IS インフィニット・ストラトス ~天翔ける蒼い炎~   作:若谷鶏之助

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「……は?」

 

 呆気にとられる、というのはまさにこういうことを言うのだろう。俺は一夏ラバーズの言ったことが全く理解出来ず、ただ呆然としていた。

 

「い、いや、待て待て。意味が分からん」

「だーかーら、付き合ってって言ってんのよよ!

 

 ……もしや、俺は告白されているのか?

 何かの間違いだと思うが、ここは丁重にお断り申し上げる。

 

「す、すまないが……無理だ」

「何故だ! 理由を言え、理由を!」

 

 箒がずいっと顔を近づけてくる。

 

「り、理由と言われても……お、俺たちは仲間だろう?」

「仲間なら尚更受けるべきではないのか!」

「と、とにかく無理だ!」

 

 唐突過ぎるのと、三人同時に来たというのが理由と言えば、理由。

 ――だが、それ以上に引っかかる『何か』があった。心の奥底の、形にもならないほど小さな、言うなれば『しこり』のようなものが。言葉には出来ないが。

 

「そんな、断るなんて! 酷いよ!」

「そ、それはそうだが、これは簡単に決めていいことではなくてだな……!」

「どうしてよ!」

「どうしてと言われても……!」

 

 シャルロットと鈴音からも非難が飛ぶ。半分パニックに陥った俺は、叫ぶようにして言う。

 

「か、簡単に決められるかっ! 男女の交際だぞ!?」

「そ、そんなっ! 買い物ぐらい付き合ってくれても……! ……って、え?」

「……は?」

 

 

 

 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

 

 

 数分後。そこには、正座をさせられた三人と、ベッドの上で憤慨する俺がいた。

 

「……お前たちに言っておかなければならないことが三つある。一つ。夜中に騒ぐな。二つ。三人一斉に頼みごとをするな。そして三つ。大事な部分を省略するな。……以上」

「はい……」

 

 項垂れる三人。

 全く、こいつらは。誤解を招くようなことを言わないで欲しいのだが。

 一体どこのどいつが付き合ってくれと言われて、まず買い物を思い浮かべる? そんなことを考えるのは――……。

 ……前言撤回。約一名いた。

 それはさておき、まずは事情を説明してもらおう。

 

「……で、何故俺に頼む?」

 

 俺がそう尋ねると、シャルロットが話した。

 

「そ、それはね……かくかくしかじかで……」

 

 話をまとめると、どうや三人ともまだ一夏へのプレゼントを用意できていないらしい。急いで用意しなければならないが、そこで何を買っていいのかが分からないという問題が。

 

「……そこで、俺に白羽の矢が立った、と?」

 

 三人が頷く。

 まあ、確かに俺なら一夏と幼馴染で、同じ男だし、力になるだろう。それで同時に行動を起こした結果、三人が殺到してきたという訳か。

 全員で行けばいいのでは、と思ったが、どうやら妥協する気は無いらしく、説得には骨が折れそうな予感だ。

 

「だからさ、今週末に一緒に買い物に来て欲しいんだ」

「違う。翔は私の買い物に付き合ってもらう」

 

 シャルロットの言葉に、ビシッと一言。箒だ。

 

「何で!? 翔は僕と一緒に行くんだよ!」

「違うわよ! 翔は私と買い物するの!」

 

 鈴音がすかさず割り込んだ。

 

「ま、待て。落ち着け。全員で行けば――」

「大体、最初に翔の部屋に行こうとしたのは私なんだから! あんたたち、後から来た分際で図々しいのよ!」

「出たタイミングなんて関係ないよ! 僕の方が早くこの部屋に入ったんだから、僕が一番!」

「…………」

 

 俺の言葉は圧殺された。なんと我の強い連中だろうか……。

 身を乗り出してそれぞれ主張する三人だが、箒だけは雰囲気が違った。何というか、余裕のある様子だ。ふふふ、と箒が不気味な笑いを漏らす度、長いポニーテールが揺れた。

 

「……何よ箒」

「残念だったな。翔は私と一緒に来るぞ!」

「な、何でさ!」

「翔は約束してくれたからな。わ、私と一夏を、その、仲良くしてくれる、と!」

「そ、そんなっ!?」

 

 シャルロットと鈴音が俺をまさか、と言った様子で俺を見上げた。

 ……確かに嘘ではないんだがな。半年も前だぞ?

 

「で、でも、翔は私とシャルロットを捨てたりしないわよ。そうでしょ、翔?」

 

 そうでしょ、と言われても……。

 箒が約束は覚えているな、とこちらを睨み、シャルロットと鈴音がそんなことないよね、と期待するように俺を見る。

 

「箒」

「な、何だ?」

「確かにそうは言ったが、それは半年も前だろう。今となってはお前一人を贔屓にするわけにはいかない」

「そ、そんな!」

「……シャルロットも鈴音も、同じ仲間だからな」

「翔……」

 

 さて、これでフラットだ。やっと『全員で行けばいい』という妥協策を提案できる。

 そう思った矢先、シャルロットの目がキラリと光った。

 

「……ズルいよね。箒と鈴は」

「え?」

「だって、一夏の誕生日を知ってたのに、僕に教えなかったんだから。僕なんて、知ったのはついこの前なんだよ?」

「うっ……」

 

 言葉に詰まる箒と鈴音。

 やはりそうだったのか。コスいぞ二人とも。

 

「そんな二人が、今更プレゼント用意してない、って翔に泣きつくのはおかしいんじゃないかなあ?」

「…………」

 

 何も言えない二人。まあ、一応筋は通っている。

 

「だからさ、翔。僕と一緒に行こうよ。ね?」

 

 にこり、とシャルロット。

 だが、黒い。腹黒いぞシャルロット。俺はその柔らかな笑顔の奥に、してやったりと言わんばかりの黒い思考を垣間見た。

 

「……そう言うシャルロット。あんた、文化祭のとき抜け駆けしたでしょ」

 

 どう説得しようかと悩んでいたところ、鈴音が反撃に出た。ぴし、とシャルロットが固まった。

 

「……え?」

「知ってんのよ。一夏と回るときは二人きりになるところは行かないって決めてたのに……」

 

 じとっとした視線でシャルロットを非難する鈴音。ぎくりとするシャルロット。

 

「あ、あはは~……。な、何のことかなー?」

「誤魔化しても無駄よ。目撃情報もあるんだからね。……料理部で仲良く逢引する、執事のメイドの姿をね」

「シャルロット、貴様……」

「あ、あはは……」

 

 いつの間にか、今度はシャルロットが二人に追い詰められていた。

 

「ね、翔。シャルロットはあんなだからさ、私と一緒に行かない? 来てくれたらご飯くらい奢るわよ?」

「うわあっ、鈴ズルイよ! ご飯で翔を釣ろうとするなんて!」

「うっさいわね! 翔がイエスって言えばそれでいいのよ!」

 

 何という理論。らしいと言えばらしい。

 

「あのだな、俺は――」

「ほら、翔だってその方がいいでしょ? ついて来て何にも無しじゃ損だもの。こんな腹黒金髪女なんかと買い物するより、よっぽど楽しいわよ」

「鈴の……貧乳」

 

 ボソリ。

 

「……はああああああ!?」

 

 ぶちっ、と何かが切れる音がした。

 ……戦争の予感がする。

 

「い、言ったわね……! 言ってはならないことを、言ってしまったわね……!」

「ふむ、事実だな」

「なっ、なななななぁっ……!? じ、自分がデカいからって、この牛女ぁ……!」

「――う、牛……っ!?」

「牛じゃないのよ! 何、そんなでっかい乳しちゃってさあ! あんたなんか乳牛よ、乳牛!」

「き、き、貴様ぁ……!」

 

 箒は額に青筋を走らせ、(いつ持ち込んだのかは不明だが)ゆらりと木刀を引き抜く。

 

「成敗してくれる!」

「覚悟しなさい! そこの金髪腹黒ボクっ娘女もよ!」

「かかって来なよ!」

 

 ドーン。バタン。ボーン。ズバン。

 落下、激突、破壊、切断。

 

「…………」

 

 頭痛がする。ここらで終わらせないと、永遠に醜い争いが続きそうだ。面倒だが、ここは何とかしよう。

 

「そこまでだ! それ以上争うなら、俺は誰にもついて行かないぞ」

「…………」

 

 ピタリ。三人が一斉に動きを止めた。

 ――よし。とりあえずは黙らせた。

 

「あのな、何を争う必要がある? 俺たち全員で行けばいいだろうが」

「そ、それじゃ……!」

「何を買ったかバレる? それなら着いてから別行動すればいい。時間を決めて均等に俺がつけばいいだろう?」

「それなら……」

「確かに……」

 

 とりあえずは納得した様子の一夏ラバーズ。

 そこからヒートアップした三人をなだめて、握手でもって停戦協定とした。握った手からギリギリと締めつける音が聞こえた気がしたが気のせいだろう。

 ……長かった。ここまで来るのに何分かかったことか。

 

「今週の土曜だったな。後で連絡する」

「あ、ありがとう!」

 

 じゃあこれで、と一夏ラバーズは退室しようとするが、俺は待て、と引き止めた。

 

「やめておけ」

「え? な、何故だ?」

 

 俺は部屋の入り口を無言で指差した。

 

「おい」

「ひいっ」

 

 一夏ラバーズの顔がビシリと固まる。

 ……そこには、泣く子も黙る鬼神こと、織斑先生がいらっしゃった。あれだけ派手に大騒ぎしたから、織斑先生が気付くのは当然である。

 あいつらを引き止めたのは、どうせ逃げられない上、逃げたところでお仕置きの度合が増すだけだからだ。どうやら鬼神も潔い人間の方が好みらしいのでな。

 まあ安心して欲しい。何も制裁を受けるのはお前たちだけではないからな。勿論俺も、逃げられない。

 

「馬鹿者共がっ! 夜に大声で騒ぐやつがあるか!」

 

 鬼神の怒号が部屋に轟いた。一同はすくみ上がる。

 ――せめて、徹夜で反省文コースだけは勘弁してくれ。ただ、そう祈った。

 

 

 

 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

 

 

 一夏ラバーズが翔の取り合いを演じている頃。更識簪は、自室のベッドで物思いにふけっていた。

 

(……天羽、翔)

 

 世界で二人目の男性IS操縦者。一組の専用機持ちで、学年屈指の実力者と名高い。豊富なISの知識を持ち、さらにはサイバー関連にも強い。生徒会副会長にも抜擢されている。そんな彼と、自分は毎日同じ場所で作業をしている。

 同じクラスの生徒が、彼のことを毎日のように話をしているのを聞く。

 

(私には、どうでもいいこと……)

 

 ついこの前まで、簪はそう思っていたが、今は違う。

 背中合わせで作業をし始めてから、簪の中で、天羽翔という存在が大きくなっていた。最初は邪魔だとしか思わなかった。でも、徐々にそれは興味へと変わっていった。

 噂通りのISの知識。さりげない優しさ。食べることへの異常なこだわり。――そして、投げかけられたあの言葉。

 

「何故、一人にこだわる?」

 

 そう尋ねられたとき、簪は平静を装っていたが、内心では激しく動揺していた。

 簪が何故、一人にこだわるのか。それは言うまでもない。生徒会長である姉、更識楯無に負けないためだ。

 簪はいつも姉の後ろにいた。昔から引っ込み思案だった簪は、明るく社交的な姉の背中に隠れているしかなかった。

 いつからだったか。その姉の背中を見て、劣等感を感じるようになったのは。認められていく姉と、疎まれていく自分。どちらが『楯無』になるかなど、目に見えていた。

 

「何故、一人にこだわる?」

 

 天羽翔の言葉がリフレインする。

 何故?

 専用機持ちなのに、専用機が無いから? 違う。一人でやることとは全く関係が無い。

 織斑一夏が憎いから? 違う。織斑一夏のことなど、どうでもいいことだ。

 一人でやるのは、姉を見返すためだ。いつもいつも前を行く姉が、才能に溢れる姉が認められる姉が……憎いからだ。

 ――『憎い』?

 簪の思考が停止する。

 『憎い』? 本当に? 『憎い』から、苦手なの? 『憎い』から、嫌いなの? 『憎い』から、見返すの?

 違う。きっと、違う。本当は――。

 そこまで思考が至ったとき、簪は頭をぶんぶんと振って頭の中をクリアにした。

 自分の本心に、気付いてはいけない気がした。半年も前から続けてきたことの支えを失ってしまいそうだったから。

 

「何故、一人にこだわる?」

 

 天羽翔が、何故こんな自分に構ってくれるのか、理解できない。姉の差し金か思ってしまったくらいだ。

 ――でも。それでも。心のどこかで、翔に会えるのを楽しみにしている自分がいるのを、簪は理解していた。

 

 

 

 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

 

 

 翌日。

 地獄の折檻のダメージはそのままに、俺たちは授業を受けている。

 昨夜のお仕置きの内容については触れない、というか触れたくない。ただ、俺たちの心に深いトラウマが刻まれた、とだけ言っておこう。

 

「はい、それでは皆さーん。今日は高速機動の実習をしますよー」

 

 副担任の山田先生の愛らしい声が第六アリーナに響き渡る。相変わらず教師とは思えないほど幼い声だ。これでも舐められないのは、この人が教師相応の実力を持っているからに他ならない。

 ISを装着するので、当然生徒たちはISスーツ姿になっている。入学当初の俺ならいるだけで卒倒ものだが、今は平気だ。我ながら、成長したものである。

 ……目を閉じて極力周囲を見ないようにしているのは、気にしないでいただきたい。これは実習中のデフォルトである。

 

「この第六アリーナでは中央タワーと繋がっていて、高速機動実習が可能であることは先週言いましたね?」

 

 生徒たちが頷く。

 俺たちは今日初めて実習に入る。だが、事前に高機動状態については学習をしていた。その際にこの第六アリーナのシステムについても説明を受けたので、ここの使い方も知っていた。

 

「それでは、今から専用機持ちの皆さんに実演してもらいましょう!」

 

 先生はそう言って、適当な専用機持ちを探す。先生が指名したのは、セシリアと、俺。

 

「まずは、高速機動パッケージストライク・ガンナーを装備したオルコットさん!」

 

 指名されたセシリアは「お任せください」と前に出た。

 すぐにセシリアが光に包まれ、その身に高機動パッケージ仕様のブルー・ティアーズが現れた。

 ブルー・ティアーズの高機動パッケージストライク・ガンナーは、通常は武装として用いる各種ビットを封印し、それら全てを腰部に接続、推進力にあてることで機動力を高めた装備だ。

 選ばれたセシリアに対してラウラが抗議していたが、選ばれないのは仕方がない。セシリアしか高機動パッケージがインストールされていないのだから。

 それに、ラウラはまだ高機動状態が苦手だ。出しゃばって恥をかくのがオチだろう。

 

「オルコットさんは一年生の中では最も長い高機動訓練を積んでいて、とてもお上手です。皆さんのいいお手本になると思いますよ」

 

 山田先生の言う通り、セシリアは入学前に行われた高速機動演習でトップの成績を出している。高速機動に関してはセシリアに一日の長があると言っていい。

 

「そして、通常装備ですが、出力調整によって擬似高速機動装備にした天羽くん!」

「イェーイ!」

「天羽くーん! がんばれー!」

 

 クラスメイトから歓声が上がった。がんばれ、と言われてもな……。

 俺は黙って前に出て、蒼炎を展開した。さっきのセシリアのように光に包まれた後、俺は蒼い装甲を纏う。高機動仕様の蒼炎のお披露目だ。

 一拍置いて、背中のウイングスラスターが開き、光の翼が出現した。翼が広がり、あたりに蒼い粒子が舞う。

 生徒たちが「おおーっ」とどよめいた。第二形態移行してからは、専用機持ち以外に見せる機会が無かったからな。

 普段、孔雀は高出力状態でしか光の翼を見せないが、高機動モードの蒼炎は常に発動状態にしてある。

 俺は皆が送る声援に適当に答えつつ専用バイザーを下ろした。バイザーを通した景色は、今までよりも遥かに鮮明に見える。かなり高感度なので、下手をしたら酔いそうだ。

 

「セシリア、リードしてもらえると助かる。きっとセシリアの方が上手い」

「了解しましたわ。……うふふ」

「どうした?」

「いえ。翔さんのリードをするなんて、あまり無いことですので」

「……そうか?」

 

 この前の文化祭でも引っ張られて歩いた気がするのだが……。

 

「でも、これからのデートでは、しっかりリードしてくださいね?」

「……善処する」

 

 自信は、無い。

 

「では、今から二人には三周して来てもらいます! 準備はいいですか?」

「構いません」

「いつでもよろしくてよ」

「はい。……それでは、三、二、一……ゴー!」

 

 山田先生の合図と同時に、二つの蒼い機体が大空へと舞い上がった。

 通常時よりも数段早い上昇で、俺とセシリアはぐんと高度を上げていく。

 あっという間に目標の高度へ到達した二つの蒼い機体は、今度はその推進ベクトルを前方へと傾け、一気に加速した。

 不思議な感覚だ。これほどの速度で飛行しているにも関わらず、通り過ぎる景色は鮮明そのもの。瞬時加速(イグニッション・ブースト)ほどの強烈なGは感じないが、この感覚はあれに近い。――そう、まさに『風を切る』感覚。

 これは臨海学校のとき、急いで戦場へと向かったとき以来だろうか。ただ、あのときはそんなことを考える余裕は無かったから、新鮮さを感じる。

 

「では、お先に♪」

 

 ぎゅん、とブルー・ティアーズが俺の横を通り過ぎ、俺の前に出て先導する。

 超速状態でありながら、セシリアの機動は非常に安定していて、危なさは全く感じられない。流石は代表候補生だ。

 さて、間も無く一周。ここまで来ると俺もこの感覚に慣れた。ついでに武装の状況もチェックしておいた。問題なし。

 俺もさらに加速して、前を飛ぶセシリアに追いついた。

 

「あら、リードはもうよろしいのですか?」

「ああ、もう慣れた。ありがとう」

「……相変わらず優秀ですこと」

「まあ、初めてじゃないからな」

 

 セシリアが微笑した。

 縦並びだったさっきと違い、俺とセシリアは横並びになって飛行していた。

 ――静寂。言葉は無かったが、必要だとも思わなかった。

 

 ふと横を見ると、セシリアと目が合った。途端にセシリアの顔が紅く染まり、目を逸らした。

 ……そんな反応をされたら、俺だって照れる。

 それから少しして、セシリアが口を開いた。

 

「……翔さん」

「何だ?」

「――いえ。何でもありませんわ」

 

 ……意味深だ。気になる。

 しかし、それから先着地するまで、セシリアは何も言わなかった。

 

 

 

 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

 

 

(翔さん……)

 

 セシリアは翔と飛んでいるこの時間、不思議な幸福感に満たされていた。

 二人きりである。たったの三周とはいえ、他の生徒の邪魔は入らず、会話はプライベート・チャネルでの会話故外には聴こえない。間違いなく、二人きりであった。

 セシリアは横で飛んでいる翔の横顔を見た。思わずため息が出る端正な顔だ。そんな彼の横顔を見ることは、ある意味真正面から見るよりも魅力的であるように思う。

 きっと生涯忘れることは無いであろう、あの夏のひととき。あのときも、こうして二人並んで歩いた。控えめにだけれど、確かに手を繋いで。

 

(え、えっ!?)

 

 ――そんなとき、翔と目が合った。

 セシリアは咄嗟に前を向いて視線を逸らした。

 

(は、恥ずかしい……)

 

 横顔に見惚れて、あまつさえそれを翔に見られるなんて。

 赤くなるな、と必死に念じたが、努力虚しく顔はどんどんと熱くなっていく。鈍感な翔が気付かないことを祈りつつ、セシリアは本来の仕事へと集中した。

 ここで、もう三周目に入っていることに気付く。つまり、この不思議な幸福感のある空間とも、あと少しでお別れである。

 セシリアはプライベート・チャネルを開いた。

 

「……翔さん」

「どうした?」

 

 ――いや、やめた。

 

「――いえ、何でもありませんわ」

「ん?」

 

 怪訝そうな顔をする翔の姿が見ずとも分かって、セシリアはくすりと微笑む。

 セシリアは心中で、紡ごうとした言葉を紡ぐ。口には出さなかったけれど、今胸にある純粋な想いを。

 いつか、あなたとまた二人で――。

 お互いに想い合う、そんな関係で――。

 セシリアはそんなささやかな願いを、そっと心の奥に仕舞い込んだ。


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