Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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六章 無音残響「サイレント・ノイズ」-2

 その後も暫くの間は押し問答だった。数日間の内に、十数回に及んだ交渉の末、結局折れたのは私のほうだった。

 

 何度「命を落とすことになりかねない」と諭そうとしても彼女は聞き分けなかった。その口の達者さからはとても交渉人が欲しいなどとは思われなかった。私などよりもよっぽど弁が立つ。

 

 さて実のところ、私がもっとも困惑していたのは彼女の目的についてだった。何故如何については後述するが、海底には沈没船などなく無論のこと探し出すべき宝もありはしないのだ。

 

 つまり、たとえ依頼を受けたのだとしてもあの海域からは何の成果を見出すことができないのは明らかなのだ。結構な労を費やしてそれを説いたつもりだったが、結局はそれも徒労に終わった。

 

 彼女は頑なだった。日本人とはこれほどに小意地な人種だったのだろうかと、私はいたく奇異な感慨に耽ったものだ。

 

 父が足しげく通った極東の島国。そこに住まう人間。なにがそれほどに父を引き付けたのだろうか。私たち家人には目もくれぬほどに、なにが――

 

 なし崩しに私は依頼を受けることにした。そうしなければ彼女はこの近辺に定住しかねない勢いだったからだ。それどころか、下手をすれば私の住まいに間借りするなどと言い出しかねない。

 

 結局、高い金を払ってわざわざ危険に近寄りたいというのは彼女の願いだ。奇特な女の奇行に付き合うだけで金が入るのだからむしろ好都合だとも言える。と、私は自分にそう言い聞かせて納得することにした。

 

 好きにさせてやれば気もおさまるだろう、と。

 

 そこで私はまず、信じられないならそれでも構わないから一応最後まで話を聞くようにと断った上で、魔術師というものについて、そして常人には知られざる魔道の側面の理について語った。

 

 一般人にそれを教えるなどとは魔術師としては褒められた行為ではないのだろうが、私はすでに外れた人間だ。協会に睨まれぬ程度になら支障もあるまい。何より、私にはそうしなければならない理由があったのだ。

 

 女は意外にもその話を真摯な面持ちで聞いていた。魔道の摂理などというものを現代人にいくら口述したところで到底信じられるようなものではないことは想像に難くない。

 

 しかし、彼女は文句の一つもなく、童女のように大きな黒い瞳を私に向けて静かに聞き入っていた。私も自然とその顔を見つめた。ここまでの旅路のせいだろうか、焼けた頬は少々扱けていたようだった。それでも、その黒い瞳と長い髪が輝くような生気に満ち溢れているように見えてひどく印象的だった。

 

 私は不意に自分のサングラスがズレていないかと確認していた。彼女から発せられる、あふれるような光はきっと陽の加減のせいではないと思えた。

 

 理由はわからなかったが、裸眼でそれを受け止めることが、なぜかその時の私には憚られたのだ。

 

「あの海域には厄介なものが三つある。一つはまあ、いわゆるマフィア、というかゴロツキだな。この辺りにも周囲の島を根城にしている連中がいる。いくつかの組織があり、それぞれに縄張りがある」

 

「なに? あんた詳しいの」

 

「一応、お得意様だからな」

 

「あらら。そのお得意さんの依頼でな~にを運んでんのかしら」

 

「さてな。荷物の中身に付いての詮索はしない」

 

「じゃ、何で私には根掘り葉掘り質問すんのよ!?」

 

「連中のの積荷は詮索しなくてもわかりやすい。底の浅い連中だからな」

 

「……私の依頼はそんなにわかりにくいって言いたいの?」

 

 また唇をへの字に曲げる彼女をそれ以上取り合うことはせず、私は先を続けた。

 

「もう一つは察しの通りその裏にいる魔術師。他愛のないマフィアを隠れ蓑になにをやってる連中なのかは知らないが、少し前からあのあたりをうろついているらしい。当初にマフィアの連中と小競り合いがあったらしく、やつらが現れてからはこの辺りからも無法者の姿がだいぶ減ったようだな」

 

「結果論だけど、マフィアがいなくなるなら周りの人にとっては悪い話じゃない感じだね? んで、一番の厄ネタって言うのはやっぱりその魔術師ってひとたち?」

 

「そうじゃない」

 

 厄介なのことには変わりないが、コイツと比べれば何のことはないだろう。

 

「最大の厄ネタは「穴」、だ」

 

 前置きを終え、私の文言は本題に入った。

 

「穴?」

 

 前の二つについては前述の言葉から察していたのだろうが、最大にしてもっとも困難な障害には彼女も怪訝そうな声を上げた。

 

「そうだ、あの海域には次元の裂け目が出来ている。そして、それを目当てにした魔術師がそれまでそこを縄張りにの仕事をしていたマフィアを排除してあの一帯を徴用しているということだ。ご丁寧に海賊のふりまでしてな」

 

「――じゃ、その魔術師って人らは船を襲わないんだ?」

 

 あらためて驚いたように黒い三日月のような眉を上げて彼女は言った。

 

「そうなるな、そういう意味では確かに海賊やマフィアよりもよほど害がない」

 

「と、言うか――その人たち何でそんなことしてんの?」

 

 お前も意味もなくそこに行こうとしているではないか、とは口には出さなかったが、依然として違和感を抱えたまま、私は話を続けた。

 

「総ての魔術師には目的があるのだ」

 

 そう、あらゆる魔術師には目的がある。それに行き着く手段や方法は様々だが、概ねそれは「根源の渦に至る」ことであると総括できる。

 

 そも、根源とは何かかといえば、あらゆる出来事の発端となる座標であるとされ、万物の始まりにして終焉、この世の全てを記録し、この世の全てを作れるという神の座。世界の外側にあるとされる、次元論の頂点に在るという“力”。

 

 アカシック・レコードとも称される。いわば人が元来触れてはならない領域にある力のことである。そして人の臨界を越えたと自称する魔術師なる者たちはその力を求めて日夜労を惜しまず精進し続けているというのである。

 

「手段はわからんが、時空間の歪みを使って根源にいたろうという魂胆なのだろうな。自力での根源への到達を諦め、そういう超然的なキッカケに便乗して事を成そうとする魔術師も多いと聞く」

 

 私は掻い摘んでそれらの事を説明した。あまり専門的過ぎる言葉を用いすぎても混乱するだけだろうからできる限り簡潔に話したつもりだった。しかし彼女は先ほどとは一変したように静かにしていたかと思えば、

 

「う~~~~ん」

 

 と、なにやら唸り声を上げて首を捻り始めた。

 

「なんだ?」

 

「なぁんかさ~~、魔術師って変なこと考える人たちだよねぇ」

 

「……魔術師の欲求は、魔術師にしかわからんのだそうだ」

 

 どうやら、彼女は私の言に納得しかねるようで、さらに首を捻る。

 

「世界の内側のこともよくわかってないのに、世界の外のことを考えるなんて、気が早いっていうか、ないものねだりって言うか、隣の芝生は青いって言う……のか?」

 

 少し違うかな、と続けて彼女はまた、さらに捻じ切れんばかりに首を捻る。そろそろ頭が床に落ちそうだ。

 

 根源の渦に至るという衝動は魔術師に特有のものであり、これは世界の外側への逸脱である。これによって世界の内側にもたらされるものは何もない。

 

 そのとき、彼女の言葉を聞きながら、私は内心でドキリとしていた。その言葉が私の長年の葛藤を期せずして見透かしたかのような気がしたのだ。

 

「……そうでもしないと、出ないのだろう。答えがな……」

 

 なんと返していいか解らず、適当な合いの手をいれた私の前で、それまで唸って螺旋くれていた彼女は勢いよく立ちあがって、パッと顔を煌めかせた。

 

「じゃあ、まずは内側のことをよっく見てみたらいいんだよ」

 

 思わず仰け反って尻餅をつくところだった。

 

 何故だろうか。

 

 それほどに眩かったのかもしれない、その黒の瞳が。

 

「納得がいくまでさ。こう、結論を急いじゃうと自分の見たいものしか見えなくなっちゃうからさ。木を見て森を見ずってやつ? だから、まずは自分の眼で飽きるまで世界を見渡してみればいいんじゃないかな」

 

 唖然と見つめる私を余所に、彼女は自分の言葉にウンウンと頷きながら言葉を続ける。 

 

「見たことのないもの、聞いたことのないもの、触ったことのないもの。世界は未知で溢れてるんだよ。それって神様がくれたサイコーの贈り物だと思わない? 知らないって事だけでどきどきしない? 私はするよ! それって、これからいくらでも知らないことを見れるって事、神秘を知れるって事じゃない!!」

 

 言い放ち、満足そうに私を見下ろす女を暫し眺め返したところで、私は話を戻すことにした。正直、何を言いたいのか分からなかった。

 

「――とにかく、」

 

「あれ? スルー?」

 

「以上の理由で、そこに近づくだけでもかなりの危険が予想される。――――それでも行く気か?」

 

 それほど語りつくしたにもかかわらず、扱けたけた頬に似合わぬ真っ直ぐな視線が、いよいよ凄まじい光と力を内包して、私を見た。

 

「いくよ!」

 

 

 

 

 彼の地を、人はバミューダ諸島と呼ぶ。約150の珊瑚礁と岩礁からなる島群で、もっとも大きい島はその中心に位置するバミューダ島、その周りにセント・ジョージ島、ソマーセット島、アイルランド島があり、他は非常に小さな島の群である。

 

 1500年代の初期にヨーロッパ人によって発見され、当初は地図にこそ書き込まれてはいたが永らく移住者のいないまま無人の島であったそうだ。

 

 その後、1684年に正式にイギリスの植民地となる。現在島の経済を支えるのは避寒リゾート地としての観光資源である。

 

 

 私の船でバミューダ島に到着した後、私達はそれぞれに別行動をとっていた。

 

 観光地ということもあり、バカンス期のバミューダには若い男女が少なくはなかった。そのせいか、バミューダ島についてから、彼女はというとどうにも浮き足立ってしまっていた。

 

 仕方なく、私は自分の仕事が済むまで好きに散策するよう彼女に言って、自分は周囲に住民に話を聞くことにした。

 

 どの道、こういう作業は一人のほうがやりやすいのも確かだ。

 

 私はバミューダ、及びその周囲の島々を廻ってそこに住む現地の住人たちから話を聞きだした。多少なり魔術も使った。相手が話し好きの老人とは限らないし、こういう場所に居を構える住人の大半は明らかな異邦人を酷く警戒するものだ。それを逸らす魔術を使用して話を聞いたのだ。

 

「…………グロリア・ベンソン号の最後のモールスは『SOS視界ゼロ、SOS雲が……』だったそうじゃ。いったい、雲がどうしたいうんじゃろうな? その日は暗雲立ち込めるような悪天候ではなかった。しっかりと憶えておるよ。その日のミルウォーキー海淵はむしろ『気味の悪いほど静かな海』だったんじゃ。

 

 ひどく凪いだ海原を、その近くにいたワシら漁師も奇妙な胸騒ぎと共に憶えておったくらいじゃ。だから、ベンソン号のことを後から聞き及ぶにいたってワシは稲妻にうたれたかのような感覚に見舞われたわい。ああ、あのときのことだ。考えるよりも先に思い出しとった。

 

 以来、ワシはこの海域で遭難する船や飛行機のことにつぶさに耳を傾けながら、この歳まで来たんじゃ。ここの恐ろしさはワシが一番わかっとるよ。この三角海域、魔の海難多発地帯での遭難機は、しばしば、気が狂ったとしか思えないような通信を発した後に連絡を絶つんじゃ。

 

 ――そうじゃ、貨物船マリン・サルファーク・クイン号のことはしっとるかね? 映画俳優ジョン・スタイリーの乗った飛行機の行方は? それとも…………」

 

 しわがれた声で話す老人の饒舌さは留まることを知らなかった。一体何度あのような話をしているというのだろうか? ちなみに、この老人には魔術の類は使用していない。

 

 ()()()()厄介な手合いに捕まったと思いながら、私は辛抱して最近の怪事について聞いた。老人は私のことを上客だと思い込んだらしく。椅子に座るよう強く勧め、彼が若かったころの古き「バミューダの怪異」について語り散らしていたのだった。

 

 結局、最近の異変についてはよく知らないということだった。私はげんなりしながらも多めにチップを渡して立ち去ろうとした。満足そうにほくそえむ老人はそれを見てサービス精神に火がついたのか、最後に少しだけ付け足した。

 

「そういえば、最近若い漁師から酒の席で聞いた話じゃが……」

 

 

 

「――でさぁ、潜ってみることになったんだけどさー。いっやー、これがなンンにも出なかったわ。宝どころか船の破片すら。あったのは珊瑚礁だけー」

 

 落ち合うことを取り決めてあった酒場に彼女が戻ってきたのは、すでに夜が更けてからであった。まさか待たされるとは思っていなかった私は挨拶もそこそこにその日の経過を述べようとしたのだが、しかし彼女の絹を裂くような第一声がそれを許さなかった。彼女はまた小鳥の如く喋りだしていた。

 

「けど、海がすっごい綺麗でさー。やっぱいいよねぇ南の島って……」

 

 未だ湿り気の残る黒髪からほのかな潮の香りを漂わせて、彼女は満面の笑みを向けてくる。

 

「……って、なんか変に疲れてない? やっぱアタシも手伝ったほうが良かった?」

 

 おそらく私はさぞかし憮然としてそれに応えていたことだろう。一日中こんな勢いで喋る手合いの聞き手に回らされてみれば、誰でも悄然とするのは無理もないというものだ。もはや皮肉を言う気力が無かったので、私は率直に相槌を打っていた。

 

「……そんなことはない。……バハマでは潜らなかったのか」

 

「あんたを探し出すのに忙しくてそんなこと考えてる暇ななかったの。だから今日は割と期待したんだけどなー。ねぇ、知ってる? 大きなハリケーンの後だと沈んでた船が海底から出てくることがあるんだって、ガイドの人に教えてもらってさー。これは潜らずにはいられないと思ってぇ。んで、思った5分後には船の上よ」

 

 もうちょっと考えろ、もしくは勝手に人の船を使うなと言ってやりたかったが、それは彼女という言う炎に薪をくべるのに等しい行為だった。

 

 しかし、このまま自由に無駄話をさせたのでは、どの道こっちの報告は明日になってしまうことだろう。そんなものは願い下げだ。

 

「……どうして嵐があったなんて分かる?」

 

「それも今日ガイドしてくれた人に聞いたの。そういうのを生業にしてる連中もいるって言うし、もしかしたら何か見つかるかも知れないじゃない?」

 

「なら、目的も宝探しに変更するか?」

 

「それとこれとは別の話よっ…………あ、そだ。ちょっと聞いてよ。大事な話」

 

 すると彼女は一転真面目な顔になった。そこで私もようやく本題に入れるのだろうかと思って耳を傾けていたのだが、何時まで経っても何が言いたいのかが見えてこない。

 

「……でさ、これって変にぼったくられてないよね?」

 

 何かと思えば、米$で買い物をしたのにお釣りはバミューダ$で返ってきたという話を、これまた随分と歪曲に話し始めたので、その両者は等価で固定されていると説明してやった。

 

「へぇ。てかなに? 物知り?」

 

「来たことがあるだけだ」

 

 ……どうやら、大事な話と銘打ちながら別に深い意味はなかったらしい。

 

「なぁんだ。そんなら先に言いなよ」

 

 何故だ?

 

「観光?」

 

「まさかな」

 

「なんでよ。誰だってそのくらい……」

 

「……そうじゃない人間もいる。……それだけのことだ」

 

 まさしく私のような人種がそうだ。似合わないという以上に、どう楽しんだらいいのかがわからない。

 

「なら、明日は二人で行かない?」

 

 私はサングラスの奥で眦を開いた。他愛の無い言葉のはずだったはずだが、なぜか私は虚を疲れたようにうろたえた。

 

「……何をしに此処まで来たんだ」

 

 諌めるような声を出したが、彼女は動じることなく口角を吊り上げた。その幼い顔つきの笑顔がさらに丸みを帯びるようだった。

 

「いいじゃないの、別に時間制限なんてないんだし。時間に追われてもいい事なんてないよ? そだ、今日友達になった()がいるんだけどさ、あ、さっき言ったガイドの人のことね。その娘も同じようなこと言ってたなあ。なんか気持ちに身体がついて行っていないって言うのか…………もっと余裕持っていかないと生きててつまんなくない? それにさ……」

 

 話はまさしくとりとめもなく叨々として、途切れるということも無いようで、次第に相槌を打つのも面倒になってしまった。

 

 酔いの酩酊のせいだろうか。ついぞ、彼女の声はまるで遠くで響き渡る美しい小鳥のさえずりのように聞こえていた。

 

 ……メーン島、海岸、澄んだ海、跳ねる水、冷たくて、泳いで、西へまわって、セントデイヴィット島、珊瑚礁を見にいく。サマーセット島。ガイドはかわいい娘、輝くような皮膚の色はエボニー。弓のように張り詰めたふくらはぎ、その躍動、まるで踊るような。

 

 海岸は砂地と珊瑚礁の断続。砂浜の所々には珊瑚の欠片、そこでモリを片手に、素潜りで、捕まえにいく。白い灯台、焼け付くような砂浜、風の感触、透明度の高い、蒼い海、その香り、珊瑚礁、魚たちの天国。

 

 渇いた喉、とその奥。そこに行き着くまでの、内側の強張り、波の音、船の機動音、人の鼓動、リズム。無音の中の旋律、それはきっと風の鼓動――。

 

 ――来たのは初めてだけどいいところだ。と彼女は忙しなく語った。

 

「……それは良かったな。もう、充分楽しんだんじゃないか?」

 

 饒舌な彼女の、謳うような声に、私はそんな相槌しか打てなかった。まるで鳥達が囀るような、どうにも耳障りのいい声のように聞こえた。彼女の声は高音でいて、しかし、そこいらの女たちにはない円やかさのようなものがあった。

 

 キンキンとしたグラスの鳴らすような音ではあるのだが、その高音は角が無いかのように滑らかなのだ。取っ掛かりの無いそれが、自然と私の耳朶と神経をくすぐるように撫でていく。

 

 まるで子守唄のようだった。私自身はそんなものを聞いた事もないはずなのだが。

 

「ちがーう。たしかに楽しかったけど。それが目的じゃないの!」

 

 私の相槌にパーカッションのような声がはじけた。私は溜息と共にグラスの内容物を傾けた。ここまでけたたましいとさすがにその声音の調べもたまったものじゃない。まるで私耳元でそよいでいた風が唐突に鋭利な爪を剥きだしたようだ。しかし、それが彼女のリズムなのかもしれない。

 

 ただおとなしく肌触りが良いだけの女ではないのだ。時折鋭すぎる爪を立ててくる。おとなしくしていれば、それはもっともらしげな令嬢にもなるだろうに。もっとも彼女自身がそういう自分を望まないだろうということは、当時の私でも充分に理解できた。

 

「――でも、よかったなぁ、南の島。一度来てみたかったんだよねぇ」

 

 弾けた旋律は暴風の爪痕を残してまた穏やかに凪いだ。まるで気まぐれな海原のようだ。と私は思った。大方の予想は付いていたが、彼女は男顔負けのピッチでグラスを空にしている。

 

「来たことがなかったのか? 日本人ならいくらでも観光に来れるだろう」

 

「遊びに来てるように見えるのかしら? 私が世界中を廻ってるのは観光のためじゃないってのに」

 

「それは初耳だ」

 

 その後、陽に焼けて赤らんだ頬を膨らましつつ、それでも滞ることなく喋り倒した女は、遊び疲れた子供のように眠ってしまった。

 

 仕方なく、泥酔した彼女を取ってあった部屋のベットに放り込み、私はなんとも妙な娘と行き当たったものだと、今更ながらに当惑を感じていた。

 

 ベッドの上では惜しげもなく晒された無防備な白い肌が波打つようにうねっている。随分幼く見えるが、しかし身体の方は充分出来上がっている。その総身を形成している無駄のないシルエットのラインとそのバランスを見る限り、西洋人や黒人のしなやかさと比べても遜色はないように思えた。

 

 そんな綻び始めた蕾のような肢体を投げ出しながら、無邪気に夢現のやけ笑いをこぼしている。この有様がバカンスを満喫しつくした無防備極まりない典型的観光目的の日本人の様相でなくてなんなのか、とさえ思う。

 

 それにしても随分と信用されたようだ。元より身持ちの硬い娘とも思われなかったが、まさか好きにしろということでもあるまい。私は眠れる彼女を残して自分の船に戻った。

 

 まったくどういう女なのかよくわからない。底が知れないとはこういう人物のことを言うのだろうか? 少し……いいや、大分違う気もするが……。

 

 そうだ、何処か底が知れなくて、時折激しすぎるほど荒れ狂う、なのにいざというときはまるで揺籃のように心地よいリズムで人を包んでしまう――。女を海原のようだとはよく言ったものだ。と、私は我ながら、らしくない感慨を持て余してた。まったく得体が知れない女だ。

 

 自分の船に戻った私はこのまま何事もなければどれだけいいか。と考えながら降るような星々の下で杯を(あお)った。酒の味などわかるほうではないのだが、今夜はどうにも酒が進む。

 

 この土地の酒は酷く私に合っていたということなのだろうか? 不思議と気分が悪くない。何処からか流れてきた芳しい花のような芳香を含んだ潮の香りが、ここまで流れてきているのだろうかと思った。

 

 今までに味わったことがないほどに芳しく、それは私の喉にまで馴染んだようだった。このときの私は本当にそれが酒のせいなのだとい込んでいた。

 

 

 だが、それは間違いだった。それは彼女が残した潮気交じりの香りだった。――それを今まで忘れた時はない。このときの酒の味も、そして彼女の黒髪から漂ってきた潮の香りも、総てを思い出せる。

 

 それを忘れたことなど――片時もありはしない。

 

 

 

 

 

 私たちは幾度か日を改めてその海域を目指した。

 

 目指すはロード島の周辺だった。ロード島は大バミューダ島の西、セントデイヴィッド島とアイルランド島の間にある。その北はこの辺りで一番水深のあるところなのだが、先だってあの老人が話してくれた所によると、その辺りで近日妙な光を見た人間がいるらしいのだ。

 

 船の集魚灯ではなく、何か海底から光が指しているように見えたということだ。しかし幾度近づこうとしても、いつの間にか島の反対側まで移動していたのだという。老人は酔った上での話だからあまり信用するなと言っていたが、私達にしてみれば勿怪の幸いだった。

 

 そこだ。今はそこに穴がある。おそらく穴はミルウォーキー海淵や海域の随所に入れ替わり現れているのだろうが、今はそこに固定されているに違いない。無論、それを利用しようとしている条理から外れた連中の手によってだ。

 

 私は以上の情報から事の次第を推察した。穴は周期的に開閉を繰り返しているようで、その穴が開く日でなければ、そこに近づいても意味がない。

 

 おそらく、やつらは半月に一回。新月と満月の晩にここに訪れ、何らかの儀式を繰り返しているものとみられた。幾度となく繰り返された儀式のせいで周囲の時空間の揺らぎがひどくなっているようだった。

 

 私はここでそいつらがなにをしようとしているのかを考察した。おそらくだがやつらはこの海域に裂け目があるのを利用して、なにかを創るつもりのようだった。

 

 なるほど、なにに使うのかは知らないが、そんなものを何もない空間に普通に創ろうとすれば何世代にもわたる大事業になる。しかしもともとある亀裂を加工するだけなら、比較的容易に事を運ぶことができるだろう。

 

 だが、いきなりそんなものにノミを入れるのは危険すぎる。

 

 故にああやって時間をかけて準備を施しているのだろう。一見してまどろっこしくも見えるが、あれはあれで正解なのだ。

 

 先日、彼女が知り合ったという黒人の少女も私達に随伴することになった。私も案内役にはうってつけだと思ったからそれを承諾したのだが……目下、その判断に是非を下せずに困っていた。

 

 確かに指示は的確なのだが、その少女はどうにも彼女――鞘と気が合いすぎるらしく。私の船の後部座席でやかましくさえずり続けているのだった。私は考えを巡らさねばならなかった。

 

 さて、女三人寄れば姦しいとはどの国のことわざだっただろうか? しかし古いことわざなのは間違いない。時代は進んでいるのだった。現在に至っては女は何人であっても姦しいと言い直すべきなのではないだろうか。

 

 少女の名はドロシーといい、先日島をあてどなく散策していた彼女を捕まえて格安で周囲の島々を案内ガイドしてくれたということだった。

 

 金持ちでお人よしな観光客から現地の人間がチップを巻き上げる常套手段のようにも聞こえたが、二人はそれ以上に馬があったようですぐに親密な友情を築き上げていたようだった。

 

 それが偶然なのか、あるいはカモをおだてるガイドの手管が故なのかは私には判断しきれなかった。

 

 思考を曇らせる私の背後で二人はさえずり続けていた。甚だしくも遺憾だったのは、私もその内容に耳を傾けざるを得なかったことである。なぜかというと、彼女の英語が拙いせいか、はたまたドロシーという少女のイントネーションが聞きなれないせいなのか、二人はたびたび私に水を向けて、通訳を要求してくるからだ。

 

 大きなハリケーンが通った後には昔の沈没船が浅瀬に出てきていることがあるらしい、という話もこのドロシーに聞いたとの事だった。私としては余計な事を言ってくれたものだと文句の一つも漏らしたいところだ。

 

 さらにしぶしぶと聞く所によればドロシー自身もそういうトレジャーハントで一攫千金を狙っているらしい。そして彼女は資金をため、自分の船を買って生来から出たことの無いこの島を出て、世界を見に行くのだと語っていた。私は言外に、ますますこの二人は似通った精神の持ち主らしいと考えていた。

 

 このドロシーという少女はセント・ジョーンズ島に住んでいる、あまり裕福とはいえない黒人一家の生れで、父親は漁師をしているのだという。鞘よりも幾分年下であるように見受けられた。

 

 背の高い、すらりとしたしなやかそうな細い体、そのシルエットが酷く印象的な少女だった。

 

 この黒人の少女は外の世界に出ることを夢見ているという趣旨の話を何度も繰り返ししていた。

 

 そのために、ハミルトンの金持ちの家で家政婦の真似事をしながら、この辺りで沈没船の引き上げをしている男の手伝いをしているのだという。いつか自分も自分の船を持って、世界中の海底を浚ってやるのだと話している。

 

「――白鳥のような船よ、白一色で、スマートで、船着場で一番輝いて見えるの」

 

「きっと、綺麗な船だね。白い翼みたいな」

 

「素敵ね、白い翼……何処へだっていけそう。きっとここからニューヨークにだっていける……」

 

「あっという間だよ、きっと。次に会うときは乗せてよ。世界を回ってれば、お互いいつか会えるから」

 

「もちろんよ」

 

 出会って数日とは思えない親密さで彼女たちは話す。私は黙ってその話を聞いていたが、おそらくは生まれてこのかた、この海域から出たこともない黒人の少女が話す夢物語を、私は彼女のように肯定的に受け止められなかった。

 

 日本人である彼女がこんな放浪生活をしていられるのは、彼女が恵まれた国に生まれ、恵まれた環境に育ち、恵まれた教育と社会の庇護を受けてきたからだ。と内心で思わずにはいられなかった。

 

 彼女たちは人種だけでなく立場も境遇もまったく異なる。持つものと持たざるものだ。彼女たちの間にはどうしようもないはずの線が引いてあるはずなのだ。にもかかわらず、何故この黒人の少女はそう屈託もなくこの裕福な異国の女に己の内面を曝け出せるのだろうか。

 

 あの年頃なら、も少し現実というものを見つめることも出来るだろうに。

 

 私の中で懐疑が頭をもたげ始めていた。いや、それは懐疑と呼ぶには些か暴力的な仰々しさを備えていた。久しく感じたことのなかった停滞した力場のような不快感が私のししに根を張り始めていた。兎角、――不快な感覚だった。

 

 私の船はロード島に近づいてきた。サマーセット島の珊瑚を過ぎてしばらく行くとロード島のシルエットが見えてきた。

 

「なんだか怖いわ。何時になく海が凪いでしまっているよう。海火が出るのはこういうときなのよ。今じゃこんな日は不用意にこの辺りに近づく連中はあまりいないの……」

 

 ドロシーが不安そうな声を上げた。犠牲者が出ていなくても、確かに気味の悪い話だ。地元の人間ほど、そういう変化に過敏なのかもしれない。

 

「けど、別に代わったことは何もなさそうだね。むしろ静かで綺麗な海じゃない?」

 

 とはいえ、私の感想も鞘のそれに順じたものだった。確かに、薙いだ海はその透明度の高い肢体の隅々までに降り注ぐ太陽の光を取り込んで、燦と煌めいている。妖しいなどという言葉は、この海原の様相には相応しくない。

 

「何があるにしても、出てくるとしたら夜なのだろうな」

 

「そういうもん? テンプレートでもあんのかしら」

 

 ドロシーの文句とは裏腹に呑気そうな声を上げる鞘の声に応えながら、私は何の変哲もない場所からさらに船を進め、長く突き出た岩の岬をまわる。

 

 すると、何かが見えた。視界の端に入ってきたのは一隻の船だった。それはすばらしい速度でこちらに向かってきた。警察か何かの船かと思い私は警戒したが、ドロシーが声をあげた。

 

「大丈夫。知り合いの船よ」

 

「この辺りに近づく連中はいないんじゃないのか?」

 

 私は言った。

 

「彼らは特別よ。怖いもの知らずなの」

 

「――やあ、お嬢さん方。元気かい」

 

 高いところから大声を掛けて来たのは黒人の巨漢だった。どうやら、この辺りの顔役で、沈没船引き上げを生業としている男の様だった。

 

 大男は私の船よりもよりも遥かに大きな船を横付けにして声を掛けてきた。大きな船は黒塗りだったが、派手なペイントが随所に塗りたくられ、一見子供の落書きみたいな夢のある船を装っている。

 

 しかし、その下地の暗色が、どうにも他者を圧倒したがっているような感覚を与えて来る。だからというわけではないが、私はこの陽気な声をあげている大男からは何処か仰々しい感じを受けた。

 

 現地人だという男をサングラス越しに私は見据えた。バミューダの住民の60パーセントが黒人で残りは白人だという。確かにすばらしく鍛えられた身体をしているが、この辺りではそう珍しいという訳でもないだろう。

 

 しかし何処かおかしな気配を私はその男から嗅ぎ取っていた。向こうも仰々しいゴーグルをしているので私達の視線がぶつかることはない。

 

 その巨体に見劣りのしないゴツいゴーグルは、強い日差しから眼を護るためのものではなく、己の視線を誰にも読ませないようにするためのものなのではないかと思えた。いや、直感的に解った。私自身のサングラスがそうだからだ。

 

 男は私にも鷹揚に手を振ってきた。私も挨拶程度に手を上げた。依然として視線は絡まない。それでも充分だった。彼が真正の善人でもない限り、お互い味方にはなれない人種だと悟るには充分だったはずだ。

 

 その後、男は女二人と喋るのに忙しそうだった。散々遊びに来ないかと熱烈なアピールをしたあとで、大型の船は去って行った。

 

「気に入られたわね。あいつ、かなりお熱みたいよ?」

 

「そんなことはないんじゃない? 珍しいだけだよ」

 

 ドロシーの声に彼女が笑って応えるが、しかしすぐにドロシーは声のトーンを変えた。

 

「でも、気をつけてね、いざとなると何をするかわからない相手なの」

 

 単なるチンピラの大将で本物の悪人ではない、と彼女は付け加えたが、顔色から判断するにそうかわいらしいものではないらしい。

 

 おそらくあの巨漢が沈没船の引き上げを生業としているという彼女のボスなのだろう。つまりこの少女はあの男から何かしらの命令を受ければ逆らえないに違いない。と私は当たりをつけた。

 

 あの大型船にそれ相応の機材や装備が備え付けてあったのを、私は見逃さなかった。

 

 もっとも、あの男がそれだけの男なのかはわからなかった。本物の悪人というのは普段の生活では悪人らしく振舞ったりしないものだと私は知っていた。

 

 

 島に戻り、ドロシーと別れた私たちは宿に帰りつく前に二人で安そうな酒場に立ち寄った。食事をしながら、私は彼女に切り出した。

 

「……昼間の大男だが、どう思う?」

 

「うーん、ちょっと怪しい感じだよね。もしかして……」

 

 彼女もあの巨漢を唯の陽気な男とは見ていなかったらしい。さすがに人物鑑定の目は肥えているというべきだろうか。

 

「たぶんな、あの男も何らかの形でこの海域の怪異に噛んでいるかもしれない。少なくともただの一般人には見えなかったな」

 

「なんだか、思った以上にきな臭くなってきたねぇ」

 

「おそらくだが、ドロシーとも上下のつながりがあるかも知れない。彼女との接触にも気をつけた方が良いだろう」

 

「ネガティブに考えすぎじゃない? それで何かするような娘じゃないと思うけど」

 

 楽観的過ぎる彼女の意見に私はかぶりを振った。人間、いくら気の会う相手であっても、会ったばかりの相手のために身体を張ったりはしないものだ。

 

 どんな人間であろうとも行動の裏には打算的な背景があるはずなのだ。少なくとも私はそう思っていた。

 

「用心に越したことはない、ということだ。……で、どうするつもりだ」

 

 実を言えば、私はそのまま彼女の意識が観光に向いてくれれば都合がいいと、この期に及んで考えていた。あらためて考えてみても、ただ興味本位で近づくべき案件ではないように思えて仕方がなかった。

 

「私、別になにがしたいってわけでもなくて、その裂け目ってのを見たいだけなんだけどなぁ。見せてっていったら駄目なのかな」

 

「……その魔術師が例外中の例外なら、或いは、というところだな」

 

「はぁ、だめか~~」

 

 それまではこれも仕事だからと己に言い聞かせ、クライアントの意に従おうと努めていたのだが、不意に、私の中の懐疑が頭をもたげた。これまではこの女の勢いに乗せられた感はあるが、こうしてあらためて考えてみれば、やはり奇異なのだ。

 

「……いい加減、言ったらどうだ」

 

 声は思った以上に強張っていた。私は依然として彼女の言動に釈然としないものを感じていたのだ。ここに着てからというもの、散々遊びながらも、彼女の意思はまったく逸れておらず、依然としてやる気を損なっていない。

 

 それが奇異に感じられた。その目的意識の強さとその不鮮明さに対して再び懐疑の心が首をもたげてきたのだ。それは私自身の知らぬままに、まるでのたうつ大蛇のように肥え太り、育っていた。もはや内側から私自身を左右してしまうほどに。

 

「なにを?」

 

 きょとんとして、彼女は応えた。

 

「目的だ。何のためにここを目指してきた!」

 

 そう、目的だ、それがどうしてもわからない。どうして、この女はそうまでしてあの魔なる海域を目指すというのか。

 

「言ったじゃない! 私はそれを見てみたいんだってば」

 

 重ねられた言葉、同量の懐疑、折り重なったそれが私の喉と思慮を狭めた。私は思わず声を荒げていた。

 

「何の意味がある!」

 

 己が荒げた声を自省する。そんなつもりはなかった。ただ、長い間こうしていたために、不意に浮かび上がった疑念が無視できぬ大きさに膨れ上がったのだ。まるで、泡の様に。泡なのだから、それはすぐに壊れて消えようとしたのだ。タイミングさえ違わなければ、すぐに不要な言葉だったと取り下げることも出来ただろう。しかし、そのときにはそれが出来なかった。いきなりの私の言葉に、彼女が更なる声を掛け返したからだ。

 

「やること成すことに全部意味がいるの? じゃあ、人生にも全部理由付けして生きてけって? 馬鹿じゃないの? 意味があるから何かを選んでそれをやるんじゃない! 自分が始めることに、自分で意味を見出していくのよ。私がやることに、私が意味を感じたんなら、そこには意味があるんだ!」

 

「……」

 

「自分がやることに一々誰かの意見が欲しいの? 違うでしょ? 自分でそれに意味があると思ったんなら、それをやればいい。誰もためでもなく、自分で、自分が、自分のためにやったことなら、そこに意味がいないはずがないじゃないか!」

 

「……」

 

 私は何も言えなかった。あれほど光り輝いていた大粒の黒瞳を伏せ、彼女はらしくない、消沈したような声を出した。

 

「……手伝いたくないなら、そう言いなよ」

 

 私は無言だった。在りもしない、呼び止める理由を探しているうちに彼女は行ってしまい、私は一人で取り残された。彼女の声にうろたえていたのだと知ったのは少し後になってからだ。

 

 周囲にいた連中が一人残されたわたしを嘲笑っていた。異国の言葉で言い争っていた私達の言葉を解するものがいるとは思われないから、おそらくは観光先で悶着を起こしたカップルか何かだとでも思われているのだろう。

 

 その日、彼女は宿には戻らなかった。きっと、あのドロシーの家にでも泊まったのだろう。

 

 翌日、日が落ちてから起き出してきた私はひどい気分のまま、それでも昨夜の出来事を整理していた。常頃の癖で、昨日の私の言動、彼女の言葉、問題点、改善するべき点などを反芻していたのだ。無駄な行為だと、昨夜の残りの酒を呷ってもみたが、一行に思考は混濁してくれない。

 

 それで、私の足はさらに街の酒場に向いた。安い酒だからよくないのだと、私は理由を見つけて歩き出したのだ。足が早っているようだった。きっと先の酒が今になって効いてきたのだろうと、私は思うことにした。

 

 もう時刻は深夜に迫っていた。不健康そうな雰囲気のバーに入り込むと、そこでドロシーのすらりとした弓のようなシルエットを見つけた。私はそのまま無視して酒を呑もうとしたが、黒人の少女は私を見つけて近づいてきた。

 

 やめてくれ。私は彼女に気付かぬフリをしながら内心で舌を鳴らした。なぜそこまで苛立っているのか自分でもわからなかった。

 

 ただ、機嫌が悪いのだ。だれにだってそういうことがあるだろう。昨夜の口論も、きっと、そんな些細な事なのだ。

 

 ――誰に聞かせるためのなのか、私はそんな言い訳を内心で繰り返していた。

 

 ドロシーは私に声を掛けてきた。私はびくりと身をふるわせた。演技ではない。己の思考に耽溺するあまり彼女の存在を保留していたのだ。だからといって、実際の彼女が静止するはずもない。どうやら思った以上に私は悪酔いしているらしかった。

 

 私はあしらうような声を出した。そもそも、話すようなことないのだ。するとドロシーは「彼女」は何処にいるのかと聞いてきた。

 

 私はなぜかと問い返した。それは一番応えたくない事柄で、一番応えようのない事柄だったからだ。

 

 そのとき、私は始めてこの黒人の少女の声に逼迫した響きが入り混じっていることに気付いて、彼女を真っ直ぐに見た。その頬には殴られたような痣があった。その裏にある背景を想像するのは難しくなかった。

 

 ドロシーは応えた。表面こそ気軽な声ではあるがその裏には明らかに怖気や怯えの様な感情を持っているのは明らかだった。

 

 昼間の大男が、彼女の居場所を教えろとドロシーに詰め寄ってきたというのだ。知らないと答え、どうしてそんなことを訊くのかというと、殴られたという。

 

「あいつ……何時になく殺気だってた。まるで何かに怯えているようだった。狂気の眼のをしていたの。恐ろしいわ。何をするのかわからない。だから心配で、貴方たちを探していたの」

 

 そして、己の不安を振り払おうとするかのように、彼女の無事を確認しようとする少女には応えず、私はグラスを傾けた。

 

 もしかしたら浚われたかもしれないと話すドロシーに、私は素っ気無く対応した。

 

 最初から危険だとは繰り返し忠告してきた。それに自分はクビになったばかりだとも、ざっくばらんに言い棄てた。

 

「自業自得だ……馬鹿なヤツだ」

 

 不用意な私の言葉に間髪すらいれず、ドロシーは声を荒げた。

 

「馬鹿なのは貴方のほう!」

 

 甲高い声が耳を刺すようだった。今日二度目だ。さすがに勘弁してほしかった。私は彼女の腕を取ると引きずるようにして店の外に出た。ドロシーは私を見上げるようにして睨みつけてきた。

 

「あなたと彼女は違う。ぜんぜん違う」

 

「どう違う? 彼女もお前さんから見れば金持ちの日本人だろう。金持ちのイギリス人となにが違うんだ?」

 

 歯止めがきいていないような感じはあった。しかし私はそれを意識できなかった。猛っている己を見ながらそれに触れることができないような奇妙な感覚だった。そんなことは初めてのことだった。

 

「まさか、彼女が自分と同じだと思ってるんじゃないだろうな? 彼女は日本人だ。裕福な国に生まれて、そこから溢れた金を使って遊び呆けているだけのやつじゃないか! 何故お前さんが彼女を心配するんだ? 彼女がお前の友達になってくれると思うのか? そんなことがあるはずがない。……日本人というのはいつでも愛想笑いを浮かべられる人種なんだ。お前の夢を本気で信じている訳じゃない。心の中では嘲笑っているんだ。何故それがわからないんだ?」

 

「違う。嗤っているのはあなたッ!」

 

 私は惑わせていた視線を、彼女の黒いそれに強引に捕まえられたような気がした。自分の意思と関係なく私はドロシーの黒い瞳を見ていた。まるで黒檀(エボニー)のようなそれを。

 

「あなたが人の夢を嗤うのは、自分の夢から逃げているからだよ。そうしないと自分を保てないからそうするんだ。ここにいる奴らも、ここに来る奴らも、みんなそんなやつばかりだ。弱い奴らばかりだ! 本当に強い人なんていない。みんな何かから逃げてる。だから逃げないヤツをこわがる。それで嗤うんだ。嗤わなきゃ嗤われるかもしれないって考えるから、嗤うんだよ」

 

 ドロシーは、まだハイティーンのこの恵まれない黒人の少女は、黒い瞳に涙をたたえ、声を枯らして私に訴えていた。

 

 私は立ち尽くすことしか出来なかった。まるで出来の悪い木偶のように。

 

「私の夢、あんな風に真面目に聞いてくれる人はいなかった。金持ちのイギリス人たちも、日本人も、誰も……父さんたちも、誰も嗤って馬鹿にするんだ。けど、あの人はこう言っていた。『出る気になれば何時だって出れる。何処だっていける。けど誰かに連れ出してもらっても駄目だよ。誰かの力を借りると、それがなくなったとき、その誰かのせいにしちゃうからね』って」

 

「……」

 

 伏せられていた瞳が私を見た。私は半歩ほどたじろいだ。

 

「あのひとはバカなんじゃない。強いんだ。あなたよりも、ずっと強いんだよ。どうしてわからないの? あの人は奇跡だ。手放していいわけがない! そんなことをしたら、貴方だって不幸になる」

 

 「奇跡……」私は呆けたような声を上げた。当然生まれてくるはずの嘲笑はなぜか声を顰めていた。それ以上私の声は出ない、寸分の呼吸音さえ聞こえない。だから――次に弾けるのは必然的に少女の声だった。

 

「探しにいかなきゃ。今すぐに!」

 

 

 それを遮ることを放棄した私には、手を引かれるに任せる以上の抵抗がかなわなかった。

 

 仕方なく、私達は二人で彼女を探しに行った。これ以上公衆の面前でけたたましい声を聞くのはごめんだった。何より、これ以上そんなことを思案しているのが面倒だった。私は自分に対してそんなしっくりこない、治まりの悪い言い訳を繰り返していた。

 

 散々駆けずり回った挙句、私のボートが止めてある海辺の酒盛り場にも向かった。しかし、ここにも彼女の姿はなかった。仕方なしにウエイターにそれとなく黒髪の女の話を探ってみる。

 

 するとそのうちに「長い黒髪の東洋人の女が夜の海に出たのを見た」という言葉にいきあたり、私達は不吉な予感を抱いた。今は観光シーズンだ。髪の女くらいいくらでもいるだろう。ここいらの人間には日本人かどうかの区別もつくまい。それが彼女だとは限らない。

 

 しかし予感は無視できない危機感へとたちまちに姿を変容させ、私は杞憂であればと心の中で繰り返しがら、自分のボートの停留場所に足を向けた。

 

 案の定、そこには私のボートがなかった。私の心は言いようもなく揺れた。己の私財であるそれを勝手に持ち出されたからではない。彼女がなぜ無謀な行いに出たのかという狼狽が、私の内面を席巻していた。

 

 不可思議だったからだ、あれほどに私に協力を要請しておきながら、あのような口論だけでそれを反故にしたというのだろうか? そうは思われなかった。どこか倫理的思考とは別の感覚が私に囁いたのだ。

 

 そうだ、と私はその感覚を是として受け止めた。彼女はあれほどに狡猾な性分をしていたではないか、一時の激昂でそれを見失うほど愚かではない。そう考え、私は自分でも意外なほど彼女を高く評価していたことに気がついた。

 

 確かに思慮に欠けるところは数あれど、彼女にはそれを補ってあまりある感性と不屈の念が在ったと思われたのだ。おそらく、私が言外にそれを察していたのは、それが私に欠けている部分だったからだろう。

 

 兎角。ならば、この状況は――別の原因があるということになる。

 

 瞬間、私の視界は開けた。それまで霧のように嵌っていた思考の澱が私の視野を狭めていたのだ。私の視点は天空に舞う満月の異常を感知した。雲のない、遮るもののない夜の月光は本来の円環状のはずの満月が在り得ないほどに滅形しているかのように見えたのだ。

 

 それは月が歪んでいるのではない。空間だ、時空間が歪んでいるのだ。――これだ! 私の内容を、総てを稲妻のような閃きが駆け巡った。彼女はあれを見て、空間の歪みが今まさに起こっているのだと察したのだ。

 

 彼女は浚われたのではない。自分から渦中へと飛び込んだのだ!

 

 なんという無謀だろうか。何故それほどに急ぐのか、と。一つの解が解けるや否や、また新たな疑問が生じてはいたが、もはやそれは私の足を止め得るものではなかった。きっと、彼女が急ぐのはそれが彼女だからなのだ。私は柄にもなくそんな非論理的な思考に浸っていた。

 

 恐ろしく深い霧の中、煌々と照りつけているはずの月の光もここまでは届かない。

 

 私はその中を廃棄寸前の廃船で進んでいた。私のボートは彼女が乗っていってしまったので、仕方なしの手段だった。乗り捨ててあった廃船に飛び乗った私はすでに用を成さないエンジンに手をかざすと、簡易魔術で紫電の光をそこに見舞った。

 

 朽ちて久しいが燃料は多少なりとも残っていて、充分修理できるものだった。おそらく、酔狂でこれ買ったどこかの道楽者が遊び終わったからといって乗り捨てていったのだろう。不遜な話だったが、この場合は糾してもいられない。おかげでこうして彼女のあとを追えるのだ。

 

 しかしそこで悲鳴が聞こえてきた。私は再びボートから飛び降りた。

 

 そこには押さえつけられたドロシーと、複数の男たち。そしてあのゴーグルの巨漢がいた。私を見つけた巨漢はドスのきいた濁声(だみごえ)を張り上げた。

 

「あの日本人の女を何処へ隠しやがった。てめえは勘定には入ってねぇんだ。あの女をだせ!」

 

 先日の白昼とはうって変わった凶暴な声を上げる男へ、私は平素な声で応えた。

 

「勘定とは何のことだ? 日本人であることが何か関係あるのか、どうやらお前さんの独断で彼女を追っているのではなさそうだな。お前の後ろには誰がいるんだ? それともどんな恐ろしい物がいるんだ?」

 

 そう言ってやると、巨漢は色を失ったように顔色を変えた。当初の推察どおり、コイツの背後にいるのはマフィアなんて可愛げのある連中ではないようだ。

 

 それ以上の問答は無用とばかりに巨漢が顎をしゃくった。数人の男達がじりじりと距離を詰めてくる。

 

 手にしているのは鉄のパイプや角材、良くてナイフかブラックジャックといったところだった。腰のベルトに拳銃を挿している奴もいるようだったが、この場で殺してしまっては後々面倒なので銃は使わない気なのだろう。

 

 土地柄、酔った人間同士の喧嘩など日常茶飯事なのだ。故に銃さえ使わなければ人の注意を引くことはない。という連中の腹積もりを察するのは難しくなかった。

 

 しかし、私は諸々の事情に構うことなく、咄嗟に腰のホルダーに手を伸ばした。護身用に持ち歩いている短銃身(スナッフノーズ)の五連奏リボルバーだ。コンパクトすぎて派手な銃撃戦には向かないが、それでも頑丈で普段から持ち運ぶにはもってこいの銃だ。

 

「動くんじゃねえ!」

 

 だが、手下からドロシーを預かった巨漢は太い腕で彼女を羽交い絞めにして、小さなナイフを取り出した。――もっとも、それはこの男が馬鹿でかいからであり、人間を殺すには充分すぎる代物だった。

 

 私は引き抜いたリボルバー拳銃をゆっくりと投げ捨てた。さすがにドロシーを抑えられたまま引き金を引く訳には行かない。逆に向こうは私の出方次第では簡単に彼女の命を奪うことだろう。

 

 私はおとなしく棒立ちになった。よくある光景だと思ったが、よく考えても見れば私自身には初めての体験である。何故だろうか? 

 

 考えるうちに、不意に手下の一人が私に殴りかかってきた。二人三人、とそれに続く。私はそれを棒立ちになってそれ傍観していたが、そこでようやく自分がいいままで人質になるような仲間を得たことがないのだと気付いた。

 

 しばらく殴られたおかげで、ようやくアルコールが抜けて思考がクリーンになってきたらしい。

 

 高いところから振り下ろされた長柄の一撃によって私は倒れ伏した。その私にドロシーが駆け寄ってきた。

 

 見れば、巨漢も私をもはや戦闘不能と見なしたようで、ドロシーを開放し自分は私の拳銃を拾い上げていた。そして何事かをわめきながら拳銃から銃弾を抜き出し、空の拳銃を私に向かって勢いよく投げつけた。

 

 咄嗟にそれを遮ろうとしたドロシーの額にそれは当たって、私の手元に落ちてきた。ドロシーは顔を覆って蹲った。

 

 下卑た笑い声が響いた。彼らは陽気に笑っていた。――今、みずから自分たちの切り札を手放したことも知らずに。

 

 私は手元に落ちていた拳銃を拾って立ち上がった。

 

 バカな奴らだ。どうやってドロシーとやつらとを引き離そうかと考えていたというのに、自分から命綱を手放すとは!

 

 立ち上がった私を見て、巨漢とその周囲に集まっていた五六人の男たちの目に血色の嗜虐心が満ち満ちた。そして彼らは一気に雪崩を打つようにして動き出した。

 

 私は手にした空の拳銃を、真っ直ぐに向かってくる巨漢に向けた。

 

「馬鹿が! 弾は抜いてあるんだぞ? 装填してる暇もやらねぇ!」

 

 巨漢はそんな意味の言葉を狂乱した牛のような唸り声でかき乱しながら私に突進してきた。

 

 だが私は動かない。充分に引き付けなければならない。狙いが重要なのだ。正しく照準を合わせなければならない。だから、ゆっくりと狙いを定めるのだ。それが重要なのだ。そう――、

 

「いいや、弾丸など必要ない!」

 

 銃弾の有無など問題ではないのだ。私は吼え、引き金を引いた。私の全身に備わる条理を無視した夢幻の神経回路に凄まじい熱量の奔流が循環し、ある種の結果をこの現実世界に導き出した。

 

 次の瞬間、衝撃が周囲の総ての人間の耳を打ち、巨漢の振り上げていた右腕を奇怪に変形させた。

 

 それだけではない。その背後に続いていた取り巻きの男たちもそれぞれに耳から血を流し、血に染まった腕や足を押さえてけたたましい悲鳴を上げ始めたのだ。

 

 よく狙う必要があったのだ。もしも直撃させてしまえば、これは確実に人体に大穴を穿っていただろう。

 

 私は魔力を弾丸にして魔弾を放ったのだ。鉛の弾丸とは違い実体を持たず、弾道上の周囲の空間に凄まじい歪みを発生させながら大気そのものを攪拌して進んでいく。

 

 つまり、広範囲に人体を破損しうるレベルの衝撃波を振りまくという凶悪な魔弾の射撃というわけだ。

 

 もっとも、私自身の修行不足のせいで加減が出来ず、その上使用した銃を破損してしまうという欠点があった。つまり私にとっての奥の手だったのだ。

 

 吹き飛ばされ、何事かもわからずに無様な悲鳴を上げていた男は半狂乱しながら逃げ出し、取り巻きの男どもは蜘蛛の子を散らすようにしてそれに続いた。

 

 私はドロシーの傷に簡易的な治療魔術を施し、すぐに帰るように伝えた。しかし彼女は夜の海は危ないから自分も付いていくと言った。あんな目にあったばかりだというのに気丈な娘だ。

 

 それでも何とかして説得することができた。さすがの彼女もあの連中の背後にいる得体の知れないモノのことを言われれば、おとなしくしているしかないと解っていたのだろう。

 

 私は用を成さなくなった銃を捨てて、巨漢の投げ捨てていったナイフだけを拾って船に向かった。連中があわてて落として行った銃も幾つか転がっていたが、粗悪なサタデーナイトのような銃ばかりだったので、そのままにしておいた。

 

 どの道、さっきの魔弾はそう何度も使えない技なのだ。銃だけではなく、私の身体も綻んでしまう。

 

 そして私は一人、ボロ船を駆ってロード島北の海域を目指した。おそらく――いや、確実に、彼女はそこにいる。

 


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