からころ、下駄の音。高らかに狸一匹、歩いていく。
舗装された道路に馬車が奔る。周りを見れば散切り頭に西洋服。少し前とはちょっと違う。そんな中で狸一匹、キセルをふかす。ぷかぷか浮かぶ白い煙。風に流れるのは栗色の髪もおんなじ。
人は多い。両側に煉瓦造りの建物がずらり、ずらずら。がたんがたんと音がする。どこから聞こえてくるか分からない。狸は少し止まって首をひねる、緑の着物の袖に片手を入れて考える。
狸一匹名前がある。まみぞうという。なかなかの美人だ。
この狸、田舎者である。いつもは遠い北国のさらに北の孤島に住んでいる。いい場所であるのだが、今日は何故だがこの南に人間の都にやってきたくなった。最近様変わりしたと聞いて、そこに暇もお手伝い。のこのこやってきたという訳である。
見れば草々。人々が行き交う、江戸の町。おっとと狸は思う。いやとまみぞうは思う。江戸はない。東京という。街灯が立ち並ぶ奇妙な日本の街がそこにある。この狸、どこにいってもほうほう、ほうほうと感心しきりの眼を輝かせっきりで、とてもとても歳相応には見えやしない。
狸。むしゃむしゃパンを食べる。初めて食べるそれに戸惑いもあるが、食べてみれば中から餡子が出てくるではないか。ほっとしつつ、狸はぺろり。指を嘗めて、次はなにかのう、と葉っぱをお金に変えてみる。その点、狸はずるい。
狸。石造りの橋を渡る。これには眼をぱちくり、ちょっとジャンプ。しっかり着地したもんだから、狸と来たらほうほうと頷く頷く。下には大きな川が流れて、遠くを見れば黒い蒸気をだしている大きな船。まみぞうは片手をおでこにあてて遠くを見る。
狸。立派な時計塔を見上げる。それは時を静かに刻んでいる、できればこの狸飛んででも近くで見たいか、そりゃにゃあ人が多い。ここで狸とばれたら大変、一大事。まみぞうは仕方なくしょんぼりとがっかり。
直ぐに顔を上げて、にこにことどこかへふらふらと歩いていく。落ち込んでいたら楽しい散策が短くなるってもんだ。
ふと、狸。道が分からなくなる。とはいっても永い永い狸生、迷うことくらいはしていないと退屈で死んでしまう。ただこの狸と来たら、よっこらしょと道の端に腰を下ろしてキセルを吹かしながら人間様の観察ときた。
大勢の人でにぎわう天下御免の大通り。馬車も走れば人も走る。後ろにあるは赤煉瓦の棟。銀行だという、金のありそうな名前は狸の興味をそそっている。
ふと、奇妙な男が一人。
歩いている、いんやいや。なにやら奇妙な乗り物にまたがっている。車輪が二つついた、ああいわゆる自転車ってやつだ。狸はがばりと立ち上がり、向かってくるそれに興味津々。
自転車は前輪だけが妙にでかい。後ろは後ろは小さくて可愛らしい。男は西洋服をはおり、頭に丸帽子。男は皺の刻まれた年寄りでそれなのに首元の蝶ネクタイは皺もない・
狸はすっすっと近づいては、ちょいとそこ行く人と声を掛けたもんだから、男は自転車を止めて器用に止まる。この狸、見た目は麗しい。話しかけてくれりゃあ嬉しいってもんだ。だが男は意外と響きの良い声で、何かなと上品に答える。
まみぞうはそりゃあなにかの、と聞いてみると男はにやり、乗ると分かるといいやがる。見た目若い女性をからかいたいって気もちもあるだろうが、そこは狸ほーうとにやりと笑う。わしをなめるなよと顔が物を行っている。
狸はぎーこぎーこと自転車をこぐ、わわわと焦りながらも辛うじて前に進む。後ろで男はにこにこ、歳を喰っているのは男とて変わらない。人の慌てる姿はけっこうおもしろいって顔である。これにゃあ狸もむむって顔をする。
まみぞうは自転車のハンドルを切ると、よろよろと建物の陰に入っていく。男がちょっと慌てて追ってみれば、路地裏にはだれもいやしない。あ、と驚いた男はきょろきょろ探してみれば、ばあと真後ろに狸の顔。
おおう、と驚く男。狸も男もいい歳だってのに何をしているのか。それでもなんでか笑いあっちまったんだから仕方ない。狸はちょいと妖怪として消えてみて、ちょいといたずらを仕掛けみたってことだ。
狸はすまぬすまぬと笑いながら自転車を押して返す。これは少し持って帰れそうにはない。男は笑いながら受け取る。そんでやっとこれは自転車というと教えてくれたってんだ。狸はほうほうと記憶している、楽しい思い出が一つ増えたからごきげんだ。
まみぞうは男に世間話。江戸も変わったのう、としみじみしながら言ってみる。男は、そうでしょうという。並んで大通りを見ればやはり人は多い。江戸の町が東京に変わってから以前よりも多くの人がやってきたという、誇らしげで悲し気な不思議な声音でだ。
男はもう少し言う。いろいろとありましたと、年寄りの私にはこうやって街を眺めているのが一番いい。そんな風にしんみりしているもんだから狸は吹き出した、爺さん手前の男が自転車なんて珍妙な物を乗り回しているのだ。柄じゃあない。
まみぞうはころころ笑い。いやいや、まだまだおぬし殿は長生きできそうじゃと、どれ極楽へ行く前に山ほど土産を買いこんでいくとよい。とちょっと自分の見た目の若さを考えていない。
男はにこりと笑って、それはいいと言うもんだが、なんでか遠くを見ながらこう言った。だが、私は地獄行でしょう、と。狸はぴくりと眉を動かしながらそりゃあなんでじゃ。と言う。男は狸を見ながら優しく語りかける。
今のこの国は多くのいなくなった者たちが残してくれたものです。
そして私は彼らの多くを裏切った。
先に逝った全ての者が私を待っているのです。
狸は笑いを納めて、こう言う。少々考えることもあるが、それよりも言いたいことがある。
ごたごたが続いたからの。いろいろと合ったのじゃろう。なに、地獄とていいところかもしれん。儂も多くの人やようか……いやいや、いろんな死を見てきたが、あやつらの多くが居る場所ならきっと楽しいじゃろう。意外と地獄に都でもできておるかもしれん。なーに地獄に落ちるようなものは一筋縄ではいかぬ、鬼どもも手を焼いておろうて。
男は狸と並んで答える。
ああ、それは素敵だ。住めば都と言いますが、地獄も都に変わっているのなら早く行きたいものです。もしも、まだ変わっていないのなら私も努力しましょう。こんどはうまくできるかもしれません。
狸はいつのまにやらキセルをふかしている。
そうそう、そうじゃのう。それならうんとこの世で土産を買いこんでおかねば損というやつよ。土産話はいくら積み込んでも軽い物。もっと世を楽しんでいくが良い事よ。この世を楽しみつくしながら、あの世を楽しむ方法をじっくりと練り上げながらのう。時間はあるのじゃから。
馬車が彼らの前を通っていく。土煙が殆ど上がらない舗装の道路はやはり便利。文明開化の石畳の上に二人の影が並んでいる。
男はゆっくりと眼を閉じてから懐に手を入れる。取り出したのは印籠一つ。時代遅れもいいところの「三つ葉葵」紋が入っているから、狸はちょいと驚いた。男はそれをぱかりと開けて中からころころ取り出したのは黒い小さな板のようなもの。
これはチョコです、男はまみぞうに差し出し、土産話にどうですかと渡してみる。狸はチョコなんぞ知りもしないが、にやりと笑って受け取るとカリっと噛んだ。口の中に広がる甘味にびきき、と肩を突っ張らせてほっぺたが落ちそうになってるから、可愛らしい。
不覚不覚。と狸。印籠にチョコをいれるのもこの妙な男だけだろう。
印籠と来たら薬をいれるか水戸の黄門が全国行脚で使う脅しの道具と相場が決まっているってのに、時代は変わったものだとまみぞうは唸る。横では男がチョコを噛みながら、黄門様のようになりたかったですね、などと言っている。
そんなこんなで妙な土産話を一緒に作った二人。
まみぞうはもう少しこの場で人を見たい、だから男は会釈をしてまたお会いしましょうと礼儀正しく言ったもんだから、狸もぺこりと頭をさげる。
ぎこぎこ音を立てながら男は人ごみに消えていった。
狸はそれを見送ったってだけの話さ。