Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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七章 謡う合鳴鐘「カリヨン・トランス」-4

 咄嗟に上方へ向けて捻じ曲げられた黒の剣閃は、上天に坐していた月へ向けて一直線に放たれた。

 

 その漆黒の夜を更なる暗色で染め上げようとするかのような黒檀(エボニー)の光のラインは、次第に空間を席捲するかのように拡散し、入り混じるようだった黒光と夜の闇との境界線は墨汁が滲みだすかのように曖昧となり、最後には乾燥し罅割れたかのように脆く崩れていったのである。

 

 そして現れた光景に、誰もが喘ぐようにしてただ息を呑んだ。

 

 いかなる空間変動の作用なのか、天蓋の頂に乗っていただけの矮小な月は今や常の数百倍もの威容を晒して黒と赤の入り混じる天空に在った。夜に滲み出した真紅の靄のような――あるいは海のような、そんなものの中に浮かんでいたのである。

 

 月は――それが本当に月であった確証など誰にもありはしないが――幾重もの涙を流していた。

 

 潤んだ皿のような円淵からは無数の光が糸のような残滓を引きながらこぼれ落ち、次第に小川の支流のごとく拡がり、果ては折り返し、紅天の潮流(タイド)に任せるように緩やかに罅割れたような海を跨いで極大の円月へと還って行く。

 

 まるで条理の薄皮を剥がしたかのようであった。皮一枚を隔ててすぐそこに在りながら、決して目にすることの無い禁忌を見たかのようであった。

 

 それは生皮を剥がれた乙女の肢体を見せつけられたときの怖れ――そして恐れ、感動、畏怖、嫌悪、はっとするような再確認。こんなにもおぞましいという俯瞰の視点、失望、しかし一転、こんなにも美しいという至近の視点。

 

 羨望。入り混じっているのだ。感情が入り混じるのだ。言葉にすることは無為であろう。だからこそその光景に何事かの言葉で応えることが、如何にも無粋な行為であるということを誰もが理解していた。

 

 なんという光景であろうか。まるで異界さながらの魔魅の夢幻(ゆめ)を見るかのようであった。

 

 それもしばしの後、まるでへりくだり、しかし威厳を秘めながらもしめやかにお辞儀をするかのように、幕を引くように、再び世界は常なる夜へと反転(ターン・スキン)していった。

 

 

「ハ――――ハハハハハハハッ!!」

 

 

 しばしの静寂の後、不意に哄笑が響いた。

 

 魔獣化の現界点を超えたセイバーは微動だにできぬほどに消耗し、いまや海面を藻屑のごとく漂うことしかできていなかった。

 

 それを眼下に見下ろし、心からの感嘆を謳うように金の魔剣は意識の無いセイバーに語りかけた。

 

「驚いたぞセイバー。事此処に及んで見事な策だったな。()()()のことを呼び水(ブラフ)として使ったな? 己の劣勢ではなく、己の優勢を餌にして一瞬の隙を作り出すとはッ。それも理性を己が魔性に侵食させながら、とは。恐れ入った。これほどの策を披露したのはこの凶器特権(テュルフィング)が見てきた英霊多しといえども、さすがに皆無であったわ!」

 

 狂ったように吼え悶えながら、魔剣は宙空に己を四肢を駆り巡らし、空間に己を縫い付けるようにして浮遊していた。誰も聞く者がいないのだとしても関係なかった。九死に一生を得た今、魔剣は快哉を叫ばずにはいられなかったのだ。

 

 断言できる、今の攻防こそが最後の分岐点だった。乗り越えられたのは完全に運、または偶然であった。だからこその快哉なのだ。

 

 今、己は世界にすら祝福されている。運命は己を生かしたのだから。

 

 ひとしきり笑ったところで、魔剣はあいも変わらず金の濁色に濡れ光る四肢を、海面へ向けて伸ばした。

 

 後は、いまだ一抹の息を残すだけのセイバーにトドメを刺せばそれで終わりなのだ。

 

 しかし、その瞬前に何かが死に体のセイバーを掠め取った。

 

「――ッ?」 

 

 一時、それを見失った魔剣は視線を泳がせる。

 

 それは溶解した黒檀(エボニー)の飛沫のように、奇妙に柔らかな線を揺らしながら、いつの間にかその波の間に立っていた。

 

 

 影だ。それは(やわ)な影だ。

 

 

 月明りは揺れる雲に覆い隠され、闇に抱かれたその内実は窺い知れない。しかし視線はなぜか引き寄せられるかのようにそれに吸着された。濃色の双瞳が重く軟らかにうねる波面に映った影をじっと注視した。

 

 それほどに、それはしなやかでおぼろげだった。

 

 だがそれがなんなのか、判ずるのは容易なことだった。そういえば――と魔剣はようやく思い返した。

 

 最後にセイバーが必殺の剣閃の狙いを逸らしたのは、コイツのせいだったな、と。

 

 魔剣は酷くぼんやりした思考で考えていた。それほどに、この少年は取るに足らないものなのだという認識がこの魔剣の脳裏を席捲していた。

 

 少年はセイバーの身体を抱えて一息に魔剣との距離を開けていた。

 

 しかし金色にきらめく少女のごときヒトガタの二色の視線は、失望と嘲笑の色をありありと浮かべていた。

 

 その少年の存在に、それは毛の先ほどの情緒すら抱いていなかったのだ。

 

 直視する必要すらない。特に意気込むこともなく、周囲にゆるゆると視線を配りながら、魔剣は少年に声をかけた。

 

「……まずは礼を言っておこうか。先ほどはおかげで助かったぞ、カリヨン・ド・サンガール。お前たちは最後まで私達の役に立ってくれるな」

 

 嘲笑うかのような声に、背中越しのカリヨンの肩が震えた。

 

 愛らしい唇の端に、とても少女のものとは思われぬ悪辣な笑いが浮かぶ。

 

 いかなる経緯かは知らす、彼が魔剣によって一族一党を虐殺されたことを知り、なおかつ一族総出でこの魔剣に玩弄されていたという事実を知っていることを魔剣は再確認した。

 

 その甘い嗜虐心が魔剣の狂喜の口角に更なる笑みを刻んでいく。

 

 しかし少年は背を向けたまま無言だった。

 

「それよりも、捕まえに行く手間が省けた――とでも言うべきかな? まあ、逃げも隠れもしなかったのは、わたしにとっては好都合……!?」

 

 そこまで声を続けた魔剣は突如として感じ取った不可解な感覚に、凝然眦を開いた。無視できない何かが、いまのこの少年にあった。

 

 状況は本来はもう詰んでいるはずだった。

 

 想定する脅威はすべて取り除かれ、後は速やかに完全体となるべく残りの欠片を捜索するだけなのだ。そのうちの一つが自分から己の眼前にまろび出てきた。

 

 この餓鬼がどういうつもりなのかは知らないが、魔剣にしてみればこの上ない僥倖である。

 

 むしろ、現時点では拍子抜けしていたくらいだ。これではすぐに手の届く範囲に実っている果実のようなものなのだ。

 

 後は捥ぐだけ、収穫するだけの、ある意味で何の面白みもない代物。もっと巧妙に秘め隠されているならばまだ面白みもあるものだが、とさえ思える。

 

 しかし、それは過ぎた望みと言うべきだろう。

 

 思考を切り上げ、魔剣は金の果実を捥ごうと手を伸ばし――そこで、気付く。

 

「ハ――――ハハハハハハハハハッ、どういうつもりだ貴様? おまえ自身のものだけではなく、残り二つの欠片もまとめて持っているというのか? 」

 

 不意に吸気を切った魔剣は再び哄笑を張り上げた。それは狂喜の悲鳴とも見て取れた。

 

 

「――なんてことをッ!」

 

 その哄笑を聞き取り、その場より一キロほど離れた地点で金色の点光と化した魔剣を見つめていた遠坂凛は焦燥に駆られ、声を漏らした。

 

 空の模様が一変した光景を、しかし彼女はろくに見上げている暇もなかった。

 

 先の空間の炸裂によって海に投げ出された彼女は意識を失ったままの士郎を抱えたまま、手近な船の破片を捕まえてその上に重く凍えた彼我の身体を引き上げていた。

 

 さすがに骨の折れる作業だった。何よりこの現状の危険性を誰よりも察しているが故に、彼女の脳裏に浮かぶのは最悪の展開だけなのだ。

 

 幸か不幸か、聴覚の鋭敏化と冷えた空気のおかげで遠方の空に浮かぶ魔剣の声は仔細漏らさず聞こえていた。

 

 なんということなのだろうか。これで万策は尽きた。魔剣の台詞からそれを知った凛は驚愕する。

 

 考え得る限り、最悪の状況だ。

 

 打ち合わせではワイアッドが彼を発見し、保護し次第共に残りの欠片を別個の場所に隠すはずだったのだ。

 

 にもかかわらず、今しがた確かに勝敗を決していたはずのセイバーの決死の一撃を邪魔したのみならず、その上秘め隠さなければならないはずの魔剣の欠片を持ってこんなところまでのこのこと現れるとは!

 

 ワイアッド老は何をしていた? そして彼は、あの少年はどういうつもりなのだろうか。

 

 その巧緻な美貌に見る見るうちに絶望の色が浮かんでいく。

 

 

 その蒼褪めた傍観者の存在を鑑みることもなく、魔剣はゆっくりと、そして脇目も降らずに金色の糸を伸ばして押し黙った少年の背中に触れようとする。

 

 微動だにしようとしない少年が、すでに恐怖に飲まれて身じろぎも出来ないのだと、あたりをつけて。

 

 

 ――――果たして本当にそうだったのだろうか? 

 

 

 いま、確かに少年は強大なるモノのまえに立った。それまでの己では到底、立ち向かおうなどと思い至ることすらなかった強大な敵の真正面に。

 

 あの時のオロシャと、兄と同じように今敵は自分のことを欲しかったおもちゃ程度にしか見ていない。つまり、これはチャンスだ。

 

 それでも、恐れがないわけではない。何の確信があるわけでもない。

 

 ただ、初めて自分の力で掴み取った運命とは、少年を取り囲む世界の全てを一変させてしまうには充分過ぎて――――

 

 

 それだけが少年の選択を肯定するのだ。世界が始めて自分の受け入れたのだということが、自分は、とっくに解き放たれていたのだという事実が、全てが――少年の小さな背中を後押ししていた。

 

 

 ひとつ、確かなこと。――――それは、もう自分は止まらないのだということ。――

 

 

 不意に、少年の身体が消失した。

 

 わけもわからず、魔剣は標的の姿を探す。振り返る。居た。

 

 いつの間にか、少年の姿は死角にあった。死に体のセイバーを抱え、背を向けたまま、いったいどうやったと言うのか、遥か遠方の海面を凛達の元へと歩を刻む。

 

 魔剣は眼を剥いた。何が起こったのかを理解しかねている。そんな貌だ。

 

 音もなく移動したカリヨンはセイバーを抱えたまま凛の前に降り立った。

 

 彼女も眼前の少年が何時の間にそこに現れていたのか知覚することができなかった。まるでコマ落としのように、彼はそこに出現したのだ。

 

 彼がセイバーの身柄を預けようとしているのだとは察せられたが、一拍間の息を押しはさんで、彼女は日本語のままで抗議の声をあげようとした。

 

「あ、あんた、いったいどういうつも――」

 

「遠坂、今はそんな場合じゃない。俺たちにも――やるべきことがある」

 

 それを遮ったのは今まで彼女の腕の中にいたシロウだった。その手が、糸の切れたような人形のようになったセイバーの身体を受け取った。

 

 ぐっと、くぐもった息を呑んで彼女は黙った。士郎の無事を喜ぶより先に、しこりのような感情が浮き上がってくる。

 

 言いたいことは解る。船団は今度こそ壊滅状態だった。確かに冷水に投げ出された人々を救助しなければならない。

 

 だが、それこそ本末転倒だ。最大の脅威であるあの魔剣はいまだ健在なのだから。そんなことをしている暇ではないはずなのだ。しかし、そこで真っ直ぐに彼女たちを見つめたカリヨンが口を開いた。

 

「他の人たちのことは頼みます――後は、僕が何とかするから」

 

 

 

 一方そんなやりとりを、魔剣は芒としたまま呆けたように見つめていた。

 

 そして今その内部を駆け巡り、稲妻のごとく貫いてゆくのはなんなのであろうか。驚愕、衝撃、思いもよらぬ事態。予期せぬ狼藉。魔剣はその金の眦を見開く。

 

 それは、よもや挑発だとでも言うのだろうか? ヤツは、あの餓鬼は、いま、この絶対強者から眼を、――否、意識を逸らしたのだ。

 

 追い詰められた獲物が、捕食者から眼を離す。不可解! 何時如何なる時であろうとも、追い詰められた獲物はただ怯え、震えながら捕食者の牙を待つことしかできないはず! 

 

 その瞬間まで、捕食者から眼を離すことなどあるはずがないのだ。その強者の瞳から、弱者は逃れられぬ筈ではないのか!

 

 ――にもかかわらず、ヤツは今、そうする必要がないとでもいうかのように、眼を逸らして素通りしたのだ。

 

 魔剣の総身を瘧のような震えが襲う。驚愕が、じわじわと、まるで足許から虫が這い上がってくるかのように、遅れて感覚を逆撫でした。

 

 狂気にも似た怒りが炸裂して、奇声が夜に一筋の軌跡を描く。

 

 一キロメートルもの距離を秒の暇すら置かずに奔った金の剣閃が空を切った。

 

 同時に爆ぜるように跳躍し、踊りかかっっていた筈の魔剣をしかし、豪速の流星が叩き落した。

 

 それを確かな視界に捕らえていた者は、その場には一人も居なかった。

 

 あらぬ角度から海中に叩き込まれそうになった魔剣は、寸でのところでそれを免れ咄嗟に敵の姿を探した。

 

「――――ッッッ、いない! どこにッ、」

 

「変えようか……」

 

 声は、またも背後から聞こえてきた。魔剣はまるっきり、少年の動きについていけていないのだ。

 

 速い! 速すぎる! これではあの男よりも遥かに速いではないか、たかがコピーが、オリジナルよりも高い能力を持っているというのか!?

 

「……場所を。ここは、邪魔が多い」

 

 驚愕と憤怒に歯の根も合わない魔剣に、少年は落ち着き払った声で語り掛けた。

 

「――――まるで別人だな」

 

 ここで、魔剣は眼を眇め、声の調子を上げた。言葉にならぬほどの屈辱に、逆に沸騰しかかった思考は機械的に冷却された。

 

「『以前の僕とは違う』とでも言いたげだな、餓鬼め」

 

「……」

 

「……そうか、欠片を持つだけではなく、取り込んで己の力としたか」

 

 再び、魔剣がその花のような口唇から牙を剥きだした。

 

「並んだつもりか、至高の存在となったこの私と!」

 

 無言、黙殺、無反応。何ひとつ応えぬまま、語らぬままに、少年は走り出した。

 

「――――ッッッッッッ!!」

 

 声にならぬ憤怒を大気に播いて、魔剣がそれを追う。

 

 凛と士郎はその光景を見送っていた。しかし濡れた黒髪を白い頬に貼り付けたまま、少女は俯き唇を噛んでいた。やはり理解は出来ない。あの少年に何かが出来るとは到底思えないのだ。

 

「考えても、仕方がないだろ。こうなったら、任せるしかない。それより、今はセイバーを……」

 

 士郎が彼女の頬に触れ、張り付いていた髪を解いた。凍えた指先がしかし冷え切った頬に、微かに温かかった。しかし指はすぐに離れてしまった。それを追おうとした手が止まる。

 

 凛は視線を逸らした。彼の腕の中にいるセイバーが見えたのだ。彼女を気遣わなければならないのだが、眼前の両者の間には入り込む隙間がないように思え、不意に差し出した手を引いたのだ。

 

 こんな時まで何を考えているのだ、自分は。そんな戒めの言葉もしかしむなしく胸の伽藍を空回りする。

 

 だが、その思いゆえに空を惑ったその手を、強く握り締めたのは他ならぬ士郎の手であった。

 

「――ちょ、士郎――」

 

 そのまま崩れ落ちそうになる彼とその腕の中のセイバーを凛は咄嗟に支えた。

 

「……悪い。無理してみたけど、限界みたいだ」

 

 そう言って疲労と痛みに染む顔に笑みを浮かべながら、彼は身体を預けてくれた。

 

「――仕方ないわね。あんたたち二人だけじゃ、危なっかしくて見らんないわ」

 

 いつもの彼女らしく、その顔には不敵な笑顔が強い意志の籠る瞳が煌めいていた。

 

「そりゃ、そうだろ。今までもそうだった。きっと、これからもそうなんだ」

 

「これからも、か……」 

 

「そうだろ? 何時だって頼りにしてるよ。遠坂のことは」

 

 やはりここはまた憤慨するべきところなのではないかと思ったが、預けられた二人の体が温かく、引き離すのが億劫だった。しばしの間だが、こうしているより他ないだろう。

 

「ほんと、仕方ないわね。それに、こういうときはもうちょっと気の利いたこといいさないよ……」

 

 その時、二人は彼方に奔った光線の乱舞を見止め、息を呑んだ。

 

 

 

 

 戦場は何もない、ただ黒の漆黒が一面を埋め尽くす海と空との境に移る。

 

 そこに二つの金のヴィジョンが躍り出た。巻き起こった光の粒子が今しがた切り刻まれ、穿たれた波濤の飛沫の白さを闇の間から暴き出した。

 

 カリヨンはひとつの疾風となって暗い海上を馳せる。その姿は闇に紛れて目視も叶わない。ただ、その後に刻まれる白々とした波飛沫だけがその存在を教えているのだ。金の光が暗い夜に白の波の筋をさめざめと暴き出している。

 

 そこで、金色の魔剣は在りうべからざる事実に驚愕していた。

 

『――追いつけない!? 馬鹿な。――いや、そもそもどうやって、ただの人間でしかないヤツが海上を走っているのだ?』

 

 思えば先程もそうだ。瓦礫から瓦礫に飛び移ったにしては水上を移動した速度が滑らか過ぎると感じられた。

 

 セイバーが水上を歩けるのは、彼女自身が湖の乙女の祝福を得ているがゆえの、いわば後天的な奇跡の賜物。生来からの機能的異能をコピーすることしかできないはずのヤツがその効果を受けられる筈がないのだ。

 

 では――どうやって…………ッ!

 

 魔剣は背後から、白い水飛沫を上げ続けるカリヨンの足許を注視した。そして、ようやく、そのカラクリ――――と呼ぶまでもないその理を知って唖然とした。

 

 そも、水という物質はそれに触れようとする物体に対して常にそれらをやさしく包み込んでくれるような優しげなものではない。

 

 例えば人間が高速で、具体的に言うならたった時速八十キロ程度で水面に激突する際、この水という物質は、まるでコンクリートのような硬さに感じられ、事実それと変わらぬ破壊を人体にもたらすのだという。

 

 そして、今この暗い水面に叩きつけられている少年の爪先はそれとは比較ならないほどの速度で、この暗い海を叩いているのだ。つまり、彼が高速で疾走することをやめない限り、彼にとってこの一面の海原はスケートリンクなどよりも遥かに硬く頑丈な足場に他ならないのだ。

 

『魔剣――』

 

 その出鱈目さに、殊更に侮蔑を感じた魔剣は追いつけない敵に対してついに直接的な攻撃を仕掛ける。

 

 海面を覆いつくさんばかりの広大な金の繊刃が、縦横無尽に奔って先を行く流星のような小さな光を捉えようとする。

 

 呪いの言霊は、すでに声として空気を伝うのではなく、爛れる呪詛となって世界を震わせ万物にその魔技の発動を伝える。

 

『――雹!』

 

 迫り来る千の刃が背後から少年の身体を取り巻いた。しかし、直進していた疾走の軌跡が、矢庭に歪んだ――――――否、そうではない。

 

 その軌道はまるで踊るかのような滑らかな曲線を描き、魔剣の眼を欺いて背後に回りこんでいく。――当たらない。叩き付ける旋風の如き死線の刺突がこの脆弱なだけのただの子供に、掠りもしない。

 

「――ッ!」

 

 魔剣はその少年の顔をみてさらに凝然と眦を開いた。切り裂かれた暗夜の残滓が旋風となって少年の頬を撫で、その長い前髪を跳ね上げた。

 

 少年は眼を閉じている。眼を閉じたまま、豪雨の如く降り注ぐ死出の光を躱しつづけているのだ。

 

 魔剣は、もはやうめき声を上げることさえできない。これほどの屈辱は、神代より続く久遠の記憶においても経験していない。

 

 

 カリヨン自身も驚いていた。各種の異能が、冴えに冴え渡っている。

 

 今選択された異能は「直感」。言うまでもなくセイバーの持つ虎の子の超感覚である。もはや未来予知にさえ等しいとさえ言われるその能力を、まったく損なうことなく、今のカリヨンは発揮しているのである。

 

 いくら刃の数を増やしても、今の彼に攻撃を当てる程の至難事はあるまい。

 

 

 唯の力押しの攻撃では、あの敵を――そう、すでにあれは敵として認識せざるを得ない――を捉えられぬと確信した魔剣はすでに一度突き出され、投げ出された数千もの槍を、引き戻すことなく、その穂先を矢庭に絡め始めた。

 

 金枝の糸が、まるで境目すらわからぬこの漆黒の空と海に、精緻な幾何学模様の綾取りを始めていた。

 

『魔剣――網』

 

 いつの間にか、それは黒の虚空にあったカリヨンをすっぽりと覆うようなかたちで煌めいた。

 

『――籠――』

 

 カリヨンが敵の意図を察した刹那、その丸い金の鞠が収縮を始める。

 

 当然、網の目は詰り、逃げ出せるような隙間はなくなっていく。さらに網の目はいつの間にか糸ではなく、凄まじく強靭な金色の綱として径を増していた。しかも、それはさらに密度を増していく。

 

 そして、綱という形容が意味を違え始めたころ、それは――

 

『――――――檻!』

 

 糸は綱となり、さらに密度を増していつしか強固な鉄格子へと姿を変えたのだ。そのころには、金の鉄格子はカリヨンが身動きすら出来ないほどに収縮し、その自由を言葉どおり奪っていた。

 

「――ぐ、うッ」

 

 凄まじい圧力がカリヨンを襲う。苦しげな呻きを洩らしながら、カリヨンは格子の隙間から、ニ色の視線が嗜虐の愉悦に燃えるのを見た。

 

 敵をその手中に収めた魔剣はその檻の上に、幾重にもたおやかな金糸の指を重ね、編み重ねていく。

 

『――棺ッ!!』

 

 そしてぐしゃり。と、何かが潰されるような音が、暗い空間に響いた。

 

 音が意を得たかのように何もない虚空を走り回り、波頭の間に入り込むのを、圧殺の手ごたえと共に魔剣は感じていた。

 

 それほどに、魅力的な音だと想われた。

 

 どんな楽曲よりも歌よりも短く的確な破壊と絶命の旋律。聞きほれるような音色を反芻するように、魔剣はその煌びやかな双瞳をそっと伏せた。

 

 しかし不意に、予期せぬ音が、鼓膜を打った。

 

 見開いた双瞳に飛び込んできたのは、握り締めたはずの掌の間から漏れる、見覚えのある極光の炸裂だった。

 

 「――こ」れは、といい終えるより先に、光は金の棺を両断し、海を割り、空を裂き、夜を分けて世界を切り裂いた。

 

 間違いない! 海中に叩き込まれ、エーテルによる魂の触手とでも言うべき糸を裁断される霊的苦痛に身を捩りながら、魔剣はそれを確信していた。

 

 あれは間違いなく騎士王の聖剣が放つ閃光の刃。なぜだ、何故そんなことが出来る? ――

 

 

 光縛から逃れ、海面に没したカリヨンはゆっくりと水をかきながら肩で息をした。

 

 右手の黄金の剣を見つめる。紙ほどの重さも感じず、沈みもしなかったそれは、すぐに砕けて塵となってしまった。複写が不完全だっただけではない。統合されたサーヴァント三体分の力に模倣された聖剣のほうが耐え切れなかっただけの話であった。

 

 カリヨンの身体もまた、喩えようのない苦痛に見舞われていた。一気に無理をしすぎたのだ。

 

 この異能『投影』。下手に濫用すれば自壊を招きかねない能力であった。それだけではない、欠片のバックアップがあるとはいえ、各種の異能をこれほど短時間に連続、複合して使用することは身を滅ぼしかねない暴挙だった。

 

 ――それでも。と、少年は思うのだ。

 

 その口角には確かな笑みがこぼれている。今彼の身体を駆け巡るのは「歓喜」であった。

 

 彼は取り戻していたのだ 子供のころ常に感じていた、そしていつの間にか失ってしまっていた、揺るぎない感覚が体中を覆い尽くしていた。

 

 あのころと同じだ。出来ないことなど無いのだと、いま、彼の全身がその事実を祝福している。対峙する世界と己とが寸分違わず等しかったあのころ――。

 

「あのとき――約束したね。テフェリー」

 

 呟く。何の理由もなく自己を誇れたあの日の勇気を。幼き日に無くしてしまったと思っていた。あのときの気持ちを。世界とは自分のものであり、この限りある世界の中で自分だけは自由自在な存在なのだと信じて疑わなかった少年の瞳。

 

 それを取り戻したとき、世界は開け眼前に広がるのは、

 

 

 無限の世界だった。

 

 

 ――ああ、そうか。世界とはこんなにも広かったのか。

 

 目を閉じてみる。これほどまでに心が軽いのなら、きっと空だって飛べるだろう。

 

 今の自分はあの時と同じだ。なんにでも成れるしなんでも出来る。

 

 ――なら、まずは約束を守れる自分になろう。そうだ、これでやっと、――

 

「――君を、助けられる!」

 

 そのとき、はるか彼方の海面が光の噴火に見舞われた。海中に没した筈の魔剣が宙空に躍り出たのだ。己の四肢を断ち傷つけた敵に対して、もはや抑え切れんとばかりに力任せの金色の鉄槌が打ち放たれた。

 

 到達まで猶予はない。負荷など考えている暇はない。そしてそんな暇などいらないッ!

 

「――――守るよ。あの日の約束を!」

 

 カリヨンは動かない。ただ、自己の中にのみ意識を集中する。『過加速』された思考が、集束され、己の中に在るエネルギーに形を与えるのだ。それだけで、いい。

 

「絶対に君を連れて行く――もう、離したりはしない!」

 

 すでに呟きは叫び声を超えて宣言となっていた。

 

 それは誓いでもあった。

 

 

 

 必要なものは、総てが我が手中に有り――我、今此処に在りて万能と成らん。

 

 

 

 ――――異能(スキル)検索――『投影』同調――使用――武装選択――『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』――同時異能(スキル)検索――『勇猛』同調――効果――精神防御および格闘能力強化。

 

 ――実行。

 

 ――さらに『加速』――継続使用。

 

 この間、実にコンマ二秒弱。刹那の内に、鉄槌の如き鋼線の束が少年の矮躯に迫る。

 

「はあああああああああッッ!!」

 

『何ッ?』

 

 驚愕の声やさもあらん。矮躯の少年の身に比しては大きすぎる刀剣。それがいつの間にか両の手の中に現れ、魔剣の鉄槌を打ち返したのだ。

 

 信じられぬとばかりにその二色の双瞳を見開いた魔剣は、さらなる攻勢に打って出る。

 

『魔剣――雹!』

 

 しかし、それでも縦横無尽に空間を奔った閃線の束は少年の五体を掠めもしない。

 

『投影』――再使用――重複投影――『沸血装甲(マーズ・エッジ)』――効果――各種武装換装――。

 

 抜き打たれた刀身が、まるで細雪(ささめ雪)の如く崩れ、舞った。迫る幾千の死の刺突を、幾万にも細分化された針の如き刀身が迎え撃つ。さらに変化した刀身は閃光となって魔剣を襲う。

 

『な――』

 

 空が、染まった。分化され四散した刃片がそれぞれにエクスカリバーと同様の閃光の帯と化したのだ。まるで縦横無尽に吹き荒れる重爆機雷の大嵐である。

 

 無論、逃げ場などあろうはずもない。炸裂した閃光の刃が魔剣の糸を粉砕し、寸断していく。

 

 己が霊的五体を切り刻まれる衝撃に苦悶を漏らしながら、魔剣は咄嗟に空中に高く飛び上がった。咄嗟の、思考に寄らぬ回避行動であった。――しかし魔剣がそれを恥辱と認識するよりも速く、更なる閃光がその後を追う。追い立てる。

 

『な――に?』

 

 カリヨンは柄だけになった剣を両手に執っている。其処から白亜の翼のごとき枝刃が繁茂し、羽を広げるかのように伸ばされたそれは二振りの剣の刀身となった。

 

 それ即ち、神与の翼の模倣に他ならない。

 

『能力追加投影――鋳造されし不和の双翼(プテロ・エリス)

 

 効果――反重力。斥力発生。浮遊。上昇。即ち――飛翔。

 

 一方の剣を海面に打ち打ちつけ、神与の反発力を我が物とした少年は遥か暗い天空に舞い上がる。

 

 それは彼の獲得した数々の異能のみによってなされているのではない。彼はいまや英霊たちの宝具に蓄積した経験値から最善の行動を読みとっていたのだ。それほどまでに今彼の異能は脅威的なポテンシャルを解き放ち始めていた。

 

 

 空中で追い立てられることを良しとしない魔剣は「堪らじッ!」とばかりにまたもや突き放すかのような千の刺突を繰り出す。

 

 反応は五感に先んじて、加速された思考を置き去りにして、高揚する意識を更なる高みへと牽引していく。

 

 異能検索。「過加速+直感」――瞬間、カリヨンの体感速度が幾億万倍にまで圧縮され、流星群のごとき稲妻の槍衾を、まるで静寂の中にたたずむ彫像の如く捉える。

 

 加えて、人ならざる直感が、未来予知に等しいルートを導き出す。当たらない。土砂降りの雨の如く打ちつけてくる刃の群を、目にも留まらぬ豪速でかわしながら天へ向けて奔る。駆ける。昇る!

 

 今や彼は完全にスピードで魔剣を圧倒していた。間違いない。魔剣はその事実を、ようやく現実として認識する。せざるを得ないところまで詰め寄られる。

 

 その精度はもはやオリジナルの比ではない。彼は今や複写したそれぞれの異能を何倍にも増幅して身につけていたのだ。

 

 故に、魔剣は全方位に糸を展開させてそれに処するしかなった。移動速度の差はそれほどに如実だったのだ。

 

 とはいえ、いくら速かろうとも、彼我の自力には雲泥の差がある。まさか不用意に飛び込んでは――――

 

 ――――否、しかし少年はそんな敵の思考を両断して唾棄するかのように、彗星のような一直線の筋を描いて魔剣に向けて直進してきた。

 

 

 予感は的中した。もう止まらない。カリヨン自身が驚いていた。まるで全身の毛穴から、無尽蔵のエネルギーが溢れてくるようだった。

 

 今や、その金色のヴィジョンが、それまでもてあますだけだったはずの力が、今や漏らさず集約されて彼の小さな背中を後押ししているのだ。

 

 信じられないほどの力だった。とても抑えきれない。そして、抑える必要などないのだ。

 

 それは運命を変えてしまうほどのエネルギーであり、自分の人生の流れすらかえてしまう 灼熱の鼓動でもあったのだ。

 

 それは自分の人生を、運命を、未来を 自分の力で変えるということ。

 

 少年は、今それを言葉ではなく実感として確信したのだ。

 

 それが力となる。人が己の総てを肯定出来たとき、世界は如何様にもその姿を変革するのだ。

 

 運命という人智の及ばぬ領域を流れる奔流すら捻じ曲げてしまう力。人間が持つエネルギーの中でもっとも強力な力の源泉。

 

 それは真の孤立から生まれる。他者に、社会に、運命に、さえ寄りかかることをやめた人間だけが持つ、己の足で地を踏みしめることで始めて獲得される生き方だ。

 

 

『調子に――乗るな!』

 

 一直線に向かってきたカリヨンに、切歯しながらも魔剣は狡猾な罠をはる。

 

『魔剣――詩』

 

 多方に展開された無数の音絃が共鳴し鳴り響く。そして集束された超音波が有効範囲内のあらゆる物質を粉砕する。音の破砕槌とでも言うべきものだ。

 

 魔剣に向けて直進するだけだったカリヨンはそれを真正面から受けることとなり海に叩きつけられた。加えて撃ち放たれる音刃の連射連撃、カリヨンは海原に大穴を穿たんばかりの衝撃にさらされる。

 

 しかし魔剣はこんどこそ抜き差しならない驚愕に眼を見開いた。

 

「ば――か、な……」

 

 至高の存在となったはずの己が全力で仕留めに行ったというのに、あの少年は平然と海面から飛び出してきたではないか。

 

 やはりこの、ただの劣化コピー能力しかないと思っていた少年の能力が、まさかこのほどの複合能力――模倣した複数の異能を複合編集させ、新しい能力を生み出すとは――。

 

 

 今度は先ほどとは一転してカリヨンが魔剣の姿を追う展開となった。それまで海面すれすれの波飛沫を舐めるようにして黒いタールのような海面に粘りついていた魔剣は、不意に翅を縮め、一変、一筋の矢のごとき姿となって空に舞い上がり、厚い雲の裏に姿を隠した。

 

「どこに――」

 

 カリヨンは空を仰ぎ、目で光の残滓を追った。

 

 魔剣が回り込んだ巨大な暗雲の一角に金の光が翳った。

 

 カリヨンは咄嗟に白亜の大剣を海面に叩きつけ、そこに向けて飛翔した。

 

 夜を蹴って踏み込み、身を反転させて右手の剣をそこに向けて振るう。先ほどの拡散閃光剣と同様に、裂けた刀身がそれぞれに極光の機雷となって拡散し、厚い雲から透けて見える月の光を呑んで空を染め上げた。

 

 雲は一気に払われ、月光に煌めく水母の裾のような金の衣片を焼き焦がした――が、そこにあったのは切り離されたエーテルの天衣だけであった。

 

 電光の炸裂に焼かれたそれは光量を減らし、見る見るうちに大気中に飛散した。

 

 瞬間、完全な死角から、金濁色の殺気が閃いた。咄嗟に振り返ったカリヨンに金の糸で編みこまれた剣が迫る。

 

『魔剣――刃ッ!』

 

 四肢を刃として形成した魔剣は遠距離からの攻撃を止め、至近距離からの直接攻撃へと切り替えていたのだ。そうしなければならないほど、両者の間にはスピードの差があった。

 

 とはいえ、敵は百戦錬磨、経験値の塊とさえ証して差し支えない剣の悪鬼である。その剣戟の技量差は速度で優位に立ったくらいで覆るものではない。縦横無尽に繰り出される刃の嵐を、少年は新たに両の手に執った剣で防ぐ。

 

 右手の大剣を盾として、左手の短剣を駆使して捌く。対して魔剣の刃が押す、押す、押す。剣戟の正確さと刃の数によって徐々に少年を押し込めていく。

 

 左手の剣が飛ばされる。右の長剣を両手に構え、カリヨンはさらに後退する。見舞われる剣舞の嵐はたとえサーヴァントでもあっても裁ききれるものではないだろう。それほどに常軌を逸した剛力、速度、剣技、魔力、そして掛引きであった。

 

 ――が、終わらない。沈まない。途切れない。魔剣の猛攻が潰えない。

 

 それほどに刃を繰り出そうとも、この少年は屈服しなかった。その身体を血に染めながらも、このただの少年が必死に持ちこたえているのだ。

 

 なぜだ? 何故こんな柔な子供の身体を両断できない?

 

 おかしい、僅かにとはいえ、刃は確かに当たっているのだ。――魔剣の二色の双眸が今度こそ驚愕に見開かれる。

 

 見よ! 彼の肌下に形成された怪異なる外殻を。先ほどからのこの少年の異常な耐久性を訝っていた魔剣だが、それはこの異能のせいだったのだ。

 

 これは確かにサンガールの紅一点、ベアトリーチェの異能ではないかッ!

 

 こやつ、能力を表層化させる以前から兄弟たちの異能を無意識的に写し取っていたのか! ならばこいつは欠片の所有者七人の全異能を己が身に秘めているというのか。

 

 セルゲイの加速能力 

 

 ベアトリーチェの荊体調律 

 

 ゲイリッドの加重圧発生 

 

 オロシャの人格創造 

 

 鞘の撹乱雑音

 

 そしてテフェリーの――いや、それだけではない。直感、勇猛、そして英霊の宝具を複製する不可解な能力まで、今、彼の体には彼が体感した英霊や異能者たちの息吹が息づいているのだ。

 

 少年の右手に執った長剣が、不意にひらめき、魔剣の四刃を一刀のうちに挫いた。

 

「――――ヒッ」

 

 死に体を余儀なくされた魔剣は後退を余儀なくされ、盛大に距離をとった。

 

 こやつ――ッ、今この瞬間にも成長し続けている。その法外の魔力を元に、彼の異能は尋常でないほどに開花し続けているのだ。

 

 魔剣は、戦慄と同時に確信する。こいつが、この少年こそが最高傑作。

 

 間違いない。これまではテフェリーのもつ異能そこがこの新たなる魔剣の器に相応しいものだと考えていた。今まで作り出した異能者の中で最も高い適正を示したのがテフェリーの持つ異能、『受容』の異能である。

 

 異能とは通常、一個人の都合で外界に一種の歪を作り出し、その常なる理を捻じ曲げる力であるといえる。

 

 しかしこのテフェリーの異能は外界に変化をもたらすのではなく、何らかの要因によって外界に生じた捻れ、異常に対して、順応して見せる能力である。

 

 外界のいかなる変化にも対応してその生命活動を維持できるため、壊滅的な威力とは無縁だが、強大な入れ物、即ちいかなる魔的改造にも対応できる素体として、この上ない適正を持っていた。

 

 この異能のおかげで彼女の身体は常人ではおよそ不可能な魔的改造にさえ順応し、さらには四体ものサーヴァントの力を取り入れ、魔剣という強大な魔の入れ物となることを可能としているのだ。

 

 しかしそれよりもさらに最良の器が、素体がここにあったのだ。あらゆる外界の変化、変動を許容して順応するのがテフェリーの異能なら、カリヨンの異能は外界からの刺激に柔軟に反応し、それを取り込み模倣し続けることで自己進化を重ね、より高いレベルの異能を作り出すというものなのだ。

 

 彼の体には、すでにテフェリーの異能である『受容』の機能さえ取り込まれているはずだ。

 

 

 凄まじい能力、異能だ。すばらしい。――――欲しい!! と、なれば……。

 

 

 剣戟の猛攻は続く。再び攻勢に立った魔剣が繰り出す剣戟は勢いを増すばかりだ。

 

 しかし、少年は怯まない、痛みにも恐れにも、決して屈することはない。その瞳にその煌めきに、その克己の意志が宿っている。皮を裂かれ、肉をそぎ落とされても、その眼光は怯まない。

 

 その傷もすぐに修復される。やはり、三体ものサーヴァントを取り込んだ異能者の再生力は生半可な攻撃では意味がない。そして、互いの身体を必要以上に傷つけたくないのは同じだ。この勝負、ダメージの応酬では簡単には勝負はつかない。

 

 なれば、どうする? 魔剣は思考する。

 

 これほどまでに増長したこの餓鬼の異能、もはや容易に手に負えるものではない。……いや、落ち着け、いくら強大な力を有そうとも、あれは力を得たただの人間でしかないのだ。

 

 そう、ただの子供だ。強力な武器を手にして意気込んでいるだけの餓鬼に過ぎない。ならば狙うべきは身体ではなく、心。

 

 そうだ、勘違いをしてはならない。奴の「力」は今や英霊をも凌駕するかも知れない、しかし、奴は決して英雄ではないのだ。

 

 ならば、これは精神を折る闘いに他ならない。

 

 認識を早まってはいけない。()()()()()()()()()()()()()

 

 魔剣はここに来て、己の有利を確信する。

 

 

 距離をとる魔剣。動きを止めた魔剣の挙動を好機と取ったか、脇目も振らず直進してくるカリヨン。もはや不羈なる野生の奔馬と化したその心が、戦力の不利を承知した上でそれ以外の選択を許さなかった。  

 

「ぅあああァァァァァァッ!」

 

 少年は再び天空へと飛翔した。同時に虚空からさらに加速し、下方に捉えた魔剣に向かっていく。

 

『馬鹿め――。魔剣――螺!』

 

 虚空に身を投げ出した敵の判断を好機と取ったか、魔剣はスパイラル状に旋転閃く流刃をカリヨンの直進を阻もうとするかのように撃ち放った。

 

 しかしカリヨンは止まらない。その光刃の螺旋を正面から受け止め、そのまま渦の中心を通ってあくまで直線の軌道を維持する。当然擦過する渦の旋剣が少年の身体を切り刻み、分厚く強化されたはずの皮下外骨格すらも粉砕する。

 

 しかし、止まらない。

 

『――ッ、魔剣――雹!』

 

 魔剣は舌を打ち、迫るカリヨンに千の刺突を見舞う。ガトリング砲の如く襲い来る刺突の逆雨。だがカリヨンは殆ど防御もせずにそれに向かって直進していく。総身から血が噴出す。

 

 しかし、カリヨンはそれを意に介さない。旋回行動をとることもない。唯、一直線に魔剣目掛けて突き進んでいく。

 

 手数では止まらない。そう判じた魔剣は手元に残るエーテルの閃糸を一気に凝縮させた。

 

 そしてそれを掲げ上げ、振り下ろす。一切の小細工なし、乾坤一擲の一撃だ。

 

『魔剣――断ッ!!』 

 

 暗い天と海を割り開くような切断波が奔る。だが、それすらも正面から捕らえたカリヨンは投影した大剣ごと、左手をその閃光に叩きつけて閃光の進路を捻じ曲げた。

 

 剣と共に砕け、もはや使いものにならなくなった左手から赤い血潮が噴出し照らされ、虚空に赤い筋を引いた。

 

 それでも、少年は止まらない。

 

 まるでほうき星のように赤い血潮の尾を引いて、奔る。来る。迫る!

 

『す、捨て身のつもりか――!?』

 

 気圧される。気がつけば、魔剣は己で意図するまでもなく海面すれすれまで退がっていた。否、退がらされていた。

 

『し、しまっ――』

 

 瞬間、魔天から見舞われた十数本の剣が魔剣を取り囲むようにして円環状に海面に突き立てられた。と見えた次の瞬間、

 

 それらの剣は暗い天空に向けて巨大な火柱をそれぞれに吹き上げた。

 

 怨敵の慮外の行為に暫し固まっていた魔剣の二色の視界が、その圧倒的な光量によって、ほんの刹那、眩ませられる。

 

 そのとき、突如として魔剣はその身体に不可解な圧力を感じた。それが次第に圧迫感を増していく、すぐにそれは山と海とをまとめて背負わされたような超重圧となって魔剣にのしかかって来た。

 

 考える暇こそあらず、その身を宙空では支えきれなくなった魔剣は咄嗟に海中に逃れようと更なる下方の空間へと逃げ延びようとした。が、それは無為に終わった。その身体は有無を言わさず、海面に繋ぎ止められてしまったのだ。

 

 硬い。海面がまるでざらつく巌のようであった。

 

 凍っている。海面が凝結していたのだ。今の今まで滑らかに波打っていた筈の海が、気づいた時にはすでに広大な氷原と成っているだなどと、どうして予測できよう。

 

 魔剣の黄金の身体は度重なる重圧の波動によって、まるで特大の穿孔機(ボーリング・マシン)に打ち込められるように、次第に強大な氷塊の深奥まで押し込まれていった。

 

「キ、サ、マ――」

 

 氷洞に打ち込まれていく魔剣の貌に驚愕にも増した憤怒が刻まれる。

 

 今しがた敵が投擲した十数本の剣は間違いなく己が前身である黒刃に違いない。その刃が、海を氷結させるほどの熱量を波間から吸い上げ、柄頭から炎柱として空へ打ち上げたのだ。

 

 敵の退路を封じると同時に眼を晦ます、ここに来て趨勢を決する妙手。

 

 それが己が前身の能力を利用してのことだと知った魔剣の心胆、如何ばかりや――。

 

 更なる加重圧。洩らそうとした怨嗟の声までもが口腔からでるより先に押し潰される。

 

 そして、その二色の瞳に、己に向かってくる一筋の流星が見えた。息を呑む魔剣は、しかして意を決し、正面からそれを迎えうける。

 

『――――来い!』

 

 到来した流星が、魔剣の身体をさらに氷海の奥深くに押し込んだ。

 

 

 とうとう、カリヨンは彼女を捕まえた。

 

 

「テフェリー―――――ッッ!!」

 

 血の滴る両手で彼女の両肩を押さえたカリヨンは叫ぶ。

 

「――――ッッッ!!!」

 

 同時に凄まじい衝撃が今や一個の小島ほどとなった氷塊に幾重もの亀裂を生む。二人の体は直径数キロにも及ぶ巨大な氷塊のほぼ中心部まで到達していた。

 

 カリヨンは叫び続けていた。ありったけの声で、心で、求め続けた。

 

 そして二度と離さないと誓ったものの名を張り裂けるまで叫ぶ。

 

 

 その声が届くと信じて。

 

 

『やはり――な』

 

 虚ろげに不明な、振動止まぬ視界と聴覚でしかしそれをしかと聞きとめた魔剣は悪辣なる確信の笑みを浮かべた。

 

 この器を有しているかぎり、こいつはこの身体を直接切り刻むことは出来ない。奴にはできない。推測は正しかった。

 

 やはり、こいつは英雄にはなれない。そうだ。それがお前の現界だ。今まで縋っていたもの。それを支えに、己が身も省みず、この魔剣に挑んだか。

 

 憐れな餓鬼め、不憫にして愚鈍な凡俗め。貴様ごときでは、わが欠片は宝の持ち腐れにすぎん。

 

「テフェリー、応えて……」

 

 絞り出すような声に、刃のような声が応える。

 

『テフェリーはいない』

 

「テフェリー!」

 

 それでも叫ぼうとした少年の腹部に光り輝く刃が、否、美しすぎる手が突き立てられる。

 

「――――ッ」

 

 カリヨンの下腹部には鮮血が、そして顔には青黒い死と絶望の色が滲んでいく。その首を残った金色の手が捕まえる。

 

『いないんだよ。解かるか?』

 

「テ……フェ…」

 

『ククッ、よもや〝何故〟などと聞いてくれるなよ、坊や』

 

 金の五体から無数の刃が伸び、ゆっくりとカリヨンの身体に突き立てられて行く。致命傷を避けるように、体中を針のような刃が刺し貫く。

 

『哀しいなァ、もう何をしても手遅れなのだよ。カリヨン。憐れだなぁ。想い人はとっくにおまえの敵なのさ』

 

 貫かれた手刃が腹腔内で抉られる。更なる加虐。各種の異能を持っても緩和しかねる苦痛に、くぐもった声を漏らす少年。さらに、魔剣は編み上げられた金の指先で己の頭を指し示す。

 

『ここにあるのは残骸だ。もうお前のテフェリーではない。せっかく勇気を奮い起こしたのになァ。残念だったなァ。だが、もういない。テフェリーはこの世界の何処にもいないんだよ』

 

「テ、……フェ、リー」

 

 それでも呼ぶのをやめない少年に、魔剣は垂涎ものの喜悦を浮かべて、嘲笑う。

 

『無駄だ。テフェリーはこの器の中にはもう居ない。()()()()()()()()()()()のだからな』

 

「――――ッ」

 

 叫ぶ声を失い、言葉に詰ったカリヨンに、付け入るように刃の擦れあうような音がギシギシと響く。しかしそれは不意に懐かしい、聞き覚えのある凛とした硬質の声音を装った。

 

「何を聞きたい? 何が、何故、何のために? 無駄だ、それは無駄な言葉なのだよ。口にすることすら無駄な、戯言だ。過去に捕らわれる愚か者の言葉だ。君は違うんじゃあないのか カリヨン。君は過去に捕らわれる愚者ではないのだろう。サヤは、そういっていたよなぁ」

 

 魔剣は語る。饒舌に。想い人の、美しい声で、思い出を、語る。まるで、抉るように。

 

「殺せるぞ」 

 

 見上げて来る。蔑むような笑い顔。そこに、想い人の面影はない。

 

「良いだろう、殺せ。或いはそれがこの娘にとっての最後の福音であろうとも!」

 

「――――」

 

 少年の動きが止まる。先ほどまで、あれほどの電光石火だった五体が、そして声さえもが、凍りついたように動きを止めていた。

 

 それは考えねばならないことだった。ここに来る意を決したならばそのときに、救う方法に行き当たらなければならかった。それがこの少年には及びもつかなかった。

 

「さぁ、殺せ」

 

 いいや、殺せない。

 

「殺してみろ」

 

 お前には無理だ。

 

「どうした、殺すんだ。それだけがお前に出来る総てだ」

 

 なぜなら、

 

「心臓を抉り出せ、この娘を殺してみろ! とっくに抜け殻なのだ。オルゴールから歯車を抜くことと何ら変わらない!」

 

 お前が〝ただの人間〟だからだ。

 

『さぁ、コロセェェェェェッ!!!』

 

 魔剣の狂ったような嬌声が響き渡る。お前は英雄でも勇者でもなんでもない、ただのガキだからだ。取るに足らない人間だからだ。そう、少年の絶望を謳い上げながら。

 

「――――」

 

 カリヨンの体から力が抜ける。僅かな希望が縋っていた光が、まるで冷えた飴細工のように、その流動を断たれ、固まって、いつしか、自重にたえきれなくなり――――

 

 ――折れるッ! ――

 

 二色の瞳が悪露のような狂喜に染まっていく。さあ、聞かせてみろ、その膝とともに、心の折れる音を聞かせてみろ。それが、お前の最後だ!

 

『できぬか? それがお前の限界だ。お前はただの餓鬼だ。英雄になどなれはしない!』

 

 

 しかし、そのとき閃光が、魔剣を見据えた。

 

 

「――それでいい」

 

 魔剣の両肩をつかんでいた腕にまた渾身の力が満ちていく。

 

 彼は折れてなどいなかった。

 

「僕は――英雄でも、勇者でも、魔術師の当主でもない。でも、それでいいんだ。僕は僕が望む僕になるだけでいいッ!」

 

 その両眼から溢れる閃光が魔剣の二色の瞳を捉える。

 

 ばらばらになっているというのなら、またかき集めてやる! 分解されて深層意識の中に埋もれてしまった彼女を、もう一度再構築するまで!

 

 今カリヨンの瞳から迸り出す眼光は、オロシャから複写したあの人格創造能力だ。

 

 この異能は普段使われていない潜在意識に介入し 心の内面から別の人格を作り出すというものである。魔剣はようやくその意図を察したが、すでに視線を逸らすことができなくなっていた。

 

 その蒼き眼光のなんという吸引力であろうか。あのサンガールの次兄、オロシャの灰色の眼光とはもはや比較にならぬ深度で、強制力でその光は「彼女」の内部に浸透していく。 

 

『バ――――カな!』

 

 カリヨン自身、確証などありはしなかった。出来るかどうかなど考えもしなかった。

 

 ただ、決めていた。何があろうとも、決して諦めることだけはすまいと。テフェリーを諦めないのだと。ただ、その一念でその瞳に尋常ならざる力を込める。

 

「僕が望む僕は、僕がこう在りたいと願った僕は、絶対にテフェリーを諦めたりしない!」

 

 そして、呼び掛け続ける。その声に、ただの空気に振動であるはずのそれに、凄まじいまでの言霊が宿る。

 

 元はキャスターの持つ固有スキルであった「呪歌」である。それは今やカリヨンの中で強化され、あらゆるプロテクトを突破して直接万物に意味を叩き込む概念の運び手(ベクター)となったのだ。

 

「テフェリーッ!」

 

 声は、その眼光から発せられる閃光と共に、魔剣の中に侵入していく。まるで、魔王の城の深くに捕らわれた妖精の姫君を捕らえようとするかのように。

 

『ム……ダ、だ。何を、しても……』

 

「テフェリー!」

 

 呼び掛ける。

 

『もう、帰ってはこないッ』

 

「テフェリーィィィィイイイイイイッ!!」

 

 呼び続ける。そこに、恐怖に屈服した少年の顔はなかった。

 

 勇気――それは運命を変える力だ。己の行く先を、己の力で変えた瞬間に掴むものだ。力ずくで捻じ曲げた己の運命。それはもう誰のものでのない。自分のための自分の選択が左右する誰のものでもない。だれもが獲得しえる、何よりも尊いものだ。

 

 自分の人生を自分が背負うのだという実感と確信。己の運命と身体を始めて自分の足だけで支えた瞬間、少年は初めて男になるのだ。

 

 自分の命、生活、人生、目的、指針、価値観。そんなものを他人に預けたままで生きることに決別を果たした少年は、始めて彼を包む世界を直視したのだ。

 

 真蒼の眼光が銀の髪間からのぞく。――蒼い光。その真蒼の眼光に知らず、魔剣は気圧された。動けなかった。これはなんだ? これがあの出来損ないの少年だというのか?

 

 そう、この少年の瞳は目も醒めるような青だ。この魔剣はそれを始めて知った。それはこの少年が始めてこの魔剣を正面から見据えたからだ。

 

 今まで、少年はダレの目も真っ直ぐに見ようとしていなかったのだ。長い前髪の奥で、いつも不安げに伏せられていた瞳は、今真っ直ぐに己の運命と世界の総てのものを強く見据えている。

 

 この少年の、取るに足らない子供の瞳がなぜこんなにも深い! 魔剣の内に、その内容に不可思議なものが奔り抜ける。なぜ、なぜ気圧される! 動揺す(ゆれ)るのだ。

 

 そうかッ! この素体(テフェリー)の記憶に、この男の眼光が記憶されている。この女はこの瞳を知っている。それが足掛かりに――

 

「聞こえる? テフェリー」

 

 カリヨンは瞳を閉じ、かまわず語りかける。

 

「あの日、僕は君を助けられなかった。君が僕を助けてくれたんだ」

 

 硬直する身体を抱いて、ゆっくりと語りかける。

 

「ありがとうテフェリー。だから、僕も約束を守るよ」

 

 抱きしめ、語りかける。あの時のように、今度はテフェリーを安心させてあげるために。震える身体を優しく、しっかりと抱きとめる。

 

「今度は、僕が君を助ける番だ」

 

 

 

 

 ――暖かくて、柔らかくて、とても優しい所に私はいた。

 

 何でもいうことを訊いてくれるお父さん。いつも私を見ていてくれる。ずっと側にいてくれるお母さん。

 

 私達は日の当たる庭で遊んでいる。何時までも変わらない優しい光景が私を包んでくれている。

 

 とても安心できる。

 

 私はお父さんの膝でお昼寝をして、お母さんの作ってくれたおやつのにおいでとびおきる。

 

 すると背の高いおじいちゃんがお土産を持って来てくれた。ケーキだ。お母さんの焼いてくれたクッキーとどっちがいいか私は迷ってしまう。

 

 両方食べたいというと、お母さんはだめだと言う。だから私はおじいちゃんに抱きついて、お父さんにおねだりする。

 

 私はしっているのだ。お父さんもおじいちゃんも私がこうすると、絶対に駄目とは言わないのだ。

 

 結局、みんなで庭でお茶を飲んだ。暖かい日差しがシロップのようにケーキに降り注いで、ケーキもクッキーもおいしくて仕方がない。

 

 私はケーキを口いっぱいにほうばって、お母さんに怒られながらおじいちゃんとお父さんの膝の上を行ったりきたりする。みんなが笑っている。楽しくて嬉しくてしょうがない。

 

 ――ここはとても優しいところ。じめじめとしたくらい地下じゃあない。日差しの当たる明るい庭で、お母さんと一緒にキャンバスに絵を描いている。

 

 みんなが私を褒めてくれる。暖かな陽の光も、風にそよぐ蝶たちも、足元に息づく草花もみんなが優しい。

 

 私は嬉しくなってみんなをキャンバスに描き出す。自由に動く指、水の冷たさを感じる爪先、私にはちゃんと手足がある。

 

 偽者じゃない。

 

 みんなと同じ本物の手足。だからお母さんにも抱きつける。触れる。触れられる。お母さんが一番好き。温かくて柔らかくて、大好き。それが嬉しくて、離れたくなくて、何度も何度もお母さんを抱きしめる。

 

 これがホントだって確かめるみたいに何回も、何回も。

 

 ずっと、こうしたかった。ずっと、こんな所に来たかった。もうあんなところには戻りたくなかった。

 

 

 そこには「終わり」もなかった。永遠であり、永久であり、そして久遠であった。永い、闇の中。

 

 暗い、絶望という名の護りの膜の中に私はいる。それは「胞衣(えな)」に、ひどく似ていた。暗いけどひどく生暖かくて安心する。

 

 

 もう何も考える必要はない。もう外に出る必要はない。ずっとここに居ればいいのだ。

 

 

 もう、いい。私はずうっと、ここにいるのだ。そのほうがいい。おそとにはこわいものがたくさんある。

 

 恐くて、暗くて、冷たくて、なにもいいことなんてなかった。外にはお母さんもお父さんもいない。おじいちゃんも何処かへ行ってしまう。それに、私には手足すらない。誰も――私をあいしてくれない。

 

 外は暗くて、冷たくて、こわいところだ。もう、あそこには行きたくない。

 

 もう、あそこには戻りたくない。あんなところには戻りたくない。

 

 

 でも私をここから引っ張り出そうとする人が居る。

 

 

 どうして?

 

 暗い、暖かな衣を裂くように光が這入ってくる。抵抗できない私を光が犯していく。

 

 私はていこうした。

 

 やめて、やめて、やめて。

 

 もういや、お外は恐いものがたくさんあるの。だから、私はもうここから出たくない。

 

「――――。」

 

 そう言って蹲った私に、何かが響いてきた。

 

 それは声だった。

 

 優しい、声が聞こえた。

 

 誰の声だろう? お父さんでも、お母さんでもおじいちゃんでもない。

 

 けれど、確か、それと同じくらい大事な筈の人の声。誰だろう。そんな人が私にいたのだろうか。

 

 不意に蒼い光から暖かい手が伸びてきて、私の手を取った。

 

 私は全身を強張らせて首を振った。それでもその人は私の手を引こうとする。

 

 やめて、どうせ、それも偽者の腕なんだから。私の腕がこんなに綺麗な筈がないもの。きっと血や泥で汚れて、薄汚れているに違いない。

 

 だから、無理に引けば取れてしまうのよ?

 

 でも彼はそんなことを聞かずに走り出していた。手は抜け落ちることもなく。私も一緒に走り出していた。

 

 

 そう、あの時もそうだった。何処へも行けない、何処へも動けない。何処へ行っていいのかも解らなかった私の偽物の手を引いて、私をあの暗く冷たいところから連れ出してくれた人。

 

 どうしてだろう。一人では自由に動かせなかった偽者の脚が、彼と一緒だと驚くほど自在に動く。

 

 光に向かって進んでいく。私達は駆けていた。まるで羽が生えてみたいに。一気に暗闇の幕を突き破る。

 

 出てみれば、外は驚くほど明るくて――

 

 

「あなた――だれ?」

 

 

 私は尋ねて、はっとした、確か以前もこうして、私達は出会ったのだ。

 

 

 まるで総てを照らす光のように、私の前に現れたあなた。

 

 彼はあの時と同じように微笑んで、

 

「始めまして、色違いさん――ボクは、」

 

 

 

 

「――カリ…ヨン」

 

 声が響く、錆びた刃が引き擂られるような奇怪で不快な声音ではない。

 

 懐かしい揺籃の記憶のような、硬質でよく通る、硝子細工のような鈴なりの音色。

 

 動きを止めた彼女の身体をカリヨンはしっかりと抱きとめた。抱きしめた。縋りつくように、支えるように、震えるままの両腕で、彼女の暖かな体温を感じた。

 

 あの日、滝壺の側で彼女がそうしてくれたように。

 

 ようやく、たどり着いたのだ。彼女に、彼女のもとにたどり着いたのだ。何度も、もう届かないと思った、諦めかけたこの場所に彼はまた来ることができた。

 

「テフェリー。つらいことが……あったんだね」

 

 震える声で、揺れこぼれる涙で、歓喜する全身でカリヨンは声を絞り出す。

 

「……カリ、ヨン」

 

「ボクにも、解るよ。君の悲しみがボクにも焼きついてる。流れ込んでくる。こんな痛みに、ずっと堪えてたんだね。でも、君にもわかるはずだ、僕の心が。サヤや、君のお爺さんや、他のみんなに支えられて、ここに来れたボクの心がわかるはずだ」

 

 涙が止まらなかった。だが、カリヨンはそれから逃げようとは思わなかった。受け入れるのだ。

 

 悲しみも、苦痛も、怒りや、憎しみでさえ、テフェリーと共有できることが嬉しかった。

 

 自分の心を知ってほしいと思った。彼女を思い続けた年月を総て彼女に曝け出したかった。

 

「だから解るはずだよ。きみを待ってる人がいる。君を支えてきた人や、間違いなく君を愛していた人が、確かにいるんだ。そしてずっと君を求めてきた僕の心が、わかるよね、テフェリー」

 

 もはや定かな形にならない針金細工の銀の腕が、揺れながらカリヨンの身体を抱き返してきた。

 

「カリヨンッ」

 

 よく知る可憐な淡い色合いに戻った瞳からも、拭いきれないほどの涙がこぼれている。声にならない呻きを漏らしながら自分にしがみついてくるテフェリーの身体をカリヨンは精一杯抱きしめた。

 

 

 しかし、そのときだ。鈍い衝撃がカリヨンの背面から腹部を襲った。

 

 咄嗟にテフェリーの身体を引き剥がした瞬間。カリヨンの身体を貫通した黒い刃が彼の腹部を割って現れた。

 

 激痛や、驚愕に先んじて、しまった。という念がカリヨンの脳裏をよぎった。

 

 金色の鍔元まで押し込まれた凶刃はしかし大した出血も伴わず、すぐに傷口の組織と結合を始めている。

 

 テフェリーの意識を再構築しただけでは駄目だったのだ。それだけでは魔剣を破壊することはできていなかった。ヤツは寸前にテフェリーの身体から抜け出し、次の挙に出ていたのだ。

 

「――ッ」

 

 テフェリーが息を呑んだのが解った。視界が捻れて他の感覚もばらばらだったが、それだけはわかった。

 

『ーーーーハハハハハハッ』

 

 金属同士をこすり合わせるような不快な音が響き渡った。

 

『王手だよ、カリヨン。残念だったなぁ』

 

 声はカリヨンの口腔からではなく、彼の身体を結合しきれぬでいる、一振りの黒い刃から響いている。

 

 そうして顔を蒼白に染めたカリヨンの身体とゆっくりと融合し欠片の支配権をカリヨンの体に移しながら、ついに七つの欠片と繋がった魔剣は勝ち誇る。

 

『さすがに驚いたぞ。これほどのことをやって見せるとはな。もはや感嘆を通り越して呆れるばかりだ。出鱈目な奴だよ、お前は』

 

「カリヨン!」

 

 テフェリーも声を上げるが、彼女の手足はろくに反応してくれない。そもそも今までの戦闘と過負荷で彼女の手足は殆どが断絶してしまっていた。

 

 何より、今の彼女の体内には糸を操るためにもっとも必要な魔剣の欠片がないのであった。彼女はもはや四肢を持たぬただの人間になってしまっていた。

 

 そんな彼女をなんの脅威とも見なしていないのか、魔剣はカリヨンの体内を侵食しながら歓喜の金切り声を上げ続けている。

 

『喜ぶがいい!この勝負は貴様の勝利だ。故に一つの栄誉をお前にくれてやろう。貴様こそが我が真の素体に相応しい。すばらしいぞ。これで、力が手に入った。あらゆる願望を叶え、この世界の外にまで届くほどの力を持って我は新たなる新生を迎えるのだ』

 

「――――ッ」

 

『おおっと、抵抗するのはやめておけ。完全体となった私に抗おうとすれば、貴様らはただでは済まんぞ。観念するのだな。いいか、人は――いや、生きとし生ける物はみな枯渇を嫌い、恐れる。常に何かを失うことを恐れ、何かを過剰に求めながら生きている。光、空気、水、食料、地位、情、安全。そられが不足してはならないと考え、今は足りているにもかかわらず、将来足りなくなるかもしれないという不安を抱く。恐怖だ。恐れとは枯渇に根ざす本能なのだ。故に人は略奪を恐れ、逆に略奪を繰り返す。――なんとも憐れで醜く、愛らしい生き物ではないか、人間というものは』

 

 魔剣は勝ち誇ったように語る。

 

『だが他者から奪うことの出来ないものもある。それは絶対に枯渇する事を止められないものだ。解かるか、命だよ。命が枯渇して死に至る事を貴様らは恐れる。当たり前に訪れる筈のことを、死の間際になってあわて始める。喜劇だな。これ以上の出し物はないと思わないか? さあ、想像しろ。貴様の考えうる枯渇とは――死に至る喪失とはなんだ。総てをさらけ出せ! そしてこの魔剣の愉悦となって死に行くがいいッ!』

 

 語り、睥睨し、快哉を咆哮し――――――――しかし、魔剣はそこで驚愕に見舞われる。

 

 カリヨンの心が動揺することはなかった。強靭な精神力でそれに抗っている。

 

 真っ直ぐに己の運命を見つめている。そこにあるのは絶望ではなく、最後まで戦い抗いぬくのだという克己の意志。

 

 馬鹿な! いくら膨大な力があっても、それを治める器があっても、それを御する精神が宿るかは別の話だ。

 

 ――つまり、カリヨンは己の意志で踏みとどまったのだ。魔剣の欠片のおかげではない。自分の意志で己の恐怖をねじ伏せたのだ。

 

 今彼を踏みとどまらせたのは強化された肉体でも異能でもない。彼自身の克己によって征された惰弱な心だったのだ。

 

『オレノェ!!! 観念シロッ。喚き、のたうち、絶望して喘げ。それだけがお前に残された――――』

 

「いいや、観念するのはお前だ。魔剣」

 

 不意に巻き起こった微かな振動が、魔剣の根幹に言いようの無い警鐘を鳴らした。それはこの魔剣がよく知っているはずのものだった。

 

 カリヨンは()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ふと、サヤが最後に口ずさんだメロディーが頭に蘇ってきたのだ。

 

 それを何度も、彼女の遺言のように、楽譜の上に写し取っていたリズム。それが、今まで何の意味もなかった唯のノイズがカリヨンの脳裏に蘇り、そしてある閃きとなって彼の身体を貫いた。

 

 それはサヤの遺志であり、彼に託されたものであり、彼女の最後の矜持であり、我が子への愛だった。

 

『バ、馬鹿な! 馬鹿なッ、馬鹿なバカナバカナ馬鹿ナ―――――――ッ!!!! なぜ、なぜ貴様が触れたこともない()()()()()()()()()()()()()()?!」

 

「サヤが、教えてくれた。最後に――()()()()()()()()()()()!」

 

 カリヨンは己の腹部から突き出した黒の剣身を握り締め、そのまま霊的固有振動をチューニングすべく「ノイズ」を送り込む。

 

『お、お前も死ぬぞ!』 

 

「下手な脅しはやめろ、魔剣。お前も身に染みたはずだ。ボクはもうここから逃げたりはしない!」 

 

『ヤメロ、やめろ、止めろォ! 『宝典』が朽ちれば、お前の力もなくなるのだぞ? 我が欠片によってもたらされたお前たちの力は永遠に失われるのだぞ? そうすれば、もうお前は魔術師ですらない。サンガールの当主にもなれない。ただの無力な子供だ。それでもいいのか!?』

 

 刃と刃を擦り合わせるような不快な音波で、依り代をなくした魔剣は絶叫する。

 

『今なら、まだ私と共に、久遠の時を愉悦のままに生きられるぞ――』

 

「これがなんだかわかるか? このノイズ(ねいろ)がなんなのか。最後に鞘が教えてくれた(うた)だ。貴様を葬るための方法を、鞘が残してくれた!」

 

 もはや完全体となった魔剣を破壊することはこの異能でも不可能だっただろう。しかし、魔剣そものがいくら強化されても、その内側で取り込まれた英霊たちの「力」制御している『宝典』は以前と変わらぬままのはずだ。

 

「今『宝典』を失えば、お前はどうなる? 内側にある、聖杯の変わりに英霊を現世にとどめ続けているそれが砕けたなら、お前はどうなる?」

 

 今それを破壊することができれば、英霊七人分の「力」を制御することの叶わなくなった魔剣は内側から崩壊する筈だ。

 

 そのときカリヨンの体から、まるで巨大な漆黒の芋虫のようなおぞましいものが抜け出してきた。

 

 まるで爛れ悶える蛇か、百足のように這い回るのは漆黒の刃――幾星霜のときを経た魔剣自身の姿だった。

 

『もういい。――モウウイイイイイイッ! 欠片さえ、わが五体さえそろえば、あとの器などどうとでもなるのだ。貴様ラは用済ミだッ』

 

 『宝典』さえ、英霊たちの力さえ取り込んだままなら、やり直すことは出来る。

 

 無論、魔剣は新たな宿主を得なければその力を扱うことは出来ない。ソレはあくまで器物であるという根幹的な属性に縛られている。

 

 しかし今はそれに斟酌している暇はない。命だ。命こそが大事だ。

 

 一旦、カリヨンからも離脱して、魔剣はこの振動(ノイズ)から逃げようとする。接触さえしていなければ、この異能で破壊されることはない。

 

 それは一路、氷穴の淵を目指して逃げ出す。しかし、その瀕死の毒蛇のような刃の穢れを、銀色の糸が絡め取った。

 

 カリヨンは今にも崩れそうになるテフェリーの身体を支える。千切れかけた銀の糸は氷壁に巡らされ、張り詰めた銀絃となった。

 

 糸を繰るテフェリーの、今にも解けてしまいそうな銀の手にカリヨンの手が添えられる。

 

 やさしく、支えるように。そしてカリヨンの震える指から紡がれる無音の残響(サイレント・ノイズ)をうけて、銀色の絃が振るう様な殲魔の旋律を奏で始める。

 

『バ、カな――――バカなバカなバカなッ!??? こんなバカなことがあるかッッッ! どうして抜け殻のオマエラが異能を使える!? お前ラの力は総て私が与えていたものノ筈――』

 

「そうだ――これが、僕らの最後の力だ」

 

 銀絃の高鳴りは二人の鼓動と共に躍動し、リンと響いてその場の総てに染み込んだ。そしていま捕らわれた悪鬼の中核を蹂躙する。

 

『ヤメロォッ。ヤメテクレぇ! 聖杯の、――そう、これは総てを支配できる力だ。この世界の総テを支配できるほどの力ダ。お前たちはこれガ必要ないというのか? そうだ、これは世界を支配できる力なのダゾ――』

 

 その嗚咽に対し、身を寄せ合う二人は視線を交わすこともなく、ただ己で歩むべき未来を見据えて信念を謡う。

 

「構わない。必要なのは――欲しかったものはそんなものじゃなかったんだ!」

 

「私も、カリヨンも、お母さんも、お父さんも、マスターも、みんな! 最初からお前なんか欲しいと思っていない!」

 

「――――ヒッ」

 

 引きつるような、かすれた悲鳴。それが、最後だった。

 

 『宝典』が砕け散った。その加護を失い、そのうちにある力の奔流が暴走した。力を御しきれなくなった魔剣の刀身はオーバーロードを起こし、内側から鞠の如く膨れ上がり、

 

 そして、炸裂した。

 

 

 魔剣の炸裂と共に二人が居た氷洞も砕け、そのまま動くことも出来なくなった二人は海の底に飲み込まれていった。

 

 

 

 

 

 暖かい日差しを受けながら、揺れる海の上でカリヨンは傍らのテフェリーの身体を抱きとめる。

 

 波に浚われてどこかに行かないように、そっと、引き寄せる。いつの間にか夜は明けていたようだった。

 

「……テフェリー」

 

 呼び掛ける。反応がない。

 

「テフェリー、大丈夫?」

 

 もう一度呼びかけて、彼女の白い頬に一筋の涙がこぼれるのを見つけた。

 

「……悲しいことが、あったの」

 

「テフェリー……」

 

「たくさん、たくさん。…………とても、かなしいことが……」

 

「……」

 

「私はひとりになって、ずっとひとりで、寂しくて、辛くて、悲しくて、心細くて、どうしていいのか、解らなかった……」

 

「僕がいるよ」

 

 二色の瞳が真っ直ぐにカリヨンの真蒼の瞳を見つめる。

 

「どうして、……カリヨンは私の側にいてくれるの?」

 

「だって――――だって、僕は君の友達だから」

 

「……うん」

 

「大丈夫だよ。僕がいる。僕がずっといるから。だから、大丈夫だからね。テフェリー」

 

「……うん」

 

 テフェリーを強く抱きしめる。そして伝えたかった事を告げる。

 

「テフェリー。サヤが、君のお母さんが言ってたんだ。世界にはまだ僕らが見たことのないキレイなものがたくさん隠れてるんだって。それが一生かけても飽きることがないくらい、たくさん、あるんだって」

 

「うん」

 

「世界を見に行こう、テフェリー。僕と二人で。あの時は無理だったけど、もう一度、僕と行こう」

 

「うん。いく……」

 

「あの箱庭よりも広い世界があるって、見たこともないくせに君に約束したよね。今度こそ一緒に行こう、テフェリー。いつか見たいっていってたものを一緒に見に行こう。君のお母さんが綺麗だと言っていたものを 君が見たいといっていたものを、僕が見せたいといっていたものを、いっしょに見に行こう」

 

「いく…………私も、一緒に行きたい。カリヨンと一緒に居たい。ずっと、そうしたかった……」

 

 

 それからも、言葉は涙と共に溢れた。いつまでも、いつまでも、二人は薄れゆく綺羅星の瞬きと、青く広がる海面と、見下ろす雲のグラデーションを見上げながら、泣き続けた。

 

 僕たちはどうしてこんなに遠回りをしてしまったのだろう。

 

 世界は、こんなにも美しいのに。

 

 あの箱庭から遠く離れた、世界の果てで二人はいつまでも涙を流していた。

 

 体の内側に残っている哀しい過去を総て吐き出してしまうかのように。

 

 明日、これからの未来のために笑い合うために。

 

 二人はいつまでも朝焼けの海原に漂いながら、静かに涙を流し続けていた。

 

 

 

 ――もう、サイレント・ノイズは響いてこなかった。

 

 

 

 

 

 

 


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