Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ) 作:どっこちゃん
冷たい石造りの城の中。彼女一人には大きすぎる豪奢な寝台の真ん中で柔らかな毛布に包まりながら、伏見鞘は泡沫の夢にまどろんでいる。ほぼ丸一日を費やした眠りは既に浅くなりつつあったが、鞘は未だにそのヒュプノスの残り香を懸命に貪ろうとしていた。
それでも夜の陰りは滞りなく進行し、否応無しに彼女を戦いの現実へと引き戻そうと――。
「――?」
だがそこで、濡れた毛布を見て気付くのだ。自分は寝ながら、泣いていたらしい。
なぜだろう? と考えるが、霞がかかったような頭ではうまく答えを見つけられない。でもこの霞が去ってしまえば、きっとこの涙の
解かるのは夢を見ていたということだけ。不思議な夢だった……。二つの色違いの瞳が自分を見ている。困ったような貌をして、でも最後にははにかんだ。優しい、見ているだけで安心できる男の顔。――誰なのだろう。
「なぁ」
「……」
「なあってば!」
「…………んん~?」
彼女のベッドの脇には既に見慣れた感のある、線の細い少年の顔があった。
「ん~、なによ~。おしっこ? それとも一緒に寝たいの?」
半裸のまま毛布の中から這い出してくる鞘の姿に目を剥き、カリヨンはすぐに赤面しながら目をそむけて、いつものように声を裏返した。
「寝ぼけるなバカ! ……何か変なんだ」
しかし、それでなけなしの空元気を使い切ってしまったのか、少年はすぐに不安そうに声をひそめた。
大きく伸びをしながらも、鞘は状況の深刻さを推し量りつつ顔を引き締めた。この
「なんか、……あったの?」
「それが、その、なんというか……」
少年の狼狽振りを見ればキャスターが未だ戻っていないのは見て取れる。ようやく頭が正気に戻ってきた。
よく寝た。というより、むしろ寝すぎたくらいだ。体中に力が漲り、思考は氷のように冷えてクリアだ。雑念もキレイに消し飛んで、次から次に昂ぶるような衝動が沸き起こってくる。今、彼女は間違いなく十全の状態であった。
「なーに?」
「森の中で何かが魔術を使っているみたいなんだ」
ひどく上機嫌な鞘に、カリヨンは深刻そうに息を呑んで続けた。
「結界が破られたのかもしれない」
しかし鞘の応答は至極簡潔なものだった。
「なぁんだ、そんなことか」
「な……なんだよ、そんなことって」
「そりゃ、来ることもあるんじゃない? 戦争中な訳だし」
「……」
息を呑む銀髪の少年を尻目に、女は気だるげに笑う。
「まっ。任せときなって。どの辺?」
「え?」
「どの辺が怪しいの?」
「え……と、森の南側だ。明日お前が罠を張るって言ってたあたり」
「あー、そうだった。そうだった。晴れるといいよねー明日。あんたちゃんと手伝ってよね」
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないだろ! どうするんだよ、キャスターもいないのに……」
「だーから、任せときなって……」
「どうするんだよ!?」
カリヨンがまた癇癪を起こしそうになったとき、ふいに室内に突風が吹いた。室内の灯りが一斉に掻き消え、室内に唐突な薄闇をもたらした。突然の滅明にカリヨンは尻餅をついて小さな悲鳴を上げようとして、そしてそれを必死に噛み殺した。
いきなりこの場に襲撃者が現れたのかと思ったからだ。しかし灯りの途絶えた室内には彼ら以外の何者の姿もありはしない。ただ一つ変化していたことがあるとすれば、それはベッドに座したままの鞘の手に長大な凶器が握られていたことだろう。
その刃から滲み出す黄色い光。その威容に射すくめられたような気がして、少年は床にへたり込んだまま息を詰まらせた。
それは、同様に澱むような黄色い光を放つ鞘の瞳に、言い様のない凶気を見たからでもあった。
「あ……サ、サヤ」
「お客さんが来たんなら出迎えないとね。……せっかく留守を預かってんだしさぁ」
虚のように澱んだ瞳から滲み出した黄色い光が、光陵を倍増しにしてうす闇の中で光り輝く。
「精魂こめて……ネ」
そう、誰に告げるでもなく、呟くように虚空に言い放ったサヤは次の瞬間には部屋の中から消失していた。
カリヨンは、ただそれを呆気にとられて見ていることしかできなかった。後に残ったのは、まるで砲弾でも打ち込まれたかのように粉砕されたベッドと大穴を穿たれた外壁。
そしていつまでも少年の耳に残って離れない、鞘の鼻歌の旋律だけであった。
並み居る死霊の雑兵や、其処彼処に設置されたトラップをものともせず、森の中を直進して行く影があった。
この闇色に染まった森に足を踏み入れていたワイアッド・ワーロックである。結界を破ったにも関わらずひどいノイズが奔る。森に入ってからというもの、この霊的雑音は大きくなるばかりだ。
それでもまだ令呪を使えばランサーを呼ぶことは出来るだろう。だがワイアッドはそうしなかった。もとより、応援を呼び寄せるつもりなどはないのだ。
そして満を持して、一陣の風とともに老紳士の前に現れたのは半裸の女だった。
「……なんじゃその格好は。けしからん娘じゃな」
「ちょいと遊んでもらうよ。爺さん」
黄色い光が、狂った愉悦のままに殺意の稲妻となって獲物に注がれる。
「悪いが、今夜はうぬらなぞに用はない。……邪魔をするな!」
「やるぅ♪」
人類の理解を置き去りにした超絶軌道の瞬きをもって、その悉くを打ち落とした鞘は進行方向にある邪魔な巨木を薙ぎ倒しながら一直線に魔術師のもとへ迫る。
そして響き渡る地響きと甲高い剣戟の音が、森の魔宴の幕を開ける。
一人、暗い城内の冷やかさに怯えていたカリヨンはしかし同時に抑えきれぬ憤慨の念に囚われていた。もっともそれが恐怖を打ち消してくれるかと言えばそういうわけでもなく、憤慨は焦燥となって彼の怖気を助長していくだけである。
冷静に考えても見れば、わざわざ迎撃になど出る必要はないではないか。せっかく己を守るための城壁があるのだ。どうしてその利を生かさずにわざわざその外で戦う必要がある? 馬鹿なのだ。アイツは掛け値なしの馬鹿なのだ。
今更ながらに腹が立って仕方がない。どうしてこちらの話を聞こうとしないのか、……まぁ、そんなことを話し合う前にあいつは文字通り飛び出していってしまったわけなのだが。
――と、そこで不意に寒気を感じ、少年は振り向いた。そして目にした光景を疑い、ついでわが目を疑った。長い前髪に隠れたその瞳は、陰に塗れた廊下の向こうに、ひとりの男の姿を見つけていたのだ。
それはまるで闇から溶け出すかのように姿を現した、モザイク柄の怪人の姿だった。
息を呑むのでも、漏らすのでもない、彼の息は止まっていた。
少年は動くことも出来ず、それを傍観することしか出来なかった。
なんということだろうか。侵入者は一人ではなかったのだ。これは当然考えておかなければならない事態のひとつのはずだった。敵が二手に分かれてこない保障など何処にあったというのだろうか。
自らの愚かしさに泣き出しそうになりながらも、カリヨンは必死にその侵入者と向き合う。
だがこの敵は鉄壁のはずの罠も、結界も、怨霊も、城壁も一っ跳びで越えてきてしまうような相手だ。自分がこんな奴に太刀打ちできるというのだろうか?
いや、生き延びるには、生き残るにはこうするしか、戦うしかないのだ。それはとっくに覚悟した事だったではないか!
カリヨンは精一杯の虚勢で己を奮い立たせながら、城中の怨霊たちを呼び集めて自己の防衛をはかる。戦闘用の魔術など何一つ使えない彼にとって、今はキャスターが残したこの城の防衛機能だけが身を守る手段の全てだった。
白い靄のように虚空を漂っていた悪霊達が、今度はそれぞれに歪な怪鳥の如くその姿を変え、モザイク柄の怪人に襲いかかった。
しかし男は目にも留まらぬ動きでそれらを叩き落した。カリヨンの目にはそれがどのように成されたのか、いやそれどころか、その残影すら計り知れなかった。
趨勢は瞬きの間に決してしまったのだ。
しかし同時に、それとは別に、なにか言いようのない悪寒が彼の体の根幹を走った。恐怖ではない。驚愕ではない。ただ、彼はここで絶対に肯定したくない事実に思い当たったのだ。
この男のその動きに、その圧力に、その殺気に、カリヨンはある男の姿を重ねていたのだ。知っている。自分はこの男を知っている。
そして恐怖のどん底に陥る。へたり込んで声もないカリヨンがただ一言、絞り出した言葉は、
「……お前、まさか、あのときの……ッ!」
それだけだった。
無言。当然のように応じる声はない。ただ、低い声音が有無を言わさぬ圧力を持って問いを発した。
「……おまえの持つ欠片を渡せ。そうすれば命までは取らぬ」
無言。答えなかったのではない。恐怖で答えることが出来なかっただけだ。そもそもカリヨンにはこの問いがなにを指すのかさえわからなかった。
男はそのまま無造作に肉薄し、無貌の仮面の向こうから虚のような視線でカリヨンを見下ろす。子犬のように震えることしか出来ない少年に、いよいよ掲げ上げられた鈍器の輝きが降り注ぐ。
心の中に渦巻いていた絶叫すらもが消え失せ、心からは総てが抜け落ちたかのように空白になった。真っ白な恐怖だけが少年の総てを埋め尽くしていた。ただ、彼の弛緩した身体の中でただ一箇所だけ、その恐怖に反応したものがあった。
彼が明確に意図したわけではなくとも、その危機に反応してカリヨンの左手の甲から三画の内一画が失われたのだ。
そして薄暗い廊下に閃いた白刃は、少年の脳天には振り下ろされず、逆に怪人の左手を斬り落としていた。華のような血潮が、カリヨンの頭上に舞った。
『流転もたらす闇夜の吐息(カーリー)』
振り下ろされた鈍い銀器の輝きが、いつの間にか反転し柄を握る本人に向けられていたのだ。
それは、そもそもは一直線に怪人の喉下に迫り、一息に命脈を絶つはずのものだった。しかし寸でのところでこれに反応したモザイク柄の怪人は、逆の手を犠牲にすることで辛うじてそれを防いだのだった。
闇がさざめき、閃くようにめくり返された。途端、城中の総ての燭台に明かりが灯り、そこかしこから染み出すかのように現れてきた怨霊・悪霊が呻き、空間という空間を鮮烈なまでの妖気で埋め尽くしていく。
まるで四方からの灯りにあおられて虚空に逃げ集まった闇が、そこで凝縮され液体となって流れ出してくるかのようであった。
同時に、まるで硝子で出来た駒鳥の大合唱のようなさえずりが響き渡っていた。まるでけたたましい悲鳴のように鳴り響いているのは、このモザイク柄の怪人の懐中にしのばされた装飾剣である。これは一種の魔具であった。敵の接近を所有者に先んじて感知し、まるで警報のような叫びによってこれを知らしめるという効果をもつのだ。
これによく似た効果を示す宝具の逸話がケルト神話の一幕において伝えられている。ケルト神話におけるアルスター国の王、クルフーアの持つ盾、「オハン」である。これは別名「叫びのオハン」「叫ぶオハン」等とも呼ばれており、その名のとおり持ち主に危険が迫れば金きり声で叫んでそれを知らせるという力を秘めていたのだ。アルスターの輝ける豪勇クーフーリンはこのオハンの叫びのおかげで三度王に危機があったことを知ることができたのだと伝えられる。
あの夜、ワイアッド・ワーロックとの戦闘においても、いちはやくその危険を察知し鳴り響いていたのがこの短剣であった。オハンほどの通達力こそないが、この短剣もその危険に対する知覚力では引けをとらず、度々この怪人の危機を救ってきたのであった。
そしてあの時とは比較にならぬほどの、この悲鳴のような震えが意味するのは今ここに現れたのが、あの老魔術師などとは比較にならぬほどの危うさと妖気を秘めた敵であるという事実である。
そして寄り集まった
その足許には今しがた両断された怪人の腕が転がっていた。怪人がふるう特殊警棒はそのあまりの加速ゆえにその何の変哲もない局面に鋭利な「切れ味」を帯びさせるのだ。――もっとも、その絶技はこの場ではまさしく諸刃の刃と化して己に降りかかってきたわけだが。
それをしなやかな爪先で踏みしめるキャスターの総身からは、溢れんばかりの魔力が滾っている。
これが最弱のサーヴァント? もとより声を奪われていたカリヨンはそれでもなお絶句した。彼はいま初めて、本気の闘争に臨む英霊の、人の届かぬ領域の存在を、知識ではなく実感として目の当たりにしたのだった。
キャスターが市街を歩くときに引き連れていた悪霊は数十といったところであったが、この場に居合わせる魑魅魍魎の総数はその十倍以上である。まごうことなく彼女は聖杯に呼ばれた魔術師の英霊に他ならなかったのだ。
工房の主が舞い戻った以上、この城の守りは鉄壁のものとして機能を取り戻し始めている。
怪人は手にしていた大型の特殊警棒を収めると、血を滴らせたまま踵を返した。主の不在を知ってこその城攻めであったから、それも当然であったといえる。欲を出しすぎるのは禁物だ。ここは令呪の一画を使わせただけでも良しとしなければならない。
だが風の如く疾走しながら、男は靴底に感じる異様な感触に思わず歩みを止めた。見れば豪奢な城の内装が奇怪に変容し、臓腑の如く蠢いているではないか。それらの床が、内壁が狭まりながら残りの四肢に汚泥の如く絡みつき、その自由を奪い拘束していく!
「……ッ!」
「どちらへ?」
凝然と振り返った男に、キャスターはゾッとするような笑顔を向けた。
「どうやら先の間者もあなたの手の者のようですね」
「……」
無言。当然のように返答は無い。しかしキャスターは悠然と言葉をつづける。まるでこの相手を労わるかの如く。
「ご安心なさい。二、三お聞きしたいことがあるだけですから」
そう言いながらも、このとき常頃から優しげでたおやかだった筈のキャスターの笑顔は、この世に在らざるほどに美しく、そして邪悪な鬼女の面相と成り果てていた。
そこにあるのは掛け値なしの怒りであった。ただ留守の工房を荒らされたというだけの魔術師のそれとは一線を画す、押し隠すことの出来ない憎悪の念だった。
彼女の主でさえその様相に肝を抜かれようかとしたところで、しかし怪人は臆することもなく臓腑の壁に特大のリヴォルバー拳銃で立て続けに弾丸を撃ち込んだ。
が、それは全くの無駄であった。怪奇なる腑壁は高速で撃ち出されたはずの弾丸を受け止め、ズブズブと飲み込んでいくのだ。
「いくらやっても無駄ですよ。たとえ魔術であろうとも破れるものではありません。ましてやそんなモノでは……」
しかしそこで無言のままリヴォルバーを斜に構えなおした怪人は、再度発砲した。それは先ほどと何ら変わらぬ行為であったはずだが――瞬間、凄まじい勢いで大気が引き裂かれ、巌の如き臓腑に覆われ、守られていたはずの壁を崩壊させ、大穴を穿っていた。
「なッ――?!」
キャスターも驚愕の声をあげる。彼女とて近代兵器に明るいわけではないが、これがただの銃弾では成し得ない規模の破壊だということは一目瞭然であった。必定、次の刹那にはすでに怪人の姿は跡形も無い。
そこにはただ内側から捲れかえったようにひしゃげた鉄屑だけが残されていた。おそらくは男が使用したリヴォルバー拳銃の成れの果てであろう。
「……マスター、銃弾というものはこれほどに……」
キャスターは視線だけは怪人の行く末を警戒しつつ、ここで初めて傍らの己が主に声をかけようとした。しかし彼女の主たる少年はそれに応えようともせず床に座り込んだままだ。
キャスターはいつものようになじられることも承知の上で、主たる少年の細い肩に恭しく手を置いた。
「マスター……」
だが、予期したような反応はなく、彼はただ肩を震わせているだけだ。
「マスター、どこかお怪我でも……」
しかし震えるばかりの少年はその手をふりはらうこともせず、すがりつくようにしてキャスターの腕に身を任せた。彼は己の内側の黒い混沌に怯えていた。これは今殺されそうになったというだけの恐怖ではない。人の悪性を司る魔女はそれを見抜いていた。彼は今本能的に喪失を恐れているのだ。
恐らくは過去に体験したおぞましい喪失感と、それによってもたらされる根源の恐怖のフィードバックに晒されている。
「マスター……」
魔女は遠慮がちに、冷たくなった少年の細い身体を抱え込む。そしてその震えが止まることを祈って強く柔らかく、モノトーンの両腕に力を込めた。
「……大丈夫ですよ。もう何処にも行きませんから。大丈夫ですからね……」
そうしてキャスターは遠慮がちに、しかししっかりと少年の身体を抱きとめた。そうしてこの幼い主が泣きつかれて眠りにつくまで、決してその手を放さなかった。
いつまでも、その細い肩の感触を愛おしむように、いつまでも。いつまでも――。
二章はここまでになります。
三章も順次上げていきますが、その前に現時点でのサーヴァントステータスを用意してます。……あんまり更新はされてないですが(汗
三章はもっとがっつりバトルになりますので、期待していただけたらと思います。