Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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三章 加重細動「アンダー・ベクトル」-1

 

 周りの空気は既にとっぷりと夜の色に染まり、月もなければ星も見えない夜の道を、緩やかな坂道に沿って並び立つ街灯の光だけが味気なく照らしていた。

 

 その日、「彼」はいつもどおりに多めの残業をこなし、夜も遅くに家路についた。いつもの光景。彼はいつものように徒歩だ。行き着く先の社宅はゆっくりあるいても二十分も掛からないところにある。いつもの通り、平凡なサラリーマンの繰り返す、平凡な家路への帰途であった。

 

 しかし、その家路に続くはずの道が、いつもとは違った。彼の足はまるでそうすることが当然であるかのように、いつもとはまったく別の方向を目指して歩み始めたのである。

 

 そうしてしばらく歩いたころ、周りにはいつの間にか何人かの見知らぬ男たちが、同じようある方向を目指してひたすらに歩を進めていた。

 

 彼と同じ仕事帰りのスーツ姿の者もいれば、寝巻きの者や警察か警備員のような制服を着ているものもいる。それも一様に声を発する者はいない。余所見をする者もいない。まるで歩む以外の機能を最初から持ち合わせていないかのように。唯一路、ある場所を目指して進んでいく。

 

 どうしてこんなことをしているのだろう。ふと、不思議に思って彼は考えてみようとした。しかし、なにも浮かんでは来ない。それでも一生懸命に考えようとしてみた。すると少し思い出すことができた。

 

 そうだ。

 

 目だ。

 

 目が見えたんだ。

 

 あれは確かに目だった。

 

 そしてどうなった? そうだ。次に目以外のものが見えなくなったんだ。そして声が聞こえた。――

 

 そこまでだった。そこで彼という存在に残された時間は唐突に終わりを告げた。

 

 それでも彼の身体は歩く。動く。ある場所を目指して。

 

 「彼」がそれを思い返すことは二度とないことであったが、それは今日の昼間のことであった。

 

 

「……言い方はよくないかもしれないけど、これまでの俺の人生は平凡そのものだった。可も無く不可もなく、でも堅実にやってきたつもりだ。

 

 仕事だって頑張ってる。朝は八時から夜は十時過ぎまで、常に三、四時間の残業をこなすし。名目上二時間はとらなきゃならない休憩も、自主的に半分返上して、月に一回は休日出勤が入る。――白状すれば、決して楽じゃあないさ。でもやっていける理由があるんだ。

 

 昔は馬鹿もやったが、今は丸くなって家族だけが宝物だと思ってる。ホント、仕事はつらいけど、毎日が充実してるよ。今じゃ仕事が俺のプライドさ! 確かに平凡だったかもしれない。でもいつも全力で精一杯に生きてきた。だから不満は何処にもないんだ……」

 

 しかし滔々と語るその声に応えたのは、まるで溜息のような深い憐憫を込めた言葉であった。

 

『君たちは、本当に……滑稽なほどに意味の無い生き方をしているんだね……。まるで辺獄の囚われ人のようだ……。でも安心して欲しい。その、まるで無為な人生に、僕が重要な意味を与えてあげるから……』 

 

 もはや感心するとばかりに、つぶやくように。するりと内側まで侵入(はい)って来る、ひどく優しい言葉……。

 

 時間にすればほんの数分程度の時間だったことだろう。

 

 最初は向かい合っていた青年の目が、灰色の光芒を発して光るのが見えたのだ。白昼の陽炎にまぎれて淡く光っていたそれが一瞬にして光量を増した。否、そうではない。

 

 その光以外のものが彼の視界から消失し、その仄暗い光だけが全く塗りつぶされた闇の中で輝いていたのであった。

 

 それを見つめた瞬間、彼の意識からは時間、空間の認識が取り払われ、むき出しになった自我は個という矜持を否応なく剥奪された。

 

 そして眼窩から頭蓋の中に冷たい手のようなものが入ってくるのが分かった。それはま水母の足のようなものにも思えた。人の手かと思われたものに、くらげの足のような指が幾つも生えていたようだったからだ。それが彼の最後に残っていたものに取り付いてバラバラに分解しはじめた。ほどかれ、はずされ、洗われて、攪拌され、削られ、つなげられ、磨き上げられて――最後には彼の中身はまったく別のかたちになっていた。彼ではあったが別のものであった。それは彼という部品で組みかえられた別の彼であった。

 

 それを見る。見つめて、目が会う。おぞましい吐き気に襲われ、

 

「はっ?!」

 

 ――絶叫を張り上げる代わりに我に返った。今しがたまで見ていた気味の悪い夢のことは忘れていた。なぜか? 忘却せねば生きていられぬからだ。しかし幸か不幸か、彼はそれを最後まで知りことはなかった。

 

 彼はあたりを見回す。なじみの公園。よく座る木陰のベンチだ。

 

「あれ?」

 

 そうだ、自分は昼休みに食事をしようと外にでてきて、それで妙な外国人に声を掛けられ、どうでもいいようなことを話したのだった。

 

 だがその途中からの記憶がない。見回してみても、もうあの外人の姿も見当たらない。

 

「あっ、昼休みが終わっちまうじゃないか」

 

 時計を見ると時刻は既に一時近い。結構な時間呆けていたらしい。こうしていられない、早く仕事に戻らなければならない。

 

「……疲れてんのかなぁ?」

 

 駆け出す背広姿の男性の背中を見送って、芝生の上に腰を下ろして分厚い本を愛でていたその青年はゆっくりと立ち上がると、その場から立ち去った。

 

 道すがら、青年は春の風がほころんでいるかのような華やかな声を歌っていた。

 

「これで……四〇と一……いや、二か。もう少し欲しいところだけど、まぁ城攻めの用意としてはこんなところかな?」

 

 傍らの気配が音もなくそれに首肯した。伝わってくる気配には待ちきれないかのような急いたものが感じられた。青年はフッと微笑を浮かべ傍にいる霊体に語りかける。

 

「さあ、行こうか、ライダー」

 

 決行は夜。準備は整った。 

 

「君流に言うなら……そう、『ショータイム』だ」

 

 

 そして深夜。ひたすらに歩き続けた男たちの一団は次第にその数を増し、郊外の県道に用意されていた何台かの車両にすし詰め状態になるのも構わず乗り込んだ。

 

 その車種も業務用のトラックから乗用車、果ては救急車や消防車まで、まるで寄せ集めの出鱈目な組み合わせであった。にもかかわらず、その烏合の衆のはずの男たちの集団は全く揉めることも、否、一言の会話をすることもなくおとなしく押し込められ、そろってある場所を目指して走り去ったのだ。

 

 まるで家畜のようにトラックの荷台に押し込まれた「彼」は去り行く街の明かりをぼんやりと見ながら最後に、はやく家に帰りないなぁ、と思った。

 

 しかしそれっきり、彼が日の目を見ることはなかった。彼が、慣れ親しんだ我が家に帰りつくことは二度となかったのである。

 

 


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