ナザリックへと消えた英雄のお話   作:柴田豊丸

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2016年7月15日
ご助言に伴い、主人公の職業アデプト・オブ・マーシャルアーツをマスター・オブ・マーシャルアーツに変更します。名称以外の設定は変わりません。ここ以前の文章も適宜書き直していきますので、ご了承ください


レベルアップ:後編

「ありがとうございましたー!」

「おう、こっちこそありがとうな」

 

 日が傾き始めると練習も終わりである。基本的に冒険者は自己を高めることに熱心であるが、宵闇の中で明かりを灯してまで鍛錬を続けるのは、余程熱心な者のみだ。基本的に夜は休む時間である。

 この世界の例えば農村においては、日が暮れれば寝る時間だ。明かりを灯すにも薪や油といった物を消費する為、起きていればいるほど金が掛かるからだ。其処までする余裕はないし、其処までしてやらねばならない事は明るい内にやっておくのが常識である。故に、日が落ちれば家族団欒もそこそこにさっさと寝る。

 

 都市部や一部職業の者たちはまた事情が異なる。一国の首都たる公都、そして冒険者はその事情の異なる者と場所のど真ん中に当たる。

 歓楽街などは仕事終わりの宵の口からこそ人賑わいのある地所であるし、冒険者は昼日中から酒をかっくらっている事もあれば、仕事次第で深夜に街道を疾走している事もある。そんな連中であるからして、夜になったからベッドに直行などという事はしない。

 

 折角大人数で集まったのだから、これから街へ繰り出すのである。パーっとやりにいくのだ。これには一応同業者間でのコネクション作りや情報交換の意味合いも含まれる。

 

 今までこうして習練場にて汗を流していた者たちの中にはなんと、明朝には依頼のため公都を発つ者もいたりする。そういう者たちは流石にさっさと休むのが大半だが、中にはコンディションなんざ知るかとばかりに酒を浴びる者、今日の体験を生かす為、明日が仕事だからこそ行きつけの道場に移って鍛錬を続ける者もいる。

 

 良くも悪くも、冒険者には常識をぶっちぎった輩が多いのである。そもそもモンスターと殺し合いして金を稼ぐお仕事という時点で色々とアレだ。軍人以上にいつ死んでもおかしくない職業である為、先を見据えつつも時として刹那的といったある種矛盾した在り方。

 

 友と語らいに行く者。家族の下へと帰る者。仲間と連れ立って歩む者。その場で談笑を始める者。

 思い思いに散っていく人々の中で、何か未練でも有るかのように剣を握りしめたまま佇む一人の青年がいた。赤みを増していく斜光の中、首下のミスリルプレートが揺れている。

 

 鎧、剣、装飾品。どれをとっても輝かしい武装であった。今でこそ土汚れや埃が付着しているが、それでもなお人を魅了する光を放っている。

 

 ミスリル級の冒険者は、例え引退したとしても残りの人生を遊んで過ごせるだけの金銭を稼いでいる。一つの依頼を熟すたびに、一般人が数か月から数年、下手をすると十数年掛かって稼ぐ様な大金を手にするのだ。そんな彼らの武装は無論高級品である。

 

 仮に装備品を然るべき所に売り払った場合、その代金だけでちょっとした豪邸を建てる事だって出来るだろう。強力な武具やマジックアイテムはそれほど高価である。金銀財宝で飾り付けられている訳ではなく、より強くより堅くより軽く──そうした実戦・実用性の果てしない追及、高機能を実現するための手間暇が、高価値に直結しているのだ。

 

 エルダーリッチやスケリトルドラゴン、大軍を成した亜人──強大な怪物どもを打倒するためにそれだけの武装が必要不可欠なのである。武具を身に着けた状態で縦横無尽の躍動を可能とする体力、武具の性能を十分以上に生かし切る知識と技術と同様に。

 

 青年は押しも押されもせぬ歴戦の勇士であると言えた。依頼を通して幾多の人命と財産を守った好漢として人々から尊敬と羨望を抱かれる男はしかし、複雑な感情を覗かせて俯いている。

 

 陰鬱なものでは無いが、思い悩む感情が表に出ている。

 そんな青年の下に歩み寄る男が一人。背は低いが筋肉質な身体で、驚異的な身体の厚みは戦士としての高い力量を存分に感じさせる。立ち止まっている男と同じチームに所属する戦士だった。

 

「おい、どうした?」

 

 問う声までもが太い。既に中年と言うべき年齢だというのに、少しも弛み緩みを感じさせない、活力と自負に満ち満ちた声だった。見れば肌艶さえも若者の如くであり、加齢は今のところ、この男に負の変化を及ぼしていない様であった。

 問われた青年は間違いなく聞こえていただろうに、反応を見せない。聞こえてはいても取り合ってはいない。何か他の物事に熱中していた。

 

 声を掛けた男はその実、聞く前から同僚が考えている事を知っていた。だから特に怪訝な様子も見せず、ただ静かに、

 

「あいつの事が気に食わないか?」

「──ああ、気に食わないさ。でもそんな事は関係ないんだ。新参だとか子供だとか、そんな理由じゃあの強さは覆らない。みんなその事が骨身に染みてるから大半は何も言わないんだ。でも俺は──」

「あいつにどうやって勝つか、どうやって追いすがるかを考えていたんだろう?」

 

 漸く隣の男が意識の端に掛かったのか、青年は顔を上げて向き直った。

 

「相手は複数の武技を恒常的に発動しつつ更に違う武技を数種類も重ねてくる化け物。難度で表すなら九十を超え、武具の分まで含めれば一人でオリハルコン級チームを相手取れる計算になってしまう。そんな事が出来る奴はもう、英雄と呼ぶしかないんだろうな」

 

 その化け物とは、公都の冒険者界隈に衝撃を齎した異邦人──ある少年の事に他ならない。

 曰く、あからさまに年を誤魔化した子供。

 曰く、自身を少年と称する少女。若しくは少女にしか見えぬ少年。

 曰く、片腕を切り飛ばされて尚気力の萎えぬ傑物。

 曰く、公国が誇る高位冒険者たちを軒並み叩きのめして見せた新参。

 

 ほんの僅かな時で急激に知名度を上げた怪物──イヨ・シノン。彼が公国で成した事は多くない。老英雄との一騎打ち、最高峰のオリハルコン級チームへの即時加入とミスリルプレートの授与、初依頼を勝利で飾る。数にしてたった三つだ。

 

 その一つ一つが強烈過ぎ、更にここ最近の訓練で高位冒険者を薙ぎ払って見せた事によって、少なくとも彼の強さは嘘偽りのないモノとして周知されるに至っていた。

 

 ──難度にして九十に匹敵するか上回る、と。

 

「そんな化け物にそれでも勝ちたい、追い抜きたい。お前の頭にある事はそればかりなんだろうな」

「……そりゃそうだ。あれだけ完膚なきまでに負けて、悔しがらない奴はいないさ」

 

 多くの冒険者が練習にかこつけて、若しくは正々堂々と一騎打ちを望んで、そして彼に負けている。

 

「結局一対一で勝てた奴はいなかったな。当然と言えば当然だ、相手は現役時代の武装で身を包んだ副組合長と互角に戦ったのだからな」

 

 老英雄ガド・スタックシオンとイヨ・シノンとの戦いは、多くの冒険者が目撃していた。だから見た者はみんな知ってはいたのである。かの少年がどれ程の強さを持つかなど。

 ミスリルプレートですら実力に見合っているとは到底呼べない事も。

 

 あれだけ強ければと納得した者も多かったし、イヨを推薦した冒険者たちの様に、アダマンタイト不在の時代を終わらせてくれる頼もしい奴だと受け入れた者も多数であった。イヨがそれなりに礼儀正しい振る舞いをしたのもあって、納得した訳ではないにしろ何も言わないでおくか、と判断を下した者も。

 故に最も多くの人間が選んだ不満や嫉妬、怒りの処理方法は『沈黙する』であった。

 

 自身の立ち位置──事実として実力で負けているという点を鑑みて唇を噛みしめた者がいた。

 

『気に入らないけど、今更文句を言ったところで組合の決定は覆らないしな。そこそこの数と仲良くやってるし、副組合長も大分気に入ってるだろう? あの子。結局の所実力はあるんだしね。どうにもならない以上、鬱憤を晴らす為だけに騒ぎ立てるより黙ってる方が賢いさね』

 

 『組合公認【スパエラ】所属でしかもそこそこみんなに受け入れられてて味方が多い。そんな奴に感情だけで喧嘩売っても割を食うだけ、何時か追い抜くその時まで口を噤んどくよ』、と感情を飲み下した者も。

 

『いや腹は立つよそりゃさ。俺なんか十三年掛けてやっとオリハルコン級になったんだぜ? んでアイツは五段飛ばしでいきなりミスリルじゃん。ざっけんな夜討ちしたろか位は思ったけどね、ほら……そう遠くない内にガルデンバルドとベリガミニも引退するじゃん多分。そん時にイヨとリウルは確保しておきたいからさ。優秀な仲間は欲しい。もし上手くいったらその時にデコピンでもかましてやるとして、今は普通に仲良くやっておこうかなってね』と、思惑を抱いた者も。

 

 実際問題、普通の冒険者は活動するうちに三回か四回くらいはチームを変える。仲違いや実力差が出来た場合等だ。活動中ずっと同じメンバーで一緒にやっていく者たちはかなり少数派である。そういう意味で、イヨが【スパエラ】から抜けた場合自分の所で確保するために、彼と仲良くなっておこうと考えた者はかなり多かった。

 

 要するに打算で感情を飲み下した訳である。冒険者は実力主義と同じくらいに実利主義なのだった。嫌われてもなんらおかしくないイヨが表だって非難されないのは大体がこの理由である。

 

 ただまあ、全員がそうではなかった。冒険者は実力主義だが、人間である以上それだけでは割り切れないのも当たり前である。理屈も糞もあるかあのガキは気に喰わんのじゃボケ、と思った奴も当然いたし、ぽっと出のガキが俺の上に立つなんざやってられるかと憤った者も山を成すほどいた。

 そういう理屈や打算込みでもイヨに一言物申さねば気が済まなかった連中がなにをしたのかと言えば、直接本人の所に一騎打ちを申し込みに行ったりしたのである。

 

 この青年もその類の一人であった。青年は思い出す。自分とあの少年の試合を。

 真剣勝負をしたいから武装を身に着けてくれと願った青年に対し、少年は素直に頷いて武器を、防具を、マジックアイテムを装備した。明らかに練習の域から外れた気迫を漲らせた青年に、一言も疑問を挟まずただ首肯したのだった。

 

 勿論青年も完全武装だ。爪先から頭の天辺まで隙はなく、手にした長剣も入念に整備をした最良の状態。

 対峙した瞬間に、冒険者として鍛え上げた見識が判断を下した。今まで見たどんなモンスターより強大な相手だと。

 

 試合開始の合図から十数秒ほど、静かな時間が流れた。相手の間合い寸前を挑発の様に前後し、側面に回り込もう、回らせまいと双方が円を描く。

 

「上段突き──だったと思う」

 

 少年が起こした中段突きの挙動は恐ろしく速く鋭かったが、極限の集中状態にあった青年の身体は対処を開始し、斜め後ろに下がって攻撃の軌道から外れつつ、武器を持つが故の間合いの有利を持って敵の頭を打ち砕く──と、思った。

 

無い筈の隙を突かれた、というのが素直な感想だった。

 

 次の瞬間に視界と意識が白く飛んだ。顔の前面から後頭部までを二回ほど衝撃が貫通し、痛みが襲うより速くに重心を打ち抜かれた。膝から崩れ落ちて行く身体は言う事を聞かず、顔横にぴたりと添えられた蹴り足はまるで死神の鎌の如く感じられた。

 

 中段逆突きをフェイントにワンツー、スリーを中段に。そして膝立ちになった青年の頭部に寸止めの中段前回し蹴り。無論まだ動く様なら追撃を加える気満々である。立会人が止めに入って、そして青年が異を唱えなかった段階で初めて構えを解き、向き直ってありがとうございましたと頭を下げる。

 

「何が悔しいって、手加減抜きで打った癖に力加減は完璧だったって所だ。俺は後に響くような怪我を一つもしてない、安いポーションを飲んだらすぐ完治する程度だ」

「まあ、そこは互いに事故を防ぐための最低限の決め事だからな。……こちらは、練習中死ぬ気になって攻勢掛けても手傷を負わせるのが精一杯だったが」

 

 ちなみにイヨは本人的にも試合バッチこいな気性である上に、『真正面から喧嘩売ってくる奴は正々堂々節度を保って叩きのめせ、冒険者ってのはそういう商売だ』と仰せつかっていたので二重に容赦が無かった。

 同業者として互いに切磋琢磨して強くなっていくのであって、健全な競争心から来る争いは行き過ぎない限り許容されるべきとの考えが表出した例である。

 

 そうして率先して喧嘩を売った連中は、この二人と同様合同練習に参加している。無論もっと強くなって朝一番の世間話に『昨日パンに蜂蜜をかけたら甘くて美味しかったです』とかのほほん顔で抜かすボケガキにリベンジする為である。

 

 『女装が趣味』『普段の男装の方が趣味』『白昼堂々リウルと手を繋いで歩いていた』とか噂が立ってるアホな子供に負けたというのは、実力的に順当な結果であっても受け入れ難いのだった。普通に考えて悔しいにも程がある。

 

 こうした者たちは多くがプラスの努力に転じた分だけ前進しているとも言える。割かし可哀想なのは正面からの攻撃では無く口撃を選んだ者たちであった。

 

 最初に言っておくと、彼らは別に品性下劣な卑怯者だった訳ではない。ある意味冒険者らしく低俗な冗句を好み、気安いと親しみやすいの判断が難しい言動をしていただけであった。要するにお調子者の類である。

 彼ら彼女らはイヨにある程度複雑な、妬み嫉みの感情を抱いていたが、同時に『あいつすげえなぁ、見習わなくちゃな』といった向上心も持っていた。ただそれを素直に表現することが出来なくて、結果的に揶揄い半分の冗談として口を滑らせた。

 

『はっ、お強くて結構な事だねぇ、あやかりたいぜ。でもよぉお前さん。冒険者みたいな荒事稼業をやるより、そのツラなら男娼にでも身を窶した方が稼げたんじゃないかね? んでもって選んだのがリウルとは物好きな──』

『俺に追い越された時もそんなこと言ってたよなアンタ、最終的に褒める癖に本当にへそ曲りだぜ。でもまあその根性は買った、表に出ろ』

『あ、ちょ、え、リウ──』

 

 頭にタンコブを作る者が続出した。

 冒険者はメンツの商売でもあるので、正面からあれこれと言われてただ引いたら、仕事に支障が出かねないのであった。

 タコ殴りにしない分だけリウルは丸くなったとの評判も流れた。イヨは馬鹿にされた事を怒ったらいいのだかリウルを止めたらいいのだかおろおろしていた。

 【スパエラ】の年長二名は顛末が耳に入ると同時、怒るどころか腹を抱えて大笑したと云う。

 

 はー、と青年は深く溜息をつく。手に握ったままだった剣を鞘に仕舞い、顔を俯かせる。表情はどうしようもなく振るわない様子であった。

 

「……難度九十なんて人間じゃないですよ。モンスターでも九十とか滅多にいない。そうほいほい居たら人間はとっくに滅んでる。そもそも何で難度で表すんですか。普通冒険者って言ったらプレートでしょう。あいつだけですよ、英雄だ難度九十だ王国戦士長並だとか言われてるの」

 

 青年の口調は少年と呼ばれていた頃の、新人だった時のものに戻っていた。

 

「そら最初は意味分かんなかったっすよ。依頼から帰ってきたらみんな大騒ぎしてる。年端もいかない女の子が、俺が小さい時から寝物語で聞いてた副組合長と互角の勝負をしたって? それで飛び級でミスリル? 所属はあの【スパエラ】? そんな訳分かんない天才が突如降って沸いて、俺たちを追い越してったってみんなが言うんだ」

 

 中年の男はただ黙って聞いている。青年の口はただただぼそぼそと力ない言葉を紡ぐ。

 

「んで実際見にいってみたらあのツラであの体格体型ですよ。みんなして俺を揶揄ってるんだと本気で思った。何度聞いても本当だやばいんだとしか言わないからシカト決め込んで寝て起きたら騒ぎがデカくなってて……」

 

 本当の話だと理解できた頃にはもう当人は依頼で公都から出て行っていた。副組合長との一戦の粗筋を根掘り葉掘り聞き出し、やはり本人の実像と合致しないので頭がおかしくなりそうであった。

 

 外見と戦力がまるで一致していないのだ。何処からどう見ても強そうではないし、立ち振る舞いや纏う雰囲気に、威厳や風格、威圧感や迫力といったモノが皆無であった。パっと見た限り、同い年の集団の中に混じった時、容姿以外で目立つ要素は殆ど無い様に思えた。

 

 ぶっちゃけ戦闘の場に居合わせていなかった冒険者たちは年下の新参に追い越された怒りなどより、『あいつら変な夢でも見たんじゃねぇの?』と目撃者たちを三日位遠巻きにしていた程である。

 

 『これ以上アダマンタイト空位の時代が続くのを嫌った組合が偶像を作ったんじゃないか?』『それにしちゃあ設定がイカレ過ぎだろ、作り話だったらもっと説得力のある人物像にするぞ普通』『それこそ【スパエラ】を多少無理くりにでも昇格させた方がまだ納得できる筋書きだよな』『嘘にしちゃ下手過ぎるから一周回ってマジだってのかよ?』『いやそうとは言い切れないが……少なくとも直接見た連中はマジだって口を揃えて言うし……』『人数的に全員グルってのは有り得ないよなぁ』『嘘偽りなく本当だよ、俺はこの目で見たんだ』

 

 こんな会話がそこかしこで交わされた。

 

 更に日数が立ち、噂の人物を含む【スパエラ】と【戦狼の群れ】が帰還してきた。真偽をこの目で確かめなきゃ信じられん、と打ち上げ会場の酒場に突入した者たちが目にしたのは、女装で下っ手糞に歌い踊る例の少年と、大盛り上がりの見知った連中の姿であった。

 

 この時点で『組合が認めても俺はお前なんか認めねぇぞ!』と言い出す人間がいなかったのは、完全に出来上がったテンションでどんちゃん騒ぎしている連中のただ中に突っ込んでいくのが躊躇われたからであった。あの連中絶対話し通じそうにないじゃん、と云う奴だ。

 

 そして翌日からイヨは組合裏の習練場で練習を始めた。後は今まで語ってきた通りである。イヨの実力を疑う者はいなくなった。力は何よりも雄弁だったし、子供ではあっても生理的嫌悪感を催す様な悪人では無かったから。

 

「今までずっとアダマンタイト目指して頑張ってきたんですよ。俺なら、俺たちなら絶対なれるって努力してきた。負けた今でもどうやったら勝てるかってずっと考えて考えて──考えた結果、勝てる気がしない」

 

 青年はかつて天才と呼ばれた人間であった。

 幼少期にある偶然の出会いから剣の師を得て、尋常ならざる才覚でもって急成長を遂げてきた。他人の何倍も学び、何倍もの勝ち負けを積み上げ、耐え難き習練に耐えた。十四歳で師と並ぶ腕前を誇り、十六歳になる頃には完全に超えていた。

 

 『お前を育て上げた事こそ、私が成した最大の功績だ』──打ち負かされた師が笑顔で告げた言葉だ。青年はかつて、一万人に一人の天才と呼ばれた人間だった。

 

 だがしかし、非常に乱暴な言い方になってしまうが、一万人に一人の天才など単純に計算しても公都三十万の民草の中に三十人、公国人口三百万の中に三百人いるのである。もっと上の、十万人に一人、百万人に一人の才能を持った人間だって存在するだろう。

 

 より強くなる為により強い敵を求め、その時少年だった青年は冒険者となった。人よりはるかに強大なモンスターとの戦いは少年に飛躍を齎し、二年でミスリルプレートに到達した。

 

 そしてそのミスリルという高みに立った時──青年はもう特別では無かった。才が枯れた訳でも、成長が止まった訳でもなかったけども。

 彼は今現在も天才のままで、成長を続けていて──でも、もう特別では無かった。

 

 同ランクのミスリル級、格上のオリハルコン級にアダマンタイト級の冒険者たちは、全員が青年以上の天才で努力家で達人だったのだ。何万何十万何百万に一人の才能を持ち、気が狂う様な鍛錬を積み上げ続け、今なお研鑽による前進を辞めぬ魔人超人の群れ。

 

 青年は自分より強い者を何人も見た事があった。幾度も敗北に倒れ、その度に立ち上がってきた。そうして年長の強者たちに追いすがり、追いついて追い抜かして高みに立ってきたのだ。

 しかし──どれだけ必死に走っても距離の縮まらない背中に、人生で初めて出会った。

 

「この先──あいつより強くなれる未来が思い浮かばないんです。俺は今よりもっと強くなれる。デルセンさんたちと一緒にもっと上に行けるって自信は今も変わってない。でも、でも──その時あいつらはもっとずっと前に進んでいるだろうって痛感してしまってるんです」

「……そうか」

 

 中年の男、デルセンは静かにそれだけ言った。

 青年の言葉は最早イヨだけに向けたものでは無くなっている。

 

 血の汗を噴くほど必死に鍛錬を積んでいるのに何故追いつけないのか。答えは簡単だ、前を行く者が自分より速く、より前に進んでいるからである。同じく必死に、青年以上に過酷に自らを高めているから。

 

 青年は今十九歳である。十六歳で冒険者となった為、冒険者歴は三年だ。

 近い時期に冒険者となったリウルとは、以前までどちらが先に昇格するかを競っていた。尤も、リウルは仲間以外の全員を好敵手と見做しているので、向こうは青年を特別視していなかったであろうが。

 

 年下と長く競り合い、負けたのは初めての経験だった。

 しかも国外に目を向けてみると上には上がいるのだ。リウルと同じく青年より年下で、冒険者の頂点たるアダマンタイト級として君臨する【蒼の薔薇】のリーダー、魔剣キリネイラムの担い手たるラキュース・アルベイン・デイル・アインドラなどが。

 

 才能にかまけて努力を怠った人間、才能が全くのゼロで努力のみによって身を立てた人間など、トップにはいなかった。

 恐らくどこの国のどの業界でも変わらないのだろう。機械的に言って、同じだけの努力をしているならより才能がある方が、同じだけの才能を持つならより努力をしている方が勝つのだ。両者が全く同等だとしても、生まれ育った環境でも上下は付くだろう。

 

 人より才に恵まれ、人より努力し、人より頭を使い、人より効率良く──ありとあらゆる全てをもってして存在する、上に立つべくして上に立つ者ども。

 

 自分があの領域まで這い上がるのに何年かかるだろうか? 否、そもそも時間を掛ければ手が届くような領域なのか? 仮に幾年も掛けてアダマンタイト級まで上り詰めたとして──彼ら彼女らはその時どれ程の高みにあるのか。

 

「……お前が弱音を吐くだなんて、いつ以来かな。らしくないぞ」

 

 尤もな言葉だ、と青年は更に項垂れた。自分たちはミスリル級、同輩たちから羨望と尊敬の眼差しを向けられる存在。

 その自分が情けない顔をして弱音を吐いていては、後進の者たちに示しがつかない。自分の自信に溢れた覇気ある表情に頼りがいを感じる一般人、俺もああなりたいと憧れる新人も居る筈だ。

 

 上に立つ者が弱い姿を見せれば、下まで動揺や不安が広がってしまう。アダマンタイト級という絶対的存在が不在である公国にあっては、オリハルコン級やミスリル級が模範とならねばならないのだ。

 

 既に夕暮れ時で人は殆どいないとは言え、組合裏の習練場でしていい態度では無かった。青年は意識して背筋を正し、デルセンに向かって頭を下げる。

 

「すいません……本当にすいません。情けない発言でした」

 

 謝罪に対し、デルセンが返したのはお叱りや窘めでは無かった。彼は人に安心感を与える太い声で、

 

「違う。泣き言くらい幾らでも吐け。若い内は悩んで成長するものだ。悩みっぱなしで歩みを止めてしまわないように、先達である俺たちがいる。俺がらしくないと言ったのは、お前の発想の方だ」

「発想……?」

 

 そうだ、とデルセンは腰の戦斧を片手で構える。大きく分厚い刃に加えて柄の部分まで、全てが魔法金属で作られた逸品だ。多大な重量を誇るが、恐ろしく太い腕の筋肉が軽々とその重さを支えている。

 

「アイツは強すぎる。どうやったら勝てるか追い越せるかと思案しても、勝てる気がしないほど、追いつける気もしないほど強いと、其処で止まってしまうのがお前らしくない」

 

 ──俺らしくない。そうオウム返しに言った青年に対し、デルセンは再度、お前らしくないと反復した。

 

「普段のお前だったらこう思い至った筈だ。これはまたとないチャンスだと」

「チャンス、ですか」

「そうだ。難度九十越えの化け物なんて何回お目に掛かれる? 出会えたとしても、五体満足で生きて帰ってこられる可能性はどれだけの低確率なんだ? 普通はそんな怪物と戦ったら間違いなく死ぬぞ。手足の一、二本を失うくらいの怪我で済んだら幸運だろうな」

 

 例えばの話。ギガントバジリスクは難度九十以下である。個体差による上下もあるが、成体ならば大凡八十台前半から後半程度とされる。

 全長、つまり頭部の先端から尾の先端までが十メートルを超える巨体。その巨体からくる膂力。視認範囲内であればどれだけ離れても身を蝕む石化の視線。ミスリルに匹敵する硬度と語られる堅牢な鱗。その鱗の下に流れる血液は即死級の猛毒。

 

 仮に戦士であれば、神官などの癒し手による助力無しで戦闘を行うのは自殺行為であるとまで言われる。石化の視線も驚異だし、相手を打倒せんとする自らの攻撃が、降りかかる猛毒の体液という形で己に返ってくるからだ。

 

 単体で都市を殲滅する事も可能と評される生きた災害。高位冒険者を初めとする強者たちですら倒す事は困難を極める。挑みかかって力及ばずに倒れ伏した者たちは、討伐に成功した者たちよりもずっとずっと多いだろう。高難度のモンスターとはそれ程の脅威なのだ。

 故にこの怪物を打倒できるのであれば、それは冒険者の最高位たるアダマンタイト級に相応しき偉業とも称えられるのである。

 

 無論、このとんでもないモンスターはゴブリンの如くほいほいと湧いて出てきたりはしない。

 単純に出現頻度で言えばそう滅多には出てこないと言っていいだろう。滅多に出てこない以上戦う機会も少ないし、出現したとしても討伐依頼が舞い込むのはアダマンタイト級か、公国においてはオリハルコン級である。

 

 厄介さで言えば、同じだけの強さを持つ人間よりもずっと上である。強くなりたいから武者修行をやろうと思っても、あらゆる意味で気軽に戦える存在ではない。それに比べ、

 

「俺たちは何回だって、安全が保障された命の危険がない環境で戦えるんだ。その桁外れの化け物と。しかも相手は化け物並みに強いってだけで同じ人間だぞ。身体構造も何もかも異なるモンスター共とは違う。どれだけ遠くとも、あいつは俺たちの延長線上にいるんだ」

 

 青年の顔色が変わる。あ、とその口から声が漏れた。

 

「あいつをただの壁と捉えるな。あいつを敵わぬ敵と思い込むな。これは考えようによってはこれ以上ない幸運だぞ。帝国や王国、竜王国の冒険者だって、アダマンタイト級相手に訓練だなんてそう気安く出来る事じゃない」

 

 どんどん暗くなる夕暮れ時、あたりはもう殆ど夜と表現して良い様な暗さだ。しかし、青年はその時確かに見た。

 デルセンの──自分より三十近くも年を取った、戦士としての黄金期が過ぎ去りつつある男の目に宿る、果てのない向上心。執念。

 人類の切り札──アダマンタイト級になるという人生を掛けた夢の輝き。

 

「何回でも挑んだら良い。挑んで負けて、反省点を洗い出し、弱点を補い、長所を伸ばす。自分が強くなる為に、強者との戦いはこれ以上ない糧だ。だとしたらアイツは糧として最上級だろう。あいつから学びつくしてあいつらを超えれば良いんだ」

 

 先達の言葉はどんな刃より早く鋭く、青年の心に届いた。

 

「──はいっ……!」

 

 ──そうだ。自分は何を考えていたのだろうか。

 

 追いつけないとか敵わないとか、見たことも無いほど強い奴の出現に戸惑って気弱になってた。

 

 そうじゃない。これはチャンス。

 勝てる気がしないほど実力差がある。追いつける気がしないほど相手は強い。──そんなにも強い奴が身近に、目の前にいるという事は幸運なのだ。

 

 幾度も見て盗めばいい。何度も戦って学べばいい。より強く優れた者に学び、そして絶対に追い越す。今現在勝てる気も追いつける気もしなくても、其処で歩みを止めてしまえば其処までなのだ。

 

 発想を逆転させればいい。ずっと遠く速い背中をそれでも必死に追えば、自分一人で走るより速度が出る筈だ。そう思って足を止めずにいれば、それはやがて強さに繋がる。

 

「……同じことを考えてる奴は、沢山いるでしょうね」

「ああ、勿論だ。今まで空位だった最高位の座がぽっと出の若造に持って行かれようとしてるんだからな。此処で奮い立たない奴はいない」

 

 強さは人を引き付ける。尊敬を、憧憬を、闘争心を引き立てる。

 ──俺もああなりたい、俺こそがあいつを超えてアダマンタイト級になるのだ、と。

 

「上ばかり見てもいられませんね。下からもせっついてくる訳だ」

「ああ、油断は出来んぞ。ただでさえ最近は同格の【戦狼の群れ】に水をあけられているんだ。【赤き竜】の力を見せてやらんとな」

 

 ──だからもう、そんな頼りない言葉遣いはよせ。リーダー。

 

 その言葉を受け、ミスリル級チーム【赤き竜】のリーダー──ハルゼーは剣を抜き払った。今のハルゼーの心境の如く澄んだ音色が鳴り響く。

 

 青年はそれを、デルセンが構えた戦斧とぶつけ合わせる。

 

「ああ、すまなかった。もう大丈夫だ。俺が、俺たちがイヨ・シノンを──【スパエラ】を追い抜いてアダマンタイト級になる。公国のアダマンタイト不在の時代は俺たちが終わらせる!」

「それでこそ俺たちのリーダーだ!」

 

 二人の男は夕闇の中、晴れ晴れしく吠えた。青年に先ほどまでの弱気はもう、欠片も残っていない。

 

「そうと決まればこうしている暇はない。今から全員を集めて行こう」

「ああ。確か【下っ端の巣】だったな。其処の裏の空き地に居る筈だ。あいつは帰った後も一人で練習をしていると聞く。一つ共同稽古を願いに行くか」

 

 行き先は例の最上級の糧──イヨ・シノンの常宿だ。未だ牙を研ぎ続けている奴の所へ、二人は武器をしまうなり勢い込んで走り出す。

 

『よろしければ皆さんもいらして下さい、僕は用事が無い限り其処で練習してますから』と礼をした大型新人の澄み渡った笑顔を思い出しながら。

 

 

 

 

 イヨがそれを初めて経験したのは、クラーケン討伐依頼の三日目の時であった。

 【戦狼の群れ】と【スパエラ】は初日と二日目をクラーケンの間引きに努め、三日目は薬草採取がてらモンスターの間引きをするという事で、森の奥深くに分け入ったのである。

 

 集落からほど近い森の外縁付近、つまり比較的安全な場所に生えている薬草はある程度の心得と知識、危機意識を持っていれば村人でも採集が可能である。実際、農耕の他にそうした副業で収入を得ている村落は多い。

 

 対して、高位冒険者に依頼が回ってくるような薬草採集は桁が違う。

 目的とする薬草が生えている場所からして、森の最奥であったり強大な魔獣の縄張りの内側であったりするのだ。一般人どころか一端の冒険者であっても踏み込む事すら難しい。甚だしくは高難度植物系モンスターの骸を持って来てほしいと依頼されることもあるのだ。

 

 オリハルコン級の【スパエラ】とミスリル級の【戦狼の群れ】、その合同パーティに達せられた依頼も、その類のものであった。

 

 踏み入るは森林の奥深く、亜人怪物魔獣が跳梁跋扈する人類生存圏の枠からはみ出た場所であった。人の領域の内側に存在する、人でない者共の領域である。

 

 ユグドラシルでなら幾度もの薬草採取経験があったイヨであるが、例によってこの世界の薬草はユグドラシル時代のそれとは全く違った。知っている種類が何一つとしてなく、そもそも特徴を教えられても素人目ではとんと見分けがつかぬ。

 

 イヨの草木に対する知識は、針葉樹と広葉樹は見分けがつく、そんなレベルである。

 

 種類を見極めた上で最も効能が強い時期の必要部位のみを必要量採取する訳である。一か所から取り過ぎると不味いとか、そういった配慮も込みでだ。

 言葉では分かるのだが実際の所、三葉期のナリバサネの根をどうこうとか、樹齢が百を超えており徒長枝等が少なく樹形の整ったカルバシャの木の樹皮が云々……と言われてもさっぱりなのであった。

 

『これがエンカイシで合ってますか?』

『いや、それは良く似たエンカイシモドキだな。正式な名称は忘れてしまったが……薬効は無いに等しいが、一応食べられる野草だぞ。あまり美味くは無いがな』

 

 素人目には全く同一の外見に見えるが、明確な違いがある為、知識を持つ者なら見分けるのは容易いらしい。特に分かりやすいポイントとして、エンカイシは摘み取ると鼻を刺すような強い臭いがするが、エンカイシモドキは草花らしい青臭さがあるだけで臭いは強くない。

 

『む、イヨ。マイトヌブを取ってしまったのか?』

『え、駄目でしたか? 道中で質の高いポーションの材料だと習ったもので、てっきりこれも採集するものと……』

『俺の説明不足だったな、誤解させてしまったか……マイトヌブは確かに強い薬効を持つが、葉の水分が蒸発するとその成分が急激に薄れてしまうんだ。だから、運搬に時間が掛かる場合は取らない。運んでいる最中に役に立たなくなってしまうからな』

『すいませんでした、ビルナスさん……確かに、よく見ると採集リストには入ってないです……』

『気にするな、半分は俺の教え方が悪かったせいだ。イヨは周囲の警戒の方を頼む』

 

 ──専門家になれとは言わないさ。この類は薬師や森司祭、野伏の得手だからな。役割分担は基本中の基本だ。でもまあ、冒険者として最低限必要な知識は覚えておいたほうが良いだろう。俺も今度は気を付けてしっかり教えよう。

 

 役に立てないと微妙にしょぼくれていた所をそう諭され。森のど真ん中で安穏と授業する時間はないので、帰ってから実物を教材により詳細な講義を受ける事が決定された。

 

 結局イヨは諸先輩方の指示に従って出来る限り静かに周辺の警備を全うし、行きでもした様に帰る道すがらモンスターを倒し、そして依頼はお仕舞、後は帰るのみ──と、ここである出来事が起きた。

 

 率直に言うと起きた出来事自体は大した事がないのである。

 絞首刑蜘蛛〈ハンギング・スパイダー〉と呼ばれる蜘蛛を発見し、これをイヨが討伐しただけだ。

 

 大したことではない。このモンスター、一般人や銅から銀級の冒険者等であれば脅威だが、その場にいたのはミスリル級とオリハルコン級の冒険者たちだ。強い敵とは言えなかった。

 

 その証拠に、主な警戒要員であるリウルとビルナス以外の者たちまでが事前に存在を察知し、こちらから討って掛かってすぐさま仕留めた。位置的に適任な場所にいたイヨがだ。

 

 その一連の流れにはまるで問題がなく、モンスターの間引きとしてこの依頼中何度も同じような光景があった。

 

 ──故に、蜘蛛を一撃の下に仕留めたイヨが立ち尽くしている事にこそ、周囲の人間は訝しんだ。

 

 この時イヨは自らの体に起こった事態を受け、ただただ困惑していた。

 

 お決まりのファンファーレがなったりはしなかった。新しいスキルを習得した旨のメッセージが出たりもしなかった、眼前、若しくは頭の中に数値的にどれだけステータスがアップしたのかが表示されることも無かった。

 

 ただ有ったのは自覚と自認──機能の拡張、性能の上昇、それが今自分に起こったという現実の認識。

 

 例えば普通、筋力は日々のトレーニングで少しずつ上昇していくものだ。

 腕立て伏せならば最初はそれを日に十回繰り返し、余裕が出てきたら十五回や二十回と数を増やして行き、何か月か何年かが経つ頃には、最初は到底できなかった連続百回の腕立てを熟せるようになる。

 その頃には、腕を初めとする各所の筋肉もボリュームを増し、元と比べて太く強い筋繊維になっている訳だ。

 

 個人差や効率の違いを考慮しても、基本的に成長というモノは時間が掛かる。筋力鍛錬の例で言うなら筋肉が疲労して傷付き、その後十分な休養を取るにつれて超回復が起こり、元より高い筋力が得られる──こういう風に。

 

 徐々に負荷を増して、一か所では無く全面的に、目的を強く意識して、各々の個性や競技に合った鍛え方し、それを継続する。これが原則である。

 

 ある日いきなり思い立って千回の腕立てを熟そうと思っても到底完遂できないし、突然限界を超えた負荷を与えられた体では継続的な鍛錬は難しいだろう。それに、そういった何となくで始めた非常に辛いトレーニングは、普通は長期間持続しないものだ。

 滅多矢鱈と身体を痛めつけても、ほとんどの場合は文字通り身体が痛むだけ。急に千回分の腕立てを熟す筋力を得る事は出来ない。

 

 ──通常はそうである。筋力鍛錬ではなく、実戦を熟すことで筋力が強くなるという事はある。実際の戦いの中で筋肉を酷使し、回復することによって筋繊維が太くなる。これは同じだ。

 

 だがこの時、イヨは自身の筋力を初めとする各種能力が上昇したことを感じていた。新たなスキルを獲得したという事も『自分の事なのだから当たり前だ』と言う様な当然の感覚で把握していた。

 

 二倍三倍といった飛躍的な上昇でこそ無かったが、例えば──階段を一歩分上った様な変化。

 

 本来は長い時間を掛けて徐々に起こる筈の変化、能力の上昇、機能の拡張。単に筋力だけならまだしも技巧のそれさえも。

 

 それが今一瞬で起きた。

 

 この現実的に考えれば不自然極まりない超常現象に、イヨは身に覚えがあった。無論現実でそんな体験があった訳では無く、ゲームの、ユグドラシルの中ではごく当たり前で常識的な『アレ』だと直感的に感じたのである。

 

 ──レベルアップだ、と。

 

 レベルアップだと割り切ってしまえば納得は出来るのだ。蓄積された経験値が一定の数値に達したからレベルが上がった、ただそれだけの出来事だと思ってしまえば。

 

 レベルアップしたなら当たり前だ、身体能力と技術を初めとする能力全般がその場で即座に上昇するのも。

 恐らくイヨが保有する上位職、マスター・オブ・マーシャルアーツが四レベルになったのだ。ならば当たり前だ、四レベルで自動取得すると定められているあるスキルを覚えたのも。

 マスター・オブ・マーシャルアーツが四レベルにアップしたという事は、イヨは合計レベル三十に達したのだ。ならば当然だ、あのパッシブスキルは一定レベル以上の拳士系職業を保有した上で三十レベルに達すれば自動取得するのだから。

 

 ゲーム的に考えれば何も疑問はない。定められた行為、即ち戦闘によって経験値を取得し、それが一定に達したからレベルアップし、取得できると決まっているスキルを得ただけ。

 

 ──わあ、訳分かんない。

 

 イヨは素直にそう思う。

 いや、『ゲームやってたら別世界に来てしまいました』なんて事態の後で今更非常識を糾弾しようとは思わないし、世界の境を跨いだ後で物理法則を気にしてもしょうがないだろうとは思うけども、地球出身者としての違和感は禁じ得ない。

 

 どんな理屈でそうなってるの、と云う奴である。

 

 ぼんやり『ゲームの姿と能力のまんまって事は、レベルアップもするのかなぁ』と考えてはいた。しかし実際に体験するとやっぱり違和感がすごい。ややこしいが、身体的感覚的に違和感が無いのも違和感の元だ。

 

 百歩譲って反射神経や筋力などの肉体面の能力上昇だけならまだしも──それだってどうなんだろうとは思う──精神力とか格闘技術とかは一体どんなあれこれで向上しているのだろうか。不思議である。

 

 使えて当然のものとして会得している新たなスキル──一日の使用に回数制限のある大ダメージ技と恒常発動のスキル──に至ってはいっそ不気味ですらある。

 

『どうしたんだ、イヨ?』

『──う、うん。ちょっとね。後で話すよ』

『そうか? なら良いんだがな、森から出るまでは警戒を怠るなよ』

『うん、了解したよ』

 

 一行は相も変わらず進んでいく。イヨは何も言わずに皆の背を追う。殿だからである。

 

 ──不気味ではあるが、この変化は大きい、とイヨは思う。

 

 レベルアップによる成長は、戦力の向上としては最も確実で重大ものの一つだ。

 

 ユグドラシルで有名な『九、十レベル差があると低レベル側の勝率がほぼゼロになる』という話がある。

 

 言うまでも無いが場合によりけりである。

 

 純魔法詠唱者系構成のプレイヤーと純戦士系構成のプレイヤーが殴り合いで勝負をする、片方は裸で片方はフル装備、遠距離攻撃手段のない相手に対し引き撃ち戦法を敢行する、多人数で一人の敵をボコる位の有利不利があれば、時として十レベル差だろうと二十レベル差だろう三十レベル差だろうと、覆ることは大いにあり得る。

 

 しかしこの話は同じ職業構成、同じ装備、正面からのぶつかり合いという前提で言うなら、ほぼ絶対の真実でもある。

 それでも尚奇跡を起こせてしまうのは、ワールドチャンピオンやワールドアイテム持ちに代表される様な次元の違う怪物位であろう。もちろんイヨはユグドラシルプレイヤーとして、ありとあらゆる意味でその域に達していない。

 

 イヨは格闘の腕という意味では最上位陣の末席に座れる位の実力はあると自負しているが、プレイヤースキルを総合的に見た場合、良くて中の上だろう。スキルの使い方や装備品の選び方などは上級者と比べると圧倒的に見劣りする。

 

 勿論、純戦力的には三十レベルという時点で下の下。仮にイヨが百人千人いようと、殆どのカンストプレイヤーに全く歯が立たないだろう。

 

 イヨのスキルの使い方、装備品の選び方は『より大きなダメージを出したいからこれを使う』『こいつは火に弱いからこれを使う』『もっと与ダメージ量を上げたいから筋力増強系を装備する、良い武器を作る』『冷気を多用してくる相手だから耐性のある防具を使う』といった程度だ。間違ってはいないが玄人とも言えない。

 

 ましてやこの世界に来てしまった以上、もうゲーム時代の様には行かないのだ。

 リビルドしたいからと言って自殺など絶対に出来ない。そこらのお店やバザーに行ってレベルにあった装備品をお手軽に購入する事も出来ない。どうしてもクリアしたいイベントに詰まったからネットで攻略法を検索しようという訳にも行かない。

 

 都市間を移動するには時間が掛かるし、食料や水も必要だ。食わねばペナルティどころか餓死するのだから。友達と一緒に転移して高効率の狩場で拠点狩りもできない。

 

 これからはモンスターが跋扈するこの世界で、冒険者としてやっていくのだ。依頼の失敗は自分と仲間、それにもっと大勢の人々の命に関わる。実際に生きる人々の命が掛かっているのだ。

 

 多くの先輩方の助勢によってミスリル級という、沢山の冒険者の上に立つランクを得た。今イヨが背負う責任は、時と場合によっては町一つ都市一つの命運を左右しかねないものだ。

 

 今回の依頼で、イヨは肉親を失った村人たちの涙を見た。仇を取ってくれてありがとう、と礼を言われた。死者の鎮魂はもとより今を生きる我々も救われた、お陰でこれからも暮らしていける、との言葉も賜った。

 

 身が引き締まる思いであった。

 

 もっと強くなろう、とイヨは隊列の最後尾で静かに拳を握る。

 

 篠田伊代は子供っぽく、明るい話題や楽しいお話が好きな人間で、お調子者の気もある。酒が入ると一層その傾向が顕著である。その性質は単純で純粋、悲しくなれば泣くし、楽しければ笑う。

 辛い出来事や悲しい出来事をも乗り越えて、前進する力に変える事の出来る強い少年なのだ。そして──愛情と親しみをもって他者と接する事の出来る男であった。

 

 イヨは知っている。ユグドラシルプレイヤーとして、三十レベルを遥かに超える──こちらの世界において難度百以上とされるモンスターたちの存在を。こちらの世界にいないという保証はない。

 

 ──いや。一夜で国を滅ぼしたとされる吸血鬼、国堕としや多種多様な魔神に代表される様に現在に伝えられている伝説等からして、数は少ないながらも存在していると考えた方が良い。

 

 もっと強くなろう、僕だけでは無くみんなで、とイヨは思う。

 

 イヨにとって冒険者という職業は、初依頼を熟している最中のこの時既に、元の世界に帰る方法が見つかるまでの繋ぎではなくなっていた。

 

 イヨは思う。自分には、『元の世界に帰れればまた会える』という可能性、心の支えがあると。

 もう二度と会えない『かもしれない』という自分が抱える不安と悲しみどころではない。肉親を失った人々はもう二度と、絶対に愛する人に会えないのだ。

 

 もし両親や弟妹、祖父母、親友が死んでしまったらと思うとイヨは泣きそうになる。頭の中で考えただけでこんなにも悲しいのなら、実際にその体験をしてしまった人々はどれだけ辛いのだろうか。

 

 自分がもっともっと強くなる事で一生懸命に暮らしている人々の悲しみや辛さを減らせるのなら──自分のたった一つの取り柄であるこの腕っぷしの、これ以上の使い道は無いと思えた。

 

 今までよりもっと強くなる為にと改めて考えれば、思い至ることは沢山ある。

 

 良く良く考えれば、イヨは練習において以前の常識を引きずっていた様に思うのだ。

 

 四肢欠損級の、選手生命はおろかガチの生命が危うくなる様な怪我でもポーションを飲めば即座に治癒するのだから、練習はもっともっと実戦的に、質量ともに厳しくやっても大丈夫なのだ。

 筋力鍛錬の効果は治癒を受けると消えてしまうので頼り切りにはなれないが、格闘家や運動選手は怪我との戦いだ。どれだけ効率的かつ安全に、限界寸前まで体を痛め付けるかに神経を使っている。怪我が常態化して関節等が半ば壊れたままになっている様な選手は多い。ボロ屑になった関節や切れた靭帯を即座に修復して、全き健康体で練習や試合に復帰できるのは夢のような環境である。

 

 仕事や先輩方からの習い事、各方面とのお付き合いを除けば一日フリーの日も多い。そうした日には朝練、午前練、昼練、午後練、夜練と、日の半分以上を練習に使える。合宿並みの練習量になるが、休息をしっかり取って回復させれば身体は持つ。

 

 かねてより気にしていたこの細く小さな体も、大きくしたい。いくらレベルアップでも戦力は向上するとはいえ、同じ程度の技量力量を有する者同士の戦いにおいて、大きく重い方が有利なのは変わらない筈である。

 リアルの篠田伊代の身体はどれだけ努力しても小柄なままだったが、この身体までそうであるとは限らないのだ。男の十六歳は普通、成長期の真っただ中である。空手道選手として夢にまで見た『大きく強い身体』を実現することも可能やもしれない。

 

 人間をはじめとする生き物は、所詮食べた物で出来ている。イヨは普段から体格の割に人一倍食べる方だが、食べる事も練習と思って、丈夫で強い身体を作るためにもっともっと食べなければ。

 

  元より自分が強くなるための鍛錬は、イヨの生態の一部とも評し得るほどに、イヨの人生に浸透していた。其処に、また一つ新たな意味が刻まれた形である。

 

 クラーケン討伐、薬草の採取、モンスターの間引き。これら三つの目的を達成した【スパエラ】と戦狼の群れ】は、行きと同じだけの日数を掛けて公都に帰還を開始。

 

 ちなみにその道中、イヨがそれとなく『僕強くなったよ』と口にした際、

 

『本当かよ、何時だ? あれって大体強いモンスターを倒した時に起こるけど、お前クラーケン戦の時そんな素振り見せなかったよな』

『あれか──冒険者稼業を始めてから何度も体験して居るが、どういう原理で起きる現象なのかのう』

『はっきりとは解明されていない筈だな。確か定説は、極限状態で超回復に似た現象が起こる事による異常活性、倒した相手の魔力や生命力を取り込んでいる、後は──』

『あ、宗教界では神々が人間にくれる祝福って考えが主流なんですよ。おばちゃんも一応神殿付きの神官なので、その説を支持してますよー』

 

 との会話を聞き、内心で『え、この世界の成長ってレベルアップ制もあるの……!?』と仰天した。世界が違えば何もかもが違うという事を改めて認識したイヨであった。

 

 そして帰ってから依頼達成と全員の無事を祝って騒ぎ──その次の日から、各々鍛錬の日々に戻ったのである。そして知っての通り、組合裏手の習練場はイヨの登場によってかつてない大盛況が連日続く事となった。

 

 

 

 

「あれ、【赤き竜】のみなさんじゃないですか。こんばんはです、どうなさったんですか?」

「ああなに、折角昼に誘われたものだからな、練習に付き合ってもらいたくて。今大丈夫か?」

「勿論です、ありがとうございます! やっぱり一人よりみんなで練習した方が良いですから、願ったり叶ったりです!」

「それは良かった。──イヨ・シノン!」

「はい?」

「──負けないからな、アダマンタイト級になるのは俺たちだ!」

「──僕だって負けませんよ、もっともっと強くなるんです!」

 


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