IS インフィニット・ストラトス ~天翔ける蒼い炎~ 作:若谷鶏之助
「ついに、来ちゃったわね……」
中国、某省。その地にあるとある一つの民家を前に、小柄な少女――凰鈴音が呟く。トレードマークのツインテールを風に揺らしながら、鈴は肩にかついでいたボストンバッグを下ろし、家のドアをノックした。
五秒もしない内に、ドアが開いた。ドアを引いているのは、ストレートロングの髪の毛をした女性。その女性は鈴の姿を見るなり、ぱあっと笑顔になった。
「鈴音!」
駆け寄って、ぎゅっと鈴を抱きしめるその女性。身長差が一〇センチくらいあるので、鈴の体はすっぽり収まった。
「……
女性は労うように、慈しむように鈴の髪を優しく撫でる。
そう、この人の抱擁は、いつもこんな感じだ。がっと力いっぱい抱きしめるんじゃなくて、そっと、壊れものに触れるような。優しい人柄がそのまま現れた愛情表現だ。
「
無償の愛を受け、穏やかな気持ちになる。鈴はその女性の――母の背にゆっくり手を回した。離れていたからこそ、この温もりが嬉しい。
――夏休みのある日。凰鈴音は、故郷へ戻った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ママー、これ仕上げちゃうけどいい?」
「いいわよ。ありがとうねー」
「はーい」
鈴は明るい返事を飛ばしながら、鍋の中の具をひっくり返して味付けをする。
二人は今、夕食の準備中だ。手持ち無沙汰になって母に夕食の手伝いを申し出たところ、最初は母は帰ってきたところなんだからと遠慮したが、鈴がいいから、と念を押したら折れて手伝わせてくれた。
鈴は昔から料理か好きだった。両親が経営していたのが中華料理店だったので、家に帰れば美味しいご飯が待っているのが自慢だった。キッチンで働く二人を見て、いつか自分もやってみたいと思い、フライパンを握ったのが鈴の料理の原点だ。それが一夏とのあの約束に繋がり、そしてその約束がIS学園の生活につながったと思えばなかなか感慨深い。
そんなことを考えている内に、料理が仕上がった。
「ママ、できたわよー」
「はーい。それじゃあ、食べましょうか」
食卓にずらっと並ぶ、見た目鮮やかなご馳走の数々。中には鈴が作ったものも一品二品ある。二人で食べるには多い量だが、鈴の久しぶりの帰郷で母がご機嫌なので、気合が入りすぎてしまったのだろう。ご愛嬌ね、と鈴は苦笑した。
食卓をはさんで、二人で座る。いただきます、と日本での生活で身についたルーティンをして、待ちきれない鈴が箸を伸ばし、母娘の晩餐が始まった。
「あ、そうそう、鈴ちゃーん?」
「何よ?」
好物の酢豚をもりもり頬張る鈴に、母が話を切り出す。母の顔がニヤニヤしているから、どうせ「あの」話題だろう。
「……久しぶりに会えた一夏くん、どうだった?」
「…………」
ほら来た。
「……別に。相変わらず元気そうだったわよ」
「よかった。男性でIS動かしちゃって、精神的に参ってないか心配してたのよ」
「あいつがそんなになるわけないしょ。筋金入りの鈍チンだから」
それもそうね、と母が笑う。
よく鈴の実家の中華料理店にも顔を出していた一夏や弾は、鈴の両親とも交流が深い。それが祟ってか、鈴が仲良くしていた者たちは、鈴が引っ越していなくなったことより、鈴の両親の料理が食べられなくなったことに涙したそうだ。薄情な友人共には怒りを通り越して呆れを感じた鈴だった。それをぽろっとIS学園で再会した一夏が漏らし、その日の模擬戦で鈴にボコボコにされたというのは余談だ。
「それで、例の約束は?」
「ッ……!」
例の約束――「毎日酢豚を作ってあげる」約束。一番突っ込まれたくない部分だった。鈴は赤くなった頬を誤魔化そうと箸で料理を摘んだ。
「どうなったの?」
「…………」
例の約束の意味を教えてくれたのは、他でもない母だった。本当は味噌汁だけど、鈴が自信持って作れる酢豚にしちゃえ、とのアドバイス付きで。それから母は、毎日酢豚食べてたら、太っちゃうけどね、と付け加えたのだった。
まあ、母には報告してもいいだろう。あの笑える結末を。
「……あいつ、勘違いしてた」
「勘違い?」
「一夏のやつ、あの約束のこと、タダ飯食わせてくれる約束だと勘違いしてたのよ!」
怒りのあまりテーブルをバン、と叩いた鈴。一応許した鈴だが、それでも悔しいのは変わらない。
「あたしがどんだけ勇気出して言ったと思ってんのよ! 恋する乙女の一世一代の告白を、あいつは……!」
その怒りは、まとめて料理に向かう。口で文句を垂らしながら、鈴は料理をかっ込む。気がつけば、鈴の周辺の皿は更地に早変わりだ。
「ねえママ、これどう思う!?」
サイテーだと思わない!?
鈴はがーっと母に訴えるが、母はさもありなん、と言った様子。何故と鈴は膨れるが、母は手をひらひらさせて鈴を諌めた。
「まあ、そんなことだろうと思ったわよ。あの鈍感の一夏くんが、約束の意味をちゃんと分かってるわけない、ってね」
「……え」
……と、ということは。
嫌な予感がした。母がにっこり笑う。
「最初から気づいてたわよー?」
「ママ!?」
どこかでずこーっとスベる音が聞こえた気がした。一番応援してくれていた人が、約束の勘違いに気づいていたなんて!
「親として、精一杯娘の可愛い初恋を応援していたわけだけど、流石に相手が悪かったかしらね。一夏くんが勘違いしてるのは分かったけど、それを浮かれてニコニコのあなたに言うのも酷だと思ってね。黙っててあげたのよ」
「…………」
くすくす笑う母。くそう、と鈴は内心で地団駄を踏んだ。
結局、母の掌の上だったことが分かってがっくりする。今まで母に勝てたことは一度もないが、今回もまんまと一本取られた。悔しい。
さらに飯をかっ食らう鈴。二人で食べるには多いはずのご馳走は、既に三分の二が更地化している。
「ほらほら、そんなにむっとしないで」
「……もう」
からかわれて恥ずかしくなった鈴は、また夕食を口に放り込むのだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「うっぷ……」
夕食後、鈴は自室のベッドに寝転がって腹を押さえていた。
「た、食べ過ぎねこれは……」
動揺を隠そうと暴食したのが原因のようだった。普段食が細いわけではないが、流石に食べ過ぎだった。
限界くらい自分でわかっていたはずなのに。存外鈴も母と再会して舞い上がっていたのかもしれない。
「うぅー、きっつぅ……」
このまま寝ていてもしんどいだけだと判断した鈴は、よろよろと立ち上がり、ベッドの脇にあるタンスを見つめた。その上には、額に入った写真が……今は一つ。それは日本から引っ越すとき、仲の良かった中学の友達と撮った写真だ。一夏が目を瞑っていて、弾が最高に変な顔で写っていて、御手洗数馬――まだIS学園に来て会ってない友人はわざとケツを向けているという、四六時中バカばかりやっていたあのときの集大成のような一枚だ。そんな写真だが、いやだからこそ、鈴は大事にしていた。
そして、以前まであったもう一枚が、家族の写真だ。
「パパ……」
ぽつり、と今は会えない一人の家族を呼ぶ。
鈴の両親が離婚したのは、今から一年ほど前。中学二年の終わりで中国に戻ってきたが、それは両親が離婚したからだった。何が原因だったのか、鈴はよく知らない。ただ、二人の喧嘩はとても増えていた。日に日に険悪になっていく両親を不安げに見守っていた鈴。大好きな両親が離れ離れなるなんて考えたくもなかったが、その思いも虚しく両親は離婚。女尊男卑社会の情勢を鑑み、親権は母親が持つことになった。遠い場所に住む父とはもう一年以上会っていない。寂しくないと言えば嘘になる。母と同じくらい、父も好きだったから。
「…………」
中国に帰ってからの鈴は途方に暮れていた。日本の友人たちと別れ、父親とは会えず、友達はいない。急激な環境の変化に、心が磨り減っていた。
そんなとき、ふと見つけたISの適正検査。そこで好成績を出した鈴は、一応の目標として、世界最強と言われる兵器ISの操縦者になることを目指した。勉強は好きではなかったが、何かに取り憑かれたように鈴は猛勉強に打ち込んだ。程なく、努力が報われて鈴は中国の代表候補生となった。それから甲龍を受領して、専用機持ちとして首都にあるIS操縦者が集められる学校へ通うことになった。IS学園への入学話も出ていたが、鈴はすべて無視していた。しかし、引越しの準備をしていた飛び込んできたニュースに鈴は驚愕する。
――一夏が、ISを動かした。しかも、急遽IS学園への入学が決まった。
それを知ってからの鈴の行動は神速の一言だった。ニュースを見るなり進学予定の高校に、あれだけ拒否していたIS学園への転入を申し出た。元々国側にとってもおいしい話であったので、鈴の転校はすぐに決まった。
「それから、いろいろあったのよねえ……」
お腹の痛みが治まってきたので、再びベッドに横になった鈴。
IS学園に転入し、二組のクラス代表になり、一夏と再会し、それからクラス
シャルル改めシャルロットと、ラウラが入学してきた六月。箒やセシリアたちとも仲良くなって、シャルロットも加えていつもつるむようになった。そしてラウラと戦って屈辱を味わい、タッグマッチでは箒と組んで決勝まで勝ち上がった。シャルロットが女だと発覚し、ラウラが翔の妹になるとか言い出したのもこの頃だった。
臨海学校があった七月。お気に入りの水着を着て、皆で海で遊んだ。中学以来に楽しい思い出ができたが、そのあとの銀の福音、
それでも、鈴は冷静だった。冷静に状況を判断し、今自分が為すべきことは何か、しっかりと理解していた。だが、それはセシリアとは違っていた。セシリアは翔への想いと、責任感で涙を押さえ込んでいただけ。
しかし、鈴は違う。鈴は自分の心と完璧に折り合いをつけ、中国の代表候補生として、任務に望んだ。そこに翔がいなくなったことへの悲しみや、敵への怒りは……無かった。決して鈴が薄情というわけではない。ただ、鈴はしっかりと公私を分けただけのこと。だが、正直なところ、鈴はそんな自分が嫌いだった。
「……あー、やめやめ!」
鈴はくよくよと悩むのが嫌いな性分だ。ぶんぶんと頭を振って、内向きの思考をさっさと追い払った。
鈴は思考の切り替えが早い。悩みがあろうが、それに短時間で結論を出して切り捨てる。それは間違いなく鈴の美点であり、そのどこかサバサバした部分が翔と馬が合う理由だった。
過度の満腹の痛みが程よい満腹に変わり、鈴の脳を睡魔が襲い始めた。抵抗する気もない鈴は、瞼を閉じて眠りに落ちていった――。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
その日、鈴は夢を見た。それも最悪な夢だ。――両親が離婚して、泣いている夢だった。
主人公は両親が離婚してすぐの自分。それを俯瞰するように今の自分が見ている。
いや、夢じゃないわね、と鈴は気づく。これは自分自身。過去の自分を、成長した今の目で見ているのだ。
「……ねえ、誰か答えてよ。どうしてあたしだけ、こんな目に遭うの?」
泣きながら過去の鈴は言う。知らないわよ、鈴は答えた。
「小学校の頃、あたしいじめられてたでしょ、中国人だからって。あたしが何したっていうのよ。あたしはただ、パパとママについてきただけなのに!」
知ってるわ、そんなの。いいじゃない、それで一夏と仲良くなれたんだし。
「一夏とももう離れ離れじゃない! パパとママ、離婚しちゃうのよ! それなのに好きな人ともお別れなんて、嫌よ!」
何ダダこねてんのよ、三歳のガキじゃあるまいし。仕方ないじゃない。あんたがそれにゴネて何になるって言うの?
「ちょっとくらい、我儘言ったっていいじゃん! 大好きなパパとママも離婚するし、一夏とはもう会えないかもしれない。もし中国に帰って、日本帰りっていじめられたらどうすんのよ。もう、守ってくれる一夏もいない……!」
あーあ、と過去の鈴はうんざりしたように言う。
「あたしってきっと、世界で一番不幸だ。こんな辛い思いしてるのなんて、きっとあたしくらい――」
「甘ったれんじゃないわよっ!!」
今の鈴は怒鳴る。びくり、と過去の鈴は震えた。
「黙って聞いてればめちゃくちゃ言うじゃないのあんた。世界で一番不幸? あたし、悲劇のヒロインですー、って? ふざけんじゃないわよ! あんたなんかより辛い思いしているやつは、世にごまんといるわよ!」
親に捨てられ、姉しかいない一夏。事故で両親と死に別れたセシリア。最愛の母を失い、父との確執を抱えるシャルロット。そもそも肉親がいない、天涯孤独の翔とラウラ。彼らに比べれば、鈴を愛し育ててくれる大好きな母と暮らしていける自分がどれだけ幸せか。
海を隔てていようと、日本には忘れることのない初恋の人と、二年離れようとも変わらないアホで気のいい友人たちがいる。それで何が不満だと言うのか。
「まあ、あんたは割と幸せに暮らしてきた方だからね、パパとママの離婚が堪えるのは分かるわ。でも、そんなことでいちいち悲劇のヒロイン気取ってたら、この先どうにもなんないわよ」
「…………」
腐っても過去の自分。怒鳴りつけたとしても、愛はある。過去の自分があるから、今の自分がいるのだから。
涙目の過去の鈴の頭をわしわしと強引に揺らし、大して身長差もない過去の鈴に、強く言ってやる。
「悔しかったらね、あたしみたいに代表候補生になりなさい。一夏に自慢できるくらい、立派な自分になりなさい」
最強の兵器IS、しかも自分の専用機、甲龍を見せつけてやる。これは過去からの決別だ、と鈴は理解した。自分が本当の意味で、両親の離婚に納得するための。そのための対話だ。鈴はにかっと笑うと、過去の自分を激励する。
「大丈夫よ、あんたならがんばれる。――だって、あんたはあたしなんだから」
どこかおかしな理論。それでも、鈴にとってはそれが世のどんな定理より正確で、自明の理論だった。
それで、夢の世界は終わりを告げた。鈴の意識が、ふっと浮上する――。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……んあ?」
目を覚ますと、午前五時。服はそのままだが、タオルケットをかぶっている。母が体が冷えないようにかけてくれたのだろう。
体を起こし、すっきりした思考で明らむ空を窓から見上げた。少し汗ばんでいる服を見て、鈴は顔をしかめた。
「うえー、体べとべとー」
夏だというのに着替えもせずに寝てしまうとは。お肌にも悪い。急いでシャワーを浴びて、ランニング用の軽装へ着替えた。
母はまだ寝ている。六時頃にはいつも起きているから、鈴の方が早かったようだ。
滞在中にたるんだら大変だ。鈴はシューズを履いて、外へ出る。ほどよい気温の中、ランニングを始めた。
昨日の自分より、今日の自分。今日の自分より、明日の自分。鈴の思考はいつだって前向きだ。仕事にも、学業にも、遊びにも、恋にも。万事において、それが鈴のルールだ。だってその方が、絶対楽しいじゃない。
どこか晴れた表情のまま、鈴のランニングは続いた。