Real-Matrix   作:とりりおん

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投稿遅れまして申し訳ありません。
今回凄い長くなりました。


"Armageddon" 2

 停滞した昏き混沌の中。片や自信を剣もろともへし折られた幽鬼、片や持てる力の半分たりとも出せず懊悩する騎士。脱出画策者の拙策拙攻を嘲笑うかのように、忌まわしき出自の異形はその巨眼で彼らをねめつけ、唾液に塗れた肉厚の舌をでろでろと上下に動かす。万が一理性というものを持ち合わせていたら、それはただひたすら愚かな侵入者を弄び、戯れる事を助長するのみに使われているのであろう。

 

 幽鬼――ダスクモンは、苛立たしさと悔しさ、そして怒りの混合した感情に歯噛みしていた。

怪物の足を一本ずつ切り落とす事で、力を削ぎ落とすと同時にその組成データを妖剣“ブルートエボルツィオン“より吸収し、必要とあらば後でデュークモンに明け渡してやる算段であったのに、まず計画の第一段階で頓挫してしまった。それどころか、己の腕にも等しき剣が一本、怪物の栄養物になってしまったのだから。

 

 騎士――デュークモンは、甚だしい焦燥感を覚えていた。

創世の予言書に記された通りロイヤルナイツに任ぜられ、幾度となく神の命によって危険な戦いへと身を投じようとも、味わった事のない激しい感覚だ。電脳核が異常に発熱し、パルスの振動数が上昇するのに合わせ、視界が微かに上下にぶれる。

 

 かの七大魔王に列席する者と対峙した時も、地上界に現れた堕天使を粛清した時も、一切を破壊しようと大地を蹂躙した機械竜を破壊した時も……あれらは本当に危殆な状況ではなかったというのだろうか。彼処に全てを睥睨し嘲笑するように鎮座する魑魅、あれが何よりも強大であるというのだろうか。

 

 それでも、何とかしなければならない。如何なる状況下に置かれようとも――。デュークモンは己に言い聞かせ、そして問いかける。お前は誰だ? デジタルワールド最高位の守護騎士、ロイヤルナイツが一人、デュークモンだ。我が命は限りある儚いものとて、惜しむものではない。譬え蛮勇であれ、振り絞るべきだ。足掻ける限りは、如何に泥臭く愚かしく見えようとも、やれる事ならば全て試すべきだ。

 

 ならばどうすべきか。デュークモンは高速で思考を回転させる。――恐らく、自分の槍とてダスクモンの折られた剣と同じで、何の役にも立たないだろう。振るえねば真に力を発揮できぬこの聖なる業物は、どろどろとタールの様に高粘度の空間内では無力に等しい。

 だが自分の武器は一つではない。そう――盾がある。防御する為だけにあるのではない、聖なる大盾がある。

彼の電脳核は今や、一つの答えに辿り着いていた。デュークモンは、隣の虚空に浮かぶ共闘者に呼びかける。

 

 「ダスクモン、作戦は中止だ」

 

 漆黒の幽鬼は、顔に付いている二つの目玉と、纏っている鎧に埋め込まれている多くの目玉とを、一斉にデュークモンに方にぎょろりと向けた。

 

 「……何のつもりだ?」

 

 「このデュークモン最大の技を、この場から叩き込む」

 

 生半可な物理攻撃が通らぬ以上、そして電脳核に直接技を叩き込める位置まで移動するには、危険すぎる事がはっきりしている以上――獄炎の息を吐かれたら最期、一度目と同じように運良く防げる保証は全く無い――、残された選択肢は僅かしかない。それに全てをつぎ込んでみるのみだ。デュークモンは決してやけを起こしたわけではない。

 ダスクモンは一瞬瞳孔を拡大させ狂人でも見るような顔をしたが、直ぐさま性格に騎士の意図を汲み取った。しかし次の瞬間には狂人を見るような顔に戻った。

 

 「大技を連発して奴の躯を削りきろうとでもいうのか? どういう技なのか知らんが……いたずらにお前の命が削れるだけかも知れんぞ!?」

 

 「悠長に構えている暇ではない! 命を危険に晒してでも、危険を回避せんと努めるべきであろう……未だ可能性が潰えていないのならば!」

 

 純白の甲冑に身を包んだ騎士は毅然として言い放った。ダスクモンはその語調の強さに思わずひるみ、口をつぐむ。それ以上の反論を許してくれそうな雰囲気ではないのだ。

デュークモンは非常にゆっくりとした動作で――ねっとりとした空間の妨げゆえだが――大盾を自らの真正面に据え、遠方に鎮座する怪物の方に向ける。

 彼は力の全てを集中した。

 大盾の表面外周を飾る黄金の三角が、一つずつ赤く点灯し始める。

 その度、盾の中央にあしらわれた赤い三角とそれを取り囲む三つの逆三角の図柄にエネルギーが充填されてゆく。エネルギーの密度が高まる度、中央の図柄が発する輝きは激しいものとなる。

 刮目しているダスクモンにも、空間を隔て尋常ではないエネルギーが圧縮され、大盾に集中しているのがはっきりと感じ取れた。物理的な圧力さえ受けているような感覚だ。

 

 「“ファイナル・――」

 

 デュークモンは静かに、壁に張り付くような姿勢のまま視線を泳がせる怪物を見据えた。

 

 「――エリシオン”!!!」

 

 閃光が放たれる。

 全ての可視光が縒り合わされた、最もまばゆい光の束。若い恒星の輝きのように、常昼の楽園を照らす光のように、河底に沈む汚泥にも等しい広がりを、清浄で神聖な光線が妨げなく真直に貫いてゆく。

 閃光が、あやまたず大蜘蛛の右前肢に炸裂する。

 

 「やったか――?」

 

 期待を込めた様子で彼方を仰ぎ、呟いたのはダスクモンだった。 あの強大無比な技をその身に受けては、如何に恐ろしく尋常ならざる魑魅の類といえども、無傷ではいられまい――殆ど確信する。

 しかし、その結果は――あまりにも予想とも、期待とも違っていた。

 

 「――無傷だと」

 

 絶望の底に叩き落とされる。騎士も、幽鬼も、惚けた様に呟くばかりだ。

 黄玉と深紅の双眸に映り込むは、赫灼たる光線の束をその身に受けようが受けまいが、そんなのは関係ないとばかりに君臨する巨体。怪物は、少しばかり眩しかったとでも言いたげに、混濁した黄緑の両眼を細めるような仕草を取っただけであった。

 金剛石を撫でるそよ風にも等しい――自分の全力の攻撃を評するならば、それが最も相応しい表現のようにデュークモンには思われた。この技――聖騎士デュークモンの最大の技、ファイナル・エリシオンを受けてただで済んだ者など開闢以来皆無だった。その堅固な歴史を、デュークモンと、そしてダスクモンの抱いていた期待もろとも打ち砕いたのだ。

 

 紅蓮の外套なびかす騎士は呆然として視線を落とした。

 だがそれでも尚、彼は諦めまいとしていた。破砕させられたプロバビリティーの砂粒にも等しい細片を握りしめながら、彼はひたすら心の内で繰り返していた。何とかしなければ!!! 何とかしなければ!! 何とかしなければ! 何とかしなければ。何とかしなければ、何とかしなければ…………

 

 突然の出来事だった。輪郭のない薄らぼやけた、それでいて酷く重量のある記憶が、濁流となってデュークモンの情報処理機構に押し寄せてきたのは。胸の奥、心臓と頭脳を司る錐体がどんどん高まる内部圧力に悲鳴を上げる。両手さえ塞がっていないなら、胸の辺りを押さえたい程だ。

 

 何とかしなければ……あの時もそう思っていた……あの時もこんな状態だった……どうやって生き延びたというのだろう……デリートという道を辿る以外なかったはずの状態から……あの時……一体いつの事だろう……ロイヤルナイツに任ぜられてから……それよりも遥かに昔……予言……イグドラシルの……それとも別の……預言……黙示……

 

 訳が分からなかった。こんな事に気も時間も取られている暇ではないのに――記憶の浜辺に打ち寄せ飛沫を上げる波濤に、抵抗する意思すら飲まれていく。

 

 「うあぁぁ……っ」

 

 純白の騎士は呻き声を上げた。かろうじて上がったと言った方が正しいかも知れない。

 

 「――デュークモン?」

 

 突如上がった共闘者の苦悶の声に、ダスクモンは甚だ当惑した。自身の最大の技が全く通用しなかった絶望のあまり、精神が不安定になってしまったのかと最初は思ったが、それにしては様子がおかしい。寧ろ、過去の恐ろしい記憶を閉じ込めておく蓋が開いてしまったような風だ。

 

 「ううっ……このデュークモンは……我は……自分は……私、は……!」

 

 「落ち着け! 大丈夫か、デュークモン!?」

 

 ダスクモンが、自己同一性の危機に陥ろうとしているらしい純白の騎士に大声で呼びかける。運命共同体として、相方が危険な状態に置かれるのは歓迎される事ではない。

 

 「くっ……ううっ……私は……」

 

 「デュークモン!」

 

 「ぐ……す、済まぬ。ああ。大丈夫だ……何でもない」

 

 純白の騎士はひとしきり苦しそうに呻くと、相当憔悴したように短く詫びた。言葉とは裏腹に全く大丈夫そうな様子ではないが、現実には戻って来られたらしい。ダスクモンはひとまず安心した。

 しかし一体どうしたのか、彼がそう思うのと同様に、当のデュークモン本人すら疑問だ。何故今、こんな逼迫した時になるべきではない状態になってしまうのか……寧ろ、その逼迫ぶり故にこんな状態になったのか?

 言うまでもなく、そんな事を思い巡らせている場合ではない。

 デュークモンはふうと深く息を吐いた。虚空の一点に全神経を集中させ、一切思考するのを止める。

 数秒間心を空にしていると、彼の電脳核処理機構は驚く程の速さで元の秩序だった内部環境を取り戻した。今まで一度も実践した事のない瞑想であるが、効果は劇的なようだ。

 そうして平生の冷静さを取り戻した純白の騎士は、きっぱりと言い切る。

 

 「……ダスクモン。不可能だ――あやつを倒す事は。デリートは不可能だ」

 

 深刻さや絶望感どころか、清々しさすら纏った語調だ。

 数瞬流れる張り詰めた沈黙の後。当然、ダスクモンは目を剥いて反駁した。

 

 「ならばどうするのだ? 分かるだろう、奴が邪魔で、通路に侵入できん事が。あれを倒すのを諦めるのは、即ちこの忌々しい場所に墓標を建てること――ともすれば奴の腹の足しになり墓も建ててもらえないということだぞ?」

 

 言うまでもなく、彼は「頭では」諦念の境地に達していた。こうして口を尖らせても、虚しいだけだという事も分かっていた――あの巨大な混沌から生まれ出でた異形を、悪逆なデータの権化を消去する事などもう無理だとも。あれ程強大な、尋常でない程のエネルギーが収束した技がまるで無力だったのを現にこの目で見たのだから。

 しかし、「頭」と「心」が一致してしまった時全ての希望が断たれ、可能性の薄光が消え失せて闇に放り出されてしまう――同時にそれを恐れているのだ。

 純白の甲冑纏える騎士は、穏やかにいなすように頭を振った。

 

 「デリートは不可能だ。このデュークモンの最大にして最終の手段が、ただの目くらまし程度にしかならなかったのだ。貴殿がまだ別の技を持っているというのならば、もう少し話は明るかろうが」

 

 痛いところを突かれたとばかりに、ダスクモンはぐっと顔を顰めた。デュークモンの方は無論彼の秘めたる事情を知ってなどいないのだが、台詞の後半部分はダスクモンが隠し事をしているのをそれとなく糾弾しているような響きすらあった。

 ダスクモンは、彼が隠している事――即ち己のもう一つの姿を曝け出すのは、真に状況が逼迫してからだと相も変わらず固く決意していた。この漆黒の幽鬼のプライドは相当高く、自分の醜悪な部分を理性的存在者の目に晒してしまうなど絶対にあってはならないのだ。だから、デュークモンが死にでもしない限りは、最後の手段は決して明かしてはならないのだ。

 

 「……しかしこのデュークモン、そこまで諦め切った話はしておらぬ。……元を正せば、我らの目的は此処から脱することであって、あの怪物を倒す事ではない。そうであろう?」

 

 次に発せられたデュークモンの言葉に、ダスクモンははっとした。確かに原点に立ち帰って考えてみれば、大蜘蛛の怪物を倒すというのはこの不快極まりない空間から脱する手段なのであって、決して目的ではない。

 しかし、怪物を倒すという方法をおいて他にやりようがあるというのか。何せ、怪物の巨躯で脱出経路に蓋がされてしまっているのだから。

 

 「確かにそうだが、あれを倒さん事にはどうしようもないだろう。それともお前には、別の方法が見えているというのか?」

 

 デュークモンは首肯した。

 

 「至極単純な話、あやつをどければ良い」

 

 臆面もなく語られたその言葉に、ダスクモンは目を見開いた。

 

 「どけるだと?」

 

 「それ以外あるまい」

 

 ぴしゃりと言い切るデュークモンに対し、ダスクモンは怪訝な目で彼を見やる。大体、こうして話をしている間にあのあまりに巨大で強大な異形が襲いかかって来るのではないか、というおそれもある。先程から、彼はずっと遠方に鎮座する大蜘蛛の様子から目を離さないでいるが、あの気味の悪い巨眼で自分達の方をぼんやり見定めたままだ。焦眉の急である。

 

 「デュークモン、お前がふざけた話をするなどとは決して思うまい。しかしな……奴が動かねばならないというのは、余程の事だぞ。奴がオレ達を葬り去ろうと思うのなら、動かずともあの業火で燃やし尽くせばいい話だからな」

 

 「貴殿の言う通りではある。しかしたった先程起こった事を思い返してみよ。貴殿の剣を奴が喰らったこと――あれはつまり、捕食対象と見なしていたことに他ならぬぞ?」

 

 ダスクモンは低く唸った。もはやない肘から先が妙に痛むためと、思い起こすのも厭な話が出ているためだ。相当己の剣に対して妄執があるらしい。

 

 「ふ、奴には理性など多分ないのだぞ? あれがそんな“真っ当な”理由によって為された行為とは到底考えられんな」

 

 デュークモンは微かに頭を振った。

 

 「ならば尚更だ。あやつが本能だけで動いているのだとしたら、理性を以てしてよりも賢い方法をとるであろう……獲物を屠るという点に限ってはな」

 

 本能なるプログラムは生体維持に最も有効に働く、これはデジタルモンスターにとっても当てはまる話である。本能に基づいて取られる行動の主たるものには「捕食」と「防御」の二つがあるが、他のデジモンのデータをロードしなくとも良い程データパフォーマンスの優れたデジモンは、前者をしばしば忘れる傾向にある。ダスクモンもその例に漏れない存在だったという事だ。

 漆黒の幽鬼は少し考え込むように目を伏せると、ふんと鼻を鳴らした。その態度には尚も訝しんでいるという事が滲み出る。

 

 「お前の言説に従うとしてだ、あれはオレのブルートエボルツィオンを最良の食糧として見ているという事になるぞ?」

 

 「そう言えるであろうな。無論何故かは分からぬが……。ともあれ、我々がせねばならぬのは、あやつをあの場所から引き剥がす事だ。その為には、心ならぬ頼みだが……貴殿が囮になってはくれまいか」

 

 デュークモンが、しかとダスクモンを見据えた。その眼差しは真剣そのもので、攻撃的な要素を一切感じさせないが、しかしその申し出に対して是と答えなければならぬと感じる程の圧力は備わっていた。とはいえ、ダスクモンの方には拒否する正当な理由などない。彼もまた、「可能性がまだ潰えていないのならば、命を危険に晒してでも、危険を回避せんと努めるべきだ」という意見には同意せざるを得ないのだ。

 漆黒の幽鬼は頷いた。

 

 「ふ、いいだろう。元々命の掛かった試み、薄氷を踏む事など今更だ」

 

 「感謝する」

 

 デュークモンは短く謝辞を述べる。

 だがそれを聞き終わらないうちに、漆黒の幽鬼の姿は彼の側から消え失せた。そして、最危険地帯――大蜘蛛の文字通り目と鼻の先に一瞬で現れる。

 すると――今まで焦点を定めていなかった怪物の瞳孔が、突如己の視界に闖入してきた者に向かってがっちりと固定されたのだ。正確には――これから喰らう予定の、妖しく煌めく紅蓮の剣に向かって――だ。

 その様子を双眸にしかと映し取り、ダスクモンは喜悦に思わず笑みを漏らした。

 どうやらデュークモンの言った通り、自分の剣に興味を持っているらしい。それも、一次的欲求というやつの次元で――現に、怪物はたった今じゅるりと醜悪に舌なめずりをして見せたのだ。その低次元な欲求のせいで剣が無残に失われたのは勿論腹立たしいが、皮肉にもそのお陰で活路が見出された訳である。

 何と言っても、このまま上手い具合に事が運べば、自分の兼ねてからの願いである外界への脱出、それが自分の存在理由であると言わんばかりに、やかましくある者を「始末せよ」と騒ぎ立てるアルゴリズムから解放される事――夢が現実になるかも知れないのだ。

 

 「そら、貴様の欲しいものだぞ?」

 

 ダスクモンは挑発的な台詞を吐き、これ見よがしに紅蓮の剣を突き付けてやる。手の届きそうな位置にある夢に対して、少々心が躍ってしまっているのだ。

 大蜘蛛は、のろのろと六本の脚を動かし始めた。何とか餌にありつこうと必死になっているらしい。

 

 あとは忍耐勝負だ。恐怖を感じる暇はない。ダスクモンの全神経は、眼前に迫る敵と適正な距離を取る事と、残された一本の剣を餌食にさせない事のみに注がれる。先程のように、注意がいっていなかったが故に怪物への供物となってしまうだけは絶対に避けたい。そうなってしまった時点で――次の手が尚も存在するかどうかは分からない。無い確率の方がうんと高い。

 

 深紅の刀身が、怪物はそれを喰らおうとかっと巨大な口を開け、鋭い歯の峰を露わにする。やっと求めるものにありつけそうだという時、紙一重でダスクモンがゆらりと姿を消し、より遠方へ再び現れる。そして剣を見せつけるように突き出す。怪物はますます欲望を滾らせ、追えば追うだけ遠ざかる逃げ水の如き餌の元に必死で辿り着こうとする……その繰り返しだ。

 怪物もこの空間にあっては動きがままならず、餌の元まで来るのに多大な時間が掛かる。よってダスクモンはその分だけ長く集中力を持続させなければならないが、怪物の執着心もまた凄まじいものだ。こう何度もじらされて、いい加減に腹が立たないのだろうか? もし業を煮やして、殺しに掛かって来でもしたら――それこそ一巻の終わりではあるが。

 

 (オレとしては有り難いが……どうして此処までブルートエボルツィオンに執着するんだろうか。あの馬鹿でかい図体に比べたら塵芥程度で、腹の足しにもならんだろうに)

 

 ダスクモンは、心の片隅でちらりと思う。

 

 一方、大蜘蛛が完全にダスクモンに気を取られているその隙に、デュークモンは牛よりも遅い歩みで纏わり付いてくる黒い空間を掻き分け進み、脱出口へと漕ぎ着けていた。

 細氷から成った管のようにちらちらと燦めきながら、何処かへと伸びるそれは、大分昔に見たアクセスポイントにかなり類似した外観だ。デュークモンに近いのと、もう少し離れた箇所にあるのとで二本ある。片方はデジタルワールドに、他方はリアルワールドに繋がっているのだろう。

 末端部はデュークモン程度の体躯なら余裕をもって入れる断面積で、0と1の微細な結合体がひっきりなしに闇に流出し、淀んだ大気に溶解するのがはっきりと見える。この抜け道はどうもデータが一方通行のようだが、何とか滝登りよろしく逆行する事は出来るだろう。

 いよいよ、脱出の時が来たのだ。

 

 (ダスクモン、済まぬが先に失礼致す。どうか無事であれ……!)

 

 どうせダスクモンに何かあっても、自分が駆けつけて助勢するなどという事は出来やしない。相手を置き去りにする形になってしまう事に後ろめたさを感じながら、デュークモンは心中詫びを入れる。

 純白の甲冑纏える騎士はその姿を優しい輝きの中に消した。

 黄玉の瞳に映る景色が、一面の沈鬱な涅色から、一面の綺羅綺羅しい白色に一気に塗り変わる。急激な明度差に、デュークモンは反射的に目をしばたたいた。

 環境の変化はそれだけではない。突然あの高粘度のタールの海を泳ぐような感覚は一瞬にして消え去り、全身が抵抗力から自由になった。また、どうやらこの通路は幸運な事に、アクセスポイントの様に反対方向に向かう者にも寛容――つまり、双方向性であるらしい。緩やかに流れる大河に身を任せるが如く、体が自然と先へ先へと引っ張られてゆくのだ。

 

 さて、この通路は果たしてリアルワールド行きなのか、デジタルワールド行きなのか。デュークモンとしては出来れば後者であって欲しいが、リアルワールドに行くとなると――ロイヤルナイツの良き協力者であるサー・佐伯と対面できる可能性がある。それだけではない。ドルモンと、そのテイマーとなりし人間に遭遇できるかも知れない。現実は前者の方であっても、見通しは幾らか明るいと言えそうだ。

 

 ***

 

 (そろそろか?)

 

 ダスクモンは目を凝らし、遠方に際立って見える美しい細氷の路を見る。すると、紅蓮の外套が細氷の燦めきの中へと消えたのが目に入った。

 

 (――よし!)

 

 待っていたとばかりに、瞬く間に幽鬼はその姿を闇に掻き消す。

 視界から忽然と、完全に求めるものが失せてしまった怪物は、訳も分からずおろおろし始めた。ひたすら眼球をぐるぐると回転させて周囲を舐めるように見回すが、何処にも獲物はない。ただ、金髪の鮮烈さと血に濡れたように紅い刀身だけが、濁りきった巨大な眼球に残効の如く焼き付いて離れぬのみだ。

 逃れた獲物――ダスクモンは得意の瞬間移動を繰り返し、怪物の視界に入らないように注意しつつ元来た道を軽やかに戻ってゆく。目指すは輝かしいデータの通い路――夢にまで見た外界への抜け道だ。

 

 やっと、漸く、抜け出せるのだ。この忌々しい生まれ故郷から。デジタルワールドなり、リアルワールドなり、こんな空間より遥かに開放的で、色彩に富み、多くの生命体が存在しているのだろう。自身を構成するデータの塊、そして周辺に漂う悪趣味なそれからしか外界の情報を知らないダスクモンは、実際にそれを目の当たりに出来る時が近付いているのを感じて、笑みが零れるのを禁じ得なかった。

 

 突如、ごぼり、と何かが鳴る音が背後で響いた。

 

 (……何だ?)

 

 ダスクモンの表情に翳りが差す。

 厭な予感に突き動かされ、彼は進みながら鎧の肩部に埋め込まれた目玉をぐるりと回転させる。そうして――悪寒が背筋を駆け抜けた。

 後ろを向いた怪物の口ががばりと開き、そこから何か白いものが大量に流れ出しているのだ。その中に赤いものが混ざっているのも分かる。否、ただ雑多に混ざっているというのではない――それらは白いものの中心部に付いている――目玉だ。

 今や、ダスクモンは現実に引き戻され、一体何が起こっているのか仔細に理解していた。

 

 (海月を……吐き出しただと……!?)

 

 そんな真似が何故可能なのか、そんな真似を何故したのか、そんな事はこの際どうでも良かった。海月の大群は、明らかにダスクモンの方へと近付いているのだ。

 寄ってたかって、自分を喰らう気なのか。だとしたら、脱出してもその到着先でまた一悶着あるという事だ。面倒だ、と彼は舌打ちをした。手放しで脱出を喜べる状況ではないという訳である。

 果たして、どちらの脱出口へと逃げるべきか。ダスクモンは思案する。

 

 (デュークモンが入って行った路を選べば、奴は迷惑かも知れんが、あの海月どもを素早く始末する事が出来るだろう。しかし……)

 

 彼は結局別の道を選ぶ事を決めた。その方が自分にとって都合が良いかも知れない事に気が付いたからだ。

 

 (ふ、来るがいいさ。貴様ら如きが束になったところで、このオレは屠れん!)

 

 漆黒の幽鬼もまた、細氷の燦めきの中へと姿を消していった。

 

 ***

 

 デュークモンは白光に包まれ、流れ落ちてくるデータの塊を浴びながら、ぼんやりと思索に耽っていた。一体この路は何処に続いているのだろうか、などという事ではない。自分にとって、より深刻な問題について彼は考えていた。

 先刻、堰を切ったように溢れ出してきた夥しい記憶の数々……あれらは一体何だったのだろうか?己の身に起こった話であるはずなのに、まるで他人の事のように感じる。奇妙な話だ。

 精神統一をして氾濫を治めたつもりではあったが、まだ意識の表層を幾らかの記憶が漂っている。デュークモンはそれらを掬い上げ、吟味してみた。

 「あの時」、「デリートされる筈だった」――一体何の事だろうか? まるで自分の身に覚えがない。それ程までに危険な体験をしているというのなら、決して忘れるわけがない。

 ふと、デュークモンは思い出した。「お前には記憶がないようだからな」――自分をこの場所に転送した張本人、堕天せし魔王デスモンが口にした言葉だ。あれは本当の事だと言うのだろうか。そうであるのなら、何故デスモンが知っているというのだろう?

 プレデジノームに接続できる者が他に存在するというような事ものたまっていたが、一体どういう事なのか? それと記憶の話がどう繋がるというのか?

  

 溢れんばかりの疑問が彼の心を占めていた。そもそも、どうして自分はプレデジノームに接続出来るのだろう? 何故自分だけがその資格を持っているのだろうか? いや、それ以前に、プレデジノームとは何なのか? 原初的な言語以前のプログラムだというのは、答えにはならない。もっと、その存在の根源を、根拠を明らめるような答えが必要だ。そうでなければ、胸のつかえが取れない……同じように、自分は何者なのだろう? 自分が必死にしがみつくところのもの、ロイヤルナイツであるというアイデンティティは自分の全てではないのだろうか?

 

 

 この時、彼はつゆ知らなかった。ダスクモンも予想だにしていなかった。――デュークモンの入った脱出口から、海月の大群がひしめき合って昇ってきている事を。


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