Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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六章 無音残響「サイレント・ノイズ」-1

 

 

 ――あれは、何時のことだっただろうか。今ではもう、良くは思い出せない。

 

 人間は何のために生きるのだろうか。と、問う私に、彼女は応えた。それは幸せに足るために決まっていると。

 

 そして今は幸せかと問い返してくる彼女に私は明確な返事を返すことができなかった。それを、生涯に渡って悔やみ続けることになろうとは、そのときの私にはそうぞうもつかなかった。――

 

 

 

 私の名はセルゲイ。西暦19XX年、英国はロンドンから遠く離れた片田舎の古い家柄に生まれた。生家は人が寄り付かないような、深い山奥にひっそりと佇んでいた。

 

 私はそこで十五になるまでの間、その屋敷の領土内から一歩も外に出ることなく育った。現代の一般常識から考えればありえないことであろうと思われたが、この場合はそれが当然のこととしてまかり通っていた。

 

 そこは「常識」が通用する場所ではなかったのだ。

 

 私の父はただの一、英国人ではなかった。――父は、所謂、「魔術師」という輩であった。

 

 ここでいう魔術師とは即ち「力あるもの」である。奇術師やショー・マジシャンの類ではない。一般の唯人とは一線を画す神秘に近き者、そして奇跡を担う者である。「魔術」なる字面から察することは難くないかとは思うが、説明するまでもなく、それはこの世にあまねく魔の担い手でもある。

 

 当然、社会一般に貢献する事を旨とした善なる者ではない。むしろ人目を極力避け、その身の正体の秘匿に細心の注意を払って生涯を送る陰翳の住人なのだ。無論のこと、実際の人間社会とは隔絶されてしかるべく外法の徒である。畢竟、私もそれに順ずるものとしての生活を営んでいたのだった。

 

 父は件の魔術師としてひどく優秀な部類の男ではあったが、同時に型破りの破天荒な性根にてその名を知られていたという。

 

 かく言うも、これは個人的な感想ではない。周囲の者達が語るところの父の諸評を取り纏めて察するにそういう人となりなのだろうとあたりをつけていた次第であった。何故間違うことなき嫡男であるはずの私が斯様に頼りなさげな認識しか抱けなかったのかといえば、そのときの私の心を極めて正鵠に顧み、憚りなく告白するというのならば、そのころの私は父に対していかなる感情も抱いてはいなかった。いや、抱くことができる環境になかったというべきであろうか。

 

 つまるところ、私は幾許かの感情すらも抱けるほど父と接したことがなかったのだ。

 

 己の追い求める真理に近づくためならば、あらゆる代償も厭わず、万象を秤にかけることさえ是として然るべき道を邁進(まいしん)すること。それが即ち優秀な魔術師としての第一の条件である。

 

 その意で語るならば。父は生粋の魔術師であったといえるだろう。事実として父はとうの昔から己の総てを秤にかけて生きていた。己が身命は言うに及ばず、金銭、時間、人脈、倫理・道徳心、そして――家族。

 

 私の生家は片田舎の辺鄙な場所にあった。そこは広大な古い森と豊富な鉱石を含む霊峰の頂で、屋敷はその一帯のレイラインの集束、つまりは地脈の頭である霊穴を押さえるようにして建っていた。

 

 屋敷というよりは城といったほうがよかったかも知れない。それは山裾までを範囲とした広大な砦とでもいうようなもので、無論のこと近づいてくる人間などあろうはずもない。それどころか常に噴出する圧倒的な魔力の奔流に本能的な畏敬の念を抱いてか、野生の動物ですらそこには寄り付かなかった。

 

 その領土の管理はもっぱら徒弟たちの役目であり、当主である筈の父は一年の内殆どを屋敷とは別の場所で過ごしていた。父はその人生の大半を東アジア諸国でのフィールドワークに費やしていたのだという。若年のころから西洋魔術師の総本山、通称「時計塔」にそれなりの席を持ちながら、それでもなお貪欲に東洋の思想魔術についての興味を示していた父は単身でその現場に乗り込んでの「実地」の研究を続けていたのだ。

 

 父が良くも悪くも「異端児」と呼ばれて久しかったというのも、そのような経緯からだと想像するのは難くなかった。

 

 稀に英国に戻ることがあっても、父はその間、殆ど屋敷ではなくロンドンの研究室に詰めていた。研究のことしか頭にない、というのも魔術師の常道に当てはめるならばさほど杞憂とも呼べないことであったのかもしれないが。

 

 それが故に当時の私もそれが当然のことなのだとして日々を過ごしていた。そこに露程の疑問も抱きはしなかった。

 

 極稀に屋敷に顔を出すようなとき、それも一年のうちに片手で足りるほどの機会でしかなかったが、父は決まって私の修練具合だけを確認し、一言二言、ボソリボソリと言葉を残して――それきりだった。それすらも、私はそういうものなのだろうと率直に受け止めていたのだ。

 

 しかし、その私が、何時のころからであっただろうか、その当然の諸々に明らかなる懐疑を抱き始めたのは。今もなお、思うことがある。このような一抹の懐疑など一時の迷いと、杞憂と切り捨て、忘却していれば、そうしていれば私も父のように何の迷いもなく定められた道を歩んでいけたのかも知れないと。

 

 しかしそれも今となっては詮無いことには違いない。事実として、その思いは硬いしこりのようなものとなって、そのころの私の心の片隅に、容易には動かしがたきものとして蔓延っていたのだから。

 

 そのような小意地な性根の在り方において、方向性こそ違えどもやはり私は父の子であったといえるのかもしれない。私もまたまっとうな魔術師としては「異端」である素養、および気質を備え持って生まれていたのだ。

 

 その頃、父はすでに老齢に差し掛かっていたが、その精力が衰える様子は一向になく、やはり生家に戻ることはほとんどなかった。逆に、十六になった私は明らかに焦れ始めていた。何の変化も得られぬ日々に私は歯噛みする思いだったのだ。

 

 私の内部に芽生え始めていた懐疑は、次第にその容積を増し、私の心の殆どを席巻してしまいそうになっていた。

 

 当時、屋敷に席を置いていた徒弟や書生たちはそのような私の心に気付くことはなかった。というよりも、たとえ筆を取り、または口頭でそれを伝えようとしたとしても、それを正確に解するものがあったとは思えない。

 

 それが魔術師というものの思考だ。異端なのは自分のほうなのだと、改めて再確認されられながら、同時にこの胸の内をどうすればよいかという懊悩がこの心身を苛み続ける日々が続いた。

 

 魔道というものに、魔術師という生き方について、疑いを抱き始めた私の心は次第に、何処かの、魔道とは別の精力の路に向けて、その押し止めがたい欲求の捌け口を求めるようになっていた。その思いはいつしか結実し形を成し始め、私は次第に魔道とは無縁の外の世界での生き方というものへ想いの翼を馳せることで、鉛のようだった心身の慰みを求めるようにさえなっていたのだ。

 

 私にとって絶対的上位者であった父は年中屋敷を空けていたことは前にも述べた。それゆえに、私の教育係だった徒弟は日々の魔道の修練さえ滞りなく済ませれば、後の時間をひとりで過ごしたいといった私の言葉に案外素直に頷いた。

 

 それまでの私はただの一度たりとも我儘を言ったり、無理に我意を通そうとなどしたことはなかったので、他の徒弟たちも少々訝しげな表情を浮かべつつも皆特に言及することもなく、私の意を阻もうとはしなかった。

 

 彼らにしてみれば、外の世界から極力隔絶されて育てられた私が自ずから外界に興味を持ち、何らかの行動を起こすなどとは考えもしなかったのだろう。それが、そのときの私には都合よく働いた。

 

 私は己の想いの実現を強く意識し始めていた。それまでに感じたことのない熱が私の内部に宿ったような気になり、妙に浮されたようなそのときの心持ちを心地いいとさえ感じていた。

 

 とはいえ、いきなり外に出ることは出来ない。私はその一人の時間を使って本を読み漁った。それまでは魔道に必要とされる知識意外は極力遠ざけられていたのだが、屋敷には魔術師の常として凡百な図書館などよりも遥かに大量の蔵書があった。

 

 どれもひどく古びたものだったので、それがそのまま現代の生活に結びつくわけではないのだが、それでも生まれてからというもの必要のない知識を得ることもなく、生家の領土内から出たこともない、ただ教えられたことを飲み込むだけだった私にとってそれは新鮮であると共に芳醇な体験となった。 

 

 浮されたような熱気は生まれて始めての充実感となって私の肺腑の内壁を鮮烈に焼き焦がしていた。人は己の思い立つところを起点として事に当たるとき、初めて己のためだけの実感を勝ち取るものなのだと私は学んだのだ。

 

 己の意欲、我意、志。それらに端を発することのない行為、つまりは他者の言や命によって成される行為は必ずしも充足感を約束するものではなく、また、たとえそれがもたらされたのだとしても、それは己のためのものではなく、他者への奉仕による充足でしかない。ひいては、その行いは己に何の成果も残すことのない、無為な行いに過ぎないのである。

 

 そして、私の心は父に対する奉仕では、家門に対する奉仕では生涯満たされることはないものなのだと思い至った。

 

 私は己が性根を恨むべきだったのだろか? なんという悪辣で傲慢な性に生まれついたのかと、己を糾すべきだったのだろうか? しかし、当時の私の心にはそんなことを想うべき余白はまったく残ってはいなかったのだ。

 

 私の心は鮮烈なまでの熱意と、そして己の内から湧き起こってくる歓喜にかどわかされてかされていたのかも知れない。己が意を得たといわんばかりに、乱れ狂う羅針盤の針の行方はもはや己の意志で定めることが出来ないほどに猛々しく戦慄いていたのだ。

 

 

 

 それから一年ほどの間、書物に埋もれるようにして生活した。

 

 そしてしかるべき準備の後、私はある事件を起こした。生家から出奔しようとしたのだ。無論。それは失敗に終わった。しかし熱に浮かされた私はその後も幾度となく脱走を企て、そしてその総てに失敗した。

 

 その後、もはや己らの手に負えぬと判じたのだろう。徒弟たちは自らの管理責任を糾さされることも承知の上で父に連絡を取ったのだ。それを鋭敏に察した私は数日の後、再度これを最後にすべく事を起こす決意をした。

 

 その時の私はそれまでの度重なる脱走劇に業を煮やした徒弟たちによって別塔に隔離されていたのだが、長年の修練で培った魔道の技能と近年の探求欲によって取り入れた知識とが交じり合ってあたかも円熟に結実し、それまでの私には到底辿り着けなかった位置まで私を押し上げていたのだ。私の中で開花した総ての感覚と幸運が私を自らが望む方へと誘ったのだ。

 

 そしてあの日、艶妙に明るすぎる満月が涼やかな光彩を放つ、静かな夜。ついに私は生家を抜け出すことに成功した。

 

 後は広大な領土内を駆け抜け、未踏の外の世界へ足を踏み出すだけだった。例えようもない高揚と歓喜がわたしを包んでいた。達成感。震えるような魂を抑えきれず駆け出そうとした――そのときであった。

 

 虚ろな影が不意に私の視界をよぎった。そこにあったのは、それはここに到着するまであと数日は掛かるだろうと踏んでいた父の姿だったのだ。一拍の、えもいわれぬ空白の後、苦い絶望が私の体の内部に湧き起こってきた。

 

 己の見通しの甘さに私は思わず唇を噛みしめた。対峙はその実数秒だったのか数分だったのか、それすら定かではなかったが、私には夜を明かしたかのような長大なものに感じられた。その間、父は無言だった。その色眼鏡の奥の顔に浮かんでいるのがどのような感情なのかさえ窺い知ることは出来なかった。

 

 私はありったけの声を張り上げた。しかし口から零れたのはか細く、今にも掻き消えそうな声だったことだろう。それでも全身全霊で己の胸の内を始めて父に打ち明けた。己の総てをさらけ出してこの人と向かい合うこの瞬間を、実は己が何年も前から待ち望んでいたのだということに、そのとき始めて気がついた。

 

 十数年分の期待と不安が押し寄せ、私の身体はまるで瘧に見舞われたかのように振るえあがった。

 

 私は総てを吐き出した。しかし、応えたのは無言。無声。沈黙。――そしてしばらくして、ボソリと、また一言、呟くように言った。「屋敷に戻れ」という無味乾燥な言葉。それだけだった。

 

 私は蒼白になって、そして焼けた鉄のように赤面して、そして震えるような声と戦慄く全身全霊とでそれを否定した。

 

 どうすればこの心が父に通じるのだろうかと必死だった。そのときの私は神の前に総てを投げ出して何かを訴えようとする殉教者か、はたまた慣れない駄々をこねあぐねいている不器用な幼子のようであっただろう。

 

 そうしてでも私はどうしようもなく父との繋がりを求めずにはいられなかった。それが実際にこの世に在る物で、確かに触れられる、それまで隠されてきたが故に見つけられなかっただけの物なのだろうと、私は信じたかったのだ。しかし、

 

「ならば、もう用はない。――ここで()ねい」

 

 吐き捨てるような声と共に、閃光が奔った。まるで旋風に誘われた雨のようにそれは紗の線を描いて降り、いくつもの穴が穿たれた。貫かれたのは私の身体だ。私はありったけの声で、先とは比べ物にならないほどの声で、悲鳴とも雄叫びとも取れないうめき声を上げてのたうち回った。

 

 恐怖が私を支配していた。絶望が簡素な死を見舞おうとしていた。そして、どうして信じたのか、いや、どうして信じようなどと思ってしまったのかという悔恨が、私の心身を憤怒の火で満たそうとした。

 

 私は咄嗟に反撃に打って出ていた。反吐と、涙と、嗚咽と、どす黒い血を撒き散らしながら、生まれて始めての殺し合いに身を投じた。

 

 それまでの私は魔術師というものを知識としてしか知らなかったのだ。知識の上でそれが外法の徒なのだと知ってそれで十全なのだと思い違えていた。現実はそうではなかったのだ。知識とは実感を伴って初めて正確な形を得るものなのだ。ゆえに私は魔術師と言うものが一般の道理から外れし、まさしく人ならざる外道なのだとこのとき初めて実感を伴う理として解したのだった。

 

 刻一刻と、私の身体には穴が増えていく。あえて殺さぬように、それこそ針の穴を縫うような手際で、苦痛は累積されていく。私の思考はすでに焼き切れていて、人らしい理性の光は失われ、そこには一匹の獣となって父の、いや、眼前の怨敵の喉笛を食いちぎることしか頭にない愚者の姿しかいなかった。

 

 そこには人が居なかった。いたのは人ならざる外道と死に掛けの襤褸布のような獣、唯それだけであった。

 

 無論のこと、未だ修行を終えてすらいない未熟者がその道の泰斗を相手にして善戦できるはずもなく、私はなすすべもなく殺された。

 

 腕を殺され、足を殺され、顔を殺された。正しくは、丁重に、死なぬように、ギリギリ壊れぬように、丁寧に生と死のちょうど狭間の状態に置かれたのだ。およそ人体が、絶命だけを免れることが出来る。生と死とのちょうど中間の私。それを神のような呼吸で、タイミングで、一寸の淀みもなく父は創り上げたのだった。

 

 そして、私はそのまま「回収」された。

 

 それから一年あまりの間、私は薄暗い地下の牢獄で死んでいるのかどうかも定かではない状態で「保管」されていた。常人ならば死んでいただろう。魔術師として生まれ持った強靭な生命力が、私を生かし続けていたのだった。加えて、それすらもが父の目算どおりなのだという事実が強烈な憤怒となって私の生を後押ししていた。その一念で、絶望的とさえ思われた私の身体は再び活力を取り戻し始めていた。

 

 その間、他に考えていたことといえば、それは己の思慮の甘さについてであった。長い時間を、己を戒め自省することに費やした。

 

 はたして、私の生まれ持った性が、前記のようなものでなかったとしたら、或いは私の胸に生じた思いが一過性のものであったなら、私はここで父が望むような生き方を選ぶという道も在ったのかもしれない。それまでの行いを改め、己を一個の生ける機械人形と成して、「正しい」魔術師になることも出来たのかもしれない。

 

 父は身をもって己等の歩む道の険しさを教えようとしたのだろう。魔術師という生き方を正確に知りえた今ならば、その父の思いを正しく察することも難くはない。しかし、そのときの私にはそのような父の行為の裏の意味を推し量る思慮はなかった。そう、総ての自省は再度の逃亡のため! 私は変わらず、それどころか以前にも増して外界への欲求を強めていたのだった。

 

 唐突ではあるが、ここで母について語ろう。私が幼少の折、すでに老齢に差し掛かっていた父に対して、母はひどく若い女に見えた。元は外の世界の人間で、にもかかわらず例外的に高い魔の素養を宿して生まれついたが故に、幼いころから父に見初められ、後継者――つまりは私のことである――を生むためだけにこの屋敷につれてこられ、私を生んだ後はずっと屋敷の外れに建てられた離塔に住まわされていた。

 

 私のように外の世界に執着するでもなく、暗い塔の中でなにをしているのかも定かではない母は父以上に縁遠い存在だった。対面したのは数えるほどで、そのときも挨拶意外の会話はほとんどなく、たいした話もせずそれきりだった。

 

 おそらくは幼少のころよりその肉としての機能のみを求められて魔術師の下にさらわれてきた少女はまるで棚の隅に飾られたアンティーク人形のように扱われ、育てられ、本当に人形として生きてきたのだろう。何の不自由もないがそのかわり何の権利もなく自由もなく、使命もない。それが、私の母だった。

 

 私はそのときまでそのことについて何ら考えたことはなかった。そこで対面して初めて、私は今の己が真に心通わせるべきはこの方なのだと知ったのだ。

 

 私を逃がしたのは母だった。

 

 暗い地中の奥深くで、徐々に再生した身体を慣らし、体力を取り戻した私が如何にして逃亡するかを思案し続けていたころ。ふいに、暗鬱とした黴のにおいだけが幾重にも堆積するだけのはずのこの地下深くの牢獄に、花の香りがさざめいたのだ。

 

 暗闇の中で眼を凝らして、初めてそれが人なのだと知った。久しく顔を見ていなかったその女を母なのだと認識できるまで、月がわずかに翳るだけの時を要した。

 

 何も問うことができず、呆然と立つ私を前に、母は牢の鍵を開けた。呆気の取られる私を前に母は語り始めた。母の声は記憶していたものよりもどこか幼く聞こえ、しかしどこか懐かしかった。

 

 そのときの言葉だ。

 

「一緒には行ってあげられない。私は外で生きていくことができません。なにより、私はここに入る事を納得してここに来ました。だから勝手にどこかに行こうとは思いません。外は貴方が考えているほどすばらしいものではないかも知れません。でも、それでも、あなたは、あなたには、ここから解き放たれる意味がある。私はそう信じます」

 

 ――と。母とは、それきりだ。その後どうなったのかは定かでない。殺されたのか、生かされたのか、或いは自刃したのかも知れない。私はそのとき、母に対してどのような感情を持つべきなのかわからなかった。

 

 

 

 

 外に出た私は殆ど思案らしい思案もすることなく、すぐに出来る限り遠方へ逃げ延びた。

 

 長い放浪の日々の始まりだった。

 

 それからの生活で、私はそれまでの自分が常理の外を歩む者なのだと言われるままに解したつもりなって生きてきたが、何のことはない、それもまた実を伴わぬただの知識でしかなかったのだ。と、改めて実感させたれた日々だった。

 

 確かにそこには多種多様な人間たちのそれぞれに生きる術と生き様があった。それでも私が求めるものは決してそこにはなかった。外の世界での生活は思ったほどのこともなく、ひどく緩慢で無為だと感じられた。

 

 それまで未知だった世界に一人まろび出てみれば、それまでの易い目論見などは泡沫のようにして消えるのが常なのだとよく学んだ。

 

 魔術師の嫡男としてこの世に生を受けた筈の自分が、いざ外の世界に出てみれば、他の人間と大して相違ないただの人間でしかなかったという事実に行きあたったのだ。

 

 私が求めていたのは、新たに己でつかみ取るに足る、己のためだけの生き方であった。

 

 人が生きる理由とは、生きていくための手段とは明確に分けられるべきものだ。それがこの世を生きる人間の大半にとっていかに混同され、分け隔てられざるものであるかを、私は考えていた。

 

 その違いを意識している人間がこの世界にどれほどいるのだろうか? 確かに私には魔術が使えた。しかし、だからなんだというのだろうか? この心を雪ぐことすらおぼつかない秘儀などに何の価値があるのだろうか。

 

 私はかつて渇望したはずの世界に在りながら、次第に懊悩に苛まれるようになっていった。

 

 それから数年間、私は求めるべきものを探しあぐねて怠惰な日々を過ごしていた。月日は滔々と流れ落ちるかのように過ぎていった。その間、その場限りの快楽だけが生きる目的だった。酒、女、そのための金銭、それを手に入れるための暴力。

 

 これぞ父とは、魔術師とは対極の行き方だ――などと嘯いて生を謳歌しているふりをしてはみたが、その実、腹の底では解かっていたのだ。それは別段(いぬ)に生まれ付いても何ら支障のない生き方に過ぎないのだと。

 

 斯様な生には意味などない。と私は考え続けていた。長年の孤独は私の心にどのような場合でも常に考えを巡らせることのできる強靭な思考能力を与えていた。しかしそれが逆に私の首を絞め続けていたのも、また事実であった。

 

 私は思考する。狗に生まれ付いたものが狗として生きていくのは事象の道理なのだとしても、人として生まれついたものが狗のように生きていくのは道理から外れたことなのだ。狗ならば斯様な思い煩いに捕らわれることもないのであろうが、それを知り、思考するのもまた人として生まれついたが故の性なのだとしたら! 

 

 私はこの上ないほどに憤った。しかし同時にこうも考えられた。人とは並べて甚だ不完全な存在であり、人が人として生きるということは狗が狗として生きてゆくことほど安易ではなく、そこには極めて多くの労力が求められる。

 

 人が人たらんとするところの理合を知りえるには、各々の生涯の大半をそれにつぎ込まなければならない。故に「外」に生きる大方の人間たちは己が人として生きているかの合否を問い耽る事を早々に止め、その分の労を、より裕福に生きるための金銭を稼ぐこと、ひいては所謂目先の欲求や、家族や氏族の生活のためにつぎ込んでいるのである。

 

 それは識者たる人と成る事を放棄し、人という動物として生きるということに相違ない。加えてそれらは、それの是非に対する思考も放棄しているように見受けられた。人もまた動物であるからして、思い向くまま情動の導かれるままに生きてなにがいけないのかと、誰よりも働き、金銭を稼ぎ、それによって快楽を貪ることのなにがいけないのか、いや、そんなわけがない。――斯様に考えて結論とした後はもうそれについて考えることもないのである。

 

 私は心の内でそのような生き方を謳歌する外界の人間を俗物と蔑んでひどく忌避していたが、結局のところはそれすらもままならない己はいかなる者なのかと、己を追い詰めるだけのことであった。

 

 それどころか、内心ではそのような輝かしい惰性を送れるならばそれも悪くないと考え、その真似事をしようとしてさえみた。しかし、私にはどうしても考えを停止するということがうまく出来なかった。思案を放棄し、思考を停止することが出来なかった。そして、私は次第に何の身動きも出来ぬようになっていった。――

 

 

 そんな生活を送ってまた何年か経ったときのことである。わたしの前に妙な女が現れた。

 

 当時の私は大西洋の島々を点々としながら生活をしており、そのときはたしかバハマに住んで幾年かを虚ろに過ごした頃だったと記憶している。

 

 定かではない。なぜなら私の擦り切れた記憶において、そこより以前の出来事は鮮明に焼きついたそれ以後の記憶とは明確に分け隔てられてしかるべき、酷く曖昧なものでしかなかったからだ。

 

 そのころ私が生業としていたのは所謂運び屋(トランスポーター)というやつであった。

 

 それはつまるところ、小船一隻を駆って海洋上のボディーガードや道先案内や運び屋やドライバーなど、つまりは何でもやるというものだった。

 

 それもフリーで個人経営。しかも受ける相手を選ばないという経営方針だったために、わざわざやってくるような客はそれなりに問題を抱えているような輩ばかりだった。

 

 そのせいか、いつの間にか私はその界隈ではそれなりに重宝されている存在になっていた。

 

 それでも私の心が慰撫されるようなことはなく、依然として緩慢な苛立ちが留まらぬ思考を駆って私を苛み、その虚の径を広げ続けるばかりの日々であった。

 

 斯様な生活の中で、わたしの行為が私以外の誰かにとって意味をもたらしたことも確かにあっただろう。しかし、それではだめなのだ。私の性が私にとっての意味にならなくてはならない。それが己の生きる意味なのだ。それが、それだけが真に人が生きる理由であり目的なのではないのか?

 

 懐疑は、深まる一方だった。

 

 そのような折に、私の元にある依頼が届いたのだった。ある海域まで船で荷を運んで欲しいという依頼だ。運び屋としての私の元にわざわざ名指しで来るくらいだから、どうせ厄介な依頼なのだろうと思っていたが、現れた依頼主は意外な事を言い出したのだ。

 

 なんと私のようなアンダーグラウンドの住人を相手取っている運び屋に観光のガイドをしてくれなどというのだ。そんな輩は、それまで皆無だった。

 

 依頼人は一人の女だった。言うまでもなく妙な女だった。それが私の仕事上において、いや、私の生涯において常に唯一無二の例外であり続けた女との邂逅であった。

 

 それにしても、なんともその場にそぐわぬ女だった。まず、若すぎる。当時の私と比べても幾分年下と見受けられたから、こんな場所に来るには当然若すぎるのだ。

 

 その界隈に若い女がいないわけではなかったが、そんな擦れ切ったわけありの情婦たちとは明らかに違う空気の女だった。まるで童女のように黒い眼を煌めかせるその女は明らかによそ者だと思われた。少なくとも私には見知らぬ人種だと思われた。

 

 訊きもしないのに語り聞かされた依頼内容がまた異例のものだった。さすがの私も容易には快諾しかねて唖然とその話に聞き入った。

 

 女は「ある海域」に自分を連れて行って欲しいといった。その海域とはマイアミとプエルトリコ、そしてバミューダ諸島を結ぶトライアングル形の海域の中心。通称「魔の海域」と呼ばれる場所だった。

 

 いうまでもなく船や飛行機の消失事件で知られる海域だ。十九世紀からこの海域で消息を絶った船や飛行機は五十を越えるといわれる。この怪現象がはるか古から続いていたとするならば、消えた船の数はいったい幾百に及ぶというのか。

 

 この怪事を怪事たらしめているのが、それらのほとんどが墜落や沈没ではなく完全に「消失」してしまっている点だ。それらの船はsos信号を発することもなく、しかも何の痕跡も残さず、文字通り、「消えて」しまうのだ。

 

「何のためにそんなところに行きたがる?」

 

 女が片言の英語で息もつかずまくし立てるところを聞き終えてから、私は一拍置いて質問した。

 

「宝探しよ。私、冒険家兼トレジャーハンターやってるの」

 

「……日本人か?」

 

 私は女に日本語で喋りかけてみた。父は私に東方世界の知識を教え込ませていたので、私は東アジア諸国の言語は一通り喋ることが出来たのだ。それでも実際にそこへ言ったことがあるわけではなかったので人種の見分けがつく訳ではなかったのだが、女の長い黒髪の艶めかしさから、率直にそう感じたのだ。

 

「あ、解かる? そうよ。ってゆーか日本語できるんだ?」

 

 女は母国語か通じるとわかるとパッと表情を咲かせて言葉を切り替えた。

 

「多少はな」

 

「イヤー、よかった~~。この辺私の英語じゃなかなか通じにくくてさ。あ~~、日本語久しぶり~~。やっぱ言葉は大事だよ。口に馴染んだものが一番だよ。私お米は我慢できても言葉は我慢できない口でさ~~。あ、口つっても、この口のことじゃなくてね? 解かる? つーか日本語うまくない? 行ったことあんの日本? でも、ここだけの話、いうほど見るとこないよね? やっぱ京都とか? あれも二度目三度目は飽きるんだよ、これが。やっぱ私は沖縄とか北海道とかのほうが好きなんだ~~。あ、そうだ。これこっちに来て思ったんだけどさ――…………」

 

 これが間違いだった。聞き取りにくい片言で話されるよりも女の母国語のほうがまだ話が通じるかと思ったのだが、言葉を話し慣れたものにきりかえた途端、舌の回転の方もいよいよ語勢を増し始めてしまった。どうやら暫くは止まりそうもない。

 

 実を言うと、私は日本人や中国人という人種にはあまり関わりたくなかった。父は東アジアのなかでも特にこのふたつの国、というよりはその文化から発生した魔術、呪術の類を研究していたようだったからだ。

 

「……そういうわけでさ、明日にでも連れてって欲しいんだけど」

 

 何が「そういうわけ」なのかわからなかった。というより、いつ話が世間話から仕事内容のほうに移ったのかが皆目検討もつかない。

 

 しかし察するに、どうやら彼女はすでに契約が成立したと思い込んでいるらしい。残念だがそうは行かない。事は安易に承諾できるようなものではなかったのだ。

 

「あの海域は船が沈んでいるんじゃあない。船が消えてるんだ。探しても何も出てはこないぞ」

 

「それならむしろ好都合よ。もしもそんな怪奇現象が起こってるなら、なおのこと見過ごせないわ」

 

「……冗談だ。船が沈むのはメタンハイドレードのせいだ」

 

 魔の海域の消息不明事件は多くの研究者がその謎を解明しようとしているが未だ解明には至っていない。が、近年有力とされる説があった。それがメタンハイドレードだ。

 

 海底には、メタンと水の分子が結合したメタンハイドレードという固形物質がある。そこに暖流が通過した場合、その固形物質は融解し発生したメタンガスが海中にうねりを作り出して船を沈め、海面上の空に昇ってエンジンに引火、飛行機を墜落させるのではないかという説だ。

 

 もっとも、このような状況が起きる条件の海域は「魔の海域」意外にも存在するため、なぜこの場所でのみ消失現象が頻発しているのかの説明にはならないのだが。

 

「じゃあ、船は沈んでるんだよね。そんなら宝探しよ」

 

「……どっちなんだ」

 

「こっちの台詞よ。どっちにしろ嫌みたいじゃない」

 

 彼女は口をへの字に曲げて私のサングラス越しに強い眼光を送ってくる。ふいに、私はそこに言いようのない光彩を感じて殊更にサングラスの遮光性を意識した。

 

 なぜかは解からない。そんなことがあるはすもないのに、大粒の瞳からあふれる光が私の眼を焼いてしまうかもしれないと思ったのだ。光の加減のせいだろうか、彼女の瞳には不可解なほどの光があふれていた。

 

「察しがよくて助かる」

 

 不可思議な感慨はともかく流し、嘲るような調子で取り合う。こういう場合は相手を憤らせたほうが契約を破談させやすい。

 

 あまりありがたくない客にさっさとお帰りいただくにはこちらではなく向こうから帰ると言い出させるのが一番だ。

 

 しかし、ここで女は少女のような口端から八重歯を覗かせながら意地悪く微笑んだ。まるでこっちの意図を総て見透かしているとでも言わんばかりに。

 

「察しはともかく、私、諦めはよくないのよ」

 

「……別にウチにこだわる理由はないだろう」

 

 私が渋る理由は勿論面倒そうな依頼と依頼人にあったが、しかし決してそれだけではなかった。

 

 その目的の場所には厄介な連中がいる事を知っていたからだ。一般人が不用意にちょっかいを出してはいけない類の連中だ。

 

「いいわよ。つれてってくれないなら、一人でも行くわ」

 

「だから、やめろといっているだろう。あの海域には――」

 

 言い指した私の言葉に高い声が先んじた。

 

「知ってるわよ」

 

「――」

 

 もしや、本当に知っているのだろうか、この女? 知った上でなおかつここに来たとでもいうのか?

 

「なんか、海賊みたいなのがいるんでしょ? マフィアとかなんかそんなん」

 

「……やつらはただのマフィアじゃあない」

 

 と、そこでつい口走った私の語尾を捕まえたかのように、女はひどく狡猾そうな笑みを洩らしたのだ。

 

「詳しいんだ?」

 

「……」

 

「なんてね。悪いんだけど、全部知ってるの。貴方がそっち方面に詳しい人だってこと」

 

「……つまり、最初から魔術師相手の交渉人(ネゴシエイター)が欲しかったということか?」

 

「そゆこと♪ 「察しがよくて」助かるわ」

 

「……」

 

 

 


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