IS インフィニット・ストラトス ~天翔ける蒼い炎~ 作:若谷鶏之助
「ふっふっふ……あーっはっはっは!」
訓練中にも関わらず高笑いが止まらないパートナー、ラウラ・ボーデヴィッヒを、簪は冷ややかな瞳で観察していた。
愛機シュヴァルツェア・レーゲンの大砲が次々とターゲットを撃ち抜き、それがまたラウラの歓喜を煽る。狙いは寸分の狂いも無く、普段から際立つ精度がより高まっている。
「わはははははははははは!」
キーン、と耳の奥にまで響く笑い声。簪は反射的に耳を塞ぐ。プライベート・チャネルの音声は骨伝導なので、耳を塞いでも意味が無いのだが、そうしてしまうのは人間の本能というものであろう。
「……ラウラ、うるさい」
「ん?」
「今日のテンション、ちょっと異常」
「ああ、すまんな。今日はすこぶる機嫌が良くてな! 何故なら――」
ビュッ、と神速のプラズマブレードがターゲットを切り裂く。
「昨日、お兄様に一杯はぐはぐしてもらったからな!」
今日は絶好調だー、とラウラは溢れる元気を振りまいていた。
ラウラ曰く、昨日何日かぶりに翔の部屋へ行ったところ、翔は珍しくサービスしてくれたそうだ。そんなわけで、ラウラは非常に上機嫌なのであった。
「うむ、やはりお兄様は愛すべきお兄様だ!」
「……敵」
「それは試合をするときだけで良かろう! 私はお兄様の妹でなくなったわけではないぞ!」
「……あ!」
簪は雷に打たれたように固まった。
確かにそうだ。ライバルだからと言って、普段から必要以上に距離を置くことはない。翔は戦うときはライバルだと言っていたが、それは裏を返せば、戦うとき以外は仲良くしよう、ということなのではないか? ということは、翔としばらく会っていない自分は、彼を遠ざけていたことになるのでは?
そう考えた簪は、急に不安に襲われる。
「ラ、ラウラ、どうしよう……!」
「ん? 何がだ?」
「私、私……っ、翔と全然お話ししてないっ……!」
簪には一大事であった。もし、それが原因で翔と疎遠になってしまったら、せっかくできた翔との絆が失われてしまう。それは何よりも恐ろしいことだった。にも関わらず、ラウラは平然と言う。
「なら、会いに行けばいい」
「……え?」
ぽかんとする簪。
「何を焦ることがある。話がしたいなら会いに行けばいい」
「で、でも――」
「それとも、何だ? 貴様は、お兄様がたかが一、二週間会えなかっただけでお前のことを忘れるような薄情者だとでも言うのか?」
「!」
簪ははっと我に返る。
そんなわけがない。翔は断じてそんな薄情者ではない。
「今回、お兄様はライバルだ。それは変わらん事実。しかし、お兄様を愛する私の心は別物だ!」
何せ私の愛は、数日会えないと禁断症状が出るほどのものなのだからな!
ラウラは異常なそれを何故か自慢げに言い張る。とんでもないことだと分かっていないのか、それとも分かっていた上で言っているのかは、不明である。
とにかく、簪の心は決まった。
「……決めた」
簪は手のひらをぎゅっと握りしめる。
「私、翔に会いに行く」
ラウラはほう、と笑みを浮かべた。
「……カップケーキを、持って行こうと思って」
「何!? 菓子を持って行くのか!?」
異常な食いつきを見せるラウラに対し、簪はほんのり赤く頬を染めて、頷く。カップケーキは、数少ない簪の得意なお菓子。それほど料理は得意ではないけれど、それだけは自信があった。
……もし、翔に作ってあげて、それで、喜んでくれたら。食べて、美味しいと言ってくれたら。嬉しさのあまり簪は倒れてしまうかもしれない。
「知らなかったぞ、貴様が菓子を作れるとは」
「あんまり、種類は作れないけど」
「簪っ!」
ラウラが、目をキラキラ輝かせて簪に押し寄った。
「わ、私にもその菓子を作ってくれ!」
そういえば、ラウラはお菓子が大好きだった。
「ごめんなさい、今はそんなに材料が無くて」
「う……そうか……」
ラウラはがっくり肩を落とした。オーバーリアクションで、面白い。
「大丈夫。また、作るから」
「本当か!?」
「うん」
「ぜ、絶対だな? 約束だぞ?」
念を押すほど必死になるとは。簪はうんともう一度頷いた。「やったぞ!」とガッツポーズするラウラを見て、くすりと笑う。
当たり前だ。ラウラには、いつか作ってこようと思っていた。たとえ本人の気まぐれであっても、今こうして大会の準備ができるのは、ラウラのお陰なのだから。
(そのときは、本音にも持って行ってあげよう)
布仏本音も、お菓子好きである。きっと「えへへ~、ありがとかんちゃ~ん!」などといつもの間延びした声で言うのだろう。仲違いしていた分の時間は、ちゃんと取り戻したい。
それから、打鉄弐式の制作チームの人たちにも持って行こう。彼らには多大な恩がある。ささやかでも、恩返しがしたい。
(それと……)
脳裏に浮かぶ、もう一人の人物。
(姉さんにも、持って行ってあげようかな……)
姉のためだけに作るなんてまだ無理だけれど、ついでなら、余ったからあげるという最もらしい口実ができる。そうすれば、きっと姉に話しかけることもできる。逃げるのはやめた。これからは向き合う。そう決めたのだから。
専用機と臨む初めての大会と、みんなの喜ぶ顔。期待がどんどん大きくなって、簪は自然と笑顔になった。
――だが、運命とは皮肉なもので。
精一杯の勇気を出したこの行動で、簪は深く傷つくことになる。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「もうそろそろ本番ですわね」
「ああ」
一緒に夕食を食べた後、寮に戻った俺とセシリア。肩が触れそうなほど近い距離で歩いていたが、俺も成長したもので、これだけ近くても触れないならセーフだ。たまに肩が当たってしまうのはご愛嬌ということにしておく。
寮に入ってしまえば部屋につくのはすぐだ。いつのまにか目の前に俺の部屋がある。
「……では、また明日」
名残惜しそうに、セシリアは手を振って離れていく。俺はこれから一緒に過ごしても良かったのだが、セシリアは代表候補生としての仕事があるらしい。今日はここでお別れだ。
「ああ、また明日」
俺が手を振ると、セシリアは踵を返して廊下を進んでいった。途中一度だけ振り返ったが、セシリアは角を曲がって見えなくなった。
「また明日……か」
また明日会える。でも、今日はお別れ。口に出して、その意味を噛み締めた。
セシリアだけじゃない、俺の中にもあるのだ。セシリアと明日会えるのが楽しみだという気持ちと、今日別れて寂しいという気持ちが。
この前君に腕を取られて、俺がどれほど動揺したと思ってるんだ。それだけで気絶しそうになっていたのに、君は上目遣いに俺を見つめて、しかも胸まで押し付けてくるなんて。
俺がどれだけ……どれだけ君に……。
「…………」
駄目だ駄目だ。これではいけない。俺が俺でなくなっている。さっさと部屋に入ってシャワーを浴びねば。鍵を差し込んで、ドアを開け――
「おかえりなさい、あなた。お仕事疲れたでしょう? 晩御飯は……私よ」
即、閉めた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
油断していた。最近襲撃が減っていたから、警戒を怠った。鍵は五重にしておかなければいけなかった。完全に、俺のミスだ。
「もー、うな垂れちゃって。別にいいじゃない、私がいても」
「……会長がいると落ち着かないんですよ」
ふーん、と会長はベッドに寝転がって脚をバタつかせた。リラックスし過ぎではなかろうか。
「で、今日は何の用ですか」
「んー? 何にも無いわよ」
「なら、さっさと帰ってください」
「嫌よ。久しぶりに翔くんとお話できるんだから」
なら何故俺の部屋に来るのだろう。話すだけなら生徒会室でもどこでもいいはずだ。
「だって楽しいんだもん」
「俺をからかうのが、でしょう。とにかく、帰ってください」
「嫌よ」
「帰ってください」
「嫌っ」
「……帰れ」
「嫌っ!」
断固拒否。ベッドの枕をぎゅっと抱きしめ、俺に抵抗の意思を示す会長。基本的に理詰めで要求を通す人だけに、理屈の無い単純な我儘は珍しい。仕事で疲れているのかもしれない。
「……はあ」
仕方ない。今日ぐらいなら、お茶目な先輩の我儘を聞いてやるとしよう。
大きくため息をついて、給湯器へ向かう。お茶を淹れるためだ。
「……少しだけですよ」
「やった! ありがとう翔くん!」
会長が嬉しそうにベッドの上を跳ねた。埃が舞うからやめて欲しいのだが。あと髪の毛も落ちるだろう、わざとやってるんだろうからタチが悪い。
そんなことをぐるぐる考えながら、お茶を淹れ、それをベッドの横の簡易デスクに置いた。
「流石は私の副会長。できる人で嬉しいわ」
「あなたの、ではなくて生徒会の、です」
一言訂正しておいた。そこは絶対に譲れないラインである。俺は会長のものではない。
しかし、俺もなんだかんだで会長に甘いな。結局はいつも通り、会長にお茶を淹れてもてなすハメになってしまった。そんなことだから付け込まれるのは分かっているのだが、今更態度を変えるのも不自然だ。止むを得ない。
「……で、会長のところはどうなんですか?」
「どうっていうのは?」
「箒と組んでいるんでしょう? どんな様子か気になったもので」
「ふーん。敵情視察? 」
……身も蓋も無いな。半分そのつもりで聞いたので「まあ、そんなところです」と隠さず答えたが。会長は不適に笑う。
「今回のトーナメント、負ける気がしないわ」
「ほう」
自信満々。まあ、いつものことだ。
「『私がいるんだから』……ですか?」
「そんなこと、言うつもりはないわ。今、私も箒ちゃんも絶好調だから」
「なるほど。それは恐ろしい」
「とか言っちゃって。本当は絶対に負けないって思ってるくせに」
ばれたか。会長には俺の思考回路は解析されているらしい。が、生意気な俺の本音を悟っても、会長は嬉しそうだ。むしろ、待ってましたと言わんばかり。
「最近のミステリアス・レイディの稼働率、最高レベルなんだけどなあ?」
「蒼炎は新たな可能性を生み出しました。以前とは違います」
「箒ちゃん、すっごく成長してるわよ」
「セシリアも、また一段と腕を上げました」
間髪入れず言い返す、一歩も譲らない言葉の応酬。数秒目線をぶつけ合って、会長が「負けず嫌いねえ」と呆れたように言う。すかさず「お互い様です」と言い返した。
人のことを言えないだろう、あなたは。誰よりも最強にこだわっているのだから。
俺もその筆頭だろうが、IS学園の専用機持ちの連中はどいつもこいつも負けず嫌いだ。そうでもなければ代表候補生なんて大役は務まらないということか。
「トーナメントが楽しみだわ」
「珍しく意見が合いましたね。俺もです」
「……ふふふ」
余裕の笑み。会長はそれを見せられるほどの実力の持ち主だ。大会で当たるのは恐いが、楽しみでもある。
「まあ、前哨戦はこんなものでいいでしょう」
「そうね。試合前から張り詰めるのは息苦しいもの」
口で言い合ったところで、決着はつかないからな。すべてはアリーナの中で決まる。
さて、小手調べはこれくらいにしよう。俺にはもっと聞きたいことがある。
「……で、さっきの迎えは何なんですか?」
あの、度し難いウェルカムは何だ。我慢の限界を示すメーターが一瞬で振り切れたぞ。
「あれ? あれは、仮想夫婦のお迎えよん。私が結婚したら、あんな感じね。どう? おねーさんとの結婚生活を先取り! 嬉しかったでしょ?」
「全く」
ショックで自室のドアを開けるのがトラウマになるところだ。
それに、会長が結婚しても、あんなに甲斐甲斐しいとは思わない。むしろ今のように夫になった男を手玉に取って尻に敷いていると思う。
「どちらにしても、俺は関係ありませんが」
「あら? あり得るわ」
「あり得ません」
間違っても会長と結婚などあり得ない。
会長は口を尖らせ、「フラれた……」と不満を露わにした。我関せずとばかりに文庫本を手に取り、栞を抜き取って開く。
「あー! 本なんか読まないの!」
ベッドから野次が飛んでくる。無視。会長と話すべきことは話し終わった。サービスして部屋に置いてやっているのだから、本ぐらい読ませてもらいたい。今いいところなのだ。起承転結の転なのだ。
「少しは大人しくしてください」
「むー!」
膨れる会長。無視。
そう、いつまでも会長に弄ばれる俺ではない。こうして焦れる会長を相手にするのは下策の極み。寄って来たなら逃げればいいだけの話だ。
……ふむふむ。やはりな。あそこの描写が伏線になっていたか。悪くない構成だが、俺に簡単に見破られる程度ではまだまだ――
「翔く~ん? おねーさんを怒らせたら大変だってこと、まーだ分かってないのかな?」
耳もとで会長の声が。
「ぬああっ!?」
慌てて飛び退く。
不覚だ、接近したのに気付かなかったとは……!
「ふふん、甘い甘い。砂糖にハチミツをかけて煮詰めたくらい甘いわ。本を読みながら私をいなそうなんてね」
「く……っ!」
会長の指がわきわき踊る。あの構えは……
……まずい。後ろは壁。逃げ場が無い。
「さあ、私の相手をしなかった罰よー! くすぐり攻撃ー!」
「くそ、やられてたまるか!」
そのわずか数分後、抵抗虚しくベッドの上に干されている俺がいた。
やはり、会長を部屋に入れてはいけないのだと痛感する俺であった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
寮の調理室。誰もいない時間に一人、簪はオーブンをじっと見つめていた。
オーブンの中にあるのは、抹茶のカップケーキ。抹茶の芳醇な香りと、砂糖の甘い香りがオーブンから立ち上る。
「えへへ……」
久しぶりに作ったので失敗していないか少し不安だったが、大丈夫なようで安心した。
焼き上がるのが待ち遠しい。冷まして持っていくための準備は整っていて、焼き上がればすぐ翔に届けられる。
(あと、一分……)
オーブンのカウンターは、二桁。それがゼロを刻んだら、完成である。
やがて、ピピー、と音が鳴ってその瞬間が訪れる。
(やった……!)
できた。
簪はミトンでオーブンからプレートを取り出し、そのうちの一つを小さく千切って、味見した。
(……うん、美味しい)
上手くできた。
それから一時間ほどは冷ましていたが、片付けなどをしている内に時間は去っていって、気がつけばもうラッピングできる状態になっていた。簪はすぐにそれを袋に入れて、調理室を飛び出した。
階段を上がって、角を曲がる。一度だけ教えてもらった彼の部屋。記憶を辿って、彼の部屋まで向かった。
(翔、喜んでくれるかな……)
はやる足はそのままに、簪は想像を膨らませる。翔が喜んでくれたら、それで良かった。もう他に何も望まない。
最後の角。ここを曲がれば、彼の部屋だ。
――見えた。
「はあ、はあ……」
緊張で少し息を切らしながら、簪はゆっくりドアに向かう。どくん、どくん、と耳の奥で心臓がやかましく脈打つ。
簪は手をドアに伸ばし、ノックを――……する、はずだった。
「あはははっ! やっぱり翔くんは面白いねー!」
楽しそうな姉の声が、中から聞こえてこなければ。
その瞬間、簪の時間は止まった――。