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「伊代、伊代~? お母さんよ、お・か・あ・さ・ん。ママでも可よ、さあ呼んでみて~?」
「なんて可愛いんだろうなぁ、僕らの子は。パパだぞ。ぱ、ぱ!」
「あ、あー?」
これは夢だね、と空中からその光景を見降ろしつつ、篠田伊代は思った。
夢に決まっている。
狭いながらも暖かい思い出が一杯に詰まった我が家。最新の記憶にあるより若い父母の姿、弟と妹は影も形も見えず、床で腹這いになって両親を見上げている赤ん坊は伊代と呼ばれている。
伊代本人は赤ん坊の姿で其処にいるのに、伊代はこの光景を見た覚えがあった。確かホームビデオだったと思う。いつ頃見たのかは覚えていない。みんな映りたがって誰もカメラを持とうとしなかったので、棚に置いて録画したのだと聞いた、そんな話ばかり頭に残っている。
「まだ喋る訳ないでしょう、何か月だと思ってるの?」
「いや、でも、この子は早熟だからな。足腰もしっかりしてきた気がするし、そう遠からず歩いて喋るかもしれん」
「奉仕郎も早かったが、どうじゃろうのう。わし等が喋る言葉を聞いとる様な感じはするんじゃが。意味はまだ分かっとらんじゃろう」
「千鶴、そろそろ伊代はご飯の時間じゃないかねぇ」
伊代の父の名は篠田奉仕郎、母の名を篠田千鶴という。父の旧姓は柏だ。両親は二人とも一人っ子だったので、伊代は四人の祖父母にとって、双子の千代と美代が生まれるまではたった一人の孫であった。
思い出すまでも無く直ぐに分かる、母方の祖父が篠田巌、祖母が篠田千歳。父方の祖父は柏徹夫、祖母は柏美津子という。今でもしょっちゅう遊びに来てくれる。
家も近いのに何故同居しないのか昔から不思議だったのだ、と伊代は唐突に思い出した。
夢の中というのは不可思議なものである。時間も空間も人物像も伸び縮みしている様な気がして、輪郭も感覚も曖昧だ。
この厳しいご時世に篠田夫妻が三人もの子をもうけ、育んでいけたのは四人の祖父母の協力あってこそだろう。二人ともどうしても多忙な時は、四人の内誰かしらが時間を作って子供の面倒を見てくれていたのだ。
四人の祖父母も子供が独立したとはいえ、未だ現役で働き続ける労働者だったのだが。
伊代はその暖かい光景を見て、何故だか泣きそうになった。何故も何も、もう会えない両親祖父母と夢ででも会えた事が嬉しくて悲しくて泣きそうになってしまったに違いないのだが、今の本人には理由が分からなかった。
体は動かない。目線も動かせない。ただこの光景を見降ろしている。
伊代は何時でも何処でも元気が有り余っていて、相手にする大人の方が疲れてしまう様な無限の体力を持った子供だった。最もそれは多くの子供に言えることだったろうが。
とにかく昔から警戒心というモノが無く、誰にでも懐くので有名だった。家に来た人には無条件で遊んでほしがり、初めて会った親戚や来客でも直ぐ膝に座りたがったし、分かりもしないのに会話の輪に加わりたがった。
人目を引くのが赤ん坊のころから大好きだった。大人たちが自分を見ていないとなると、注目を集める為に歌いだしたり踊りだしたり賑やかだったそうだ。
ハイハイも歩くのも喋るのも滅多矢鱈と早かった。個人差の範疇ではあったらしいが、ちょっと聞かない位早いので、両親は心配して伊代を病院に連れて行ったりしたそうだ。
際限無き好奇心は留まる所を知らず、幼児用防護マスクも付けずに──そんなものを用意するまでも無く、幼い内は極力外に出すなというのが現代の常識だが──汚染物質舞い散る家の外に脱走しようとして何度も捕まったらしい。幼き伊代に取って家の外は輝く未知の惑星で、自分の足で其処を歩いてみたくて堪らなかったのだろう。
そんな思い出話を、伊代の両親はいつも嬉しそうに語ってくれた。
両親、祖父母、周囲の人々。溢れんばかりの愛情をこれでもかとばかりに注がれて育ったのが篠田伊代だった。
篠田千鶴は伊代にそっくりな母であった。正確には伊代が母にそっくりなのだが。子供頃の画像を見たことがあるが、未だ加齢の痕跡が現れていない母の姿は癖っ毛以外伊代と瓜二つだった。篠田三兄妹は皆母親似である。
篠田奉仕郎は強く優しく逞しく、父親の理想像として子供たちの憧れとなっている。幼馴染だった母に婚約を申し込んだのが小学生の時だというから凄い。両親ともに仕事は忙しく、家に帰ってくる頃には疲れ果てている筈なのに、伊代は一度として邪険に扱われた事など無かった。
伊代は生まれた時は大きかったのだ。
四千グラム近くの体重で生まれてきたと教えられた。その後もすくすく大きくなり、母方の祖父母は『この勢いだとあっという間に追い越されるなー』なんて言っていたらしい。しかしその身長も百五十センチちょっとで止まってしまった為、『早く追い越してくれよー』と言われるようになってしまった。
父方の祖父母は面白い人である。
伊代のユーモアのセンスはこの二人から遺伝したと言っても過言ではない。なにせ孫である伊代の誕生を機に『これからは名実ともに老人キャラで行く』と宣言して一人称と語尾を変えてしまったのであるから。
『子供の事から漫画みたいな喋り方する老人ってリアルにはいねぇよなって思ってたんだよ。いい機会だからより祖父っぽい祖父になれる様にキャラ変したるぜ』
『狂ったかジジイ』
『はあ? てめえの方が年上だろうが──じゃろうが? 孫の為にキャラ変も出来ない様な男とわしでは格が違うんじゃよ格が。つう訳でこの子の真の祖父はわしじゃから』
『なにが真の祖父だアニメオタクの漫画狂いが、大概いい歳だと言うのに未だに現役中二病とは恐れ入るわ』
『なんじゃてめえ喧嘩売っとんのか? ん? お? 言いたい事があるなら拳で聞いたるわ表に出ろジジイ……!』
『そうして私だけ出た所でドアに鍵かけるつもりだろうが、二度とその手には乗らんぞクソジジイ……!』
本当に面白い人たちだった。この騒動の横で父方の祖母は無言で携帯端末を操作し、『昔話 お婆さん 口調』で検索していたというのだから凄い。それ以来しれっとお婆さん口調で過ごしている。
幸せな思い出ばかり次々と蘇る。辛い事も悲しい事もあったけれど、伊代の人生はずっと幸せだった。どんな試練も家族が傍で支えてくれていた。だから何時でも頑張る事が出来た。
自慢の息子だと、自慢の孫だと言われたくて。褒められたくて、撫でて欲しくて、抱きしめて欲しくて。受ける愛情がただ暖かくて幸せだったから、その愛情に応えたくて一生懸命に学び、挑んだ。心の底から家族が好きだった。
全ては過去形で語られねばならない。
痛い。痛くて苦しい。耐え切れず、伊代は身体を折った。赤ん坊の自分はただ無垢に振舞っている。
弟と妹が生まれた日を、伊代は覚えている。初めて守るべきものを得た日。篠田家で常に愛され守られ一番大事に扱われていた少年より、もっと愛され守られ一番に大事に扱われるべき存在が生まれた日。伊代の幸せが加速した日。
小さな小さな弟妹を見た瞬間に勝る喜び人生で未だ無い。全国大会優勝よりも嬉しかった。傍らの父に掛けられた『今日からお兄ちゃんだぞ、伊代』という言葉。生涯忘れまい。
頭の天辺からつま先まで優しさと愛情に漬け込まれて生きてきた温室育ちの箱入り息子にとって、それは世界の変革にも等しい大事件であった。なにせ家族が増えたのである。
母のお腹が大きくなって行くのには戸惑ったし、お腹の中に弟か妹がいるのだと言われれば不思議に思ったし、弟と妹の二人がいるのだと分かった時は驚いた。母が病院に運ばれていったときは無性に不安で泣いた。結局、『弟と妹』なる存在について実感が湧いたのは、その姿を目で見てからであった。
それでも見た瞬間には愛情を感じていたのだから、人間とは不思議である。
この日から伊代は『僕はお兄ちゃんだから』が口癖となる。お兄ちゃんだから自分の事は自分でできるし、弟と妹の世話も自分がやる、と言い張った。
言うまでも無くこの時の伊代は小学校低学年生であり、自分の事だけならまだしも赤ん坊二人の面倒を完璧に見るなど不可能であった。『もうお兄ちゃんだから子供じゃない、大人だもの』等と主張する七歳児のお子様は微笑ましいが、時には空回りして仕事を増やす事もあった。そうして少しずつ、余人よりややゆっくり目のペースで大人になっていったのだ。
『いよー』
『いよー』
『そうだよ、伊代だよ! お母さんお父さん、千代と美代が喋った!』
『おお! 良かったなぁ伊代! よおし二人とも、パパだぞ、パパ』
『伊代もお世話頑張ったものね、二人ともちゃんと分かってるのよ。次はママよね、ま・ま』
『まぁま、ぱぁぱ』
『まぁま、ぱぁぱ』
『すごいよ、もう受け答えできてる。千代も美代も賢いなぁ』
『本当ねえ。あらそうだ、お義父さん達にも報告しないと』
『可愛いなぁ、僕の弟と妹はなんて可愛らしいんだろう』
伊代は幼くして脳まで含めて全身が運動神経で出来ていると評されるほどの卓越したスポーツマンであったが、その弟妹である千代と美代は兄の分まで補うほどの賢さをもって生まれてきた天才児であった。
きっかり一年で見計らったかのように喋りだし、歩き出した。半年もすると流暢な会話を熟し、三歳になる頃には兄を諭し、五歳にもなると肉体面での未熟さ以外では精神的学力的に大人と変わらない能力を備えていた。
『千代、美代、今時間ある? ちょっと分からない所があるんだけど』
『大丈夫だよ伊代、数学かな?』
『大体見当は付いてるわ伊代、英語もでしょう?』
『ちょっと忘れちゃっただけなんだけどね、まあ、ほんのちょっと分からなくて』
『良いんだよ伊代、僕と美代は頭脳』
『スポーツは伊代、人は助け合って生きていくんだもの。分からない事はなんでも千代と私に聞いて』
『ありがとう、千代も美代も僕にはもったいない位の弟妹だよ。……でもね、たまには名前じゃなくてお兄ちゃんって呼んでくれても』
『それは僕らの信条に反する』
『伊代は伊代だもの。奉仕郎さんや佳代さんと同じく、役柄なんかでは呼ばわる事の出来ない、私たちにとって唯一無二の存在なのよ』
『二人の言う事は難しくてカッコいいなぁ』
篠田家と柏家の大人は皆が寛容であり、無条件で子供たちを愛し、真っ直ぐに育つよう真摯な努力を怠らなかった。個性は他人への迷惑にならない限り常に肯定され、伊代も千代も美代ものびやかに育ったのだ。
想起するたび、現在の伊代は後悔に襲われる。
あんなにも愛してくれた家族に恩返しができただろうか。与えられるばかりで何も返せなかったのではないか。
もう会えない。薄々察し掛けては目を逸らしていた事実に、伊代は直面していた。
推論より、探求より、時間より、もっと直感的で故に誤魔化し様の無い理解。最も高い可能性として真っ先に考え付き、しかし嫌だから無視していた当たり前──『世界間移動等という馬鹿げた災害に巻き込まれて帰れる訳がない』。
何の根拠も無いと言えばそれまで。しかし、伊代に取っては胸の激痛がその証明であった。
幸せな過去である筈の光景がただただ遠く、苦しく、痛いのだ。それは別離の痛みに他ならなかった。現実ではなく夢だからこそ、感情が脳を騙す前に辛い現実と向き合うことが出来ていた。
伊代は幸せそうな家族と自分を見降ろして泣いた。泣くと苦しくなってもっと泣いた。悔いは無数にあり過ぎて数えきれない。
両親に孫の顔を見せてあげたかった。小さい頃の伊代がしてもらった様に、老いた祖父母を背負って一緒に歩きたかった。妹と弟の卒業式を見たかった。家族にしてもらった分だけ、家族にしてあげたかった。
機会は永遠に失われたのだ。
夢の中というのは不可思議なものである。時間も空間も人物像も伸び縮みしていて、輪郭も感覚も曖昧だ。当人の頭の中だけで起こる物事は、理屈を超えて否応ない理解を可能とする。
篠田伊代は理解した。問答無用の答えを飲み下した。
──ああ。
──お別れなんだ。いや、とっくの昔に別れてたんだ。もう一人立ちをしなければならないんだ。
十六歳まで養ってもらったのだ。
とっくに昔に就職して自分の食い扶持を稼がなければいけない歳なのに、事実小学校の頃に同級生だった者たちの殆どはそうして働いているのに。
──少し遅く、少し急になっただけなんだ。
こんなにも長く守ってもらったではないか。
中学校どころか高校まで通わせてくれた、普通よりずっと長く子供でいさせてくれた。すぐには悲しみは消えないけれど、悲しんでいれば家族が手を差し伸べ助けてくれた時間は、もう終わっているのだ。
もう自分で歩かなければならないのだ。
「──ぁ」
嗚咽を堪えて伊代は背筋を伸ばした。
涙で滲む視界の中、いつの間にか真っ直ぐ向き合っている両親、両祖父母、弟妹と対面する。
その姿は過去のものでは無くそれぞれ記憶にある限り最も新しい姿で、赤ん坊の伊代は消えていた。
「……恩返しが出来なくて、ごめんなさい。……今まで、ありがとうございました」
家族は静かに微笑んでいる。とても優しいいつもの笑顔。
篠田伊代は溢れる涙に顔を歪めながら、精一杯心を込めて礼をした。
「──さようなら」
そしてイヨ・シノンは覚醒した。
●
「おあぁああ!」
拳を振るう。意識の覚醒と同時に成されたその動作は、芯まで響く強烈な衝撃と甲高い金属音を生んだ。
見聞きするものの認識より、行動の方が速かった。発動するのは練技、呼吸によって魔力を取り入れ身体を強化する技術──筋力増強系である【マッスルベアー】。
短期の間だけ熊の筋力を身に宿したイヨは装甲の頑強さと筋力に身を任せ、再度振り下ろされるフランベルジュを強引に掴み、立ち上がりざま、
「るぅ、らぁ!」
衝動に任せた剛拳をデスナイトに叩き込んだ。明らかに先の一撃より威力が跳ね上がったその攻撃は、恐れを知らぬアンデッドをして警戒からの後退を選ばせる程のものであった。
立ち上がったその鎧姿からは血が滴っていた。ガド・スタックシオンの斬撃にすら耐えた防具【アーマー・オブ・ウォーモンガー】は一見すると汚れ以外に何の変化もない様に見える。事実は傷などついていない。防具は無事だ。
傷ついたのは中身の身体の方だ。例え鎧の上からでもぶん殴られれば身体は傷付く。斬撃は打撃と化して人体に刻まれる。
防御能力に偏重したデスナイトではなく他の三十五レベルモンスターが相手であったなら、イヨはあのまま押し切られて地面の赤い染みと化していたやもしれない。
──変形の走馬燈だろうか。
衝撃で気を失っていたのは多分、本当の本当に一瞬の事だろうとイヨは思った。振り下ろされたフランベルジュが振り上げられて、再度落ちてくるまでの一瞬の出来事なのだろうと。
いい夢だった、イヨは心からそう思う。
例えイヨの脳味噌の中で完結している出来事でも、家族と会えた。感謝と別れ、謝罪を告げる事も出来た。心の区切りとしてはもう十分。
幸せだった。誰よりも愛され慈しまれたという自覚、自信、自負がある。遥か故郷の家族を悲しませないよう、これからも幸せでありたい。より多くの人と共に。何処にいようと、自慢の孫だと、自慢の息子だと、自慢の兄だと誇ってもらえる自分でいたい。
そしてその為には、眼前の敵、憎悪の権化が如きアンデッドが著しく邪魔である。イヨの様な阿呆でも一目瞭然で分かるこれ以上ないほどはっきりした『害』だ。
「お前に一対一で勝てるとは思わない」
言葉など通じないだろうし、仮に言葉が通じた所で会話は成立しないだろうが。イヨは構え直し、僅かずつ距離を詰めて行く。【マッスルベアー】の効果はあと少し持つ。
生存を考慮するなら逃げるべき状況。逃げないまでも勝率を考えるなら、一旦引いて装備を整えるべき。確実を期すなら増援到着までは交戦しない方が良い。それほどの実力差。
「でも戦う」
しかし打って掛からぬ訳には行かない。逃げればイヨは間違いなく逃げられるだろう、デスナイトは十中八九追っては来ない。野良のアンデッドならいざ知らず、眼前の騎士は命令を受けた召喚モンスターであるから。
『デスナイト! 命令通りより多くの生きとし生けるものを殺しなさい! 死者の群れでこの都市を死の都に変えるのよ! 邪魔する者を──一人残さず殺しなさい!』。デスナイトが最後に受けた命令はこうである。
『多くの生きとし生けるものを殺せ』『死者の群れでこの都市を死の都に変えろ』『邪魔する者を一人残さず殺せ』。それが命令。
デスナイトは凡百の下位アンデッドとは桁が違う。人間と同等かそれ以上の知能を持ち、三十五レベル相応に戦闘に秀で、召喚モンスターであるが故に主命を違わない。如何に生命を憎悪するアンデッドであろうと、私怨に走る事は無いのだ。
デスナイトはイヨが憎くて戦っている訳ではない。『積極的に打ち掛かってきて来て邪魔だから』戦っているのだ。そうでなければ目もくれずに走り去っていく事だろう。
イヨの様な半端に強くて殺しづらい人間を相手にする必要などない。『より多くの人間を殺しこの都市を死の都に変える』なら、そこら中に幾らでもいる一般人を惨殺した方が何百倍も効率が良いに決まっている。
『邪魔する者は殺せ』と命じられたし、実際問題放置しておけるほど弱くも遅くもないから、本来の目的を一刻も早く達成するために、デスナイトは襲ってくるイヨと戦っているのだ。
イヨが逃げるなら、もしくは積極的攻勢を仕掛けてこないなら、背を向けて走り出すに決まっている。そしていそいそと心置きなく、主命と本能の欲求を兼ねた楽しい大虐殺に勤しむ。
──ふざけるな、許して置けるか。
例えばこれが百レベルのモンスター相手だったら、イヨは逃げたと思う。全力で走りながら、『みんな逃げろ』と叫びながら一目散に逃げただろう。まず確実に逃げられず死ぬとしても、最も自他の生存確率の高い選択肢として逃走を選んだだろう。
だって百レベルを前にしたら三十レベルも一レベルも大差ない。十分の一秒掛かって死ぬか五分の一秒掛かって死ぬか程度の差である。多分殴ってもダメージが一切通らないので本当に逃げるしかない。
でも眼前にいるのは三十五レベルのモンスターだ。イヨは三十レベルだ。勝ち目は低いが無い訳ではない。イヨが頑張れば数万人の命が救える。自分一人と数万。やらぬ訳はいくか。
そう。
たとえ相性が最悪で、かつ武器を装備していなくても。装備品が普段用のままでも。高確率で死ぬとしても。骨の五、六十本、手足の五本や六本失う位の怪我で済んだら御の字でも。
逃げる等という選択肢、イヨが取る訳もない。
目の前の高レベルな腐乱死体を殴り倒して、そもそもの元凶である吸血鬼を討伐する。自由意志と憎悪の下にテロをやらかす自立した疫病なぞ駆除以外になにをしろと言うのか。
心臓に杭を刺して銀の武器でバラバラにして炎で燃やし、灰を聖水と香油で清めた上に聖別を施して一週間神殿に安置した後、各部位ごと別々にそれぞれ異なる水源から流れ出て一度も交わらない川に灰を流してやるのだ。
未来永劫間違っても復活など出来ない様に。
「篠田家の長子にして長男を舐めるな……!」
イヨは雄叫びと共に殴り掛かった。
●
建物の倒壊をも引き起すほどの激烈な戦闘、その馬鹿げた騒音。多少奥まった、人の賑わいから見放されたような地区の小道とはいえ、三十万都市である公都の中にあって目立たない訳がない。
事態は速やかに人目に晒される事となった。
公都の治安を守る警備兵がその異常を察知したのは、事態発生と殆ど同時。遅めに見ても数分以内である。明らかに日常で発生する筈のない音がしたからだ。
彼らの職務上、怒声や叫び声は良く聞く。如何に平和な都市だろうと十万単位の人間が暮らしていれば、諍いや取っ組み合い、剰え刃傷沙汰とて全体においては珍しい物ではないのだ。
酔っ払いやチンピラの喧嘩の制止制圧、夫婦喧嘩の仲裁等は警備兵ならば誰しも職務上心得たもの。勢い余ってそこら辺のものを投げつけたり壊したりするのも日常茶飯事。故に、破壊音も耳慣れている。大人しい娘さんなら『きゃあ!』とでも叫ぶだろうが、警備兵は『はいはいどうしたの、ちょっと駄目だよこんな往来で喧嘩はー』と来たもんである。チンピラ相手だともう少し荒っぽい事もある。
今回は違った。
皿が割れる音とか、骨が折れる音とは全くかけ離れたその音。地を伝って僅かに身を震わせる振動。巡回中の警備兵たちは反射的に音のした方向に向き直り、そして走り出した。
考えるまでも無く異常事態。骨にまで染みた職責が、判断より早い行動を選択していた。老朽化した建物が倒壊したのか──何にせよ一早く現場に到着し、状況を把握。適切な対応を取らねばならない事だけは確かだ。
近づくにつれ大きくなり、続けて響く異音。警備兵たちは程なく、その音源が先の惨殺事件の現場周辺から聞こえている事に気付く。そして、その元凶が建物の倒壊等ではない事も。
離れていても魂を揺るがせる怨嗟の咆哮。周囲に舞う土埃。そして桁外れた膂力が起こす激しい金属音。人知を超えた破壊の音色。
「ま、まさか」
──戦闘? 公都で?
それも、化け物と化け物のぶつかり合いとでも評すべき逸脱した次元でのそれ。未だ何棟の建造物を挟んでいる筈だが、もう間違えようがない。
まるで城門に破城槌を打ち付けているような規模の剣音。騎兵と騎兵の正面衝突が如き大気の震えが鼓膜に叩きつけられ、警備兵としての責任感すら今にも吹き飛びそうだった。
仮にも兵を名乗る職業に就きながら、都市内での治安維持を職務とする彼らはモンスターとの戦闘経験がほぼ無い。墓場で自然に湧く低級アンデッドや下水処理施設などの地下空間から時たま出没するジャイアントラット【巨大鼠】が精々である。殆どの場合難度は十以下程度。実体験として想起できる化け物、遭遇しえる脅威など其処までなのだ。
──どんな怪物が暴れたらこんな。
それでも知識はある。知識しかない。人の二倍はある人食いのモンスター。小屋ほどもある巨大な昆虫。剣も矢も通らないと言われるほど堅牢な火吹きの怪物。モンスター専門の傭兵である冒険者の死亡率の高さは有名である。
街中にそんな魔物が湧く。街中でそんな魔物が暴れる。それは紛れもなく想定外の脅威、公都の安全を脅かす存在であり自分たちが──どうにかしなければならないモノであった。
鈍りそうになる足を叱咤して走る。有事の際に役立たなくてなんの為の兵なのか、そんな思いで。最も若年の一人を第一報の伝令として走らせ、小隊長を筆頭として残りの三人が先へと進む。
不思議と人がいないのは、もう逃げたからか死んだからか。元々人の少ない地区だが、先日の惨殺事件もあって尚の事人気が失せているのだろう。
「此処だ、全員覚悟を決めろ!」
小隊長の勇ましい言葉に奮起し曲がり角を曲がると、建物が幾つか消え、細い路地だった筈の場所は瓦礫が山を成す広場になっていた。切り崩された建物が崩壊したのだ。
そして、それすら思考の埒外に飛んで行ってしまう程の桁外れた化け物がいた。
心が折れる、という表現がある。正にそれが起こった。
覚悟は決まっていた。建物が倒壊する音も、目の前の存在の絶叫さえ聞いていた。想像し得る限りの『想像も付かない強いモンスター』を想定し、それを相手に職務を果たす所存であった。
まずは一当てとか、それが出来ない様なら外見から出来る限りの情報を見て取り、上へと伝えて対策を練る──そんな策を練っていた。自分たちが強くない事など百も承知である。それでも出来る事が在る筈で、やらねばならぬ立場なのだ。
三名の警備兵はその人生で初めて、死と対峙した。
絶対の存在として眼前に屹立する断絶、終末を前にし──心が生を諦めた。覚え悟ると書いて覚悟。彼らは瞬時に死を覚え、悟ったのだ。
「オオオァァァアアアアアアー!!」
腐った死体、動く死体などとうに見慣れた筈なのに。
こんなにも強大で、超大な暴力を無理矢理人の形に押し込んだかのような、押し込めきれずに膨らんで歪んだかのようなアンデッドはお伽噺にすら聞いた事が無い。
最強格のアンデッドと言えばエルダーリッチ、スケリトルドラゴン。少々格は落ちるがスケルトン・ウォリアー等も強い。
どれ一つとして実際に見た事は無いけども、本能で確信できる。その三者よりももっとずっと、目の前の存在──形容するならそう、死の騎士だろうか。
こいつの方がずっと強いんだろうなと、警備兵たちは素直にそう思った。
先程と同じ、精々近づいた分だけ声量が増したというだけの、同じ怨嗟の声である筈。さっきはこれを聞いてもなお前に進めた筈。なのに今は凍り付いたかの如く足は動かず、口は浅く速い呼吸を阿呆の様に繰り返すばかり。武器を構えた手は力なく垂れさがる。
知らないという事は幸せで、そしてとても不幸な事なのだ、と三人は三人とも実感した。
こんな奴がこの世にいるなんて知らなかったから、俺たち戦おうなんて気になって走ってこられたのだろうな、と。
「ぁ……」
誰の嗚咽だっただろうか。
一瞬が一秒にも一分にも膨らむ死に際の集中力。死を回避するために起こる筈のその現象は、警備兵たちにとって呪いに等しかった。何故なら恐るべき死の騎士が、彼らを目指して走ってきたからである。
つい一瞬前まで背を向けて何かと戦っていたのに──後ろ姿ですら死を覚悟させるのには十分過ぎるものだったのだ──前触れなく踵を返し、彼らを抹殺すべく疾走を開始したからである。眼窩の仄暗い焔が、哀れな警備兵たちを獲物と定めたのだ。
「ひっ……」
──逃げなきゃ。
心も体も義務感も超えた本能の命令を受け、三人の身体がやっと動いた。間延びした時間の中で振り返り、一歩足を踏み出し、走り出す──走り出した時には、彼我の距離は半分以上埋まっていた。
まるで地鳴りの様な足音。瞬くより早く接近してくる。やっと三歩目を踏み出した時、背後で風切り音がした。武器を振り上げたのだと直感的に分かった。死の騎士の影は完全に三人を覆っていた。
「させるかぁあ!」
轟音と共に影は吹き飛んだ。訳も分からず涙を零しながら走り続け、やっと振り返ると、其処には血みどろの小さな全身鎧が躍動していた。
あれほど絶対的に見えた死の騎士に単身打ち掛かり、攻め立て、追い込んでいる。比べ物にならない位小さな体で、同じ位に大きな威風を放って拳と剣を交わしている。
「──い」
直接の面識は無いが聞き覚えがある。かの老英雄と互角に渡り合ったとされる人物。多少なりとも武に関わるなら公都で知らぬ者はいない、突如として公国冒険者界に現れた超新星。
恐ろしく重厚な鈍色の全身鎧。装甲が三つ編みごと頭部を覆っている為、後頭部には鉄の尾が生えたよう。額には刀剣が如き双角、察せられる装備者の身長は子供か小柄な女性ほど。顔など見えずとも見間違えようが無い。
何よりその、常人の眼では追う事すら難しい超級の戦闘力!
「──イヨ・シノンか!?」
「早く逃げて下さい……!」
こいつは、と小さな鎧姿は続けた。呼吸が乱したせいか、頭部に痛打を喰らって体勢が傾ぐ。それを力尽くで挽回しながら血を吐く様な声音で、
「──殺した人をアンデッドにする能力がある、逃げて下さい!」
「なっ」
轟音、轟音。また轟音。先程から響く戦闘音は彼の奮戦によるものだったのだ。滴る血、赤く染められた鎧。どんな者でも一目で死闘と分かる戦装束。デスナイトの醸す死の気配に目が眩んでいた。それに、無意識のうちに化け物同士の戦いだと思い込んでいたのだ。
「お……おおおお! すげえ! 次代の英雄、次のアダマンタイト……本物だ!」
「やれ、やってくれぇ! そんなアンデッドが人の世界に……この世にいて良い訳がねぇ、倒してくれー!」
「お、お前らっ」
逃れようが無い筈だった死から一転して生。極限の状況から救われた反動。若年の警備兵二名は完全に熱狂していた。このあまりに劇的な展開に。
自分たちがまるで物語の登場人物の様に、英雄の奮戦を見届ける役割を四大神から授かったのだ、とまで思ってしまったのだ。
「この馬鹿ども、引け! 今の言葉を聞いただろう、走るぞ!」
年かさの小隊長が無理矢理に引っ張ると、二人は何故そんな事をと言わんばかりに、
「勝てますよ! 一方的に押してます、あの人──いや、あの方なら勝てる!」
「小隊長も見て下さい! あれが、あれが英雄なんだ……! 俺たち、伝説の一幕を」
熱に浮かされた目。澄み切ったその瞳は、お伽噺の英雄に憧れる子供のモノ。生き物の、人間の本能としてある──強者に憧れ、強者に惹かれた者の眼だった。あの小さな冒険者が振るう剛拳に、奮戦に憧れている。興奮している。死からの反動故に。
小隊長はそんな二人の顔面を続けざまに殴り付けた。警備兵の職務は公都の治安維持であって、冒険者の応援でも足手まといでも無い、と。
「この大馬鹿ども! あの方は逃げてくれと言っていただろうが! まず走れ!」
たたらを踏んで引っ張られていく若手二人に、小隊長が続けて叫ぶ。
「その英雄を、命の恩人を無駄死にさせる気か! 人間があの出血で長く持つと思うか、あれだけのアンデッドがただやられていると思えるか! 俺たちが後ろにいるから、命を削って無茶な攻めをしているんだろうが!」
小隊長は、別に若手の二人と比べて強い訳ではない。長らく警備兵をやっている分だけより訓練を積んでいるので、技量面に関しては一枚か二枚上手だろう。しかし、単純な筋力や持久力なら若手の方が上である。
総合としては同等かやや強い程度。冒険者や騎士と比べてしまえば劣る事に違いはない。弱く年を重ねた、真面目が取り柄の男。
だからこそ熱に浮かされず、英雄譚の輝かしさに惑わず。異常に眩まされず。非常な事態に当たり前を熟す。
一見一方的に攻め立てている満身創痍の人間イヨ・シノンと、一見一方的に攻め立てられている殆ど無傷のアンデッド。
外見上如何に優勢に見えた所で、圧倒的に劣勢なのは前者に決まっている。アンデッドが疲れ知らずの痛み知らずである事など警備兵でなくとも知っているし、その二つの利点が長期戦に際してどれだけ有利かなど子供でも分かる。
ようやく自分の足で走り出した若手を叱咤しながら、警備兵たちは元来た道を戻り始めた。
「死ぬ気で走れ! 伝令だ、本部には俺が行く、お前たちは冒険者組合に走れ! ミスリル級やオリハルコン級のチームを急派する様伝えるんだ! 道中会う者皆に伝えろ、逃げろ、絶対に近づくなと!」
伝説に語られるだろう桁外れのアンデッド。アダマンタイト級相当と噂される高位冒険者が苦戦する相手。そんな存在を滅ぼすのに、警備兵や騎士が何人いた所で屍の山を築くだけだ。そしてその山を成す屍は、地を覆う不死者の軍勢と化す。数の力が役に立たない所か、相手を利する要素となる。
──殺した者をアンデッドにする能力を持つ、伝説に語られるようなアンデッド?
最悪にも程がある、最悪中の最悪たる存在だ。自由にすればどれだけ被害が拡大するか想像も付かない。
「はっ、し、しかし」
「良いから行け! シノン殿が倒れればあの化け物は我が物顔で人を殺しだすぞ! 公都が滅ぶかどうかの瀬戸際だ!」
応援の派遣と同じくらいに、周辺一帯からの住民避難も急がねばならない。今でも建物の倒壊や戦闘音に脅かされて逃げているだろうが、もっともっと広範囲で住民を退避させるべきであった。人命救助の意味でも、事態悪化を防ぐ意味でも。
この区画から──いや、時間の許す限りにおいて、あの化け物が打倒されるまで、範囲を限定せずに出来る限り広範囲かつ徹底的に避難をさせるべきだ。
限られた精鋭以外、誰も近寄らせてはならない。
「俺たちの走りが何千何万の人命を左右すると思え! 一分一秒でも早く走るんだ!」
先に走らせた第一報を受けて、既に本部は動き始めている筈。其処に第二報である小隊長がより詳細な情報を持ち込めば、避難の方は──其処まで大規模な住民避難となると前例も想定も無いので、大きな混乱が予想されるが──可能。
公城への情報伝達も行われている筈。後は上が判断するだろう。
別れて冒険者組合へと走っていく二人の背中を見届け、自身も本部へ全力で駆けながら男は思う。問題は、冒険者がどれだけ早く来られるか。そして、
──シノン殿がどれだけ持つかだ。
あのアンデッドと戦う。一対一で。既に鎧から血が滴り落ちるほどの傷を負っているのに。
死の騎士もイヨ・シノンも、小隊長からみれば雲の上の強者である。高すぎてどれだけ差があるのか分からない天蓋の存在。しかし、生ある者の敵対者たるアンデッドという存在故かも知れないが、小隊長には死の騎士の方が強く、よりおぞましく思えた。
長引けば長引くほど人間であるイヨ・シノンが不利だ。
如何に英雄的な実力者とは言え、伝説的な化け物相手にどれだけ戦えるだろうか?
もし死ねば。
──あの英雄がアンデッドに変じて、敵として立ちはだかるのか。
男はその想像を頭を振り払って打ち消した。
小隊長に出来る事は、声を発する労さえ惜しんでただただ早く走る事だけだった。
デスナイトとの戦いは前中後もしくは前編後編に分けます。
守られ、育まれたお陰で強くなったイヨの精神的一人立ちの時という事で。
此処数か月でパソコンが三回も壊れましたが、ちゃんと直してもらいました。書き続けます。