Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

41 / 65
四章 灰眼創者「ダーク・クリエイター」-1

 冬木市は新都センタービル。昨夜オフィス街で巻き起こった紅蓮の火の手も、ここまでは届いていなかった。その為、人々はこの日も通常通りにこのビルを訪れていた。

 

 しかし、この日はどこか妙な違和感があった。昨夜の影響で少なからずとも騒がしいのを別にしても、どこか奇妙な感覚を憶える瞬間があった。

 

 にもかかわらず、その違和感が何なのか、わかる人間は一人もいなかった。このビルの階層が人知れず一つ分少なくなっていることに、誰も気付くことが出来なかったのだ。

 

 深夜の森の攻城戦から一夜。命からがらといった風体にて冬木の市街まで逃げ延びていたカリヨンとキャスターは、逃走の途上で海岸に打ち上げられていた鞘を発見していた。

 

 彼女はセイバーとの一騎打ちに敗れ、遥か沖まで吹き飛ばされながらも、未だにしかと生存していたのだ。

 

 鞘がどうやって海岸まで辿り着いたのかは定かではなかったが、彼女の脳裏から粗方の事の次第を読みとったキャスターは思わず貌を顰めざるを得なかった。

 

 昨夜、行き当たりばったりに戦禍の只中に飛び込み、その挙句の果てにあの騎士王相手に一騎打ちを仕掛けるというのはあまりに無謀が過ぎるではないか。この有様も当然と言えば当然のことだ。命があっただけでも僥倖だと言えよう。

 

 兎角、意識不明になっていた鞘を回収し、このセンタービルに辿り着いたのはもう空の色が大分白んでいたころだった。キャスターはすぐさまこの高層ビルのワンフロアを接収した。

 

 さらにこのビルに足を踏み入れる者全員に軽い暗示が掛かるように仕向け、この階そのものが元から無かったかのように感じるよう、このビルそのものを改装したのだった。

 

 同時に、彼女に伴いあの森から抜け出した彼女の眷属たち、千にも昇る怨霊の群はそれぞれにこの新都一帯のビル群へと散じ、それぞれの建物に入り込み、そこで根を張っていた。

 

 その総ての居城にキャスターのものと同じ魔の芳香を撒き散らし、本命のセンタービルそのものをカモフラージュしているのだ。木を隠すなら森の中、というわけである。

 

 これで敵が何らかの方法、または偶然からキャスターの足取りの痕跡を見つけたとしても、その居場所の詳細を知ることはできなくなった。この一帯の数ある建築物の中からここを見極めるのはそう簡単なことではあるまい。

 

 仮に敵が地道な捜査を開始したのだとしても、充分に時間稼ぎにはなる。

 

 とは言え、やはりこれはあくまでも一時的な措置だ。この場所は身を隠すには良くても要害としてはあまり上等とはいえない。敵に見つかれば、いくら策を練ってもそれを突破されることはありうる。それは昨夜の戦闘で充分身にしみている。

 

 それでも、キャスターはここを選んだ。それにはそれ相応の理由があるのだ。

 

 いまや無人なったはずのフロアの隅で応接用のソファにゆったりと身を沈め、妖艶に四肢を組んだ妖女は一人思案に耽る。

 

 昨夜の体験。完全敗北。そして形振り構わぬ敗走――もしも彼女が真っ当な英霊、誇りや名誉を拠り所にして立つ士道の雄であったなら、その事実は彼女の心を侵しつくし、その挙を報復の暴挙へと駆り立てたであろう。

 

 しかし、真正の魔女である彼女にそのような杞憂は無用であった。並べても、彼女は感情の猛りに任せて己を奮わせる能動的なタイプのサーヴァントではない。むしろその逆だと言えた。

 

 感情を抑え、制御し、綿密な謀略を持って事を運ぶ、静的な資質の持ち主であったからこそ、その紅蓮の如き憤怒の只中に在ってさえ、彼女は冷静であった。

 

 今思案するのは、現在の状況についてだ。己とそのマスター、そして鞘。三人の内、誰も欠けてはおらず、失ったものは借り物の城がひとつ。そして得たものは諜報では得がたかった情報とそして経験。

 

 ……収支で言うなら、ばむしろ黒字だといえる。決して誇張ではなく彼女は本心からそう考える。

 

 あの森の城が敵に知れたことの第一の要因は、ひとえにキャスターにその隠匿を徹底しようという気が最初からなかったことである。

 

 まさかあの堅固な城に、序盤から大胆にも攻め入ろうという無謀な輩はいないだろうという見通しは――結局のところ裏目に出たわけだ。

 

 さすがは古今東西の英霊が集う聖杯戦争。戦略の定石も魔術師の定石も、なるほど通用する道理がないというところだろうか。

 

 キャスターは改めて己を戒め、その反省から今度は前から目をつけていた場所を選択したのだった。今度は防衛ではなく、こちらから攻めるために。

 

 そもそも、あの超々距離の射程を誇る砲火の前ではどこに隠れても同じことである。しかし、察するにライダーは探知能力に優れたサーヴァントではないと考えられる。

 

 彼らがあの城を発見出来た第二の要因は、敵の戦略にある。それはあの雑兵たちを使っての人海戦術であろうと予測できた。どうやってあれだけの数の一般市民を己が走狗としたのかは知らないが、おそらく敵は彼らを街での諜報、探索にも使用していたのだろう。

 

 なるほど、従来からこの街に暮らす住人がそろって監視に当たるなら、下手に使い魔を飛ばすよりもよほど怪しまれることなく調査を遂行できることだろう。もっとも如何な魔術師といえども、それほどの数の人間を怪しまれることもなく操り続けることは至難の業だし、労力の無駄遣い以外の何物でもない。

 

 カリヨン(マスター)から聞き及んだように、それを可能とするがあの次兄の「異能」によるものなのだとするならば、それこそなんと恐るべき魔の御業であろうか。 

 

 そして己の能力を最大限に発揮できる方法を迷わず選択し、目的のためにはあらゆる要因を排除することを厭わぬ冷徹さ、場所さえわかれば間髪おかずに火力と人員の数に任せて一気に攻め込む迅速にして大胆な行動力。

 

 一見強引な攻め手と見せて、その周到さが窺える。なるほどマスターのいうとおり、あの次兄は難敵だ。

 

 それでも――、こちらにとって良い材料がないわけではない。一旦兵を使い果たした以上、しばらくは時間の猶予があるはずだ。

 

 ――いいだろう、借りは返してやる。

 

 それまで情感を欠いていたはずの魔女の美貌が、不意に空恐ろしくなるほどにさざめき、その紅い唇が明らかな喜悦にほころんだ。それはこの世のものとも思えぬほどに美しく、同時に恐ろしい微笑みだった。

 

 何よりも、この場所を選んだということは彼女が守勢ではなく今度こそ本気で攻勢に廻るつもりになったことを意味するのだ。そう、隠匿は一時的で構わない。

 

 この一手で総てを終わらせるのだ。それだけの用意を彼女はこの街全体に施しているのだから。

 

 しかし――そんな彼女にも、ひとつ看過できぬことがあった。

 

 思案の馳せるに任せるうちに、それに思い至り魔女の妖笑が再び沈鬱に沈みかける。――そのとき、視界の隅で盛大な物音がして、キャスターはそちらを振り返った。

 

「……大丈夫ですか? マスター」

 

「お、怒っては、いないんだよな……」

 

 カリヨンは一度、何かに怯えたように顔を引きつらせてから、恐る恐るキャスターに尋ねた。

 

「何のことです?」

 

「……いや、なんでもない」

 

 キャスターがひとり思案に耽っているその間、カリヨンはといえば、初めて自覚した自分の異能を把握しようと躍起になっていたのだった。

 

 広いフロアは邪魔な障害物を取り除かれていた。そこをカリヨンは運動場代わりにして体術の、そして昨夜覚醒した己の異常な得意能力を試していたのだ。

 

 異能とは魔術とは一線を画す、生まれながら、または生きる過程で付属した通常では考えられない力のことである。サンガールの後継者たちにとっての異能とは後者を指す。 

 

 彼等は監督役であるテーザー・マクガフィンの心霊手術により魔術回路を増設され、その折にそれぞれが魔術では成しえない一代限りの変異的生体機能、つまりは異能と呼ばれる特異能力を獲得したのだと言う。

 

 その中で唯一、カリヨンだけが何の機能も獲得できなかったことが、彼が潜在能力の低さを指摘されてきた理由のひとつだったのだが、それは間違いだったのだ。

 

 彼にも条理ならざる異能は、確かに備わっていたのである。

 

 彼の異能は「同調吸収」と呼ぶべきものである。見る、聞くなどして体感した他者の特有の機能に瞬時に同調(シンクロ)し、その機能をほぼ無自覚のうちに吸収(ラーニング)して己のものとしてしまう破格の異能。

 

 彼がいままで何の能力も発揮できなかったのは、離れて暮らす兄姉たちを除いて、周りに彼が吸収するに足るほどのレベルの特異能力者(タレント)が居なかったからに違いない。

 

 そしてなによりも、本人が自分には何の能力もないのだと思い込んでいた精神的制約こそが、最大の要因だったのだと思われる。 

 

 しかし、それが昨夜の危機的状況に瀕して覚醒し、あのモザイク柄の怪人の、目測を赦さぬほどに自他の物体を『過加速』する能力を己のものとして発現した彼は、昨夜の窮地から己とキャスターを救ったのだ。

 

「それはそうとキャスター、サヤはどうしたんだ? さっきまでそこで寝てただろ?」

 

 昨夜、河川敷から回収されていた鞘は酷く負傷しており、キャスターは取り急ぎ治癒を施した。

 

 そして半日ほどソファに寝かされていたはずの鞘の姿は、今や完全に消えうせていた。

 

「それが……眼を覚ますなり空腹を訴えて飛び出していってしまいまして……」

 

 その治療の効果は思いのほか覿面(てきめん)だったらしく、目覚めた鞘はまた止める間もなく出かけてしまったのだという。

 

「ええ? 気付かなかったな……。それも何も聞かずにか? 怪我もひどかったのに……」

 

 キャスターたちも身体ひとつで脱出したわけなので、必要なものを買出しに出かけるという名分はあったのだが、負傷していた筈のサヤが起き掛けに勇んで出て行くというのはさすがに不可解だ。

 

「いえ、状況は説明しました。……何処まで聞いていたかは定かではありませんが……。負傷のほうも、さほど深刻ではありませんでしたしね。サーヴァント顔負けの回復力ですよ」

 

 いくら〝剣のサーヴァント〟のマスターとはいえ、言葉もないとはこのことだった。キャスター自身、彼女が召喚した英霊(セイバー)については詮索を控えていたが、ここに来てどうにも不可解な気がしてくる。

 

 剣のみがセイバーとして召喚された異例の英霊。それがマスターである鞘の手によって英霊顔負けの戦闘力を発揮するというシステム。

 

 あの剣がサヤの身体を強化しているというのはわかるのだが、さて、どうにも彼女の行動にはなにかそれ以外の外的要因を感じる。

 

 とはいえ、お互い協力関係を維持しているだけの関係なのだから、そのサーヴァントについて教えてほしいというわけにもいかないだろう。キャスター自身は未だそのサーヴァントを見たことがない。

 

 今までは特に気にしていたわけではなかったのだが――何か不自然だった。鞘は本当にいままで()()()()()()行動していたのだろうか?

 

「そうか。ならいいけど……それにしても元気な奴だよな。……そういえば、僕も昨日から何も食べてなかったな……」

 

 しかし一瞬の内にそこまで積み立てられた懸念は、少年の声で遮られ、霧散してしまった。

 

「随分集中されていたようですわね。鞘が出てからしばらくたちますからもうすぐ戻るかとは思いますが……どうしますか」

 

 彼女が本当に心を砕くべき懸念は、こちらにこそにあったのだから。

 

「はあ……、ホントにじっとしていられないヤツだよな……まぁ、丁度いいや。僕が呼びにいってくる」

 

 カリヨンは溜息交じりにそう言ったが、その顔には少年らしい健やかな喜色が浮かんでいる。しかしそれを聞いてキャスターは微笑を僅かに翳らせた。

 

 カリヨンの異能の特筆すべき点は、本人が意識していない標的からでも、それが異能を備えているならば、ほぼ自動(オート)で異能の吸収と同調を行うことであろう。

 

 さらに特筆すべきは、今の彼は何者かが行っている街の通信撹乱を中和して魔力探知を行えるのだ。

 

 今もこの街を覆い続けている不快な妨害雑音(ジャミングノイズ)は、どうやら魔術ではなく、何者かの異能によって引き起こされているものであったらしい。道理で魔術による解呪や防備が通じないわけである。

 

 カリヨンはいつの間にか、その能力をも吸収していたのだ。故に、彼は今やこのノイズに翻弄されずに行動することができる唯一の人間となったことになる。

 

 こうなると、この霊的雑音に対して処置なしのキャスターよりも鞘を捜しに行かせるには、確かに適任だといえた。つまるところ昨夜河口近くの河川敷で気を失っていた鞘を回収できたのも、彼がこのノイズを中和できたおかげなのだ。

 

 という事情もあり、さすがにこの意見にはキャスターも同意しないわけにはいかない。しかし、

 

「確かに、今のマスターなら適任だとは思います。私では鞘を捜せませんし、それにあと丸一日はここを動けないのも事実です……しかし、よろしいので? マスター」

 

「何が?」

 

「その、出歩いてもよろしいのですか? あの男もまだ……この街にいるのですよ」

 

「あ……」

 

 あの男――無論、あのモザイク柄の怪人のことである。あの男と邂逅してからというもの、カリヨンはおぞましいまでの恐怖に、その心身を苛まれていたはずなのだ。

 

「……何者なのですか、マスター?」

 

 押し黙った少年に、キャスターはあらためて問うた。彼を気遣うあまりに、二昼夜にわたって問えなかったたことだが、こうなっては確認しておかずにはいられなかった。

 

「僕は、……僕たちはただD・Dって呼んでる。何者なのかは分からない。ただ、八年位前からサンガールの家門を狙ってる奴なんだ。……何でそんなことするのか、僕は知らないけど、衛兵や門人が何人もアイツと戦って殺されてるんだ。

 

 協会もその正体を把握してないって言うし、未だに何の手も打ててないらしい。僕が知ってることはそれぐらいしかない……」

 

「マスターは以前にもヤツを見たことが?」

 

「……八年前、最初に襲われたのが僕ら……僕なんだ」

 

「それで……。なら、なおさら独りで出歩くのは控えた方がいいのでは? 鞘のことはいいですから、今日はここで……」

 

 しかし、カリヨンはゆっくりとかぶりを振った。少年は静かに、そしてしっかりとした語調で告げる。

 

「いや、大丈夫だよ。僕は、前とは違うんだから」

 

 それを聞いたキャスターは一瞬、悲痛そうに顔を曇らせたが、見上げてきた誇らしげな顔に一応は笑って見せた。上手く笑えていたのかは良くわからなかった。

 

「でも、キャスター。丸一日動けないって、何かするつもりなのか?」

 

 一転、今度こそその白い顔を優しく綻ばせたキャスターは、なにやら含みを持たせて主の質問に答えた。

 

「ええ、今度はこちらから攻める番ですので。ひとつ趣向を凝らそうかと思っております」

 

「趣向?」

 

「ええ。目には目をというわけではありませんが。向こうが人海戦術で来るならば、こちらは物量作戦で応えようかと」

 

「……はぁ? ……うん、まぁ、取り敢えずは解かった」

 

 イマイチ的を射ない返答だったが、ひたすらに優しげなキャスターの微笑みに逆に空恐ろしいもの感じて、カリヨンは眉をひそめながらも素直に首肯した。

 

 戦略については元よりなし崩し的に任せきりなのだし。それに今、彼にはもっと重要なことがあったのだ。こちらについては一刻を争うかもしれないのだ。

 

 つい言いそびれてしまったのだが、カリヨンは鞘を捜すよりも先にテフェリーに会いに行こうと考えていたのだ。キャスターに告げてから、とも考えたがさすがに昨夜とは事情が違う。

 

 こんなときに一人で行動などさせてもらえるはずもないし、テフェリーがどこかの勢力に属しているというのなら、なおのことキャスターに同伴を求めることは出来ない。

 

 だが、それでも、この足を止めることなど出来はしなかった。

 

 内心でキャスターに頭を下げながら、少年は確たる足取りで街に駆け出していった。

 

 その後姿を笑顔で見送ったあと、キャスターは妖艶な仕草で息を洩らし、また悲痛そうに眉根を歪めた。

 

 それは笑顔の裏にあるキャスターの焦燥を物語っていた。

 

 ――急ぐ、必要がある。主と穏やかに談話している間にも、そして今ひとり佇んでいる間にも、サーヴァントたる彼女は戦況を好転させるべくある準備を続けていたのだ。

 

 今、こうしている間にも、彼女の眷属たる悪霊たちはこのセンタービルを中心に広大な魔方陣を形成しつつあった。

 

 街中に漂う魔力の悪露(ノイズ)とビル群に拡散した怨霊たちの形成する結界のおかげで、逆にこの大規模な魔術式が探知される可能性は少なくなる。

 

 召喚されてよりこの日まで、昼夜をおかず構築し続けてきた術式であった。明日の未明、己に残った魔力を、秘術とともに最大開放する。

 

 この儀式を、そしてこの闘争を一気に終結させ、決着をつけるために!

 

 キャスターはこの儀式が始った当初から、この一手で全てを終わらせるつもりで用意をしていたのだった。

 

 術式そのものはすでに町全体に施してある。あの城を破壊しても同じことなのだ。冬木市内であれば、何処からでも問題なく起動することが可能だ。

 

 だが、いざ魔術式を発動させてしまえば、彼女は主の護衛にまで手が廻らなくなる。だからこそ、彼女は鞘を仲間に引き入れたのだ。

 

 しかしここで、彼女の心胆を焦がし続けている懸念が、その比重を増し始めていた。

 

 カリヨンの異能は強力すぎる。

 

 特にその能力が驚異的なのは、異能者だけでなくサーヴァントの固有スキルすら他者の特出した機能と認識して吸収し、再現してまう点だ。

 

 獣と通じ、未来を予見し、常人では成しえない感覚を一瞬でものにする。個々の対象の特性を本能的に見極め、その特殊能力に同調(シンクロ)できる。

 

 今は開花した能力が手当たりしだいに同調と吸収を繰り返しているようだが、その能力を四捨選択して自在に扱えるようになるなら、彼はいずれサーヴァントとすら互角に戦えるほどの能力を持つことになるかも知れない。

 

 未だ脱落していないサーヴァントや異能者から、全ての異能を取り込めるようになったなら……。

 

 それまで庇護の対象でしかなかったカリヨンが、突如として強盛な異能に目覚め、戦力として成長していくというこの展開は、しかしキャスターにとっては決して歓迎できるものではなかった。

 

 上機嫌なカリヨンとにこやかに接している間も、しかしキャスターは内心でその顔を曇らせていたのだった。

 

『ふーん。でもさ、それだとカリヨン(あの子) 、今度は自分から戦いに行くようになっちゃうんじゃない? かえって危なくなーい?』

 

 ――それは、事情を話した後、それを聞き流しながら忙しなく出掛けようとしていた鞘が、さらりと漏らした言葉だった。

 

 彼女はキャスターに答えを求めるでもなく、そのまま買い出しに行くと言って飛び出し行ってしまったのだが、……今度は無理をしないようにと言い含めるつもりが、それも出来なかった。

 

 彼女のその台詞を聞いた瞬間、キャスターは息をすることさえ忘れていたのだ。

 

 確かに、そうだ。力を得るとはそういうことなのだ。確かに彼の異能は破格だ。現状に置ける戦況を引っくり返すには充分な切り札(カード)となりうるだろう。本来なら戦力として数えるのが正しい。

 

 だが彼女は、最後まで主たる少年を戦場に出すつもりはなかった。戦えるということ、それは同時に命の危機に飛び込んでいくということと同義なのだ。

 

 特に自分の力を過信しがちな若者について、それはあまりにも顕著だ。勇気と無謀とは似通うようでいて全くの別物だということが、しかし内面の鮮烈な熱量に突き動かされる衝動と興奮を覚えてしまった若人には、その区別をつけることなど出来はしないのだ。

 

 おそらくキャスターがどう言葉を掛けても、今のマスターには通じないのだろう。だからそれだけは避けなければならない。そうなる前に、この『聖杯戦争』という儀式を終わらせなければならない。

 

 それが、今キャスターが胸の内に固めた決意だった。

 

 しかし、そこで魔女はまた懊悩に美貌を曇らせる。あんなに生き生きとした少年らしい顔を始めてみた気がする。だがそれこそが、尚更にこの心を締め付けるのだ。

 

 胸が、熱かった。失われてしまうのが恐ろしくて仕方ないのだ。必要ない。無用だ。こんな感情は、必要ない――。

 

 それでも、思わずにはいられなかった言葉が、赤い口唇の間から漏れるのだ。

 

「もう二度と……」

 

 失うわけには、いかないのだと。

 

 キャスターは不意に折れそうなほどに細い身体を折り曲げ、嗚咽するかのような声を漏らして想いの丈を反芻する。

 

 それとも、最初から言っても聞かないだろうと諦めるのではなく、しっかりと言葉で釘を刺すべきだったのだろうか?

 

 そうだ。例え叱責の言葉でも、掛けられる言葉があるのなら、そうするべきだったのではないだろうか?

 

 キャスターは我が子の行方を知らぬと言った鞘の横顔を思い出す。

 

 そうだ。何よりもつらいことは、言葉を伝えるべき相手が、己の声の届くところにいないことではないか。

 

 ふと、考えが過ぎる。

 

 差し出がましいことかもしれないが、もしも聖杯が、万能の願望機が手にはいるというのなら、彼女は鞘の願いをかなえてやりたいと思った。

 

 無論カリヨンがいいと言うのならではあるが、もしも鞘が行方の知れぬ我が子を取り戻したいと願うなら、聖杯によってそれを叶えてやりたいと思う。

 

 その子供を抱き上げている鞘の顔を見られたなら、それはきっと何よりの報酬になると思えた。そうだ。そしてカリヨンは願いを叶えて当主となり、健やかに笑ってくれるのではないか。

 

 もとより願いもない、得るものもないこの外法の儀式で、もしもこの卑しい魔女が手に入れられるものがあるとするなら、それはきっとあの二人の笑顔なのだろう。

 

 そう想い、夢想し、キャスターは己が身を震わせる。

 

 そうだ。それが求めるべき望みなのではないか? そして願わくば、この憚りのない小さな想いが消えぬことを、切に――――

 

「……フッ、フフフ……」

 

 しかしいくらそう願ってみても、口をついて出たのは自嘲気味な失笑だけだった。

 

 祈るべき神さえもいないこの身で、一体誰の幸福を願おうというのか? 唯の魔女がどうして誰かの幸福を望めるというのか?

 

 暫くして顔を上げた魔女はもう嗚咽を漏らすこともなく、一人、悲痛な苦悩の痕だけを、その白い顔に浮かべていた。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。