Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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七章 謡う合鳴鐘「カリヨン・トランス」-3

 その様は、はたしてこの世の極限たる激闘であるはずだった。

 

 ――が、北海の鏡面に映るのはしかし、まるで春先の散歩道(プロムナード)を軽やかに叩く可憐なふた組の爪先が、光の飛沫を巻き上げながら終わりのない輪舞(ロンド)に酔い痴れているかのごとき、夢魅なる光景であった。

 

 金濁の魔剣は笑う。憤怒に頬を染めるセイバーに向けて、それを見ることしか出来ない遠坂凛ヘ向けて、魔剣は嘲笑う。

 

 まるで快哉を叫ぶかのように、その歓喜を身体中で表現しながら、舞うかのように。

 

 その光景の壮麗さが、かえってその悪辣なまでの幻燈の相を浮き彫りにしていた。

 

 セイバーの繰り出す破格の連撃の間を縫うようにして、本当に舞踏に誘うかのように仄明るい金色の腕が、がっちりとセイバーの矮躯を抱きとめた。

 

 あくまでやさしく、年端も行かぬ妹を気遣いながら抱き上げる少女のように。しかしセイバーがその身に感じる膂力たるや、サーヴァントであるはずの彼女の身体をそのまま引き裂いてしまいそうなほどであった。

 

「――ッ」

 

 初めて、セイバーの貌が苦悶のそれに歪む。そのセイバーに向けて、魔剣は旧来の盟友と談話でも楽しむかのような口調で、唐突に語り掛けた。

 

「私はね、セイバー。人間が大好きなんだ。」

 

 その間も、腕の中で強烈に暴れ続けるセイバーをいとも簡単に押さえつけながら、魔剣は世間話でもするかのように続ける。

 

「なぜかというと――。おっと、その前にひとつ質問だ。「恐怖」とは、なんだろう」

 

 視線が交差する。セイバーの瞳を見つめながら、得体の知れない深淵のように色味を増した双瞳が、矢庭に澱んだ光を孕み始める。

 

「恐怖は人を追い詰める。そうなると、人はどうなると思う? 言ってしまえば、まぁ、()()()()ではあるんだが、少なくとも()()()じゃなくなるのさ。それが実に多種多様で、面白い」

 

 セイバーの身体を締め上げる金の両腕がその圧力を一層に増し始める。返答どころか、吸気すらままならぬセイバーに、魔剣はうっそりと長い睫毛を伏せ、囁く。

 

「そうなった人間には臭いがある。恐怖に侵されて饐えた心の臭いだ。――私は、それが大好きなんだ」

 

 耳元で、魔剣は語り続ける。さらにはセイバーの鎧の隙間から首筋に鼻先を押し付け、その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、魔剣は語り続ける。

 

「狂うほどの恐怖にさいなまれる人間の芳香は格別だ。しかし完全に狂わせてはいけない。狂者は恐怖とは無縁の愚者だ。狂う間際、精神が破壊させる寸前の精神がもっとも芳しい芳香を放つ。私はそれが大好きだ。――私は、それが大好きなんだ。セイバー」

 

「――――――がッ、あッ!」

 

 白銀の鎧がひしゃげ始め、セイバーもたまらず苦悶の声を漏らした。しかし、

 

「特に、高潔にして果敢な英雄共が精神を侵され恐怖に狂う寸前の心は、この世のいかなるものよりも芳しく、美味だ」

 

 セイバーの瞳に恐怖の色など浮かんではいない。その翠緑の眼差しが未だ克己の意思を伝えている。たかだかこの程度の痛痒で折れるセイバーの心胆ではない。無論、それはこの魔剣も承知していたことだった。

 

 魔剣はそれでも身動きのきかないセイバーの白い首筋に鼻を擦り付ける。

 

「まだだな。まだお前からは恐怖が匂わない。セイバー、君の恐怖はいつ香る?」

 

 セイバーは汚らわしいとばかりに一気に魔力を炸裂させ、その融解した黄金のごとき腕を振り解き、再び距離を取った。

 

 大理石の如く漆黒に凪いだ海面を歩き、魔剣は悠々と距離を詰めてくる。

 

「ふふっ、哀しいじゃあないか。そんなに邪険にしないでおくれ」

 

 そして、愁いを帯びた黒紅二色の瞳が、下卑た秋波を送ってくる。

 

「セイバー、正面からじゃ。……もう、仕方ないわ」

 

 背後から聞こえてきたのは凛の声だ。

 

「まぁー、そうは言ってもなぁ。この騎士王のことだ、退がれといって退がるものでもあるまい。なにより――、」

 

 しかしそれに応えたのは当のセイバーではなく魔剣であった。セイバーは黙したまま主の声を背中で受けていた。

 

 そして再び海面を馳せようとしたセイバーだったが、その蹴り足に海中から伸びた魔剣の束が絡み付き、銀の甲冑をズタズタに引き裂いた。

 

「――――ッ!」

 

「背を向けて逃げようとて、逃がしはせんがな」

 

 倒れそうになり、それでも片足で体制を立て直し、奥歯を噛み締めて剣を構えるセイバーを、魔剣はまた微笑を浮かべたまま見据えている。

 

 それでも、セイバーの翠緑の瞳には何者をも怖じる気配がないのを知ると、

 

「やれやれ、困ったものだ。このままではたとえ手足を削いでもお前は恐怖など見せてはくれんのだろうな……」

 

 魔剣はそう言って失笑を漏らし、今度はセイバーではなくあらぬ方向へと視線を這わせた。

 

 その視線の先には途端に半透明の筋が奔り、次第に実体感を増しながら無数の氷塊の間を這い回り始めた。

 

 もはやあの魔剣の繰る「糸」は完全に物理法則の頸を説かれ、実体と非実体の間を自在に行き来する架空元素の構成物へと進化していたのだ。もはやテフェリーの四肢を擬装していた「糸」とは別種のものとなっていた。あの金の糸刃はいくら寸断されても無限に再生できるということらしい。

 

「貴様、なにを……」

 

 本能的な危機感に、セイバーが急くような声を上げると、魔剣は無言で視線を向けてきた。そこには明らかな喜悦の色が浮かんでいる。

 

 金糸の集束は巨大な氷塊の隙間を這い回り、一瞬にして数キロ先までの海域を隈なく、蛇ノ目を埋めるようにして満たし、そして彼方より何かを見つけ出してそれを手元まで引き寄せた。

 

 まるで十字架に駆けられたように死に体となったその姿はこの場においてそう奇異なものではなかったが、しかしその場に居合わせた少女たちの顔色を一変させるには充分すぎる代物だった。

 

「士郎ッ!」

 

 凛が叫んだ。同時にセイバーも眦を開く。

 

 まるで霧煙のごとく、ゆるりと虚空を漂ったかのような印象だった金の架はしかし一刹那のうちに夜気を渡り、魔剣の元まで引き寄せられた。

 

「なるほど、思った以上の反応だな……」

 

 そう漏らした金色のヒトガタは金の枷に囚われた少年へ視線を移した。まだ、確かに息はある!

 

 同時に、一瞥してすぐにそれを確認したセイバーは魔剣に斬りかかっていた。背を向けたままの魔剣に斬撃を叩き込む。

 

 しかし魔剣は振り返るまでもなく金色に染まった髪を蛇の如く生動させ、聖剣の剣圧を受け流した。

 

 金の蛇たちはそのまま融解するかのように解け、そのまま今度はセイバーの全身を絡め取った。今、先ほどのような強力で金線を引き絞られたら、セイバーといえども今度こそ命が危うい。

 

 再び二色の眼光を閃かせた魔剣は蕩けたような笑みに顔を歪ませ、一気にセイバーに向き直り、その首筋にまた鼻を押し付けた。

 

「ああ、良い香りだ。すばらしいよセイバー。なるほど、コイツか? この男がお前の恐怖か?」

 

 再び渾身の力でそれに抗おうとするセイバーに、魔剣は呆れたような、同時に恍惚としたような、朱に染まった声を漏らす。

 

「おいおい、もう諦めたらどうだセイバー? どの道、先の策が破れた時点でお前達が私をどうこうする事など不可能だったのだ」

 

 その言葉に、セイバーの動きが滞った。

 

 確かに、そうなのかもしれない。セイバーは目を閉じた。

 

 出来ることなら、その選択は避けたかったのだ。しかしもう、そうも言っていられない。

 

 セイバーは首を廻して肩越しに凛と視線を交わす。観念したかのような悲しげな瞳を見て取り、凛も呟くような声を漏らした

 

「…………仕方がないわ、セイバー」

 

 声音として伝え聞くまでも無く、セイバーもその言葉を解した。

 

 確かにこうなってしまっては仕方がない。諦めるしか――ないのだろう。

 

 しばし苦悩するかのように俯いた後で、セイバーは矢庭に残り少ない魔力をありったけ絞り出すようにして全身から噴出させた。

 

 これには一時呆気に取られた魔剣だが、何のことはない、ただ最後の足掻きかと、むしろ失望すら感じながら魔剣は彼女を包みこむ手に力を込める。

 

 そのとき、筏の上から飛び上がった凛がありったけの宝石を、もはやナパーム弾のごとき閃光と爆炎に変えて魔剣にぶちまけた。それは魔剣にとって心から予期せぬことであったし、彼女をまったく脅威として見てもいなかったために、それは完全に虚を突く形にもなった。

 

 無論それが彼女にとって渾身の魔術であっても、その程度の攻撃は魔剣にとって目晦ましのようなものにしかならなかった。

 

 そして彼女にとって、遠坂凛にとってはそれで構わなかった。それで望みうる効果は充分だったからだ。

 

 一瞬視界を失った魔剣はそれでも現状で唯一の脅威といえるセイバーを逃さぬようにと彼女を拘束した糸に意識を集中していたが、気が付けば手の中にあったはずの手ごたえが矢庭に縮み、最後には解け崩れるかのように粉砕してしまった。

 

 そして訝る間も、視力を回復する間もなく、今度はセイバーの仲間である少年の手ごたえが無くなったことに気が付いた。

 

 暫く目を(しばたた)かせ、ようやく見つけたセイバーはその外装を取り払った可憐な姿を晒して海面に片膝を突いていた。

 

「……なるほど? 器用だな」

 

 セイバーは先ほど魔剣がやったのと同じように鎧だけを身代わりにして魔剣の手の内から逃れ、眼くらましの効いているうちに士郎を拘束していた金糸をの枝を切り落としていたのだ。

 

 魔剣の意識はすでに蛻の殻となった銀の甲冑に向いていたので、何とか今の彼女にも切断することができたのだ。そして海に投げ出された士郎の身体は先回りしていた凛が受け止め、今またセイバーの背後に陣取る形になっている。

 

「なによりも……お前たちの連携の息の合いようには驚かせられるな。しかし、これからどうするつもりだ? やはり諦めるのか? セイバー、もはや鎧を形成する余力すらないのではないか?」

 

 魔剣の声にセイバーは強い視線で応ずる。そこに絶望や諦観の色は見えない。その確かな眼光を前に魔剣は訝るような、しかしくすぐるように、なにかを期待するような視線でセイバーを、その背後のマスター達を見つめる。

 

 まるで手負いの獲物を前にした肉食動物のように。彼らの抵抗が何よりの悦楽だと言わんばかりに、爛々と目を輝かせて両者を睥睨してくる。

 

 純粋な興味があった。奴らはまだ諦めていない。一体、このような状況からどのような手を打ってくると言うのか……。

 

 そのとき、セイバーの手に現れたのは――――一枚の仮面だった。

 

 何時の間にであろうか。おそらくはあの遠坂の魔術師が何かをしたのだろうと思われたが、好奇心ゆえに魔剣はその所作をじっと静観していた。

 

 しかし、奇怪な面だった。騎士王たる彼女にはまるで似つかわしくない黒い仮面、鋭利なラインで構成されたシルエットはある種の凶器を連想させる。

 

 なんだ? 咄嗟に、魔剣の脳裏には強烈な既視感が湧き起こった。それも本能的な危機感を伴ってである。

 

 目元だけを覆い隠すようにセイバーの眼前に掲げられたそれは、すぐに生動するかのようような奇怪な動きを見せ、彼女の白い顔を覆いつくした。

 

「もう、諦めるしかないわ――」

 

 凛の発した声に、その怪異の答えを問うかのように魔剣の二色の瞳が向けられる。

 

「――「彼女」を生きたまま捕縛することは、諦めるしか、ない」

 

 そして魔剣の引きつるような表情を見越した少女の口角が、今度こそ不敵に乾いた笑みを伴って声を上げる。

 

「知らないとでも思った? キャスターがどうやってあんたを追い詰めたのか。調べていないとでも思った? どうしてあんたが半月も動けないほどの傷を負ったのか」

 

 呟くような凛の声に、魔剣は機敏に反応した。金糸の蛇の群れが魔剣自身の意思に反して鎌首をもたげ、強張る。

 

 

「バカな――それだけで()()()()()()()()()()を複製したと言うのか!?」

 

 

「悪いけど、――ウチにはそういうことに関してだけは規格外の贋作師(バカ)がいるのよ」

 

 凛は己の腕の中で気を失ったままの士郎をしっかりと抱き直しながら言い放った。

 

 魔剣はといえば、その言葉に応じる暇さえない。そのうちにもはや再装備することも敵わないはずだった銀の甲冑を纏っていたセイバーの五体には、明確な変化が露になり始めていた。

 

 枯渇しかかかっていた魔力はもはや桁違いの圧力を取り戻し、彼女の周囲の凄まじい魔力だまりを形成し始めていた。そして次第に銀に輝いていたセイバーの鎧が、黒く、黒く、黒く、さらに黒く染まっていくのだ。

 

 

「現時刻を持って魔剣の「捕縛・封印」を断念。目標を同対象の「殲滅」へと移行する!」

 

 凛の宣下するかのような厳かな声にあわせて、周囲を取り囲んでいた船団から暗鬱なベールのような気配が湧き起こる。

 

 それらはゆっくりと彼らの周囲十数キロの範囲を覆い隠し閉鎖的な異空間を形成した。結界である。

 

 氷山の粉砕と共に壊滅したかに見えていた魔術師たちは確かに多数の負傷者を出しながら、それでもプランB、即ち捕縛から殲滅への移行を見越して広域に散開していたのだ。

 

 ――チッ! 

 

 間髪入れぬ勢いで、金の剣線が走る。全身を黒く染めた騎士は動かない。

 

 金の斬糸がその首に触れようとした瞬間。何かが爆ぜた。

 

 黒騎士の全身から噴き出した怒濤の如き魔力が接近した金糸の射線を弾き、捻じ曲げたのだ。

 

 今度はそれが動く。まるで撃鉄を起こすかのような、緩慢で重苦しい所作で。――金の魔剣は蝶の如く、そこから弾けた攻撃を躱した。否、躱し切ることは出来なかった。まるで等身大の弾丸の如く、黒の一線と化したそれが突風に打ち抜かれた蝶の如く魔剣を弾き飛ばしたのだ。

 

 もはやサーヴァントであったときとは比較にならぬほどの速度であった。

 

 その黒の甲冑は変容を続けている。ただ漆黒に色味を増すだけではなく、次第にその厚みを増し、膨れ上がるように膨張していく。

 

 魔剣は蝶の羽の如く展開していた糸を集束し、水面に降り立つ。近接戦闘に打って出るつもりなのだ。未だ地力には差があり、今ならばまだ己に分があると踏んでのことだった。

 

 収束し、刃を成した魔剣の糸の一撃を受けた黒騎士は後方に吹き飛ばされる。好機とばかりに魔剣は前に出た。防戦一方の黒騎士に向けて連撃を叩き込み続ける。そのまま一気に数百メートルほどセイバーを後退させたのだが、しかし次第にその後退の頻度が下がり始める。

 

「――な、にィッ!?」

 

 まるで内側から爆ぜるように、その漆黒の装甲には真紅の亀裂が雷鳴の如く刻まれた。そこからはまるで噴出する鮮血の如き魔力が、もはや抑えきれぬとばかりに溢れ出している。

 

 その魔力は増大し続けている。まさか本当にキャスターと同じことをするつもりなのか?

 

 魔剣は思考を沸騰させる。いや、同じではない筈だ。あれは自滅を前提とした切り札だ。おそらくこのセイバーのこれには自滅の前にこの黒化を解除する安全弁がもうけられているはず。ならばキャスターのとき以上に時間制限は厳しい筈だ。

 

 だが、キャスターとは持ち前の魔力量、そして実力が違う。そのセイバーが「存在と属性のバランスを欠くこと」で手にした一時限りの慮外なまでの魔力量はすでに魔剣のそれを凌駕しつつあるのだ。

 

「――大したものだ。さすがは伝説の騎士王……いや、もはやその名は相応しくないな」

 

 紅い亀裂に囲まれた黒の甲冑はさらに膨張と変容を繰り返し、セイバーの体は見るも無残なほどに変貌していた。

 

 己が代名詞である筈の聖剣すらもが黒く染まり巨大に膨張している。全身をくまなく包み込んだ装甲は次第に人ならざる形態を再現しつつある。

 

「起源回帰を起こしているのか? まったく化け物め。今の貴様はもはや騎士の王ではない、属性の反転を果たした貴様はもはや人の理想ではなく、人の悪性の権化と成り果てている。それ即ち人ならざるもの、――魔獣の王に他ならぬ!」

 

 憎悪を謳うかのように吼えた魔剣の声ももはや届いてはいない。変容は四肢だけにはとどまらない。全身から奇怪な翼か尻尾かと見まがう何かを生やした外見はどんな獣にも似ていなかった。そしてどんな獣の特徴をも備えていた。

 

 魔。それは魔獣の王であった。幻想の頂点を極めし赤き邪竜の威容であった。

 

 黒い閃光が奔った。瞬間、海が、大気が、夜さえもが両断された。もはや魔剣であっても直に受け止めることは不可能であろう。

 

 

 属性反転、モード・ビースト。騎士の王、転じて魔獣の王と成れり。

 

 

 

 凛は腕の中の士郎に治療の魔術を施しながらその攻防を仰ぐ、幸い彼の傷は致命傷ではない、むしろ直りきっていなかった古傷が開いたというべきものだ。

 

 まったく、無理をしているのはどっちだというのか。こんな様で人の心配をするのは百年早いだろう。そう思いつつ彼の頬に、首筋に指を這わせてその体温のある事を反芻する。

 

 見上げる瞳には依然として強い眼光を宿してはいるが、それでも内心は揺れていた。

 

 虚空で展開されるセイバーのその優勢を、彼女は穏やかに見つめることはできない。これは出来ることならば使いたくなかった手段なのだ。

 

 この荒療治は長くは続かない。

 

 その間、セイバーは文字通り戦闘本能の塊となって元の状態とは比較にならぬほどの力を持つことになるが、しかしこれは諸刃の剣と称することさえ憚かられる代物であった。

 

 この宝具を使っている間、セイバーは凄まじい痛みを感じ続けなければならない。ソレは痛みなどという生易しいものではなく。魂そのものをと削り取られるかのような絶望的な喪失感すら伴うはずだ。

 

 セイバーにキャスターの真似をさせるのだとしても、それでキャスターと同じように力の渦となってしまっては元も子もない。

 

 何より、そんなことは不可能だ。アレを使用して魔の渦となれるのは極限たる魔の神性を持ち合わせているキャスターだけなのだ。

 

 セイバーがこのまま使用し続けても、おそらく力の渦になる前に彼女の存在自体が自壊してしまうだろう。

 

 故にあの複製品の黒い仮面にはキャスターのそれにはなかったリミッターを設けてある。つまり使用してから一定の時間が経過すると自壊するようにあらかじめプログラムされているのだ。

 

 その上、それまでの間セイバーの魔力は増大し続けるが、それと同時に凄まじい本能の暴走(スタンピート)に理性を食い破られているのだ。いくらセイバーでも悪くすれば理性の崩壊を招いてしまう。それまでに何とかしてあの魔剣を撃破しなくてはならない。

 

 そのセイバーの苦痛を想い、その主である少女もまたそれから逃げぬことを決意する。それは彼の騎士王が、人の理想である騎士王であるがゆえに感じる痛みから決して逃げぬことを知っているからだ。

 

 凛は士郎の身体を抱く腕に力を込めた。今、セイバーがもっとも心の拠り所とするはずのこの男の代わりに、自分がそれを見つめなければならない。その二人の繋がりの強靭さを、ほんの少しだけうらやましいと想いながら。

 

 

 

 ――まさしく魔獣の如く駆動しながらも、セイバーの理性はそれでも途切れはしなかった。

 

 根源的な飢餓にも似た枯渇の恐怖は、しかし彼女の内面に今燃え上がる炎によって掻き消されている。キャスターは限界までこの宝具を使って消滅した。いや、世界に修正された。己の総てを削り取られながら、消失の恐怖に苛まれながら、総てを知ってなおそれを断行したのだ。

 

 彼女にどのような想いがあったのかはわからない。それを知ることは敵わないことなのかもしれない。それでも自身やそのマスター達が今生きているのはキャスターのおかげなのだ。

 

 彼女は命を掛けて自分たちを救ってくれた。それが事実だ。それだけが結論だ。ならばそこに行き着くまでの経過は問わぬ。その是非を問うこともない。ただ、今は己の命を救われた借りを返すだけだ。

 

 そのために今、伝説の騎士王は己の根源たる騎士の属性さえをもなげうち、獣と化してこの敵に相まみえる。

 

 

 

 黒く染まり、その膨大な魔力量ゆえに一時は膨張した甲冑が新たな変化を見せ、次第に禍々しく引き絞られ、四肢に纏わり付き、人ならざる爪を、牙を、羽を、尻尾をその黒い五体に形成し始める。

 

 黒の魔獣を周囲から奔った針の如き直線が囲い込んだ。まるで狩人に誘い込まれる獣の動きだった。もはや理性は働いていないのだろう。ただこの金色の怨敵を殲滅するという目的、否、()()()()()()()()、この獣はその有り余る魔力と五体とを駆動させ続けているのだ。

 

 

 故に――容易い。魔剣はほくそ笑んだ。

 

 

「魔剣――檻!」

 

 瞬間に、敵の姿を見失って動きを止めた獣の周囲を囲んでいた金の直線が一気にその本数を数千倍に増殖させ、魔獣を金色のキューブ状の折の中に閉じ込めてしまった。

 

 これで少しは時間を消費させられるはず――魔剣はそう考えながら金の立方体に渾身の魔力を込めていく。

 

 しかし、次の瞬間、金の六面体(キューブ)は内側から膨れ上がってきた漆黒の球体(スフィア)によって食い破られたのだ。

 

 それはすでに魔獣の形態(かたち)をも失っていた。もはや駆動の必要の無い形を獲得していた。魔剣はあのキャスターの最後を思い出す。本来なら、アレが集束しながらさながらブラックホールのごとく凄まじい引力を発生させ総てを飲み込んでしまうのだろう。

 

 だがそこで、魔剣は再び笑みを浮かべるのだ。

 

 勝った。なぜなら、セイバーにはこれ以上の変化が許されないからだ。だからこその時間稼ぎ。これ以上はセイバー自身の死を招く事になる。それを知るが故に、魔剣はそのスフィアに接近した。

 

 時間切れだ。セイバー自身が己の死を厭わぬのだとしても、アレのマスターは仮面の複製に安全弁を設けている筈だ。ならばこれ以上の変化はない。ここから先は引き返すことの出来ない領域なのだ。

 

 漆黒の球体がそのとき巨大な風船の如く膨らんだ。勝機。もはや現界のはずだ。後は少し切れ目を入れてやれば自ずから弾けることだろう。

 

 そして己が思惑の成就を求めて魔剣は刃を放った――その、刹那。

 

 

 巨大に膨張していたセイバーの姿が一気に縮小したのだ。

 

 

 気付いた時には遅かった。まるで無貌となったかのような、融解したかの様相を呈するドロを纏ったセイバーは、それでも確かな五体を維持したまま、一条のスリットから覗く理性の眼光を煌めかせながら、貴光の刃を魔剣へと叩きつける。

 

 始めから、これがすべての筋書きだったのだ。ヤツが一度キャスターを相手に生き残っている以上、同じ策を弄しても対応されてしまう。故に、セイバーはその事実を囮として今の今まで、理性をさえ侵食されながらも意志を保ち続けて機を待っていたのだ。

 

 魔剣は躱せない。なぜなら、完全に裏をかかれたのだから。

 

 そして今セイバーが放つのは、今まさに弾けんとした魔の奔流を利用した一撃だ。その黒い光は本来の聖剣の真名開放とさえ比較にならぬほどの威力を発揮することだろう。いくら魔剣とはいえ、直撃を受けては消滅、否、蒸発を免れることは敵わないだろう。

 

「――――ヒッ」

 

 決死の刹那、魔剣は小さな呻きを漏らした。

 

 

 ――しかしそのとき、振り下ろされる刃と怨敵との間に、何かが割り込んだ。

 

 

 混沌に侵食され続けた意識の中で最後に残されていたセイバーの理性が、それを見止めて硬直した。

 

 護らねばならぬ約束を思い出した。

 

 最後にキャスターが託した言葉。彼女のマスターである少年を、――「彼」を護ってほしいという約束を。彼女は騎士として託されたその約束をこの場に至ってなお、破ることができなかった。

 

 放たれることを拒否された極限の魔力溜まりは、あらぬ方角に向けて炸裂した。その漆黒の光はもはや夜を裂くだけでは飽き足らず、空間そのものを歪曲、寸断、攪拌して、文字通り世界を裏返した。

 

 

 

 

 

 ――渓谷の谷間を通り、深い森を抜け、滴る滝壺を超えて、ワイアッド・ワーロックは降り立つ。

 

 そこは広大な自然のオブジェの中へ、功名に練りこまれ、隠蔽された(シャトー)だった。つまりは一見してそれは城ではないのであった。

 

 一見したのみでは、人の手が入ったことすら無いのではないかとさえ思われる原生林の中に忽然と、しかも繋ぎ目がわからぬほどに自然に、まるで年月に埋もれきった古代遺跡のような石造りの建造物が姿を現すのだ。

 

 この自然の景観そのものが、後代の木々の繁茂や気候の変動さえ、あらかじめ計算された上で形作られているものなのだ。と、とすぐに察せられたのである。

 

 老魔術師は滞りもなく、殆ど警戒らしい警戒もせずに城の中に歩を進めていく。豪胆というよりは、むしろ無謀に過ぎる挙のようにさえ思われたが、いざ城の中へと踏み込んでみても、何の仕掛けや罠が襲うことも無かった。

 

 魔術的な概要の初歩にして要である筈の結界敷居すらないのである。この場所が魔術師の隠れ家であるという事を考えるならば、逆にありえないことであった。

 

 にもかかわらず、この場所を見つけるのに必要以上に手こずったのには訳があった。

 

 その見事なまでの造形美と頑ななまでの隠匿性に、ワイアッドは古の魔術師の工房よりも、むしろ以前に見たある文献の記述を思い返していた。それは伊賀甲賀の忍びによってつくりあげられた「隠れ里」の設計思想についてである。

 

 徹底した魔術的措置によって居所の隠蔽を図ろうとするのが十把一絡げの魔術師の思考であるが、ここはそれがより徹底されているのだ。

 

 たとえ魔術的な隠蔽、幻惑の装置がなかったとしても、この場所を見つけ出すのは用意では無かったのだ。

 

 これはただ魔術によってだけの隠匿措置よりも、数段優れたもののように感じられた。さしもの老練の魔術師とはいえ、これには感嘆の想いを禁じえなかったのである。この要害の配置には妖精ですらある種の感覚を狂わされ正確な進行を遮られるのである。

 

 ――が、今、それほどまでに隠し通されようとしていた筈の場所は、ひどく無防備であった。そこは既に死んでいるように感じられた。その城は躯であった。その生態系に備わる筈の免疫機能、防衛予防策とでもいうものが、まるで機能していないのである。

 

 翁は躯となった城の中を進む。微かだが鼻腔に匂ったものがある。血のにおいだ。それも今しがた。脈打つ肢体から流れ落ちたものではない。ひどく擦れたようなその臭いには明らかな腐敗の根が感じられた。

 

 おそらく地に流れ落ち、腐り、乾き、そしてふき取られた、それは死の名残であろうと、老魔術師はその時点であたりをつけた。その推察が間違っていたことは今までにもなかったし、事実として今回もありえないのであった。

 

 そこは死地であった。奥に進むにつれ、吹き取り切れかなった腐血の残り香はその芳香を増していく。

 

 いかにも閑散としたそこは既に決着した死に取り囲まれた場所であったのだ。死地。死地なのだ。何故この老魔術師は斯様な死の蔓延る場所に足を踏み入れる必要があったというのだろうか。

 

 さらに進む。石の城壁に囲まれた箱庭のような場所に辿り着いた。中庭、と称するには些か以上に憚られる、広大な場所であった。

 

 表にある原生林とは趣を異にする人工的な緑が茂っているように見えるが、そこも確かに森であるように見受けられた。しかし、見ようによっては、その緑の芝生がひらけた草原のようにも見受けられた。

 

 と思ってまた見れば、今度は中央の湖が石で囲まれた日本庭園の池のようにも見て取れる。にもかかわらず、いま一度老いた眼を瞬かせてみれば、今度はまとめて苔生(こけむ)した太古の石碑の成れの果てのように見えてくるのだ。

 

 なんとも奇怪な場所であった。ここにも外と一緒の、いや、それ以上に強烈な幻惑幻視の巧妙な配置が成されていたのである。これがもしも城攻めならば直進を諦めて引き返すことを真剣に考慮していたかもしれない。

 

 しかし、ワイアッドは迷わずそれを見つけて歩み寄った。石の壁伝いに少し進んだある場所に、何かを燃やしたような後が見受けられたのだ。

 

 焚き火程度のものではない。遥かに大きな焼け跡だった。何かを大量に焼却したような、胸の悪くなる残り香が未だに立ち込めていた。

 

 その燃え殻の臭いを嗅ぎながら、辺りを視線で舐めるとワイアッドは目的地を目指して再び歩を早めた。

 

 よもや見当が外れたかと思っていたが、どうやら違うらしい。あれは死体を焼いた跡だ。それも一人や二人ではない、遥かに多くの、それもなかば腐乱し始めたそれを、何度も何度も、灰になるまで燃やした跡なのだ。あれは本来ここの住人であったはずの者たちだ。

 

 おそらく――――察するに、後継者達がここを発った後、すぐのことだったのだろう。あの魔剣はここで本性を現したのだ。そして、この地に残っていたサンガールの後見人や徒弟や従者たちを、一手に殺戮したのだ。

 

 奴の計画では最初からサンガールなどという魔道の家門などに用などなく、最初から使い捨てにするつもりで事に当たっていたのであろう。

 

 ああ、憐れなるはサンガールよ。魔道の家系を絶やさんがために腐心した先代の思惑が、巡り巡って斯様な形で後継者並びに従者徒弟含む全滅を招くことになろうとは。

 

 知らぬがよかろう。知らぬがよかろうとも。知れば未来永劫の後悔が彼らの魂を腐心させるであろう。その呪いが此方の未来に降りかかることは避けねばならぬ。いずれにせよ、いずれこの場には教会の手が入るであろう。それまでに、簡易的にでも祓いの儀を執り行わなければならないかもしれない。

 

 老翁はそう思案しながらしかし、ここに一つの疑問を提示する。彼らを殺したのはあの魔剣であろう。では、ヤツが彼らをこの場所で焼いたのだろうか? そのはずは無かった。

 

 遺体は腐敗した上で焼かれていたのだし、なにより魔剣がそのような挙に出る理由が無いのである。ならば、それは魔剣がここを発ってより暫くしてこの場所に舞い戻り、ここにあった死体の山を焼却した人物がいるということである。

 

「やはり……ここだったか」

 

 ワイアッドがここに足を運んだのは正しかったのだ。老翁の目的であった彼は確かにここにいるのだ。

 

『当主になって始めての仕事が、皆殺しになった徒弟の死体の後始末とはな……』

 

 それはなんと皮肉な裸の王の姿であろうか。

 

 ワイアッドは複雑怪奇にして絢爛壮麗なる媚態の箱庭を通り抜けた。

 

 そこは本堂であるかのように思われた。つまりはこの城群の主の居城。工房の中心である。居るとすれば、ここだ。

 

 不用意に踏み込む。鍵は、掛かっていなかった。それどころか、途上に在ったいくつかのドアには鍵どころか、最初から閉じられてすらいなかったのだ。

 

 進む。この有様を見れば防御結界幕どころか罠の類すら用意していないのだろう。深奥に突き当たった。殊更に豪奢で巨大な扉は、ここだけはしっかりと閉じられていた。

 

 押し入る。本来は敵襲に対する最終防衛ラインを意味するこの扉は無許可で踏み入ろうとするものを決して通さぬ文字通りの最後の扉なのだろう。にもかかわらず、扉は苦もなく開いた。

 

 そこには何の魔力も通っていない。つまりは電源の無い電化製品も同様であり、血の通わぬ肉と同様の意味しかなかった。そこには侵入者を押し止める意志も機能もありはしなかったのだ。

 

 広い部屋の奥。――暗く、それでも金と赤と黒の原色で彩られた、いかにも古めかしい調度に囲まれて、しかし蹲るように、そこだけが白一色で固められた一角があった。

 

 壁に、手の届く範囲に規則性も無く貼り付けられ、床に投げ出されたそれは無数の紙片だった。

 

 歩み寄る。反応は無い。それを手に取った。楽譜だ。どれほどあるというのだろうか、この広い部屋の一角を埋め尽くしてしまうほどの、奇妙な楽譜がまるで外界を拒絶する彼の心を表すかのように、真白な境界となってワイアッドの足を踏みとどまらせた。

 

 魔術的な強制力など有りはしないというのに、その白の結界は殊の外堅固に過ぎて――それ以上の侵入を止まらせた。

 

「――誰? 何の用?」

 

 背後で立ち尽くした来訪者に、この城の主たる少年は問うた。白い結界の中に蹲りながら、部屋の隅を見つめたまま、細く、薄っぺらい背中越しに声を掛けてくる。抑揚の無い声だった。とても少年のものとは思えない。乾ききった声だった。

 

「カリヨン・ド・サンガール、じゃな。――ワシの名はワイアッド・ワーロック。名は、知っとるかと思うが……」

 

 相槌の類は無い。無音。沈黙。静寂。――一拍置いて、ワイアッドは言葉を続けた。

 

「これは――何の暗号か……」

 

 先ほど手に取った白の結界の端。楽譜――のように、一見して見えたそれはしかし尋常の代物ではなかった。楽譜の上の並ぶ音符は常軌を逸した配置、配列、接地角にて混迷を極め、そこにはまるでモザイク模様のような、或いは奇怪な抽象画のような絵画のラフを見るかのように思われた。

 

「なんでもない――ただの、ウタだよ……」 

 

 少年はそれきり、ことばを切り、再び楽譜にペンを走らせ始めた。

 

「おぬしのことは人伝に聞いておるよ。うちの使用人を護ろうと骨を折ってくれたそうじゃな」

 

「なら、その先のことを知ってるだろ? 結局、僕の行動に意味なんて無かったんだ。自分で何かをしてみようとしてみたけど、結局は全部アイツの手の上だった。こんなにバカバカしい事ってあるのかな。一族一党、まとめてアイツの玩具にされてたなんて……」

 

「ならば、サンガール最後の魔術師として、その恨みを晴らそうとは思わんのか」

 

 カリヨンが乾いたような笑みを浮かべたことが、彼の背を見下ろすワイアッドにも解った。

 

「……ボクは思ったほど一族のことが大事じゃなかったらしい。彼らが死んでいたのに、たいして悲しくも無かった。あんなに、彼らに認めてほしいと思ってたのに、僕は彼らのことをちゃんと知ろうもしてなかったんだよ。だから、悲しくもないんだ。僕は彼らがずっと僕を見てくれないって思ってたけど、僕も彼らを見てなかったんだ。知らない人が死んでも、涙は流れないんだね……」

 

 しかし少年の独白のような言葉に応えることなく、ワイアッドは言葉を切り出した。

 

「魔剣は、じき、目覚める」

 

「…………」

 

「いや、もう目覚めているやもしれん」

 

「これは、ボクの癖みたいなものでさ。暇になったときとか、時間を潰したい時なんかに良くやるんだ」

 

「当然、おぬしの持つ欠片を狙ってくるじゃろう」

 

「……あんたは、多分、知らないと思うけど、そいつが……。そいつは、もういないんだけど、……そいつが前に口ずさんでた、ウタなんだ……」

 

「兎角、できる限りの策を立ててはあるが、それが成功するかどうかは五分といったところじゃ」

 

「……僕は暇になった時に、よく、これをやるんだ。……あいつがよくうたってたから、リズムを覚えちゃってさ……」

 

「もしもその策が失敗したならば、御主は殺されるじゃろうな」

 

「――でッ?!」

 

 噛みあわない言葉のやり取りに、根を上げたのはカリヨンのほうだった。元から、受け答えが面倒なだけだった。いい加減、この老人の言葉が耳障りになった。

 

「だから、なんだって言うんだ?!」

 

 背を抜けたまま。そこにどうしようもない怒りを露にして、少年はあらぬ方に怒声を吐き出す。

 

「僕には――、もう、何もない。解かるだろ? 何もないんだ。ここにくるまでに見てきただろ? 何も出来ないし――する必要もなくなってしまったんだ。そんな僕に、なにを言うつもりなんだ? なにを言いたいんだ? アレが、――僕を殺しにくるのなら、それでもかなわない。そうだ、僕は待ってるんだよ。アレが来るのを待ってるんだ。死をね、待ってるんだよ。……だから、もう良いだろ、僕には、何も出来ない。だから、もう、なにもしたくないんだ。何かをしようとすれば、また……」

 

「また、どうなるというのじゃ?」

 

「――ッ!」

 

 背を向けたままの少年が、息を呑んだのがワイアッドにも解った。

 

「そうか、殺されたいのか? ……テフェリーに」

 

 呟くような言葉に、少年の物言わぬ背中が再び、びくりと波打った。

 

「悪いが、御主の思い通りに運ぶまい。いまごろ、協会の支援を受けてアレに対処するための策を遂行しているころじゃろう。順当に行けば捕縛、悪くすれば殲滅と言うところじゃろうな。そうできるだけの準備を整えてあった。ワシがここに来るのが遅れたのはそのためじゃ。本来なら、おぬしが姿を消した時点で何かするべきだったのだがな」

 

 ワイアッドは懐から二枚の陶器片のようなものを取り出した。カリヨンの位置からでも、そこに秘められた法外な魔力が感じられた。何なのかはすぐに解かった。彼の中にもそれと同じものがある。

 

 それはすでに彼にとっては馴染み深いものとなっていた。彼が目覚めた時、すでに彼の中の「座」にはキャスターが納まっていた。あの冷たい刃の中に、ただ一個の力として。

 

「この二枚と、御主の持つ一枚の欠片が揃わぬ今なら、まだ対処のしようはあるのだ」

 

「何が、言いたいの?」

 

 背を向けたままカリヨンは呟いた。

 

「つまり、いくらここで待っていても向こうから会いに来てはくれんということじゃ」

 

「……そんなこと考えてないよ。僕の欠片をもっていきたいならもっていきなよ」

 

「それで、本当によいのか?」

 

「……何が、言いたいんだ」

 

「そのまま蹲ったままで、本当に後悔しないのかと聞いとるんじゃ」

 

「――あんたは何でそんなことを聞くんだ? そんなことをいうために来たんなら、もういいだろ? 欠片を取り上げて、さっさと行けばいい」

 

「このまま、ニ度とテフェリーに……」

 

「違う!」

 

 少年は爆ぜるように立ち上がり、狂わんばかりの声を張り上げた。それまでの乾いたような弱々しい、あえぐような声ではない。咄嗟に出たのは、嗚咽のような悲鳴であった。

 

「テフェリーじゃない。アレはもうテフェリーじゃないんだ……」

 

 己に言い聞かせようとするかのように、泣き声は幾重にも重ねられる。

 

「テフェリーじゃない。アレはテフェリーじゃないテフェリーじゃないテフェリーじゃないアレは……」

 

「いいや、あれはテフェリーじゃよ」

 

「――――ッッッ、」

 

 射すくめられたかのように、細い肢体は凍りついた。遅れて、瘧のような震えが、少年の身体を強引に抱きすくめた。

 

 逃げ場が無かった。だから震えるしかなかった。絞り出した声も、そのおぞましい震えから逃れられなかった。彼は言葉を否定することができなかった。それは彼自身が向き合うことを避けていた事柄だったから。

 

「……僕に……」

 

 弱々しく膝を突き、逃避するかのように、声は震える。

 

「……どうしろって言うんだ。皆、勝手なことばっかり言いやがって。当主だとか、マスターだとか、戦え? 生きろ? 挙句にまだ、僕に何かしろって言うのかッ? もう、無理なんだよ。だから、放っておいてくれ……」

 

「ワシは魔術師じゃ」

 

 少年の声には斟酌せず、老紳士は高い位置から抑揚の無い声を漏らす。。

 

「故に何処をどう転んでも、ワシにはそれ以外の選択がない。もう是非もないほど、ワシの生き方は決まっとる。今更何かを変えてみようとしても遅すぎるほどにな」

 

 それは、届いているかはどうでもいい、とでも言うような、まるで独白のような声だった

 

「今回のこともそうじゃ。テフェリーが魔剣に取り込まれた今、魔術師としてワシがしてやれるのは「葬り去る」ことの手伝いだけじゃ。どんな手を使っても此度の怪異を秘匿せねばならぬ。ワシにはそれ以外の選択は許されておらん。魔術師としてのワシはそれを微塵も悔やむことないじゃろう。――じゃが、人間としてもワシは、きっとこのままではそれを後悔する」

 

「それで、どうしろって言うの。僕にもそれに付き合えって言うのか?」

 

「そうは言わん。先にも訊いたが、おぬしは最初から、サンガールの魔術師ではなかったのだろう? ならばワシら魔術師の責務に付き合う必要はあるまい。御主の言うとおり、御主等は確かに被害者じゃ」

 

 それから一拍の間を挟み、ワイアッドは言葉を続けた。言葉を切ったのは、あるいは慣れない言葉を使うための助走なのかもしれない。

 

「この歳になって、ようやく解ったことがある。それは、人は己の心というものを計算して動くことは出来ぬということじゃ。だから、魔術師(わしら)のように己の心さえ支配したつもりになっている人間ほど、己の心が見えなくなる。

 何かを決断しようとする時、そのための理由を探す必要はない。そのための言い訳を考える必要はない。ただ、己の心が求める物を見つめ、己の信じられる道を歩めばいい、と。……それが、最後に彼奴がワシに示した生き方じゃ。それを、無為にすることだけはしたくないのでな」

 

「その人は……どうしたの?」

 

「死んだ」

 

「なら、その言葉に意味はあるの? その人はもういないのに……」

 

「それを向けられた者が、生きてさえいれば、な。……死者の言葉は生者に届いてこそ、意味がある。死者同士で交わされた言葉は生者に届くことは無い」

 

「……」

 

「コレは置いて行く。伝えることも伝えたし、ワシはお暇しよう。邪魔をして悪かったな」

 

 結界の隅に二枚の鈍い輝きを放つ刃片を置いて、背を向けた老紳士に、今度はカリヨンが擦れるような声を投げかける。

 

「その人は、なんて言ったの? その、……、最期に」

 

 老紳士は何処と無くぎこちない動きの長身をそれでもなお優雅に翻しながら、

 

「『自分は何も後悔していない。だから、お前も後悔だけはするな』とな。ふん、思えば生意気なこと言いおったものじゃ……」

 

 そう言うとカリヨンに背を向けて部屋を後にした。後に残ったのは白い結界にひとり残された少年と、鈍く輝く二枚の刃の欠片だけだった。

 

 再び静寂を取り戻した部屋の中で、カリヨンは部屋の隅を見つめながら、ただ、瘧のような震えが彼を放してくれるのを待っていた。

 

 「生きてさえいれば」――それは、その言葉は今の少年にとってはどうしようもなく荷が勝ちすぎる難問に思えた。己に出来ることはただ漫然と迫り来る死を待つことだけだと思っていた。

 

 だから、彼はここにいた。キャスターが最後に彼に残した言葉が彼にそうさせたのだ。『――マスター、どうか、生きてください――』と。

 

 もう総てを失くして、生きる理由はない。けれど、そのキャスターの言葉があったから、彼は死を選べなかった。だから総てを諦めて、ここにいたのだ。

 

 だって、出来やしないのだ。自分には何も出来ない。出来ないのだから、仕方がないのではないか。じっと蹲っていること以外に何かできることがあるのだろうか?

 

 何かが出来るのだと期待してみても、結局は、己の無力を思い知るだけだった。これ以上、この無力な自分になにが出来るというのだろうか。

 

 そうだ。あの日、殺される彼女を目で追いながら、夢現に悟ったのではないか。

 

 自分は勇者ではなかったし、誰かを助けることも出来なかった。なぜか? それは自分がただの子供だったからだ。それが現実というものなのだと、そのとき初めて知ったのではなかったのか。

 

 しかし、幾度となく繰り返した、諦めにまみれた自嘲の言葉はいつものように束の間の安堵をもたらしてはくれなかった。何がが、少年の白い頬を過ぎった。小さな手を軋むほどに握り締め身体を震えさせたまま、少年は声を殺して泣いていた。

 

 だって――だって、知っているのだ。どうしようもなく解かっている。とっくに知っている。彼はずっとそうしなかった事を後悔して生きて来た。だから彼は力を得て、できる事をやろうとしたのだ。そして――それも失敗に終わった。助けたい人を助けられなかった。

 

 体の中に充満しているものがなんなのかわからなかった。それをどうしていいのか解からなかった。そのとき、不意に、死者の声が蘇った。キャスターとは違う。別の声だ。

 

 床一面に散らばる楽譜から、不意に、本当に何の予兆もなくそれが蘇ってきた。鞘の、言葉だ。

 

 『出来るかどうかなんて、考えるだけ時間の無駄なんだよ。だって未来のことなんだから、そんな事をしてる暇があったらね、今自分がどうするのか、を決めることに使ったほうが良いんだよ。ほら、何かを考えてるうちにどんどん進んでいけるんだから』

 

 言葉はいくらでも溢れてきた。何気なく彼女達が発した言葉が、どうしようもなく彼の中に息づいている。死してなお、彼女たちは彼を支えているではないか。そう、生きて、その先の生に、何を成すのか、と。

 

 ――ほらね? 今、君はなにを決めるの?

 

 僕はなにを決めるのだろうか。なにを決めればいいのだろうか? 今、僕が決めなければならないこと。

 

 少年の独白は涙と一緒になってあふれ出していく。もう、枯れたと思っていた涙が、まだ溢れるのだ。

 

 わけもわからず、立ち上がる。全身を震わせるような。やりきれないものが溢れている。今まで必死になって抑えてきたのだ。名前も付けようのないこの感情が全身を震わせるのだ。

 

 総てを失った筈だった。もう何もないはずだった。それでもたった一つだけの残ったこの思いが、消えていない。彼女を諦めていない自分だけが消えずに燻っている。もうそれから目を背けてはいられなかった。

 

 そうだ、僕はテフェリーのためにかっこいい自分を見せたかったんだ。

 

 嫌なんだ。テフェリーに自分を誇れないのも、テフェリーの側に居れないことも、自分を見限ってしまったことも、総てが許せない。そうだ、このままでは自分は自分を許せそうもない。そんな自分がずっと嫌だった。

 

 いつの間にか、結界から歩み出て、二枚の欠片を手に取っていた。僕はなにをするつもりでいるのだろうか。いや、僕はなにをしたいのだろうか。

 

 少年は自問を重ねる。震えが増す。握り締めた刃片が掌に食い込む。どうしようもなく制動できない。どうすればいい? 決まってる。解かってなんかいないけど、どうしたら良いかなんて、決まっているのだ。

 

 ――僕は。そうだ僕は、ずっと、……テフェリーを、助けたかったんだ。

 

 あの日から、ずっと。テフェリーを未知の世界に連れ出すんだって決めたあの日から。ずっとそう思い続けてきた。助けられるかもしれないから助けるんじゃない。僕が助けたいから、僕がテフェリーを助けるんだ。

 

『外に行こう。一緒に世界中を見るんだ。僕がいるから大丈夫だよ』

 

 出来るかどうかなんて関係ないじゃないか。「出来るかもしれない」からじゃない。自分が心から「そうしたい」と思うから。人は己の行く先を決められるんだ。

 

 テフェリーを助けたい。どんな手を使っても。独りになんてさせない。そう決めたのだ。とっくに決まっていたのだ。

 

 何も無くなった。確かに総てを失った。でもそれは、同時に何もにも縛られないのだということなのだ。きっと、サヤならそう言うだろう。総てを失くしてしまった今こそ、君は自由になれたのだと。もう何でもできる。何処にだっていけるじゃないかと。

 

 ――そうだ、ボクはまだ、生きている。だから、僕はまだ「未来」を、その先の生き方をも自由に選ぶことができるじゃないか。

 

 いつの間にか、震えは、止まっていた。

 

 テフェリーはずっと独りで傷つき続けてきたのだ。自分でも見ることの出来なくなった、それでもそこに生々しく息づいている傷口を抱えたまま、ひとりで苦しみ続けていた。

 

 何故だろう、なぜ彼女がそんなにも苦しむ必要があったのだろう。

 

 簡単だ。――ここに辿り着くまでに今までかかったのか――それは僕がいなかったからだ。僕がテフェリーの側にいようとしなかったから、彼女は一人だったんだ。当たり前のことじゃないか。

 

 だから、あの子は今も苦しんでいる。それは独りだから、僕がいないからだ。

 

 

 なら、僕のやるべきことは――ひとつしかない。

 

 

 もうとっくの昔に決めていたではないか、何があっても、もう二度と、彼女を独りにはしないと。

 

「――解かったよ、サヤ、キャスター。解ったよ、テフェリー」

 

 自分が何のためにここいるのか、やっと解かった。やっと、自分の心が求めていた行き先を決められた。

 

 扉を蹴って、走り出す。止まらなかった。どこに行くのかも解からないのに、とにかく足は動いた。どうなるかも解からない。何が起こるのかも、解からない。それでいい。たとえなにがあっても、もう迷いはないのだ。今は、とにかく奔るのだ。

 

 気がつけば二枚のブレードはいつの間にか両手の中で融解し、彼の両腕の深奥へと溶け込んでいった。

 

 不意に、彼の速度は音速を超え、幾層かの空気の壁を突き破った。渾然たる英霊三人分の力が溢れるように、彼の中ではじけたのだ。

 

 跳ぶ。飛んだ。否、飛翔して(とんで)いた。一瞬で深い山を、暗い森を越え、あの時越えられなかった滝を、一跳びで股に掛けて――

 

 奔るのだ。まるで、時を巻き戻すかのように。

 

 足許に、見覚えのある光芒が見えた。あの日、彼らを誘ってくれた地妖精(レプラコーン)達が、大地の要点に光を灯している。

 

 彼が行く先を指し示すように光の道が一直線にはるかな海の彼方を照らし出している。

 

 少年は駆ける。今、駆け抜ける。あの日夢見たように、雄々しき勇者のように。悪魔に捕らわれた妖精の姫君を助けるために、妖精たちに導かれながら、光の道を駆け抜けていく。――

 

 

 その光を見つめながら、ワイアッド・ワーロックは丸眼鏡の下でそっと眼を細めた。 

 

 

 


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