法の森のキノコは流石に一味違うなあ。咲夜さんも口に含んだ瞬間に、七色の光を吐いてたし」
「お前さん耳が聞こえないのか? 鬼の慈悲も三度まで、これが最後だ。消えな」
「だから、それは無理なんです」
「そうかい。なら死にな」
女はもう男の方などろくすっぽ見ず、盃を振り抜いた。
恐ろしい膂力によって盃から撒かれた酒、その一粒一粒には、女が直接口を付けて吹き入れた膨大な妖力が込められている。
浄の気を以てしてもなお濯げぬ怨念が、朱色の呪となって散弾の如く、男を貫かんと殺到する。
これで男も自分の椅子の一つとなることだろう。
酒が気持ちよく酔えるものだなどと信じてはいないが、肉を清める手間が省けることにはありがたい。
女は物憂げに溜息を吐き、空になった杯へと瓢箪を傾け――――――ぱん、という軽い音に、眉根を跳ね上げた。
死体の山の上から見下ろせば、男が趣味の悪い傘を広げている。
薄紫色の傘に描かれた大きな一つ目と口が、威嚇するようにぎょろりと女をねめつけた――――――ような気がした。
「うわっ、危なっ!」
「・・・・・・能力持ちか。助かった、なんてほっとした顔をして、これだから人間はすぐに思い上がる」
あのまま死んでおけば苦しまずに済んだものを。
重い腰を持ち上げ、女はひょいと山から飛び降りた。黒衣の裾が捲くれ上がり、女の腿を剥き出しにする。女の魅力の全てを備えたような白く美しい脚であったが、それが見た目通りにか弱いものであるとは誰も思わないだろう。男より二回りは大柄な女であったこともあるが、それよりもっと単純な話だ。
着地した瞬間、まるで重さを感じさせず男に向けて爆発したかのように歩を進めた女の姿を見れば、誰だって震え上がる。足元から火花が散る程の加速。体当たりでもされたら、唯では済まない。
女にしてみればただ歩いただけなのだろうが、人間にしてみれば暴風に等しい速度だった。
そのまま女は無造作に拳を男に放つ。
妖力をそのまま固めた攻撃は効かないだろうと判断しての接近戦。たった一度の攻撃で男の特性を見切ったのは、女の才が抜きん出ていることを示していた。
あるいは、あまりもの面倒臭さに思考を放棄したのかもしれない。
恐らくこの男に遠距離からの攻撃は効くまい。だがそれがどうした。
女の本分はその膂力にあり、であるために己の最も自然とする機能を発揮したらいいだけのことだった。即ち、近付いてぶん殴るだけだ。
男は慌てて傘を閉じると、それを刀に見立て振り上げたが、そんなもの、役に立つかどうか。
「む――――――!」
「あぎっ――――――!」
拳に感じる違和感に、女が声を上げた。
空気を殴ったかのような手応えの無さ。これは、受け流されたか。オンボロ傘でよくやる。
しかしまるきり効いていない訳でも無さそうだ。受け流し切れなかった重圧に、男が苦悶の表情を見せている。食いしばった口の端から滴る血の雫。
ならば数を放てばいいだけだ。
そうと決めた女の行動は早かった。
実際、どうしようもない程に速かった。
女の肩から先が消え、無数の拳戟として再現される。
男に迫る拳、拳、拳、拳――――――拳の弾幕。
「無駄だよ。無駄無駄、無駄だって」
「うぐぐぐぐぐっ!」
「もう諦めな。なるべく、痛くないようにしてやるからさ」
言うも、どこかおかしさを女は感じていた。
どうにも男の気配が捉え難い。
拳を放つ場所放つ場所に、解っていたかのように傘が据えられている。まるでこちらの手の内を全て読み明かしたかのような反応だ。
こんなことが出来るのはサトリだけだと思っていたが、さてそれが能力ではないことは解っている。不意を付いてやれば、そちらにも反応するのだから、思考を読んでいるわけではない。
純粋に男の磨き上げた技術によるものだ。
そして男が膝を突きつつあるのは、これは純粋に種族による力の差でしかない。女が勝っているように見え、勝負の流れを掴んでいるのは男だった。
そこまで考え、何か思い当たる節があったようだ。拳を放ち続ける女は、ニヤリと口蓋を釣り上げた。
紅も引いていないというのに真っ赤な唇から、なお赤い舌先が覗く。
赤い舌が、鋭い歯をぞろりと舐め上げた。
男が初めて見た女の笑みは、野生の獣を思わせる獰猛でいてどこか美しい、磨き抜かれた刀身の様だった。