Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-7

「ぐッ――う、ああああぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――ッ!!!!!」

 

 セイバーは咆哮と共にありったけの魔力を総動員し、聖剣へと注ぎ込んだ。何が起こっているのかは、もはや理解の外だ。

 

 アーチャーが打ち放った矢を聖剣の貴光によって打ち落とそうとした瞬間、空間を捲りながら反転したそれは、世界の総てを一瞬で巻き込み、一切の白色にて埋め尽くしたのだ。

 

 既に圧倒的な光量の前に視力は機能していない。ただ、それでも研ぎ澄まされた直感だけが明確な事実を告げていた。そうしなければ、待っているのは死すら置き去りにした瞬滅という憂き目に他ならないのだと。

 

 そうして幾何の後、この夜空を遍く覆っていた埒外の白光はまた空間を反転するようにして去り、聖剣の光は夜空に薄い一筋の光線を描いて途絶えた。

 

 アーチャーの放った矢が起こした奇跡の全容とは、いかなるものだったのだろうか。

 

 それを端的に解説するならば、つまるところ、その矢は着弾点に擬似的な「太陽」つまり怪異なる恒星を出現させたということになる。

 

 それがたとえ秒に満たぬ数瞬であろうとも、それほどの近距離から浴びせられる太陽そのものの熱と光は、この世界のすべてを焼き尽くして余りあるほどの膨大なエネルギーである。

 

 それが化身王ラーマの持つ神蔵兵装『陽翼はためく光導弓(シャールンガ)』の起こした奇跡の全容であった。

 

 矢の着弾点に生み出された灼熱の星が天空地表の総てを等しく焼き尽くすという、単純明快にして強力無比なる神与の超兵装。神でさえ殺せぬ不死不滅の魔人をも殺しきったという、まさしく神話の再現であった。

 

 それを齎したのはヒンドゥーにおける三大最高神(トリームルティー)の一柱、世界の維持と救済を司る至高神「ヴィシュヌ」。人と成りてラーマの身体に宿る神性そのものでもある。

 

 その名は「遍満」「広く行き渡る」という意味を持ち、つまりは遍く陽炎と光線の神格化した姿である。すなわち、あらゆる生命を生み出し、その命の根本を支え育む性格を持つ救世の神でもあるのだ。

 

 その神格を最大顕著させるのがこの神弓、シャールンガである。あらゆる領域に到達し遍満する『対〝域〟宝具』。その本質は星さえ焼き尽くす威力にあらず。遍く世界に疾く届くという光の性質、すなわち『絶対着弾』こそがその権能の真価であった。

 

 もしも市街地で使用されたなら、その被害は至高の聖剣である約束された勝利の剣(エクスカリバー)を持ってしてもなお比較になるまい。

 

 その威力は対軍レベルの運用ですら、およそ新都一体を焦土と化して余りあるほどだ。

 

 アーチャーがなぜこのような場所を選んだのかは明白だった。こんな超宝具を地上で使うことなど、できるわけがないからだ。

 

 辺りは既に人の世界ではなくなっていた。海原だけでは飽き足らず、露出した海底までもが一瞬で蒸発し、灼熱の蒸気に歪む天蓋と気化した岩盤とが、まるで坩堝の中で混じりあうかのように攪拌されている。

 

 超高熱と怪異なる重力場によって歪み捻じれた一帯の虚空は世界から切り離され、地獄という形容でさえ生温い異界と化していた。まるで彼の神話に謳われる〝乳海攪拌〟の再現を見るかのようでさえあった。

 

 これほどの怪事に見舞われながらセイバーが存命し得ているのは、ひとえにエクスカリバーの閃光が出現した『太陽』から降り注ぐ致命的な白光と陽炎とを裂く衝角として機能し、その身を恒星風(フレア)の直撃から守りぬいたからであった。

 

 無論、白熱する恒星からあふれ出した荷電粒子エネルギーの奔流を真っ二つに裂いて見せた騎士王の聖剣こそ驚愕に値するものであったといえる。そうでなければ、回避も防御も不可能と言えるこの超宝具の炸裂を前に、何人たりとも生還することは叶わなかったに違いない。

 

 もはや敵を視認することすらできない状況の中、粥の如く()()()()に沸騰する大波の奔流を両の足で制しながら、それでもセイバーは敵の姿を探す。

 

 双方が健在である以上。まだ決着はついていない。そしてその瞳はいまだ己の勝機を見失っていない。

 

 確かにアーチャーの宝具はエクスカリバーに競り勝つほどの威力とエネルギー量を誇るかもしれない。しかしセイバーはこの戦いを不利だとは考えなかった。

 

 陽翼はためく光導く弓(シャールンガ)はその性質上、至近距離では使用することができない。遠距離射程(ロングレンジ)もしくは有視界外射程(アウトレンジ)からの運用が前提となる。その運用条件においては、聖剣以上に困難を伴う代物なのだ。

 

 ゆえに、中距離射程(ミドルレンジ)以下からでも使用できるエクスカリバーにこそ近接戦での有利がある。いくら破格の威力を持つ宝具同士とはいえ、剣と弓とが持つ性質の相性は依然として変わらないのだ。

 

 しかし連峰もかくやとうねる高波の上を駆け出そうとしたセイバーの膝が、そのとき力無く折れた。

 

「――ッ」

 

 彼女の身体はすでに持てる魔力を使い果たしていたのだ。そしてその小さな身体は、暴虐の限りをつくされ沸騰しながら荒れ狂う怒涛によってさらわれ、攪拌される深海まで、一気に連れ去られてしまった。

 

 そこでセイバーの意識は暗転した。

 

 

 

 

 悔恨に顔を歪ませる男の姿があった。

 

 血溜まりに膝を突き、自らが死に至らしめた戦士の亡骸を前に、慟哭せんばかりに肩を震わせている。

 

 手の中にあったのは女の姿だった。女神もかくやといわんばかりの完璧な美貌。まるで死することで始めて完成したかのような奇異な印象さえ伺えるその女の死に顔に、無双の英雄は苦悩する。

 

 彼は常に戦場でそうしてきたように、ただ、当然の如く敵を打倒しただけだった。それは彼とっては至極ありふれた作業でしかない。しかし、まさか敵を打ち倒したことを、これほどに悔いる日が訪れようとは――。

 

 男は人目を憚ることなく慟哭を繰り返す。――嗚呼、これほどの稀有なる美貌と知っていれば、こんなことにはならなかったものを――

 

 やがてその光景はある神話の一幕として永劫にわたり人々の記憶に留まり続けることになる。

 

 ただ、無双の大英雄の数ある悲哀の一幕としてだけ。

 

 故に、死した女の心胆に疑問を寄せる者は皆無であった。

 

 その本人を除いては。

 

 ――声が、聞こえる。

 

 彼女を蔑み、蝕み続ける声が。まるで永遠に木霊し続ける残響のように、永遠となった彼女をいつまでも苛み続ける。

 

 女は散った。戦場で、ただ呆気なく。だがそれは戦士としての彼女が望みうる最後であった。雄々しく、ただ激しく、軍神の如く戦場を馳せる――それは間違いなく彼女の本懐だった。

 

 しかし、望むままに戦場で散ったはずの彼女を、後世の人々はあざ笑った。神に惑わされ無謀な戦いに赴いた愚かな蛮族の王、と。

 

 敵うはずもない大敵に挑み、一矢報いることさえ出来なかった愚かな女、と。

 

 そう、女。お前は戦士だなどと嘯いておきながら、その実はただの女だったのではないか? 

 

 ――。

 

 強大な敵を前にして、震えることしか出来なかった哀れな小娘。

 

 ――う。

 

 戦場に迷い込んだ鼠、竦くんだ手足に気付けない愚鈍。

 

 ――ちが、う。

 

 女神の姦計に操られた、浅はかなる愚者。

 

 ――――違う。

 

 戦士の風上にも置けぬ臆病者。

 

 ――違う! 違う!!

 

 どう違うのだ? あまつさえ、死体と成り果てながら敵の憐憫を誘うその顔が、戦士のそれだとでも言うのか?

 

 ――――――――――ッ。

 

 終わりはあっという間だった。いつの間にかこの胸は貫かれていた。

 

 なんて、あっけない、終わり。

 

 それでも、彼女はその結末に文句など無かった。敗北したことにも、惨死したことにも悔いなど無い。

 

 ただ、ひとつだけ。確かめなければならないことがあったのだ。

 

 最期の時。最後の一戦。あの時のことを。

 

 相手はギリシャ最強の大英雄。打ち震えこそすれ、怖じる理由などあろうはずも無い。だが、あの時本当に自分は戦士としての本分を全うすることができたのだろうか?

 

 解からなかった。誰よりも苛烈に輝くはずの華は、最後に自身の最も尊いものを信じきれなくなった。

 

 自分は自らの手で己の尊信を汚してしまったのだろうか? ならば、それまでの勝利も敗北も、総ての理由も、あの時の胸の鼓動でさえも、彼女は己の手で無意味なものへと貶めたということになる。

 

 ――確かめなければならない。もう一度、死力をつくせる闘争の機会を持って。それを己に問わなければならない。

 

 だから――もしも、もしももう一度、それを確かめられる機会が得られるとするならば、今度こそ自分は、どんな強大な敵にも立ち向かって見せるだろう。そう、己が本当の戦士であったことを証明するために――。

 

 それが彼女――アマゾネス・クイーン、ペンテシレイアの聖杯に賭ける悲願であった。

 

 

 

 輝ける甲板の上で、いま、一人の女が血溜まりに伏していた。

 

 もはや甲板はそれ自体が赤く染まっていた。滑る真紅の血溜まりの中でそれでもなお輝きを失わないブロンドが逆に滑稽でさえあった。

 

 ライダーは歩を進める。もはや全身が皮一枚で、かろうじて繋がっているだけの相手である。戦うもなにもないだろうが、生きているなら止めを刺さねばならない。

 

 しかし――美しい。血溜まりに伏せる女の横顔にライダーは感歎し、改めて深い息を漏らす。どうして血に伏せる女の、無様とさえ映るはずのその姿が、横たわる女神の艶姿さえをも想わせるのか。

 

 その生気を失った美貌は、先ほどのランサーの姿から比してもなお損なわれていない。いや、それどころか、今地に伏せるこの姿こそがこの女の真の美しさを表しているのではないかと思えるほどだ。

 

 そこで、ライダーの歩みが止まる。

 

「――――ッ!」

 

 ライダーはその冷えた金属のようでさえあった眉根に、狼狽とも取れる驚愕の相を浮かべた。しかし、それも無理からぬこと。

 

 既に死に体であったはずの敵が、まるで淡いまどろみの中から目覚めたかのようにゆっくりとその身体を起こしたのだから。

 

 月の女神が寝床から立ち上がるかのように、血溜まりの中で身動(みじろ)ぎする女の艶やかな口角は、何かを皮肉るかのように不敵に釣りあがったままだった。

 

 自らの手で、その肺腑の内までをも両断したはずの相手が立ち上がるという、この不条理のカラクリを知ったとき、さしものライダーもその目を眇めざるを得なかった。

 

 見れば、襤褸の如く引き裂かれた女の身体を、輝く血色の何かが繋ぎ止めていた。それは無数の(かすがい)であった。大小のきらめく金具がこの女の柔肌を縫いとめ、辛うじて人の形を保っていたのだ。

 

「便、利な……もん、だろ?」

 

 さすがに言葉もないと言った様子のライダーを差し置き、ランサーは絞り出すような艶声とともに、肺腑に残る溜血を吐き出した。

 

 既に紅く染まっていた甲板に、新たにどす黒い血だまりが出来た。

 

「なァ……、戦、士に、とって大、事なものは、……なん、だ?」

 

 向こう側が見えるほどに風通りのよくなった腹や胸、千切れかけていた肘も袈裟懸けに両断された身体も、強引に接ぎ合わされていた。しかしこの女はそれにまるで頓着していないかのように、一本の槍に縋りながら強引に立ち上がり、真っ直ぐにライダーを見つめてきた。

 

 血色の双眸に、盛る焔の如き金色の光を宿しながら。

 

「勝ち……負けじゃ、ねぇ。――身体の生き死にでも…………ねェよな……」

 

 もはや呼吸ともいえぬ血色の嗚咽を吐き漏らしながら、女は懸命に言葉を切り出す。ライダーはそれをただ黙して聞いていた。

 

「大事……なのは、魂だ。戦士、としての――魂の、在り、方だ! …………そうだろ?」

 

 暗殺者の陰惨な罠によって自らの死因となる傷を割り開かれ、そして今この海洋の豪勇の前を前にして頼りとする宝具も魔力も放出し尽くした。

 

 五臓六腑は切り刻まれ、もはや立っていられる時間がどれほどあるのかも分からない。――それでも、

 

「あたしは、還るぞ。今度こそ、――」

 

 それでも、ランサーは血を吐き散らしながら、それでも壮麗さを失なわぬ朱色の声を漏らす。

 

「――戦士の、真に、あるべき、場所に――」

 

「……敬服しよう。そしてこれまでの非礼を詫びよう、勇壮なる戦士よ。……そして、それにも増して……貴殿という女は、美しい」

 

 彼の大英雄の悔恨が、この海洋の雄にも理解できた。この女は男女の持つべき尊さを併せ持っているのだ。

 

 闘争に散り行く雄性の尊さと、死してなお美しくあるという雌性の尊さをこの戦士は併せ持っているのだ。その在りかたは奇異でありながら、どうしてこれほどまでに美しく尊いのだろうか。

 

 その美しさが尊いのではない、この女のその在りかたこそが何よりも尊く、美しいのだ。

 

 眼前の女の瞳に、何かを護ろうとする瞳がみえた。

 

 彼は、その瞳を知っている。

 

 

 ――グローリアーナ!※ ―― 

 

 

 ――おお、グローリアーナ!!――

 

 

 海洋の雄の心に怒濤の如く蘇った歓声、そして鬨の声。

 

 かつて仰ぎ見たただひとりの女。己の心の在りかたを必死になって護ろうとしていた女。己の在り方に殉じることを、総てにおいて優先した稀代の女王。在りし日の『我が女王(マイ・クィーン)』の威容。

 

 それに劣らぬ女が、目の前に居るのだ。

 

 ライダーの五体を、その周囲を、荒れ狂う旋風となって熱狂の歓喜が駆け抜けていく。

 

 その熱風に蒼ざめる頬を晒しながら。ランサーは杖代わりにしていた槍を構える。萎える足で、震える五体で、それでもなお右腕のみで掲げられた槍の穂先には未だ決殺の気配が宿る。あと一刺し、それがこの戦闘においてランサーに残された余力の総てとなった。

 

 充分だと思えた。槍兵は心の底からそう確信する。

 

 趨勢は決している。もはや勝機など望めないのかもしれない。だが迷いはない。これこそが。彼女の望んだ戦いなのだから。

 

 勝敗などはどうでもいい。そんなことは二の次なのだ。

 

 ただ――心の在り方を守り抜くために。最後まで戦いながら死ぬために――

 

 今にもばらばらに分解しそうな身体を、文字通り継ぎ合わせ、赤黒い血だまりの海を一陣の煌めきが疾駆する。

 

 戦士として恥じることのない最期を求めて、待ち続けていた。この戦士たる己はいつか、そうやって、誰もが焦がれるような、雄々しき闘争によって――華と、成るのだ。

 

 負けるつもりなどなかった。

 

 でも負けてもいいとも思った。

 

 そんなことは、関係ないのだ。

 

 そうだ、勝敗が重要なのではない。

 

 なら、――今この胸に怖じるものはなにもないではないか。

 

『ああ、そうか』

 

 欲しかったのは子供みたいな、どうでもいい自己満足なのだ。でもきっと戦士が戦場に向かうのに必要なのは、いつだってそんなちっぽけなものなのだ。それだけで、それさえあれば――きっと笑って死ねるのだから。

 

「――ハハッ」

 

 不意に、口腔の奥から笑いがこぼれた。

 

 心の底からおかしいと思う。解かってしまえば、なんということもない答えだ。

 

 こんなことを考えるなんて、らしくない。

 

 そうだ。本当に自分らしくなかった。

 

 目の前に敵がいて、この手には一本の槍がある。

 

 それが全て、この世界の全てなのだ。

 

 柄にもなく難しく考えすぎていただけだ。

 

 一番、大事なことを忘れていた。ただ、楽しめばいい。ただ純粋に。あの頃、仲間と共に戦場を馳せた時のように。

 

 闘争の中で全ての中身が抜け落ちて、自分がただひとつの個に戻る。熱い鼓動だけが私を私にしてくれる瞬間。

 

 ただ闘争の渦に酔いしれればいい。戟尺の刹那に総てを賭け、高鳴る鼓動が、痛みと恐れとをかき消していく。

 

 そうだ。この胸の高鳴りだけは、誰にも嘘だとは言わせない。

 

 たとえ次の瞬間にこの鼓動が止まったとしても、私はずっと私のままだったのだ。

 

 だから戦うのだ。己が己であるために。

 

 そして、戦士(おんな)は微笑んだ――誰よりも荒々しく、ただ、獰猛に。

 

 ああ、そうだ。あの時だって、あたしは――

 

 随分と長い間馳せて、ふと気が付くと、目の前にはいつの間にか敵の身体があった。なにも考えずに右手を前に伸ばした。

 

 ――あたしは、最期まで臆してなどいなかったじゃないか――

 

 突き出された刃はあっけないほど容易く、仇敵の肺腑の内に煌めいた。

 

 

 そのとき、甲板が揺れ、低い、嘶きに似た音が響きわたった。

 

 地響きにも似た震えが両者を襲った。金切り声のような音の波が、船体のそこら中から歪な不協和音を奏でている。

 

 巨艦の船体そのものがやにわに歪み、外の渦や暴風の障壁までも一斉に綻び始めたのだ。

 

 そして、本来は無風である筈の甲板にまで狂乱したかのような颶風がなだれ込んでくる。まさしく何の予兆も伴わぬ異常事態であった。

 

 それはこの輝船の断末魔ともいえるものであった。この船の〈竜骨〉と呼ばれる船体の基部が今になってへし折れたのだった。先のランサーの輝矢の特攻は船の表面だけではなく、その根幹ともいえる部分にまで、確かな損傷を与えていたのだ。

 

 如何に宝具といえども、それが帆船であることには変わりはない。それは幻想に昇華しようとも避けられえぬ弱点であった。軍神の甲矢と大海の魔龍の対決は、その実相打ちであったのだ。

 

 それが転機となった。ランサーの決死の一手は、予期せぬ事態に硬直したライダーの僅かな隙を、その身体ごと突いたのだ。

 

 しかしランサーの槍は心臓を外していた。最後の攻撃も敵をしとめるには到らなかったのだ。

 

「――――ッ!!」

 

 ライダーは舌打ちを漏らす。眼前の敵がそこまで動けたことも誤算ではあった。しかし、それはさして重要な事柄ではない。本来なら、如何な変事があろうとも、こんな隙を見せる男ではない。

 

 ならば、なぜライダーは決死の渦中にあって向かい来る敵影を見失ったというのだろうか。

 

 なぜなら、その視線はまるで信じられないものを見るかのように、更なる脅威に釘付けにされていたのだ。

 

 竜骨の破損も、予期せぬ事態には違いなかったが、それ以上に彼の身体を硬直させ、致命的な隙を作り出したもの。それは――

 

 最後に突貫してくるランサーの遥か後方に、ライダーはその姿を捉えていた。

 

 風が、大気が悲鳴を上げている。予想だにしなかった残忍なる略奪にパニックを起こした哀れな旋風たちが、ヒステリックに喚き散らしながら喘ぎ委縮していく。

 

 ()()()()であったのだ。船体の破損など問題ではなかった。その騒乱は、この輝風のすべてを呑み込み、喰らわんとする捕食者の登場故の事。

 

 やがて、搾取暴奪の限りを尽くされた嵐は消え去り、冬木市全域の夜空を遮っていた超巨大積乱雲(スーパーセル)までもが、見る影もない涼風と成り果て、霧散した。

 

 そうして細い月光に晒された夜の水面は、――明らかに異常であった。

 

 そこあったのは水面ではなく氷原であった。熱という熱を奪い尽くされた流水は、渦の形も、波の凹凸さえもそのままに、物言わぬ氷塊と化していたのだ。

 

 その上を歩む者がいる。

 

 ただ一言の声を発することなく、その鋭利な相貌に張り付いたような薄ら笑いを浮かべながら。黄色い狂気に、その双眸を澱ませながら。

 

 以前見たあの女の眼差しは、これほどに虚ろで空恐ろしいものだっただろうか。いや、それよりも、何故確かにこの手で殺したはずの敵が今こうして己の前に立っているのか。

 

 ライダーは、崩れおちるランサーの身体を受け止めるように抱きとめた。彼女には既に意識はなく、この状況すら理解できてはいないだろう。

 

 彼方に臨む漆黒の女の左手から、ニ画目の令呪が消失する。

 

確約された(ユッグ)――』

 

 黒衣の女はその呪詛の如き真名を紡ぎながら、暴食していた熱や光そして魔力と暴風とを一点に集束し、漆黒の光に変えて解き放つ。

 

「……やれやれ、これだから――」

 

『――恐怖の刃(ウォーデン)!』

 

「――河岸なんぞに船を出したくは、なかったのだがな……」

 

 心底残念そうに、この海原に繰り出せないことだけを悔いながら、最後まで大海に魅せられたこの男は、河口から払暁に臨もうとする水平線を少年のような眼差しで一瞥した。

 

「まぁ、悪くは――ないか……」

 

 そう言って苦笑したあとで、男は腕の中に血に染む女を抱きながら、澱んだような光の濁流に飲み込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 (※ グローリアーナとは詩人エドマンド・スペンサーの叙事詩〈妖精の女王〉に登場する女王の名。エリザベス女王がモデルであるとされる)

 


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