ナザリックへと消えた英雄のお話   作:柴田豊丸

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頂きに挑む:初撃

「そんなに心配?」

「心配じゃない訳があるか」

 

 闘技場内、出場選手の為の控室の様な場所。

 心身ともに準備万端のイヨが背後を振り返って問うと、リウルは憮然とした顔で返す。勿論その両隣にはベリガミニとガルデンバルドがいる。

 

「不利なりに勝算はあるよ? 間に合ったしね」

「ああ……それは分かるが」

 

 そう、長い時間がかかったがイヨは間に合っていた。だがそれでも、信じる事と妄信する事は違う。

 リウルはイヨを信頼しているが、それとイヨが武王に勝てるかは全く別の話だ。彼女の見立てでは九割方武王が勝つ。圧勝でだ。

 

 実の所、闘技場での試合に出るというイヨの希望に対して、リウルは当初は反対派だった。様々な理由で、だ。

 

「闘技場で死ぬ人は意外と少ないんだって。何代か前の武王が──」

「知ってる。お前より遥かに。殺す事が基本の決着だったのは昔の話だが、それでもこの闘技場で死人が出ずに終わる日はまず無いんだぞ。それに──」

「公国冒険者の頂点である【スパエラ】のメンバーが負ける事の意味。百も承知だよ」

「──万に一つの機会を一回で捥ぎ取る練習。……戦うからには勝って来いよ。負けるにしても武王を半殺し位までは追い詰めて、生きて負けてこい」

 

 何度も繰り返した話である。勿論リウルも、本気でこの期に及んで引き留めようとしたわけではない。イヨの理解者である事を己に任じたのだから。

 

「僕が死んだら蘇生をお願いね」

「ああ。必ず生き返らせるからちゃんと戻って来いよ」

 

 もし、とすらイヨは言わなかった。いつもの笑顔で告げられたその言葉に、覚悟を決めた笑みでリウルは応じる。

 

「例え死ぬとしても、恥ずかしくない戦い方をして死なないとね」

 

 イヨは今後の為に一度死んで、死を経験してみるのもいいかと考えた事があった。ほんの一時の気の迷いである。

 死んだらレベルが下がり、弱くなる。この世界の環境でレベルを上げ直すのは余りにも手間と時間が掛かる作業だ。必ず滅ぼすと誓った仇敵の存在、それを別にしても冒険者として日々の仕事がある。まあ当たり前だが論外だ。

 

「僕は勝つよ。少なくとも勝つ気でやる。見ててね、リウル、ベリさん、バルさん」

 

 ──僕は戦闘より試合の方がずっとずっと得意だし、経験豊富なんだから。

 

 付き出された三つの拳に自分のそれをぶつけて、イヨは笑顔で通路に歩みを進めていった。振り返る事は無かった。

 

「……副組合長と戦った時に浮かべてたのと同じ笑顔だ……あいつは仕事中は兎も角、試合では度々笑いやがる……」

「男には戦わなければならない時があるものだ」

「そしてまあ、イヨ坊は常に戦いたがっておる。あやつはもうああいう生き物なのじゃろう」

 

 知っている。言われるまでも無く、この世の誰よりもリウルはイヨを理解している。ただ彼女は何処まで行っても武人でも軍人でもなく冒険者であり、『何事も命あっての物種』という信条があった。

 死のリスクは冒険者にとって日常的なものであり、己の命を賭けて受けた依頼を達成するのが仕事である。だがそれは『死んでもいい』とか『命より依頼が大事』という感覚とは対極に位置する生き残る覚悟と計算あってのもので、『勝算のある賭け』に勝ち続けるのがリウルの考える冒険者だ。

 

 強くなる為の自己鍛錬でまで過剰に死のリスクを背負い込む事は、はっきり言ってリウルの考える冒険者の姿ではない。

 だが、人間でありながら人間を超えた存在として、正しく超人である事を望まれる最上位冒険者である彼ら彼女らが、人と同じ事をしていては更なる成長が望めないのも全く正しい事だ。イヨは自分が冒険者であり続ける為にこれらの行為が必要だと思っている。その姿勢は尊重し、支えたいとリウルは考えている。

 

 恐らく純粋に資質で論じるならば、イヨには冒険者よりもっと向いている職業が沢山ある。その腕っ節が殆どの人々の目を欺いているが、市井で年相応の少年として汗水たらして生計を立てていく生き方の方が彼にとってはずっと自然で憂いの無い人生を送れただろう。

 

 しかし、ただ一回の人生においてイヨは確かに冒険者を選び取り、三人の冒険者はイヨを選んだのだ。

 

 例え背筋にひり付くような悪寒を感じ、その五感が行く先に濃厚な死の気配をしかと捉えていたとしても、少年の歩みに淀みも気負いも無い。

 

 

 

 

 

 

「調子の方はどうだ?」

「何も問題はない。最高のコンディションだ」

 

 ──そう、何も問題はない。何も。それこそが大問題であると言えた。

 

 武王は退屈に飽いていた。

 更なる強さの獲得──人間を遥かに上回る肉体能力を持つ種族たるトロール、その中でも異彩を放つ戦闘に特化したウォートロールたる彼が持つ最大の欲求。

 

 肉体的な能力に優れた種族は技術的な鍛錬をしない傾向にある。既に強いからであり、その強さでもって相手を叩き潰す事が自然で相性の良い戦い方でもあるからだ。

 

 虎やライオンは走り込みをしない。生来の爪牙の代わりに武器を装備することも無い。毛皮の上から防具を纏う事も。

 しかし、虎もライオンもゴリラも象も──人よりずっと大きく重く速く、遥かに強い。例え鍛えた人間が鎧と武器で武装したとしても、一対一でこうした生き物と戦うのは余程卓越した一部の例外的存在を除き、不利だと言わざるを得ないだろう。

 

 オーガ、トロール、ビーストマン等の亜人種の有利、戦力的優越とは人間と大型動物の関係に似たものだと言える。更に言えば、彼らは動物よりも人間に近い、もしくは人間と同等と言える知能を持ち、道具を扱い、文化文明を持つ。

 

 地球人類は大昔に自分たちより遥かに大きいマンモスを絶滅させたとされるが、例えばマンモスたちが体躯はそのままに人間並みの知能を持ち二足歩行、即ち空いた両手で道具を扱う上位互換生物だった場合、果たして絶滅したのはどちらだっただろうか。

 

 人間種の国家が立ち並ぶ大陸の一部分以外での人間がどんな立場に立たされているか、幸か不幸か殆どの人間は考えることも無い。法国の上層部辺りは時たま思いを馳せる位はするやもしれぬ。

 

 そんな生まれついて人間より強い生き物である武王──ゴ・ギンは種族的に特異としか言い様の無い行動、訓練や武装による更なる強さの獲得に挑み続けていた。

 

 ──自分の強さは種族の特性から来る強さ、真の強さではない。その気付きと信念が、彼を更なる高みへと押し上げた。

 

 生来強い者がより積極的に鍛え、戦いの果てに更なる強さを獲得する。それを実現した者こそが武王であった。彼が自分に課した度重なる戦闘は、トロール種の頑強な肉体を元々より遥かに進歩させたのだ。

 

 その体躯に相応しい巨大な武具を身に纏う彼は、まるで鋼の小山だ。

 戦士としての力量に限れば武王と同程度であろう銀級冒険者が十人二十人束になっても、武の巨人は小揺るぎもせずそれらを薙ぎ払うだろう。

 

 幾度も、幾度も闘技場でそれを証明して見せた様に。

 

 故に武王は退屈に飽いている──ただのゴ・ギンだった彼が七代目武王【腐狼】クレルヴォ・パランタイネンを死闘の末打ち破り、八代目武王となって以来幾年が経ったか。

 

 闘技場の入り口まで、オスクと連れ立って歩く。武王は語らない。その歩みには何の感情も気負いもない。ただただこれから行く先へと移動していると言うだけである。

 

 戦う相手が見つからない。見つかっても満足のいく戦いにならない。待ち受ける戦いへの期待と興奮が、弱い挑戦者たちへの失望と退屈になってから、武王の世界は幾分か色褪せた。

 

 武王は今日戦う相手について何も知らない。戦い方や使う武器は勿論の事、種族さえ一切合切何も知らない。意図的に情報を遮断し、未知なる相手に挑むという不利を己に課しているからだ。そうでもしなければ敵と呼べるほどの敵に恵まれなかったからだ。

 

 あるいはこれは油断であり、驕りなのかもしれない。

 これから戦う相手は今までの挑戦者よりずっと強く、油断した己は痛手を負い不利な戦いを強いられるか、ともすれば敗北するやもしれない。

 

 ──そうであってくれたらどれだけ良いか。

 ──そうであってくれと願い、今までどれだけ裏切られてきたか。

 

 身体も思考も冴えている。しかしその心には燃え滾る強い感情は無い。それでも彼は王者で、戦士である。例えその身になんの予感も無かろうと、これから行く先になんの期待も無かろうと、彼の歩みに淀みは無い。

 

 

 

 

 

「公国アダマンタイト級冒険者──『小さな剛拳』イヨ・シノン殿です!」

 

 万雷の喝采の中、イヨ・シノンは闘技場に足を踏み入れた。観客のいる試合には慣れている。大会ともなれば現実でもゲームでも、地区大会でも全国大会でも常に人の目があったものである。

 

 生来人前で何かするという事に対して恐怖や忌避感より高揚を抱く質なので、マイナスな意味でのプレッシャーというものを彼は全く感じなかった。むしろこの、無数の人々がこれから戦う自身の一挙手一投足に注目しているという状況に対して懐かしさすら感じた位だ。いやまあ此方の世界に来てからとて何かと注目されっぱなしではあるのだが。

 

 強いて言えば、これ程大声で囃し立てたり野次られたりというのは初体験だった。なにせこの試合は興行であり見世物だ。『試合の妨げになるので大声やヤジはご遠慮ください』などというアナウンスが入る事は無い。

 

 人々は熱狂のままに叫び、文字通り熱中している。司会だか実況だか、先程から拡声のマジックアイテムで喋っている人の声が会場内に響いているが、勿論それとて抑止では無くより盛り上げ煽り立てる口上を述べていた。

 

「おいおい、小柄とは聞いていたがあんなに小さいのか? ガタイも随分細いぞ」「えー! 嘘、あれがシノン様? 人違いじゃないの? 女の子よ?」「おお、噂に違わぬ容姿──いや噂以上だ! ……しかし、彼女は本当に戦えるのか?」「誰だよ美少年とか適当こいた奴──うぉーい! 死ぬなよー! 野郎がどうなろうがしったこっちゃっねーが若い娘が死ぬとこは見たくねー!」

 

 大半は兎角熱狂している叫び声だが、市井の人々を中心にそういう反応をする者たちも少なからずいた。自身の耳が拾い取ったその声に、イヨは笑みを深める。

 

 歓声にこたえようとした、その時である。これから戦おうとする戦士に対するものとは別の声がうなりを上げたのだ。

 

「この一番の大試合を、エル=ニクス皇帝陛下もご観戦です。皆様、上にある貴賓室をご覧ください!」

「あらあら」

 

 頭上を仰ぎ見れば、貴賓室の中でも最も格式高い歴代皇帝専用室に、一人の人物が立ち上がっていた。

 

 ──予定が空いているから足を運ぶかもしれないとは聞いたけど、てっきりお忍びかと思ってた。

 

 若く、しかし既に余人とはかけ離れた威厳を纏う美麗なる支配者──ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス皇帝陛下の姿であった。

 

 ここら辺は文化が違うという事なのか、観客の反応などからしても、国の頂点に立つ皇帝がこんな血生臭い場所を訪れるという事は然程奇異では無いらしい。歴代でも非常に人気のある皇帝らしく、男性も女性も、老いも若きも支配者を讃える歓声を上げている。

『ローマだがギリシャだがの大昔の国でもこういう感じだったんだっけ?』とイヨは乏しい、しかも漫画由来の知識でちょっと不思議に思う。

 

 手を上げて国民の声に応えた皇帝とイヨ・シノン。見下ろす視線と見上げる視線が真っ直ぐぶつかった。皇帝ジルクニフは『健闘を祈る』と言う様に、微笑みと共に頷きを送る。イヨは片膝を突いて皇帝に礼を示した。

 

 他の貴賓席にも低頭しておき──ある一室に【スパエラ】の面々もいた──それから三百六十度の観客の声援に、両手を一杯に振って笑顔で応じた。

 

「初めましてー! イヨ・シノンと申します、一生懸命戦いますので、皆様よろしければ応援して頂けるとすっごく嬉しいでーす!」

 

 わぁっと会場が盛り上がった。手を振り返してくれる観客も多数いる。

『思いの外、なんというか……愛想のいい英雄だな』『見た目通り愛嬌もあって可愛らしい少女だ』『のほほんとしやがって戦う気あんのかアイツ、相手は武王だぞ』──大別すれば三種類の反応をしっかりと受け取る。

 

「うんうん。初めて立つ場所だけど良い雰囲気。これはこれで楽しい!」

 

 赤い頬で声援を送ってくれる青少年諸君や落胆も露わに溜息を吐いている淑女諸氏には悪いが、こればかりは持って生まれた容姿なので諦めてもらうしかない。

 ここは武王の本拠地であり人気は向こうが圧倒的であろうが、どうせ戦うのだから自分だって応援してもらいたい。十分に愛想を振り撒いたイヨ・シノンは正面に向き直り、余計な力みのない自然体で武王を待った。

 

 

 

 

 

 

 アレが俺の相手か、と武王は目をぱちくりとさせた。

 通路から闘技場へと出る──相も変わらず満座の観客、相も変わらず地鳴りの如き大歓声──とうに慣れきって最早意識することも無い光景、その中にあって異質なもの。

 

 余りにも小さく細く、柔らかい生き物。

 

 勿論、武王の種族であるトロールと比べればあらゆる全ての人間は小柄で細身で肉体的に貧弱としか言えなかったが、ただでさえ種族的に矮躯である人間の中でも、目の前の輩は可哀想な程に小さく思えた。

 

 これは雌──いや雄だろうか? 匂いが非常に薄くいまいち判別が付き辛いが、いずれにしろ幼体である様に思えた。

 

 人間の顔つきや身体つきはトロール種族と比べて何事も控えめである。まず絶望的にボリュームが足りない。ゴブリンに毛が生えた様な矮躯はホブゴブリンとどっこい程度で、顔かたちは平坦で突出が少なく、丸く小さい耳と低く短い鼻が特に奇妙に思える。

 体型も不自然に腕は短く必要以上に足は長く、幅と厚みに乏しい薄っぺらな胴部にそれらがくっついている姿は正直滑稽だ。腰の位置が高いのでその分だけ重心も高めで、安定感に欠ける体型と言えた。

 

 武王も戦士として名声を手にする前は──今とて言われるが──醜いモンスターとして罵声を浴びたものだが、人間の醜さとて中々だと思っていたものだ。強さ以外に関心が薄く人間の国で長く暮らしている武王とてそう感じる位だから、一般的なトロールからすれば人間は『そこそこの味だが食いでが無い奇形のチビ』でしかないだろう。

 

 それでも二足歩行の哺乳類であるからそれぞれの種族なりに雌であれば乳房が膨らみ臀部が丸みを帯びていて、雄であれば体型が比較的がっしりしている位の共通項はある筈だが、幼体となるとそれらの特徴も希薄で殆ど見分けが付かない。

 

 武王が対戦相手に抱く興味関心は強さ以外無いに等しい。そんな武王でも思案してしまう位、強さが疑われる背格好だった。

 

 これが俺の相手なのか、と対面する位置にまで歩みを進めながら、武王は改めて思った。元より期待もしていなかった故落胆もないが、それでもやや不可思議に思う。

 

 今まで武王の対面に立った人間は生まれついて貧弱な人間の身体を精一杯に鍛え少なからぬ筋肉で武装し、更にそれらを鋼で覆っていたものだ。技量面に限れば全ての者が武王を上回っていたと言える。

 人間とて鍛え上げれば外見からは想像もできない大力を発揮する事は幾度もの実体験で見知っているが──目の前の幼い人間は殊更に矮躯で貧弱で、しかもその生まれ持った貧弱さそのままの姿で対面に立っている。生来の不利を少しでも補おうと鍛錬に身をやつしていた様には到底思えない。

 

 友であるオスクが自分の目の前に立たせることを承知した以上普通より強い事は間違いないのだろうが──そもそもこの生き物は身体を鍛えた事などあるのだろうか。肉体を鍛える必要が無いほど技術的に優れているのだろうか。

 

 ──俺が言うのも何だが、頭が良さそうにも見えないし魔法詠唱者ではないと思うんだが。

 

 雰囲気が丸っこい。頭の良い奴にこういう雰囲気は出せない、それに杖や短剣など魔法詠唱者的な武器も持っていなしな、と武王は判断する。

 それに闘技場では飛行や転移の魔法は禁止されているので、魔法詠唱者が出場するとしてもまず仲間とセットだ。限られたフィールドで戦士と一対一で向き合っては相当な変わり種でもない限り不利であるから。

 

 装備しているのも多少装飾が凝っていて美しい装いだが、装甲はほぼ無く衣服の様だ。護符に指輪、耳飾り、チョーカー、ベルト、それらはマジックアイテムだろう。豊かな頭髪を後頭部で結わえているのは蝶結びの髪紐で、これもまた神秘的な輝きを発している。

 しかしそれにしても武器らしい武器を持っていない──いや、手先足先が刺々しい赤い金属製の具足で覆われている。拳士なのだろうか。

 

 小器用な手先と非力ゆえの工夫で武具の扱い、技術を習練する事は一般的なトロールと比べて人間が勝り得る数少ない長所だったが、それすら半ば捨てている様なものだ。ほぼ素手の格闘は武器戦闘より肉体面の比重が大きい。

 

 未だゴ・ギンが武王であり続けている以上今までの全ての挑戦者もそうだったのだが──確実に武王より弱い。勿論外見だけの問題では無く、こうして対面しても恐怖や威圧感というものを感じない故の戦士の見立てである。

 

 ジロジロと見下ろす視線に反応したものか、対戦相手が丁寧に一礼した。

 

「お初にお目に掛かります、イヨ・シノンと申します──武王陛下、とお呼びすればよいのでしょうか?」

「ふは」

 

 大声では無いが、喧騒の最中でもしっかりと耳に届く透き通った声。しかしその内容に思わず笑いが漏れ出た武王である。

 

「俺をそんな風に呼ぶ奴とは初めて出会ったな。俺は闘技場最強の戦士として武王の称号で呼ばれてはいるが、別に爵位や、ましてや皇帝が治めるこの国で王号を持っている訳ではない」

 

 一番強いという点を差し引けば、武王はただの闘技場の戦士なのである。確かオスクに連れてこられたばかりの頃、法が定める公的な身分で言えばオスクが飼育し所有しているモンスター扱いだと説明された気がする。今もそうなのかは知らないが、まあ変わってはいないだろう。

 同じ人間種でも法的な身分の保証があったり無かったりするこの国で武王が認められる状況など、それこそ国に仕えでもした場合位であろう。全く興味は無いが。

 

「ではなんとお呼びすれば?」

「ただ武王と、もしくは名前でゴ・ギンと呼べ。イヨ・シノンとやら」

 

 力強さに欠ける響きではあるが、人間にしてはそこそこいい名前だな──長く暮らしている内に人の名づけの習慣を学びはしたが、トロール的にもまずまずな短さであるその名前を武王は少し気に入った。

 

「では、武王さんとお呼びします」

 

 にっこりと笑い、こちらを見上げるイヨ・シノン。武王の感性としてはちょっと笑ってしまいそうになる容姿ではあるが、妙な愛嬌を感じる。強者の威風というべき雰囲気は全く皆無であるが、今までの挑戦者の様に武王に威圧されたり、隠し切れない恐怖や怯え、その反動から来る強がりめいた猛々しい戦意も無く見つめてくる視線は物珍しかった。

 

「正直に言うと期待はしていなかったが……イヨ・シノン、俺は少しお前との戦いが楽しみになってきたぞ」

「おお、本当ですか? 光栄です、私も全力を尽くします」

 

 考えてもみれば、今までの挑戦者だって武王より肉体的に劣っていて、技術的には勝っていた。少々──いやかなり毛色の変わった相手だが、その点は変わらないであろう。武王のやる事も変わらない。

 

 幾多の戦歴を重ねた武王をして全く初見、今までに見た事が無いタイプのこの妙な人間がどんな戦いを見せてくれるのか。僅かな期待感が武王の中で萌芽していた。

 

 ──まずは思い切りぶん殴ってみよう。

 

 何はともあれまずは叩け。ごちゃごちゃした考えがすうっと消え、武王は束の間ではあるが、初心に帰る事が出来た。

 

「俺を失望させてくれるな、俺の退屈を揺るがしてくれ、イヨ・シノン」

「──ええ、思いっきりやらせて頂きます」

 

 笑みを深めたイヨ・シノンが、握り拳を差し向けてくる。意図を呼んだ武王は、小さな拳に自身の巨槌めいた拳をぶつけ合わせた。会場中がもう待ち切れないとでも言いたげに、今日何度目かも分からない大歓声を上げる。

 

「ここのルールは知っているな?」

「はい」

 

 二人の耳目から観客が消える。気にしていないという意味では無く、最早五感から消え失せるほどに薄く遠い存在となる。

 静寂の世界で知覚に値するのは、地形と己と対手のみ。戦場ならばいざ知らず、闘技場であればこそ仲間の存在や第三者の介入、流れ弾もあり得ない。集中が尖っていく。意識が開いていく。感覚の練磨と同時に気が高まる。

 

 深い没入の中で、呼吸が合う。

 

 武王が左足を引いて身体を開きつつ、棍棒を上段に担ぎ上げる。

 イヨが大股で三歩飛び退き、軽く腰を落とすと顎の高さで両拳を構えた。

 

 静寂の世界の中で鐘の音が響く──同時、両者は激突した。

 

 

 

 

 

 

 武王は巨躯でありその重量は二足歩行で動くには重すぎるものとすら思える。しかし、その動作は鈍さなどとは完全に無縁である。

 

 地球においては言わずもがな、この世界においてすら、大きいという事は強いという事だ。

 

 超重量の体躯と装備を一瞬で最大戦速まで引っ張り上げるのは人知を超えた筋力であり、またその一撃を導くのは確かな技量だ。

 瞬き一つの間に、どころでは無い。視界の中で否応なく存在を主張するその巨大な人型が、ただ最短を行く真っ直ぐな一撃が消えたと感じる程の速さ。中間を切り落としたかの様に、動いた時、既に打撃は至っている。

 

 見てから動くのでは、自身が死んだ事すら自覚できず潰される事になるだろう。

 機を捉え一歩先んじて尚、その一撃は回避不能の速さ。後の先を塗りつぶす武力。

 

 目にも止まらぬ神速の撃ち込みに、武王自らだけは目が追い付いている。故に棍棒がイヨ・シノンの頭上一尺に迫り、その小さな身体が棍棒の下に半ば隠れた時、当たったという確信を得た──その時、武王は見た。

 

 如何なる言葉も、此処に至っては意味がない。何故なら戦いは常に相対的で、全力をもってぶつかり合う事だからだ。

 条件を比べる事、ある一点を比べる事、多寡を比べる事。全ては机上の空論である。今まさに殴り合う瞬間において、相手を打ち倒した方だけが勝者。相手を地に這い蹲らせたというたった一つの事実が万の理屈を捻じ伏せる。

 弱くても勝ち得ると言い切るには夢想的だ、強ければ勝てると言い切るには世の中は厳しい。しかし確かな事がある、実践の実戦において勝った方はその瞬間、間違いなく強者なのだ。

 

 打撃の瞬間、武王の感覚は肉体の動きよりも尚速く延伸して、その動きを捉える。

 武王の用いる武器はその体躯と筋力に相応しく巨大である。それ故小さ過ぎる標的に対して細かい狙いが付けられない。上から叩けば多少左右にずれようと全身を潰す形になるし、横に振っても身体の約半分を大まかにぶっ飛ばす形になる。

 

 ──重装化。

 

 必中を確信するまでに迫った棍棒に、全身に鈍色の金属を迸らせたイヨ・シノンが体の捻りと共に内から外に向けて前腕を叩き付ける。全身の筋力が棍棒に伝わり、同時に打撃の威力は手首の返しによる回転で逸れる。僅か十数センチ。それでも半身を削ぎ死に至る威力──同時に、イヨ・シノンは斜め前に半歩踏み込んでいた。

 

 当事者二名以外に、その動きを知覚出来た者が何人いただろう。

 観客の大半は全てが終わったその後に「うわ死、いや避け、おお!?」と何拍も遅れて悲鳴を上げたし、戦士として多少の心得がある者でも「攻撃がすり抜けた!? 魔法か!?」と誤解した。

 

 動きの前兆の予兆を捉え、身体の内側で完全な準備を整えて『捌いた』と理解する事が出来たのは、皇帝の護衛である四騎士二名を含めても十指に満たなかった。

 

 武王の打撃は文字通り紙一重の距離を開け、イヨ・シノンの肩口横を通り過ぎて地を深々と抉った。その瞬間にはもう、小さな戦士は棍棒を握る武王の手を足場に飛び上がっていた。反射的に武器を引き戻す動きすら利用し、伸びあがる様に跳ぶ。

 

「【火足炎拳】、通常起動」

 

 キーワードに反応し、四肢の具足が発炎する。

 四肢に猛火を纏って迫りくる双角の金属鬼が繰り出す二連撃──身体及び鎧の構造上比較的防御の薄い肩口と、兜のバイザーの隙間を狙ったものだ。

 

 それ自体が鎧とも言えるトロールの頑強で分厚い皮膚と筋肉に驚くほど鋭く重い打撃が突き刺さり、右の瞼と眼球を猛火が撫でていった。

 

 武王が振り払おうとした時にはもう、少年は身体を蹴って地に逃れている。正面よりやや右に寄ったその位置取りの意図は明らかだ。武王の視界は右目側が僅かに白濁している。

 

「……技量もさることながら、人間とは思えない身体能力だな。その妙な鎧の能力か、それともお前は人間では無いのか?」

「私は紛れもなく人間です。しかし、持てる限りの武装を凝らし──」

 

 今のイヨを魔法や毒物、直接的な物理的手段以外で殺そうと思えば常より遥かに容易だろう。今のイヨの装備は多様なモンスターを相手にする職業として到底実戦的とは言えない、完全物理タイマン仕様。

 正面切って相対するたった一人の純戦士との殴り合いを制する事、全身の装備部位はその為のマジックアイテムで完全に埋まっている。致命的な状態異常や魔法に対する最低限の備えすら投げ捨てた、闘技場などの限定的な状況以外ではまず常用できない特化装備だ。

 

 肉体的な攻撃力と防御力において、今の少年は恐らく人間として地上最強の一角だろう。更に──

 

「──そして、より強くなる為に数多の生き物を殺し、ひたすら自分を虐め続けてきました」

 

 この世界に来て初めてレベルアップを経験しあの時から、怨敵を取り逃がしデスナイト相手に生死の境を彷徨ったあの日から──イヨは出来る限りの実戦を繰り返し、人類に危害を及ぼす者を殺し続けてきた。

 

 ユグドラシルにおけるレベルアップは早い。九十台後半まではかなりの速度で上がっていく。特に低レベル帯などは課金やパワーレベリングによってその気になればあっという間に駆け上る事も出来る。

 レベルが高い事など当たり前だった。レベルが百になってスタートラインに立ったと言えた。手間でこそあれ少し頑張ればレベルは割合簡単に上がるのだから、時には取り合えず突っ込んで何処まで行けるか試してみようか、というある種の特攻も珍しくなかった。

 

 それがこの世界では、一レベル上げるのに、選り好のんで討伐依頼を受け続けても季節が移り変わるほどの時間が掛かった。だがイヨは帝都に到着してからやっと、ギリギリで間に合ったのだ。現状持ち得る最高の力を持って挑む、という最低限の礼儀を失する事は回避できた。

 

 ──今のイヨは三十一レベルに到達しているのだ。

 

「武王さん、僕は勿論あなたを殺すつもりで戦います。それで──僕はあなたが本気で殺すに値する戦士でしょうか? あなたをして全力で殺さざるをえない資格を勝ち取りたいものです」

「お前が俺より弱いと判じた俺の直感は覆らないが──ただ潰されるだけの敵未満ではない様だな」

 

 鎧に身を包んだ小人と巨人。片方の手には巨大な棍棒、片方の四肢には燃え盛る焔。両者は眼をぎらつかせ──武王は兜の下で僅かに、牙を剥いた笑みを浮かべた。

 

 


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