ナザリックへと消えた英雄のお話   作:柴田豊丸

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個人の世界と国家の世界

 スレイン法国は人類の守護者である。

 

 法国上層部や特殊工作部隊群六色聖典は──彼ら自身は信仰心故にそうだとは口が裂けても言わないだろうが──神々の時代以降における人類の守護神と評しても、決して言い過ぎではないだろう。

 

 なにせ法国の表裏に渡る活動が無ければ、人類は地上から絶滅するか他種族の家畜か奴隷か──兎も角それに近い惨状であったであろう事は間違いが無いのだから。

 

 法国は千五百万を超える人口を有する。リ・エスティーゼ王国が九百万とされる事を考えれば遥かに多い数字である。総合的な国力の差はそれ以上であろうが。

 

 数は力だ。優れた個の力量が数の暴力を粉砕する事が可能なこの世界であっても、それは変わらない。数の力も質の力も、どちらも二極の力であった。

 

 一騎当千の強者とて万の軍勢には勝てまい。

 千人の軍勢とて万夫不当の戦士には勝てまい。

 

 至極乱暴に纏めると、数と質を兼ね備える事こそが最強なのである。数だけ、質だけでは駄目なのだ。

 

 およそ人間種の国家という括りで語るならば、スレイン法国の国力は周辺のどの国と比べても卓越していると言って良かろう。なにせ、桁違いだ。

 

 数も質も。情報も歴史も。背負う責任も、視野の広さも。

 

 戦力という一つの面で語ってさえ、法国は他の追随を許さない。表の世界では周辺国家最強の戦士とされるガゼフ・ストロノーフを超える戦士職すらも、両手の指の数を超えるほど抱えている。

 魔法詠唱者もそうだ。信仰系に偏りがちではあるが、他の国では考えられない程の数と質が揃っている。非合法活動に従事する秘密機関六色聖典が一つ、陽光聖典に限っても第三位階に至った魔法詠唱者が百名近くいるという凄まじさである。

 

 人的資源の桁が違う。

 

 もし法国がその気になれば、人間種のどの国家であっても打倒し、組み伏せる事が出来るであろう。しかし、彼らはそれを望まない。

 

 彼ら彼女らには──法国の指導者たちには誰よりも現実が見えているからだ。実態を知っているからだ。窮状を理解しているからだ。

 

 『他種族の脅威』『人間の、人類の弱さ』というものを限りなく実態に近い形で知っている。神々の降臨より前の人類がどんな立場であったのか知っている。八欲王の巻き起こした騒乱と混沌がどの様に世界を荒らしたか知っている。

 

 六大神の庇護無き今、一見安寧に見える人間の生存圏が、どれだけ危ういバランスの上で成り立っているか理解しているのだ。

 

 理解して、法国は人類全体の生存の為に戦っている。人類同士の足の引っ張り合いなど本来やっている暇は無いのであった。

 

 法国は人類の守護者である。自分たちに人類の守り手と言う誓いを課した者たちだ。

 受け継いだモノが違うのだ。法国は、法国代々の指導者たちは、神々より遺志を受け継いだ。人類存続、人類救済の意志を。

 

 賜った装備も、流れる神の血も、高き視座から見据えて長きに渡って高めた国力も──全てはその為にある。

 

 法国の最高指導者たちなどは、ある意味聖人の集まりで、ある意味悪鬼の集まりだ。

 どれだけの人間の命を救ったか分からず──また、彼らの手は罪なき人間の血で汚れている。罪なき亜人種の血で染まっている。ただ、それは人の身で戦ってきたが故の汚れであり、穢れだ。

 

 人一人の人生やその場の行動ですら、正邪では分けられない事が往々にしてあるのだ。この世に完全な善人は一人としていないだろう。人である彼らが人類を守り続ける為の、それは必要かつ仕方ない少数の犠牲だった。

 

 ──切り捨てられる少数の側からしてみれば、『何が人類の守護者だ』と罵声の一つも浴びせたいだろうし、到底受け入れられないし、それは感情の面、当事者の面であればもっともなのだけども。

 

 法国の行いが全肯定、誰もが諸手を上げて賞賛すべきものだとは本人たち自身思っていないだろう。しかし間違いのない真実として、これまでの法国の活動が無ければ、人類は滅んでいた可能性が高い。

 

 さて、法国の事は語った。次は法国の目線から見た他の国々を語ろう。

 まずは三つの国を。

 

 法国から見てバハルス帝国は優秀な国だ。国力の面、纏まりの面、指導者の面。総合的に考えて優秀であり、ある程度信頼できると思われている。

 

 法国から見てリ・エスティーゼ王国は──ゴミだ。

 約二百年の時を重ね、結果腐り果ててしまった。最高執行機関の者たちでさえ『王国の馬鹿ども』と称して憚らないその腐りっぷりは、国内で纏まらないのみならず優秀な帝国にすら麻薬と言う形で悪影響を与えている。

 

 安全で肥沃な大地で多くの人間が生まれ、優秀な人材が多く出現し、異種族の侵攻と戦う勇者たちが育つはず──そう期待していた法国の側から見れば、理想と現実の余りの乖離に憎さ百倍という訳である。

 

 そして最後に公国。法国の目線から見てこの国は──

 

 ──身の程知らずのクズであった。

 

 そう蔑まれていた時期が、確かにあった。

 

 

 

 

 公国は、帝国から別れて出来た国である。他の主だった国々より少しだけ若い。その当時は魔神関連のゴタゴタの余波がまだ強かった時期でもあり、人の力が弱まっていた時期だ。

 余力を残していた法国も混乱の中で今ほど情報を収集し切れなかった頃で、公国はバハルス帝国皇帝の血縁者が大功を成して出来上がった、程度に思っておけば間違いではない。

 

 戦乱の世、波乱の世では平時では埋もれていたであろう人材が頭角を現し、才覚と実力でもって名を上げる事が往々にしてある。初代大公もそうした人物で、言うならば『乱世の英雄』染みた人間であったとされている。

 

 個人的武力と求心力とその場の勢いで勢力を築き上げ、出来たばかりで安定していないバハルス帝国内に収めておくには少しばかり大きく、勢いがあり過ぎていた。

 当時の皇帝と後の初代大公は仲が良かったと当世には伝わっているが、その周囲はそうでも無かったらしい。皇帝の側近は飛ぶ鳥を落とす勢いの『皇帝の血縁者』を警戒し、初代大公の周囲の者たちは破天荒な大公の下で実力で成り上がった、言ってはなんだか半ば荒れくれの様な人物ばかりで、そうした生い立ちと振る舞いによって周囲から嫌厭されていたと言う。

 

 力を持ち過ぎた皇帝の血縁者は大公の地位と肥沃な──でも小さい──領土を与えられ、帝国内部から切り離されて一国家を構えた。皇帝と初代大公がお互いをはっきり分け、物理的形式的にある程度距離を置く事で後代の安定を図ったとの説もある。

 

 後にバハルス帝国を周辺国家に冠たる大国に育て上げた血筋に連なるだけあって、初代大公も優秀な人物だった。乱世の英雄は治世の世では色々と持て余したり持て余された挙句、やらかしたりしてしまう例も多いのだが、意外な事に初代大公は政治家としては地に足が付いていた。

 

 周囲の者共の勢いを新たに授かった領地の開発及び統治の方向へと誘導し、皇帝にはしっかり頭を下げて、皇帝からはそれ相応に礼節をもって遇され、『公国という国』を堅実に纏め上げた。

 建前上独立国、実質的に従属臣下という現在まで続く姿は殆ど出来上がっていた。

 

 それ以降の周辺の歴史において、公国の存在感は大きくない。帝国の傘の下で、帝国と一緒に少しずつ成長していった。

 

 ある一時期まで、法国の目線から見た公国は『地味』の一言であった。いるのかいないのか分からない。無難にやっているらしく、比較的安心して見ていられるが小身で期待もされていない、といった感じだ。

 初代大公が前半生において武辺者として名を馳せたので、強者の血筋としてほんの一時注目されたが、後の大公家は悉く文官タイプ政治家タイプであまり目立たなかった。

 

 『実質的には帝国の一部』として長らくバハルス帝国と一緒くたに扱われてきた。

 

 公国が存在感を増してきたのは、百年以上の時間が経ってリ・エスティーゼ王国が少しずつ腐敗を始めた頃であった。

 

 王国は当初から人類の希望の地として多くを望まれており、多大な期待が掛かっていた。

 対して公国は物の弾みでひょいっと出来た国で、小さく目立たない為に期待などされていなかった。

 

 当時の法国上層部では道を外れて膿を溜めていく王国に対して失望と苛立ちが募りつつあり、自分たちが影から手を回しても改善せず悪い方に進んでいく様に怒りすら湧いてきていた。

 同じく期待されていた帝国は期待通りか、むしろ期待を上回る位の成長を見せていたから、余計にである。

 

 そんな空気の中で、公国という小粒な原石はやっと価値を見出された。公国は一貫して拡大と伸長より国内の堅実化と帝国との協調を図っていて、この頃国内に関してはかなりの安定を誇っており、自国内部の問題は内部できっちり処理していたし、対外的にも大人しいもので面倒を起こさなかった。

 

 『帝国の傘の下の小さな国』という己の程度を弁え、相変わらず周辺国家と比べて弱小なりに上手くやっていたのである。情報及び諜報面での伸長も長所として出来上がりつつあった。

 

 要するに対比である。

 元より存在感が薄く期待もされていなかった公国は堅実に一歩一歩前進している。

 対して、大いに期待されていた王国は腐り、進んで足踏みして後退してまた足踏みを始めた。

 

 あえて掛かる言い方をすれば、公国は『地味で小柄で弱弱しい、でも手間の掛からない優等生』。

 王国は『図体は大きくなったのに成長しない所か腐り始めた劣等生』であった。

 

 相変わらず存在感は無かったが、時折思い出した様に会議の席で『地味ながら良くやっているな』と名前が出るくらいにはなったのだ。ただ、純粋に公国を褒めていると言うより腐り続ける王国に対する当て擦りが半分だった。

 

 時間が経つ内に公国の情報分野での成長は法国をして一目置くに値するものとなり、安定した年月を過ごした為か視野も広がって、人類の窮状と法国の活動、思惑の一部を実態として理解し始めるに至った。

 

 小身の弱者が一芸を磨き続け、そして自分たちの足元に届きつつあるというのは法国にとって嬉しい誤算であり、帝国と一緒になってもっともっと進歩してくれたら良いな、と暖かい視線が注がれた。

 

 法国上層部内における公国の地位というか、心証が最大限に上昇した時代であった。

 上り切れば後は下がるのみなのは道理であり、そして法国にとってクソ程も有り難くない人物が歴史の舞台に上った──現在の大公の登場である。

 

 大公は先代大公、つまり父親の急逝によって若年の頃に即位している。

 因みに次男として生まれていたが、兄は十代半ばの頃に病気で亡くなっている。

 因みにもっと後の話だが、大公自身の長子と次子も病気と事故で亡くなっている。

 

 どれもこれも全くもって疑わしい所のない、非の打ちどころも無い病気に事故であり、陰謀論の類は『殆ど全く』取り沙汰されなかった。絶対何かやっただろコイツ、と言うのが法国指導者層の共通認識だったが、どう調べても異常な点は見つからず、病気で死んだ者は以前からその兆候があり、徐々に悪化していた所を治療の甲斐なく惜しまれて世を去っていた。

 

 神の祝福でも受けていない限り絶対何かやっている筈だが、尻尾どころか毛の一本さえ掴ませない男だった。

 だがまあ、多少後ろ暗い節がある事くらいは貴族ならば、為政者ならば、統治者ならば誰にでもある事である。綺麗事だけで世の中が回っている訳ではないという事を、法国の面々は良く知っていた。

 

 勿論汚い事だけで回っている訳でも無いので、支障がないなら綺麗であるに越した事は無いし、綺麗に見せようとする努力や体面、口実、理論武装、大義名分は必須である。そうした面から見れば大公はむしろ有望な人材ですらあった。

 

 君主制の国家にとって君主となる者の能力は国の衰退に直結する。無能が頂点に立てば一般的に国は傾くし、有能な者が頂点になれば、大まかに言って国は栄える。

 一般に、大まかに、とするのは、それだけで全てが決まる訳では無いからだ。有能な王でもどうしようもない状況は存在するし、無能でも務まってしまう状況もまた存在し得る。

 リ・エスティーゼ王国のランポッサⅢ世などは相当追い詰められた状態でその治世がスタートし、長年にわたって溜め込まれた膿をどうする事も出来ず、現在晩年を迎えつつある。かの王は無能では無かったが──平穏な世ならばそれなりの統治をしただろうという意味で──国を正す事も盛り立てる事も終ぞ叶わなかった。

 

 数代に渡って深刻化した腐敗を一代で一掃するなど、歴史に名を残せるほどの名君でも困難であろう。

 国家と言う巨大なものに巨大な変化を及ぼすには、膨大な準備と時間が必要なのだ。それら無しで変革を起こすには、人の身を超えた絶対的な力が必要となってしまうであろう。バハルス帝国が絶対王政を実現するまでに二代に渡る準備を必要とした事を思えば良く分かる。

 

 その膨大な準備と時間を短縮したり長引かせたりする要素の中でも比較的大きいものが、君主その人の有能無能だったりする訳である。

 バハルス帝国は現皇帝ジルクニフより六代前まで遡っても、代々神が選んだかの如く優秀で才能に恵まれた者が皇帝の座についた。その幸運はかの国の国力増大という形で結実している。そして、公国を従え、遠からず王国も手中にするだろうジルクニフは、歴代最高と称えられる傑物である。

 

 話を戻そう。

 有能な指導者の登場は、法国としてはむしろ歓迎する所である。

 

 特別突出してはいないが普通に優秀、得意な事は根回しと調整と話し合いですといったオールマイティーには一歩及ばない器用貧乏の秀才を量産し続けていた大公家の血筋にあって、その男は久方ぶりに現れた天才だった。

 

 幼少時から一貫して天才ぶりを周囲に見せつけ続け、そのまま長じて公国の最上位の席にどっかと座り込み、期待に恥じぬ成果を上げた。

 父の急逝は文字通り急で突然の死でしかなかったにも関わらず、男はまるで全ての準備が整っていたかの様に公国を回した。

 

 指導力と求心力を兼ね備え、表裏の根回しや交渉に通じ、目先の利益に釣られる事なく大局を見据えた判断を下すことが出来た。

 公国内において初代大公は伝説で、カリスマだ。公国貴族の多くは初代大公と共に乱世を駆け抜けた面々の子孫であり、そしてその血筋を今に受け継ぐ大公家は元来の権力と権威を損なわず、今に至るまで保持し続けていた。『小国であり周辺のどの国と戦争になってもまず敵わない』という公国の事情もあり、建国当時から纏まりがあった。

 

 元よりそうした性質を持っていた公国において、現大公の代になってから一層中央集権と効率化が進んだ。また同時に軍備増強も進んだ。これは別に良かった。多少なりとも人類の力が増すのなら法国としては万々歳である。

 

 ──だが、大公個人の思惑と言うか、思想が良くなかった。大公が極近しい側近だけに覗かせたソレは、回り回って法国まで届いたのである。

 

『狂ったか?』と当時の法国最高指導者たちがまことしやかに囁いたその野望は──全国統一であった。

 

 頭おかしいとしか言いようが無かった。そもそも全国って何処から何処までを指すのかとか、王国一国でも人口比較で三倍の開きがあるとか、出来る訳ないとか。

 万言を尽くしても言い切れないだけの粗とか突っ込み所が存在したのだが。

 

 大公の野望はそれだった。自身にはより多くの民を統べ、より広い領土を支配できるだけの能力、器がある。だから持てる力の全てを使って成り上がり、自分の大帝国を作ってやると。

 

 大公は頭が良かった。常識を知っていた。普通の価値観を持っていた。審美眼があった。戦略や戦術の知識もあった。人類が瀬戸際な事も、法国が裏で何をしているかもある程度知っていた。

 

 ──だが、それら全てより優先する大望があった。控えめに言って夢見るクソ野郎だった。

 

 何も知らない愚か者ならば兎も角、高い能力を持ち、人類の生存状況をある程度知っている上で『それはそれとして戦争で勝って領土広げたいぜ! 夢はでっかく世界征服だぜ!』等と抜かすクソボケの登場。

 狂ったのでも誤報でもないと確認が取れた後、法国の指導者たちは激怒した。

 

 明らかに仲間割れであり、人間種全体の力を落とすに違いない無駄な野望であった。

 そもそも公国などというちっぽけな国の支配者が、周辺国家で最弱であろう一騎当千の個も一騎当千を打ち崩す大軍も持たない国が、勝てる訳がない。

 

 現実的に考えれば、無駄な騒乱を巻き起こして真っ先に潰されてお終い。

馬鹿が一人で死ぬ分には勝手に死ねばいいのだが、国ごと巻き込んで一国を滅ぼして後には混乱と火種だけが残るなど最悪中の最悪である。潰れた公国の民と領土は更なる争いの火種となるだろう。

 

 『大人しく手間の掛からない小さな優等生』だった公国に優秀な、同時にとんでもなく馬鹿な指導者が現れる。しかも身の程を弁えず周辺に戦争吹っ掛ける気満々の男が。

 ゴミと称して憚らない王国の方がまだマシとさえ言われた。少なくとも王国は悪臭と悪影響を周囲に滲ませつつある腐った果実であって、大雪崩の引き金となりかねない狂気の時限爆弾では無かった。

 

 当然ながら、即刻大公排除の提案が成された。

 

 だが、最終的には見送りの判断が下される。理由は簡単、優先順位だ。

 何時の時代も法国は多数の懸案事項を抱えていた。その中には竜王国を襲うビーストマンの様に、ほとんど毎年の恒例行事で直接的に国家の存亡にかかわる物も数多くあった。

 

 人類の勢力圏の内側であっても、ゴブリン等の多産な種族は目を離すと直ぐに数を増やして脅威となった。トブの大森林が有名だが、森の中は人間の世界では無かった。国々の支配も其処には及んでいない。

 比較的レアな事例として、悪しき竜王の復活や人間種を餌として見る強者の流入もあった。

 

 一国の懸案事項でも数が多いのは当たり前だが、法国は持ち前の力と理念のもとに他国の領域にまで目を光らせ、直接間接を問わず脅威を抹殺していた。

 

 とかく世界は異種族だらけで、人間は弱かった。六大神降臨以前の人間種がどんな立場だったかなど、今を生きる人間は考えたくもないだろう。現在でさえ大陸中央の六か国中三か国では人間は食料だ。他の三か国でだって奴隷階級である場合が殆どである。

 

 先に挙げた竜王国を襲うビーストマンなど、『放っておけば勝手に増える餌場』程度にしかかの国を思っていないだろう。竜王国は毎年の如く襲い掛かる惨事に対して国庫を圧迫するほどの軍事費を計上し、それでも足らずに法国に多額の寄進を行っている。

 無論、漆黒聖典や陽光聖典などの、武力による救済を乞うて。恒例行事をやり過ごすだけでもこの苦労だ。逆にビーストマンの国に攻め込む事など夢のまた夢。下手に攻め込んで『勝手に増える餌場』から『敵国』に昇格してしまったらどうなるか。竜王国が滅んだらどうなるか。

 

 人間を至上とし、他の種族から身を守る為に団結せよと唱える法国だが、竜王国を見捨てない、見捨てられない。例えかの国の女王が八分の一竜の血を継いでいようとも。

 国民の殆どは人間であるし、防波堤が崩れてビーストマンが雪崩れ込んでくるなど悪夢であるがゆえに。

 

 放置したら人間の世界が崩れる可能性のある事件など、幾らでもあった。大火は大きな火種から始まると考える者は愚かである。どんな小さな火種だって放置すれば全てを焼き尽くす獄炎へと成長し得る。法国の指導者たちは愚かでは無かった。全てに手を回せる余裕は無い以上、危険度の高い順に優先して処理するのは当たり前の事だ。

 

 大公は途方もない大馬鹿者としか言いようが無かったが、能力の面だけ見れば優秀な男だったし、『自身の大帝国を築き上げる』という野望も、本人にしてみれば真剣なものなのだ。

 何事もないイーブンの状態からでは無理も無理な野望である。機を伺うだろう、年月を掛けて成功率を高めるべく準備するだろうと言うのが大方の予想だった。そして伺った所で準備した所で、所詮は万が一の可能性。

 その万が一すら突破するともなればその時こそ処理すれば良い。

 

『小国とは言え一国の頂点に立ったのです。全能感に浸ってつい大きな口を叩いてしまう、若かりし頃に特有の病やもしれません。様子見で良いのでは?』

『今の時点であのクズが消えれば、公国は荒れますな。その拍子に何かないとも限りません。あの地は帝国は元より王国にも近い』

『波乱を起こさせない為に波乱を起こしたので元も子もありませんし……まだ若いですしな、時間を与えてもいいでしょう』

『では、様子見という事で。次の議題ですが──』

 

 会議では一応そういったやり取りの末に様子見が決まったが、この言葉は楽観では無く、自身の中の怒りを処理するためにそうした台詞を吐いたに過ぎない。内心ブチ切れである。

 

 素行の悪い者がちょっと善い行いをすると実は良い人なのではと思われる理論の逆転、素行だけは良かった者が思い切り非行に走りギャップで二倍悪い奴に見える理論であった。当時の最高執行機関の面々は全員、大公に対してブチ切れていた。

 

 若かろうが老いていようがイカレている奴はイカレているし、年を取って落ち着くどころか悪化する者もいる。『いざ実行に移そうものならその前にぶっ殺してやる』として、法国は全く気を緩ませていなかった。

 

 元より法国の情報網は周辺国家とは比較にならないレベルであるが、公国、それも公都の大公に向けられた監視の目は飛び切りである。国家としての規模、国力と比べたら行き過ぎな位だ。

 帝国の首都や三か国の利害がぶつかる要衝、エ・ランテルと比べても遜色ない。

 

 それ程の注意、警戒を法国はイカレ大公に向けていたが──それから二十年ほど、何も起きなかった。

 

 公国は大公の手によって平穏に発展した。そう、平穏にである。ドンパチも起こらなかったし、起こさなかった。

 

 それでも歴代と比較して大いに躍進したのだが、帝国はもっと発展したため、差は縮まらなかった。王国との差なら多少は縮まったのだが、国力の基礎となる人口差が三倍である。現在周辺国家最強の戦士として知られるガゼフ・ストロノーフをも有した王国相手に、多少程度の進歩で喧嘩が売れるものではない。

 

 この頃になると法国の最高執行機関の面々も幾人か顔触れが変わっており、若かりし頃の大公の大言壮語は『伝え聞いたもの』『若気の至り』となりつつあった。

 なにせ大公が野望を口にしたのは本当に、即位して直ぐの若い頃であった。実際に二十年を穏当に過ごした事実を積み重ね、更には側近に『野望はどうされたのですか?』等と問われ、顔を赤くして『そんな昔の事を何時までも言うな』と苦笑いした、という話が強化された監視網を通して伝わるなどしたのだ。

 

 それでも『もう大丈夫だろう』として監視を緩めたりしない辺りが、法国の優秀な所であった。

 

 ……法国の最高執行機関の面々は、現実を見て物事を判断する者たちであった。

 現実的に必要であり避けられないなら、百を救うために十を殺す必要があるならば、殺す。人類の生存の為に人間を殺す必要があるならば、殺す。そうした判断を『現実』と『実利』の元に下せる。

 

 徹底した現実主義者。彼らは理想を持つが、それは目標に向けた現実的な努力として。

夢物語は追わない。こうあってほしいと言う願望と現実を混同しなかった。『全人類誰一人欠かさず幸せになる』『よく話せばみんなが理解してくれる』といった誰でも無理と分かる無理を信じたりはしなかった。

 大人だった。常識人だった。冷徹者だった。数十年は元より、数百年単位のそれぞれの寿命すら超えた目標を見据えて前に歩む理性と常識の権化。

 

 ──だから国より世界より命より、自分の夢の方を優先する大馬鹿野郎を、一種の狂人を理解できなかった。

 大人になっても子供のままで、頭は良いのに馬鹿で、理屈も条理も確率も全て無視して夢を追う──そんな輩に出し抜かれる事となったのだ。

 

 おぞましい事に、皇帝崩御の報と大公率いる公国軍進撃の報はほぼ同時に法国へと届いた。

 

 

 

 

 何の事は無い、奴はまるで成長していなかったのだ。

 

 二十年の歳月で大公は少年から中年になった。経験と努力を積み上げて成長した。自身の理想通りの公国を実現すべく国を成長させた。

 

 公国という国が小さく弱い事を知っていた。小さく弱く、成せる事も小さい公国程度にどの程度のリソースを法国が割り振るか──二十年間雌伏して知り尽くした。

 千載一遇の好機を今か今かと待ち続けていたのだ。

 

 好機など訪れずとも、恐らく彼は晩年、力を失う瀬戸際に賭けに出た事だろう。しかし時は来た。バハルス帝国皇帝、その突然の崩御。

 

 真っ向からのぶつかり合いにおいて、公国が帝国に勝つ確率など万に一つも無いだろう。何かの間違いで一回勝てたとしても、二回目で完膚なきまでに叩き伏せられてお終いである。しかし、バハルス帝国と言う巨体の頭脳が唐突に消えたその刹那、その混乱の隙を突けば──勝率は高まる。

 

 万に一つから、一割程まで。一万分の一から十分の一にまで。それは途方もない差で、逃せば二度と来ない覇の萌芽となり得る天の配剤だった。

 

 ──失敗すれば死ぬだけ、国が亡ぶだけだ。

 

 たまたま帝国だったから帝国に進軍した。王国で何かが起これば王国に戦争を吹っ掛けただろう。切っ掛けはなんでも良かったのだ。どんな契機だろうとモノにするべく、積み上げてきたのだから。

 

 公都はおろか公城、側近の周辺にまで潜んでいた法国の密偵はこの時この一瞬、大公にしてやられた。例え法国が誇る諜報員と言えど、遠距離で物理的に隔てられている以上情報の伝達には時間が掛かる。

 情報的に隔離し、第一歩を躓かせてしまえば、後はその一手の有利でペースを掴める──大公の狙い通りであった。

 距離を無にする情報伝達方法の一つに〈メッセージ\伝言〉があるが、離れれば離れるほどノイズが混じり誤伝達や未達が起こるこの魔法は、国家間の超遠距離を繋ぐには確実性に欠け過ぎていた。マトモな人間であれば使用を忌避する程に。

 

 実際この時〈メッセージ〉の使用に踏み切った諜報員は存在したが、正確な伝達は成されず、『何かが起こった』というそれだけが伝わり、事態の発覚を早める程度の結果に終わっている。

 

 少々遅れて事態を把握できた時、最高執行機関のある人物などは痩せ嗄れた手で水の入ったグラスを握り潰し『やりおったなあのクズめが!』と罵声を吐いたとされる。

 

 結局この事態は大公が新皇帝ジルクニフに頭を垂れた事で穏当に終着したのだが、大公と公国の印象は建国以来最悪を維持したまま現代に至っている。大公が最終的に暗殺されずに済んだのは、即刻従属宣言をして引き返した事と──それ以上にジルクニフによって首輪を付けられ、ジルクニフが狂犬を飼いならす事に成功したからだった。

 

 

 

 

「あのクズの下でデスナイトが?」

「はい。クズのお膝元である公都にデスナイトが出現したと」

 

 遂に天罰が下ったかと一瞬納得してしまった男──土の神官長レイモン・ザーク・ローランサンだが、流石に天罰の一言で済ませて良い出来事ではないなと即座に思い直した。

 クズが治める小国でも人類勢力の一端であり、首都が死に滅びたとなればその影響は国内のみならずその外にまで及ぶやもしれない。頭部を失った公国が崩壊する可能性も十分あり得る。

 

 影響が帝国にまで及びもう一つのお荷物であるゴミ──王国を帝国に併呑させる計画に差し障りが出る様では本格的に困るのだ。

 それに、公都は周辺村落と合わせて三十万を超える人口を有した都である。其処が死の騎士によって落ちたとなれば、少なくとも万の不死者が闊歩する死都が出現する事になる。

 

「そして──」

「とすると、公都とその一帯は滅びるか……クズとその一族が脱出できたかどうか、確認は取れるか? 人間性はクズでも能力だけは高い男だ、流石に死んではいまい」

 

 首都は滅びたとしても支配者その人が生き延びているなら、国力は落ちるし動揺もするだろうが、まだ公国は勢力として纏まるだろうとレイモンは言った。

 

 レイモンは元漆黒聖典所属であり、十五年以上戦い続けた護国の英雄だ。そして現在は最高執行機関の一員で、六色聖典を指揮する立場である。

 伝説過ぎて逆に知名度が低いとされるほど希少なアンデッドであるデスナイトについて、恐らく最も詳しい人間の一人であろう。その厄介さと強大さは嫌になるほど知っている。その致命的な性質故に、一度でもぶつかれば二度と忘れる事など出来まい。

 

 英雄だけを集めた部隊である漆黒聖典とて、同数以上になった時点で絶望的だ。アダマンタイト級の冒険者パーティだって一体二体を相手に出来れば驚嘆すべき奮闘だろう。

 

 更にはかの騎士が増やすアンデッド、そのアンデッドがこれまたアンデッドを増やし──あっという間に軍勢と化し、その大軍が更なるアンデッドの発生を促進する。かの冥府の騎士は生きとし生ける者を死滅させる為だけに存在するかのような悪質さを持っている。

 

 到底公国だけで如何にかなる戦力ではない。主従関係である帝国の助力は元より、法国も事態に介入せねばならない事案だ。漆黒聖典から何人を出せねばならないかと思案しながら、

 

「このタイミングは明らかにあの吸血鬼が元凶だろうな……公都は実質的に奴の居城と化したと想定せねばなるまい。大儀式による最高位天使の召喚を視野に入れ、次の会議で──」

「……その、神官長。既にデスナイトは討滅され、事態はほぼ収束しています」

「──なに?」

 

 レイモンは自身の耳を疑い、報告する部下の顔をまじまじと見返した。執務室の机越しに見える彼の表情は、いつも通りの真面目なものだった。

 

「何が起きた? 戦力的に不可能に近いだろうが?」

 

 勿論無事倒されたならばそれに越した事は無い。被害は無く、損害覚悟で強大な敵に戦いを挑む必要も無いのだから。しかし、疑問がある。

 

 公国が保有する戦力は大したことが無い。デスナイト相手では数の力が役に立たない為、必要なのは圧倒的な個の力だ。公国にはその個がいないのだ。

 魔法詠唱者は一応第四位階に到達した者が三人いた筈だが、その内対アンデッド戦において有力な神官は高齢であり、魔法の行使には支障が無くとも戦闘には耐えられない。筆頭宮廷魔術師は実戦経験がほぼ皆無な箱入りだ。実戦の場で戦力として数えられるのは帝国から出向してきているパラダインの高弟一人と、その他の宮廷魔術師たちの一部程度だろう。

 戦士は確か、近衛の副隊長がぎりぎりで冒険者で言うオリハルコン級に至るかどうか程度の腕だった筈で、他に目ぼしい実力者は居なかったと記憶している。

 冒険者ですらアダマンタイト級が空位で、その下のミスリル級オリハルコン級はその煽りを受けて忙しく国内を飛び回っていると聞く。

 

 物理的に戦力が足りない。全く不可能とは思わないが、今あげた戦力でデスナイトを打倒するには相当な強運が前提となってしまう。それこそ通常あり得ないと言って良いほどの。

 

「被害のほどは? どれだけ死んだ?」

「報告によりますと、戦闘による直接の被害者は零であり、一般市民の大規模な避難活動の混乱等で死亡した者が少数であると」

 

 手渡された書類に目を通すと確かにそう書いてあった。公都の各所に潜む諜報員たちが己が耳目と手足で集めた情報を纏めたものだ。イカレ大公の帝都進撃以降一層強化された連絡網でもって届けられたそれは、日時を確認すると三日前のものだ。巫女姫の高位魔法によるリアルタイムの監視を別にすれば格段の速さと言って良いだろう。

 

 其処だけ見てみると正直あり得ないの一言しか出ない。

 官民の強者たちが準備万端で待ち構えている処にデスナイトが投じられる──そうした未来予知の如き隔絶した神の恩寵が無ければ現実になり得ない結果だ。

 

「……む」

 

 大きな役割を果たしたとしてイヨ・シノンなる新人の、しかし驚異的な実力を持つとされる人物の名が上げられていた。新人というだけあって聞いた事の無い名だった。元漆黒聖典であり現在の役職上、各国の強者の情報は気を配っているが、流石に冒険者となって数か月の人物となると全く知らない。所属しているらしい【スパエラ】というチームは聞いた事がある気もするが。

 

 事態発生の瞬間に居合わせ、増援到着までの間孤軍奮闘にてデスナイトに食らい付き、討伐に大きく寄与したらしい。この人物が語った情報として美貌の女吸血鬼の存在が確認されている。

 英雄級と目される人物がぽっと出というのは少し気になる物がある。普通それ以前の段階で話題になる筈だが。

 

「こちらがその人物、イヨ・シノンの情報を別途纏めた資料になります」

「用意が良いな──やけに厚いな?」

 

 提示されたそれは、パッと見ただけでも先の報告書の三倍は厚い。少しめくってみると身長体重趣味特技武器防具に戦闘スタイル本人の思想人格一日の行動パターンと、あらゆる方面について詳述されている。数パターンの似顔絵まで付いていた。何も知らずに渡されたら一体何年かけて調べ上げたのかと思ってしまう程の分量だ。

 

 強者を始めとした目立った人物の動向や素性は確かに情報収集の対象だが、たった数か月で此処までとなると異常な入れ込みようである──等と思っていると、この人物がやたらと多くの法国諜報員と接触している事に驚く。

 

 市井に潜り込んでいる者の半数と関わっている気すらしてくる程の人数である。特に職人や屋台の店主等の偽装身分を持っている者らとの接触は頻繁だ。

 

「テラスティア大陸ザルツ地方出身……?」

「報告からすると、偽装の職業に従事する者として対応した所非常に懐かれ、以後頻繁に声をかけてくるようになり、聞けば聞くだけ答えた為情報が集まり、結果この資料が出来上がったようです」

 

 一瞬『諜報員と見抜いてあえて接触して来ているのではないか?』と思ってしまう程の接近振りだが、『万人に対してこうであり見抜かれている可能性は皆無と思われる』との事。

 なんでも公都中に友人知人が数百人はいるらしい。人物評として『あえて嫌われる様に振舞わなければ、声を掛けるだけでほぼ確実に友好的な関係が築ける』『何一つ隠す気が無い為あえて収集せずとも勝手に情報が集まる』とまで断言されている。

 

「少しは警戒心というモノが無いのか──『警戒心に欠け、人格は善性と言って良いが著しく幼児的』──成る程」

 

 真実だとすればテラスティア大陸やレーゼルドーン大陸なる他の大陸、そこに暮らす人類の情報は気になると言えば気になる。

 だが、かの六大神が健在だった時代でさえ──失伝しているだけやもしれないが──遥かなる遠方と交流を持った記録は無い。その事実を思えば遠すぎてお互い干渉のしようが無いし、昔も今も人類はこの大陸の隅っこでさえままならないのだ。気にはなっても、実際気にかけている余裕は無いだろう。

 

 知的好奇心は湧くが、それまでだ。

 

 死の騎士を相手に単独で戦闘し、そして生きているという時点で人類屈指の強者である事は疑いが無い。漆黒聖典の足元にすら届き得ると評価しても良いだろう、他の大陸からの漂流者。興味深くはあるが、今は他に重要な事が在る。素性も戦力も何もかも、もう割れているし。

 

 人間の強者が増える事、それ自体は大歓迎だ。願わくばどこぞの蒼薔薇の様に視野の狭い──法国の目線で言えば──正義感を振りかざしてこちらの邪魔をしなければ尚良い。

 

 『人間を守る為なら何の罪も無い亜人や森妖精を殺しても良いというのか』──陽光聖典の隊長から報告された連中の台詞を思い出し、レイモンの心中に僅かな焔が生まれる。

 愚かとしか言い様が無い。ニグンもそう述べていたが、レイモンも全く同感だ。アダマンタイト級冒険者として数多のモンスターを葬り去って人を守ってきた癖に、間違った神を信仰してとは言え第五位階という余りある恩寵を授かった神官である癖に。

 

 人としては善良で心優しいのかもしれない。だが余りに視野狭窄で愚かだ。平和に暮らしているだけの亜人や森妖精を殺す理由だと? 平和に暮らしているからに決まっている。

 人類の領域の只中やすぐ隣で平和に暮らし、数を増やし、勢力を増し、繁栄しているからに決まっているではないか。そうして増えた数を養う為に、より繫栄する為に遠からず人類と争う事になる。

 

 そうなる前に法国は、六色聖典は人類の守り手として敵対種を狩っているのだ。人類の犠牲を未然に、より大きな犠牲が出る前に防いでいるのだ。

 

 亜人種の村への攻撃を食い止め、それを善と勘違いする等愚かにも程がある。目の前で殺される亜人種は見捨てられないが、将来殺される人間はどうでも良いとでも思っているのだろうか。恐らく本人はそう思っていないつもりだろうが、レイモンやニグンからするとそうとしか思えない。

 

 弱き人間は己を守る為に様々な手を使わねばならない。手段を選んでいられる余裕などない。どうしてそれが理解できないのか。

 

「神官長?」

 

 レイモンの沈黙を不思議に思ったのだろう、目の前の部下が問うてきた。レイモンは意図して内心の怒りを霧散させる。蒼薔薇の一件は腹立たしいが、今は目の前の案件に対処せねばならない。

 

「いや、なんでもない。この一件、上手く収まったようだが、あの吸血鬼共の仕業と考えて間違いないな」

「そう思います。今回姿を現したのは娘だけの様ですが、あれがあのまま滅んだとは考えられません」

 

 大陸中央からやって来た強大な吸血鬼の親子──アンデッドが子を成せる訳が無いので、あくまで親子関係を結んだだけの他人同士だろうが──法国は既に何度も連中と戦闘し、逃げられている。

 

 目下の所最優先に近い懸案事項であり、早急な解決、つまり討伐が必要とされる存在だ。難度百数十に及ぶ父、戦闘を行っていない為詳しくは分からないが、難度六十~八十程度と推定される娘。それだけでも厄介だが、死の騎士の召喚を可能とするなど、看過できない者共だ。父を名乗る方は片腕を半永久的に奪うまで追い詰めたが、デスナイトを始めとした高位アンデッドを殿として召喚する方法で今の今まで逃げ延びている。

 

 アンデッドだけあって往生際が悪い。

 

 本来ならデスナイトを召喚できる魔法詠唱者は、法国と言えども正面切って敵対するのは危険と判断せざるを得ないほどの存在である。デスナイトは単身で小国の軍事力にすら匹敵する為、国一つに対するが如き対応を求められる。

 

 だが、根本的に生ある者の敵対者であるアンデッド、しかも既に人類に多大な被害を及ぼしており、今後もそう在り続けると思われる相手では敵対は危険等と悠長なことを言っている暇も無い。

 

 その追討には数人の漆黒聖典隊員を始めとして、六色聖典が数多く割り振られている。少なくない数の死者も出た。これ以上長引かせるのはリソース、危険度の面から見ても容認し得るものではない。事実仕留めきれず逃がしたせいで、危うく万単位の犠牲を出し、地上に新たな死都が誕生するところだった。

 

 弱き人間と比べて強大過ぎるモンスター──しかし、所詮は底の見えた存在だ。加えて強大な種族特有の傲慢と上から目線を備えた慢心者でもある。漆黒聖典五人で追い詰めた様に、捕捉さえ出来れば討伐は十分に可能。

 

 父の方は真なる神器の予定さえ空けば洗脳し、使い捨ての先兵にしても良い。だが既に大きな被害が出ている以上、余裕があればの話だが。

 

「先も言った様に、最高位天使の召喚──それか、神人をぶつける事も考えねばなるまい」

 

 これ以上自由を許してなるものか。確実に消す。デスナイトの召喚があの吸血鬼をしても大きな負担を余儀無くされる行為である事は分かっているのだ。あれ以来大きな事件は把握している限り起きていない為、膨大だった負のエネルギーも弾切れだろう。この機を逃す手は無い。

 

「何時までも失敗した場所に留まっているほど頭が悪いとは思わないが、念のため、潜伏の線も捨てずに調査せよ」

「了解しました」

「──それと」

 

 持つ手に重量を感じる程分厚い資料を掲げる。

 

「その来歴と言い、出来過ぎたタイミングと言い、戦闘力と言い、少し気になる存在だ。この少女の事も少し調べろ。まさかと思いたいが、此度の英雄劇自体が仕込みである可能性もある」

 

 偶然召喚の瞬間に居合わせた奇跡と言えばそれまでかもしれないが、起きにくいから奇跡なのだ。運が良かったで安堵して罠に飛び込みたくはない。

 因みに資料にはしっかり男性と明記されているが、似顔絵を見たレイモンはごく自然に誤字だろうと判断していた。

 

 法国の目線で見る人間の世界は今日も危うい。

 

 

 

 

 国家という高く巨大な視点での問題は巨大で膨大である。安寧の日など無いに等しい。日々土を耕す農民の人生はありきたりで、それでいて楽とは決して言えない苦難に溢れているだろうが、彼らは幸せかもしれない。

 

 少なくとも彼らにとって日々の天気や今日明日の生活が重大事であり、国家転覆や人類の生存圏、何千何万という人命の危機を意識する事も無い。

 

 無知であるが故に彼らは幸せなのだろうか。いいや、国には国の悩み、指導者に指導者の悩みがある様に、一般市民、只人には只人の重大な悩みがあるのであった。

 文字通り国家と個人の著しい規模の違いこそあるが、重大である事には違いが無い。周囲から見てどれだけ簡単そうに、あるいは幸せそうに見えても、当人にとっては三日三晩頭を悩ませてもまだ足りない程の難題で、解決しがたくしかし放っておく事など出来はしない、避けては通れない人生の岐路なのだ。

 

 個人の世界と国家の世界。

 

 日々移り変わる世とそれに対応せん適応せん、より良い明日を掴まんとする国家の如く。

 

 今此処に、目の前の難事を打破すべく悩む個人、ある少女がいた。

 既に公都の危機を退けてより三日である。完全にとは到底行かないまでも、一息つく時間を作れる程度には事態も収まりつつあった。収まったという事にして平穏を取り戻すべく努力していた。

 

 ある高級飲食店、商談などに用いられる奥の部屋である。一旦入ってしまえば外に声は漏れず、外から内に声は掛けられない。秘密の話にはうってつけだ。

 

 今そこに、四人の女性が揃っていた。

 黒髪黒目の細く鍛えられた体躯──盗賊兼斥候、オリハルコン級冒険者リウル・ブラム。睡眠不足故か普段の五割増しで目付きが悪く、顔が赤い。

 

 右手の座席に彼女の親友、ミスリル級冒険者、神官イバルリィ・ナーティッサ。普段通りの笑みを湛えている。

 リウルから見て左手に鉄級冒険者チーム【ヒストリエ】より赤毛の少女、パン。ただでさえ周囲の面子と比べて小さいのに、遥か上位のプレートの持ち主たちに一人混じっている為か、委縮して子供の様に見える。

 

 そして対面──この場で最も大柄で筋肉質な人物。男性の戦士と比べても見劣りしない体格を誇り、しかし生まれ持ったものなのか女性らしさを保った体形の女戦士。

 夫婦で同じ白金級冒険者パーティに所属する者として有名な人物──櫛の通った綺麗な茶の短髪、愛嬌に溢れた笑顔が素敵なアネット・ノーバリー。

 

 「……折り入って相談したい事がある」

 

 矢鱈と小さい声だった。部屋が静寂に満ちていなければ絶対に聞き逃していただろう程のそれは、リウル・ブラムが発したものである。眉根をぎゅうっと寄せた怖い顔に赤い頬で、

 

「噂で知っているかもしれんが──」

 

 そもそもなんで噂になってやがるのだと内心で歯噛みしつつ──

 

「その、俺は三日前にイヨに……きゅ、求婚され、た、訳だが──その事で、話を聞いてほしい」

 




遅れてすいませんでした。

レイモンさんって今の所敬語で喋ったシーンしか無いっぽいので、素に近い口調がどうなってるのか書いてて不安でした。ほぼ法国目線なので蒼薔薇のみなさんに対する当たりがきつくなってしまいました。

現役農民である私として必要な時に雨が降らない水が無い、いらない時に雨が降るといった天候は重大事であります。本当に。

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