Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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五章 高位受容「ノエマ・フィードバック」-2

 シンと深まった夜の闇の中、静まり返った住宅街を歩み行く影がひとつ。――孤陰。

 

 それは一人、声もなく己に囁く。――ようやく、傷が塞がった。しかし以前に比べて傷の直りが遅い。おそらくは強化されたはずの再生力が崩壊の速度に追いついていないのだろう。残された時間は、もう多くはない――

 

 目指すはこの住宅地で一番高い場所にある魔術師の居城。この地の管理人である遠坂の邸宅である。この地を管理する魔術師の工房だから、諜報するまでもなく場所は知れていた。

 

 先の潜伏先はすでに(もぬけ)の殻だった。手負いの鼠は己がもっとも安心できる穴倉の深奥に居を求めるものだ。

 

 隠匿性の薄れた根城を放棄したとなれば、やつらの次なる居城はより堅固で護りに易い場所を選ぶはず。ならば、それはこの遠坂邸を置いて他にはありえないだろう。

 

 秋終の空を下る落日の赤い影のような速度で、暗がりの陰翳と成り果てた男は殊更に薄暗い坂を駆け上がっていく。しかし――何故か、いつまでたっての住宅地の路地を抜けることが出来ない。

 

 気がつけば坂の上を目指して上っていたはずの足が、いつの間にか道を下っているのだ。彼はそこでようやく、辺りに立ち込める異様な殺気と魔の気配に気がついたのだった。

 

 そのとき背後から飛来した矢が彼の頬を掠った。矢は次から次へと降り注ぐ。

 

 射手の姿は見受けられなかったが、身を翻した怪人はすぐさま矢の向かってきた方角へ、懐から取り出した短躯の特殊警棒を畳んだ状態のまま弾丸の如く「射出」した。しかし、手ごたえは――無い。

 

 彼は疾走した。敵の姿が補足出来ない以上、いつまでもこの場にとどまっているべきではない。なによりも、彼には時間が残されていないのだ。故に、加速する。一気にトップスピードまで。

 

 ――しかし、瞬時に数キロメートルは移動したはずなのにもかかわらず、目的地には依然として辿り着くことができていない。そして飛矢はまたしても彼の身体を正確に捕らえて殺到するのだ。

 

 おかしい。いったい、これはどうしたことだというのか――。

 

「そうか、これはッ!」

 

 彼はようやく理解した。己が誘い込まれたこの罠が、いかに致命的で完成された構造を誇るものなのかを。これは遁甲の術に違いない! 音に聞こえる東洋魔術、『奇門遁甲』か!

 

 さらに厳密に語るならば、これは一般に「縮地法」と呼ばれる東洋魔術であると推察された。縮地法とは、地脈を縮め千里の距離をも自らの手前に引き寄せ、また逆に一歩に満たぬ距離を万里の彼方へと引き伸ばすこのとのできる秘儀である。

 

 古代中国において幾多の戦絵巻の中に語られる恐るべき東洋魔術(オリエンタル・マジック)の一つであり、このように比較的に大きく世に知れ渡っている魔術ではあるが、その難易度は高く現代においては完全に操れる術者は多くない。

 

 ワイアッド・ワーロック! 以前、彼の老翁がこの怪人と演じた高速戦闘時に見せた怪異なる歩法。あれもこの遁甲術の応用であったのだ。

 

 長く魔道の血を継承してきた西洋魔術の雄でありながら、広大な東洋魔術の知識をも持ち合わせる特級の魔術師。こんな芸当をやってのけるのはヤツしかいない! おのれ、ここに来て厄介な真似を!

 

 忘却しかけていたはずの往年の憎悪に再び火を入れるようにして、噛み締めた奥歯を軋らせながら、D・Dはさらに地を馳せる。しかしその疾駆は再び徒労に終わり、三度飛来する矢はその数を増していく。

 

 そのとき、いきなり門が見えた。何処から来るのかも知れない狙撃に追い立てられながら、咄嗟に門の中に身体をねじ込んだ。しかしその先にあったのは目指すべき遠坂の邸宅ではなく、巨石が乱立する異様な光景であった。

 

 そのとき、眼前の光景に芒と立ち尽くす暇すら在らず、今度は前方から歪み輝く光弾が襲ってきた。同時に後ろからはまた矢が飛んでくる。射手は二人。

 

 そうして幾度かの水を掻く様な反撃も功を奏することなく、闇雲に馳せるうちに、やがて乱立していた筈の巨石は、いつの間にか広大な石垣となって彼の周囲四方八方を取り囲んでいたのである。

 

 退路どころか方位すら判然としない。これではまるで迷宮に迷い込んだようではないか。そう、それはさながらギリシャ神話に伝えられる、クレタ島の地下迷宮(ラビュリントス)を想わせるものであった。

 

 直上にのみ垣間見る、暗鬱な空の色と物言わぬ巨石の隅のしじまが、否応なしにそんな気配で彼を包む。

 

 そして進んだ先に広間が現れた。その分厚い暗闇に包み込まれた中央、円環を描き居並ぶ石柱のちょうど中間で、彼は立ち往生を余儀なくされた。

 

 これは――そうか! ここでようやく、怪人は己を飲み込んだ悪辣なる魔術の全貌を察したのである。

 

 「八陣の図」! これはかの「三国志演義」にも語られた古代中国の遁甲術の奥義とでも言うべき秘術である。

 

 陰陽二気の動きに応じて行方を晦まし、敵を誘い込む。天の九星、地の八卦に助けを借りる特上の方位魔術の傑作。

 

 彼を取り囲む石柱の間には、いつの間にか八つの開け放たれた門が見える。それこそが八門。即ち開門、休門、生門、傷門、杜門、景門、死門、驚門である。

 

 死門に入れば死ぬ。「死」は文字通りの即死だ。

 

 驚門に入れば精神を破壊される。「驚」は発狂の意を表す。

 

 杜門に入れば長く引き延ばされた森で足止めされる。「杜」は森を意味する。

 

 誘い込まれた開門はすでに閉ざされ、そして、たとえ休門や景門に入れたとしても、目的地には辿り着けず堂々巡りをさせられるのは必至だ。

 

 どうにかして生門を探し出さなければならない。いや、おそらくはたとえ生門を見つけられてもそこには別の罠があるに違いない……。

 

 相も変わらず、後ろからは矢の速射。前からは魔弾の雨が迫る。この上は進むしか道はない。だが、どうすればいい――?

 

 

 

 遠坂凛は自宅の屋根に上がり、庭で結界に囚われた怪人の動向をつぶさに観察していた。手にはいくつかの小石が握られている。それはしかし自前の宝石ではなく、魔術的に加工された天然磁石(ロードストーン)の礫であった。

 

 これは彼女のガンドを強化するための魔器ではなく、彼女の標準の甘さを補正する目的でワイアッドから渡されたものだった。彼女はあらためて手の中のそれに視線を落とし、

 

「……まあ、役に立ってるから仕方ないけどね」

 

 と、それでもどこか釈然としない面持ちで漏らしながら、ふたたびガンドを放つ。本来ならばこの距離では狙いなどつけられず、より広域へ目掛けて雨のような連射を放つしかないのだが、今彼女の指先にそって放たれる魔弾はまるで引き寄せられるように標的に向かっていく。

 

 幾分癪ではあったが、これは確かに使い勝手の良いモノだ。しかし――

 

「にしても、とんだガーデニングになっちゃったわね……」

 

 そう、口に出してみても、やはりこの惨状は目に余るものだった。歴代の遠坂の象徴であったはずの邸宅の庭には今や身の丈を越すような巨石が乱立し、まさしく岩石の森とでも言うような様相を呈していたのだった。敵を完全に包囲するための措置とはいえ、やはり直視に耐えるものではない。

 

 とはいえ、そうそう恨み言を漏らす気にもなれなかった。それらを差し引いてもその手際には感嘆の声もないのは事実だったからだ。奇門遁甲。聞きしに勝る高等魔術ではあるが、目にしたのはこれがはじめてであった。

 

 まさかここまで完成度の高い陣を敷いて見せるものが西洋魔術師の中に居ようとは、さすがに予想していなかった。さすがは時計塔きっての地属性魔術(アースクラフト)の使い手である。

 

 敵の後ろに回りこんだ士郎との挟撃もうまくいっているし、それに、いくら強いといってもあいつはサーヴァントそのものじゃない、通常攻撃でも徐々にダメージを与えることは出来る。

 

 それに、みたところあの怪人はここに来る前からだいぶ消耗していたようにも見える。このままいければ――。

 

 勝機を確信し始めたそのとき、泣き出しそうだった空がついに覆う粒の涙を流しはじめた。

 

「セイバー……」

 

 雨の袂を仰いだ彼女は呟き、あらためて己の右手首に残る令呪へ視線を落とした。この怪異なる聖杯戦争の再開に際して再装填された三画の令呪はすでに残り一つとなっている。

 

 精神的負荷による深い眠りからさめた彼女は、セイバーの不在を知るや否やすぐに令呪による強制召喚を行っていた。しかし、何らかの要因によりそれは不発に終わってしまったのだ。

 

 どうやら、セイバーは現時点において自身の能力では抜けだすことの出来ない何らかの特異閉鎖空間に囚われているということらしい。

 

 凛も案じてはいたのだが、それは同時にセイバーが確かに生きているのだということの証明でもある。この敵を下したなら、速やかに捜索に向かうということになっていた。

 

「――急がなきゃね」

 

 そう言って、彼女は再び魔弾の照準を合わせた。

 

 

 

 

 新都を中心に群がる、空を埋め尽くさんばかりの怪魔の群。オレンジの光に包まれた魔の波涛。それはまるで夕焼けの再来のようにも思われた。

 

 堰止められた地脈からは膨大な魔力が溢れ出し、次第に魔なる輪を形作った。見よ! 冬木新都一帯を取り囲むこの広大なる魔の円環を!

 

 そこに引き寄せられるように、今もこの冬木の各所からは噴き出してくる蒸気の如き靄のようなものが見えるのだ。

 

 はるか彼方の空からだけではない。海から、山から、河から、森から、そして人の住まう民家の其処彼処から、妖しいオレンジ色の光に包まれたそれらはまるで際限など無いかのごとく次から次へと湧いて出てくる。

 

 異形・怨霊・悪鬼・悪霊・魑魅魍魎・魔物・餓鬼・妖魔・鬼・悪魔・etc・etc……ありとあらゆる魔性化生の類が街中から湯気を噴くかのごとく湧き出してきているのだ。その数たるや幾百、幾千、いや幾万にもなろうか、とても数えられるような数ではない。

 

 その内側に入り込んで来る魔の者どもは、もはや虚ろな幽鬼の類ではなかった。円の中心に近づくにつれ、それらは次第に確固とした質量を獲得し始めていたのだ。

 

 見えず、聞こえず、匂わない。しかしそこには間違いなく触れられない何かがいる。町全体がそれに覆われていく。新都はいままさに伏魔の坩堝と化していたのだ。そこは常人にはとても正視に堪えるものではなかったであろう。

 

 網に捕らえられた魔の群は、木枯らしの如く身を震わせて戦慄き、蠕動し始めた。

 

 実体を獲得したそれらは、もはや魔を執り行う狂気の祭司でしかない。もしもこのままこれらを野に放つこととなれば、この地に住まう住民はものの一時間で死滅し、死都と成り果てたこの場所で、新たなる死霊怨霊となってそれらに取り込まれることになるだろう。

 

 しかし幸いなことに、大半の人々はそれに気付いてすらいなかった。彼等は今や街中に溢れ返っていた魔物や死霊の群を知覚することが叶わなかった。

 

 一度円の内側に入ったそれらは確かな実体を獲得していたが、それらの魔物がいくら粘液でぬらつく手を伸ばし、どんな耳障りな絶叫をその喉からかき鳴らしても、住人たちはそれに気付かないのである。

 

 その円環は現実とはズレていたのだ。その円に連なり、一見してオレンジの夜光に濡れ光るその魔物たちは、確かな実体を獲得したにもかかわらず現実に触れられないのである。

 

 彼らが闇の中に見つけて摺り寄った灯籠の光芒は、その実それらをおびき寄せて二度と外に出すことのない網だったのだ。

 

 そこに足を踏み入れたが最後、それらは二度と現実の触れることがかなわないのだ。

 

 内側に押し留められた魔の群はそれを知ってかしらずか、発狂したように叫び狂いはじめ、踊りまわり、共に相食いあい、次第に溶け混じりあっていった。

 

 それゆえに、この魔物たちが胎動にも似た蠕動を始めたその円環とともに一斉に姿を掻き消したことを、知る人間はいなかった。

 

 それらは誰にも知られることなく、まるで踏みしめるべき大地を突如として失ったかのように、一斉に此処ではない何処かへと()()()行ったのだ。

 

 そして同時刻、この冬木と言う土地に存在していた条理ならざる者たち、あらゆる御霊たちもが同様にその姿を消したのだ。悪霊も怨霊も神霊も――そして今この地に現界していたはずの英霊たちも、例外ではなかったのだ。

 

 

 一瞬、身体が浮き上がるような感覚があって、セイバーの意識は冷や水を浴びせかけられたかの様に覚醒した。否、その唐突な浮遊感は浮き上がる、飛ばされると言うよりは、まるで底のない流砂か底なし沼にゆっくりと飲み込まれ、深く、深く落ち込んでいくような感覚だった。

 

 不快で、言いようのない危機感を伴う感触だった。

 

「ここは……」

 

 何処なのだろうか?

 

 格好――裸である。身体に纏っているのは毛布だけだ。しかし見れば元から着ていた衣服は几帳面に折り畳まれて枕元に置かれていた。

 

 ぼやける視界を押して周囲の空間を探る。あたりは既に闇の色をしており、セイバーの感覚を持ってもすぐには状況を探れない。

 

 取り敢えずは家屋の中。広い空間だった。おそらくは倉庫のような場所だ。御覧の通りの有様だが、行動を制限するようなものはなにもない。どうやら軟禁されているわけではないようだ。

 

 しかし記憶が曖昧なために思考がはっきりしない。ともかく自分は助けられたらしい。しかし、いったい誰に?

 

 そも、なぜ自分はこんな処に居るのだろうか? 確か、海洋上でアーチャーと闘い、そして――――敗れた。の、だろうか?

 

 それすらもが判然としない。だがセイバーは敢えてかぶりを振る。敵を前にして意識を失い、死に体になった以上、なんと言ってみたところでそれは敗北に違いない。

 

 誇り高き高潔の騎士王は、しばし無念の自責に歯噛みした。敗戦は屈辱だ。真っ向からの力勝負。どんな言い訳も効かない敗戦。しかし何より、アーチャーに対しての申し訳の立たないことが、彼女の無念を累積させる。

 

 己は約束を違えた。挑んで来いとまで言い放っておきながらのこの体たらく、なんと無様な――。

 

「気がついたか、騎士王」

 

 巌のように硬く、厳格そうな声は倉庫の出入り口付近から聞こえてきた。アーチャー――化身王だ。姿は見えないので倉庫の外から声をかけているらしい。

 

「ならば急ぎ、身支度を整えて来るがいい」

 

 声は、白い肩を晒したままのセイバーにそう告げる。セイバーは手早く衣服を身につけ、遠ざかろうとする気配の後を追って外へ出た。

 

 そのとき、視界の隅に否応なしに入り込んできた尋常ならざる光景に、セイバーは凝然として見入った。

 

 どこなのだ。ここは?

 

 セイバーが思わずそう洩らしかけたのも、無理からぬことであった。それほどに、そこは奇異な空間であった。町並みは確かに見覚えのある冬木市新都のものだ。しかし今この空間にある総てのものが、現実味のない白一色で染まっている。そしてその無味乾燥な世界には、ただひとつの命の気配もないのだ。

 

 何らかの不吉な異変を感じ、セイバーもすぐに甲冑を纏う。幸い、凛からの魔力供給は滞りなく続いており、全快とは行かないまでも通常戦闘の一度くらいはこなせる程度には回復している。どうやら丸一日近く意識を失っていたようだ。

 

 脇について歩くセイバーに先んじながら、まずはアーチャーが背中で声を掛けてきた。

 

「……諸処の狼藉については許されよ。霊体化できぬ其処許を休ませるには仕方のないことであった」

 

 一瞬何のことかと訝ったセイバーだが、しばしの逡巡の後、几帳面に折り畳まれた衣装のことに思い至った。セイバーは憮然として言葉を返す。

 

「そのような気遣いは無用だ。……しかしこの空間はなんなのだ。そして……」

 

「この場所が何処なのかは、某にも解からぬ。今しがた、何の前触れもなくここに引き込まれたようだ」

 

 状況に対する危機感が増して行く。どうやら、これはアーチャーの仕業ではないらしい。

 

 沈黙。――は、長くは続かず、今度はそれを押しのけるようにセイバーのほうから声を切り出した。

 

「……許せ、化身王」

 

「なにを詫びる?」

 

「私は約束を違えた。斬られたければ全力で向かって来い、など嘯いておきながら、いざ挑まれてみれば私の剣は貴方に届いてすらいなかった……欺いたも同然だ」

 

 そう言ってふたたび恥じ入るように無念を噛み殺すセイバーに、しかしアーチャーはどこか晴れ渡ったような表情さえ見せて振り返り、告げた。

 

「左様なことはない。其処許の剣は届いたとも。この愚王の心にな」

 

 しかし、セイバーは眉根を寄せて、アーチャーに濡れた刃のような声を返す。

 

「……敗者に慰めの言葉でも送るつもりか?」

 

「そうではない。先の勝負。あれは、――某の負けである」

 

 ギシリ、とセイバーの気配が軋りを上げた。

 

「なにを言うッ……それは侮辱だぞ! 化身王ッ!」

 

 声を荒げたセイバーに、しかしアーチャーは静かな視線を返すばかりだ。

 

「あの時、あの一射を終えた某には、もう余力は残っていなかった」

 

「それでもッ――――私は今の今まで気を失っていた。先に眼を覚ましていたのなら、この細首を折るくらいのことは出来たはず、それを」

 

「左様な勝利に何の意味がある?」

 

「――――ッ」

 

 思考に寄らず、セイバーはその言葉に頷かされた。死に体となった敵に這いより、形振り構わずに止めを刺す。――確かに、それは英霊の成すべき闘争ではない。彼女たちが望んだ決着の形ではない。

 

「……ならば、再戦をッ」

 

 しかし、それでもセイバーは食い下がるように詰め寄った。

 

「我らはいま一度雌雄を決さねばならないのではないか? このような有り様で勝利などと言われても、私はそれを承諾できない……」

 

 切歯するような表情さえ浮かべるセイバーに、しかしアーチャーは実にこの男らしくない、何か含むところでもあるかのような微笑を浮かべた。

 

「なんだ……化身王、なにがおかしい?」

 

 それがどういう意味なのか判じかねたセイバーはまた憮然として眉根を寄せた。

 

「其処許は……いや、良い。兎角、その申し出には応えられん」

 

「なぜだ」

 

 アーチャーは不意に己が腕を手を差し出し、それをセイバーの眼前に掲げて見せた。

 

「……!」

 

 その巌の如き筈の手には、まったくと言っていいほど実体感がなかった。アーチャーの身体は既に消滅しかけている。先ほどから感じていた、どこかおぼろげな違和感はそういうことだったのだ。

 

 アーチャーのサーヴァントに等しく与えられるクラススキル「単独行動」はマスターからの魔力供給を断っても暫くの間活動できるという能力だが、アーチャーはそのスキルによって今まで現界してきたのである。

 

 マスターのいない状態であれほどの戦闘に耐えられたことが、この男の英霊としての凄まじさを物語る。しかしそれも既に費えようとしている。二度にわたるセイバーとの戦闘で、既にアーチャーの持つ魔力は枯渇しかかっていたのだ。

 

「この身はマスターを失ったサーヴァント。故にあの一射を防がれた時点で某の負けは決していたのだ。正直、あの一投を凌ぐ者が地上に在ろうとは思わなかった」

 

「……しかし」

 

 釈然とせぬ面持ちを露にしたセイバーがもう一度何事かを呟こうとしたとき、先に歩を進めていたアーチャーが脚を止めて振り返った。

 

「見えたぞ」

 

 それが何を指すのかも解からぬまま駆け寄ったセイバーは、それを見て眦を開いた。

 

「アレは……」

 

 白く染まった空の、そこだけに何か――黒い穴のようなものが見えた。ちょうど新都センタービルの屋上の辺りに、黒い奈落のようにも見える、丸い歪みとでも言うべきものが見えるのだ。

 

「どの方角から見てみてもアレはあそこにあるように見える。あれがなんだか解かるか、騎士王」

 

「……」

 

 見当もつかなかった。察したアーチャーは言葉を続ける。

 

「おそらくは、あれがこの空間からの出口ということなのだろう」

 

「では、この空間は人為的に作られた檻のようなもので、出たければあの場所を目指せばいい、ということか? しかし、何の意味が……」

 

 そのとき、二人のサーヴァント達は同時にそれに気付いた。

 

「これが我らを陥れるための罠なのだとしたら、」

 

 何かが近づいてくる。生き物ではない。命を持たぬ何かだ。

 

「当然、易々とあそこへは辿り着けぬ、ということであろうな」

 

 そしてセイバーは再度気付いた。白一色であるはずのこの世界に、黒く蠢く何者かの存在があったことに。

 

 眇め見た白亜の高層ビルに掛かるモノトーンの陰翳に、何かが揺らぎ蠢いたのだ。しかし視界の端に垣間見えたそれはすぐに見えなくなった。セイバーはその大きな眼をさらに凝らして、その粘つくような陰翳を見つめた。

 

 すると、それはまるで風に靡いたようにざわめいたではないか。それも、センタービルだけではない。新都一帯に蟠った影が、町並みの陰翳が蠢いている。いや、あれは、影ではない。あの異様な漆黒は影などではないのだ。

 

 奴らは最初からそこにいたのだ。影のようにそこ等中に潜み蟠って、彼らを待っていたのだ。あれは魔だ。魔の群だ。まるで地表を黒い絨毯の如く埋め尽くす蟻の大群の如く、セイバービルそのものに群がる膨大な数の魔物、化生、怪魔の群。

 

 それが互いに闘いむさぼりあって、互いを取り込み、取り込まれて混ざり合っているのだ。

 

 なんという、奇怪にしておぞましき光景であろうか。

 

 そして不意に、近場の物陰から何かが飛び出してきた。黒く、しかし斑で、大きく歪な獣のような怪魔であった。

 

 咄嗟に閃いたセイバーの不可視の剣閃が巨大な汚濁を両断する。――が、それでも異形は止まらない。それは命を持たぬ死霊なのだ。

 

 返す刀でセイバーは連撃を見舞う。一切の制動を伴わぬ連撃が、切り裂かれた怪魔を文字通り粉砕した。何ほどの手ごたえも無い。まるで泥人形でも切りつけたような感触だった。

 

 もはや考えるまでもないことだった。この木偶はあの蟠りの末端だ。あそこにはこの影の如き魔物が幾千、幾万もの群となって蠢いているのだ。

 

 二人の王は、ようやくこの罠の悪辣なルールを理解した。この世界から外に出たければ、この空間に落としめられた総ての魔を駆逐し、適者生存の法に則り、最後の一人となってあの穴から外に出なければならないのだ。

 

 その悪辣さにセイバーは柳眉(りゅうび)を顰めた。アーチャーも空を仰いで虚のような天蓋の穴を見上げる。

 

「……どうやら、突き進むしか道はないようだな」

 

 そう言っている間にも魔物は波打つようにして寄り集まってくる。それらは四方から二人を飲み込もうと集まってくるのだ。まるで灯籠に招きよせられる羽虫の如く、このモノトーンの世界に闊歩していた怨霊、悪霊、魑魅魍魎が群を成して、否、鎌首をもたげた無限とさえ見える魔の団塊と化し、雪崩うって威光を放つ英霊たちへ殺到してくるのだ。

 

「あのビルの屋上までだ。いけるか化身王」

 

「雑作もあるまい。――が、こやつらは泥になってからが厄介なようだな」

 

「――――ッ」

 

 アーチャーの視線の先にはセイバーに切り捨てられ、四散した筈の魔の破片がその身をどす黒い霧のような、はたまた汚泥のようなものに変じさせてへばり付いていた。

 

 セイバーの身体の隅に纏わりついているそれらは、幾ら振り払っても無駄なようだった。それどころか、気を抜くと自分とその霧が溶けて交じり合うような錯覚を覚える。

 

 否、それは果たして本当に錯覚なのか? 直感的なおぞましさがセイバーの直感に言い知れぬ警鐘を鳴らし始めていた。

 

 

 ――このとき、この地には冬木市新都が〝二つ〟あったのだ。

 

 かの魔女――キャスターが擁していた必勝の策とは、規模的にも難易度的にも破格のものであった。彼女は街の全景を把握し地脈の要点を抑え、それと全く同じ形の、そして僅かに位相を異する空間を作り上げたのだ。

 

 それは今宵限りの騒乱の庭に他ならない。アインツベルンの一室に設えられていた冬木市の精巧な模型は、このための設計図に過ぎなかったのだ! 

 

 今宵この冬木新都という場所は人ではなく、魔のために据えられた祭壇に他ならなかった。

 

 現実の世界とは位相を異にする虚数領域。そこに据えられた冬木市新都それ自体の二重存在。その入れ物にある条件を満たしたものだけが無条件で取り込まれていったのだ。

 

 その条件とはひとつ。即ち実体を持ちえる霊体である。その種別は問わない。悪霊であれ、怨霊であれ、神霊であれ、そして英霊であれ、それは変わらないのだ。

 

 これは『蠱毒』と呼ばれる東洋魔術の亜種であろうと見受けられた。

 

 蠱毒とは中国で発達し、古来日本でも盛んに用いられた東洋魔術(オリエンタル・マジック)の一種である。その効果と様式は聖杯戦争との類似も多い。否。その実、聖杯戦争とは英霊を用いた規格外の『蠱』に他ならないと言える。

 

 英霊を召喚し、戦わせ、殺し合わせることで得た英霊七人分の力を使い『根源』へ至ろうとする儀式、それこそが聖杯戦争の正体なのだ。

 

 故にその術式の利を逆手に取ったキャスターは『蠱』を行う『入れ物』であるこの冬木という街の中に、もうひとつの小さな容器を作り出し、己以外のサーヴァントを一手に潰し合わせるつもりなのだ。

 

 

 セイバーは臍を噛むような思いに囚われる。彼女がいくら高い戦闘能力を発揮しようと、ここからの脱出にはまるで無意味なのだ。さりとて、戦いをやめようとしてもこの怨霊の大波が彼女をさらい。その圧倒的な物量で意識を押し潰し分解してしまうだろう。

 

 二人の王英霊たちが絶望的な闘いに身を投じていた頃。ふたたび静けさを取り戻した現実の冬木新都は、未だ安穏とした夜を装っていた。ただ、空間を異にした場所で起こる胎動が、微かな波動となって魔を解する者達の耳朶に届くのみであった。

 

 

 


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