Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-3

 戦場の芳香が漂ってきた。

 

 住民たちはただひたすらに敵将の影に怯え、高い城壁の内側で静かに息をひそめていた。

 

 (けぶ)るような死の臭いが、鼻についた。

 

 すでに悲観に暮れる以外の選択を持たぬトロイアの将兵達。もはや一抹の希望も残されてはいないかのような惨たる戦場に、しかしその女は舞い降りた。

 

 まるで夜の群雲を掃う月光の如きその姿は、女神にも勝る煌めきと威容を放っていた。

 

 ――時は、まさに戦乱の只中であった。トロイア戦争。それは神々の姦計に端を発する一大叙事詩である。このギリシア神話の一端を担う、神々と人間とが入り乱れて戦った壮大なる戦絵巻の一幕に〝彼女〟の視点は固定される。

 

 夢の始まりは、いつもここからだ。視線はこの伝説をその起こりから追っていくわけではなかった。いつも、この中途半端な幕間から〝彼女〟の視点は始まる。

 

 ――それはそうだ。なぜならその女は、この叙事詩の主人公でもなければ敵役(かたきやく)でもないのだから。

 

 軍を率いる旗頭であり、同時にトロイア最強の英雄でもあった王子の圧倒的な敗北と無残な死は、勇壮な兵士たちの心を折るのに充分すぎる痛手であった。

 

 兵も、民も、そして王もそれを悲しみ、誰もが絶望に打ちひしがれていた。しかし、その兵たちの心を再び克己させた一陣の輝風がここにある。

 

 遥かカッパドキアの地から、ドレスよりもなお美しく飾られた綺羅星のごとき甲冑に身を包み、勇壮華美なるアマゾーン女人族の戦士団を引き連れて、その中でもひときわ強く美しく、そして壮麗であった女は戦場に現れた。

 

 ペンテシレイア。

 

 トロイア王プリアモスの要請により、義によって参戦した神秘の一族の長。父に軍神アレスを、母にアマゾーンの前王オトレーレーを持つこの女こそ、遥かなる辺境の地に咲いた蛮勇の華であった。

 

 アマゾーン女人族とはギリシャ神話の随所にて語られる女系部族である。軍神アレスを祖として崇め、全員が女性だけで構成された戦闘集団であるとされ、北方の未開の地に住まい、馬術と弓術に優れた有能な狩猟民族であった。

 

 幾多の星を従えるかの如き威容とその美貌が、打ちひしがれるイーリオンの住民を底なしの奈落から開放するかのように輝いていた。

 

 しかし、一方で女王の内情は、その颯爽たる威容とは裏腹に苦痛と悲しみに満ち、焼け爛れているかのようさえであったのだ。

 

 故郷での狩りの最中、彼女は誤まって最愛の妹を死に至らせてしまっていたのだ。それはもはや偶然以外のなにものでもなかったが、それゆえに女王は運命を呪い、神々を呪い、そして己を呪った。

 

 今こうしている間にも、その心は張り裂けんばかりであったのだ。

 

 故にトロイアの地で上がった戦火の炎は、彼女にとって暗闇に照らす松明の光のようにさえ思えた。この罪を雪ぐのは、この穢れを清めるのは戦いだ。この悲しみを埋めてくれるのは闘争だけだ。

 

 打ちひしがれる彼女の心は、そう吼え猛ていたのだ。

 

 その炎のような心を携え、蛮族の女王は大王プリアモスの前に歩み出る。雄大なるトロイアを統べるこの老王は酷く憔悴しきった顔を見せ、悲痛な瞳で訴えていた。

 

 その内容を占めるのは怒涛の如き悲しみだ。王としてではなく、一人の親として息子の死を悼むその眼差しが、ペンテシレイアの胸を打った。

 

 最愛の者を失う悲しみ、己の力ではどうしようもない強大なものによって、まるで草でも毟るかのようにして奪われてしまった大切な半身。それを失うことは生きながらにして魂が冥界に囚われるに等しい苦しみだ。

 

 彼女は過たずして老王の悲しみを察した。それは彼女がこの闘いで雪ぐ筈だった痛みだからだ。

 

 傷心のトロイア王と痛みを分かち合ったペンテシレイアは、眦を決して勝利を盟約する。

 

「王よ、我は全霊を賭けて仇敵を討ち倒し、貴殿のお心の憂いを掃って御覧に入れよう!」

 

 そして蛮勇の女王は、城外の戦場に駆け出して行った。彼女の心には、今や松明どころではなく、世界を焼き尽くして余りあるほどの篝火が満ちていた。

 

 もはや、彼女を止めるものなどこの世にありはしなかった。――

 

 

 

 ――そんな夢を、繰り返し見ていた。

 

 知らない、見たこともない異国の戦禍。その闇を掃うような一陣の光。煌びやかに戦場を馳せる、美しくも勇壮な女たちの一団。

 

 そして、悲しみに立ち向かおうとした女。

 

 どうしてそんなふうに出来るのかわからなかった。どうして、そんなふうに戦えるのかが解からなかった。

 

 だから、痛みを恐れないその女の姿に、少しだけ――憧れもしたのだ。

 

 

 

 ――ゆっくりと、身体を起こす。白い肩には黒鋼色の髪がさらさらと触れる感触があるが、その先には何も感じない。腕がないからだ。あるのは銀色の糸の束だけ。

 

 解きかけた状態のまま意識を失ったせいだろう。今それらは四肢の形をとることなく、幾多もの銀色の滝のようにベッドの端から流れ落ちていた。

 

 流れる水銀の如き銀色の絹糸に(まみ)れる、四肢なき少女。

 

 傍目には、もはやこの世のものとも思えぬ奇怪にして美麗なるオブジェと映るかもしれない。それほどに、その非有機的なフォルムは禁忌的な美を孕んでいた。

 

 しかし、彼女自身にとっては、それもただ滑稽な物としか認識できない。

 

 ……昨夜の戦闘の後からの記憶が無い。そもそも今は何時なのだろうか? 

 

 兎角、現状を把握しなければならない。そう判じて彼女が意識を集中すると、やおら銀色の糸はそれぞれが意志を持つかのように生動し始め、複雑に絡み合いながら規則正しい幾何学模様の網を作り出す。

 

 そのまま固体と見紛う程に集束したそれらは、瞬く間にほっそりとした少女らしい手足を模倣した。秒に満たぬ刹那のうちに成された妙技は見る者が有れば感嘆の声を漏らさずにはいられなかったであろう。

 

 そしてベッドから降り立ったところで、彼女は――テフェリー・ワーロックは、己の左肩に起こっていた変化に、ようやく気がついたのだった。

 

 その白い貌から、さっと血の気が失せた。

 

 

 

 思いのほか容易に、事は運んだ。

 

 今にも泣き出しそうな空の下。まるで駒鳥のように小さな身体が風を撒いて馳せる。

 

 その気になれば、常人には捉えられぬほどの速度で動くことも可能であったが、常時その状態を維持し続けるのは、まだ彼には難しかった。

 

 よって、カリヨンは人目を避ける意味も込めて、家屋の上を断続的に跳躍してここまでやってきた。この方が隠密性も高く、そしてすばやく移動できると思ったからだ。

 

 テフェリーを探して街を歩いていたカリヨンは、既にこの深山町にまで辿り着いていた。

 

 今の彼は無力なだけの子供ではない。そこ小さな身体に発言した異能は、もはやこの街中に堆積する奇怪な霊的ノイズを無効化し、鳥獣の言葉を解して飛燕の如く地を馳せる事をも可能としているのだ。

 

 まさしく破格の異能であった。例えサーヴァントであっても容易ならざるこの道程を、この少年の潜在能力はいとも簡単に踏破してのけたのだ。

 

 そのとき、路傍に降り立った彼の足許から何かを騒ぎ立てるような、騒々しい物音がしてきた。

 

 まるで手槌で金床を打ち鳴らすような甲高い音だ。それは常人には聞き取ることの適わぬ音波だったが、今や以前とは比べ物にならぬほどに鋭敏化したカリヨンの霊的聴覚にとっては、むしろこの上なく耳障りなものにさえ聞こえていた。

 

 カリヨンは誰もいない背後に舌打ちして困り顔を向けた。

 

「ああもう。ちょっとうるさいよ、お前……」

 

 そこには誰の姿も有りはしなかったが、彼は構わずに声をかけた。ちょうど彼の足許、影の辺りに、別の影があった。染み始めた日の光を遮るものは何一つないはずなのに、そこにはそぞろに動き回る影と何者かの気配があったのだ。

 

 それは妖精だ。カリヨンも見たのは初めてである。妖精の本場英国の童話などで有名な靴職人の妖精レプラコーン。そんな本格派の天然妖精がこんな地の果ての島国にいる由来は全く持って知りえなかったが、ともかく道すがらテフェリーの居場所を探っていた彼の元へ、何故か着いてきてしまったのだ。

 

 獲得したスキルのおかげで、なにやら慌てふためいているような気配だけはわかるのだが、彼には妖精との交信の経験が無かった。しかも畑違いの土属性のものとなるとまるで手に負えない。

 

 仕方なく、着いてくるままに任せていたのだが、こう煩くては考え事にも支障が出るというものだ。

 

 どうやら連日街を覆う濃霧の如き霊的雑音は妖精の感覚までをも狂わせるらしく、このはぐれ妖精も何やら街中をさまよっていたらしい。

 

「だからって僕についてこられてもなぁ……。それにしても……」

 

 しかし迷っているのはカリヨンも同じであった。道にではない。鳥たちに聞き及んだ場所にはすでに到着していた。

 

「ここか……変な建物だな」

 

 実際、新都から橋を超えて深山町までやってきたあと、目的の場所はすぐに見つかったのだった。

 

 歩きまわってみて思うことは、とにかく変わった街だということだ。

 

 和風と洋風、という区別を当然ながらカリヨンは持っていなかったが、それでもどこか趣の異なる区域ごとに区切られたような感のある奇異な街並だと思った。

 

 それとも近代の都市とはこういうものなのだろうか? 首を捻ってはみたが、半ば監禁されるようにして秘境の中で育った彼は世相に疎く、それ以上判断のしようもなかった。

 

 しかし、本当に首を捻りたいのはそのようなことではなく、

 

「……で、ここからどうしたもんなのかな……」

 

 門の前まで来たはいいが、ここから先のことは漠然としか考えていなかった。

 

 とにかくテフェリーにもう一度会う。会って、話す。話して危機を知らせる。と、ばかり考えてここまで来てみたのだが、しかし具体的なことについては全くといっていいほどノープランなのだった。

 

 ここが敵の陣地なら(というか、おそらくそうなのだが)、まさか正面から堂々と入っていくというわけにもいかない。

 

 さりとてテフェリーが外出するのをここで待ち続けるというのも、妙案とは思われない。考えあぐね、いよいよ頭を抱えそうになった、そのときであった。

 

 奇異な木造の建物の中から、なにやら言い争うような声が聞こえてきたのだ。

 

 

 

 

 気が付けば、周囲は既に仄淡い夕刻の色合いを帯び始めていた。縁側に腰掛けたセイバーはまんじりともせず、ただ眼を伏せて黙していた。寂然と佇むその姿は、薄灯りに歪む一片(ひとひら)の玻璃細工を想わせるほどに可憐であった。

 

 しかし、その実その佇まいに反して、彼女の心胆はじりじりとひりつく様な焦燥感に炙られ続けているのであった。

 

 今現在、彼女はこの拠点の防衛を一手に任されていた。ランサーの傷はいまだ完治することなく霊体化を余儀なくされている。現状では別のサーヴァントの襲撃に備えることが出来るのはセイバーだけということになる。

 

 故に今、彼女に出来ることは焦燥を噛み締めながら待つことだけだった。

 

 昨夜の苛烈な戦闘にあっても、幸いシロウやテフェリーには大きな負傷はなかった。しかし、凜が戻らない。ワイアッド翁からの連絡も絶えたままなのだ。

 

 探しにいくこともできずに、苛立ちばかりが募っていく。あのとき感じた感覚は正しかったのだ。

 

 凛は未だ問題なくセイバーに魔力を供給しているが、何かしらの問題があったのは間違いない。あのとき。昨夜あの黒い剣士を退けたあのとき、彼女は確かに主の身に迫った危険を感じていた。

 

 それは一抹の胸騒ぎにも等しいものに過ぎなかったかもしれない。しかし同時に、けっして見過ごしてしまえるようなものでもなかったのだ。

 

 だが、もしもそうだというならば、凛は令呪をもって自分を強制召喚できたはずなのだ。それをしないということは、凛が自分の助けを必要としていないということだろうか?

 

 確かに、今現在はパスを通じて凛の身体になんらの危機を感じ取ることはない。ならば、それは生きて何者かに拘束されているということだろうか? 凛に限ってそれは有り得ないと思いたかったが、そう言い切れる確証はどこにもないのだ。

 

 仮に探索に向かおうにも、何時からか昼間になっても鳴り止まなくなっている、この不可思議なノイズが悩みの種だった。

 

 これまでもこのノイズのせいでサーヴァントや魔術師の霊的探知能力が妨害されることがあったが、昨夜からそのノイズがいっそう強まり今では通信に支障をきたすどころか、ただでさえ細く霞むパスを完全に追えなくなってしまうのだ。

 

 何度探しに行こうとしても、すぐにマスターとの繋がりのラインを追うことが出来なくなってしまう。

 

 かといって闇雲に探し回るような暇はない。今は己がマスターに信を託して待つしかないのか――そう、セイバーが座したまま唇を噛み締めようとしたそのとき、

 

「――――――――ッ!」

 

 屋敷の奥から、言い争うような声が聞こえてきた。甲高い、切迫したような女の声だ。

 

 セイバーが急ぎ戻ろうとしたところで、廊下側の戸が開いて士郎とテフェリーが居間に入ってきた。

 

「どうしたのです、シロウ?」

 

 昨夜の死闘の後、いきなり倒れ、そのまま床に伏していたはずのテフェリーが目を覚ましていたようだった。しかしその様子はただ事ではないようにみえた。テフェリーは錯乱しながらも外に出ようとしているようだった。

 

 士郎がそれを押しとどめようとしているのだが、足許さえ定まらない彼女の銀色の手足はまるで融解したかのように形を失い、もとに戻り、それを大なり小なりに繰り返している。未だに身体の調子が良くないようなのは一目瞭然だった。

 

 上着ははだけて、銀色の腕部だけでなくその上に続く白い肩までが剥き出しになってしまっている。しかしそこで視界の焦点を掠めるものがあった。その肌着から見えた細い肩にある、見覚えのあるその(しる)し。

 

 それをしかと目にして、セイバーはそれに驚愕せざるを得なかった。それがなんなのかを一目で見抜いたがゆえに。

 

「……それは、ランサーの令呪なのですか」

 

「……」

 

 軒下から声をかけるセイバーに、髪を乱したテフェリーは口を噤んで応えない。しかしその無言は事の是非を否定していなかった。

 

 ままならないでいるテフェリーの身体を支えようとしていた士郎も、それを見つけて同様の驚きを隠せないでいる。

 

「――そうだ」

 

「ッ! …………」

 

 在らぬほうから響いた応答の調べに、咄嗟に反論しようと向き直ったテフェリーは矢庭にその口をつぐんだ。

 

 セイバーの問いに応えたのは実体化を果たしたランサーだった。おそらく霊体化したままこのやりとりを見ていたのだろう。

 

 再び現世に現れた、その美というものをあるがままに、ひどく荒削りでありながら同時に極めて精緻に写し取ったかのような、矛盾してなおそれを是と成すかの如き混沌の結実はその美貌という輝きを殊更に増すかのようであった。

 

 しかし、その顔色には依然として濃い死相の陰が指さしていた。

 

 にもかかわらず、その二つの要素は決してその蒼褪めた美貌の上で相反してはいなかった。むしろその死の翳りがもたらす陰翳のコントラストが、今やその憂い顔をこの上ない美のキャンバスであるかのように彩っているのだ。

 

 その疲弊具合の程を知るが故に、その蒼褪めた美貌はセイバーの胸を打った。その場にいた誰もが同じ思いに一時の息を奪われた。

 

 美の本質とは相反する要素の(ひずみ)から湧き出る奇跡の雫なのだと、断言し、同時に淡く寿ぐかのようなそんな彼女の在り方は、見る者の息を奪うほどに奇異であり、言葉にならないほどに儚げであった。

 

 そしてランサーは枯れるかのように細く、しかし平時と変わらぬ快活な語調でもって、言葉を続けた。

 

「この身を現世に召喚したのは間違いなくテフェリーだ。最初に令呪を授けられたもの然り。テフェリーは最初の令呪を使ってマスター権と残り二画の令呪をワイアッドに写していたのだ。

 おそらくワイアッドのヤツがその第一の令呪を放棄したのだろう。それでマスター権と残りの令呪がもとのマスターであるテフェリーに戻った、というところか」

 

 失った一時の息を取りもどすようにして、しばし喘ぐようにしていたテフェリーは、それからランサーを睨みつけた。

 

 その二色の双瞳は、しかし憤怒以上に恐怖によって歪められているかのようであった。まるで泣き出しそうな子供の様な。

 

 それが見るに耐えないとでも言うかのように視線をそらせたのは、満身創痍のランサーのほうだった。まるでやっかいごとを持て余すかの様に、サンライトイエローの流髪をガリガリと掻きむしる。

 

「そンな眼で見てくれるな、マスター。そうでなくても、こういうのは苦手なんだ」

 

「私はあなたのマスターではありません! 今もあなたのマスターはワイアッド様です!! 令呪の有無など……関係ありません。今はマスターの安否こそが最重要のはず! ……マスターが私に令呪を戻したということは、何かがあったということなのです! はやく、探しに……」

 

 しかし勇んで歩みだそうとした途端、テフェリーの四肢は漣打って一斉にバラけてしまった。それは体力云々の話ではなく、精神状態の乱れから来る乱れのようだと見受けられた。すぐに四肢を編みなおそうとするテフェリーの肩を、歩み寄ったランサーの長い手が包んだ。

 

「無茶をするなテフェリー。まずは自分の身体を憩え」

 

「何を馬鹿なことを!」

 

 捻れた銀色の手足を投げ出して座り込んだまま、テフェリーは怒気も露に叫んだ。

 

「凛とも連絡が取れないのです。これ以上私達まで下手に動き回って分散してしまうのはよくない」

 

 なだめるように進言しながら、気持ちはセイバーも同じだった。しかし、だからといって皆が勝手に出歩くことは出来ない。

 

「状況は変わったのです! 今マスターはランサーを呼ぶことができない……ッ」

 

「それは」

 

「落ち着け、テフェリー。闇雲に飛び出したところで、そりゃァ無駄に時間と労力を失うだけだ」 

 

 ランサーの言葉に、しかしテフェリーが断固としてかぶりを降ろうとしたそのとき、唐突に結界の先触れが鳴り響いた。

 

 侵入者の存在を知らせる装置だ。こんな時に、というべきか、こんな時だからというべきか。兎角、セイバー、そしてランサーの反応は機敏だった。侵入者の存在を察知した刹那には、サーヴァント達は中庭に飛び出していた。

 

 縁側から先行したセイバーが、続こうとしたランサーを押し留める。

 

『私が行く。ランサーはそこで』

 

『――すまん』

 

 そのやりとりですらが、常人には知覚出来ないほどのマイクロセコンドで行われたものだった。――が、そのやりとりを僅かにだが視認している者が、しかしこの場にはもう一人いたのだった。

 

 

 カリヨンは先ほどの声を聞きつけ、矢も盾もたまらず屋敷の敷地内に踏み込んでいた。

 

 散々憂慮を重ねていたし、無策で飛び込めばどうなるかも予想は出来た。それに、中から続けて聞こえてくる声の、そのイントネーション、その抑揚にはついぞあずかり知らぬ響きが含まれていた。

 

 ただ、――それでも、その声そのものは決して聞き違えることの無いものだったから。

 

「……ンサーはそこで」

 

 そこで、聞きとめた声に硬直する暇こそあらず、一気に自分の眼前にまで飛び出してきた金の髪の少女の姿を見止めるより先に、強化された彼の直観力は全感覚の超加速を断行していた。

 

 だからこそ、彼はサーヴァント達の神域の速力に対して「視認してから反応する」という荒業を成功させることが出来たのだ。

 

 しかし、そこまでだ。いくら視認しできても、それでサーヴァントと対等に渡り合える筈もない。気がついたときには手の届く範囲まで接近されていた。

 

 それはよく見れば自分とたいして背丈の変わらない少女に見えた。にもかかわらず、その速力、身に纏う魔力、威容、そして眼光の鋭さ、どれもが想像を絶する領域にあるものだった。

 

 カリヨンは咄嗟に前進していた。後ろにではなく逆に前につんのめるように蹲ったのだ。なぜ自分でもそんな奇妙なことをしているのか理解できなかったが、それでも事実の判断こそが思考に先んじた。

 

 カリヨンの行動が慮外だったのか、無手で鎧だけを着込んだ――否、おそらく見えはしないがあの手には何かが握られている。そう、今のカリヨンには感じられた――少女はやや体制を崩してカリヨンと体を入れ替えた。

 

 一つの息をつく暇もあらず、前方には別の女が立ち塞がる。これもサーヴァントであろうとすぐに察せられた。こっちは随分と上背のある、奇異な体裁の女だった。

 

 両手に取った、まるでクリスタルで出来ているかのような鎖を、投げ縄のように振りかぶっている。

 

 カリヨンは己の不覚を悔いた。行き当たりばったりに行動したために、こんなところで二騎ものサーヴァントに挟み撃ちにあうようなことになろうとは、夢にも思っていなかった。

 

 しかし嘆いても始まらない。

 

 なんとしてでもここは切り抜けねばならない。絶対に! ――彼女の為に!

 

 何の考えがあったわけではない。しかしそう決意した瞬間、彼の中で何かの強烈な感覚、或いは予感とでもいうべきものが萌芽し、急激に幹の軽を増しながら彼の中で林立しはじめた。

 

()かった!」

 

 無意識のままに事実を吠える。それは本来なら有り得ないことであった。しかし、カリヨンはサーヴァント達の手をかいくぐり、その手の届かぬ場所まで離脱することに成功していたのだ。

 

 このとき、初めて彼は選べるという感覚を得ていた。彼が立て続けに複写した異能はすぐさま彼の中に装備され、整然と整理されていたのだ。彼はその中から先に獲得していた「加速」だけではなく「直感」と「魔力放出」そして「勇猛」のスキルを選び出し、併用することによって常人ではなしえぬ反射速度と体術を獲得したのだった。

 

 彼は二騎ものサーヴァントを、一時的にとはいえ単純なパフォーマンスで出し抜いたことになる。

 

 これにはサーヴァントたちも瞠目せざるを得ない。たしかにこの相手の加速性能は人間としては慮外なレベルだった。

 

 それでも速度自体は騎士クラスのサーヴァントに比べるべくもない。――が、その反射速度、体術、そして魔力を脚部から噴出させての加速性能。

 

 それぞれが、まるで己のスキル(それ)に順ずるものであったと感じられたが故に、彼女たちは思いもよらなかった驚愕に見舞われることとなったのだ。それこそ、ただの人間が行うには、たとえそれが魔術師であろうとも慮外の行為だった。

 

 矢庭の驚愕に一時の制動を余儀なくされたサーヴァント達の間を矢のように抜いて、カリヨンは家屋内に飛び込もうとした。そして、そこであるものを見つけて目を剥き、動きを止めた。

 

 銀色の手足を剥き出したまま座り込んでいる、懐かしい姿の彼女が、そこにいたのだ。

 

 まるで時が巻き戻ったかのようにカリヨンはその姿を見つめていた。時は奪われていたのかもしれない。鼓動さえ止めて、彼はその場に制止していた。

 

 それがよくなかった。

 

「あなたは……」

 

「あ――」

 

 テフェリーの発した独り言のような呟きに、声にならない呻きで応えようとした彼の身体を躑躅色の拘束具が絡めとり、そのままマジックショーよろしく串刺しにしせんとする勢いで幾本の杭が迫り来る。

 

「しまっ」

 

 た。とまで言う暇さえなく、やおら歪なハリネズミの体をなそうとした杭は、しかし止められていた。

 

「……チッ。おい、どォーいうつもりだセイバー」

 

 拘束具に連なる鎖の袂を執ったランサーが、己の杭を打ち払ったセイバーに、いかにも不服そうに問うた。

 

 セイバーはランサーには応えず、そのままテフェリーに問いかけた。

 

「テフェリー、あなたの知り合いなのですか?」

 

 その言葉に、ランサーも憮然と閉じた口をへの字にへし曲げて押し黙った。彼女も先ほどのテフェリーの呟きを捕らえていないわけではなかったのだ。それでもなお侵入者の抹殺を断行したのは彼女の勇猛さゆえか、あるいは彼女の女の勘に端を発する嫉妬心からなのか定かではなかった。

 

「……それは……」

 

 言いよどんだテフェリーに代わり、未だ素巻き状態で縛り上げられている状態のカリヨンが声を上げた。

 

「よかった。テフェリーッ、聞いてくれ、昨日言い忘れたことが……んぐぅッッッ!?」

 

 言いさしたカリヨンの身体を拘束していた鎖が、さらにきつく締め上げた。

 

「なァ、おい貴様ッ、いったいだぁーれに断って勝手に喋っとるんだ? あァん?」

 

「……ッ!」

 

「……構いません。ランサー、解いてあげてください」

 

 笑顔で少年を締め上げていたランサーは、それを聞いて心底嫌そうな顔を見せた後で素直に鎖を解いた。

 

「ン、ゲホッ……な、なんてサーヴァントだ。いきなり……」

 

「あぁ? まァだ言うか? とりあえずで殺られたいのか? このガキめ」

 

「ふ、ふざけるな! んぐう……っ」

 

 ある程度締め上げたあとでランサーが少年を放り出すと、セイバーは見覚えの無いその顔から、困惑気味なテフェリーの双瞳に視線を移した。

 

「どうなのですか? 彼とは面識が」

 

「それは……」

 

 テフェリーは困惑の色を深めたように、しどろに視線を揺らしていた。

 

「……うまく、言えません。現時点で彼はサンガール。敵同士です。本来なら是非もなく()()すべきです。……でも……しないでほしい。ランサー、私は彼を殺したくない……。なぜなのかは……解かりません」

 

 そう言って、先ほどとは一変した様子でテフェリーは俯いてしまった。

 

「テフェリー……」

 

 カリヨンが呟くと、テフェリーは彼をじっと見つめた。不可解な郷愁の訳を問うべきかを惑っているのか、それともそれを確かめるための使い慣れない言葉を模索して言葉を継げずにいるのか、兎角、二人はそのまましばし見つめあったままだった。

 

「――おィ待て、なんかいるぞ」

 

 苦虫を噛み殺したような顔でその様を睨んでいたランサーが、不意に声を上げた。セイバーもすかさずその気配に感覚をそばだて、緊張感を増した。

 

「使い魔でしょうか」

 

 そのとき、何処から出ているのかも判然としない金属音が鳴り響いた。一同が視界を巡らせて蹲ったカリヨンの足許に眼を向ければ、一刹那のうちにその影からテフェリーの影に紛れ込んだ気配が、しきりに何かを騒ぎ立てている。

 

「――()号!?」

 

 テフェリーが声を上げた。それはカリヨンについてきたレプラコーンである。地表をそぞろに動き回っていた影は、本来地脈の中にいる彼らの気配を霊的視覚がとらえるビジョンなのである。

 

「どうしてあなただけ!? マスターはどうしたのです?」

 

 すると、これに応えるように金床の音が忙しなく鳴り散らした。まるで何かのメッセージを伝えようとしているかのようだ。

 

「あァ、ワイアッドの使い魔か。なんと言ってる?」

 

 しばし耳を澄ましていたテフェリーは顔を上げて重々しい声を絞り出す。

 

「……マスターは敵の手に落ちたようです。彼は隙をついて逃げ延び、私を探していたのだと言っています。ですがこの雑音(ノイズ)のせいで方向がわからなかったとも……」

 

 唇を噛み締めるテフェリーを見つめ、カリヨンは感慨に耽っていた。彼女のこんな顔は、始めて見る。

 

 彼にとってこの状況はあずかり知らぬものであり、話の次第にもその深刻さにも付いていけなかったのだが、彼はそれらの推移にはとんと眼もくれずただテフェリーのことばかりを考えていた。

 

「ことは一刻を争います。――いきますよ、ランサー。マスターを救出します!」

 

 しかし、切迫した声をかけられた当のランサーは落ち着き払った声でそれに応じた。

 

「……いや、焦るな。ワイアッドのヤツはまだ死んではいまい。あれは、……自分で令呪を放棄したのだろうからな」

 

 それを聞いたテフェリーは一拍の間押し黙り、重苦しく声を荒げた。その双瞳には積もり積もったかのような懐疑がありありと表れていた。

 

「どういう、ことです? ランサー、あなたはなにかを知っているのですか? 私に、いったい何を隠しているのですか!? ――――いえ、私の事などどうでもいい! ……何故それがマスターを探しに行かない理由になるのですか!」

 

 しかし、ランサーは困り顔で頭を掻くばかりである。

 

「さァて困った。出来んものは出来ん、としか言えんのだがなァ。とにかくだ、あたしはお前を護らねばならん。だからお前を行かすことは出来ん」

 

 テフェリーは、一旦は息を呑み、そしてうつむいたまま低く静かな声を絞り出した。

 

「令呪が私に戻れば……後はどうでもいいと? ……魔力を送るマスターさえいればそれでいいと言うのですか。……あなたは最初から、マスターが死んでも令呪が私に戻ると見越して、それで私の身ばかりを護ろうとしていたのですか? 

 ……なるほど、確かにサーヴァント……もとよりあなた方はそういうモノでしたねッ! ……」

 

 擦れていたかのような声は、次第に火の様に熱を帯びて弾けた。憎悪すら含んで宝石のような二色の眼差しが顔前のサーヴァントを睨み付ける。途方もない感情の奔流を持て余すかのように、銀色の四肢が波打ち戦慄いている。

 

 カリヨンは驚いてそれを見ていることしか出来なかった。あのテフェリーがこんなにも感情を露にするなんて。彼は思っても見なかったのだ。

 

 そしてそれはテフェリー自身、今まで感じたことのない類の怒りだった。いままでこのサーヴァントに怒りを覚えたことは幾度もある。むしろそうでないことのほうが少なかったくらいだ。

 

 だが、こんなにも耐え切れない怒りを覚えたのは初めてだった。失望と、切迫した危機感と激情と倦怠感が体中から別々にあふれ出してしまいそうだった。

 

 直立することさえままならず、彼女はよろめいた。もはや四肢の制動さえままならない。

 

「そうではない。聞け、テフェリー。いまだワイアッドが生かされているというのなら、それはおまえをおびき寄せるための罠なのかもしれん。ならばこそ、おまえを行かせることは、今のあたしにはできんのだ」

 

「もういい……! あなたのことなどいらないっ……一人で、行きます」

 

 しかし泳ぐようにして踵を返そうとしたテフェリーの肩を掴んだランサーは、無言で彼女の身体を引き戻す。

 

「待つのだ。我がマスターよ」

 

「うるさい!」

 

 とうとう激昂したテフェリーの身体からは、言葉と共に魔力の奔流があふれた。彼女の左肩にあった聖痕の最後の一画が霧散していく。

 

「私に従え、サーヴァント!!」

 

 消費され、巻き起こった魔力の騒乱。――しかし、対するランサーは変わらずに不動であった。そして変わらぬ、彼女らしくない低く簡素な声音で告げた。

 

「できん」

 

「――――なッ!?」

 

 テフェリーは二色の瞳を剥いて驚愕した。当然の反応だった。己が命を棄てよという命ですら盛らぬ筈の絶対命令権。それが令呪である。

 

「……今、なんと言ったのです。ランサー」

 

「できん、と言ったのだ」

 

「!?ッ……なぜ……」

 

 不発? そんなバカな……。なぜ令呪が効かない? 混乱するテフェリーに、そこでランサーは諭すように語りだした。本来ならば最後まで秘すべき主の胸のうちを。

 

「……、令呪の効果が現れないのはな、以前の令呪がより強力にあたしを縛っていたからだ。間逆の指令を受けたせいで効果が相殺されたようだな」

 

「……以前の……指令? 真逆? どういうことです……」

 

「アタシが二画目の令呪、つまりワイアッドの最初の令呪で命じられたのはな、お前を守ることだ、テフェリー。ワイアッドは己の命を顧みることもなくそうせよと、私に命じた」

 

「…………? 何を言って」

 

「アイツには、魔術師としての願いなどなかったんだ」

 

 ランサーはテフェリーの肩に置いていた手に力を込めた。そこから逃れようとする少女を押し留めるように。力強く、しかし柔らかにその剥き出しの肩に触れる。まるで言葉と共にその手の温りを伝えようとするかのように。

 

「アタシに、……己がサーヴァントに、何にも優先しておまえの安全を護ってほしいと、あの男はそう言ったのだ。『命を賭して、やらなければならないことがある。だからその間、テフェリーを守ってほしい』と、最初に願いを問うあたしに、ワイアッド・ワーロックはそう言った」

 

 自失したテフェリーは声もなく、何か不可思議なものでも見るかのようにランサーの緋のような瞳を、そしてその唇から発せられた言葉をぼんやりと見つめていた。

 

「…………ランサー、私、は、マスター……は……なぜ、……」

 

 テフェリーは力を失くしたようにその場にへたり込んだ。合わせるように膝をついたランサーは、テフェリーの両肩をしっかりと掴みその顔を覗きこんだ。

 

「ワイアッドは、お前の実の祖父だ」

 

「……ッ」

 

 静まったままの周囲からも、息を呑む音が漏れた。

 

「ち、――違います。わたしは」

 

「詳しいことは知らん。それ以上聞き出すつもりもなかったし、お前たちの過去の事も何も知らん。だがな、納得は出来たぞ。お前たちは互いに唯一無二の家族だ。見ていればわかる。テフェリー、その事実に何を訝る必要がある」

 

「そ……れ、は……。でも、私はあくまで、」

 

 あくまで、魔術刻印の継承者として、そのための道具として引き取られるのだと。そう、最初に時計塔で聞かされていたから。

 

「私は、道具で、武器で、だから、マスターは私を」

 

 あくまで、刻印を継がせるための器として。だから、考える必要もなかった。

 

 訊く必要も、確かめる理由も、尋ねる故も、無かった。無いと思い込んだ。だって、訊けるはずも、ない。

 

 あの人にとっての自分が必要な器具でないしたら、どうしていいのかわからない。〝家族〟のやり方なんて、解からないのだから。

 

 だから、訊けなかった。一度も。訝りながらも、訊けなかった。怖くて、訊けなかった。

 

「なら、……なら、私は、……どうすれば…………どうすれば……」

 

 だから、いきなり、それも人づてに、〝応え〟を知らされても、どうしていいのかなどわからない。 

 

 もしも、――もしも、もしもそれが本当だというのなら、マスターが自らの命よりも己を優先するというのなら、己はどうすればいい?

 

 テフェリーは混乱を持て余して呆然と眦を開く、マスターの願いを尊重しようとするのなら、自分はマスターを助けに行ってはいけないことになってしまう。

 

 どうすればいい? それがマスターの意向なら、自分はそれに従わなければならない……けれど……けれど、けれどッ! …………けれど――――

 

「望んでみろ、テフェリー」

 

 身を震わせて虚ろな呟きばかりを漏らすテフェリーに、ランサーは微笑んだ。へたり込んだテフェリーと目線を合わせるようにして、いつも浮かべていた皮肉げな美貌ではなく、柄じゃないとでもいうような苦笑交じりに、しかし真っ直ぐに。

 

 まるで幼子をあやすような、力強くも暖かい微笑で語りかける。

 

「望むように生きてみろ、テフェリー。お前が欲しいと思うものはこの世界のどこかに必ずあるんだ。でもな、それはお前にしか見つけられない。お前の欲しいものだからな」

 

「……ランサー、……何を……?」

 

「人ってのァな、テフェリー。何かを望むから生きていけるんだ。そうやって生きるから、それを己の生だと誇ることが出来る。何を望むのかを人任せにしちまったら、そいつァ、もう生きてないのと同じってことだ」

 

 その光り輝く輪郭から溢れ出る光の奔流が、いっそうにその光陵を増し、まるで怯える迷い子のようであったテフェリーのすべてを包み込むかのように波打った。

 

「おまえはもっと多くを望んでかまわない。いや、望まなくちゃあならない。そうでなけりゃ、ワイアッド(アイツ)の願いは、永久に叶わないままだ」

 

 ランサーは言葉を続ける。その場の誰もがその苛烈にして流麗な言葉に耳を捉えられていた。

 

「おまえが一人の人間として真っ当に生きていくこと。当たり前に何かを望み、誰かを愛し、当たり前に笑って、泣いて、当たり前に死んでいく。お前が選ぶ、お前だけの生き方だ。人生だ。……それだけがワイアッド(アイツ)の願いだ」

 

「……」

 

「テフェリー。ワイアッドのただ一つの願いは、お前なんだ。アイツが奇跡の願望機に望むのはお前だけだ。ただ一人の家族であるお前の幸福こそが、アイツの願いなんだ」

 

 それは、予想もしたことのない答えだった。

 

「……家族……?」

 

 嘘だと思った。だって、そのように、想ってもらえているなどと考えたこともなかったから。だって、自分は、ただの――

 

「テフェリー、お前は何を望む?」

 

 しばし呆然として、それでも当たり前に答えは出た。いや、もうとっくに出ていた。テフェリーは力無くたわんでいた両の足を強靭に編み直し、立ち上がった。

 

「……まァ、ワイアッドのヤツはそんなことは絶対に言うなとかなんとか、フガフガ言っとったがなァ。……ま、ことがことだ。かまうこたぁなかろう」

 

 そう言ってランサーも立ち上がり、肩を竦める。テフェリーは二色の瞳に強い光を宿してランサーに応えた。

 

「……なおさらです! それならなおさら、此処にとどまる理由などありません! ランサー、私の願いも一つだけです。……助けます。私の大事な人を!」

 

「そうか。――――じゃあ、行くか」

 

 そしてサーヴァントもまた、当たり前のように己の行く先を既に決定していた。だがそこでテフェリーは不可解そうに尋ねる。

 

「……一度断っておいて、今度は共に来るというのですか? ランサー」

 

「あー、一応行くなと告げたしなァ、義務は果たしたことになるだろう。うん、たぶん。それにもう令呪の縛りもないわけだし、後はアタシの好きにさせてもらうだけだ」

 

「その令呪も、もう相殺されたのでしょう? あなたは……もう誰のサーヴァントでもない……」

 

 それを聞いたランサーはふむ、と鼻を鳴らした。

 

「確かにな。サーヴァントとしてマスターに云々の堅っ苦しい義務はなくなった。――が、アタシがどうするかはアタシが決めるってぇだけのことだ。――いいかテフェリー、例え使い魔として現世に呼ばれようとも、英霊ってのは自らが望まぬマスターに膝を折りはしない。そォいうもんだ」

 

 そう言うと、ランサーは長い流髪を翻すように振り返り、その様子を黙して見守っていたセイバーへ、澄んだ視線を向けた。

 

「悪いな、セイバー。聞いての通り、同盟はここまでだ」

 

 これより彼女たちは死地に踏み込むのだ。当然同盟者であるセイバーたちまで連れて行くことは出来ない。

 

「待てランサー、その身体では……」

 

「おォっと、勘違いをするなよ?」

 

 平時となんら変わらぬ凛冽とした声で、ランサーはセイバーの言葉を押し止めた。透明だった紅い視線が、矢庭に赤熱する刃の如き凶気を纏う。

 

「同盟を組んだままでは、我らの決着をつけることも出来んだろう? 丁度いい機会だ。ここでジジイを助け出して、仕切り直しと行こうではないか。今度会うときは、また尋常に立ち会いたいもんだ。……だから、まァ、あれだ。お前らも、急ぎ主を探しに行くが良かろうさ」

 

 と、ランサーはセイバーと、そして士郎の顔を見回して宣下するかのように言い放った。そしてまた口の端を吊り上げて微笑む。蒼褪めてなお艶やかさを増した厚唇が、痛々しくも華々しい。

 

 これがこの英霊のもつ、独特の華であった。向けられる視線とその五体からあふれ出す輝きは以前にも増して光陵を増している。

 

 だがその輝きとは裏腹に、血の気の失せ僅かに落ち窪んだ頬の青白さがそのコンディションを物語っている。せめて、いま暫しの休息が望めれば――。

 

 だが、セイバーとてもう解っている。もはやランサーを留める術も理由も確かに失っているのだということを。――否、もとより、この紅鉱石色の蛮勇が他者の諫言にてその歩みを留めることなどないのだということも、すでに承知のことだった。

 

 ならば、いま己に出来ることは、せめて混じり気の無い約束でこの女の闘志に応えることだけ――

 

 セイバーがランサーの視線に首肯して応えようとした、――――そのときであった。

 

 不意に、在らぬほうから魔力の奔流が湧き起こり、次の刹那には、口を開こうとしたセイバーの身体が、ふいに薄暗い暗色のヴェールのような不可解な空間の異相に包まれていた。

 

「これは……」

 

 それは令呪による強制召喚であった。誰もが瞬時にその答えに行きあたり、そしてそれが何を意味するのかという疑問に閉口せざるを得なかった。

 

 故に、その事象に対応できる者はこの場には皆無であった。唯一、 

 

「セ、セイバー!?」

 

 士郎だけがそう声を上げたが、彼が駆け出そうとしたときにはその存在は跡形もなく消え去っていた。一同が訝る暇こそあらず、士郎の切迫した声だけが辺りに残響した。 

「いったい、どうして……ッッッ!」

 

 一瞬の出来事に自失する士郎に、テフェリーも虚空に疑問を投げるかのような口調で答えることしか出来なかった。

 

「……あんなことが出来るのはセイバーのマスターだけのはずです。……遠坂様がやったとしか……」

 

 確かにそう考える他なさそうではあるが、何かが引っ掛かっていた。何処か不可解な感覚が消えていなかった。

 

 いよいよ混迷を極めた状況に、ランサーは鼻を鳴らした。

 

「フン、どォーやらいよいよ雲行きも怪しくなってきな。坊主、悪ィがアタシらは行かせてもらうぞ、セイバーを待っている暇はないんでな」

 

「いや、……待ってくれ。俺も一緒に行かせてくれ」

 

 一拍の間、駆け出そうとしたそのままの状態で膝をついて考え込んだ士郎は、やおら姿勢を正し、そう言った。

 

「……良いのですか?!」

 

 テフェリーの声に士郎は頷いた

 

「おそらくだけど、遠坂とセイバーもそこにいるかもしれない。タイミングが噛み合いすぎてる気がするんだ。それに、どの道俺一人でこんなところにいても意味がない」

 

「しかし……」

 

 言い澱むテフェリーを余所に、ランサーは再び口の端を吊り上げる。

 

「うゥむッ! それでこそ男だな、坊主。来たいなら来るがいい。……ところでテフェリー。行くのはかまわんが、ワイアッドの居場所への道標みたいなものはないのか?」

 

「……伊号はどこに居てもマスターの魔術刻印の場所がわかるはずですが、この雑音(ノイズ)がある限りはそのパスを追う事も出来ないでしょう。セイバーが遠坂様のパスを追えなかったのと同じです。今のセイバーのように、マスターが令呪を使えるならともかく……」

 

 このレプラコーンたちは代々のワーロックの当主へ魔術刻印とともに継承される魔道の遺産であり、これを統べることの出来る実力を有することが、かの魔術師の後継者の証であるとされてきた。

 

 そも妖精に取り憑かれた初代のワーロックが彼らとの交信を試み、盟約を交わしたことがその魔道の始まりであったとされる。以来、数百年に渡ってワーロックとともにあった彼等はその縛りを離れてなお逃げることはなかったのだ。

 

 もはや彼らが歴代のワーロック、それもワイアッドに対する忠義は本物であった。故に彼は己が忠道のためにここまで馳せ参じてきたのだ。

 

「ふん、無くなったものに言及してもはじまらんだろう。ならば、手当たり次第に行くまでのことよ!」

 

 気を吐いたランサーの背に、しかし呆れかえったような声が掛かった。

 

「何馬鹿なこといってるんだ。そんなことしてるうちに朝が来るぞ」

 

 一斉にその声の元に視線が集まった。

 

「僕も行くぞ」

 

 離れたところで胡坐をかいていたカリヨンが、彼女たちの会話に割って入ってきたのだ。

 

「何だァおまえ、まだ居たのか? 放って置いてやったのだからとっとと逃げればいいものをッ」

 

 殺気立って見下ろしてくるランサーの冷えた眼光にはしっかりと怯えつつ、立ち上がった少年は精一杯の気を吐いた。こちらとて生半可な覚悟でここまで来てはいないのだ。

 

「ふんっ、何だよ。助けてやろうかと思ったのに。お前たちだけじゃ一晩中歩き回らされるのが関の山なんだから」

 

「……」

 

 すると、不意にこの上なく晴れやかな笑顔を浮かべたランサーはおもむろに少年に近づき、たおやかに長い腕を掲げ上げた。そして、まるで天馬の羽かと思われるような白く長い指先をそっと少年の染みひとつない頬に添える。そして、

 

「いィま、なァにか言ったか、このガキぃッ!」

 

 指先で、ちょいとつまんで捻り上げた。

 

「い――――ひゃひゃひゃはやぁあっだッ!? なっ、何ひゅるんだよ!!」

 

「残念無念この上ないがなァ、貴様のような木っ端なんぞに構っている暇はたった今微塵もなく消え失せたのだ。今の暴言については忘れてやるからさっさと帰れ!」

 

「……いや、話だけでも聞いてみたほうが……」

 

 シロウの言葉にテフェリーも首肯した。

 

「ランサー、離してください」

 

 すると、さも嫌そうにランサーは手を放した。

 

「と、と、とにかく、このノイズがなくなればいいんだろ?」

 

「出来ればとっくにやっとるァッ! このガキィ、あんまりいい加減なことをいうと……」

 

 捻じ切られんばかりに抓られて真っ赤になった頬を押さえ、ふたたび伸ばされたランサーの魔の手を必死で避けながら、カリヨンは眼を閉じて何かを念じはじめる。すると、今まで其処彼処に堆積していた不快な雑音がきれいに取り払われ、消えていくではないか。

 

「おォ?」

 

「これは……」

 

「行くなら早く行こう。あまり長くはもたない」

 

「……なんだァ? じゃあこれはおまえの仕業だったのか?」

 

「そうじゃない。これは魔術でも宝具でもなくて、誰かの異能、特異能力の類なんだ。で、僕は他人の異能を中和できる。けど、これをできるようになったのは最近なんだ。だからそんなに長くは持たない」

 

 訝るランサーに、カリヨンは言葉を抑えつつ自分の能力を解説した。さすがに彼も初対面の相手に全てを語ってみせることはしなかった。

 

 この場合は、なぜ彼が雑音を中和出来るのかさえ説明できればいいのだ。が、テフェリーにまで嘘をついているようでその点についてだけ少し気が咎めたが。

 

「ふゥん? ――まァいい。どうだ、テフェリー?」

 

「いけますッ」

 

 今や彼女の影から靴の中に居を移したレプラコーン、伊号は今度は影ではなく地中に光る松明のようなヴィジョンとなって彼女の爪先に光を提示している。

 

「ぃ良し、そいつは重畳。でかしたぞチビ」

 

「チ……ッ?!」

 

「〝坊主〟ってのはまだマシだったのかな……」

 

 悄然とぼやいている士郎の脇でカリヨンは言葉を無くしていたが、ランサーは取り合うこともなくすぐさま出陣の準備に取り掛かった。

 

 しかし移動のために用意していたロビンソンは早々に大破してしまっている。そこでランサーが手をつけたのは、土蔵の前に停めてあった「戦利品」の大型バイクであった。

 

 如何に大型とはいえ、まさかそれで四人もの人間を運ぶつもりなのかと訝る視線を余所に、やおら漆黒のドゥカティに跨ったライダーの双肩と背部の装甲が突如として風船の如く膨らみ、バランスを崩して真下(ちょっか)に落ちた。

 

 それらは地表に着く頃には車輪の様相を現していた。ランサーの装甲は次々と肥大化して落下する。それらはガラス同士を擦り合わせるような、それでいてどこか風鈴のような涼やかなものさえ含む音色を立てながら枝分かれを繰り返し、鞍に、馬鎧に、馬車の荷台にと伸長し、巨大な形態を造り出す。

 

 それは小山ほどとさえ錯覚されかねない、豪壮にして絢爛な騎馬車であった。

 

「さァ、乗れ」

 

 如何に大型とはいえバイク一台分の動力で牽引できる規模とは思えなかったが、輝甲の重戦車はつつがなく滑り出した。

 

 怪しい夜気に照らされた装甲は真紅に染まり、獰猛な嘶きを轟かせて走行する様は今にも大空へ飛び立とうとする火翼竜(ワイバーン)を想わせるほどであった。

 

「いざ参らん、戦場へ!」

 

 紅竜を駆る蛮族の女王は鬨の声を上げる。滑らかな紅玉を纏った操舵を、暗雲漂う新都へ向けてきりながら。

 


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