Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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七章 謡う合鳴鐘「カリヨン・トランス」-2

 

 見上げる雲に丸くグラデーションが掛かっている。

 

 それは円満なる月影の直下から、次第に真っ白な中央の部分、順に黄、橙、赤、そしてしだいにグレーから深い藍色へと変化していく。夜なのに雲の白さが際立っていた。

 

 空の端にある雲の形までもが、よくわかる。これはもう昼の青空とも変わらない。いや、むしろ直視することを許さぬ昼の陽光に比べ、これほどまでに暗静色の空に輝く満天の月は、あらゆる空に輝くものの中でもっとも尊く美しいものだ。

 

 きっと、誰もがこの明夜を見上げれば、そう思うに違いない。それほどに特別な夜 格別な月だった。

 

 そんな月の光りにつられて、繭の中から何かが生まれ出でようとする。いや、生まれ出でずには居られないのだろう。

 

 そう想わせるほどに、今宵降り注ぐ光は新たな生誕に相応しい。それは待ちきれないとばかりに急いて繭を破る。

 

 羽化したそれは翅を広げて天を仰ぐ、金色の翅が、天の満月に向かって光の筋をはためかせる。――

 

 

 飛ぶ気なのだろうか。

 

 飛べるのだろうか。

 

 飛ぶ。

 

 飛べる。

 

 飛べるのだ。

 

 羽ばたく。それは仄暗い空に舞い上がる。一匹の巨大な蝶のように。おおきく、ゆっくりとたおやかに、凍てつく大気を掻いて天空を目指す。

 

 魔剣は飛び立つ。魔剣が飛び立つ。暗い海面に映る満月から、あたかもその一部が剥離するかのように。

 

 

 

 ――ああ、腹が減った。急ぎ、残りの欠片を迎えに行こう――

 

 

 いまや幾千にまで枝分かれした四肢の、白金色に輝く流髪の、妖しい蛍光に濡れ光る天衣の、その延長の総てが数千メートルはあろうかというエーテルの切っ先と化しているのだ。

 

 これが魔剣。いま、この現代に新生した、兇器特権(テュルフィング)という名の魔剣の姿であった。

 

 その妖しく濡れ光る天衣の裾までもが、虚ろな光芒に纏われている。

 

 魔剣は二色の瞳を巡らせた。ここは何処なのだろうか。落下した当初はそこまで確認する余暇がなかった。見上げた星の位置から、大まかな緯度と軽度を推察する。

 

 ここは北の地。――北の海洋だ。北海。英国を含む西欧諸国に囲まれ、南は大西洋をはじめ北はノルウェー海。東にはバルト海を望む、古くはゲルマンの海(German Ocean)とも称された北方の海域。

 

 そしてこの座標は英国寄りの場所であろうか。知らずの内に厄介な場所に降りてきていたようだ。そしてあれから、どれほどの時間が経ったのか。

 

 これはそう長い時間ではない筈だ。あの悪神との闘いで負った傷の再生を終えるまでの期間。

 

 改めて月を見上げる。目測で、およそ十日から二週間前後といったところだろう。

 

 鏡のように凪いで満天の月の艶姿を映す海面に、たおやかに浮遊する金色の蝶の姿が揺らいでいた。

 

 今や共にひどく深い色合いに変じた右の緋色と左の翡色、その両の瞳が星のように瞬き、金の睫毛と共にうっそりと伏せられる。月の光に浴するかのように心地よい光子の浮遊に身を任せ、魔剣は再び思案する。

 

 傷を塞ぐのにかかった時間は速くとも十日。ならば、すでにここも補足されている可能性が高い。なら、敵はいつ仕掛けてくるのだろうか。

 

 生半可な攻めではどうにも成らないことくらいは奴らもわかっているだろう。――と、言うよりも、そうでなくては困るのだ。

 

 新生したこの身体を試すには――試し斬りには――それなりの相手が必要になる。さて、何時、いったい如何なる手で――――、

 

 

 そのとき、突如としてそこに迫る極大の閃光がひらめいた。

 

 間違いはなかった。これぞ約束された勝利の剣(エクスカリバー)の一撃に違いない。

 

 間違いなく()()にとっては虎の子の切り札にして最大のカード。で、あるが故にこのタイミング。最大の手を第一手での奇襲で使ってくるとは!

 

 面白い。魔剣は心底嬉しくてたまらないといった表情を浮かべ、虚空でその極光を待ち受ける。

 

 

 ――取った! 

 

 騎士王(セイバー)は確信する。それまで幾度となく放ってきた決殺の手ごたえが、培ってきた経験則と共に確信を導く。

 

 この距離、このタイミング、絶対に外さない。

 

 しかし、その確信の刹那、奔せる極光の向こう側で、魔剣が浮かべた不敵な笑みを、セイバーは確かに目撃した。

 

 魔剣を飲み込むかに見えた光の帯が、歪んだ。否、(たわ)んだというべきかも知れない。

 

 光の直線を受け止めるかのように羽を極大化させた光の蝶は、瞬間まるで後光でも背負うかのように羽を旋転させ、巨大な円盤を作り出したのだ。

 

 驚くべきはその円盤が突如として鋭利な円錐状に変じたことである。つまりは開きかけた傘のような形状だ。その外面はまるで鏡のように輝き、迫り来る極光の切っ先を滑らかに受け流したのだ。

 

 それだけではない。その円錐の裾には雨樋のようなそり返しが設けられており、受け流されたエクスカリバーの極光はそのそり返しによってその進行方向を反転させられた。

 

 至高の聖剣より放たれた筈の光の刃があろうことか引き裂かれ、今数キロメートルもの間合いを一気に逆流し、流星群の如く騎士王に襲いかかるのである。もっとも、聖剣の光を跳ね返したことこそ驚愕に値すれども、それでセイバーをどうにかできると考えるのはあまりに早計であるといわざるを得ない。

 

 己の攻撃が反射される事を、驚愕より先んじる事実として直感で悟ったセイバーは、事の是非を置いてまずは回避行動に入っていた。

 

 危うげなく跳躍してその極光の逆流を躱す。しかし、足場にしていた巨大な輸送船にはそれを回避する術があるわけもなく、光線の直撃を受けた船体は粉砕され、あっという間に海の藻屑となって憐れな残骸が散らばった。

 

『――――なんだ?』

 

 それを見ていた魔剣は不可解なものに気をとられ、離脱したセイバーから僅かに眼を離した。それほどにその船の内容物は眼を引く代物だったのだ。

 

 船体が大破したその瞬間から、何かが大量にこぼれ出たのである。

 

 すぐに見失ったセイバーの姿を探してその残骸の元へまろび寄った魔剣は一時、それを凝視して訝る。

 

 白い、――氷? いや、砂塵であろうか。兎角、そのような白くて硬質な粒である。それが大漁に、あまりにも大漁に、閃光の余熱で沸き上がる海に零れ落ちたのだ。

 

 これは、いったい? ――――――。

 

 さしもの魔剣も、これがなんなのか、何故ここに用意されていたのかを考えねばならなかった。

 

 その奇妙さゆえに思わず誘われたのだ。加えて、そこから飛躍したイメージが先ほどから感じていた違和感に繋がった。何故セイバーはこんなものを足場にしていたというのだろうか?

 

 彼女の真名は名にしおう伝説の騎士王。故にその爪先はいかなる水域にも没することなく、その足は水面をまるで原野の如く踏みしめて馳せることを可能とするのではなかったか。

 

 そうだ。最初にあの河面で対峙した時にも、この騎士王は確かな足取りで鏡のような河面を蹴っていたではないか。では、何故に――。

 

 幾許の刹那。魔剣は思考の澱に足をとられた。

 

 果たして、これが覚醒した直後でなければこの事態を、敵に奇怪なものを見せて一瞬の隙を作り出す、もっとも初歩的なブラフの一種なのだと、或いはすぐに気付いたのかもしれない。

 

 しかし、天の采配は「彼ら」に味方した。策は功をそうしたのだ。魔剣自身の思慮深さも手伝い、砂塵は望まれた第一の成果を果たした。魔剣の意識は一時の間だけ、逡巡の空白に捕らわれることになったのだ。

 

 そのとき、まるで待ち構えていたようなタイミングだった。魔剣はその華奢な五体に凄まじい引力を感じて身を強張らせた。まるであのときの、数百年前、己が体躯である刀身を七つに分割され、封印された時の恐怖を引き起こすような強引な強制力を感じたのだ。

 

 気付けば、その総身を金ではない紅の光線が絡めとっていたのだ。――否、それは糸にあらず、それは糸と見紛う程の極細の鎖であった。

 

「こっ、これは――ッ!」 

 

 途端、まるで血のような朱色の光線の束は、強烈に牽引され、金色の蝶を凍てつく海中へと一気に引きずり込んだ。

 

 真言密教における結護の法のひとつに「金剛綱」というものがある。本来は黄金色に輝く紐の束であるとされるこれは、魔物どもを縛り上げる裁きの(つな)であるとされた。 

 

 ワイアッド・ワーロックが用意したこの縛魔の宝具に、今回は更なる強化が施されていた。協会に死蔵されていた、とある宝具の断片であるとされるそれを、衛宮士郎の投影魔術により再現し、金剛綱と寄り合わせ、結合させたのである。

 

 金剛綱はその極細の鎖と溶け合い、より強靭な縛魔の枷へと変じて伝説の通りに強大な「魔」を再び封じたのである。その宝具の名とは――、

 

「――切れぬッ、これはまさか、――獣縛の六枷(グレイプニ-ル)!?」

 

 そう、それはまさしく北欧神話にて強大なる魔狼を捕縛したとされる伝説の枷であった。急ごしらえの模造品とはいえ、金剛綱によって補強されたそれはまさしくこの北欧神話の怪魔たるインテリジェンス・ソードを絡めとるにはうってつけの魔具だと言えた。

 

 さらには海中にて、魔剣は目撃する。水膜を解して光線の導きを見たのだ。それを牽引し、海中に引き込んだのは先刻姿を消したセイバーであった。つまりここまでの展開はあらかじめ定められたシナリオだったということになる。

 

 文字通り泡を食うこととなった魔剣に目掛けて、間髪いれずにさらに数百、数千もの紅い糸が幾重にも絡みつく。それらはあらぬ方角から、それも四方八方から放たれ、まるで蜘蛛の糸の如く魔剣を絡めとっていく。

 

 反撃に転じようにも、絡みついた真紅の紐は魔剣の千篇変化を封じ込めるように、強力な引力と拘束力を発揮しているのだ。己が五体であるはずの金の糸を解くことも出来ない有様である。

 

 金の魔剣がもがく内に、術式は完成した。

 

 それは高度な複合結界術式であった。並みの魔物ならば抵抗すら不可能、たとえ特Aランクのサーヴァントであっても単騎での突破はまず不可能と言う代物だ。これは協会に秘蔵されていた、魔剣に対する封印式を再現したものである。このときのために無理を通してその術式を持ち出してきたのであった。払った代償は軽くはなかったが、その対価は十二分な効用として現れている。この術式からは抜け出せない。

 

 しかし、捕らわれの魔剣はまたもここで笑うのだ。不敵に、何処までも微笑するように、柔らかな笑みを浮かべるのだ。まるで幼子の悪戯を眺める母親のように。

 

「――よくもまぁ、半月足らずでここまで用意したものだ」

 

 今の魔剣は四体もの英霊を飲み込んでいるのである。その力はただ一個の剣であったころとは桁が違うのだ。封じられながらも、凄まじい魔のトルクが紅線を巻き込んで軋みを上げ始める。

 

 キンッ、キンッ――と、硬質なガラスの糸がほつれるかのような音色が、冷えた海中に鳴り始める。徐々に、徐々に引き絞られていく封魔の紐がほつれはじめる音だ。

 

「惜しいな。これが五百年前なら王手だっただろうが――」

 

 ほつれた極細の枷がついに千切れ始めた。

 

 不敵な笑みを狂気のそれに歪ませて、魔剣は爆ぜるかの如く堅固な筈の封印式を粉砕した。

 

「この程度では!――――――ッ?」

 

 しかしこのとき、魔剣は更なる予想外の光景を見る。己を強烈な力で海中に引き入れた筈のセイバーが、今や背を向けてはるか彼方に逃走を図っている光景を目にしたのだ。魔剣は怪能な光景を目にして再び動作を滞らせた――刹那、途端に周囲の海水が急激なあぶくを立てて沸き立ち始めた。

 

 

 

 同刻。海中の深いところで行われていたその様を見つめる瞳があった。

 

 少女は船の上で凍てつく空気に身を晒しながら、無線で連絡を受ける。『セイバーは回収した。予定通りだ』

 

「いいわ。士郎、すぐに離脱して」

 

 無線の向こうからの声に返答し、すぐさま虚空に合図を送る。

 

 すると、周囲の澄んだ空気の中から、不意に何かが姿を現した、それまで何もないはずだった空間から、やおら大型の船舶が姿を現したのだ。それも一隻ではない。二隻、四隻、八隻、その数はまだ増える。船団だ。澄んだ空気の夜の海域にあっという間に数十もの船舶が姿を現した。

 

 急ごしらえで用意された特殊ステルス船団であった。数は三十二。船団とはいっても、それぞれがかなりの距離をおいて弧を描くように列を成している。

 

 各々の距離は数百メートルは空いているであろうか、凛の合図を受け取った船から、また数百メートル先の隣の船に合図が届けられる。そうして、合図は円環状の輪を描きながらまた凛の元へと届けられた。

 

 ちょうど魔剣が結界式に捕らわれた辺りを中心とするように半径数キロはあろうかという長大な点光の円環が描かれた。無論、今だ海中に在る魔剣にはそれを正確に推し量る術などあろうはずもない。

 

 それでもようやく、今になって感じ取ることはできた。今まで己が敵の掌で踊らされていたのだという事実に。

 

 

 ――時と例えられし四足の獣の名を借りて、鏡面の綻びよ、時を凍らせたまえ――

 

 

 何処からともなく詠唱が響き渡る。

 

 

 ――円月よ。弓と成りて、偃月よ。霜と成りて、艶月よ――

 

 

 しかも、夜気に漂うようにして流れてくる詠唱は一つだけではない。

 

 先ほどタンカーから大量にこぼれだした鉱物は大きく分けて二種類あった。ひとつは岩塩である。それもただの岩塩ではない。一億九千万年前の岩塩層から削りだされた岩塩の砂塵であった。そしてもうひとつは大量の珪砂。所謂、石英を砕き粉岩としたものである。

 

 

 ――塩の柱、塩の海、塩の刃、塩の泡、塩の盾、塩の鎧、塩の精霊、雫となりて、澱となりて、檻となりて、――

 

 

 幾重にも重複していく相互変換呪文の斉唱が山彦のように辺りに木霊しはじめる。

 

 この捕縛作戦が行われているのは北海である。故に彼女たちはここからほど近いロンドンは時計塔から直接的、間接的な援助を受けることが出来ていた。

 

 三十二艘のステルス船と巨大タンカー、そしていま複合詠唱を唱える数十にも及ぶ手練の魔術師たちである――もっとも、彼らはワイアッドの知己のものがほとんどだったので、直接的な協会の援助とも言い切れないのだったが――ともかく準備は万全。いくら派手な事をやってもここでなら大した問題にはならない。

 

 作戦の場所としてはむしろこの場所は好都合だといえたのだ。

 

 

 ――引力よ、密なる砂塵よ、今再び、その身に刻み込まれし時の累積を思い出さん―― 

 

 

 海中にこぼれた大量の岩塩の欠片は術式の発動と同時にその一つ一つに対して一億九千万年間掛かりつづけていた圧力を一時的に再現し始めたのである。

 

 ――星霜の冠よ、星霜の五芒星(ペンタグラム)よ――

 

 

 密集し、強烈な圧力を生み出し始めた岩塩の粒と共に、もう一種の砂塵が効果を表し始めていた。

 

 桂砂である。先ほど大気中に散布された石英の粉塵を触媒として、周囲の海水が急激な凝固をはじめたのだ。これら魔術処理を施された珪砂は術式の発動とともに大気の八十パーセントを閉める窒素に干渉してその組成を液化させはじめたのだ。

 

 液体窒素は大気から熱エネルギーを奪い気化冷却を引き起こし、破損した船体を中心として周囲の空間にマイナス二百度近い超低温を生み出したのだ。

 

 

 ――躍動せよ幻影の獣よ、約束されし桃源の地にて、汝、真鍮の都に戯れるべし――

 

 

 結果として、急激な超低温によって凝固を始めた海は、同時に太古の超圧力を「思い出した」岩塩砂によりさらに一所にかき集められ、凝固させられることになった。つまりは巨大な氷と塩の牢獄である。

 

 視界を覆っていた石英の粉塵が総て触媒として消費され、目の前に現れたのは巨大な氷山であった。累積した氷結捕縛はちょうど梭型(ひがた)に近い形に凝結していた。

 

 もとより、氷山というもののは氷と海水の密度差により、その90パーセントは水面下にあるのが通常である。今眼前に見える尖った頭頂部だけでも筆舌に尽くしがたい威容と見えたが、その全貌はどれほどのものなのかはもはや計り知れないほど広大なものであった。

 

 その規模たるや、眠りについていた魔剣を包囲していた範囲三十二隻の船が取り囲む直径数キロの海水をまとめて凝固させるという規格外さだった。しかも凝固と同時に掛けられた複合封印魔術式は、その氷山の中心に行くほど圧力と超低温の密度を上げるのである。

 

 

 それを指揮していた少女がその宝石のような大粒の瞳に不敵な微笑を浮かべた。総てを読みきった上での配置、読みきった上での策であった。

 

 二重三重の伏線、その総てが十全に機能した結果だった。強大な氷塊の山を見上げる瞳が、氷面の照り返しを受けて満足そうに煌めいた。

 

「ここまでよ! そのまま、おとなしく塩漬けになってなさいッ」

 

 

 

 

 遠坂凛は真っ直ぐにそれを見据えている。

 

 星の無い夜にきらめく氷塊は泰然たる威容を極北の海原に晒していた。

 

 ――ここまではいい。仕上がりは上々。作戦は成功だ。完璧だと言っていい。これ以上ないほどに決まった。

 

 しかし、にもかかわらず彼女の顔色は優れない。彼女の唇からなお漏れるのは快哉の声ではなく溜息であった。安堵ゆえ――否、そればかりの息だけとは言えなかった。どういうわけか、漏れるその息にこもるのは艶めいた憂いばかりだ。

 

 

 彼女たちがこの魔剣から命辛々逃げ延びた後、四人は彼女らと同様に傷を負っていたワイアッドと落ち合い、その足でロンドンは時計塔に保護を求めた。

 

 その後の二、三日を彼女たちはひどく曖昧な状態で過ごした。皆満身創痍ではあったが、しかし彼女も危機が迫るのを感じれば、どのような状況であってもすぐに対応できるだけの構えを解いてはいなかった。しかし予期に反してあの魔剣の脅威は彼女たちに迫ってはこなかったのだ。

 

 その後、時計塔のエージェントからの報告によれば、魔剣は冬木には居らず、別の場所で休息状態に陥っているというのだ。その後の調査で、魔剣がこの時計塔から程近い海域で活動を停止した事をつきとめたワイアッドを筆頭に、改めて魔剣の捕縛計画が練られたのだった。

 

 その後の交渉により、捕縛した魔剣の譲渡を条件に時計塔も全面的な助力を約束した。

 

 無論、彼女も先陣を切って参加する事を望んだ。あの魔剣は冬木の聖杯戦争の成れの果てとでも言うべき汚点だ。是非も無く遠坂の魔術師の手でケリをつけなければならない事柄なのだと、彼女は強く感じていたのだ。

 

 

 ワイアッドの手によって、あの魔剣に対する様々な情報がもたらされた。

 

 長い間、魔術師の残した遺跡内に封印され、何処で何時発掘され、そしてそれがどのような経緯でサンガールの家門に入り込み、そして此度の怪異を画策していたというのか、それらが詳細にもたらされた。

 

 

 一方、なぜあの魔剣が沈黙したままだったのかについての詳細を知る者はいなかったが、セイバーだけはなかば予言めいた確信を抱いていたようだった。

 

 あの時自分たちを逃がしてくれたキャスターのおかげなのだと、彼女は言った。予知めいた超常的な感覚が理解に先んじて事実を、しかも正確に導き出すのは彼女ならではの論理なのだが、それを否定する理由もまた凛にはなかった。

 

 彼女は捕縛作戦に率先して取り組む傍らで、セイバーの言を頼りに独自にキャスターの行いについての調査も指揮していた。おかげでこの数日間はろくに眠った記憶がないほどだ。

 

 計画立案から一週間ほどの時間が経過し、北海で活動を休止していた魔剣の補足と、目覚めたそれを捕縛するための具体的な準備が進められた。

 

 当初は休眠した状態の魔剣をそのまま凍結する案も出たが、あの繭のような防護体制のままでは完全に捕縛することができなかった。そのため、眼を覚まし次第間髪をいれずに鎮圧するように作戦が練られていた。

 

 これもワイアッドがあの仮面の怪人から引き出した情報によるものだという。

 

 あの仮面の男は長年、ひとりで魔剣を追い続けていた人間なのだと後からの説明で知れた。凛達に知らされたのはその程度のことだったが、ワイアッドとも何らかの関係のある人物なのだということは容易に察せられた。しかしそのおかげでこの完璧なプランを完成させることができたのだ。

 

 後は魔剣の目覚めを待ち受けるだけだった。

 

 しかしここで憂慮すべき問題が起こった。それは彼らと共に時計塔に逃げ延びたキャスターの主だった少年の待遇だった。

 

 彼は時計塔に収容されたあとも。そのままずっと自失したままだった。彼もまたサンガールの生き残りとしてこの作戦に参加する筈だったのだが、彼は唐突に姿を消してしまったのだった。

 

 魔剣は目覚め次第、彼の中にある中にある欠片と残り二辺の欠片を求めて行動するはずである。ゆえに彼は重要な囮としてのポジションを検討されていたのだが、彼が失踪したために、こちらから先手を打って魔剣の目覚めを待つという手をとることになった。

 

 敵が完全な防護体制を取ったまま休止している状態なので、先手を取ることは難しくはない。故にその点についての不満があるわけではないのだが、しかし事の仔細はともかく、この作戦については確かに伝えてあったはずの少年が、にもかかわらず忽然と姿を消したことに対して彼女は大いに不満があった。

 

 彼にどのような事情があったのかは定かではないが、魔術師として負うべき責務を放棄しているだけの事のように、彼女には思えたのだ。

 

 しかし彼を探し連れ戻すべきだという彼女の主張に、誰あろうセイバーが反論したのだ。セイバーの主張ではキャスターの意を汲んで彼をそっとしておくべきだと言う。ワイアッドもそれに賛同したのだが、凛は彼にもサンガールの生き残りとして作戦への協力を求めたかった。

 

 もし、万が一にもこの作戦が失敗するようなことがあれば、事態は最悪の展開を迎えることになる。囮としての役目を果たせないなら、せめて、魔剣の眼を免れる場所に身を潜めるべきなのではないかと再三主張したのだが、結局、多数に言い含められるかたちでその件についてはワイアッド・ワーロックに一任するということで落ち着いた。

 

 今この場に作戦の考案者たるワイアッド・ワーロックの姿がないのはそのためだ。彼は今姿を消した少年の捜索に向かっている。探し出し、そのまま彼自身を魔剣の手の及ばぬ所に隠すためだ。

 

 今、彼女の喉を塗らす憂いの溜息はそのときの不満の照り返しなのであろうか。いや、そうではない。実際には彼女も、その件についてそこまで固執するつもりも、無理を押すつもりはなかったのだ。しかしなぜか今になって胸のうちに鉛を残したかのような幾許かの不快感が残っているのだ。

 

 おそらく、それは――きっとそのことについての不満ではないのだ。

 

 自分でもこんな時に何を考えているのかとは思うのだが、しかしどう考えてもやはりそういうことらしい。

 

 それは少年の処遇に執着しているわけではなく、もっと内輪についての不満であった。

 

 言ってみればそれは「彼」に対する不満なのだ。

 

 そう、彼女の徒弟という立場でも無論のことこのプランにも参加している衛宮士郎の、それも、いってみれば些細な行動についての不満なのだ。

 

 例えば彼女とセイバーの意見が対立するようなとき、なだめるようにして一見、彼女の味方をしてくれることの多い士郎の意見はしかし最終的にセイバーのほうに偏ることが多いのだ。本人は気付いていないようだが、やはり今回も彼女をなだめながら、士郎はあの少年に同情的な態度をとっていた。

 

 彼女とて、心情的にはそうなることも解からなくもないのだ。それでも状況を客観的に見て判断を下そうとする彼女の齟齬を根本的な根っこの部分で汲むことができていないのだ。あいつは!

 

 そう、悪いのはあいつだ。

 

 一度自覚してみると、なにやら大いに不満な気持ちになってきた。揺るぎない勝利の確信からか、思考も今後のことに流れ始める。この件が澄んだなら、遠まわしにこのことについて追及してやろう。自分から私の不満の要因について思い至るまで機嫌を直してやらないんだから――。

 

 そう考えていた時、無線の向こうから声が流れた。

 

『首尾はどうだ、遠坂』

 

 声に、自然と首を巡らして彼方を仰ぐ、夜気の向こうに探してみても、距離がありすぎて、当然彼の顔は見えない。

 

「上々よ……問題ないわ」

 

 彼方を仰いだまま、無線機に向けて返す。声の調子は意図したわけでもなく平淡だ。不意を突かれたようで、どうにも声音の色を決めかねる。

 

『そうか、こっちも問題はない。セイバーも無事だ』

 

 作戦行動中である以上、当然の経過報告なのだが、それがなぜか癇に障った。平淡だった声のトーンが一気に寒冷色のそれに変わる。

 

「ああ、そう、解かったわよッ!」

 

『? どうしたんだ』

 

「なんでもないわ」

 

『いや、でも』

 

「なんでもない!」

 

 我が事ながらこうなると始末が悪い。稚気だとわかっているのだが、しかし自分ではどうしようもない。やはり悪いのは向こうだと思うのだ。

 

 こんな状況だとは言え、もうちょっと、そう、もうちょっとくらいは、自分に注目してくれてもいいではないか……。

 

『なんでもないことないだろ、顔色も悪いし、何かあったら無理しないで言うんだぞ。まだ病み上がりみたいなものなんだから』

 

「――ッ」

 

 声につまった。どうやら向こうからは見えているらしい。一つ覚えの強化の魔術であろうか。

 

『遠坂、聞こえてるか』

 

 これ以上見られないように顔を背けて、隠した。

 

「あー、もうっ! 聞こえてるわよッ。なんでもないから、ほんとにッ」

 

 声だけは依然として尖らせて、しかし顔はそっぽを背いたままだ。そうしていないとニヤけた顔まで見られてしまう。ちょっと気にかけられただけでこれでは威厳も何もあったものではない。

 

 ――そのときだった。

 

 無線の向こう、おそらくは士郎の背後から、切迫した声が聞こえた。

 

『――まだです!』

 

 セイバーの声だ。

 

 

 ――――魔剣・(にな)――――。

 

 

 ほぼ同時に響き渡った呪言のごとき言霊と共に、夜を裂いて奔った光が螺旋を描き、数瞬遅れの衝撃波(ソニック・ブーム)を伴って巨大な氷塊を打ち砕いたのだ。

 

 途端に巻き起こった巨壁のような高波が丸く巨氷を取り囲んでいた船の悉くを転覆させ、へし折り、打ち砕いた。

 

 氷塊に投げ出された船員たちは事態を飲み込めずに困惑の極みのまま上下左右の区別を失い。泡と氷砂とを食って手足を出鱈目に掻いていた。

 

 それぞれがそれなりの位を持つ魔術師である事を差し置いても、この事態には対処の仕様がなかったものと見える。さもあらん。誰しもが勝利を確信した後のことであったのだ。いったい、なにが斯様な事態を巻き起こしたというのであろうか。

 

 凛は散らばった氷砂を手早く結合させ、手ごろな氷板を作りその上に海中から這い上がった。即席の(いかだ)である。

 

 すぐに背後から奔った光の袂へ向けて顔を上げた。冷たい水に濡れた黒い髪が艶やかに濡れてその青ざめた頬に張り付いていた。

 

 そこにあったのは、金色に光かがやく一匹の蝶であった。無論、今更見間違える筈もない。魔剣だ。

 

 今しがた極大の氷塊の中に閉じ込め,封じたはずのそれを、あらぬ方向から打ち砕いて救い出したのも、また、今しがた封じたはずの魔剣であろうとは、コレはどうしたことだというのだろうか。

 

 この上ない疑念の相を、その青ざめた美貌の上に浮かべている遠坂凛を優雅に見下ろしながら、魔剣は舞い降りる。ふと、その姿が模糊(もこ)として揺らめいた。――と、見た瞬間その極光の輪郭がぼやけ、次の瞬間にはその金の蝶は二つの影となって彼女の眼前で浮遊し始めた。

 

『魔剣――(しいな)

 

 その声音が響くや否や、一方の蝶の翅影が、幾筋もの金の糸となってバラけた。その光景を目にした凛の口からはまるで実の伴わない虚ろな言葉が、認識に先んじて零れた。

 

「か、わり、み……?」

 

 変り身! または空蝉とでも言うべきであろうか、あの凍結の刹那――あるいはエクスカリバーによる奇襲を跳ね返した時点でだろうか。

 

 兎角、罠の気配を察した魔剣は糸で作り出した擬体を使い、まんまと彼女たち魔術師を出し抜いたのである。

 

 この相手をただ強大なだけの怪物と見立てたのがそもそもの落ち度であったのだ。これはただの魔物ではないのだ。そも、神代の古より、人と人とを玩び、玩弄し、操り、栄光を与えては破滅させてきた策略の魔物だったのだ。

 

 誰よりも狡猾に、人の内面と外面を見透かすことに長けた奸智の蛇。それがこの兇器特権(テュルフィング)という魔剣の本質だったのだ。

 

「残念だったな」

 

 出し抜かれた事を如実に悟って息を呑んだ凛へ、はるか頭上から投げかけられる声はひどく澄んで美しい。しかしその裏に見えるのは螺旋くれて爛れたような悪意の響きであった。

 

『魔剣――粧』

 

 光の蝶が舞い降りる。夜の四方に延びていたはずの金の輝きは矢庭に集束した。

 

 海面に近づいた一角が、柔らかな曲線を描く、爪先だ。ほっそりとした少女のようなそれが紡がれるように形を成し、花びらでも落ちるかのように、そっと水面に降り立つ。

 

 そのころには、それは黄金の流動を想わせる足となっていた。それだけではない、その身体に纏わりついていた金の糸は美しき黄金の四肢となって少女の身体にそなわっていたのだ。

 

 黄金の四肢は、生来からそこに備え付けられていたかのように自然な動きで流動している。

 

 そこには一人の少女の姿があった。金の天衣を纏う天女だ。蝶は変転して可憐な少女の像を北海の海に映し出していたのだ。

 

 偽装された少女特有のたおやかさを存分に堪能するかのように、魔剣はおどけて一礼する。さも大仰に、慇懃無礼に礼をとる。

 

「これは、これは。息災ですかな、冬木の魔術師殿?」

 

「――ッ」

 

 凛は応えずその金色のヒトガタを見据えている。視線だけは逸らさずに間合いを計る。右手にはいつでの使用可能な宝石を滑り込ませてある。が、それがどれほどの効果があるのかはわからない。それでも迷っている暇はない。零距離で放てばあるいは――

 

 蒼褪めた双眸に浮かぶ決死の眼光を、金色の蝶は微笑して向かえる。まるで猫に噛み付こうとする窮鼠を嘲り笑うかのように、たおやかな仕草で語りかける。

 

「どうやら、あまりお加減がよろしくないようで。及ばずながらご健勝をお祈りいたします」

 

 そう言って身を屈めた魔剣の肢体が、爆ぜる前兆のように萎縮した。全方位から放たれる幾千もの死出の穂先が凍てつく水面(みなも)に浮かぶ少女に狙いを定める。

 

 しかし、その瞬間。魔剣の背後、完全なる死角の海中から黄金の光が飛沫となって噴出した。

 

 セイバーだ。今や剥きだしとなった至高の聖剣が金濁の神衣から唯一覗く細い首目掛けて、吸い込まれるように夜気を奔った。

 

 しかしその至高の閃きは、止まっていた。止められていた。素手で、である。

 

「ああ。そういえばまだお前がいたな、セイバー」

 

 魔剣も、刃を取られたまま着水したセイバーに向き直り、両者は鍔競り合ったまま、凪いだ海面の上で膠着した。

 

「あまりにも取るに足らないので、忘れるところだった。なるほど、お前の始末は確かに私にとってもやり残しの仕事だな」

 

「――――ッ!」

 

 それを見つめる凛が声もなく息を呑んだ。驚愕すべきは、セイバーが有らん限りの力を持って剣を執っているにもかかわらず、絡め取られた切っ先が徐々に押し返されていくことである。

 

 何の消耗も無い、十全な状態のセイバーが偽らざる全力なのを感じ取れるが故に、それは殊更に信じがたい光景であった。いくら事前に情報を示唆されてはいても実際にそれを見た今、彼女はあらためて己の目を疑いたくなったほどだ。

 

「お前も、つづきがやりたいのかセイバー?」

 

 滑らかに語るかのような魔剣の饒舌に、応えるセイバーの声はない。しかし、その貌には隠しきれない苦悶が刻まれていた。

 

 そして爆ぜるように両者は間合いを取った。しかしそれも、実のところ、魔剣が捕らえていた聖剣の刃を開放したというだけのことでしかなかった。

 

 一瞬の静寂。――の、後。少女達は水面上を蹴り、舞った。

 

 唸りを上げて、セイバーが前進する。いかな敵が相手であれ、いかに強大な敵が相手であれ、この果敢なる騎士王に、この愚直なまでの選択以外有りはしなかった。

 

「さあ、」

 

 一撃一撃が巨岩をも粉砕する筈の超高速の連撃を、まるで稚児でもあやすかのようにじゃれつかせながら、その黄金の天女は、長い睫毛を伏せ、初めて殿方に御手を許す乙女のように恥じらうそぶりすら演じながら、紺碧と銀色の騎士を舞踏に誘う。

 

「踊ろうか、セイバー」

 

 

 

 


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