Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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二章 茨の旋律「ソリッド・ブライアー」-5

 

 早朝の深遠河中域周辺は野次馬や報道陣でごった返していた。昨夜、突如として消息を絶っていた一台の消防車が河の浅瀬に垂直に突き刺さる形で発見されたのだ。

 

 しかも車内は全くの無人であり、同時に消息を絶っていた搭乗員たちの行方はようとしてして知れなかった。

 

 そんな朝の喧騒が響く河川敷からは程近い市民公園内、そこにある中央図書館では逆に異様ともいえる静寂が鎮座していた。

 

 休日ともなればそれなりに足を運ぶ人間も多いこの場所で、行方不明事件があったのはつい数日前のことだ。

 

 何人かのグループで図書館に訪れていた大学生グループの内、何人かが忽然と姿を消したのだ。さらに事態を深刻なものにしたのは同時に見つかった大量の血痕だった。

 

 すぐさま図書館全体が封鎖され、連日に及ぶ調査が行われていたのだが、今となっては関係者達の注目はもっぱら消えた被害者たちの身辺調査に向いており、周辺住民たちの目も今朝方の河原の怪事に向けられていたために封鎖された図書館の中にはことさらに冷えきった沈黙だけが取り残されていたのだった。

 

 『彼』の帰還は既に空が白んだ後だったが、締め切られた深奥の一室は今もそこが真夜中であるかのように暗かった。しかし人気の失せた館内にあって、ただ一箇所だけ薄ぼんやりと辺りを照らす淡い光が揺らめいている場所があった。淡い光は床の上に散らばり、雑多に積み上げられた書物の山に柔らかな影を引いていた。

 

「君も本でも読んでみたらどうだい?」

 

 ――――。

 

「退屈はしないと思うのだけど、ね……」

 

 ――――。

 

 応える者のない、独り言のような声だけがたびたび冷えた薄闇の中に四散していく。薄明るい灯籠の灯りだけがボンヤリと照らす広い部屋の中、その中央で本の山に囲まれながら瀟洒(しょうしゃ)な椅子に腰を下ろし、分厚い書物の項に白蝋のような細い指を這わせているひとりの青年の姿があった。

 

 滑らかに項をめくる指先や色味の薄い容貌はひどく女性的で美しく、しかし同時にどこか人間味を欠落したような得体の知れない奇怪さがあった。

 

 広大な空間の四隅に鎮座する闇以外には、その独白の如き呼びかけに応えるものは何もない。そこで青年は持っていた書物を静かに閉じ、物憂げに息を洩らした。若枝のような細い肩が参ったといわんばかりに竦められた。

 

 青年は多少砕けた調子で傍らの淡い影法師に語りかけた。

 

「……僕も悪いとは思っているんだよ、サー」

 

 ――――。

 

 依然として応答はない。

 

 だがそのとき、締め切られたはずの室内を吹きぬけるような一陣の風がサッと薙いだ。

 

 突然の横風に呷られて、やおら傾いだ淡い灯り火の揺らぎにあわせて、影法師が戦慄くように大きく波打った。青年の鼻腔が僅かに西南から吹き抜けてくる潮騒の香りを感じ取っていた。

 

 深奥の夜の如き密室に突如として薙いだ不可解な風は去り、そこには再び凪いだ薄闇の濃淡だけが散らばっていた。――否、そうではない。そこには冴ざやいているモノがあった。ざわめいているモノが確かにあった。影法師だ。送風に呷られた影法師だけが、未だ漣の如く静かな質量感を持ちながらそこに揺らぎ続けている。

 

 ところがいつの間にか、影法師には輪郭が出来上がっていた。分厚い雲が照りつける茜色の陽光を覆い隠しきれずに光の輪を纏うように。

 

 そこにあったのは光り輝く一人の人間の姿であった。

 

 堂々たる体躯の人物だ。壁に映る影法師の変わりに忽然とそこに寄りかかっていたのは鍛え上げられた長身と面長の顔に紳士然とした顎鬚を蓄えた男だった。

 

 憮然とした面長の貌が正面から見据えていた。口には出さずとも態度で大いに不満を表している。

 

 青年はゆるく流し目を送りながら、その人影に向けて謝罪するかのように言葉を続けた。

 

「英霊たる君にまでこんな雑務を手伝わせていることについては、本当に僕も心苦しいんだ。でもまだ駒が足りなくてね。……いや、そうじゃなかった。解かっているよ、貴方が不満に思っているのはそんなことじゃなかったね」

 

 そうだ。この男にとって重要なのはそんな英霊としての誇りなどではない。重要なのは魂を開放する場所に還ることなのだ。その場所こそがこの男の戦場であり、駆け抜けた世界であり、願望器に託す願いでもあった。

 

「……」

 

 未だ返答はない。

 

「でも心配は要らないよ、サー」

 

 青年は改めて含めるような物言いで、告げた。

 

「……」

 

 無言の声が、気配だけで待ちわびた言葉に反応する。

 

「次は、海だ。――貴方には船を出してもらうよ」

 

 青年がそう言ったとたん、男の細まっていた眼がカッと見開かれ、全身から爆ぜたかのように気迫と暴風とが噴き出した。その存在としての生命力がまるで水を得た魚の如くその全身に漲り始めたのだ。

 

「それは――、」

 

 ここに来てようやく、男は獣が牙を剥くが如き笑いを見せた。繕ったような紳士の面相は崩れ去り、そこにはひどく獰猛なものが貌を覗かせていた。

 

「――それは、すばらしい」

 

 それまでほのかに燻っていただけに過ぎなかった獣の体躯には、今や烈火の如き篝火が灯り始めていた。その総身から吹いてくる潮風の温度が数段熱量を増したことで、それが青年にも伝わった。

 

「ただね。それには、やはりもう少しばかりの手駒が必要なんだ」

 

 向かい合っていた白い、整った蝋のような面相が歪むようにして微笑んだ。

 

「準備を、しないとね……」

 


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