Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ) 作:どっこちゃん
暗い海に出てから暫くすると霧に入ったが、私は魔術で鋭敏化させた感覚を頼りにしながら空間の揺らぎを感知し、そこ目掛けて迷わず直進した。
そして――私はそれを見つけた。なんという巨船なのだろう。そこにあったのは超大型の貨物船だった。
錆色のパターンが浮かぶ巨大な鉛色の船体は断崖の如き壁のようで、広大な運動場があってもおかしくないであろう甲板には、巨大なクレーンやデリックが聳えているのが見える。
おそらくは
しかしそれ以上に、それが霞んでしまうほどの異様な光景を見つけ、私の視線と思考は諸共にそれに集中せざるを得なかったのだ。
そのはるか上空、距離もあやふやな、何もないはずの空間にうっすらとまるで極限まで薄く延ばされた精緻なガラス細工で彩られたモニュメントかと見紛うものが見えたのだ。
門だ。
まるで刃に切り裂かれた女の腹腔のようにゆっくりと起伏を繰り返しながら、息も絶え絶えにあえぐかのように、艶かしく光が漏れ出してくる。
なんということだ! 私は誰になにを聞く手間も挿まず、それがなにを目的としているのかを察した。
ときおり口を開け航海中の船や飛行機をいとも簡単に飲み込んでしまうという時空間の穴。そしてそこに人工的に設けられた「門」。何のつもりかは知らないが、これを設置した人間は、この穴を固定してしまうつもりなのだ。
しかい、いったい何故? そこで思索の深みに沈みかけた思考は現実に引き戻された。そうだ、彼女は、――鞘はどうしたのだろうか?
幾許の思案ののち、私は巨船の中に忍び込んだ。この光景を前にしてもなお、ただ引き返す彼女の姿をどうしても想像できなかったからだ。
私は意を決して巨船に中に入り込んだ。しかし、どうしたことか、内部がいやに騒がしいのだ。
……兎角、これ幸いと騒ぎに乗じてさらに奥に侵入してみれば、中は騒がしいどころか上へ下への大騒ぎとなっていた。否、それはもはや戦時下の如き阿鼻叫喚の有り様とでもいうべきものであった。
どうやら、船内にはこれでもかというほどの悪辣なブービートラップが張り巡らされていたようなのである。その騒ぎの程を見れば、その陥穽の群れが本来有り得べからざるモノである事は明白だった。
なによりも、奴らは誰かを捜しているようだった。それは私ではない。つまり、私以外にこの船に忍び込んだ部外者が居るということになる。ならば、それは――――深まる思案にまた私が囚われようとした、そのとき、
「ちょっと、なにしにきたのよ」
背後からかけられた声は、存外にふてくされたようであった。
「……これなら、私に頼む必要はなかったんじゃないか?」
振り返る。皮肉のつもりはなかったが、彼女はまた憮然とむくれていた。しかし、この惨状を見れば一人でも充分目的を果たせそうではないかと思えたもの、無理はなかっただろう。
それでも、こうなってしまっては仕方がない。私たちは会話を続けながらも一路、甲板に引き上げられてしあったという私のボートを目指して走っていた。とにかく、こんな狭苦しい場所ではそのうち逃げることも出来なくなる。
急場しのぎのブービートラップも、そう、数を仕掛けられたわけではあるまい。すぐに突破されるのが落ちだ。ここは一刻も早く逃げるしかない。
「……にしても、なぜこんなことになってるんだ? いきなり殴りこむ必要は、いくらなんでもないだろう」
「違うわよ! 私は喧嘩する気なんてなかったのに、あいつらに有無も言わせずにつれこまれたんだ……だから頭来てさ」
やはり、奴らは私達を狙っていたらしい。あの巨漢が執拗に彼女を探していたことを思い出した。しかしそれがなくとも、私はきっと彼女の方からこの船に乗り込んだのではないかと思った。
「言っただろう? 後ろめたいことのある連中は近づいてくるものが友好的かどうなんてことは考えない。そういう小心な連中にとって近づいてくるものはまとめて敵なんだ」
とかく、私は安堵の息をもらした。多少手傷を負ってはいても、どうやら未だ口論する程度の気力はあるらしい。
「なに? こんなとこまで説教しに来たの?」
「……そんなところだ」
しかし口論を続けたまま甲板に出ようとした次の瞬間、私たちの体は突如として鉛の服を着たかのように重くなった。
「――――ッ!」
呪封印! 私は反射的に理解していた。捕縛結界――つまりは魔術のトラップに捕らえられてしまったのだ! 気がつけば、いつの間にか巨船を覆っていたはずの霧のヴェールは消え去り、それまで気配を消していた筈の人間達がそぞろに姿を現し始めた。
しかし、各々の手には小銃や拳銃の類が握られている。彼等は魔術師ではないらしい。どうやらもともとこの界隈にいた海賊たちのようだ。
「ちょっと! これが魔術ってやつ!? どうにかなんないのッ!」
「少し黙っていろ……下手に暴れないほうがいい」
迂闊だった。敵の中に魔術師がいるというなら、このぐらいの罠は予想しておくべきだったのだ。われながら不思議だった、何故私はこんなにも己を見失ってまでここに駆けつけてきたというのだろうか?
「おとなしくしなさい。言うことを聞かなければ殺します」
東洋人らしきひょろりとした男が一人林立する黒人たちの間から顔を覗かせた。
男は酷く凍てついた目をしていた。それは金属的な硬質さは持ち合わせず、爬虫類のような湿った陰険さを匂わせていた。私は知らずに眉を顰めていたかもしれない。
決して醜悪な容貌ではないのだが、この男には好感というものを抱くことができない。
一方鞘のほうを見やると、憚りなく口までへの字に曲げて盛大に眉を顰めていた。どうやら同じ東洋人から見てもこの男の印象は
「二人とも、日本語がわかるそうですね」
白蛇のような顔の男が言った。押し黙った私達の沈黙を肯定と解釈するように頷いて、男はついてくるように、といって歩き出した。背後からいくつもの銃口に睨まれては、望む望まざるに関わらず、私達もそれについて歩くしかなかった。
すると鉛のように加重された身体を引きずるようにして進みながら、小声で彼女が私に言った。
「なんかやばそうだから聞いとくけどさ、ホントに説教しに来たわけ?」
何を言い出すのかと思い、私は応えた。
「……いいや、助けに来た。ドロシーがお前の居場所を教えるように強要されたと知らせてくれたんだ。お前のことを心配してな」
すると彼女は不満そうな目つきで私を睨み上げてきた。
「それだけ?」
私には何のことやらわからず、彼女の顔を見た。
「心配してくれたのはドロシーだけ? それとも、あんたも?」
「……それが、いま重要か?」
私は溜息を漏らした。私なりに彼女の言わんとしていることが解りかけていたが、命を失いかけているこの状況で憂うべきこととは思えない。
「重要なことは何時だって重要なの。何時かは問題じゃないの!」
「何を喋っている!」
背後の黒人が英語でまくし立てた。どうやら日本語で話していた私達の会話までは解していないらしい。しかし、いらだったような言葉を発しながら、銃口は常にこちらを捉えている。
訓練された人間だというのがわかった。港でやりあったチンピラとは違うらしい。命令さえあれば簡単に人の命を奪いそうな、ある種独特の雰囲気というものが感じられた。
こうして後ろに付かれていると、もしかしたら人間ではなくドーベルマンか何かなのではないかと思えてくる。それが何処か
「……で、ドロシーは無事だった?」
声を顰めて彼女は再び言った。黙れといわれてもめげないのは彼女らしいと私は思った。
「問題ない。昼間の巨漢は痛めつけておいたから、彼女に危険は及んでいないはずだ」
「ホントに? 逆じゃないの? 顔腫らしちゃってさ」
私は黙り込んだ。調子に乗って奴らに殴らせすぎたかと思った。失策だっただろうか? いや、しかしなんの失策なのだろうか?
「……ごめんね。私のせいだ……」
失策だった。私が不用意な傷を負えば、彼女が余計な心痛を感じる事になるではないか。私には今までその因果関係を予想することすら出来なかった。
なんと言い繕ったものかとおぼろげな声を出そうとしたそのとき、
「こちらです。主がお待ちだ」
という声を聞いた。瞬間、私たちはクレーンや山のような貨物が所狭しと並ぶ甲板から、白く開けた空間に移動していた。月光の差し込む夜の天蓋と、慎ましげに頬を撫でる潮風に出迎えられた。
「……なにこれッ!? 私、瞬間移動した?」
いや、そうではない。おそらくは一種の拡張現実被膜。どうやら今まで見ていた船の御姿は偽装されたモノだったらしい。ここは依然といて
しかし一般人である彼女にそれを察しろという方が無理な話だろう。彼女がパニックに陥らぬようにと私はまた声を掛けようとした。――――が、
「――すっごいよ! マジでこんなことあるんだ! ねぇ、今の見た? 瞬間移動だよ、テレポートだよッ!! ほんとにあるんだ。あったんだ!」
「…………」声を掛けようとしたままの恰好で固まる私を余所に、彼女は後ろ手に縛られているのことを忘れたかのようにジタバタと飛び跳ね、全身で快哉を叫んでいる。どうやら、要らぬ心配だったらしい。
心配する必要もないようなので私は前を向いた。
本来の甲板は簡素で整えられた空間だった。その中央には優美な……否、ひたすらに華美で奇妙な
そして、そこには一人の老人が立っていた。
宮殿の前に立ち、こちらを見つめて来る、目の細い、これまた東洋人の漢だと見受けられた。真赤で、華美な装飾を施された服装をしていた。それが日本ではない、何処かのアジア諸国の民族衣装なのだろうと察せられたが、私にはそれが悪趣味だということ以外の情報は判じきれなかった。
背筋は伸び、長身の躯こそは立派なものだったが、その容貌は骸骨に多少の飾り付けをしただけの安いホラーハウスの備品のように思えた。
銃口に小突かれながらその老人の前まで行くと、私達を先導した白蛇のような男が深々と礼をとった。
「いけないねぇ。彼女は大事なゲストなのだから。これ以上傷つけるべきではないよ」
先頭で礼をとった男に目配せをし、老人は以下配下の黒人たちに流暢な英語で言った。
「さて、始めまして元気な日本人のお嬢さん。部下が失礼をしたようで悪かったね。てっきり無粋な鼠の類かと思ったのだよ。ただ、君がただの観光客だなどと言うものだから、我々も対応に困ってしまってね。そんなことはあるはずがない。ただの迷い人がここまで来れる筈がないのだからね」
今度は日本語だった。しかし口早に喋る不快なイントネーションは本当に彼女が話す言語と同じものなのか訝るべきものだった。
この老人は彼女がこの海域に近寄れないようにするための結界を抜けてきたことから、彼女を何処かの魔術集団のエージェントなのだと勘違いしているのだろう。
無論彼女にそんな技能があったわけではない。実際には私のボートの方にそれなりの魔術的な備えがしてあっただけのことだ。私がいなくても簡易的な結界をすり抜けるくらいのことは出来たのだろう。
だが、そのせいでこの見るからに小心者な老人の執拗な懐疑心に火をつけることになったらしい。
「さあ、言いたまえ。君は何者だ? 誰の命令でここまで来たのかね」
老人の目は彼女の黒い瞳に注がれている。
「早めに言ったほうが身のためだ。残念ながら、君がここから帰れる可能性はゼロなのだから。しかし悲観することはない。君の犠牲は、わが崇高なる儀式の礎となるのだからね」
唐突に、老人は在らぬ方を仰ぎ、語り始めた。
「良い空間の鳴動だ。私には我が子の胎動のようにも聞こえる。ようやくこの門を開くのに充分な準備が整った。しかし儀式には生贄が必要でね。若い女一人分の生き血が必要になる。何せ大規模な儀式だからね」
老人の視線は、蜃気楼の如く虚空に映し出された巨大な門を見据えている。
「だが、私は考えた。その儀式に捧げる生贄は、何処の馬の骨とも知れぬ。ましてや黒んぼの女では相応しくない。とはいえ、堅気の観光客を浚うのは、これも憚られる。さてどうしたものかと思案を重ねているときに、君が現れたのだ。ここまで来たということは堅気ではない証拠。そして理想的なことに、君はこの儀式に相応しい条件を備えている」
老人はまくし立てた後、彼方を仰いでいた視線をぐるりと廻し再び彼女と、そして私を舐めた。正直、怖気の走る狂気を孕んだ眼だった。
「ふふ、何かを言いたそうな眼だね、お嬢さん。まあ、お嬢さんには儀式の一部になっていただくわけでもあるし、何よりも同郷のよしみでもある。最後に私の崇高なる目的を教えて差し上げるのも礼儀というものだろうねえ」
「……」
いい加減、何か言いたそうにしている彼女に、私は老人からは見えぬように目配せした。『もう少し、静かにしていろ』と。
兎角、私は察した。この男が、この怪異の元凶である魔術師なのだと。そして、この男の魔術師の格が著しく低いということもすでに解っていた。
現在のこの状況はあまりいいものとは言えなかったが、しかし最悪ではないと私には判断できた。なぜなら、複数の人間に取り囲まれるという状況は魔術師と対峙した場合に限り、吉兆なのだ。
なぜなら、数に頼んで己の優位を護ろうとする時点でそれはあくまでも人間の処方であり、高位の魔術師ほど数に信を置くなどという俗物的な意識は持ち合わせていないものなのだ。
要するに、この老人の魔術師としての格が窺い知れるということになるのだ。
そんな私の思考も露知らず、老人は叨々と言葉を続けている。私の視線が甲板から見える門に流れたのを見て取った髑髏のような面貌の魔術師は、嬉々として訊かれてもいないことを喋りだした。
「気になるかね? そうだろうねえ、この門が、そして我々の崇高なる目的が」
老人はそこで言葉を切り、しばし逡巡するかのようにツカツカと円を描いて歩き回った後、勿体つけたように私達に振り返った。しかしその瞳孔は開き、ゆらゆらと不明確に揺れていた。落ち着きの無さを誇示しているように見えて滑稽だった。
この老人は私達に眼を向けていたが私達を見てはいなかったのだ。その視線は揺れて虚空を、いや、己の妄執のヴィジョンを己だけの視界に見ていたに違いない。
「君たちのような知識、教養のない者に言ってみても理解できる部分は少ないかもしれない。それでも聞くことに意味はある。よく、耳を澄ましていたまえ。
……その扉の向こうには別の世界があるというのだよ。『此処では無い何処か』だ。しかし、実を言うとそれがどのような物なのかは、まだ定かではなくてね。
あれは、それを調べるための門なのだよ。美しいとは思わないかい? これを作り出すのに、どれほどの年月と労を費やしたことか……」
老人はうっとりと虚空を舐めて嘆息した。それほどに己の所業の回顧が愉快らしい。
「何のためにだ」
私は応えた。こういう手合いは自分の自慢話というヤツが事の他、好きでたまらないというのが通説だ。せいぜい喋らせて機を探るべきだと考えたのだ。
「おっと、こちらの白人の紳士は日本語がお上手ですな。発現を許可した覚えはないが、良い質問だ。お答えしよう。この場所はアウターゾーンとも呼べるものなのだ。簡単に言えば未開のフロンティアとでも言うべきかな。このような土地はいい。いくらでも利用価値がある。例えば、そう。「農場」を作るというのはどうだろう?」
「農場?」
「その通り。今のままではいい材料が手に入らないのでね。我々が日本全土にもたらしたいと考えている霊薬の原料がね」
「霊薬だと?」
老人の口角がへし曲がった。それが愉悦なのだとわかるまでにしばらくかかった。笑顔と言うにはあまりにも醜悪に過ぎるものだった。
「人肝、つまりは人間の生き胆だよ。出来れば若く健康な子供のものがいい。これから魔術的過程を経て精製される薬は人に一時的な不死を約束するのだ。誰もが欲しがる商品だとは思わないか?」
眼を剥く私たちに気を良くしたのか、老人の語調に拍車がかかる。
「我々は日本に、あの絶好の孤島に楽園を作りたいのだよ! そこから創られる霊薬で日本と言う国を操作することも出来るようになるだろう。あと百年、いや数十年もすればあの国は老いる。いやいや、すでに老い過ぎているといっても過言ではない。
老人ばかりで埋め尽くされたあの国に不死の霊薬を持ち込めばどうなると思う? そうすれば、日本は我らの楽園となる。この計画が達成されれば百年も待たずして聖堂教会も、あの高飛車な時計塔の住人たちも、我らを無視できないようになる。もっとも気付いたときには遅いのだろうがね!」
感極まるかのように語る魔術師は、恍惚とした表情で悦に浸りきっていた。
「何より、日本人に対してもっとも有効な人丹を作り出すにはやはり、日本人に合った性質の肝が必要なのだ。つまり日本人の、それも若く健康な肝が必要になってくるのだよ。
しかし、現時点であの国から大量の人間を浚うことは、難しい。無駄に治安が良い上に、何よりも健康な肝を持つ若者が少なくなっているのだ。堕落しきった生活を重ねてはいくら若くてもろくな材料にならない。そこで我々は一から日本人の血を引く〝家畜〟を育てようという結論に至ったのだよ」
老人の語る妄言はまさしく狂人の
実際、近代日本においても明治政府が人肝、霊天蓋(脳髄)、陰茎などの密売を厳禁する弁官布告を行った例がある。
東西の洋、文明の類を問わず、神代からはては現代に至ってなお、そこに禁忌的または神秘的魅力を見出す者は後を絶たない。無論魔術においても重要な位置を占める分野であることは疑いようがない。
この老人の日本民族に対する嗜虐的モチベーションこそ不可解にして慮外のものだったが、少なくとも魔術師の理念に照らすならそれほど規格外の試みとも思われない。
私はそう判じた。むしろ魔術師としていうならもっと極大的な目論見を持っていてもよさそうなぐらいだ。
「あんたこそ、何処の組織なんだ? 大手の魔術組織ならこんな真似をするならもっと厳重な警備を敷くはずだ」
私はかねてよりの疑問を投げかけた。この老人の言動から察するにこいつらは魔術師とは言いがたい、なにか別種の秘密集団ということになる。いわゆる魔術師もどきだ。
「……我々は魔術師の組織ではない。もっと崇高な目的を持った。そう、世界を正しい、あるべき姿へ導くための革命組織なのだ!」
まるで快哉を叫ぶように、老人は全身で言葉を締めくくった。まるで演説をやりきったように息を切らして、その顔には澱んだ精気が満ち溢れていた。
そのときだ。不意に、傍らの鞘が鼻を鳴らした。あざ笑うかのような乾いた笑いを洩らしたのだ。私の指示に一時は従っていたが、それももはや我慢の限界だったらしい。
私としてもこれはある程度予想の範囲内のことだった。なにせあの口をいつまでも閉じているというのはのは、なかなかの重労働だったことだろう。
「……何かね、お嬢さん? 同郷のよしみで最後に話くらいはさせてあげてもいいが」
余裕ぶっているが、そのときすでに抑えられない怒りがこの枯れ木のような老人の癇癪を起こしそうになっているということが容易に察せられた。それでも彼女は澱むこともなく硝子の様に硬く澄んだ声と視線を向けた。
「馬鹿みたいだよ、あんたたち。そこまでやって手に入るのが金? 面子? 権力? 程度低すぎだよ。後何千年生きたって、あんたには人生のほんとの意味がわかんないんだろうね」
老人の顔色が一気に急変した。私の読みは当たっていたらしい。胆の小さい人間というのは、他人の言葉に敏感すぎるものだ。しかしこの男の小物ぶりは私の予想を超えていたらしい。
「ハッ、こ、小娘が! 知ったような口を、き、聞くんじゃないぃ!」
えづき、唾を飛ばしながら声を荒げる様は醜悪を超えて、滑稽ですらあった。鞘は笑うでもなく、恐れるでもなく、声を止めない。
「ていうか、同郷って言ったけど、あんた日本人じゃないよね? 似せてるけど、違う」
すでに狂気の色に染まろうとしていた老人の面相から怒りがふいに消え失せ、そこに無味乾燥な「渇き」が表れた。小さすぎる肝を焼き焦がしていた憤怒が、度を越えて色の無い明確な殺意へと変じたのだ。拙い! 私は状況の危険度が急激に高まっていくことを案じた。
「……国籍上は日本人さ、ただ、そこで生まれついたというだけだ。血まであの国に染まってはいない!」
「ハッ、道理で」
しかし、彼女は止まらない。止まろうとはしない。
「何だというのかね……」
「臭いんだよ、あんた。
瞬間老人は凪いだ海原が爆ぜるかのように、息を失った後で絶叫した。
「キ、キ、キ、キサマァァァァァァ! ……おい!」
老人が言うが早いか、白蛇のような男が音もなく進み出て彼女の顔を打った。唇から僅かに血が筋を引いたが、黒い瞳はさらに強い光を孕んで老人を睨みつけた。
そこで己の醜態を悟ったのか、息を切らしていた老人ははた、と怒声をばら撒くのをやめて微笑を浮かべた。そのまま、手振りで用意させた豪奢な椅子へと身を沈めた。白蛇のような男もつき従うようにその側に立った。
それがこの老人のもっとも安心できる定位置のようだった。どうやら、あの老人は心を鎮めて己の余裕を再確認したいらしい。涙ぐましい努力だが、それでも本人の気は落ち着いたようで、最初と同じく静かな声で語り始めた。
「……勘違いしないでもらいたい。私は日本人という、無知蒙昧な劣等人種に対してそのように扱うべき理と権利を有しているのだよ。
確かに日本人は我々にとって愛すべき隣人だ。友好によって結びつくべき間柄だ。しかし忘れてはならないことがある。それは序列というものだよ。
君たちは忘れてしまったのだろうね。世界には上下の結びつきというものがある。儒教ではそれを覆すことは絶対の悪なのだよ。
君達が犯した悪は後の数千万年を持ってしても拭えるものではない。敬うべき存在を忘れてしまっては君たちは不幸になるだけだ。そして、我々には君たちを正しき序列の世界へと導くべき義務があるのだよ」
虚空を見つめた老人は低く、しかし異様なまでの執念のようなものをありありと漲らせながら、言葉を続ける。
一見無感動に見開かれた両眼は次第に充血し、その骸骨のようだった面貌をよりおどろおどろしく彩り始めていた。平淡なようでいて時々しゃくりあげるようにトーンを伸ばす気味の悪いイントネーションも、その醜悪な様相にはかえって相応しいようにも思えた。
「本来敬い、頭を垂れるべき私達と対等の口を聞き、あまつさえ一時とは無条件に敬うべき我々を支配下においた……。
これは許されることではない。後の幾千万年の時をもってしてもぬぐえるかどうか……。
にもかかわらず、君たちは何時までたっても己の非を認めようとしない。故に私はその歪みを正さねばならない。
魔術という「力を持つ者」は世界を是正しなければならないのだ。
勘違いはしないでくれたまえ、私は独りよがりな優越感からこんなことを言うのではない。これは世界の秩序を護るためのものなのだ。世界を導くべき優越な人種にはその義務があるのだよ。
そう、私はあの国に
それをどうして自覚することができないのか……。それさえ君達が心にとどめていれば、己が矮小なる存在なのだと知ってさえいれば、世界にこんな歪みが積もることはなかっただろうに。
故に罪は重い。故に、君たちは贖罪をしなければならない。その身体で、その臓器で世界に対して己の傲慢を謝罪をしなければならないのだよ。
確かに過酷な道だ。簡単にはいかないだろう。しかしそれは正義だ。君達があるべき形へ納まるための試練なのだ。私は生涯を掛けて君たち日本人の贖罪を手助けしたいのだ。
世界はとっくに君たちを見捨てている。しかし私は手を差し伸べよう。これ以上増長する前に、君たち日本人をあるべき正義の形へ誘うのだ!」
声は次第に熱を帯び、感極まるようですらあった。まるで自分の語る言葉に自ら聞惚れているかのような奇怪さがあった。
「故に、君たちのような無法者をのさばらせておいたのでは世界は混迷を極めてしまう。手始めに、私があの島国をあるべき形へと修正し、世界に理を導くのだ。これはその手始めにしか過ぎないのだよ」
老人の言葉は支離滅裂で、何よりも体内に持て余した歪んだ欲求の汚濁を吐き出すかのような行為としか見受けられなかった。
どうやったら、ひとりの人間をここまで妄執の虜とすることができるのだろうか。
私は今度は魔術的側面ではなく、この男の不可解な行動原理について推察していた。
おそらく華夷思想をこじらせた階級意識から、日本人を見下したいプライドと、実際には到底それが敵わないのだという事実の間で、彼らはどうしようもない捻れをその心身に溜め込んできたのだろうか?
憐れな老人だった。そんな妄執に縋らずとももっと健全に意手を取り合って生きている人々もいるだろうに。もっとも、二重の意味で私が言えたことではないのだが。
その汚泥の如き妄執の標的とされた鞘は溜息一つをこぼして、後は何もいわなかった。もはや何を言っても無駄だということだったのだろう。いかに彼女でもこの男には言葉が届かないのだと悟っていたようだった。
不意に、私自身にとってはどうなのかという懐疑が湧き起こってきた。この男のレゾンデートルを推察するうちに、では己はどうなのかという考えに思考が及んだのだ。
己にとって日本人とはなんなのか、直接は行ったこともない、異郷。しかし父と言う存在を通してその地は確かに私の中に形づくられている。己から父を奪ったもの。そして、過去確かに憧れた国でもある。
ああ、そうか。私は彼女の中にそんな屈折した異郷のイメージを重ねていたのかもしれない――
そして私は彼女の顔を再び窺った。彼女はじっと強い光を発する眼光で老人を見据えていた。
己の妄執を一通り語った老人は尋ねる。
「……さあ、それではあらためて訊こうか。誰に雇われてきたのだ。例えこのことを知っていたとしても、それで邪魔をしに来た以上、何らかの組織的後ろ盾がなければそんなことをするはずもない。さあ、言いたまえ」
最大限の余裕と優位性を演じながら、語りかける老人に、しかし彼女は失笑で応じた。これ以上交わす言葉など何もないと言わんばかりに。
それを見聞した老人は醜面を真赤にして声も無く激昂した。
「……ッ、…………ッッ、し、しかしまあ、いい。お前を喋らせてから儀式に掛ける必要がなくなった。まんまと秘密を喋ってくれるお仲間が現れたのだからな。おかげで君を生かしておく必要がなくなった……。生贄にする過程で新鮮な生き胆も手に入る。これで……ッッ!?」
そのとき、誰も予期せぬ振動、そして衝撃が
それは爆発だった。次いで、周囲の光の一切が消失した。停電か? しかし妙であった。なにをしても、いつまでたっても目が闇に慣れず、視力がまるで機能しないのだ。そもそも我々が居たのは屋外、星空と潮風に晒された甲板の上である。証明が落ちたとしても、月の、そして虚空の「門」から降り注ぐ光までが消える筈はない。
その暗幕の怪異に誰もが半狂乱になりかけたところで、光が戻った。それまで銃を構えて私たちを取り囲んでいたはずの男たちは、その悉くが昏倒していた。
これをやったのは私だ。何のことはない。咄嗟の爆発に乗じてお粗末な拡張現実の結界を乗っ取ってやったのだ。その手並みから見ても、やはりこの男は私の父とは比べるまでもない三流でしかないことが証明された。
後は縄から抜け出して、視界を失った雑兵連中を打ちすえるだけでよかった。鞘がこの魔術師もどきの意識を引き付けてくれたおかげだ。
「馬鹿な、き、貴様ッ、魔術師だったのか……」
残ったのは魔術師もどきの老人と、それを護るあの白蛇のような男だけだ。
「いいや、今は――違う!」
やおら突進しようとする私を前にして、老人は目に見えてたじろぎ、狼狽した。たいそうな武装の仲間を引き連れていたことといい、この男の器の矮小さはどうやら筋金入りらしい。
咄嗟に詰め寄ろうとした私の前に、しかし蛇のような顔をした男が立ち塞がる。シャアアアァァァッ! と、蛇の鳴らす威嚇音のような唸り声と共に、撓りの効いた鋭利な蹴りを放ってきた。
まるで本物の蛇を想わせるすばらしい体術だった。私はそれを左手で受けようとした。が、途端に男の蹴り足が三つにぶれた。
それらはコンマ数秒のうちにそれぞれ別々の動作を敢行し、威嚇、拘束、破壊のそれぞれの役割をまったく同時に行った。
やはり、この男だけは手練れだ。先ほども、主である老人が視界をジャックされて狼狽える脇で、事態に動じることも無くこちらの動向を察知していた。それが無ければ既に決着はついていたことだろう。
蛇のように私の腕は絡め取られ、その状態でへし折られた。防御をなくした私へ再度鉄棍の突きの如き蹴りが見舞われ、鳩尾の辺りを打たれた私は膝をついた。
やはり凄まじい蹴りだった。絶技だ。常人ならあばらをめちゃくちゃに砕かれて昏倒していただろう。鉄板さえ貫きかねない威力だった。
しかし同時にどうと何者かの倒れ伏す気配があった。私に凄まじい蹴りを放ってきたあの男も私とは位置を入れ替え、交差する形で崩れ落ちていたのだ。
何があったのかは簡単な話だ。私は左手を砕かれると同時にそいつの肩口にあの巨漢の男から奪ったナイフを突き立てていたのだ。
無論それでも男は私に蹴りを放ってきた。ヤツが最後の蹴りを放つのと時を同じくして、私は高電圧の電流に変換した魔力をそのナイフからこの男の体内へと流し込んでやったのだ。
伏した蛇顔の男はびくりとも動かなかった。死んではいない筈だが、スタンガンを体内にねじ込まれたようなものだ。いくら常人離れした体力があってもしばらくは身じろぐこともままなるまい。
それを確認した私は、身体の痛痒を無視して立ち上がった。
老人は信頼していた側近が敗れるという展開に悪夢を見た童子の如くおののいていた。
と見るや、咄嗟に震える手で懐からいくつかの球を取り出してそれを放った。やおら、その球は数倍の大きさに膨れ上がり、中からそれぞれに野太い毒蛇が現れた。
一見して蝮のように見えたが、その大きさと凶悪な造詣から、おそらくは魔術的に作り出された
蛇は私に向かってもたげた鎌首を伸ばしてくる。野生の蛇ではありえない速度と悪意のある狡猾な連携。私も前に出るのを躊躇った。
いまの戦闘のダメージは無視できないものがあったし、何よりも一流の修練を受けて来てはいたものの、私にはまだまだ応用の能力が足りなかった。
相手が人間以上のものとなると、さすがに手こずってしまう。
蛇たちの動きは人間とは違い、素早く、狡猾で、何よりも無駄がなかった。それらに囲まれた私は追い詰められてしまった。しかし、そのとき逆に、弾ける様に動いたのは鞘だった。
彼女は咄嗟に蛇に向かって何かを放り投げた。投げつけるのではなく、手渡すように軽く放ったのだ。途端、それは凄まじい勢いで炎を伴い燃え盛り始めた。
それは携帯式の焼夷弾だ。私の身長よりも高い位置に頭をもたげていた蛇たちは一斉にそれに注視した。
このため山火事などがあると、火の中に飛び込んだ蝮が大量に焼け死んでいるのが見つかることがあるのだそうだ。
とはいえ、さすがにこの魔の大蝮達は火の中に飛び込むような真似はしなかった。しかしそれを無視することも出来なかった。一斉に、磨かれた皿のような凶悪な視線が燃え盛る炎の赤に注がれる。それは私に充分すぎるほどの勝機をもたらした。
障壁となっていた蛇たちの脇を一気に通り抜けた私は、ノータイムで仰け反った老人を組み伏せた。未だに甲板に突っ立っていたのが間違いだ。老人は蛇の後ろで逃げることもせずに傍観していたのだ。
私は先ほどと同じように腕から最大限の電流を放出し、この老人のお粗末な魔術回路をジャックし、無理やりに魔力を流し込んでやった。
「――――――ッッッッ!!」
老人は声にならない悲鳴を上げて激痛にのたうった。あらゆる神経に無用な電気信号を過度に流し込まれているようなものだ。たまったものではあるまい。
その間、鞘はといえば、私が飛び出すのと同時に昏倒した男たちの手から拾い上げていた拳銃で、焼夷弾に注意を引かれてそっぽを向いた蛇たちの頭を順に打ち抜いていたのだった。とても素人に出来る動きではなかった。
彼女に向けて振り返り、私は言った。
「本当に、私が来たのは
それを受けて彼女は肩を竦めて苦笑いをした。
「そうでもないよ。囲まれたままならヤバかったし。ほんとは、こんなの使いたくないしね……」
そう言って、彼女はオートマチック拳銃のスライドを連続で引き絞って弾倉を空にすると、それを投げ捨てた。
自分で携帯していいなかったこともあり、彼女はそういう凶器の類を忌避しているようだった。
「た、助けて……」
息も絶え絶えの魔術師は逃げることも出来ずに哀願して来る。当然、私は聞きいれるはずもなかった。
腰に刺していた自前のスイッチ・ナイフを引き抜くと、すでに魔術師ではなくなった老人に斬りかかろうとした。しかし止めを刺そうとする私の背後から届いた彼女の声は言うのだ。
「いいよ、殺さなくて」
「……しかし、」
ゆるんだ私の手から這い出した老人は嬉々として彼女の足許にすがり付こうとした。私はそれを諫めようと思った。この手の悪人は人の善行を善行とは受け取らない。この骨の髄まで腐乱したような老人なら尚の事だ。
「お、お、おお……あ、ありが……」
しかし礼を言おうとする老人に彼女はばつが悪そうに告げた。
「や、そーじゃなくてさ。さっさと逃げた方が良いよってハナシ。……今度の爆発はさっきの奴の比じゃないと思うから……」
言うが速いか、――私たちの足場になっているこの巨大タンカーの船体の腹の辺りで凄まじい轟音が響き渡り、同時に衝撃が私たちを襲った。
「――――」
老人は息を呑んだ。無論私もである。あまりに慮外の事態だ。海洋上に流れ出した燃料が燃え上がり、暗い海原は今や真赤な炎に彩られ燎原の炎の如き様相を呈していたのだ。
甲板にに転がっていた男たちもようやく幻覚から眼を覚まし、燃え上がる炎を見て散り散りに逃げ始めた。
「ほら、あんたらも起きな」
鞘は眼を覚まさなかった者を助け起こして逃げるよう促していた。私はそれでも老人の動向を注視していたが、彼は夜に浮かび上がる門を見つめたまま動こうとしなかった。
「ああ、門が、門が――」
海を覆った炎は近接していた硝子細工のような門にまで影響を及ぼしていたようで、次第に門は幻影のように歪み、融解し始めていた。
「……」
「いくぞ、急げ」
へたり込む老人を残し、私は彼女を連れて構わず出口を目指した。背後では自力で目を覚ましていた白蛇面の男が老人のもとへ歩み寄っているところだった。結局、彼等が逃げたのかどうかは定かではないし、知ろうとも思わなかった。
船外に出た私たちは、私が乗ってきたボロ船まで辿り着くとすぐに巨船から離れて出切る限り距離を取った。すると間もなく轟音とともに船が炸裂し、中腹から折れ曲がった。
私たちはぎりぎりのところで火の手に播かれることなく海原へと脱出できた。
「……また、ずいぶんと派手にやったな……」
「や、なんか思ったより船に在った燃料が多かったみたい。まぁ、火力の微調整なん望むべくもないし……」
「――ッ!」
そのときだ、後は焼け崩れるだけかと思われた門が、ひどく重苦しい音を立てて鳴動し始めたのだ。私は直感的に悟った。これは、拙い。
次元の裂け目が、そこに設置されていた「門」と共に船の爆発による連鎖的な反応を起こし始めている。しかもあの空間の亀裂がどのようなリアクションを起こすかは誰にも予測できない。
私は急いで船をスタートさせた。が、遅かった。
次の瞬間。次元の裂け目は眩い閃光とともに弾けたのだ。
そして、私たちの眼に飛び込んできたのは見たこともない光景だった。
金と赤と黒の曲線が作り出す極彩の極み。バミューダの海に垣間見える次元の扉、その先の世界と、この時空とが交じり合い、えもいわれぬ光景が展開されていたのだ。
私は恐怖も忘れ、己の内容を埋め尽くした鼓動とともにその光景に魅入っていた。
極度の地震のような強い揺れが空間そのものを揺らし、私たちは船の上から投げ出された。意図するまでもなく、私は彼女の身体を抱いていた。彼女も私の身体にしっかりと抱きついてきた。
極彩の光景は数瞬の瞬きの内に去った。私たちは投げ出されたままに海の上に浮かびながらそれを見上げ、しばし、浸るようにその場で黙していた。
「……これで、よかったのか」
「……ま、いいでしょ。殺しちゃったらあんなのでも気分よくないだろうし、それに、あんなのにどうこうされるようじゃ、どの道日本もおしまいだろうしね」
「そうじゃない。
「ああ。……うん、よかった。予定とは違うけど、満足。スッゴイ満足だよ――。一度見てみたかったんだ。この世とは別の世界の光景をさ、窓の向こうにでもいいから見てみたいって思った。思ったら、あとは勝手に体が動いてた……」
「……本当に、そのためだけに、ここまで来たのか」
「今度は信じる?」
重ねて問うた私にまた光陵の溢れる真っ直ぐな眼差しが帰ってきた。私にはそれ以上の言葉がなかった。言葉はいらなかった。偶然とはいえ、あんなものを見せられては、意味がないなどとも言っていられない。
「信じるしか、……なさそうだな」
満足そうに霧の晴れた満天の星空を見上げる彼女の横顔を見つめる。ここまでの道のりのせいだろう、だいぶやつれてはいたがその大粒の黒い瞳はその顔色に反比例するように輝きを増しているようだった。
私の心が、なぜか早鐘を打ち始めていた。
ふと気付いたように、彼女は私の顔を見て声を上げた。
「……キレイな眼、してたんだ。気付かなかった」
「……?」
「ほら、グラサンしてないの、はじめて見たからさ」
不意に私の中に妙な可笑しみのようなものがこみ上げてきた。気がつけば微笑んでいた筈の彼女の頬がなにやらむくれて、鋭く引き絞られた視線がこちらを見ている。
私は声を上げて笑っていたのだ。何年ぶり、いや、おそらくはこんなに愉快な気分になったのはこの世に生を受けて以来始めての経験だったに違いない。
彼女はなにがおかしいのかと、しばらくの間そう言ってむくれていたが、それでも最後には一緒になって笑っていた。
満天の星を写す魔の海域に私たちは二人だけでポツリと浮かびながら、いつまでも途方もない痛快な気分に浸って笑い続けていた。
それから私は、彼女――伏見鞘と行動を共にするようになったのだ。