Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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五章 高位受容「ノエマ・フィードバック」-4

 

 一暈(ひとかさ)ごとになぎ払われ、打ち砕かれていく幾百、幾千にも及ぶ怪魔の群は塵芥の如く弾け霧散していく。

 

 今宵、妖しき南洋の魔術師の手によって(いざ)なわれた物言わぬ冬木市の二重存在。その偽装された閉鎖領域の中で、魔の飛沫を撒き散らしながら乱舞する二人の闘争者は、その五体を赤熱の蒸気機関と化してモノトーンの荒野に燦然と咲き乱れる。

 

 しかし、打ち砕かれて撒き散らされた怪魔の残骸は、すぐさまぬらつく粘塊となってそこかしこにへばりつき、白い世界を赤黒く染め上げていく。

 

 それらの汚泥は別の怪魔に取り込まれ、または次第に寄り集まって彼女たちの足を絡めとりその腕に纏わりついていく。

 

 セイバーは己の奥歯が軋る音を聞いた。たとえいくらこの怪魔どもを切り払い、粉砕したとしてもこの空間に留まっている以上、打ち砕かれた怪魔は純粋な魔の淀みとなって他の魔物たちに吸収されて行くだけなのだ。

 

 しかも、それだけではない。少しでも気を抜けばその魔の澱はセイバー達の中にまで入り込んでこようとするのだ。もしもこの怨念と悪意にまみれ、汚染された混沌の澱に取り込まれれば最後、彼女の英霊としての属性と人格は掻き消され、強大な力の一部となってその中に取り込まれてしまうことだろう。

 

 それでも、セイバーの眼差しは決して悲観に暮れてはいない。絶望に屈してはいない。確かにこれはよく出来た罠だ。仮にここに他のサーヴァント全員がいたとしても、ここから脱出する術が無ければ最後にはひとつの混沌になってにとりこまれてしまうことだろう。

 

 そのうえ、時間切れは期待できない。複数のサーヴァントを閉じ込めておくことを念頭において設計された術式ならば、もとより持久戦を想定しているはずだからだ。

 

 だが、対応策がないわけではない。内側から敗れないならば外から破ればいいのだ。これほどの大魔術である。それを執り行っている術者はおそらく今も強大な魔力行使を余儀なくされている筈だ。つまりは無防備な状態だということになる。そしてこれほどの規模の術式を他者の目から完全に隠匿し通すのはたとえキャスターのサーヴァントといえども容易ではないはず、それを彼女のマスター達が気付かないはずがない。

 

 無論、セイバー自身、現在の彼らの状況を把握できていないこともあり、この賭けが可能性の読めぬ希望的観測であることは承知していた。しかしそれでも今はそれに総てを託すしかなかった。彼女に出来るのはそれを信じてこの混沌に取り込まれぬよう意識を保ち続けること。そしてそのときがくるのを待ち続けることであった。

 

 そして事実――セイバーの瞳に怖じる気持ちは微塵も伺えない。その心は揺らがない。信ずること。許された一縷の可能性に総てを託し最後まで諦めない心。それが強さだ、人の持ちえるもっとも崇高な力なのだ。

 

 その眼差しを、その在り方を、汚泥の帳の向こうに垣間見ながらアーチャーは改めてその騎士王の姿に打ち震えていた。その未来を見つめる(かんばせ)のなんと気高くも美しいことだろうか――そうだ、それが人間の強さなのだ。これが人の身で無窮の王道に挑んだ者の姿なのだ。

 

 打ち放った剛拳が津波の如く押し寄せる魔物の(たば)をまとめて貫き、粉砕した。旋風の如く薙ぎ払われた剛脚が、まるで雑草でも刈り取るかのように人もどきの化生の首を胴体から乖離する。

 

 化身の王は震える己の心を止められなかった。知っている。彼は誰よりもその在り方を知っているではないか、そうしていつも彼の隣に在ろうとした者の存在を。かつて誰よりも信じ、そして誰よりも己を信じてくれた相手。

 

「……そう、だった、のか」

 

 呟くようなアーチャーの声を、聞く者はいなかった。そのとき、この白亜の空間そのものが大震の前兆として響いた余震の如く揺らいだのだ。見上げれば白い皿のようだった

 

 天蓋に一筋の亀裂が奔っている。すぐに理解した。アレは罅だ。まるで卵のそれのような、この空間の殻に入った罅なのだと。

 

 やがてそれは白い空に張り巡らされた黒い蜘蛛の巣の如く数を増していき、いつしかこの空間そのもの覆い尽くしていた。

 

 これは一縷の望みを掛けて待ち望んだ展開ではあった。しかし同時にどうしようもなく黒い予感が暗雲の如くセイバーの脳裏を覆った。次の瞬間、ガラス――というほどのものでもない。言うなれば春先の、既に溶けかけてだいぶ脆くなっていた湖面の薄氷が割れるかのような、そんな儚そうな音を立ててこの白い虚構と現実の境界は一気に砕け散ったのだ。

 

 場所は先ほど見えていた黒い穴の近く、センタービル付近であろうか。先刻からの予想の通り、セイバーたちはふたたび元の冬木の地に舞い戻っていた。

 

 ひとつ誤算があったとすれば、開放されたのは彼女たちだけではなかったことだ。いきなり卵の外に放り出された《《それら》》は危険を感じ取ったかのように一塊になり、今や(うずたか)く積み重なって小山ほどの粘膜の塊のようになっていた。

 

 いまだ淡いオレンジ色の光に包まれて正常な黒い夜に芒と浮かび上がる奇怪な様は、唯人が見たならばパニックどころの騒ぎではなっただろう。

 

 しかし幸いなことに、強まった雨の中を歩くまばらな人影にはそれが見えていないようであった。

 

 それらは未だに現実のものに触れ、知覚されることが出来なかったのだ。虚構と現実、二つの世界は交じり合うことなく、未だ水と油の如く分離したまま浮かび、震え、付いては離れを繰り返している。

 

 虚数領域はいまだ現実の空間とは位相を異にしていたのだ。故にその空間に捕らわれている怪魔やセイバー達の肉体は反実態とでも言うものであり、今のところは魔術師やサーヴァント以外の人間に知覚されたり触れられることはないだろう。

 

 しかし、それも時間の問題だ。じきに二つの冬木市は統合され、混沌の悪露は現実の世界の住人たちを無差別に取り込み始めるだろう。

 

 爆ぜるかのような音が、叩きつけるような雨に混じってセイバーの足許から響いた。彼女が手にする不可視の聖剣がアスファルトに叩きつけられたのだ。

 

 ――どうするっ? セイバーはくぐもったような唸りを上げた。凛達が自分を見つけてくれるなら、なんとかなるかもしれない。未だ主の手に残る令呪を使えば何とか打開策を見つけ出すことも――だが、しかし……。

 

 すると思案に捕らわれるセイバーに、アーチャーが声をかけた。その声は意を決したかのように揺るぎない響きを孕んでいた。

 

「――手は、ないこともない。今の某に出来るかどうかはわからぬが、やってみよう」

 

「しかし、アーチャー。貴方の身体は、もう……」

 

 アーチャーは言いよどんだセイバーの足許に屈みこむと、先ほどのセイバーの斬撃で捲れかえったアスファルト下の地面に掌を置き、静かに意識を集中し始める。

 

 しかし、それはどんな魔術なのか、それともまだ見ぬ宝具の能力なのかの判別もつけがたいものだった。――しばらくしても何の予兆も起こりはしないのだ。

 

 セイバーは焦れる心を抑えながら今や小山の如く積みあがった汚泥を見あげる。それは今やひとつの「形」を成しつつあった。ただの雑多な根源的悪意の集合でしかなかったはずの混沌は、今や統合されかかり本能的な、そしてそれゆえに狡猾な「意志」を持ち始めていたのだ。それは今か今かと世界が重なり合う瞬間を待っているのだ。もはやセイバーやアーチャーに興味はないらしい。より安易で脆弱な餌を求めるつもりなのだ。

 

 ――させぬ! 汚泥の胎動から直感的にそれを察したセイバーはふたたび強く剣を執る。どこまでやれるかはわからない。が、今は最善を尽くすより他にない。

 

 そうして再度駆け出さんとした刹那。大気を揺すり上げるような炎の熱と気配の揺らぎを感じた。背後に、である。――振り返ると。アーチャーが炎の弓を手に執って立ち上がっている。

 

「アーチャー、あれの足止めは私に任せろ。貴方は今やるべきことを――」

 

 燃え盛る弓はセイバーに向けられた。もはや痛みさえ伴うほどの危機を彼女の超感覚が警告する。

 

「――――ッ!?」

 

 咄嗟に跳び退ったセイバーに向かって爆ぜた「矢」は彼女の眼前で弾け、二つの光弾へと姿を割った。うちひとつはさらに分散してセイバーに追いすがり、その総身に降り注ぐ。と、同時に最初に裂けたもう一方の光弾は今矢を放った筈のアーチャーへ向けて取って返し、その分厚い胸板を突きぬいたのだ。

 

「馬鹿な!? アーチャー、なにをッ」

 

 瞬時に己の身体に群がる怪炎を弾き飛ばしたセイバーは倒れ伏すアーチャーに駆け寄る。

 

『やはリ――もうろくな力は残っていないようだナ、アーチャー』

 

 ――不快な、声だった。

 

「な、ぜだ……」

 

 セイバーは驚愕に息を詰まらせ、アーチャーは鮮血とともに疑問を吐き洩らした。

 

 そこにいたのは黒ずくめの怪人の姿。テーザー・マクガフィン。そしてそのローブから垣間見える白い女の貌にはセイバーも見覚えがあった。

 

「なぜだ、なぜ貴様が某に対して令呪を使える……それに……」

 

『それニ、なんだアーチャー? なぜ殺したはずなのに生きているのカ、とでもいいたいのカ?』

 

 今のは――令呪による強制権の発動! しかし、アーチャーのマスターはすでに死んだ筈。

 

『そうだナ、まずは化身王よ。お前はいくつか間違っていることがあるぞ。ひとつ、この身体は既に死んでいル。最初から生きていないものを殺すことなどできはしまい。ふたつ、お前のマスターは最初からゲイリッドなどではなイ。これが――』

 

 黒衣の監督役は懐から黒い陶器か、あるいは金属かと見受けられる欠片を取り出した。其処には確かに令呪の如き文様が浮かんでいる。

 

『――お前のマスターだ』

 

「な、にを……言っている?」

 

『まあ驚くのも無理はなイ。事実としてお前たちは自分が人間のマスターたちとパスで繋がっていると感じていたのだからナ。しかしそれは半分正解で半分間違いだ。お前たち擬似サーヴァントはマスター共の体内にあったこの欠片を通して繋がっていたのだ。人間のマスターなぞ飾りに過ぎなイ。いわば偽装だよ』

 

「なん、だと」

 

『そして、消滅したお前たちが向かう先は聖杯ではなイ。一人一人がこの欠片のなかに純粋な力として取り込まれる。そしてその欠片を持つものは一時的にサーヴァント以上の力を手に入れル。と、言うわけだ。どうかな? 僅か数年という短時間で仕上げた即興のシステムとしてはなかなかのものだろう?』

 

 声も、なかった。

 

『もう質問はないかナ? では、貴様もさっさと――』

 

 まるで刃と刃を合わせて軋み合わせるような、不快なノイズのような声音が響き渡る。

 

『――我が力となるがいイ! 』

 

 間髪入れず、黒衣の女はセイバーたちに向けて剣を投擲した。セイバーはアーチャーを抱えて危うげなくそれを躱した。しかしそれは背後の粘塊を貫き、黒き汚泥を爆ぜさせた。

 

「なッ!?」

 

 炸裂した粘塊は天高く舞い上げられ、新都中にその破片を撒き散らした。沸騰した零下の泥は降り注ぐ雨に混じって街中に降り注いでいった。

 

 兎角、この敵を捨て置けぬと判断したセイバーはすぐさまこの黒衣の女に斬りかかった。放たれた不可視の剣を、ふたたび実体化させた長剣で受け止めながら黒衣の女は愉悦に頬を染めた。

 

「何のつもりだッ! このままではこの街の人間総てがアレに飲まれてしまうぞ!」

 

「ちょうどいいさ、どうせ最後にはこの街の総てを取り込むはずだったのだからな。――お互い、これから起こることに目撃者がいては困るだろう? むしろアレに喰わせてしまったほうが早かろうと思ってな」

 

「――貴様!」

 

 セイバーは翠緑の瞳に怒りを湛えて一気に剣激の乱舞を見舞う。しかし、黒衣の魔剣士はそれを揚々といなし、逆に倍する勢いを持って苛烈な剣舞を返してくるのだ。

 

 その怪奇なまでの剣閃の冴えに、踏み込んだはずのセイバーの剣線が逆に押し返され、さらには後退の憂き目を見ている。

 

 不可解な事態であった。彼女が今魔力の枯渇しかけた疲労の極みの状態にあるというだけのことだけではなく、何故かは判然としなかったが、この敵が以前切り結んだころよりも遥かの力を増しているように感じられるのだ。

 

 とはいえそれでまさか怖気づく騎士王であろう筈もない。僅かに飛び退って間合いを空け、セイバーは勝機を窺う。剣勢に訴えられぬなら、後の先にて敵の隙を突くだけのことだ。両者は互いの剣域に幾許かの夜気を挟み、さらなる赤火の剣舞を切り結ぼうと踏みだした。

 

 そのとき、今まさに爆ぜようとした両者の剣気の間に、真紅の炎が割り込んだ。瞬間、それはまるで塵芥の如く細く、細かく、繊細な幾千万のもの火花となって飛散し、黒い女の身体を纏わり付かんばかりに包囲した。

 

 それはやにわに何かを焼き焦がすような音を立てながら一気に集約し、まるで赤火する溶鉱の繭となって女の身体を包み込んでしまった。

 

「チッィィィィィッ――まダ、足掻くカ――――ッ!」

 

 赤熱のむしろに巻き取られたヒトガタは狂乱したかのような雑音交じりの声で憎悪の咆哮を張り上げた。辺りには生きたまま肉を焼かれる憎悪と燃え殻の臭いがたちこめた。

 

 一拍の間を置き、セイバーは炎に包まれたそれへ渾身の一撃を見舞った。吹き飛び、背後のビル壁に叩きつけられた黒い女の体からはそれまでにも増して凄まじい勢いの炎があふれ出し煌々と燃え盛った。

 

「――一度死んでいようとも、こうなっては同じことであろう……」

 

「アーチャー」

 

 セイバーは血に塗れ膝をついたアーチャーに駆け寄った。その屈強な五体から滴る鮮血はすでその末端から灰のように乾き始めていた。もうアーチャー自身には微塵の余力も残されてはいないのだ。

 

 セイバーは臍を噛む思いでもはや死を待つばかりとなった街を見た。セイバーの翠緑の瞳にも絶望の陰りが見える。思わぬ邪魔が入ったことで、アーチャーの用意していたはずの策が潰えてしまったのだ。彼にはもう微塵の余力も残っていない。

 

「これでは――」

 

 しかし、ここで消滅を待つばかりになったアーチャーが澄んだ響きの声を発した。

 

「――正しさ、とは得てして難しいものだとはおもわぬか? 騎士王」

 

 セイバーは唯顔を上げてそれを見た。

 

「某は――幼き頃より正しき者、としてそこに在った」

 

「……」

 

「それは何処までいってもついてくるものだった。今もそうだ。何処までいっても、何をしようとも、正しさが、正義が、その道が我らを放してくれぬ」

 

 アーチャー、化身王ラーマは立ち上がる。

 

「礼を言うぞ。騎士王。某はいま――それが、幸福だと、思えてならぬ」

 

「……答えは、見つかったのか」

 

「ああ」

 

 そのとき、大地からあふれ出した白い光がアーチャーの身体を包み込んでいく。まるでたおやかなシルクのような白乳の如き光だ。

 

「――最後にひとつ、良いか騎士王よ」

 

「なんだ」

 

「其処許は――妻に似ておられるな」

 

 セイバーは笑う。

 

「過分な言葉だ。世事が過ぎよう」

 

 アーチャーも笑い返し、その姿が光の中に消えていく。

 

 

 ――かつて、一度尋ねてみたいと思ったことがあった。ずっとこの胸に秘めたまま、ついに最後のときまで訊くことの出来なかった問いだった。

 

『本当にこの王と共に歩んだことを悔やんではいないのか』、と。

 

 揺籃のころより、すでに神の化身たる王子は知っていた。己の存在が悪に拮抗するとために遣わされたものだということを。

 

 そして彼はそれを恐れたことも悔やんだこともなかった。むしろ喜びすら感じていたのだ。己の存在が世界の悪を正し、正義を全うすることを望んでさえいた。

 

 しかし、彼は後に思いもかけず苦悩することになる。愛する女を得たがために、彼は始めて己の運命を恐れたのだ。

 

邪悪との戦いを約束された彼の運命は、きっと愛する者にも降りかかるだろう。それ故に無欠の王は決断しようとした。愛するものを己の運命に巻き込まぬために、彼は彼女を遠ざけようとした。

 

 しかし別離を告げようとする夫に妻は言った。

 

『いつか別かれてしまうことが決まっているからこそ、こんなにもあなたが愛おしいのです。愛する人よ、この世の全てはいつか来る終わりを知っています。だからそのときまで精一杯生きることが出来るのです。あなたは全ての邪悪からこの世を守れるお方です。

 いずれ私たちも分かたれてしまうときが来るのでしょう。だとしても、あなたが神としてこの世界を照らしてくださるなら、わたくしは地に還り永遠にこの世界を支え続けるでしょう。忘れないでください。この世に人の営みがある限り、私たちはいつまでも共にあるのです』

 

 それは奇跡であった。絶対なる神の化身が人としてみることを許された、一抹の夢――

 

 

 溢れ出した白乳の如き光の中。胸に去来したのは、尋ねたかった問いではなく、伝えたかったひとつの言葉だった。

 

 ――ああ、そうか――

 

 白く煙る光の靄の中、あの日と変わらぬ妻の笑顔がそこにあった。

 

 ――ずっと、そこにいてくれたのだな――

 

 微笑む后の姿を崩れ行く両の腕に抱きながら、無謬たる化身の王は万感の思いを込めて告げる。

 

 ――ありがとう――

 

 やっと、答えにたどり着く。詫びる必要などなかった。王はただ感謝の念だけをこめて大地に微笑みなかけながら、静かに消滅していった。

 

 白い光に包まれた混沌の汚泥はまるで嘘のように縮んで、そして音もなく穏やかに消失していった。まるでそれが泡沫の夢であったかのように。

 

 盟友を久遠の彼方へと見送りながら、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。セイバー自身、その涙のわけをうまく明文化できるわけでもない。ただ、胸が満たされた気がしたのだ。蟠っていた伽藍が清涼なる風で満たされたように感じていた。

 

 己を、王道を、己の出した結末を、恥じることなどないのだと。今はそう思えるような気がした。その道の是非を誰もがその結末に求めるのは当然のことかもしれない。だから、彼女の出した結末が滅びであったのなら、それは正しようの無い事実なのだ。ただ、其処に至るまでの道程を見続けていた者が、ひとりだけ居る。それは王自身だ。

 

 人は彼女の王道、その是非をその結末にて判ずる。それは仕方の無いことだ。しかし自分は、己だけはその道の総てを見つめ続けなければならない。故に其処に一点の曇りもなかったのなら、たとえどのような結末を迎えたのだとしても、この世界で唯ひとり、己だけはその道程を誇らなければならない。

 

 それが王としての矜持。それが王道を誇るということ。

 

 だから――今だけはあの、己以上に不器用だったあの王に、己の王道を誇りたいと思った。これが私の成した道なのだと。――

 

 しかしそこで一閃された漆黒の刃が彼女を襲った。咄嗟に執り直した聖剣がその刃を受け止める。

 

「――ッ!」

 

 三度鍔迫り合う二騎の剣士。切磋する二枚の剣刃から、まるで怒涛の如き火花が咲き零れる。今しがた全身を墨になるまで焼き尽くされたはずのこの敵が、何故今また剣を振るうのか、さしものセイバーも剣を構えながら瞠目せざるを得ない。

 

『……神造姫シーターの宝具、『大地の揺籃(アムリタ)』――星の有する防衛機能の一つにして、自然物に対する万象回帰現象……か。――――キャスターが作った異相空間と受肉した怪魔共を「回帰」させて消滅させたようだな。……アーチャーめ、最後の最後で詰まらん真似をしてくれるものだ』

 

「貴様――」

 

 敵の姿を改めて検分したセイバーを怒りと共に驚愕が襲う、アーチャーに負わされたはずの全身の傷が塞がっているのだ。

 

「――が、まぁ良しとしておいてやろう。余興は甚だ不快に終わったが、最後には私の力になってくれたのだからな」

 

 鍔迫り合いの均衡が傾いだ。弱っているとはいえ、セイバーは間違いなく全力だ。

 

「――くっ! 」

 

 にもかかわらず、それを意に介するまでもなく前進してくる敵はセイバーの矮躯に覆いかぶさるように押しこんでいく。先ほどと同じ展開――いや、それ以上にセイバーは劣勢を強いられている。

 

 これはもう彼女の余力がないというだけには留まらない。この敵の力そのものが、桁違いに強化されているのだ。しかも、これほどの膂力の持ち主は彼女が体験した伝説と三度の聖杯戦争を通しても数えるほどだ。それが彼女とさして変わらぬ体躯のこの女のものだというのなら、これは全く持って絶無の経験だといわざるを得ない。

 

『なにを驚いている? 先ほど説明してやっただろう? アーチャーは既にこの身体の中にいるのだよ。純粋なる私の「力」としてな。今の私はサーヴァント三体分の「力」を持っていることになるのだ――意味が解るな、セイバー?』

 

 セイバーの怒りが臨界にまで差し掛かる。己の誇りに誓って戦い抜いた英霊たちの魂に対する侮蔑だ。爆ぜるように拮抗していた剣を払い、乱舞するかの様な剣打を見舞う。

 

「はああああぁぁ!」

 

『――ところで、知っているか? あらゆる物体には固有振動波数と言うものがある』

 

 迫り来るセイバーの剣をあしらいながら、一泊、距離をとったこの剣士は応じる構えすらも見せずその上剣をアスファルトに突き立て、なんとそこから手を放したのだ。

 

 そのまま近くのビルまで歩み寄ると、無手になったその両手を壁面に当てる。するとビル壁が――否、ビルそのものが何かに踏み潰されたかのように崩れ去ったのである。

 

『――解説してやろう。この世界を満たすあらゆる波動、振動に不協和音を起こすこのがこの異能だ。そして取り込んだサーヴァントによって強化された今ならば、あらゆる物を分子レベルで振動させ内側から粉砕できる』

 

 構わず前進していたせいで粉塵の中で敵を見失ったセイバーの懐に、いきなり無手で現れた黒髪の女は、いきなりセイバーの両手の篭手をつかみ取り、

 

『解かるように、もう少し簡単に言ってやろう――』

 

 そういった途端、女の手が触れた場所からセイバーの身に纏う甲冑が文字通り粉砕されていくではないか!

 

『――このとおりだ。ああ、失敬。言うよりもやって見せたほうが早かったみたいだな。例え相手が霊体であっても、霊子の固有振動数さえわかればこんな無茶も効く。それにしても、いい鋼の音だ。――さあ』

 

 ――次は骨の音を聞くとしよう――

 

「――――ッ!」

 

 砕けた――否、崩れた装甲の隙間を利して女の手を振り払い、セイバーは後退する。しかしそれだけの動作で体がふらついた。装甲の修繕に魔力を使ったことでいよいよ余力がなくなってきたらしい。

 

『――踊ろうか。セイバー』

 

 三度交わされた聖と魔の剣戟が。降りしきる雨の中で煌めいた。

 

 

 

 はしった。何度も転び、そのたびに這いずり回るようにして起き上がり、間髪いれずに走り出した。彼を追い回していたのは恐怖なのだろうか、どこを目指しているのかも解からぬまま走った。ありもしない何かに追い立てられる兎のように恐怖に満たされながら少年は走った。

 

 闇雲に走ったつもりだったが、どうやらまだ新都の中にいるらしい。彼は未だ混乱の中に在った。

 

 ここまで形振り構わず疾風の如く馳せたことで衣服は乱れ、遮るもののない雨粒が総身に降り注ぎ、少年の細い身体を濡らしていく。狼狽と心痛に歪みきっていた表情は今や残らず抜け落ち、雨の中をふらふらと彷徨うその様は幽鬼のようですらあった。

 

 なぜ鞘が? 裏切り? 何で今? キャスターはどうなったのだろうか? 自分はこれからどうすればいい? 

 

 もはや思考することさえもが辛かった。ただ擾乱(じょうらん)した精神をこの雨粒が癒してくれるのを待つことしかできなかった。まともにそれを考えれば自分はおかしくなる。半ばその強迫観念から逃れるようにして彼は思考を止めていた。

 

 そして静止しきれない想いがすぐにテフェリーのことに行き着く、駄目だ。彼女を失えない。だってもう誰もいないのだから、鞘もキャスターも誰も居ない。またひとりになってしまう。駄目だ。いやだ。それは駄目なことなんだ。――

 

 そして、幽鬼のごとく彷徨う少年はその視界の端に、およそ現とは思えない、本物の幽鬼の如き白い影を見つけたのだった。

 

「……テ、テフェリー……?」

 

 その周りには数人の若い男が群がるようにして彼女を取り囲んでいる。男たちは口々にこんなことを言っていた。

 

「ねぇ、あんた一人?」

 

「どしたの? こんな雨ん中で」

 

「ツーか、その足とかどーなってんの?」

 

 テフェリーは応えない。ただぼんやりと空ろな視線を惑わせている。

 

「テフェリーッ」

 

 思わず声をかけていた。一切合財がどうでもよかった。ただ、彼女しか目に入らなかった。駆け寄り、彼女の氷のような手をとって、ようやく震えていた心が落ち着いた。

 

「てふ? なんだって?」

 

「外人なんだ? ハーフ? クォータ?」

 

「ツーか、いきなりなんなんだよ?」

 

 うち一人がカリヨンに詰め寄ってくる。次の瞬間、この三人の男たちは総じて動きと止めた。彼らの目は銀色の紗を描く雨の向こうに芒と輝いた光を見た。するとあれよあれよという間に、彼らの視線はその光のたもとへと吸い寄せられ、鮮烈な熱量を己の眼球の裏側に感じた気がして――ふと、我に返った。

 

 なにが起こったのか、どれほどの時間そうしていたのかもわからず、足許がおぼつかないような気がして、その上妙な心細さも手伝って、三人は眼をうつろに彷徨わせて押し黙ったままだった。

 

「大丈夫?」

 

 小柄な少年が三人を見上げてきた。彼らはそれぞれに自分でもよくわからないような顔をして首を捻りつつも首肯した。

 

 大丈夫。――ではある。が、はて、何かを忘れているような気がするのである。そうしてしきりに首を捻る三人に少年はまた声をかけた。

 

「いいから、もう帰りなよ。()()()()()だ」

 

「……え? マジで? もうそんな時間?」

 

「……どうする。もう帰っか? はやく寝ねぇと……」

 

「……ツーか、ヤベェよ。急ごうぜ」

 

 口々にそう言って、男たちはすごすごと並び立って帰っていった。――

 

 どうやら、うまくいったようだ。カリヨンは冷たい雨に白く煙る息を吐いた。

 

 今彼が使用した異能、それは彼の兄オロシャの異能であった怪異なる眼光による他者への人格改竄能力である。――が、今彼が行ったのはなにも人格そのものを全くの別物に作り変えるといった大仰なものではない。

 

 単に彼らの脳裏に、自らの生活は規則正しく品行方正なものでなければならないという不文律を強烈なイメージとして焼き付けただけだ。 

 

 これで彼等は清く正しく生活することを長年続けてきた習慣のように手放しがたいものだと感じるようになったはずだ。そんな人間がこんな時間に出歩いているというのはひどく落ち着かないことだったのだろう。おかげで素直に帰ってくれた。

 

 少々強引だったかもしれないが、そも、こんな時間に出歩いている時点で彼らは自らの生活を見直す必要に迫られていたことは想像に難くない。彼らが多少真人間になったとしても、それは彼らの更正の助けにこそなれ、害になるものではないはずだ。よって、彼の行為は兄オロシャの行っていた非道とは似て非なるものであろう。

 

 ――とは、思えども。それでもカリヨンの気分は良いものではなかった。

 

 彼は兄から複写したこの異能を出来れば使いたくないと思っていた。それはこの能力の万能性が魔術師の常識と照らし合わせてもなお異常であったからだ。

 

 加えて、兄の異能を使用することで己の内面までもが兄に似通って言ってしまうのではないかという恐れがあった。幼い頃のもっとも古い記憶の中での兄は、確かに人間味の薄い人物だったと思うが、あそこまで壊れた人間ではなかった。 

 

 その変質の最大の理由が魔術師としての鍛錬なのか、課せられた重圧だったのか、生まれ持った素養だったのかは解からない。しかしこの驚異的な異能が兄自身の人間性をあれほどまでに変質させた理由の一端には違いないのだと思った。それほどにこの異能は慎重に使用しなければならないものなのだ。出来れば使いたくない、手放してしまいたいとさえ思う。

 

 だが、ことがことだ。この際そんなこともいっていられない。

 

 カリヨンはすぐさま彼女の身体を抱きとめた。空ろな少女は寝巻きのような衣服しかみにつけておらず、銀色の手足はむき出しのままだった。冷え切った身体は震えていた。このままでは凍えてしまうかもしれない。自分の上着を脱ごうとして始めて自分の格好も大差ない按配だったことに気がついた。はやく、何かテフェリーの身体を温められる手段を見つけないといけない。

 

「テフェリー――、」

 

 不意にテフェリーの身体から力が抜けた。どうやらテフェリーは気を失ってしまったようだった。それを支えながらカリヨンは気付いた。彼女の身体が火のように熱い。

 

 もう、先ほどまで感じていた恐怖も露ほども感じることはなかった。すぐに触れられるところにテフェリーがいる。それで充分だと心から思えた。今は彼女を助けることが彼の総てだった。彼女のおかげで自分のことは後回しに出来た。それは今の彼にとってこの上ない僥倖であった。――

 

 

 

 湿った臭いを含んで、鼻腔が震えた。小さくくしゃみをして、渇きを知った。苦みばしった熱を喉に感じて思わず口に手を添えた。起き上がろうとしたが、ぬらついたような影に足をとられて尻餅をついてしまった。

 

 歩く。まるでぬかるんだ泥の中を進んでいるような気がした。飲み込もうとした空気が飴のように熱く、水気がない。浮かされたように目の奥が熱い。なのに、触覚のないはずの手足がやたらと冷たい。ふらついて、壁に手を着いた。痛くもないはずの指先がちぎれてしまいそうだ。

 

 寒い。これはいつものことだ。でも、いまは頓に、さむい。

 

「テフェリー」

 

「……カリヨン……どうして」

 

 次に彼女の意識が覚醒したとき、そこには見知った人影があった。それがカリヨンなのだと、なぜか彼女には最初からわかっているように感じられた。自身が何故ここにいるのかも解からなかったが、なぜかそれだけはすぐにわかったのだ。

 

「こっちの台詞だよ。どうして一人であんな所にいたんだよ」

 

「……わからない。ただ。声が聞こえて……」

 

 そう、か細い声を漏らして不意に彼女の二色の瞳は虚ろに惑った。無理もない。彼女はまだ高熱にうなされているような状態なのだ。カリヨンは彼女の熱い身体を再び横たえると、彼女の額の汗を拭った。

 

「……いかなくちゃ」

 

「だめだよ。熱があるんだ。こんな格好で外にいたら当たり前じゃないかっ、昔から寒いのは苦手なんだから上着は手放しちゃ駄目じゃないか……」

苦しげに細められた二色の瞳が、僅かに傾いでカリヨンを見つめた。

 

「む、かし、から……?」

 

「……後で話すよ。お願いだから、今は休んで……」

 

 何かを思い出しそうになった意識は、しかし途端に霞のようになって霧散してしまい、消え去ってしまった。変わりに耳には声が聞こえる。あの優しい声が聞こえてくるのだ。

 

「……聞こえる」

 

「テフェリー……」

 

「行かなくちゃ……行かせて」

 

 カリヨンが引きとめようとしても無駄だった。彼女はカリヨンの言葉にはまるで耳を貸さず、何かに引き起こされるように立ち上がった。そしてふらふらと歩き出してしまう。にもかかわらず、意識のほうはまたすぐに混濁し始めたようで、ただ、うわごとのように繰り返すのみであった。

 

「……なら、僕も行く――僕も、一緒に、行くから……」

 

 テフェリーはその言葉に虚ろに反応した。

 

「い……っしょ、に……?」

 

「そう、いっしょにだ。僕が一緒だから、大丈夫だからね」

 

「……うん、行こう、……ありがとう。カリ……ヨン……」

 

 焦点の定まらない瞳で彼女はうわごとのように繰り返す。彼女は覚えているのだろうか、あのときのことを。こうして二人で手を取り合い、一緒に行こうとしたあのときのことを。

 

 何かが胸に溢れるような気がした。決意は固まった。そうだ。恐れることはない。先ほどはいきなりのことに混乱してしまったかもしれないが、今の自分には力があるのだ。テフェリーを助けて、キャスターを助ける。彼女がまだ消滅していないことはパスを通してわかるのだ。

 

 そして――鞘は、彼女がもう一度彼の前に敵意をもって現れるのなら、そのときはいま一度この眼光によって鞘の人格を操作することも厭わない。少なくとも、殺さなくて済むだけマシだとは思うからだ。

 

 不安要素は尽きなかったが、カリヨンは己を無理にでも克己させた。そうでもしなければ、動き出すことが出来なかった。それに、もはや彼女の元意外に自分が向かうべき場所などないように思われたのも、まぎれもない事実だ。

 

 あの日、出来なかったことをするのだ。あの日、護れなかった約束を、今度こそ守るのだ。「大丈夫だよ」と繰り返したその言葉を、今度こそ嘘にしてしまわないように。

 

 勢いを強めた雨空を睨みながら、二人は寄り添うようにしてそこを目指した。

 

 

 ――嗚呼、しかし、而して運命はこのとき、既に秒読みを始めていたのだ。流転する運命は加速ではなく、そのとき止めようもなく集束し始めていたのだ。

 

 行かなければ、向かわなければそれは避けられた運命だったのかもしれない。だが、彼らには引き返す道などなかったのだ。いったいいつから? もしかしたら、最初から、彼らにはこの道を進む以外の選択肢が用意されていなかったのかもしれない。

 

 小鳥のように身を寄せ合った二人は、ただ前だけを見据えて進んでいく。未来を諦めないために歩むその道が、既に剪定された袋小路であったことなど、知る由もなく。――

 


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