寒々とした夜であった。
月明かりすら雲間から僅かに注ぐ程度で、夏であったならば心地よかったであろう風は冷たく、衣服の隙間から侵入して肌を舐め、道行く人々に鳥肌を立たせた。
そんな夜半であっても繁華街は活気に満ち溢れ、主要な通りでは街灯が闇を照らしている。
より強く新しく生まれ変わり発展し続ける都、バハルス帝国の中心である帝都は眠らない都市である。
そんな帝都にも闇に覆われた部分は存在し、老いた男が歩いているのはそういった場所だった。
大通りから脇道に外れたその場所には遠くからの街灯の灯りが薄く差し込み、もう二、三歩も進めば宵闇に全身が浸るだろう。
明と暗の境。暗闇に近く、しかし、弱いながらも灯りが届く場所。
あるいは、その老人の社会的な立ち位置も似たようなものだった。
頭頂部は毛髪が抜け落ちて久しく、歯も加齢から幾本も抜け落ち、筋肉は衰え、肌は張りを失い皺が寄っている。どこからどう見ても、孫やひ孫の顔を見る事が何よりの楽しみであろう年代の老人である。
しかし、男は武装していた。前述した様に其処は街中で、老いているにも関わらず。
そしてその威容は、年寄りの冷や水などと揶揄できたものでは到底ない。
最も目立つのは朝露に濡れた緑葉の如き輝きを放つ鎧だ。帝都において強さに頼る生き方をしている者たちならば、この鎧とその装備者は既知であろう。
パルパトラ・オグリオン。それがこの男、伝説的なワーカーの名だ。
かつて仲間たちと打ち倒したドラゴンの鱗や牙を用いた武具を見纏った彼の年齢は、八十歳にも至らんとしている。
冒険者や傭兵、そしてワーカーなどの職業に就く者たちは多くの場合四十代半ば、いっても五十代で引退する。肉体の衰えという不可避の要因がその主な理由である。
そんな中にあって、パルパトラは未だに最前線に立ち続けるある種の怪物であった。無論その実力はオリハルコン級とも言われた全盛期から遥かに衰えているが、それでも冒険者で言うミスリル級に匹敵すると言われるワーカーチームを率いる手腕は嘘偽りのないものである。
所詮八十の老人などと侮れば、余程の例外的存在でない限り痛い目を見るだろう。
誰よりも長く戦い続けたその生涯において掴み取った報酬総額は帝国一、その報酬で得たマジックアイテムはアダマンタイト級冒険者のそれを上回るとも噂される。
現存する人間の戦士が生まれる前から今に至るまで生き残り戦い続けてきた男──アンダーグラウンドな仕事をしている為社会的な名誉となると皆無に近いが、業界では多くの者たちが彼に敬意を払う。
「そろそろ出てきてくれんかのう」
闇を背負ったパルパトラが光の方向に向けて静かに問うた。
「お主中々の健脚しゃか、密偵の心得なとは無い様しゃな?」
前歯の殆どが無いため空気の抜けた様な発音だが、その声音に無駄な遊びは無い。
身をやつしている職業が職業である。どちらかと言えば、否、はっきりとやくざ者の類だ。
身辺を嗅ぎ回される心当たりなど無数にある。危ない橋や裏のある話など年中行事。そうでないならワーカーなどに出番は回ってこない。
パルパトラはそれら全てを回避し、乗り越えて今まで生きてきたが、ワーカーにとって同業者との殺し合いや依頼主からの口封じなどは有り触れた死に様なのである。
見知った顔がある日死体になって見つかる。もしくは、忽然と姿を消す。そうした日常的な出来事が自分に回ってこない等と言う保証は、この仕事をしている限り有り得ないのだ。
冒険者もワーカーも、基本的に常に武装している。急な依頼に対処する為等の理由でだ。ワーカーは半身が黒に浸かったグレーなので日頃の立ち振る舞いや巡回の騎士の機嫌によっては危ないのだが、なにせ法的な庇護が無いし脛が傷だらけなので自分の身の安全の為にも武装は手放さない。
この世界の平均寿命からしても老いに老いているパルパトラ、しかし既にその心身は戦闘態勢だ。背に負った槍で前方を一突きするのには瞬き一つの時間があれば充分である。
誰何に反応し、現れた人影は──夜中出歩くには不適当と思われるほど、小さい。
「後をつける様な真似をしてしまい、申し訳ありません」
姿形を隠す為かもしくは単に防寒か、フード付きロングマントを着用しているが、すぐさまフードを上げて顔を晒す。
街灯の灯りを受けて輝くのは色素の薄い金の髪──白金の髪色。精緻で微細、美しい面はちんまりとしている。
パルパトラをして少なからぬ驚きがあった。歩調から追跡者が小柄な人物であろう事は察していたが、まさか身長相応の幼げな少女であるとは到底思わなかったのである。正体が一気に分からなくなった。
なんらかの因縁のある同業者かと思っていたが、こんな人物がワーカーである可能性は極低い。あるチームに所属している第三位階魔法詠唱者の存在を知る以前ならば皆無だと断じていただろう。
手指や髪の手入れの行き届きよう、肌艶や雰囲気からすれば素性は生活になんら不足不満の無い裕福な子女であろう。素直に外見から察するならば、冒険者でも騎士でもワーカーでもない。
そんな人物がたった一人で自分の後をつける理由は思い当たらないし、今の今まで振り切れなかったという事実こそが、目の前の人物が外見通りの存在では無い事を証明している。
──囮か? 事実儂はこの状況を判じかねておる。帝国社会の闇に名を轟かす暗殺者集団の頭領は女じゃとも聞くが──
そうした思考は、目の前の少女が身体に纏わせていたフード付きロングマントの前を開いた事で吹っ飛んだ。
マントの下にあったのは、顔付きから想像できるのと寸分たがわぬ細く整った肢体、そしてそれを包む金属の飾りが特徴的な衣服──首元に下がった希少金属のプレート。
若かりし頃、竜狩りを成し遂げたパルパトラ・オグリオンの全盛期ですら及ばなかった境地、その証明──アダマンタイト級冒険者の証。
──まさかっ!
【銀糸鳥】でも【漣八連】でもない最上位冒険者チーム、すなわち現在帝都に滞在中の【スパエラ】の一員。隣国である公国の人間である。
【スパエラ】のメンバーは常軌を逸した巨体の戦士ガルデンバルド、老年の魔法詠唱者ベリガミニ、黒髪黒目の斥候リウル。その内誰とも異なっている以上、残っているのは自動的に、
「初めまして。【スパエラ】のイヨ・シノンと申します。老公パルパトラ・オグリオン殿、ご高名はかねがね伺っております」
「……なにを。こちらこそ、こ高名はかねかね、しゃとも」
「私の事をご存知で?」
「お主たちか一体何を成し、そしてとれたけの間帝都に滞在しとると思うんしゃね」
新世代の有望冒険者として公国の冒険者組合が登録と同時にミスリルプレートを授けたとも噂され、その後僅か一件の依頼を熟した後に死の騎士騒動において破格の活躍。恐らく全冒険者組合でも最短記録であろう月日で最上位の座に上り詰めた麒麟児だ。
武王との試合が組まれている事、頻繁に帝城に訪れている事、近在の村々からカッツェ平野まで、精力的に依頼を熟している事など、【スパエラ】の一挙一動が人々の噂にならぬ日はない。
男とは思えないほど麗しい紅顔の美少年と聞いてはいたが、思えないも何も何処から如何見ても少女である。世の人々の大多数が少女の前に美をつけるだろう、どう言い繕った所で少年には見えない少女だ。
一体どんな目と頭をした奴がこの少女を見て可憐な容姿の美少年と形容したものだか、本気で疑問を抱くほどだった。
だが目の前の人物の容姿など今はどうでも良い話。問題は一体どんな繋がりでアダマンタイト級冒険者が自分の後をつける状況になったのか、という点のみだ。
パルパトラは素早く思考を走らせる。
パルパトラは単に強いだけではなく、とても用心深い男だった。だからこそ引退する前に大半が死ぬと言って良い仕事をこの歳まで続けることが出来たし、ドラゴンだって退治出来た。
アダマンタイト級冒険者がワーカー風情の後ろを付けるという状況が依頼以外の何かで発生したと考えるのは、目の前の少女が礼儀を正して接して来ていたとしても楽観的に過ぎた。
何を目的としてかは不明だが、最悪の場合はパルパトラ・オグリオンの討伐依頼を請け負ったという事態もありえる。
それにしても、帝国騎士の一隊や顔馴染みのワーカーたちが雁首を並べるのならまだ分かるが、わざわざアダマンタイト級冒険者を動かしてまで自分たちの首を欲しがる相手には心当たりがない。
本気で、心当たりがない。
所詮はワーカーと呼ばれればそれまでだが、頭にダスクが付かない程度には仕事を選んで来た、もしくは事が露見しない様に気を使ってきたという自信がパルパトラにはあったのである。
ミスリル級に並ぶ実力を持つパルパトラのチームには社会の裏からも表からも様々な依頼が舞い込むが、どの方面にしたってどうこうするよりも放置して都合良く使っておく方が得だと判断される位には使い勝手のいい優れた駒だった筈だ。
しかし現実として今目の前にイヨ・シノンは──存在する。
この外見からは信じ難いとしか言い様が無いが、【漣八連】や【銀糸鳥】と違い、【スパエラ】というチームはその戦闘力、個々の能力の高さでもって欠員を抱えながらも昇格を果たしたチームであると聞き及んでいる。
見た所イヨ・シノンは無手だが、拳士が無手だったところでそれは非武装を意味しない。その五体そのものが殺傷力漲る武具である為だ──その筈なのだが。
立ち姿に隙は無いと言えばまあ、無い。無形の構えとでも言えばそれらしいかと思えなくも、無い。先手を取って撃ち込めば通るかと問われれば、まあ通らないであろうという気はする。
それでもなお、パルパトラの常識と経験は目の前の存在の戦闘力を否定している。強さが見えない。威風も無い。名乗りを受け証を目の当たりにしても尚、裕福な子女という第一印象が覆らない。
人の外見とは内面の最も外側であると言う。顔付きには人格が現れるとも言う。手指足指には人生が現れるとも言う。美醜という意味では無く、だ。
生死の境で長い人生の大半を過ごしたパルパトラだからこそ分かる。目の前の少女からプレートを獲得するまでに乗り越えたであろう苦難を、努力を、修羅場を感じない。
修羅場どころか、十代の少年少女なら誰しも多少は持っているだろう大人や世間に対する肩ひじ張った態度すら皆無だ。そうした気持ちや雰囲気が染み出て、外見同様この人物を幼げに見せている。
だが同時に、直感が自分を遥かに上回る存在だと──首から下げたプレートに相応しい力の持ち主だと判断を下している。例えプレート以外の全身から一切力強さや威厳というものを感じないでも。
どれだけの才能があっても有り得ない事である以上やはりそれは有り得ないのだろうが──強くなるという過程をすっ飛ばして力だけを掴んだ存在がいるとしたら、こんな顔でこんな見た目なのかもしれない。
有り得んしゃろう、とパルパトラは自身の感覚が正しい物だと仮定した場合筋の通る想像を否定した。考えるまでもなく、この世に生まれ落ちてそんな風に出来上がる人間がいる訳がないのだ。
実際の所はごく普通に裕福な家に生まれた見目良く才に恵まれた少女であり、自身の生まれ持った外見を維持する為に多大な、パルパトラの見識眼をも欺くほどの努力をしていると考えるのが現実的であろうか。
それはそれで凄まじい手間暇の掛け方だが、幼いとは言え女性であれば自身の容姿は気になるのだろう。
取り合えず自身が感じた違和感を切り捨てたパルパトラは会話を試みる。
「……アタマンタイト級冒険者ともあろう者か、一体この老い耄れになんの用しゃね。儂ももう若くはないての、娘子に声を掛けられたとはしゃける元気はないんしゃかの」
「あ、こんな外見ですが私は身も心も解釈の余地なく男、男性です」
「そうかね」
どんな事情があるのか知らないが、そうまで言い張るのならせめて外見も男に寄せるくらいの努力はすべきだろうとパルパトラは思った。だがまあ、目の前の少女が身に秘めた武力に比べれば性別やそれを偽る事情など些末な事だ。
今まで幾人も見てきた真のアダマンタイト級に並ぶだけの『力』。それはパルパトラの全盛ですら遥かに及ばない高みである。
「ええと、本題に入る前に再度謝罪いたします。失礼な真似をしてしまい、すいませんでした。実を言うとここ数日ご老公を探しておりまして──仲間の協力を得られれば話は早かったのですが、ちょっとこの件に関してはあまりいい顔をされなかったもので、その」
緊張感が抜ける。
わたわたと纏まりなく喋る姿は、少なくとも戦意は無さそうである。
「私の様な者に付きまとわれ、ご老公におかれましてはさぞご迷惑というか、混乱──」
「……もっと普通に喋ってくれんかの。敬意を払うてくれるのは嬉しいんしゃけとも、他の誰かの耳に入った折には儂の方も外聞か悪いわ」
実力こそが全ての職業であり、界隈である。パルパトラが同業者から一目も二目も置かれているのはただ年老いてなお現役だからではなく、年老いてなおミスリル級の腕を保ち頭の働きも明敏としているからだ。年齢相応に衰えていようものならどれだけ必死に現役にしがみついていたとしても、浴びせられるのは賞賛では無く嘲りだっただろう。
自分よりも強い者に敬いの籠った態度を取られれば多少嬉しい気持ちもあるが、過ぎれば辟易とする。単に丁寧な態度というだけならまだしも、イヨ・シノンの振る舞いは明らかに自身を下位に置いたもので。
実力の上下を抜きにしても社会的名誉という点において天地の隔たりがあるアダマンタイト級冒険者がやくざ者のワーカー風情にどんな態度を取ったとて、無礼を咎めようとする者などいよう筈も無いのだ。
ただの子供なら礼儀正しさは美徳であり長所であろうが、界隈で最も上に立つ者がはみ出し者に対し自身を風下に置くような、ともすれば遜り寸前の馬鹿丁寧さでは冒険者も市井の人々も微妙な気持ちを抱くだろう。
パルパトラ自身でさえ苛立ちを感じる。
元々パルパトラは組織人として最悪の類だった当時の冒険者組合の長をぶん殴ってワーカーとしての道を歩み出した男である。今の帝国では斜陽とはいえ冒険者に、特にその頂点たる者たちには、胸の奥底で眩い思いを抱いていた。
──不可能を可能にする人類の切り札、最強の存在──全盛期の儂でさえ届かなんだ高みに立つ者が、格下のジジイ如きにぺこぺこするな。
かつての自分が憧れた英雄の姿そのままに、最強たる風格と威厳を備えた存在であって欲しい。それが目の前のお嬢ちゃん冒険者を前にしてパルパトラが抱いた素直な感想であった。
老人の顔に走った苦みをイヨ・シノンはしかと汲み取ってくれた様で、咳払いをして居住まいを正した。物分かりの良さからして、普段から周囲の人々に立ち振る舞いについて諭されているのかもしれない。
「──んん。すみません。これは言い訳ですが、立場というものに未だ慣れない部分がありまして」
相も変わらず丁寧だが、初対面同士としてみれば普通位の口調にはなっていた。
「私がご老公に敬意を抱いているのは本当です。私の先生──元アダマンタイト級冒険者のガド・スタックシオンをご老公は覚えていますか? 面識があると聞きましたが」
随分と久しく聞いていない名前だったが、無論パルパトラは覚えていた。今までに幾人か対面した真のアダマンタイト級の一人である。実力だけではなく気位と態度もアダマンタイト級だったが、それを全く嫌味に感じさせない威厳も──傲慢とて相応の器量を伴えば威厳として映るのだ──兼ね備えた男だった。
短い間に些細な交流を持ったが、友人だったかと言えば否だ。歳は無論の事実力には遥かなる隔たりがあった。良い所で知り合い、ガド・スタックシオン側が言っている様に『面識がある』位が妥当な所であろう。
それでも、あの苛烈で奔放だった剣の暴君が未だ自分の事を記憶に留めていたと思えば悪い気はしない。
「懐かしい名しゃ。そうか、主はあの男の弟子か……はん、あれか人の師とはの。主もさそ苦労しておろうて」
「私自身が望む苦労ですので、痛くはあっても辛くはありません。練習は楽しいです」
柔らかく微笑んで、少女は言ってのける。大人には形作る事の出来ない、純真で眩しい子供の笑みだ。
健気で殊勝な事である。だからこそ恐ろしい。現役時代のガドが自分に課していた修練を僅かなりとも知るパルパトラからすれば、あんなものは拷問でしかない。自分で自分を殺そうと躍起になっている様な物だ。
あれに耐えられる、どころか耐える必要すらなく嬉々として身を浸すことが出来るのならば、その精神性は少なからず人間的な当たり前の感性からぶっ飛んでいる。
強さに憑りつかれている──というほどの逸脱した圧は受けないが、やはりプレートに見合った常識外の部分を、この身も心も幼いといって差し支えない娘子は内包している様だ。
敵にしたくはない、とパルパトラは損益の部分で判断する。アダマンタイト級冒険者であるとかそういった点を抜きにしても、こういう輩は敵に回したくない。威厳の無さが、言動の軽さが、垣間見える未熟さが、ひっくり返せばとても恐ろしい。
多分この少女は、そうせざるを得ないという必要に迫られれば、今こうして笑みを浮かべているのと同じくらい自然かつ真摯にパルパトラの頭部を拳で打ち砕くだろう。
そしてパルパトラにそれを防ぐ術はない。一撃位なら受けられないことも無いかもしれないが、それ以上は無理だ。
現在に至るまで生き残ってきた伝説の老兵は、好々爺然とした笑みを意識して形作った。
「友というほと気安い関係てもなかったか、古い知り合いとの思い出は良いもんしゃ。年老いてますますそう思うわ──して、シノン殿は儂になんのようしゃね? 本題の方かあるんしゃろう?」
「はい。実を言うと、ご老公に依頼をしたいのです」
依頼。
まあ順当と言えば順当なのであろうが、反応はまあ以来の内容による所だ。目線で先を問うパルパトラに、灯りを背負ったイヨ・シノンは、
「誰よりも長い経験を積み、誰よりも多くの修羅場を潜り抜けた伝説の老公、パルパトラ・オグリオン殿。あなたに私の師となって頂きたいのです」
イヨ・シノンが武王に挑む前日の夜の事であった。
●
国の中心として今代皇帝ジルクニフ即位以降平和そのものの高発展を続けてきた帝都にあって、大闘技場は庶民と好事家たちにとって最大の娯楽であった。人と人、もしくは人と魔獣。専業の戦士から金と栄誉に飢えた出場者まで。
蛮性を呼び覚ます興奮と巨大な金が動く賭博を兼ね備えた催し物は常に満員盛況である。しかし、本日のそれは普段とは桁が違った。
膨れ上がった期待が熱気として人々から立ち昇る様に渦巻いている。冬の都にあって、この場所だけは真夏の様だ。
闘技場内にぎっしり詰まった貧富も様々な人々。余りの客足と盛り上がりに、運用に支障を来さない範囲で立ち見まで本当にぎっしりだ。貴族や成功した商人などが利用する幾つかのランクに分かれた貴賓席も一つ残らず埋まっている。
入場出来なかった者たちの一部が騒ぎを起こして騎士隊が出張る羽目になった位なのである。ここ十年で一番の客入りと言えるだろう、その理由は単純だ。
武王の試合が組まれているのだ。強過ぎて勝負にならない為試合が組まれなくなって久しい闘技場で最強の存在、武王が今日この日、戦うのである。
しかもその相手は人類の切り札、最強の代名詞であるアダマンタイト級を戴く冒険者。
最強対最強と銘打たれたこの組み合わせが発表されてから、人々は今日この日を今か今かと待っていたのだ。メインイベントである武王戦の前試合も普段ならば大トリでもおかしくない豪華な組み合わせが実現しており、超満員の観客席は既に最高潮に盛り上がっている。
賭博で大損をしたのか、奇声と共に暴れ出す身なりの良くない男性。興奮のあまり卒倒する者。贔屓の剣闘士が負けたのか絹を裂くような悲鳴を上げる貴婦人。白熱した名試合と、それに伴って発生する死人怪我人の数が増える度、人々は熱狂の度合いを高めていく。
今もまた、近頃不敗の天才剣士などと呼ばれ始めているらしい刀を使う男が魔獣の太い首を一刀の下に刎ねた。派手で見栄えの良い決着と大量の血飛沫に満座の観客たちは大歓声を上げ、男は気取った一礼でそれに答える。
地団駄や叫び声で大闘技場が微振動するほどである。しかしこれほどの熱狂も、この日に限ってはまだ序の口だ。いざ武王とその対戦者が姿を現せば比較にならない歓声と絶叫が上がるだろう。
「ついに武王の試合だ! クソ、一体何時以来だ? ああ、待ち切れねぇ!」「私、この為に足を運びましたのよ!」「今度の対戦相手はどれだけ持つかな?」「アダマンタイト級冒険者ですよ、武王相手でもいい勝負をするでしょう!」「アダマンタイトと言っても一人ではねぇ。人間が武王に勝てる訳がない」「公国のだぜ? 実際どの程度のもんなんだか。武王に全額だ!」「国をも滅ぼすっつう化け物みてーなアンデッドをぶっ殺した奴だぜ、今日は武王が死ぬところを見れるかもしれねぇ!」
「女と見紛う程の美少年、天才拳士だぁ? けっ、俺達の武王に潰されて死んだらいいんだ」「シノン様ー、頑張ってー!」「……既婚者らしいわよ?」「ええ!? もう、いい男ってどうしてこう私が目を向けた時にはもう誰かのものになっちゃってるのかなぁ」「たとえ独身だったとしてもあんたに何のチャンスがあるのよ……」「頼むぞ英雄、俺に一獲千金を運んできてくれ!」「やんごとなき家柄、妖精の血を引くっつう絶世のご令嬢だと! 実際どれくらい可愛いのかな。俺ぁ彼女に勝ってもらいたいね」「派手な血飛沫上げてくれぇ、武王!」
歴代最強の武名も高き武王のファン、闘技場マニアと呼ばれる玄人観衆、最強の武王が死ぬところが見たいという者、弱いと聞く公国冒険者の強さを疑問視する者、見目が良い天才少年と聞いて取り合えず死を願う者、話題になっているから来てみたミーハーな町娘とその友人、可愛い女の子と聞いて応援する本能に忠実な者、兎に角血が見たい流血愛好家、惨劇嗜好症者。そして数多の博徒。
専業兵士である騎士が存在する帝国において、戦場というものは一般人にとって遠い世界になっていた。大闘技場は、人々を日々の平和な生活からかけ離れた世界に連れて行ってくれる異空間なのだ。誰も彼も、客席と言う安全圏から見下ろす血と汗と暴力に、非日常に酔い痴れている。
宣伝された事実と虚実入り混じった噂が混濁し、件の最高位冒険者の人物像さえ人によって違っている有様だった。
それでもなお、老若男女貴賤貧富を問わず、此処に集った全ての人々はそれぞれの気持ちで、今たった二人の戦士を待ち侘びている。
「お集まりいただいた紳士淑女の皆様、長らくお待たせいたしました。これより本日のメインイベ──」
場内の清掃が終了し、マジックアイテムで拡声された司会者の声が響く。しかし、余りの大歓声に後半の声は掻き消された。司会者自身、もう待ち切れないという心情だったので前口上は省く事にする。
「──それでは皆様拍手でお迎えください! 勇敢なる挑戦者の入場です!」
観衆に負けぬよう、司会者は喉を震わせ叫ぶ。
「隣り合う友邦から冥府の騎士を打倒せし最新最小の英雄が今! 我らが最大最強の王に挑むべくお越しくださいました! 公国アダマンタイト級冒険者──『小さな剛拳』イヨ・シノン殿です!」
最新最小の英雄と、最大最強の王の戦い。
万雷の拍手の中、小さな人影がゆっくりと闘技場に進み出た──。
八十歳でなお現役で身体が動くとかパルパトラさん凄すぎませんかね。アダマンタイト級とは別方向に超人で怪物だと思います。
次回から対武王戦『頂きに挑む』が始まります。三月中に更新したいです。