Real-Matrix   作:とりりおん

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魔女と竜兵

 昼間なのに締め切られたカーテンの内側には、奇妙な光景が広がっている。

 白い木製テーブルの脇に置いてあるコンポのスピーカーからは洋楽ロックが流れ出し、怒濤のような演奏とまくし立てるような歌とで空気を荒々しく震わせる。スピーカーは入り口の方に向けられ、部屋に入るものを威嚇するようだ。

 音楽をじっくり鑑賞するでもなく軽く聞き流しながら、彼女はテーブルの上に一枚一枚タロットカードを丁寧に並べていく。

 神秘的な美女だ。背までまっすぐ伸びた艶やかな黒髪、鋭さと気怠さを同居させた流麗な切れ長の眼、それにはめ込まれた黒真珠の如き瞳、それらとは対照的に新雪のように目映い肌。すっと通った鼻梁と程よい厚さの唇も見事で、名うての彫刻家によって造形されたようだ。アジアンビューティーという言葉は彼女の為にあるのだろう。

 

 彼女――亘理忍は、巷、主に大学構内で自分が魔女だと囁かれていることを知っている。それは外見がそのようであるというばかりでなく、彼女が文学部で魔術やら占星術やら錬金術やら――要はオカルティックな主題を熱心に研究しているからだ。表情の乏しさと卓越した美貌が相乗効果で生み出す近寄りがたい雰囲気も手伝って交友関係は極端に狭く、数少ない友人でさえ一歩大学を出れば彼女が何をしているのか全く知らない。

 いつだか小耳に挟んだ話によると、「亘理さんって秘密結社とかに入ってたり家で怪しい実験やってたりしてそうだよね」という評判らしい。どうせそんな事を口走るのは女だ。“薔薇十字団”とか“黄金の夜明け団”とか、もっというと“フリーメイソン”にも興味があるのは事実だが、決して関わり合いたくはないし、いわゆる怪しい実験というやつだって、興味はあるが試してみようとは思わない。偉大なる錬金術師ニコラ=フラメル様の書物を読んで実験を追体験するだけで十分だ。全く世間とはたちが悪いものだが、火のない所に煙は立たないので文句は言えない。ただ、彼らには忍が自宅でこんな激しくて乱暴な曲を聴いているとは予想も付かないはずだ。

 もっと静かでしっとりとした、例えばクラシックのような曲がかかっていると雰囲気が出るものだということは忍も重々承知している。しかし、どうしても部屋をうるさくしておかねばならない理由があるのだった。 

 忍はカードを繰る手を止め、残りのタロットをデッキにして床に置いた。テーブルの上には今や十枚のタロットカードが大アルカナ小アルカナ問わず、整然と並べられている。絵の種類は“ライダー版”と呼ばれる最もよく知られたもので、通販で廉価で入手したものだ。注釈書も国内で最大数に昇るので、一番勉強しやすい。

 

 「さあ、コマンドラモン。今回のお題は『不安』よ。この中から、何となく不安を覚えたり厭な気分になったりするような絵柄のカードを三枚選んでみて」

 

 「イエス、シノブ。……うーん、難しいです」

 

 難儀そうに唸る声が、テーブルの向かい側でした。

 異様な存在がそこに腰掛けていた。プレートキャリア、ヘルメット、全身を硬質で滑らかな鱗、それら全体に隙間なく貼り付けられた、蛋白石のように見る角度や光の具合によって色彩を変えるテクスチャー。「恐竜の軍人」、一番的を射た表現だろう。床には黒々とした無機質なアサルトライフルの痩躯が横たわっている。数ある種類の中でもこれはM16A4というやつで、レシーバーだかレールだかのお陰で光学機器の容易な付け替えが可能らしい。銃器のことはからきし分からない忍は、それを覚えるだけでも精一杯だった。

 

 忍は詰まるところ、この異邦人――コマンドラモンと安全に会話するために、音の障壁を発生させて防音対策をしているというわけだ。お互いに相手の使う文字が理解出来ないため筆談という手段はとれない。一人暮らしをしているわけでもない忍にとって、彼と情報をやりとりするには他人にばれないように会話する他ない。軍人の格好をしている恐竜を匿っている、しかもアサルトライフルを持ち込んでいるということが知れたら、どんな目に遭うのか考えるまでもない。

 

 「直感で選ぶのよ。タロットに型にはまった正解なんてないし、もっと気楽に考えること」

 

 「気楽に、適当に……」

 

 恐竜の軍人――コマンドラモンは気難しそうに腕を組み、テーブル上のタロットカードを一枚一枚つぶさに眺めている。仔細に検討しているのだろう。適当に選べといわれても、そう簡単にいくかと言いたげな表情だ。 

 暫しの熟考の後、彼は自分の意見を固めた。

 

 「これとこれと……これでしょうか」

 

 大きな三本の鉤爪が生えた手が、少し躊躇いがちに三枚のカードを順々に指差してゆく。

 

 「この三枚でいいのね?」

 

 「イエス、シノブ」

 

 その言葉を受けると、忍は手早く他のカードを回収して床に置いたデッキに混ぜた。テーブルの上には選ばれた三枚のカードのみが残っている。乗馬した騎士が金貨を持っている“ペンタクルのナイト”、棒を持って立っている人物の背後に更に棒が八本描かれている“ワンドの9”、そして寝台に横たわる人物の足下に一本、壁に三本剣が描かれた“ソードの4”である。

 

 「なるほど……変わったカードを選ぶのね」

 

 無表情なのは相変わらずだが、忍の声には楽しさが滲み出ていた。ワンドの9が不安を煽るというのは、忍も共感できる。ソードの4が休息を表すカードでありながらも、何処か緊張感に包まれているため多少不安を煽られるのも分かる。しかし、ペンタクルのナイトの何処に不安になるような要素があるというのだろう。他三人のナイトに比べると、非常に落ち着いた体をしてはいるけれども。堅実な男はつまらないかも知れないが、安定性は抜群だ。

 

 (そういえば、最近龍輝君どうしているのかしら)

 

 ペンタクルのナイトをじっと見ていると、何故か唐突にそう思った。

 このアルカナが体現する堅実さや真面目さといった気質、それが彼を思い起こさせたのだろうか?理由は分からない。

 龍輝というのは、忍の近所に住んでいる三つ年下の少年だ。勉強ができることで有名で、将来はどこそこの大学に入るのだというような噂が沢山立っているが、彼の志望大学が一体何処なのか真実知っているのは彼の母と忍だけだ。その大学は今まさに忍が通っているところであり、もしかしたら龍輝が自分の後輩になるかも知れないのだ。そういうわけで忍は彼を応援している。友人は少ないしそもそも作る気もない忍であったが、龍輝だけは別だ。

 少し自分の世界に没入してしまったようだ。忍は急いで現実に引き返した。

 

 「えーと……じゃあ、まずこのペンタクルのナイト。何故これを選んだの?」

 

 「うーん、それはこの騎士が……」

 

 コマンドラモンがまさに答えようとした時、突としてそれは起こった。

 がちゃり。激しい音を立ててドアノブが回り、勢いよく扉が開け放たれる。

 忍は慌てて口をつぐむ。心臓が高く飛び跳ねる。

 

 (敵襲よ!隠れて!)

 

 忍は眉根を寄せ、視線にメッセージを乗せて全力で飛ばした。イエス、シノブと目線で応答する彼は、さして慌てた様子もなく淡々とM16A4を手にした。全身のテクスチャーが、漆黒の銃身が、周囲の色彩に対応して迷彩パターンを決定する。一瞬にしてコマンドラモンの姿は部屋の景観に同化した。

 

 「ねーちゃんあのさー」

 

 間抜けな声を出しながら入ってきたのは、半袖半ズボンの活動的な少年だった。

 いやというほど目にしている姿ではあるが、忍はその度呆れざるを得ない。今は冬である。夏でもあるまいし、室内とはいえ半袖半ズボンなど非常識だ。更に恐ろしいことに、この餓鬼は外でも一年中半袖半ズボンである。よく今まで風邪を引いたことがないものだとかいう以前に、正気を疑うような格好だ。おそらく脳炎でも起こしているのだろう。コンポの音量つまみを小の方に回しながら、忍は少し棘のある口調で言った。

 

 「またあんたは。ノックぐらいしてから部屋に入りなさい」

 

 「別にいいじゃん! ねーちゃんはカードいじってるか本読んでるか音楽かけてるか以外ないんだし」

 

 どうやらばれていないらしい。しかし、ノックについて注意した事など今まで一度もないので、もしかしたらそれは万に一つ怪しまれているかも知れない。

 

 「それは事実だけど、マナーくらい身に付けておきなさい。社会に出たとき苦労するわよ」

 

 「オレまだ小学生だし~」

 

 「口だけは中学生くらいね」

 

 全くこいつは、と口の減らない弟に対し忍はもう一度目を顰めてやった。ところが単純な悪がきは忍に褒められたと勘違いして少し嬉しそうな顔をしている。

 

 「へへーん。ところでさねーちゃん、いいものがあるんだけど」

 

 「どうせろくでもないものでしょうね」

 

 「今回はマジでいいもんだって!てか凄いもんだって!」

 

 「ふうん」

 

 忍の態度はひどく冷めている。またどうせ友達の変顔を撮影して加工したものとか、悪い意味で小学生らしいつまらなさだろう。期待するだけ無駄だという心情だ。

 

 「この写真見てくれよ。すごくね?」

 

 「ふうん」

 

 少しも関心のなさそうな返事をしつつ、忍は画面を覗き込む。

 彼女は僅かに目を見開いた。

 携帯電話の画面に映っているのは、奇妙な生物だった。雪上でうずくまる、紫の体毛に覆われた全身を見れば犬のような、しかし尾を見れば狐のような動物。背中の黒い付属物は、よもや翼だろうか? 加え額には逆三角形の紅いつるりとした金属。何とも可愛らしい合成獣だ。

 

 「これ……」

 

 「ああ、うちの近所の話だよ。しかも三日前。これ、ぬいぐるみとかじゃなくて本物だぜ。本物のモンスター! だって、オレ達が近付いて写真撮った途端にばーって逃げてったんだぜ!?」

 

 「ふうん、そうなの」

 

 同じ言葉だが、今度は声音に興味が滲み出ている。忍の背後でも少しざわついた空気が漂い始めた。彼――コマンドラモンも同じ異形の“モンスター”として少なからず興味を惹かれているのだろう。

 だが、彼女の声から心を読み取れなかった少年は、ひどく残念そうにしている。

 

 「あれ、ねーちゃん全然驚いてなくね!?」

 

 「いや、ものすごく驚いているわよ」

 

 すかさず弁明する忍。弟が期待していたであろう程ではないが、彼女はちゃんと驚いていた。といってもそれは常識の範囲内では有り得ない生物が存在していたことに対してではなく、常識の範囲内では有り得ない生物が立て続けに、それも自宅の付近に出現したことに対してである。コマンドラモンを拾ったのも、つい三日前のことだ。

 

 「これ、すごいわね。あんたこんな高度なCG加工出来ないでしょう?」

 

 嫌みったらしい姉の口振りに、半袖短パンの少年は口を尖らせた。

 

 「何それ。ホントにさ、いちいちねーちゃんオレのこと馬鹿にするよね」

 

 「実際馬鹿だからしょうがないわ」

 

 適当に返しておきつつ、忍はふと気掛かりになった。この謎の生物を激写した決定的映像は、どのくらい広まっているのだろう?

 

 「あんた、このこと友達にばらしたりしている?」

 

 「いや?ぶっちゃけめんどくさいからまだみんなに送ってない。浩輔はもしかしたらもう送ってっかも」

 

 「そう。ところであんたのクラスで携帯持ってるの何割くらい?」

 

 「分かんね。三割くらい?」

 

 情報伝播力は果たして高いのか低いのか、測りかねる。弟は訝しげな顔をして姉を見た。

 

 「なんでそんなこと聞くの?」

 

 「いや、少し気になっただけ。……ところで用が済んだらさっさと出て行きなさい。あんたが居たら部屋の景観が乱れる」

 

 「ねーちゃん冷たいなー」

 

 辛辣な台詞と手を払う仕草で弟を追い出すと、忍はふうと息を吐きながら、コンポの音量調整つまみを大の方へ回した。

 

 「コマンドラモン……あれを見た?」

 

 「イエス、シノブ」

 

 コマンドラモンが、少しずつ染み出すようにテーブルの向こう側に現れた。

 

 「間違いなく、自分と同じデジタルモンスターです。推定では獣型の成長期、種族名、属性は未確認につき不明。個体の戦闘力も不明」

 

 「なるほど、ほとんど謎というわけね」

 

 この二日三日でコマンドラモンはデジタルモンスター――デジモンに専門の研究者よろしく通暁していることが分かったが、その彼が殆ど何も分からないというのだから、あのキマイラは相当特殊で希有な存在のようである。

 

 「あなたもうちの近所で見つかったけれど、何か関係でもあるのかしら」

 

 「詳しいことは何とも言えませんが……同一線上の出来事という可能性が極めて高いです」

 

 彼は言葉を切って難しそうな顔をした。

 

 「おそらく、デジタルワールドのある地点から何らかの働きかけがあったものと思われます。二世界の境界を破るだけの力……尋常ならざる強大な力です。聖騎士ロイヤルナイツの干渉があった可能性も否定出来ません」

 

 「ロイヤルナイツ?」

 

 黒真珠の瞳に微かに好奇心の光がちらついた。

 

 「デジタルワールドの均衡を保つ、セキュリティ最高位の騎士十三体の総称です。デジタルワールドを統括する神であるホストコンピュータ“イグドラシル”に直接仕える存在ゆえ、与えられている権限は並のものではありませんし、その力も強大です」

 

 「イグドラシル!北欧神話ね」

 

 デジタルワールドはこの世界――リアルワールドを元にして創造されているらしいという事はコマンドラモンの外見、彼と言葉が通じていること、彼の名前などより明白であったが、果たしてどんな風に種々のデータが混合して一世界を築き上げているのか。その世界でどんな大事件が起こって、こちらの世界に影響を及ぼしているというのか。興味を掻き立てられないわけがない。

 

 「何か……面白そうなことになったわね」

 

 好きこのんでオカルトの類に深く突っ込んでいくだけあって、何もかもどうでも良さそうな顔をしておきながら、実はどんなことにも――殊風変わりで危険なことに強い興味がある彼女のことである。反応は妥当なものだっただろう。

 しかし、恐竜の軍人にとっては全くそうではなかった。

 

 「今更ですが。シノブは……恐怖を感じないのですか?」

 「?」

 

 忍は面食らい、コマンドラモンの顔をまじまじと見つめた。彼はまっすぐに忍を見返していた。彼女はこの恐竜の軍人の瞳が思いの外美しいことに気が付いた。鮮黄色のそれは透明度が高く、濁りがない。

 

 「リアルビーイングからすると、自分は異形で、恐ろしく、到底受け入れられる存在ではないはずです。しかも自分は何故リアルワールドにいるのか、その記憶もなければ……自分がどういう者なのかさえよく覚えていない」

 

 「……ええ」

 

 忍は既に彼の事情は聞いていた。気がついたらリアルワールドの地面で倒れていたこと、自分が何処で何をしていたのか分からないこと、自分のデジタルモンスターとしての種族名が「コマンドラモン」であることだけが、アイデンティティーであることなど。

 

 「そんな自分をシノブは受容し、あまつさえ信用して家に置いてくれています。自分と同じデジタルモンスターでさえ、そんな事が出来るものは少数だ。……シノブ、貴女は何故このコマンドラモンを受容できるのです?何故、デジタルワールドに純粋な興味を抱けるのです?」

 

 もっともな質問だ。だが、忍の答えは些か常軌を逸していた。

  

 「好奇心の前には、どんな心配や恐れも無力よ」

 

 コマンドラモンは目をしばたたいた。半分吃驚からの、半分呆れ返りからの。彼は惚けた様に「好奇心」と呟いた。

 

 「シノブ、例えば自分はアサルトライフルを所持しています。その気になれば貴女を射殺することができます。……お分かりですよね?」

 

 「射殺されたら、それはそれで本望かも知れないわ」

 

 至って淡々と語られたその答えに、もう一度コマンドラモンは目をしばたたいた。

 

 「あなたに射殺されるというのは、錬金薬の合成に失敗して爆発を起こして、挙げ句巻き込まれて死んでしまうのと同じよ」

 

 「……シノブ、意味が理解できません」

 

 「要するに、過ぎた好奇心が身を滅ぼすということよ」

 

 しかし、それは寧ろ望むところである。それが彼女の信条だ。

 コマンドラモンには、それがどうしても理解できない。上官命令に逆らい、「どうなっているのか興味があったから」という理由だけで敵陣の真っ直中へと駆けて行く兵士がいるとしたら、誰も彼を擁護する者などいないだろう。死んで当然だと皆口を揃えるだろう。それが忍なのだ。如何に浅慮で道理に欠けた行動か、一目瞭然だ。

 それにもかかわらず、コマンドラモンは忍が馬鹿だとは思えなかった。彼女が心の求めるままに行動しようが、決して破滅に向かうことはないし、最高の結果がもたらされるとさえ感じるのだ。何故そう感じるのか。その信条には全く共感できないが、圧倒的な強さを以て事態を如何様にもできる究極体――かの者と同じだからではないだろうか。

 それは一体誰のことなのか。コマンドラモン自身にも実はよく分からない。自分自身についての記憶と共に、忘れ去ってしまった者なのかも知れない。

 

 「シノブは……寛容というか、少し呑気ではありませんか」

 

 「あなたも大概よ」

 

 すかさず叩き付けられた言葉に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするコマンドラモン。それを楽しそうな目で眺めながら、忍は畳みかける。

 

 「私にタロットを習っている時点で。それも、熱心に」

 

 一瞬はっとすると、恐竜の軍人は恥ずかしそうに顔を伏せた。忍は静かに微笑んだ。幽艶で知的で、何もかも分かっているという微笑だ。

 

 「さて、レッスンに戻りましょう。ペンタクルのナイトの何処に、不安な要素を見出したの?」 

 

 スピーカーからは、相変わらず激しい洋楽ロックががんがん流れている。

 

 ***

 

 深海から上がった人魚姫というのは、地上の大気の軽やかさと何処までも開けた世界に胸を躍らせたのかも知れない。だが、彼の心情はそんなにロマンチックなものではないし、寧ろ深刻だ。

 

 凍雲に閉ざされた鈍色の空。しんしんと降り続け白い山を作る雪。ぽつりぽつりと道を行く人の少なさ。寂寥感を掻き立てる寒風に紅蓮の外套をはためかせながら、純白の騎士――デュークモンは、トタン屋根の上から寒々しい街景を眺めていた。

 

 彼は閉ざされたデジタル空間からつい先程脱出したばかりだが、もはや次にどうするか考えていた。最善なのは、守護騎士はサー・佐伯に合流するか、ドルモンとそのテイマーを探し当てるかだ。それらが可能ならば心配事の半分以上は減ったも同然だが、そんなのは盲亀浮木もいいところだ。リアルワールドの広さを甘く見てはいけない。 

 しかし、サー・佐伯やテイマーの方からコンタクトを取ってくるという可能性は存在している。サー・佐伯の所では、四六時中デジタルモンスターのリアライズを監視しているはずだ。もしかすると、ヴァルキリモンがこちらに寄こされるかも知れない。それを待った方が得策のようだ。

 だがまずは、自分の身を上手いこと隠しおおせることを考えねばならないだろう。異世界といえども、喧噪を持ち込むのはロイヤルナイツとして褒められた行為ではない。

 

 デュークモンは静かに閉眼した。座禅でいうところの「三昧」、それに近い状態に精神を置く。縒り合され一つの事柄だけに集中した意識は、さながら鉄条の如く精神世界を突き抜ける。

 

 (プレデジノームよ、このデュークモンの声が聞こえるか――)

 

 1の連なりが波となって意識に流れ込む。通信状態は良好らしい。

 

 (手短に言う。コマンドラモンタイプのテクスチャーといえば分かるであろうか?)

 

 今度は0の羅列――答えはNoであるらしい。プレデジノームは、最近のデジモンについてはよく知らないようだ。仕方無いので、デュークモンは要望を仔細に伝えることにした。

 

 (逐一周囲の迷彩パターンを判断し、体表面色を変化させるシステムが欲しい。できるだろうか?)

 

 返ってきたのは、累卵の如く連なった0の列だった。

 デュークモンは少し動揺した。今まで殆どどんな無理難題にも応えてくれた神が、Noと言った。「できない」と言われたことは実は以前にもあるが、数え切れない回数の中の二、三回に過ぎない。

 

 (出来ない?無理だと?)

 

 再び流れ込む0の連なり。不可能であるというわけではないらしい。

 つまり、プレデジノームは己の意志でデュークモンの要求を撥ね付けているのだ。こんなことは今まで一度もなかった。だが何ゆえなのか?

 

 (――よもや、そのようなせせこましい事をしている場合ではない、とでも申すのか?)

 

 返答はない。

 もはやこれ以上の通信は無意味だ。デュークモンは縒った糸を解くように意識を解放し、プレデジノームとの接続を切った。

 もしかすると、他のロイヤルナイツの事を慮れ、という警告だったのかも知れない。デュークモンにはプレデジノームがあるが、他の者は隠身の術など持ち合わせてはいないからだ。それとももっと直接的に、「俺を頼りすぎるな」というメッセージだったのかも知れない。

 どちらにせよ、反省はしている。己の非に跪ける謙虚さは、デュークモンの賞賛されるべき美徳であろう。

 

 直後だった。

 黄玉の瞳が、視界の端に何かを捉えた。

 急いで屋根から下に目を向ける。半透明なゼラチン質の体。中央に埋め込まれた充血したように赤い単眼。異形の生命体の姿は――海月に似ている。ぞっとするような姿だ。

 それがわらわらと、雪に覆われた地面を這っているではないか。

 デュークモンには直ぐさま思い出された。あの空間で共闘した不思議な者――ダスクモンが口にしていた言葉を。

 

 ――オレは直接見た……巨大な蜘蛛のようなデジモンが、小さな海月に似たデジモンを吸収しているのをな。

 

 (このデュークモンと同じ路を通ってきたということか――?)

 

 「きゃあああああーーー!!!」

 

 絹を裂くような悲鳴が上がった。

 たった今道を通りかかった女性が、あれの姿を見てしまったのだ。地べたにどんと尻餅をつき、腰が抜けたまま立ち上がれない。

 転んだ拍子に、ポケットから携帯電話がするりと滑り落ちる。雪に半分埋まったそれに、単眼の海月たちが餌を見つけたように群がってきた。

 姿を見られてはいけないなどと考えている場合ではない。聖槍グラムを構えながら、デュークモンは颯爽と屋根から飛び降りた。

 


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