「“スパイラルマスカレード”!」
ロードナイトモンが宙高く跳躍し、しなやかな体躯を踊るように旋回させながら猛進する。
薄紅色の
色欲の魔王を切り裂かんと乱舞する黄金色の帯刃とそれが相まって、幻想的な美景が演出された。
しかし、流石に七大魔王、それに目を奪われる事は決してない。そればかりか、まるで自分の方が美しいと言わんばかりの鷹揚な態度だ。
「あら、何て美しい事。噂に名高い『薔薇の騎士王』様、やはりお目にかかれて光栄ですわ」
余裕に満ちた表情でそう言い放って見せると、迫り来る薔薇と黄金の嵐を、悠然と迎え撃つ。
「けれども、貴方様が暗愚でいらっしゃることは残念でなりませぬ。まさか、先程起こった事をお忘れでしょうか?」
リリスモンは、ドルモンを護った帯刃を消滅させた事をほのめかす。
それを言い終えると同時に、艶めかしく彩られた唇から、ふっと呪われし吐息を放たれる。
散逸する薔薇、乱舞する帯刃の全てが闇に呑まれる。
美景が漆黒の霧然としたものに包まれ、じわじわと浸食されるように消失してゆく。
しかし、当の薔薇の騎士の姿は、既にその場になかった。
暗黒の吐息の霧を躱し、リリスモンの右の懐に滑り込むように彼は現れる。そして、右腕に備え付けた大振りの盾を思わせる武器――パイルバンカーの下部を標的の脇腹に狙い定める。
その距離は限りなくゼロに近い。
これならば、ロードナイトモンの必殺の一撃を――音速を超えた衝撃波を外す事なく放てる。
「“アージェント――」
矢先。
ガキンという硬い音がして、衝撃波の射出口が塞がれた。
リリスモンの禍々しい黄金の右手が、握り潰さん勢いで射出口に爪を食い込ませていた。
事実、パイルバンカーに少し亀裂が入っている――いや、それだけではない。
亀裂が入った部分から――更には、爪が触れただけの部分から、淡黄色が錆茶色に醜く変貌を遂げていっているのだ。
ロードナイトモンは息を飲んだ。
「わたくしの“ナザルネイル”は触れるもの全てを腐食させる魔爪。ご存じだったかしら」
艶然と笑みを浮かべるリリスモンの顔が、ロードナイトモンの方に向けられた。
決して知らなかった訳ではない。ただ、正直ロードナイトモンはこの七大魔王の反応速度を見くびっていたのだ。
薔薇輝石の騎士はありったけの力をその細腕に込めて魔爪からパイルバンカーを引き離すと、遥か後方の安全地帯まで後ろ向きに跳躍した。
背後の地平をちらりと見やると、黒霧の遥か先にドルモンの姿は霞んでしまっているようだった。
「だいぶ焦っていらっしゃるようね、ロードナイトモン様。貴方様は本来、大勢の部下を統率して敵を殲滅させる事を得意なはず。つまり、自ら敵を一瞬で殲滅しうる派手な技はお持ちでないわ。……どうかしら?」
リリスモンは相変わらずの笑みを秀麗な顔に貼り付けたまま、本音の吐露を誘い出すように訊く。
勿論それにロードナイトモンが答える筈もないし、答えてもらおうというつもりもリリスモンにはない。ただ単に、彼の様子が引きつるのを見て楽しんでいるのだ。
攻撃するでもなく、黒霧の中光を発する美しい騎士を見やりながら、妖艶な魔王は続ける。
「そんな貴方様の事、部下のいくらかでも伴って此処を通行すべきだけれども、それは目立つからとお避けになったのではなくて? 例えわたくしの様な存在に出遭う事は想定なさっていたとしても、あまり目に付かないのを優先なさりますわよね?」
「……よく喋るな、色欲の魔王」
冷ややかな声を絞り出すロードナイトモン。リリスモンは何が言いたいのか、彼にはついぞ分かりかねた。
しかし、彼女の言う通りでもある。
然れども、そんな事情はどうだっていい。
流石と言うべきか。七大魔王、油断も隙もない。どう倒せばよいのか――ロードナイトモンにとってはそれが一番の問題だ。
先程の様な戦局を繰り返すのはさながら千日手の愚行に他ならない。ならばどうする……?
ロードナイトモンは高速で
その結果、出た答えは一つしかなかった。
しかしそれを実行すれば、もうドルモンと再び逢える事など永遠になくなってしまう――同時にその答えが出た。
束の間よぎるドルモンとの日々。それが、季節を過ぎた花のように儚くしおれ散っていく様がふっと見えた気がした。
然れどそれもほんの一瞬。ドルモンにそう言ったように、覚悟を決めた。
ロードナイトモンの足が強く地を蹴り、弾丸の如く飛び出す。
その向かう先は――黄金の爪を構え、獲物を串刺しにせんと待ち受けるリリスモンの正面だ。
「わたくしには決して勝てないと分かって、自殺にでも及んでいらっしゃるのかしら?」
リリスモンはまるで意味が分からない様子で、ロードナイトモンの突撃してくる方向へ自ら飛び出して迎え撃つ。
「いいでしょう、喰らいなさいな、この暗黒の魔爪――“ナザルネイル”を!」
瞬刻、リリスモンの猛然と繰り出した金色の五爪が、ロードナイトモンの前方を守っていたパイルバンカーの右を擦り抜けて--薔薇輝石色の鎧の胸を貫いた。
「ぐあっ……」
堪らず呻き声を漏らしたロードナイトモンの鎧の貫通され、ひび割れた部分から華やかな色が抜け、次いで濁った赤銅色に変わり--粒子へと変じてゆく。
しかし彼は微塵も動揺してなどいなかった。ロードナイトモンは苦しみも厭わず、まるで自ら突き刺さって行くように更に体を前に出した。
「愚かな方ね。もう少し先刻のような攻防を続けようと思えば、時間は引き延ばせましたのに」
悠然と高笑いするリリスモンに、だが、ロードナイトモンは泰然として返した。
「もう時間稼ぎの必要はない。それに――愚かなのはどちらかな。私は確かに派手な技を持たないが、眼の前の敵をどうにかすることは出来る」
これこそがロードナイトモンの狙いであった。
リリスモンとの距離を、限りなくゼロに近づける事が。
そして、リリスモンの防御手段を奪い去る事が。
右腕のパイルバンカーが、リリスモンの腹部に突き付けられていた。
それに気付いて声を上げた色欲の魔王だったが、最早遅すぎた。
「“アージェントフィアー”!!!」
ゼロ距離から放たれる衝撃波は音速を遥かに超え、リリスモンの腹部を打ち抜き――そして暗黒地帯を劈いた。
色欲の魔王は自失したように己の消し飛んだ空洞を見やり――金属音のような声で絶叫した。
***
一頻り声を上げた後、リリスモンはようやく右手を薔薇色の鎧から勢いよく引き抜いた。
串刺しで半ば宙ぶらりん状態になっていた彼は、どさりと地に崩れ落ちた。
「……肉を切らせて骨を断つ、賛辞を呈しましょう」
艶麗な顔に幾つも皺を作り、息を切らしながらも、リリスモンが口を開く。
腹部に空いた大穴から、少しずつ崩壊を起こしているのがはっきり見える。データの微粒子が漏れ出す光のように流出しては消える。放って置いては、いずれリリスモン自身が完全に消滅するだろう事は明白だ。
「このままではわたくしはデータの残滓でしかなくなる。退却するしかありませんわね……。しかし」
ロードナイトモンの胸に空いた、自分のそれよりも小さい穴を右手の黄金の爪で差して苦しげに笑う。
「貴方様はどのみち生きられませぬ……。何故なら、
電脳核――デジタルワールドに生きる者達の脳であり、心臓部分だ。これにその者を構成するために必要な全てが記され、また、存在の中核となっている。これが壊れてしまえば――もうその者はその者で居られなくなる。ただのデータの屑と化してしまう。
ロードナイトモンの胸の抉られた痕のような亀裂から錆色は広がり、見る見るうちに0と1で綴られた彼のDNAが虚空に流れ出していく。薔薇色の騎士は跪いた姿勢のまま動く事も叶わず、ただ自分という存在が薄れなくなってしまうのを待っているかのように思われた。
しかし、先程崩れ落ちたのにもかかわらず未だその姿は典麗で、決して姿勢を崩してはいなかった。美しいままだ。
確かに彼は跪いている。けれども、それは眼前の魔王に対してではない。
己の正義に対して、そして従うべき大いなる節理に対して。
「そんな事は……分かりきっている。だが……貴様をこの先へ進ませない……その役目は果たした」
どうしても掠れてしまう声をロードナイトモンは絞り出す。それこそが自分の責務であるといわんばかりに。
「今回は引きましょう……然れど、貴方様の命を賭けた努力は結局は無為だったと示される時が来るのよ」
リリスモンはロードナイトモンの言葉を認めざるを得なかったが、捨て台詞のように禍言を吐いた。
左腕で消し飛んだ部分を庇いながら、すぐさま高貴の色をした衣の袖をふっと翻すと、彼女の姿は闇に同化したようにその場から無くなってしまった。
ロードナイトモンに悲愴の色はなかった。自分は大勢の者を守るという大仰に見える事をやってのけた訳ではない――だが、「未来」を守り通すという何人にも出来ない事をやり遂げたのだと。彼は本懐を遂げたのだ。
リリスモンが何故自分を追って来れたのか、どうして追ってきたのかという疑問が消えた訳ではないし、寧ろ今自分が最期の時にあるというのに深まってしまっている。
しかし、己の務めが終わった今、それを払拭する事、そしてデジタルワールドを救うのは――ドルモンの役目になった。
そう、自分の努力が無駄になる事など……
……決して有り得ない。ドルモンが居る限り。
最後の言葉は、だが、その姿と共に、既に周囲の黒霧に溶けるように、永遠に消えてしまっていた。大輪の薔薇が散逸する様にも似て。
***
ドルモンは走った。ひたすらに走った。
大好きなロードナイトモンと別れなければならない時がやってきた事を噛みしめながら。段々と鮮明になってきた朧気だった光の柱が、急にぼんやりと揺らめきだした。気が付いたら、両目に涙があふれていた。
ふと、ずっと後ろの方から、何か怖い叫び声のようなものが響いてきた。きっとそれはあのデジモンの声だ。自分の知っているロードナイトモンは、こんな声を出したりしない。
少し嬉しくなった。溢れ出す涙が少しおさまる。
(ロードナイトモンがあのひとをやっつけたんだ~。いつかまたドルモンはロードナイトモンにあえるんだ~)
細い希望の糸が繋がってくれた気がした。これから自分が行くのはどんな所か見当も付かず、不安だらけだが、その糸を辿っていけばまた一番好きで一番安心できる、自分だけの場所に戻ってこられる気がした。
ふと、暗黒を一片の花びらが舞ってきた。
薄紅に染まった雪片にも似た――。
訳もなく惹かれて、ドルモンはその方へ頭を突き出した。
しかしそれはドルモンの鼻の頭にふわりと載ると、溶け出すように消えてしまった。
色は決して派手ではないけれど、華やかさがあって、暗闇の中しっかりと存在感を見せている。自分を導いてくれるような。
まるで――
遠くで
ドルモンは全てを分かってしまった。
淡い期待は、垣間見えた優しい色のように無くなってしまった。再び涙が溢れ出す。
「えぐっ、えぐっ」
今、自分は本当に独りぼっちになってしまったのだ。戻る道なんかなくなってしまったのだ。
いや、最初からそんなもの幻で、ロードナイトモンが自分を連れて此処に来た時から道なんかとうに断たれていたのだろう。
そう思った途端、大海の真っ直中にぽつりと取り残され、今にも溺れ死ぬのを待っているような気持ちになった。
「ドルモン、どうしたらいいの~……?」
ドルモンは涙をぼろぼろと零しながら、立ち止まって後ろを振り返った。向こう側なんて見えるはずもない。黒い煤を思わせる霧の膜が目の前を覆い尽くしているのだから。まさに、今の自分の状況を表しているようではないか。
遙かなる常春の空中庭園、咲き乱れる花々、その中に構えられた荘厳な宮殿。甲冑の騎士達、彼らを治める薔薇輝石の騎士。平和で幸せな、いつまでも続くのだと思われた日々。鮮やかな記憶の映像が波濤のようにドルモンに押し寄せ、苦しさで息が詰まりそうになる。
もう戻れないのだ。黒霧の向こう側に消えてしまって、もう戻れないのだ。
――行け、絶対に振り返るな。
その時、最後に聞いたロードナイトモンの声が、思い出の中の声よりもはっきりと――彼がそう今の瞬間ドルモンに訴えかけているかのように聞こえた。
そうだった。自分には、後ろを見ている暇なんかなかった。立ち止まってこんな風に戸惑っている暇もなかった。ロードナイトモンが作ってくれた時間が――無駄になってしまう。自分のために命を捨てて作ってくれた時間が。
ドルモンは再び走り出した。ひたすらに走った。
やがて闇を切り裂き現れる巨大な光の柱。燦めく氷晶のエレベーターが黄昏の色に染められたような崇高さすら漂わせるそれは、天も地も突き抜けるようにそこにある。
頭は溢れんばかりの悲しみと不安で満ちている。どうしたら良いのかよく分からずに混乱している。けれども、ためらいや戸惑いは消えた。代わりに覚悟は決まっている。
眼前に待ち構える、天から降り注ぐ大瀑布のようでもあり、そびえる果てしない塔のようでもある光の柱へと――異なる世界への路へと、ドルモンは思い切り飛び込んで行った。
重力を失った感覚に襲われる。ふわふわしていて、何だか落ち着かない、それでいて身を任せたくなるような心地よい感覚。
視界が穏やかな、山吹色の薄光に包まれる。何故かそれは眠りを誘うようで、体のありとあらゆる部分から力が奪い去られてゆく。
ドルモンはゆっくりとまぶたを閉じた。この電脳世界に別れを告げるように。そして、新たな世界でまた生まれるように目覚めるまでしばし眠るように。
――ドルモン、行ってくるからね~。リアルワールドに~。
心の中の言葉は、ロードナイトモンに向けられたもののようでもあり、デジタルワールドの全てに向けられたもののようでもあった。