Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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六章 無音残響「サイレント・ノイズ」-5

 追跡が、始まった。

 

 私の持てるすべてのものがそれに集約された。殺すのだ。愛するものを殺すために、愛するが故に殺すために、この生を燃焼させ尽くすために――。

 

 そのときから、私は己を捨てた。それ以来名無しの亡霊として生きてきた。

 

 そうだ、あの時から、私は亡霊となったのだ。亡霊に愛はいらない。ただ、執着があるのみ。

 

 もう二度と躊躇することはない。今度こそ確実にヤツを殲滅する。私は二度と人には戻らない。最愛の妻と娘をあのバケモノの魔の手から開放するまでは。

 

 ――そして、長い流血と闘争の日々が始まった。

 

 追跡のために、私は調査を始めた。何の手がかりもなく、それそこ手探りで始めねばならなかった。――しかし、存外に早く、手がかりは見つかった。

 

 私が調査を始めた北欧の田舎町からすぐ近くの場所で、猟奇的な事件が幾つも起きていたのだ。

 

 それは一見して何の関連性もない事件だったが、私には解かった。この惨劇の跡はヤツが嗜虐のままに喰い散らかした、血の愉悦の名残なのだと。

 

 冷酷かつ冷徹なやり口。惨殺された死体を眼にするたびに、私の心は血に濡れた最愛の者たちの姿を夢想した。

 

 事件は広い範囲で頻発した。なかには、一般人を対象としたのではないものもあった。幾人かの魔術師たちもまた、その狩りの犠牲者となっていたのだ。

 

 それを発端としたのだろう。調査の過程で、協会から派遣されたと思わしきエージェントの姿も見るようになった。

 

 度重なる被害に、協会も本格的な使い手を派遣してきたようだった。本格的な捜査が始まったのだ。それはようやく連続した事件の猟奇性に気付いた一般の人間たちの捜査陣たちも同様だった。私の周囲は矢庭に殺気立ち、騒がしくなっていった。

 

 しかし彼らに私のほうからコンタクトをとって協力を仰ぐことは出来ない。私にはひとりの味方もいなかった。

 

 同じ標的を追ううちに彼らと小競り合いを演じることも多くなった。彼らにしてみればこの猟奇的な事件をかき回す怪しい人影を見逃す術はなかったのだろう。

 

 私も容赦しなかった。そうする余裕がなかったという以上に、彼らが部外者だという思いがあった。

 

 この猟奇的事件は私に向けられたものなのだという核心があったのだ。幾度となく血に塗れた殺害現場に残されてたヒント。

 

 被害者の喉に突き立てられた竹製のナイフ。絞殺に使われそのまま捨て置かれた手作りの麻の紐。そして被害者の身体を分解するのに使われたワイヤー・ソー。

 

 どれも鞘のものだ。サヤは以前からサバイバル・クラフトに長けており、いつもそれらの技術を得意げに披露していた。実際その世話になったことも多い。

 

 それらは私にだけ解るように設置されたメッセージだった。私だけがわかる。私とサヤとの思い出だった。

 

 それを玩ぶように、踏みにじるように、目に見える痕跡として残しながら、ヤツは私を誘っていた。私の中で憤怒だけが成長し、膨らんでいった。

 

 それが私の思考を沸騰させた。ヤツは私と鞘の、鞘の中の私の記憶を踏みにじりながら蹂躙しているのだと知れたからだ。もはや私はとどまれぬところまで来てしまっていた。

 

 そのころの私はすでに私ではない「何か」になっていった。

 

 生きる亡霊と成り果てた私は、ただ妻と娘の魂の平穏だけを求めて最愛の者たちの消息を追い続けた。

 

 あらゆる予測が、想像が私の心を蹂躙する。それが憤怒の猛毒となり私の五体を駆動させる熱量となる。それが繋がれた双輪のように、追跡の日々を加速させていった。

 

 私は留まることを知らなかった。奔り続けた。そうしなければ絶望に足を絡めとられることが分かっていたから。

 

 苦難困難に鍛え上げられていく体。同時に磨耗していく心。

 

 正気を取り戻してからも、己の血に対する憎しみはなくならなかった。むしろ大きく膨らんでいくだけだったといえる。その不運と絶望を引き寄せたのが私の魔道の血なのか、それとも私がそれを忌避したからなのかどうかは未だ持ってわからない。

 

 それでも、私はそれを怨まずにはいられなかった。私という人間の根幹を捉えて離さない魔道というものを私は許せなかった。いや、許したくなかった。

 

 ――積み重ねられた呪詛は私の五体を擾乱させ、怨嗟は五臓を内側から爛れ上がらさせた。私は次第に己の魔への加速を止める術を失っていった。

 

 

 

 

 そして八年前、未だ長い冬が終わらぬ白色と氷の世界。深い森と雪の中に隠されたその場所に、私は嗅ぎなれた匂いを見い出した。

 

 鮮血の臭いだ。ようやく、私はこの場所を探し当てたのだ。

 

 ここはサンガールという没落寸前の魔術師の居城だとすでに調べはついていた。奥まった森と地形に溶け込むようにして偽装された広大な隠し砦。間違いなく魔術師の要害だ。

 

 それが幾重にも積み重なった雪化粧により包み隠され、より自然林との判別を困難にしている。この地域を特定してからこの場所を確定するまでに半月以上の時を費やした。

 

 衰退しているとは聞こえど、さすがは歴史を刻んだ魔道の家門だ。安易に踏み込むわけには行かない。

 

 ――そのはずだった。しかし私の足は止まらなかった。そんなことはどうでもよかった。思考は用を成さず、唯ひとつの意志と願いだけが私の五体を支配していた。

 

 加速する。思考が、足が、五体が、意志が、鼓動が、脈拍が、待ちきれぬとばかりに加速し、その瞬間(とき)を求めていた。決着の時だ。待つことなど、留まることなど出来はしない。ただ、奔る。終局を求めて――。

 

 そしてあの満月の夜、私は深雪を掻き分け舞い上げる一陣の風となって奴らの境域に飛び込んだ。

 

 もとより命など惜しむつもりもなかった。ただ、殺せればいい。後のことなど考えてはいない。門兵となっていた使い魔を斬り殺し、私は単身森の中を進む。

 

 ここに数年前から住み着いているフリーランスの不可解な魔術師がいるのだという。誰も正体を知らぬというその謎の魔術師――私だけがその正体を察していた。ヤツだ! 殺す。そして終わらせる。私の思考はもはやその一念で埋め尽くされていた。

 

 それからも何匹かの使い魔を斬り殺し、突き進んだ。

 

 すでに烈火と化していた私は止まらなかった。当然だ。最初から目に付くものすべての滅殺を心に誓っていたのだから。

 

 森を抜けた私は大きな滝壺に出た。そこに人の気配を感じ、私は思わず足を止めた。

 

 暗い夜の闇間の中、月光に淡く照らされた視界の端に、黒く長い髪が揺れているのが見えた。不意に、言葉にならないほどの郷愁が私を襲った。サヤ? いや、違う。あれは、あの子供は――。

 

 そのとき確かに私の中の伽藍を貫いたものが何であったのか、未だに解ってはいない。

 

 どのくらいの間、私はそうして立ち尽くしていたのだろうか。気がつけば、よく見慣れた二色の瞳が私を見上げていた。

 

 私はいつの間にか森の木々の間から歩み出て、姿を晒していたのだ。

 

 私は何をする気だったのだろうか。何をしようとしていたのだろうか。目の前にいるのがなんなのか、未だ判じきれていなかったのだろうか。

 

 それを殺しに、殺すために、救うために殺そうと、ここまで来たはずなのに。いざその姿を見て、私は動くことさえ出来なくなっていた。

 

 私の中を、その内容を、伽藍の内を、唯空白だけが埋め尽くし、席巻していた。私は自身ですら驚くほどにあれほど切り離しがたかった筈の憤怒をわすれていた。

 

 しかし、その静寂は長くは続かなかった。

 

 閃きが奔った。月光に照り返す滝飛沫を吸って凝り固まった雪面に、黒い血の筋がざらりと這った。

 

 咄嗟に回避していなければ私の体は輪切りになっていたことであろう。異能により極限まで加速された私の動体視力は、月の瞬きに似たその繊細なる凶刃の初動を見逃してはいなかった。

 

 武装し、黒々とした返り血に濡れていた私を敵だと判じたのだろう。その銀糸を繰っていたのはその黒髪の子供だった。

 

 そして、――それはすぐに本性を現し、()()()()()()()()へと変容した。

 

 おそらくは、このと瞬間(とき)だ。

 

 私が人ではなく鬼として生誕したのはまさしくこのときだったのだと。今ならわかる。このとき、私は人に戻る機会と理由を永遠に失ってしまったのだ。私は鬼となった。後は総てを終わらせるためだけに生きる、無様な、鬼に。

 

 そこにあったのは四肢を断たれ、異形の姿に変えられた最愛のはずの我が子の姿であった。

 

 大丈夫だ。テフェリー、大丈夫だからな。――いま、いまお父さんが、

 

「殺、して、やる、から――」

 

 呟くように漏らし、私は走り出していた。きっと、このときから私は止まる事を忘れていたのだろう。もしも立ち止まれば、もう二度と、動くことなど出来ないと知っていたから。

 

 咆哮を上げて迫る私を過たず、唯の敵、と判じたのだろう。弾丸の如く馳せる私を突如現れた巨大な銀の蜘蛛の巣が迎えた。

 

 私は両の手に西洋刀を執り、縦横無尽に振るって銀の糸を寸断に掛かった。しかし、極度の加速により、鉄板ですら切り刻める筈の私の剣先は絡め取られていた。唯の鋼線の類ではない!

 

 ――思考もままならないまま、私自身を絡めとろうとする群糸に剣だけを残し離脱する。私の手を離れたサーベルが、まるでシュレッダーにかけられた安物のパルプ紙のようにバラバラにされた。糸に捕まれば私自身もああなるのだ。

 

 劣勢を悟った私は距離をとって闇にまぎれながら糸の追撃をかわす。

 

 残りの装備は――サーベルが三本。投擲用の短剣が七本。オートマチックの拳銃が二丁。共用マガジンは三。いくら加速の異能が有るとはいえ、真っ当なやり方でこの鋼線の網を抜けるのは難しい。

 

 ならば遠間から狙うまで。私は腰のホルダーに収まった銃把に掛けようとして、一拍――――手を止める。こんな場所で銃を使えば他の敵に感づかれる。もう知られていると見るべきだったかもしれないが、それが定かではない以上、敵の居城に奇襲をかけられる可能性は残しておきたい。

 

 私は闇間から一本の短剣を放った。異能により加速されたそれは月光を弾きながら銀色の異形の眼前に迫る。案の定、避けることもなくソレは精密な糸の操作により短剣を絡め取った。

 

 次いで鞭の如くのたうった閃線が私の居た暗がりを両断する。私はもう一度、今度は三本の短剣を投げ放なった。先の投擲と何ら変わるところは無く、唯本数が増しただけの、いっそ愚直――とでも言うべき三条の剣閃。

 

 ()もそれを疑うことなく、先と同じように三本の短剣をすべて絡め取った。と同時に闇に綾なす銀の閃光。ソレは私の攻撃が単調と見るや、攻撃と防御を同時に行ったのだ。

 

 ――ほう? 学習能力が高いな――。

 

 それを見て私は微笑を浮かべた。無論我が子の成長の見る親としてではなく、己が策略にまんまと掛かった愚か者をあざ笑う、鬼の微笑だった。

 

「――ッ!?」

 

 私を切り刻まんとして閃いた筈の鋼線の刃が、その軌道を変じ捻じ曲げて地に落ちた。なまじ生体と直結しているがために、その糸刃の生動は本体のコンディションをダイレクトに受けてしまうらしい。

 

 その小さな体には三本の短剣が突き刺さっていた。それは先に投擲した、月光を弾く煌びやかな短剣ではなかった。形状こそ同一ではあったが、それは黒塗りの刃であった。

 

 私が二度目に放った短剣は三本ではなく六本だったのだ。そも最初の一投も、その実これから放つ短剣が、如何に速かろうともその「起こり」を目視できるものである。と錯覚させるためのものだったからだ。

 

 異形は手足を投げ出し、雪面に折れ伏す。しかし――止めを刺そうと近づいた私へ、再び銀の斜線が踊りかかった。

 

 浅かったか!?

 

 見れば、その胴体にオリオンのベルトの如く穿たれたはずの黒刃は、尖端に微かな血を滲ませただけで地に落ちていた。どうやら、四肢以外の部分にも鋼線を張り巡らせて防備を固めていたらしい。

 

 獣の如く顔を上げたそれは、甲高い唸りと怨嗟のこもった二色の視線を真っ直ぐに私へ向けて来る。虚空に逆巻く銀線はその怒りを余さず闇色の虚空に描き出している。

 

 それは敵を生かしては返さぬという決死の備えであった。――どうやら死線を越えた経験があるようだ。だが私も引くことはなかった。もはや何の感慨も滲まなかった。そこに居るのは、すで結殺を誓った唯の敵でしかなかったからだ。

 

 暫くの間、にらみ合ったまま弛緩した空気が流れた。が、不意に激昂したかのように踊り狂う鋼糸が千の鎌首をもたげ、ついに逃げ場などないほどの波状攻撃を開始する。私のほうも、そろそろ掛けられる時間がなくなってきた。これ以上の膠着は許されない。

 

 私は両手に二本のサーベルを構え加速した。そして円を描くように敵の周囲を旋回した。木々などの障害物に邪魔されて、流動する線剣は私を捉えられないで居る。

 

 頃合や良し。そう判じた私は不意に敵目掛けて直進した。

 

「――!?」

 

 遠ざかる私を追いまわしていたはずの鋼線が、いきなり接敵に反応しきれず一瞬だけ停止する。

 

 その隙を見逃さず、私は先んじる一歩で敵の矮躯を己が剣域に収める。

 

 しかし背後からは濁流の如き銀色の雨が私を追ってくる。――それでいい。敵には、その長く伸ばした鋼線を一度戻して操作し直す猶予はない。木々の間を大きく迂回したまま私を追うしかあるまい。

 

 私は敵の眼前で反転し、手にしていたサーベルで迫り来る鋼線を超加速して巻き取り、絡め取った。

 

 そのままサーベルをそれぞれ左右へ投げ放ち、木の幹に突き立てる。木々の間を縫う鋼線はもはや広大なあや取り状態だ。複雑に絡まる自らの鋼線に捕らわれ、敵はうまく後退できないで居る。勝機。私は前進しながら最後の剣を抜く。掲げ上げた刃が月光に煌めき、ソレの二色の瞳を照らし出した。

 

 そのとき、何かが私の足許に転がり出た。

 

 子供だった。何故こんなところに居るのか知らなかったが、そのときの私は反射的にその銀髪の子供に向けて刺突を放っていた。

 

 迂闊! 不用意だった。刺し貫いた剣を抜く暇がこちらの致命的な隙になる。だが思考は加速された剣先に先んじなかった。

 

 案の定、刃は胸を貫いた。

 

 ただし、その子供ではなくテフェリーの胸を、である。何故であろうか、考えても解かるはずもない。

 

 当に了解していたはずの、当たり前であるはずの感触は、にもかかわらず私の弛緩した心を掻き毟る程度には異質だった。まるでそれが未だに愛する者の体躯であるかのような錯覚が、私の感覚を鉛で覆い隠したかのように鈍らせていた。

 

 テフェリーは私の剣を糸で抱え込むと、そのまま力なく滝底に落ちていった。後には連続性を失った鉛色の糸がふつふつと途切れ散華するばかりだった。

 

 感慨などない。――――筈、だった。

 

 不可解と言えば、不可解だった。なぜ、武器である手足を切り離して斬り反してまで自分から刃を受けた? そうしなければ勝っていたにもかかわらず。

 

 いや、そうではない。問題はそんな事では無い。私の伽藍は再び空白に襲われていた。最後に私の眼を見たテフェリーの瞳が、その強い輝きがいつか見た鞘のそれに重なったから。

 

 私は――何をした? 今、私は、なにを

 

 斬りつけられる。咄嗟のことで思わすそれを殴り飛ばしていた。さっきの子供だ。いつから居たのだろう。もしかしたら、最初からであろうか。

 

 鼻血と涙と泥で顔を汚した、年端もいかない幼子はそれでも短剣を構え強い瞳で私を睨みつけてくる。

 

 もう一度斬りかかってきたので、わずらわしくなって剣を取り上げ殴りつけてやると動かなくなった。

 

 わけのわからない焦燥が有った。どうして、あんな姿に変えられたテフェリーの眼差しが彼女に重なったのか。どうして、この少年を狙った筈の刺突がテフェリーを貫いたのか。  

 

 ――それは。つまり、

 

「おい、」

 

 幼子を揺さぶり起こす。

 

「答えろ。――何故お前は、アレと……あの娘と一緒に居た!?」

 

 焦点さえ合わぬ目で、止まらない血と涙にあえぎながら、それでも私を睨みつけた双眸は、こう言った。

 

「僕……は、僕、がテフェリーの……友達、だか、ら、だ」

 

 その言葉に私は何らかの動揺を受けたのだろうか。

 

「だか、ら、ぼく、が…………」

 

 あるいは何かを感じることがあったのかもしれない。

 

 しかし、それはそのときの私にとってあまりに遅すぎた。意味がなかった。意味が、在ってはならなかった。

 

 そこに留まることを私の総てが拒絶した。故に、そのまま気を失った子供をその場に残し、私は立ち上がった。省みることなどない。必要などない。考える暇など、有りはしない。

 

 私は逃げるように走り出した。もう止まれない。そう何度も口の中で繰り返した。言い訳なのかもしれなかった。それでもかまわなかった。

 

 足が縺れる。さっきのダメージは少なくなかった。だが関係ない。まだ、やることが残っている。――だが、何処へ奔ればいい? 私は幽鬼のように立ち止まり、ぼやけた視界を巡らせて目指すべき彼方を探した。

 

 そのときだった。不意に先の子供から取り上げたまま手にしていた短剣が、不可思議な鳴動を始めた。幾許の間すら置かず、何かが私の頭上から舞い降り、身体を切り裂いた。

 

 間一髪だった。今の刃の鳴動がなければ致命傷を負っていたかもしれない。

 

 それは何かの獣のようだった。しかし、私の超感覚でもそれの正体を捕らえられなかった。

 

 そしてようやく、気付いたのだ。自分が当の昔に囲まれていたのだという事実に。

 

 敵だ! 短剣を逆手に取ったまま、空いた手で拳銃を引き抜く。もはや、銃声で敵を呼び集めてしまう心配はしなくていい。しかし、マガジンは三つだけ。充分とは言いがたい装備だ。

 

 再び樹木の上から飛来し、襲い掛かってきたソレはしかし獣と呼ぶにはあまりに奇怪な姿をしていた。

 

 加速された感覚がまるで駒落としにまで凝縮され、私の視界はその獣の姿を捉えた。それは獣ではなかった。あんな獣はありえない。

 

 体表中から突き出した無数の棘。まるで薔薇そのもののような。あれが擦過すると同時に私の身体を切り裂いていたものだったのか。

 

 しかし、それがしなやかに駆動させる肢体は滑らかでふくよかな曲線を抱いている。

 

 女だ。あれは女だ。全身に鮫の歯の様な刃を備え、まるで関節などないかのように極限まで撓り、歪曲する身体を持っていた。まるで理解の及ばぬ身体機能、身体構造。

 

 しかし、理解できぬまでも、それならそれ相応に対処するまでだ。女の振るう三度の攻撃に私はかなり広めの間合いを取った。だが――それをあざ笑うかのように私の身体は切り裂かれる。襲い来る苦痛を忘却し、私は間合いを超越する女の攻め手を見た。

 

 今の攻撃はまるで鞭のように伸びてきた。しかし女は何の武器も持ってはいない。私はすぐに更なる加速をもって女との間合いを開けようとしたが、やはり一方的な攻撃は私の身体を切り刻み続ける。

 

 そうして、私はやっと理解した。まるで鞭のように伸びてきたのは女の腕、否――四肢そのものだったのだ。

 

 それだけではない。私がいくら銃弾を浴びせても女の体からは血の一滴も流れることはない。その五体はそれが当然であるかのように銃弾を受け付けず、次いで鞭のように変じた四肢が雨のように浴びせられ、私の皮膚という皮膚を丸々剥ぎ取っていくのだ。

 

 加速した私の視覚がまるでストップモーションのようにその動きを、いや変容を見届けた。まるでノコギリの刃か、はたまた鮫の歯のように並び生えそろった棘付きの腕がまるで関節を外されたかのようにダラリと地表に投げ出され、次の瞬間には虚空にはためいて私の身体を捕らえるのだ。

 

 あの女は己の骨格を自在に変化させて使用しているのだ。なんというおぞましくも強靭で、そして対峙するには厄介な能力なのだろうか。

 

 先ほど、加速させた銃弾を受けて平気だったのはその能力故なのだ。幾重にも生成され重ねられた骨板が頭骨のような滑らかな曲線を作り出し、それを皮下外殻として纏うことで直進する銃弾の軌道を逸らしたのだ。

 

 さらには下腕から指先までの間接をまるで鞭のように数百まで分割し、腕そのものを鞭のように振るって見せていたのだ。なんという奇怪な挙動であろうか。いくら魔術師とはいえ、そこまでの精密なる体細胞の変容が可能だと言うのだろうか? 

 

 もはやこのサンガールには、当主以外にはろくな術者が残っていなかった筈。――

 

 しかし其処で、不意に私の直感が「是」と吼えた。私の胸中は確信へと変じた予感の成就に浮かされていた。

 

 こいつは魔剣の実験に使われた被験者なのだ。

 

 私と同じ、魔剣の欠片によって異能を発現した者なのだ。どうやら、魔剣の欠片によって発現する異能の種類と機能はそれぞれ異なるようだった。

 

 しかしここで私の体には新たなるギアが入れられ、更なる加速へ向けて力が漲り始める。それはつまりあのバケモノが、あの最愛の者の姿を愚弄し続ける怨敵がこの地にいるのだという確証に他ならなかったからだ。

 

 森を抜け、開けた雪原で私は足を止めた。そして先ほど撃ちつくしたままになっていたオートマチック拳銃を再び手にとった。弾奏は空だったが、しかし新しマガジンをリロードはしなかった。

 

 マガジンカートリッジからただ一発の銃弾だけを取り出し、薬室(チェンバー)から装填した。弾丸は一発でいい。どの道、この銃は使い捨てることに決めたのだ。

 

 狂獣は正面から現れた。

 

 待ちの体制に入った私をを前に、敵はまさかの真正面からの攻めを選んだようだった。

 

 いや、むしろ動きを止めた憐れな得物を前に、もはや歯止めが効かなくなった。――その躍動はそんな飢餓的な欲求を想わせた。

 

 私はゆっくりと銃を構え、魔力をそこに集中させた。以前は集束させたソレを打ち出しただけだったが、今度は桁が違う。銃ではなく弾丸に込められた魔力はただ八g程度のソレにソフトボール大の榴弾の威力を約束し、さらに付随された「加速」の異能は以前とは比較にならないほどの初速をこのちっぽけなオートマチック拳銃の9ミリパラベラム弾に与えることになる。

 

 どれほどの微調整を施そうとも、銃の破損は免れない。しかしそれでもこの進化した「魔弾」の威力は今や迫撃砲並になっているはずだ。

 

 迫り来る敵との距離は約十メートル。この魔弾は威力がありすぎて通常の射撃よりも大幅に狙いが甘くなる。必殺を期すならば後五メートルは待つべきだ。が、私は躊躇わず引き金を引いた。

 

 ただの銃弾ならたとえ直撃したとしても、迫り来る魔獣を相手に豆鉄砲ほどの効果ももたらさなかっただろう。しかし、この〝砲弾〟は僅かに肩口を擦過しただけでその獣を、まるで芥子粒の如く彼方まで吹き飛ばした。

 

 しばらくたってから彼方で何かが大地を抉ったと想われる振動を感じた。

 

 直撃ではなかった。殺せてはいないはずだ。だがそれでも構わない。これで幾何の猶予を得られた。あとは敵陣の深奥まで疾く馳せるだけ。

 

 不具になった銃を放り捨て、私は奔った。目指すはあの怨敵のみ!

 

 しかし再び加速しようとした私を幾人かの雑兵が囲んだ。先ほどから遠巻きに私を取り囲んでいた者たちだろう。しかしどう見ても手練とは思われない身のこなしだ。

 

 雑魚め、邪魔だ! 

 

 煩わしさに憤る私は構わず突破しようとした。――が、その刹那、その男たちは周囲の大気と虚空を巻き込んで炸裂し四散した。自爆したのだ。咄嗟の方向転換をしくった私はもんどりうって転げ周り、雪原に真っ赤な跡を残した。

 

「う、あ――が、あ、ぁ……」

 

 私は呻きを漏らしていた。赤黒く滑る粘膜が目と鼻を塞ぎ、炸裂した大気が音波となって耳を聾した。散弾のように飛来した骨の欠片が半身を抉りぬいていた。

 

 しかしさらに驚愕すべきは、その光景を目にしてさえ、残りの男たちが特攻をやめなかったことだ。血煙を纏い群がりくる雑兵たち。

 

 まるで、そうすることが当然であるかのように、男たちは次々に私目掛けて迫ってくる。死を前提としたその突貫に、私の中で置き去りにしてきたはずの戦慄が矢庭に湧き起こってくるのを感じた。

 

 私は一直線に加速した。単純な速度の差に任せて引き離す。

 

 もう少しで本拠地が見えるはず。そう、目測をつけたその時、私は己の前方に独りの男の姿をみた。長身痩躯の角ばった印象の学者風の男だった。

 

 異常なほど寒々しい、怜悧な陰を灯した目が私を見ていた。

 

 この男は雑魚ではない。瞬間に判断した私は――それでもなお前進加速した。もはや退路などないのだ。が、その刹那の内に男の姿が消えた。それに気付いた時、私の視界は奴の拳で塞がれていたのだ。

 

 速い! とてつもない衝撃と共に後方に仰け反りながら、しかし何かがおかしかった。初動すら見えないというのはおかしい。

 

 兎角――私はそのまま反転してその男の後方に回り込もうとした。しかし、男はそれをゆっくりと首を廻らせて見ていた。じっくりと確認していた。と――思った刹那、まるで今度は黒い旋風のように滅形した男の姿が私の前をゆるりと通り抜けていく。

 

 咄嗟に拳打を放つ。それもなんなく躱されてしまう。そして男はすでに引き戻しようのない拳をまるで万力のように掴み取った。

 

 どのような体位変換が行われたのか、私にはまったく知覚も理解も出来なかった。ただ、気がついたら自分が宙に浮いていたことだけがわかった。

 

 それだけが確認できた事実だった。次の瞬間には、私の体は地に叩きつけられていた。まるで隕石の衝突かと思うほどに、私の体は厚い雪を掻き分けてその下の凍った大地の深くまで打ち込まれていた。

 

 私の思考はこの不可解な現象を解明しようと沸騰し続けていた。感覚操作の幻術か? 何らかの魔術、空間を対象とした呪いか?

 

 跳ね起きようとした私の体に凄まじい圧力が襲い掛かかった。閃光のようだったはずの私の駆動は押し止められ、滞り、ついには地に伏した。

 

 重い。まるで体の上に数百キロもの真綿が積み上げられているかのようだった。唐突な予感が私の背に異様な冷気を突き立てた。そうか、――ヤツが速いのではない。私が遅くなっているのだ。

 

 幻覚や魔術といった複雑なものではない。それは現実の加重圧であった。これも新たなる被験者の異能だというのだろうか。そう、あの男の異能に違いない。単純明快な加重の異能。言うまでもなく私の加速の異能とは致命的なまでに相性の悪い、悪辣なる異能だ。

 

 だがそれ以上思案する暇など与えられない。地中深くに足を止めた私に、先ほどの命を無視された雑兵が三度襲いかかる。

 

 穴にもぐりこんできた雑兵に自爆されたらそれこそガードしきれない。私は最期の銃を使い捨てて雑兵の群を蹴散らした。穴からと抜け出し全速で雪上を駆ける。――しかし今度は背後から背中の皮を剥ぎ取られた。

 

 再び追いついてきた荊のような獣が、今度はその全身から剣を生やしたかのように肢体を変貌させ襲いかかってきたのだ。この状態では引き離すことは難しい。ならば反撃に、と構えを取るが次の瞬間には再びこの身に凄まじい圧力が加算され、立つこともできなくなる。

 

 あの加重圧の男は仲間である筈の荊女をもまとめての能力の対象としたというのだろうか?

 

 それが間違いだと気付いた時にはもう遅かった。足止めを受けた私の頭上から全身を剣山の如く変容させた女が覆い被さってきたのだ。それは男の「加重」の能力を利用して、真上からまるでムササビか、あるいは蛸のように四肢を広げて落下してきたのだ。当然、加重によって全身の刃の威力は倍増している。

 

 串刺しだった。それは死の抱擁と呼ぶべきものであった。何とか全身の肉ごとそれを引き剥がすが、今度は皮だけでなく、全身の肉という肉までもがごっそりと削り取られた。同時に自爆を厭わぬ使途達が後方から迫ってくる。その男たちの遥か後方から号令を下す青年の視線が、仄暗い光を伴って私を見つめていた。

 

 根幹的な危機に私の根幹が警鐘をならした。勝てないことにではない。死ぬことについてではない。辿り着けぬことを、私は恐れたのだ。

 

 私は逃げた。命からがら、形振りかまわず逃げ延びた。以前父に殺されそうになったときの自省を生かして、辛うじて生き延びた。――

 

 

 それから、私は身を隠した。事態がこれほど深刻になっていたとは思いも寄らなかった。あの三人の異能者がいる限り、私は決してヤツに、あの魔剣に辿り着けない。ゲリラ的に持久戦を迫るしか、私には手がなかった。

 

 それから幾度となく、ヤツの命を狙ってこの城に攻め入ろうとしてきた。しかし、その度に失敗を繰り返すことになった。やはりこの場所であの異能者たちを相手にしたのでは勝算はない。一人ずつならいざ知らず、二人以上が同時に来るとなると、とてもではないが手には負えない。

 

 待つのだ、今は機を待つのだ。あの魔剣は必ず私が持つ欠片を手に入れようとするはずなのだ。

 

 それから、奴等と私との長いにらみ合いが続いていた。――

 

 

 そして一月ほど前、契機は突然訪れた。

 

 私の身体に突如として現れた三画の紋様。そして、間を置かず遭遇した怪異なる現象。

 

 現れた暗殺者のサーヴァント。聖杯戦争なる儀式の詳細はそのサーヴァントの口から聞き知った。なるほど、向こうのほうが痺れを切らしたとうことらしい。

 

 絶対に逃げられない策を用いて、欠片の所有者を集めるつもりだということはすぐに察せられた。

 

 これの首謀者はあの魔剣だ。欠片の所有者は逃げることが出来ない。サーヴァントがそれを許さないからだ。

 

 私はこの敵の策に乗った。是非もないことだ、何よりあの異能者どもが互いに潰しあってくれるなら好都合。それが魔剣の撒いた餌だと知りつつ、私は真正面からそれを受けるつもりだった。

 

 ただ、誤算だったことは、死んだ筈の、殺したはずの娘が生きて悪辣なこの罠に参加していたということだ。しかも、袂を別った我が父のもとで。

 

 ――そして、魔剣の真の狙いがテフェリーを取り戻し、それを器として復活することなのだと気付いた私は、標的を、いま一度最愛の娘に向けなければならなかった。

 

 私は戦った。そして一度はテフェリーの命を取れる位置にまで詰め寄った。だが、「どうして」と、問いかけてくるテフェリーに私はたじろいだ。

 

 見つめてくる瞳が何時かのテフェリーの、そして鞘の眼差しに重なり、私はそれを直視できずに、彼女の目蓋を裂いた。そのせいで最大の機を逃してしまうことになった。

 

 私はまた躊躇してしまったのだ。それがこの事態を巻き起こしてしまった。

 

 もう時間が残っていないことを悟った私は後のことを父、ワイアッド・ワーロックに預けた。何故こんな場所で再会したのかは未だにわからない。命懸けでテフェリーを護ろうとした父にどのような心変わりがあったのかは、何の興味もない。

 

 それは知らなくてもいいことなのだろう。父がなにを選んだにしろ、どう変わったにしろ、それは父自身の問題だ。私が知る必要のあることではない。

 

 そして私は最後の機を待った。完全体となるために、魔剣が最後にテフェリーに接触を図るその時を。

 

 その最後の隙をつくために待ち続けていた。

 

 騎士王と呼ばれるイレギュラーのサーヴァント、セイバーとの闘いに敗れた魔剣が、限界を迎えた鞘の体を破棄しテフェリーに乗り移ろうとしていることを察した私は決意する。

 

 ここしかない。これが千載一遇の、そして――最後のチャンスなのだと。

 

 そして、私は馳せた。己の命を燃焼させ尽くしての最大加速。魔剣の欠片を取り除いた私の体に残された、これが正真正銘最後の力だった。

 

 ――――これが、最後の過加速(ディーン・ドライブ)

 

 銀の閃光となった私の牙が、無防備となったテフェリーの心臓を穿とうとした――そのとき、超加速したはずの私の前に何かが割り込み、私の行く手を阻んだ。

 

 気が付いた時には私は仰臥したまま横たわり、ぼんやりと空を見上げていた。

 

 もう、身じろぐことさえ出来なかった。そこでようやく地に伏し、金色の蝶の羽化を見ながら、私は総てが無為に終わったことを悟った。

 

 結局、七騎のサーヴァントを取り込んで復活しようとする魔剣の企みを、私は防ぎきることが出来なかった。それが結果だ。それが、私の生涯の帰結だった。

 

 

 

 ――そして、今、「私」は終わりを迎えようとしている。

 

 その後、欠片を持っていなかった私を殺そうとした魔剣の前に現れたのはキャスターだった。その場にいた者たちは皆退避し、キャスターと魔剣もその場から飛び去った。

 

 私は一人でその場に取り残され、ただ、ぼんやりと曖昧な感覚だけを頼りに天を見上げていた。

 

 空には美しい月が、私達のことなどお構いもなく浮かんでいた。そういえば、こうして月を見上げたのなど、何時以来のことだろうか。思えば、ずっと、――そう。長い間空を見上げたことなど無かったのだ。

 

 ただ前だけを見て、前のめりに崩れそうになりながら前進してきた。そうしなければその場にくずれ落ちるだけだとわかっていたからだ。そして走り続けてきた。

 

 それも、もう終わるのだ。

 

 何も成し遂げてはいない。何を獲得した訳でもない。なにを是正できた訳でもない。

 

 ――総てがただ途上のままに、無情な終わりを突きつけられた。こんなところで、このまま無為に終わりを迎える。――

 

 無念かといえば、無論無念でならない。失意かといえば、無論失意以外の何物でもない。

 

 そのはずだったが、しかし今私の胸の内には何も湧いては来なかった。悔恨も、悲しみも、怨嗟の声さえも、微塵も湧いてくることはない。

 

 すべて、使い切ったのだ。今、事此処に至って、是非もないほどに、走りきり、もう何も残っていないほど、この胸の内は空虚であった。

 

 すべて吐き出したのだ。だから後のことはもう是非を問うこともない。私はただ生まれて、有らん限りに生き、そして何も得ることなく死のうとしている。

 

 そこに意味などありはしなかった。無意味な生だった。それでもこれほどにすべてを出し尽くしたのだから、もう、いい加減体から力を抜いてもいいのかもしれない。そんな気がしたのだ。

 

 最後に辿り着いた答えが「無意味」であっても、答えが出ただけ、マシだと思えた。

 

 あの時、父の下を去らなければ、父の采配どおりの生を送っていたなら、きっとこんな答えですら得ることもなかっただろう。

 

 私は自分の生を全うした。その結果だけが私が生涯で得たものだったのだろうか。

 

 そこで、ふと耳鳴りのようなものがかすかに聞こえてきた。聴覚が破壊されたための幻聴かとも思ったが、その音色には聞き覚えがあった。

 

 放って置けば良かったのかもしれないが、どうにも気にかかり首を廻してそちらの方向を見ようとした。崩れた身体の各所から血が噴き出し、何割かの命が零れ落ちていった。

 

 だがそんなことはどうでも良かった。そこには最後に私が使用したあの短剣があった。その砕かれた刀身が微かに鳴動しているのだった。

 

 なぜ鳴っているのか、なにを知らせようというのか、わからなかった。私はその剣のことを考えていた。もう昏倒してもいいはずなのに、なぜか思考は止まろうとはしなかった。

 

 泥むような倦怠感に塗れながらも私はその剣のことを思い出そうとしていた。幾度かこれのおかげで命を拾ったこともある魔具だ。――これは、何時、何処で手に入れたものだっただろうか……。

 

 そのとき、まるで閃光がひらめくように、私の脳裏にひとりの少年の姿が浮かび上がった。最後の特攻に打って出た私を、テフェリーを守るようにして叩き落した銀色の髪の少年。

 

 そうだ。あの時、雪深い森の中でテフェリーを見つけたあの時だ。そうだ。あの少年だ。確かサンガールの末弟。何処かで見たような気がしてはいたのだ。

 

 あの時、私はテフェリーしか見ていなかった。四肢を切り落とされ異形へと変えられた娘の姿を前にして私はそれ以外の物を意識に留めることができなかったのだ。

 

 だが、今になってみれば確かに思い出せる。あの時テフェリーの銀色の手を取り、寄り添うようにしていたただ一人の人物。

 

 彼はなんだったのだろうか。今ならわかる。テフェリーは彼を護ろうとして私と戦ったのだ。そして命懸けで私の武器を奪って滝壺に落ちていった。

 

 私に斬りかかってきたあの少年に私はなんと問うただろうか。私は「なぜか」と問うたのだ。そして彼は、彼はなんと応えたのだったか……

 

『だって――ボクは、ボクはテフェリーのともだちだから……』

 

 わけもわからず、全身が強張る気がした。もうすべてを吐き出したはずなのに、もう何も残ってはいないはずなのに、この体はまだ動くらしい。

 

 もう原形を留めてはいない手足が、まだ動くとばかりに強張りを増していく。一抹の火が、いまだ私の身体を何処かへと誘おうとしているようだった。

 

 あの時には気付かなかった。そうか、テフェリー。お前には手を引いて、外に連れ出してくれる相手がいたのだな――。

 

 そう思うと、気が少し楽になった。何も解決などしてはいない。何も成し遂げてなどいない。だができる限りの事はやった。それで何も出来なかったというのだから、それはもう、仕方のないことなのだろう。

 

 きっと、サヤならそう言うかも知れない。

 

 なにを惰弱な言い訳に耽っているのだろう。そう失笑し、何年かぶりに体から力を抜こうとしたが、うまくいかない。どうやら、私にはまだ、ほんの一抹の余力が残っているらしい。

 

 しかし、これ以上自分になにが出来るのか。ただ、からだから力を抜くことができず、わけもわからず這いずりながら、考える。意味もない事を考える。

 

 永らく忘れていた事を思い出した。己の願いだ。自分にとっての、自分だけのための意味。それを探し続けてここまで来てしまった。

 

 何の意味があるというのだろうか。這いずることしか出来ないこの体で一体何処へ行けばいいというのだろうか。

 

 兎角、私は全身の強張りと蠕動と痙攣に任せて這い回った。闇雲に這いながら――サヤの声を思い出していた。

 

〝――自分で決めた行き先ならさ、行くだけ行って、その後で自分の足跡を振り返ってみればいいんだよ。それが君の道であり、人生であり、意味なんだよ。自分が、自分で、自分のために選んだ未知なら、そこには絶対に意味があるはずなんだから――〟

 

 いま、私が振り返ったならそこに何かがあるとでも言うのだろうか? 何もない。何の意味もない。それが私の生涯ではないか。何も望めなかった。何も得られなかった。

 

 それでも、身体の中で燃える強張りは火となって、長年止まることを知らなかった私の身体を足掻かせる。のたうつようにして、私はのろのろと紅い泥の中で身体を起こした。そしてようやく背後を振り返った。何もありはしない。ただ、紅いナメクジの這い跡のようなものがあるだけだ。

 

 何も、なかった。――そう思い俯瞰した次の瞬間、私の視界が硬直した。

 

 その這いずった跡のずっと先に、瓦礫の影に静かに横たわるようにして、私の生涯の意味が、その総てがそこにあった。

 

 私はそのままそれを目指して(まろ)び出した。真偽の沙汰を待たずして、全力で、四肢だけでなく、歯で石を噛むようにして、脇目も振らずそこを目指した。

 

 すでに燃え尽きたと思っていた全身が火のようだった。これが最後だとよくわかっていた。距離にして数メートルといったところだっただろう。その距離を残りの命をすべて燃やし尽くしながら進む。這う、足掻く、駆ける。砂になりかけの五体を引きずり、血と灰が混ざったような汚らしい砂利の中を精一杯の力で這いずりながら、ようやく辿り着く。

 

 

 もうなくしてしまったはずの、もう二度と戻らない筈だったものがそこにあったのだ。

 

 

 もうその目蓋は開かず、すでに息も止まり、後は冷えて固まるだけの、抜け殻のような鞘が顔だけをこちらに向けて、まるで眠るように。そこにいた。

 

 そこにあったのは死体だ。魔剣が、使い古した服でも脱ぎ捨てるようにしていった。鞘の遺骸があった。

 

 すでに崩れかけた五体には体温など残っていない。それでもそこに沿うように這いより、鉛で出来た襤褸のような身体を瓦礫に預け、彼女の身体を抱きかかえた。 

 

 鞘の顔が見える。あの時と変わらない。若い姿のままの最愛の妻の顔だった。すると彼女の白い肌には温かみが戻り、黒髪からは潮気交じりの甘い香りが溢れた。潤んだような光を湛えた黒い瞳がゆっくりと開かれ、また、はにかんだように微笑んだ。

 

 以前も同じようにこの腕の中に彼女を抱きしめていたときのことを思い出す。あの時も、サヤは子供のようにむずかるようにして、何時までも嬉しそうに笑っていたっけ。

 

 ――きっと、私の感覚が麻痺していたのだろう。もしくは失われた感覚を、都合のいい記憶が書き直していたのかもしれない。 

 

 それでも良かった。そして確信することができた。意味はあったのだ、と。私の生は決して無為ではなかったのだ。最後に、最後の時に、こんな気持ちになれるのなら、きっと私の人生には確かな意味があったのだ。

 

 ――理屈はさておき、今は、素直にそう思える。

 

 そうか、私もずっと宝探しをしていたんだな、サヤ。

 

 そして最後の最後に、一度こぼしてしまった宝の一つをもう一度捕まえた。なら、それでもいいのかもしれない。

 

 何も得るもののない生涯なのだと思っていた。何かを失い続けるだけの人生だと思っていた。それでも最後に。こうして誰かを抱きしめて、こんなふうに思えるなら、きっと、この生に意味はあったんだろう。

 

 腕の中のサヤの手を取る。暖かい手の感触を確かめる。あの時、有無を言わさずに私の手を取って走り出した彼女の手だった。

 

 そうだった。私にも、本当の世界へ導いてくれた相手がいたのだ。

 

 そこでようやく、この身体はもう動くのを止めてくれた。ようやく、使い切ったのだ。

 

 総ての余力を。何も見出すことのできなかったこの己の生の道程の半ばで、ただそこだけが、彼女と過ごした時間だけが、まるで泡沫の幻燈のように光り輝いている。

 

 そうだった。私は――それを護りたかったのだ。あの時間を、無かったことにはしたくなかった。それが私の意味だったのだ。

 

 今なら、言える。今ならわかる。珍しくもない。凡そ総ての唯人が持ち合わせる凡百の情、たった一片のそれが、私の意味だった。

 

 それを自覚するまで、ずいぶんと長い時間がかかったものだ。

 

 一抹の幸福に包まれながら、私は腕の中の鞘に微笑み返した。

 

 あの日のように、鞘のさえずるような声が聞こえてきた。

 

 

〝人が何のために生きるかって? そんなの簡単よ。誰だって幸せになるために生きてるに決まってるじゃない。ねぇ、今はどう? 幸せだと思う?〟 

 

 

 ――最後に語りかけてくるサヤに、私は以前応えられなかった言葉を返した。

 

 

〝幸せだよ。君がいる。私の人生の意味は君だった。君を愛したことが私の意味だった。君を、誰よりも愛している〟

 

 

 そう言うと。サヤは初めて会ったときのように、まるで子供のような顔で笑った。

 

 

〝ならさ、それで一切万事はオッケーでしょ?〟

 

 

 それは潮騒の音と共に私を包み込んで世界の隅々まで響き浸透していく。子守唄のような柔らかな旋律は、段々と擦れていき、遂には心地よい耳鳴りのようになった。

 

 それでも何時までも途絶えることない、それは、きっと彼女の囀る歌声の、久遠の残響(サイレント・ノイズ)だったにちがいない。

 

 

 ――その心地よい音程に包まれながら、私は静かに目を閉じた。あの日の、二度と忘れることない、幸せを謳歌した時のことを思い出しながら――――。

 

 

 

 

 

 


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