ナザリックへと消えた英雄のお話   作:柴田豊丸

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2015年10月15日
矛盾解消の為の設定変更に伴い、本文の一部を改変しました。





チュートリアル・ゴブリンズと狩人親子

「何処とも知れない場所で一人で途方に暮れるよりはマシだよ!」

 

 叫び、イヨは走る。人に会えれば何かが分かるかもしれない。この事態の解決法とまではいかなくても、何が起きたのか分かるかもしれない。

 身体能力に任せて難路を踏破する事、体感時間で三分。舗装路とは全く違った森の地面が煩わしく、思う様に進めない。少しずつ大きくなっていく声の具体的な内容を、イヨの耳は捉えた。

 

「助けて! 誰か、誰か助けてくれ!」

 

 それは助けを求める声だった。裏返り、疲労と絶望の滲む窮状を訴える叫びだった。そしてそれを塗りつぶす様に、汚らしい濁った咆え声が森に木霊した。

 

 それを聞いた瞬間、イヨの脳内から悩みが消える。自分の置かれた状況を一時忘れる。

 

 ──助けを求めてる、速く行かなければ。

 

 それだけで頭がいっぱいになる。

 

 今やすぐそばで響く声。一際大きい樹木の根っこを乗り越えた瞬間、それはイヨの眼に飛び込んで来た。

 

「助けてくれ! 誰か、せめてこの子だけでも……誰か!」

「にがすな! かこめ!」

「えもノ、にひキ! クウ!」

「こロす!」

 

 小さな盆地の様になっている場所の中央で、血に塗れた少年を背負った中年の男性を、醜悪な面貌をした三人──三体と表現すべきだろうか──の小人が襲っていた。

 

 中年の男性と背負われた少年は動きやすそうな革の服を着ていて、腰にはポーチを付けている。血に塗れた少年だけでなく、中年男性の方も所々に傷を負っている様で、身体のあちこちから出血している。息は大きく乱れ、青くなった顔色は汗でびっしょりだった。

 

 対して、三体のゴブリン達は傷など負っていない。人間の子供並の背丈と細い四肢、対照的に突き出た腹。醜い顔付き。防具らしきものは身に着けていなく、腰にはボロ布、手には錆が浮いて刃の欠けた剣と粗末な棍棒。

 

 ──人間と、それを襲う小鬼【ゴブリン】だ。

 

「やめろ!」

 

 イヨの叫びに弾かれた様に、四人がこちらを見た。背負われた少年は最早意識が無いのか、ぴくりとも反応しない。中年男性の眼には、驚きが、ついで希望が宿る。対して、小鬼たちの眼には苛立ちと殺気が走った。

 

「──ふたりいけ! ころせ!」

「おオ!」

「にくガふエた!」

 

 三体のゴブリンの内二体がイヨに向けて走り出す。イヨもそれに倍する速度で盆地に入り、間合いを詰めながら両拳を握り締める。腕甲を覆う金属の装甲がぎしりと鳴った。

 

「僕が行くまで耐えてください!」

 

 男性と意識の無い少年に向けて叫び、唾を飛ばしながら雄叫びを上げていたゴブリンの顔面を殴りつける。鼻骨が砕け、前歯がすっ飛ぶのが手応えで分かった。ゴブリンはまるで猪の突進を受けたかのように、鼻血と前歯を撒き散らしながら吹っ飛んだ。余りの速度の差に自分が殴られた事すら理解できず、地面に落下して意識を失った。

 

 ──弱い。あと二体。

 

 瞬く間に片方が倒された事にもう一体のゴブリンが濁った黄色い目を見開く──より僅かに速く、流れる様にイヨの拳が鳩尾に突き込まれ、こちらも意識を失う。

 

 ──あと一体。

 

「ぎぃ! つよい!?」

 

 まさか目の前の獲物を始末するより速くに二体の仲間がやられてしまうとは思わなかったのだろう、残ったゴブリンは男性と少年を諦め、イヨに背を向けて逃走を開始した──が、遅い。

 

「いっ……ぎぃいいぃっ!?」

 

 ゴブリンが走り出すとほぼ同時、追い付いたイヨがその首根っこを引っ掴んで地面に引きずり倒し、その貧弱な胸板を踏みつけて、小さく醜悪な顔を覗き込んだ。

 

「答えろ! お前達は僕と同じユグドラシルのプレイヤーか!? だとしたらどうして人を襲った!」

 

 それは、二人と三体を見た瞬間に浮かんだイヨの疑問だ。

 

 ここが現実化したユグドラシルなのだとしたら、そこにゴブリンという亜人種のモンスターがいるのも、人が襲われているのも納得した。しかし、ユグドラシルにおいてゴブリン等の亜人種やモンスター以外の何物にも見えない異形種は、プレイヤーが選択できる種族としても存在した。

 

 初期のゴブリンは種族としては最弱に近く、その分レベルアップも早いため、あっという間にもっと上位の種族に進んでしまう人が大半だった。しかし、今日はユグドラシルのサービス最終日だった為、元々は亜人種でプレイしていたが引退してしまった人などが、新たなアカウントをとって最初期種族であるゴブリンでログインして来ていた場合を考え付いたのだ。

 

 もしも気が動転して血迷っただけプレイヤーだったらと云う可能性を捨て切れなかったからこそ、イヨは気絶で済ませたのだが、その可能性が余りに低い事も当然考えが及んでいる。

 

 引退した人が戻ってきたが為の最初期最弱種族のゴブリンだった。それ自体は有り得たとしても、そんな稀有な人物が三人も揃って血迷って人を襲うだろうか。しかも、異常事態が発生してから二十分も経っていないのに。

 

 人間の身体とあまりに異なるゴブリンとなってしまったショックで錯乱するなら、イヨにも気持ちは分からなくもない。が、それにしたって事態が頭に染み込むまでの時間が必要だろう。声質や、明瞭ではない発音の関係で非常に聞き取り辛かったが、ゴブリンが三人とも知性に欠けた殺意溢れる言葉を吐いていたのもそうだ。初期装備でも有り得ないほど貧弱で汚らしい恰好もそう。

 

 三体のゴブリンがプレイヤーである確率は、途轍もなく低いと云えた。それでも、なにもかもが不明な事態の中では絶対とは言い切れなかった為に生かした。さて、回答は如何に──

 

「お、おれたち、ゴフのもり、イグルぶぞくのごぶりん! ゆ、ゆぐどら? ぷれーあ? ちがう!」

 

 顔面に渾身の踏み付けを入れる。頭蓋骨が割れ、ゴブリンは絶命した。そのまま二体のゴブリンの元まで走って行くと、腹を殴りつけた方は意識を取り戻していたが、身体が痺れて動かない様だった。

 

 イヨの装備している腕甲の毒による状態異常だ。現在のイヨのレベルに合った狩場のモンスターなら、どんなに耐性の無いモンスターでも十回は殴らないと状態異常には出来ないのだが、レベルの差があり過ぎたようだ。

 

 それぞれに止めを刺す。ゲームならば得られた経験値が視界に表示されたり、データクリスタルが手に入ったりするのだが、何も起こらない。死体も消えたりはしなかった。今の世界がゲームでは無い事をより実感させられる。

 

「──大丈夫ですか!?」

「あ、ありがとうございます、冒険者のお方、でしょうか? お蔭で助かりました」

 

 急いで男性と少年に駆け寄る。間近で見た男性は白人風の──それを言ったらイヨだって今は金の瞳に白金の髪をしているが──顔付きで、こんな事態の後でさえなかったら、鋭い目付きが特徴的な、油断の無い緊張感を纏った顔つきだったんだろうなと察せられる雰囲気の容貌だった。今の男性は疲れ切った顔に、九死に一生を得た事に安堵した表情を浮かべている。

 

 そしてその感謝の言葉に、イヨは内心でほんの少しだけ落胆した。イヨとゴブリンとのやり取りをすぐ近くで聞いていたのに、出た言葉は冒険者。望み薄だと分かってはいたが、この人もプレイヤーでは無いらしい。

 

「いいんです、お礼なんて。それより、お子さんの怪我の具合は……?」

 

 促され、父親は背負っていた少年を地面に横たえる。細く、しかし鍛えられた身体をしていた。左の脇腹に深い刺し傷があり、それ以外にも全身、特に背中に多くの傷を負っていて、その全てから血が流れ出ている。父親似の、しかしより繊細な輪郭をした顔は、素人目にも分かるくらいに青白い。父親の顔が険しく歪む。

 

「……どうですか?」

「……悪いです。申し訳ありませんが、少し手を貸してくださいませんか。村に運ぶまで前に、出来る限りの応急処置をしないといけません」

 

 リグナード・ルードルットと名乗った男性の要請に、イヨは真摯な表情で頷いた。

 

「勿論です。指示を下さい」

 

 言いつつ、イヨは腕甲を外した。ユグドラシルではフレンドリーファイアが無効化されていたし、通常の手段ではクエストやイベントの進行に必要なNPCを害する事も出来なかったが、現実ではそんな特別扱いはあり得ない。ただでさえ危篤状態で身体が弱っている怪我人に鉱毒など流し込んだら、それこそ止めになりかねないからだ。

 

 リグナードは自らの子供──リーシャと云うらしく、イヨは名を聞くまで気付かなかったが、女の子だった様だ──の血に濡れた革服を脱がしていく。肌と共に惨たらしい傷口が露わになる。イヨは生まれて初めて見る刀傷に息を呑み、リグナードは眉を顰めた。それでも手先は止まる事は無く、ポーチから取り出した小瓶と包帯をイヨに手渡し、

 

「この軟膏を傷口に塗って、上から包帯を巻いてください。あまりきつく巻き過ぎないように、気を付けてお願いします」

「は、はい!」

 

 小瓶と包帯を受け取る時、イヨは自分の手が震えているのに気が付いた。戦っている時はこんな情けない事にはならなかったのに、と臍を噛むが、今は兎に角足を引っ張らない様にしなければいけない。その一念で必死に手を動かす。

 

 本当なら傷口を清浄な水で洗浄しなければいけないのだが、リグナードとリーシャは逃げる途中でポーチ以外の荷物を全て捨ててきてしまったらしい。村にさえ辿り着ければとの思いからだったが、今となってはその判断が裏目に出てしまったのだ。

 

「……酷い」

「そ、そんなにですか?」

 

 押し殺した、呟くような声だった。リグナードは比較的浅い傷をイヨに任せ、筋肉や内臓に達している可能性のある様な深い傷の処置をしていたが、

 

「……脇腹の傷以外はどうにかなりますが、骨も何本か折れていますし……それに、ここに来るまでに血を流し過ぎた様で、そちらの方が危ないかも知れません。どちらにせよ、時間が……」

 

 喋る間にも、リーシャの容体は悪化している。リグナードとイヨの処置も勿論全力で進めてはいるが、容体悪化の速度に追いつくことは出来ないでいた。

 

「時間、が……」

 

 リグナードの震えた声音に、イヨも涙が出そうだった。実の娘が目の前でどんどん死に近づいて行くなど、親としては絶望的な心境の筈だ。それでも気が折れることなく応急処置を続けていくリグナードの精神の力は、イヨなどより遥かに強い。

 

「村まで持てば……いや、村まで持ったとして何が出来る……? 特別な事など何もしてやれない……施療師でもこれ程の重傷は……この子は……もう……」

 

 イヨは目の前で起きていることが信じられなかった。全身に刀傷や刺し傷を負った瀕死の少女と、その少女に時代劇でしか見たことが無いような原始的な治療しか施してあげられない父親と自分という現実が。

 

 ──これがこの世界の普通なのか。たったこれだけの負傷で人間が死んでしまうのか。

 

 体内のナノマシンが血液の流出を防ぐ為に傷口周囲の血管を閉鎖する事も無く、ジェル状の人工万能細胞を封入した応急医療パックも無いという事は、ここまで死を身近にするのか。

 

 イヨは小学生のころ、道場の帰り道でリニアカーに撥ねられた事がある。伊代本人は事故のショックで覚えていないが、首や頭に腰などの骨が何本も折れ、幾つかの内臓が破裂するほどの事故だったそうだ。怪我の度合いで言えばリーシャよりずっと重かったはずだ。

 

 それでも、ナノテクノロジーを用いた通常の再生医療を受け、三週間後には退院する事が出来た。それも最後の一週間は念の為にという意味合いが強く、イヨはベッドの上で暇を持て余していたほどだ。退院したその日に、なまり切った身体を億劫に感じながら学校に向かったのを覚えている。

 

 即死さえしなければナノマシンが命を繋いでくれる。生きてさえいれば大抵の負傷は病院で治せる。伊代が知っている現実とはそういうもので、人の命とは、手厚く守られなければならないものだった。

 

 なのに何故、たかがこれだけの怪我で人が死ななければいけないのか。

 

「……死なないで……死なないで!」

 

 溢れる涙が熱かった。兎に角胸が苦しかった。十六年生きてきて、目の前で命の灯火が消えようとしている現場に直面したことなど、一度もない。

 

 例えば今目の前にこの子を殺そうとしているモンスターがいて、そいつと戦うなら何も怖くはなかった。現実では幼い頃から格闘技を習っていたし、試合なら何千何万とやった事がある。ユグドラシルでもずっと戦っていた。現実では有り得ないような大きな怪物に、同じく現実では有り得ないような力で挑みかかって行った。

 

 今の篠田伊代はイヨの身体を、ユグドラシルでの力を持っている。人の生命を守る為に戦うなら、どんな怪物とだって戦える。事実ゴブリンと戦った。道場で習い、しかし一度も実践した事の無かった技、殺すための技を振った。殺されそうだった二人を守る事が出来た。

 

 しかし、怪我からどうやって人を守れというのだ。どんなに速く走れても、どんなに力が強くても、それで人の傷を癒す事は出来ない。リグナードが言うには、リーシャは村まで持つかどうかも分からず、持ったとしてもこれ以上の事はしてあげられないと云う。

 

 恐らく、服装や応急処置のやり方からいって、この世界の科学技術は数百年以上も前のレベルだ。ナノマシンはおろか抗生物質さえも無いかと思われた。そんな世界で、こんな状況で、死にかかった人間を救うにはそれこそ神様の奇跡か魔法でも──魔法。

 

「……回復魔法の扱える神官様か、治癒のポーションでもなければ……」

「──それです!」

 

 イヨは叫んだ。今の自分は──医者でも神でも無い篠田伊代では無い。ゲームが現実になる異常事態、それに次ぐ命の危機という緊急事態のせいで今まで気付かなかったのが、

 

「僕は、イヨだ!」

 

 ならば、魔法が使える筈だ。魔法拳士に憧れて気紛れで取った、たった一レベルの魔法職──クレリックで使える三つの魔法の中に、第一位階回復魔法である〈ヒール・ウォーター/治癒の清水〉がある。

 回復量においては〈キュア・ウーンズ/軽傷治癒〉に劣る上、作成した水を飲まねば──勿論飲むような動作をするだけで、ゲーム中で実際に液体を飲む訳では無い──効果が表れないという特性から、ユグドラシルではあまり役に立たない魔法とされていた。

 

 何せ戦闘の最中に暢気に水を呷る暇などないし、作成した水は三分立てば消えてしまうので、あらかじめ作って溜めておく事も出来ないのだ。

 

 ただしこれはゲームのシステムで云う食事に該当するので、長時間の絶食によるペナルティを多少なりとも回避できるのが利点と云えば利点か。しかしそれだって飲食不要の異形種などには関係が無いものだし、コックなどの職業を持ったプレイヤーに料理を作ってもらった方がバフ効果もついてお得である。

 

 利点が少なく使い辛い、微妙な魔法。イヨもほぼRP目的で取っただけだった。

 しかし今この時においては、目の前の少女を救う手段になり得る。

 

「魔法で治せば、リーシャさんを助けられる!」

 

 突如として大声で自己紹介をした命の恩人をリグナードは一体どうしたんだという目で見たが、続く発言の内容に、大声で叫んだ。

 

「回復魔法を扱える神官様に心当たりが!? 同じパーティーの方ですか!? 今この森の何処かにいらっしゃるんですか、連絡手段は──」

「僕に仲間はいません。でも、僕が治します! ……治して見せます!」

 

 

 

 

「僕に仲間はいません。でも、僕が治します! ……治して見せます!」

 

 眼に涙を零しつつも決死の表情で叫んだイヨの言葉に、リグナードは混乱した。

 恐るべき敏捷さと外見からは想像も出来ない膂力でゴブリン三体をあっという間に葬ったこの小さな救い主は、魔法も使えるのだろうか、と。

 

 イヨと名乗ったこの少女──イヨのアバターは現実のおける当人の外見をスキャンした上に髪や瞳の色を変えただけのものであり、性別は紛れも無く男性なのだが、リグナードの目にはそう映った──は自らの娘よりも幼く見える為、十五歳を越えてはいないだろう。

 

 正直、リグナードの持つ常識では考え辛い事だ。魔法とは、天性の才覚を生まれ持ったごく一部の人間だけが習得できるもの。そして、その天才を以てしても、長い歳月を魔法一筋に捧げ、血の滲むような努力をしてようやく扱えるようになるものの筈だ。

 

 以前に村を訪れた冒険者の一員であった中年の魔法使いは、第一位階という初歩の初歩の魔法を修めるのに十年近い年月が掛かったと話していたほどだ。そして、今を以てしても第二位階魔法までが自分の限界だとも。

 物心ついた時から全てを魔法の習得に捧げ、更には冒険者となって実戦の中で練磨し続けた人物をして、凡人の自分ではこれより上の領域には進めないだろうと言わしめる。それが魔法だ。

 

 素人目に見てもイヨは強い。

 

 身を包む武具も身体能力も、技術も。過去にリグナードが見たどの冒険者と比べても同等以上だ。おそらく、相手がゴブリンどころかオーガ【人喰い大鬼】であっても難なく自分たちを助け出す事が出来ただろう。

 

 ──幼いという事は、生きてきた年月が短いという事でもある。ならば、身体の成長の度合いも未発達で、鍛錬につぎ込むことが出来た時間も短い筈だ。あの実力なら尚の事、殆どすべての時間を鍛錬につぎ込んでもあそこまで到れる人間は滅多にいないだろう。

 

 成人にすら至っていない小さな、可憐と云っても過言ではない少女が魔法の武具に身を包み、高い技術と身体能力でもってモンスターを蹴散らす。それだけでも十二分に常識を超えている。

 

 なのに、そこから更に、

 

「魔法さえも使いこなすのですか、貴女は!」

「使えるかは分かりません! 初めてやるので! でも、やります!」

「えっ」

 

 リグナードは一層混乱の度合いを深めた。

 

 

 

「えっ」 

 

 何が何だかわからない。そんな表情をしているリグナードを対面に、イヨは両の掌で器を作り、まるで天に乞うかのように掲げる。表情には意気込みと迷い、恐れが入り混じっている。

 

 絶対に助けて見せるという意気込み。やれるものなのかという迷い。やれなかったらという恐れ。全てが心の中で混沌と渦巻き、同居している。それが表情にも出ているのだ。

 

 今の自分がイヨなのならば、魔法が使える筈。だから治して見せると宣言した。だがしかし、今の自分は本当にイヨなのか? イヨの外装を纏っただけの篠田伊代なのではないか?

 

 先ほどゴブリンを打ち倒しはしたが、正直言って篠田伊代の身体能力でもあの位のモンスターなら倒せる気がしてきた。火事場の馬鹿力という可能性もある。

 

 第一自分が真実中身までイヨで、事実魔法を使う能力を持っているとして──どうやって使う?ユグドラシルでは、アイコンをクリックすればそれで魔法が使えた。当たり前だが、今までの人生で現実に魔法を行使した経験などない。

 

 ──刹那の間に浮いては沈む思考を無理やり鎮め、イヨは覚悟を決める。

 

 兎に角先ずは集中し、〈ヒール・ウォーター/癒しの清水〉を使おうと意識して──唐突に悟る。

 

 分かるのだ。

 

 〈ヒール・ウォーター/癒しの清水〉の、魔法行使の仕方が。効果も、再使用までの冷却時間も。

 

「〈ヒール・ウォーター〉!」

 

 舌が紡いだのは力ある言霊。自分の外にある巨大な力と自分がか細い糸で繋がるかのような感覚。そして僅かな心の疲労、精神力が削れる感覚もある。

 そして魔法は発現した。

 淡い光と共に、両の掌で作った器に水が満ちていく。薄暗い森の中でも輝く清水は、自らまるで星の様に光を発していた。

 

「──出来た!」

「おお──おおっ!」

 

 イヨは直ぐにリーシャの口に液体を流し込む。すると、彼女の身体がきらきらと光り、青紫色になっていた肌にも赤みが戻り、酷く浅く弱弱しかった呼吸も、正常なテンポと深さに戻る──までは行かず、若干荒いままで回復現象は止まった。見れば、深かった幾つかの傷と、なによりあの脇腹の刺し傷が完治していない。

 

「──回復量が足りてない!?」

 

 所詮は気紛れで取った、たった一レベルのクレリックだ。残りの二十八レベルは全て前衛クラス。当然ステータスもそれに準じた伸び方をしているし、装備したマジックアイテムにも魔法の力を高める物は皆無。要するに基礎となる魔力が弱すぎるのだ。五レベルの専業魔法職にも劣りかねないほどのステータスでは、死の淵に瀕した人間を一回で全快させることは出来ないらしい。

 

「もう一回──〈ヒール・ウォーター〉!」

 

 もう一度魔法を行使し、即座に飲ませる。それでも足りなかった為、更にもう一度行使。そうしてようやく、リーシャの傷は表面上完治した。

 

 リグナードが恐る恐る包帯を剥がして傷の在った処に触れると、そこには傷跡なども無く、最初から怪我などしていなかったかの様な、綺麗に日焼けした肌があるだけだった。

 信じられない面持ちでイヨと目線を合わせると、今度こそ、その鋭い目から涙が零れた。その眼には驚愕、喜び、感謝、敬意が満ちている。奇跡を見た男のものだった。

 

「あなたは……その幼さで、なんという……本当に、本当に有難うございました! あなたには親子揃って命を救われました! このご恩は一生涯忘れません!」

「いえいえそんな、お二人ともご無事で何よりです」

 

 魔力を消費したせいか僅かに身体がだるかったが、そんな些細な事が気にならない位にイヨは嬉しかった。

 自分の決断が人の命を救った事が、目の前にいるほんの二十分前に出会った親子が死別の悲しみを味わうことなく済んだ事が、とてもとても、どんな試合で勝った時よりも、どんなテストに受かった時よりも嬉しかった。

 

 おそらくは世界間の移動という人類史上に類を見ない事態に巻き込まれている自分が霞む位に。そんな無垢な喜びに浸っていたからこそ、リグナードの次の言葉はとんでもない衝撃を伴った。

 

「このお礼は必ず致します──我が家には満足な貯えもありませんが、家財を売り払ってでも田畑を手放してでも、あなたに恩を返しうるだけの謝礼を必ずや!」

 

 家財を売り払う。田畑を手放す。何のために? 謝礼の為に。誰に? ──決まっている、イヨにだ。

 

「そ、そんなものを受け取る訳にはいきません!」

 

 両手を盾の様にリグナードに突き出し、ほとんど悲鳴の如く声を挙げる。

 

 そんな事をされても困る。愛娘の命を救った事に恩義を感じているのは分かるし、それは至極人間的で真っ当な感覚だとも思う。イヨが誰かに両親や弟妹の命を救われたなら、これ以上ないほどの感謝と敬意を救い主に寄せるだろう。でも、

 

「駄目ですよ! 家財や田畑って、それを売ったりなんかしたら生きていけないじゃないですか!」

「しかし、そうせずには恩を返す事が──」

「そもそも僕が好き好んで勝手にやった事です、お礼なんていりません!」

「そういう訳には参りません!」

 

 二人の意見と常識、それと善意が真っ向からぶつかるかと思われたが、二人の激突を阻止できる者がこの場にはいた。

 

「んぐっ……か、身体だるっ……」

 

 ある意味渦中の人物、リーシャである。父親譲りの鋭い目をうっすらと開いた彼女は、自分が寝そべっていて、そんな自分のそばに父親と変わった格好をした見慣れぬ少女──顔立ちと三つ編みにした白金の髪を見て彼女はそう判断した──がいる事に気付き、

 

「父さん……と、誰……?」

 

 譫言の様に呟き、半身を起こす。この時点でイヨは彼女の身体から眼を逸らした。力を取り戻しつつあるリーシャの視線が、包帯しか身に着けていない自身の半裸体、ついで脇に避けられた血塗れの革服を捉え、

 

「なにこの恰好……ってか服が血塗れ──」

 

 眼の焦点が完全に合い、脳が衝撃で引っ込んでいた記憶を忘却の帳から引きずり出し──

 

「──ゴブリン! それにオーガも! 父さんヤバいよ、あいつら数が多すぎる! さっさと村の皆に知らせないと、あの群れが相手じゃ柵も人も長くは持たないよ! 追手は振り切ったの!?」

「落ち着け! それと嫁入り前の若い娘が半裸で跳ね起きるな! イヨさんが目のやり場に困っているだろうが!」

 

 そういえばリーシャさんは裸だったな、とさっき初めて気付いたイヨである。応急処置をしている時は、全身血塗れ傷だらけの命の危機で、思い至りもしなかった。

 

「なにを暢気な事言ってんのよ、リーベの村が滅びるわよ!? ってかイヨさんって誰よその子? 良いじゃん別に女同士なんだし、それより早く村に伝えて防衛の用意をしないとでしょ!?」

 

 後で訂正して謝ろう。そう思いながら、言い合う父娘を他所に、地面に生えた苔と正座でにらめっこをしつつ、イヨは今の情報を考えていた。

 

 ゴブリンとオーガ。上位種でも職業レベルを持った個体でも無い素のゴブリンとオーガは、確か一~七レベル程度のモンスターだ。二十九レベルのイヨからすれば、幾ら倒しても経験値を稼ぎ辛い弱いモンスターであり、百体いても鎧袖一触に蹴散らせる自信がある。

 

 ただ上位種が──オーガ・ハイウォリアーやオーガ・バトルロード、レッドキャップ、ゴブリン・ロードなどの二十五から五十レベルの個体が複数いた場合、イヨ一人ではどうにもならない事態である。

 

 高レベルのゴブリンは何気に強敵だ。的が小さい上に姿勢が低いので近接攻撃は当てにくいし、ちょろちょろとすばしっこいため、必中や範囲攻撃型の魔法以外を容易く避けてくるからだ。

 

 もし村を襲おうとしているのがレッドキャップだったら、刺し違える覚悟で戦っても九分九厘負けるだろう。十レベル違ったら勝てないという話はあくまで同じビルド同じ装備で正面から殴り合う場合の一例に過ぎないが、十四レベル差は技術や経験で覆し得る領域とは言い難い。モンスターが生命体としての個体差と自我を持っているこの世界なら尚更だ。

 

「もう一度言うぞ、落ち着け! あいつらは俺達が使う近道を知らんしあの集団では足が鈍る! 今からでも俺達の方があいつらよりも先に村に着く! だから落ち着け、時間はある!」

 

 リグナードはリーシャを抱き寄せた。そのまま命の鼓動を確かめるかの様に、強く強く抱きしめる。驚いて目を見開く娘を顧みず、涙声で、

 

「お前何も覚えてないのか!? お前はゴブリンどもに切り刻まれて死ぬ一歩手前だったんだ! そのお前を、通りすがりのイヨさんが助けてくれたんだぞ! それも回復魔法まで使ってだ!」

 

 父の言葉と血塗れの服に、自身が経験した惨状を思い至ったのであろうリーシャは、そこから自分を救ってくれたというイヨに驚きの視線を送った。

 

 イヨは初対面の女の子に向けて──視線は地面から上げず──ぺこりと頭を下げた。

 

「お助けできて何よりです──けど、その辺のお話は後にして、村に向かいませんか? 乗りかかった舟ですし、僕もお手伝いしますから」

 

 

 

 




主人公が動揺し過ぎですって? 
自分がユグドラシルのキャラのままである事は分かっているのに、アイテムボックスや魔法の存在が頭に浮かばないのはお粗末すぎると? 

いえいえこう考えてみてください、なんもかんも精神作用無効化が無いのが悪いんだと。

だってあれすっごい便利です。福音といっても過言ではありません。同時に罰ゲームでもありますが。



 

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