Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-8

 人気の失せたビル群はまるで巨大な墓石のように聳え、それらが作り出す影の峰は、暗鬱な夜に染む街を殊更に深い闇で包みこんでいる。吹き荒れているはずの旋風さえもが、まるで口を噤んでいるかのように重苦しくうねり流れていく。

 

 テフェリーとカリヨンは新都駅前近辺のビル群の上を跳躍しながら、目的の場所を目指していた。その弛緩したかのような静寂の中を馳せる二人の間には、しかしそれとはまた異質な沈黙が横たわっていた。

 

 交わされる声は無く、視線は互いの瞳を捉えることもない。耳には時たま擦れたような風の音だけがむなしく響いていくだけであった。

 

 前に向かう足は止まることはない。背後からにじり寄ってくるような怪物じみた重圧(プレッシャー)は依然として消えることはない。一刻も早くあの男から逃れなければならないことには変わりない。

 

 だが、逃亡者の心は虚ろであった。

 

 吹き付けてくる向かい風に眼を眇めながら、カリヨンは唯でさえもどかしい思いをなお持て余すことしか出来なかった。

 

 こんなにも――彼女が近くにいるというのに。

 

 伝えなければならならないことはあった。彼がテフェリーを探していたのはそのためだ。それを伝えて、危機を回避させるために、彼は一人彼女の元に向かったのだ。

 

 しかし彼がそれを伝える前に、その元凶であるあの怪人は彼らの前に現れてしまった。なんて間抜けなのだろう。彼女に会えただけで、大元の目的を失念するなんて……

 

 あの男はすぐに追ってくるだろうか。あのエミヤとか言う日本人はどうするつもりなのだろうか、この国の魔術師のようだったがテフェリーとはどのような間柄なのだろうか。

 

 あれから、あの時から彼女がどうしていたのか、これまでの八年間をどうしていたのか。尋ねたいことは、掛けたい声はいくらでもあるのだ。

 

 しかしそこまで考えて、やはり彼の喉からは一つの言葉も生まれてはこない。

 

 それはきっと、逆に問い返されたら困るからだ。彼自身、これまでのことを話したいとは思わなかった。己の過去に誇れるようなことなど、何ひとつなかったのだから。

 

 しかしそれでも問わなければならないとも思えた。問う必要があった。問いたかった。それでもまた彼女と話がしたかった――だが、自分は問うて、その後どうするというのだろうか? 今度こそ、彼女を守るとでも言うつもりだろうか?

 

 ついさっきまで、あの男を前にして動くことも出来なったくせに――。

 

 

 テフェリーもまた、この少年に問いたいと思うことはあった。「あのとき」とはいつのことなのか。彼が自分にとってなんだったのか、己にとって彼がなんだったのか。以前の自分という人間は、いったい何者だったのか。

 

 己の過去を知る者が居るというなら、率直にそれを訪ねたいと思う。

 

 しかし、今の彼女にはそれ以上に余裕というものがまるで無かった。己の過去を知りたいと思わないわけではない。ただ、それは今ではないのだ。今、彼女が見据えるべきは過去ではない。そう、彼女は今、未来のために馳せているのだから。

 

 だから――今は何も言わないで欲しかった。今それを聞いたとしても、きっとどうすることも出来ないのだから。どう応えることも出来ないのだから。

 

「テフェリー……」

 

 そのすがるような想いとは裏腹に、沈黙を破って掛けられようとした声は、しかし突如として彼らの頭上から降り注いだ閃光の雨によって遮られた。

 

 二人は咄嗟にそれを回避したが、天空より無数に打ち付けてくる雹塊の如き閃光の弾雨は、逃げ場のない雑居ビルの屋上へ蟻の通る隙間さえ無いほどに降り注ぐ。

 

 テフェリーはこの唐突な事態にも惑うことなく、蒼い光の雨を避けながら細い裏路地へとその身をねじ込んだ。カリヨンも申し合わせていたかのようにそれに続く。

 

 彼女のような実地の戦闘経験などまったく持ち合わせていない彼だが、セイバーから模写した「直感」のスキルがこの危機的状況に際して機能し、次なる行動の是非を示したのだ。

 

 だが彼はその異能を未だ十全に使いこなしているとは言えなかった。屋上から路地裏に身を躍らせた彼らを、地の底から沸き上がるかのような紫電の光が出迎えた。それはまるで地表に奔る電光の網であった。

 

 虚空では、もはや回避もままならない。先の閃光の正射は、ここに二人を誘い込む意図をもって照射されたものだったのだ。カリヨンは一刹那のうちにそれを悟り、息を呑んで身を強張らせた。

 

 しかしその身体が電流の刃にさらされることは無かった。二人の身体は銀色の網によって宙空に押し留められていたのだ。それはテフェリーの鋼糸であった。彼女は隣接するビル壁の間に、己が銀色の四肢を張り巡らして即席の足場を作っていたのだ。

 

 標的を妬き焦がすことの叶わなかった紫電の網は四方に向けて地を馳せ、暗い路地裏の闇間を仄明るく照らし出した。

 

 それは宙空と地表で平面的に向かい合う銀色と紫電の巨大な蜘蛛の巣が、妖しく光り輝く奇怪な光景を夢想させた。

 

 そして、その紫電光の照らし出す蜘蛛の巣の中心に見た、黒いローブの老人の姿にテフェリーは驚愕のあまりに眼を見開いた。

 

 そこに居たのは、彼女たちが今救出に向かっていたはずのワイアッド・ワーロックその人だったからである。

 

「マスターッ!? ……どうして、」

 

「テフェリー、上だ!」

 

 テフェリーが呆然と声を上ずらせるより先に、頭上からはまたもや蒼い閃光の弾雨が降り注いだ。

 

 咄嗟に見上げた先の視界に飛び込んできたのは、目も醒めるような真蒼の影であった。

 

「トオ……サカ、さま?」

 

 うめくような声を漏らしていたのは、またしてもテフェリーだった。見上げれば、そこには歪むような蒼暗色の衣で総身を包み込んだ遠坂凛の姿があったのだ。

 

 生気の失せた頬は妖艶に蒼ざめ、白い四肢と逆巻くような黒髪は闇中に溶け入り混じるかのようだ。人形じみた艶やかな身体を包むのは幽鬼の纏うかのような、古風な型のドレスである。

 

 その瞼も、爪も、唇も――否、滴る吐息、またその身が纏う影ですらもが、全て異様なほどに真蒼に飾られているのである。

 

 そして蒼い薔薇の如きその口元が浮かべるのは、とても壮健快活な彼女のものとは思われない、残忍にして白痴めいた狂笑だ。

 

 なぜ昨夜から連絡を絶っていたはずの彼女がワイアッドと一緒にいたのか? どうして彼女らが自分たちを待ち受けていたかのように挟撃しているのか。あまりにも不可解な事態だった。さしものテフェリーも、これには狼狽の色を隠せない。

 

「まさか、マインドコントロールの魔術を受けて……? ……しかし」

 

 考えるほどに、彼女の当惑は極まる。それはこの二人がどれほどの魔術師なのかを知るがゆえであった。彼らほどの魔術師を意のままに操るなどキャスターのサーヴァントでも、そう簡単にできることではないはずだ。

 

「いや、そうじゃない」

 

 だが、カリヨンがそれを否定した。彼にはこの状況の意味が解かりかけてきていたのだ。だが、にもかかわらずその表情は悲痛でさえであった。

 

 それはこの状態が彼らの想像を遥かに超えて残忍で、ひどくおぞましい所業によって成されたことを察したからであった。

 

「いるのでしょう、兄上!」

 

 いまだ見出せぬ暗闇の向こうで薄ら笑っているはずの相手を、カリヨンは一喝した。

 

「……やあ、よく来たねカリヨン」

 

 するとワイアッドの真後ろの暗がりがら白い能面のような貌が現れ、にこやかに微笑みながら、晴れやかな声を語る。

 

「――貴様ッ! サンガールの次兄、オロシャ・ド・サンガール!」

 

 ようやく知りえた怨敵の素性に、テフェリーも火のような敵意を露にした。

 

「よくご存知で。はじめましてワーロックの使用人さん」

 

 それを涼風にでもふかれるような微笑で受け流し、オロシャは手を掲げた。すると二人の魔術師達はまるで塑像の如く動きを止め、そのまま微動だにすることもなく立ち尽くした。

 

「答えなさい! マスターになにをしたのです!」

 

「ふむ、ではまずは紹介といこうか。彼女の名は『遠坂雅』そしてその彼の名は『ラセルダ・ワーロック』ともに、僕に忠誠を誓ってくれる友人たちだよ」

 

「――なにを、言って」

 

「……あれが、おそらく兄の異能なんだ。……人の精神を操るのでは無く、根底から覆し、変革してしまう能力……」

 

 カリヨンの漏らした推測に、オロシャは破顔して応じた。

 

「その通り。よく出来たねカリヨン。それが僕の異能というわけさ。だけどそれだけじゃあない。言葉がふさわしくない、というべきかな? ……そう、つまり僕の力は、不完全な人間をあるべき形に完成させるものだと理解してもらえばいい」

 

「完成……させる?」

 

 呻きを返すのはテフェリーである。

 

「僕は別に何かを覆しているわけじゃない。本来あるべき形に、不合理でない形に直しているだけさ。人間の精神は歪で無駄だらけだ。だから僕はその余剰な部分を削って合理的な人格を作り、本来の人格と置き換えているのさ。本来あるべき理想的な被造物(クリーチャー)として、創造しているんだよ」

 

 声高に語る声はうわずってさえいた。それが奇妙である以上に奇怪だった。兄がこれほどまでに高揚している様を、カリヨンは見たことが無かった。

 

「ああ、それと残念なことだけど。()()なってしまっては、彼らを元に戻せるのは僕の異能だけなんだ。……それがどういうことなのか……」

 

「――――――ッッ!」

 

 言葉が終わるのを待つまでも無く、テフェリーは激昂して幾百の銀線を闇夜の虚空に舞い上げた。が、

 

「待つんだ! テフェリー!」

 

 それはカリヨンに止められた。今オロシャを殺せば、ワイアッドたちは二度と元の人格に戻ることはできないのだ。

 

「……カリヨンには解かっているようだね。なら、お嬢さん、貴女もおとなしくしてくれるかな?」

 

 押し留められた銀糸は、テフェリーのやり場のない憤りを表すかのように虚空でのたうち、絡み合う。

 

「では、ではッ、どうすれば……」

 

「……」

 

 そのとき、オロシャの薄笑いを睨みつけるテフェリーの唇が、戦慄いているのが見えた。それで、カリヨンの心は決まった。

 

「じゃあ、もう話すこともないようだね。さあ、仕事だよ、二人とも」

 

「「はい、創造主さま(イエス・クリエイター)」」

 

 主が姿を現してから、物言わぬ彫像のごとくその場に静止していた二人の魔術師は、途端に火のついた独楽のように弾け、瞬く間に紫電の電光と真蒼の閃光による波状攻撃を再開する。 

 

 再び、路地裏の暗がりが瞬光の明滅によって斑に染まった。

 

 蒼き少女の指先には、何らかの石片から削りだされたと想われる長い付け爪(ネイル)が煌めいている。それが彼女のガンドと共に瞬き、閃光となって虚空を奔る。

 

 同時に、剥き出しになった老人のしわがれた掌からは地表から吸い上げられたと見られる地電流の収束が迸った。

 

 それらは虚空にて交差し、火花のごとく飛び散ってテフェリーとカリヨンの逃げる空間を削りとり、圧搾していく。

 

 もとより、彼らの得手とする鉱石魔術と地系統の魔術(アース・クラフト)は相性がいい。そのうえ、いまの魔術師たちには連携を阻むあらゆる要因、魔術師としての矜持や理念という精神の根幹をもとから取り除かれているのだ。

 

 故に、この連携による波状攻撃はそれまでとは比較にならぬほどの悪辣な相乗効果を齎していたのであった。

 

 テフェリーとカリヨンは下がることしか出来なかった。攻撃を受け続けることは出来ない。人格改変を受けた彼らは、今やなんの躊躇もなく二人を殺すだろう。

 

 しかしこちらから攻撃することも出来ない。彼らは仕掛けた牽制の攻撃を避けようとしないのだ。今の彼らには自己防衛意識そのものが無いのかもしれない。

 

「マス、ター……」

 

 そう、創り変えられている。その事実が、理解が、総て絶望となってテフェリーの身体を埋め尽くしていく。

 

 脚を止めたテフェリーの姿を好機と取ったのか、老人が地に手を付き、何事かを口ずさんだ。途端、蒼いドレスの少女が撃ち放ったネイルの被弾地点からは繁茂するかのごとく石の柱が林立し始めたのだ。

 

 それらの柱は円環状の陣を描き、自失して足を止めてしまったテフェリーを取り囲みはじめる。

 

 しかし、光輪の淵が閉じようとした刹那、何かが棒立ちになったままだったテフェリーにとって代わり、彼女を光陵の円環から弾き出した。

 

 カリヨンだった。しかし、今度は彼の方がテフェリーの代わりに石柱のサークルの内に囚われてしまった。

 

 青白い石の柱が描く円環状のサークル。それは何処かで見たかのような、ある種の既視感を放棄させるものだった。それはまるで簡易的なストーンヘッジの再現を見るかのようであったのだ。

 

 それもそのはず、それらの触媒として使用されていた礫はストーンヘッジの素材とされるベンブロークシャー、カーナルー丘の石材から削り出されたものなのである。

 

 雅と呼ばれた蒼い魔術師は、それらの石爪(ネイル)をガンドとともに打ち出し、地上にこの精緻なサークル状の陣を描いていたのだ。地面にへばりつく老人とは逆に、彼女が終始カリヨンたちの頭上を取って狙撃に専念していたのは、上下からの波状攻撃によって逃げ道を塞ぐだけではなく、このためでもあったのだ。

 

 そしてあの老魔術師の手によって完成したストーンサークルは魔術師の競演による即席の、そして鋼鉄のそれにも増して堅固なる牢獄であった。

 

 束縛と重圧の結界魔術。二人の魔術師たちは連携によりカリヨンをサークル内の重圧と束縛によって閉じ込めたのだ。

 

「カリヨン! ――」 

 

 テフェリーは自分でも驚くような引きつった声を上げていた。

 

 しかし己の不覚を悟ると同時に、不可解な懸念もまた念頭に昇る。彼ならば、その加速能力をもって、テフェリーを抱えたまま二人とも結界内から離脱できたはずである。

 

 なのに、どうして――そう訝ったテフェリーがもう一度声をあげようとした瞬間、仄蒼く光る石造りの円環は不可思議な鳴動を見せ、その中に囚われていたカリヨンの身体を四方から迫る高重圧によってさらに厳重に拘束してしまったのだ。

 

 カリヨンはくぐもった声を上げた。その華奢な身体は今にもひしゃげてしまいそうに見える。それを目にして今にも取り乱さんばかりに眦を見開いたテフェリーだが、しかしそのとき何かが彼女の記憶の琴線に触れた。

 

 前にも、確かこんなことがあったような、――そんな虚ろでつかみ所の無い感覚が彼女の内側でうねった。

 

 視線。怖気の奔るようなそれを感じたテフェリーは、内面の錯乱を意外に追いやり、それに向き直った。

 

 細面の青年――オロシャ・ド・サンガールが膿むような笑顔で彼女を見つめていた。

 

 それまでの薄笑いのような微笑ではなく、にこやかにほころんだその貌は息を呑むほどに美しく。女性的な白い肌は艶めき、ほっそりとした首筋から耳朶に掛けての肌に赤みが差した様は同時に酷く妖艶で、どうしようもなく醜悪であった。

 

 迷わず銀の琴線を鞭のように束ねてそれに叩きつける。――が、上方から雨のように放たれる光弾の閃光がそれを総て弾き返してしまう。

 

 見る者が見たならば、その精密すぎるガンドの正射が本来の遠坂凛のそれとはまったく異質なものであることが容易に知れたであろう。まさしく、今の彼女は別人なのである。

 

「テフェリー、さん、だったかな? よく弟を連れてきてくれました。僕はね、ちょうど彼の所に行こうとしていた最中だったんだ」

 

 蒼と銀の閃線による綾取りの如き魔魅の攻防を虚空に繰り広げながら、テフェリーは耳障りな雑音(こえ)に唇を噛んだ。ワイアッドのことも、邪魔を突破できない自分の弱さも、そして何よりもカリヨンが倒れ伏している光景が我慢ならなかった。

 

 それがどうしようもなく哀しく、恐ろしかった。見知らぬ感情が彼女の奥からこみあげて来る。訳のわからないものが、急速に彼女の内面で径を増していく。

 

 結界の中で伏しているカリヨンを見る。その動きを封じていた枷の如き圧力が、流動するように歪みはじめ、細い少年の身体を、まるで十字架に架けられかのような姿勢にまで、引き上げていく。

 

 ――なぜかはわからないが、きっと彼女はカリヨンを失うことには耐えられないのだ。なぜかはわからないが、きっとテフェリー・ワーロックはそれに耐えられない。

 

 どうしよう。どうにも出来ない。どうにもならない。それでも、どうにかしなければ。でも、どうすれば……。

 

 もはや戦慄く唇の震えを留めきれなくなろうかという、そのとき。それは聞こえた。かすかな、それでも確かに届いた――声。

 

「大丈夫だよ、テフェリー」

 

 ささやくようなその声に、響いた声音に、疼く追憶があった。同時に彼女の脳裏に閃光の如く瞬いた蒼い色。それはなんであっただろうか。

 

 そんな弟の挙動に斟酌することなく、彼の前に歩み寄ったオロシャの両眼からは灰色の光が迸った。もとよりオロシャの狙いはこれであった。この異能を用いて、マスターであるカリヨンを直に己の支配下におくつもりで出陣していたのだ。

 

 ライダーを海に配置して橋を見張らせたのは、相手がこの弟ならばサーヴァントなしでも勝機が有ると判じたからである。

 

 そのためにわざわざ拿捕し、傀儡と化して同伴した魔術師たちであった。いくら一流の魔術師とはいえ、さすがにキャスターを倒すことは出来ないだろう。しかしそれでいいのだ。彼らをけしかけたならば、キャスターにも幾許かの隙が生まれるはず。

 

 その間に、彼が無力な弟をその怪異なる魔の眼光にからめ取ってしまえば後はどうとでもなる。というのが彼の戦略であった。

 

 しかし、事はより安易な方向へと流れたようであった。もとよりの狙いであった弟は今、己の命を護る筈のサーヴァントも連れずに自分の元へとのこのこと現れたのだから。

 

 意気揚々と弟の人格を分解変造しようとする彼の胸に、久しくなかった人間らしい感情が生まれた。彼の心は歓喜で満たされていたのだ。白い貌にいつもの微笑とは違う、心底幸せそうな笑みが刻まれる。

 

 サンガールの運命そのものが、自信を選んだのだという確信は元よりあった。しかし、よもやこれほどまで安易に事が運ぼうとは――。

 

 この、いちいち手を加えてやらなければ愚にもつかず流れゆくだけの現実というものが、時たまこうして彼の描いた筋書きを外れ、思いもよらぬ様相を呈することがある。故に今、彼は久しくなかった新鮮な歓喜に満たされていた。

 

 彼は今この歓喜を演出してくれた実の弟に、生まれて初めての掛け値無しの深い愛情を感じていたのだ。

 

「ああ、愛しい弟よ。ありがとう。僕は今、幸せだ」

 

 その灰色の瞳からあふれ出していた光が集束し、人格の改造、否、創造は終了した。

 

 ――事、此処に成れり! 

 

 オロシャは己の勝利を確信した。後は令呪を持ってキャスターを自滅させるよう命じればいい。今や弟は彼の命に忠実なものとして創り変えられているのだから――。

 

「――ええ。そうしていると、まるで普通の人間のように見えますよ。兄上」

 

 兄は不思議そうに首を傾げ、しばしぼんやりと弟の顔を見た。そこにあったのは意識を剥奪された彼の「作品」ではなく、確かな自我を持った少年の貌だった。

 

「馬――」

 

 鹿な。と、咄嗟に叫ぼうとして、彼は生まれて初めて狼狽した。はたして、それはいったい何にであったのだろうか? 己の異能が機能しなかったことだろうか、彼の筋書きから外れた不可解な事象の展開にであろうか、それとも始めて見る、勝ち誇ったような、見知らぬ顔をした弟の眼光にであろうか。

 

 カリヨンは、そのまま拳を繰り出した。人の顔面を殴打するなど初めての経験だったが、身体は動いた。彼は己も知らぬうちに接近したサーヴァント達からも能力を模写している。今彼の中で選択され、行使されたのはランサーの持つ『勇猛』のスキルであった。

 

 これは威圧や混乱などの外部からの精神介入を遮断できるスキルであり、同時に本人の持つ格闘戦能力を向上させる効果もある。さらに、放った拳は昨夜と同様に『加速』のスキルによって目測すら叶わぬ領域にまで達し、兄の細い顎をあっけなく粉砕して見せた。

 

 創造主の危機に、二人の魔術師たちは人形のような無機的な挙動でカリヨンの背中に向けて襲い掛かってきた。

 

 しかし、カリヨンの視線が、振り向きざまに彼らの瞳を吸着した。すると途端に彼らの動きは鈍化し、次いで糸の切れた人形のように制止した。

 

 今しがたカリヨンに向けられていた兄の異能は、すぐさま彼の中に複写され、既に彼のものとなった異能『創造』は作り変えられた彼らの精神構造を再び分解、再構築し元に戻したのだった。

 

 オロシャのそもそもの誤算は、実の弟を何の脅威ともみなしていなかった点であった。カリヨンが一個の戦力として己に抗うのだという可能性を、この兄は最後まで考慮することがなかったのだ。

 

 しかし、今や彼にその事態を思い返し反芻する暇は残されていなかった。

 

 魔術師たちが魔術行使をやめたことで、もはや彼を守る盾は存在しない。一方、あらゆる制約を解かれたテフェリーが繰る幾千もの銀線の竜たちは、主の怒りを反映するかのように猛り、虚空を埋め尽くして迫る。

 

「――ひッ」

 

 オロシャは令呪でライダーを呼ぼうと令呪のある左手を掲げ上げた。しかし、そのとき仄昏い空の階を一本の澱んだ光の筋が走り、次の瞬間には彼の令呪は夢幻の如く霧散してしまったのだった。

 

「ヒーッ!?、ヒーッ! ヒ――――――」

 

 突然振り重なった不慮の事態に、完全なパニックにおちいったオロシャは砕けた顎を押さえることさえ忘れて、そのままよろよろと逃げさろうとした。

 

 しかし天に舞う幾千もの霊斬糸が、彼の頭上から銀の帳の如く舞い降り、その退路の悉くをふさいだ。

 

 ――そして大乱の嵐(テンペスト)のごとく吹き荒れた幾千万の刃の波頭は、()()を、もはや芥子粒の如く呑み込んだ。

 

 ぼろ布の如く切り刻まれ、虚空に舞い上げられた()()は、もはや悲鳴も上げることも出来ずに路傍のゴミ捨て場に転がり落ち、そのまま動かなくなった。

 

 オロシャを退けたテフェリーはそれに一瞥すら送ることすらなく、すぐさま倒れ倒れ伏している魔術師たちの元に向かった。

 

「マスターッ! ああ、マスター…………良かった……」

 

 ワイアッドの無事を知り安堵の涙を見せるテフェリーを見て、カリヨンもようやく息を吐くことができた。

 

 カリヨンも意識を失っている蒼いドレスの少女の元へ向かい、息がある事を確認する。身体の方は大した問題があるわけではなさそうだ。肝心なのは精神の方だ。彼の「創造」が正しく反映されたなら、問題はないはずなのだが。

 

 すると、その黒髪の美しい少女が蒼く彩られた目蓋を見開いた。化粧のせいでもっと上かと思われた年齢は、おそらくテフェリーと同じくらいだろうか。

 

「こ……こ、は」

 

「大丈夫か」

 

 意識が戻ったことはわかったが、考えてもみればカリヨンはこの女性とは初対面なのである。人格が滞りなく復元されているかは、彼には判別できない。

 

「……なんッ……? なに、が………………え⁇ ここは――新都、の辺りよね……私はいったいぜんたい、どうなって……? ……それに、なによ、これは? 何で私はこんなバカみたいに趣味の悪い格好してるの?! ……あと、あなた誰よ?!」

 

「ええと、その」

 

 意識が覚醒してすぐに矢継ぎ早でまくし立ててくる「凛」に気圧されたカリヨンは、思わず口ごもってしまった。吸収したスキルのおかげで言葉が通じなくても意図するところの意味はわかるのだが、しかし彼にはこの状況を説明するのが難しい。

 

 そのときであった。思わず逸らした視界の端で、何かが鈍い輝きを持って閃いた。

 

「――いかん!」

 

 咄嗟の声はワイアッドのものだった。彼の翁も覚醒していたのかとカリヨンが視線をめぐらせたのと、眼を覚ましたワイアッドを気遣い、声をかけていたテフェッリーが身体ごと振り払われたのは、ほぼ同時であった。

 

 もんどりうって何事かと顔を上げたテフェリー以下、その場にいた人間たちの目に次の瞬間に飛び込んできたのは、まるで鉄骨のような怪腕に貫かれ、夜に鮮血の仇花を咲かせたワイアッドの背中であった。

 

 


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