Real-Matrix   作:とりりおん

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いつもより1000字は多くなってしまいました。



濁れる闇

 シャンデリアの灯りで、高貴の色に彩られた爪が妖しい光沢を放ち、白魚のような手が浮き立つ。もう一方の醜悪な怪物然とした黄金の手はそっと袖に潜ませている。誤って触れたものを腐り落ちてしまわせないように。

 グラスを傾けると、くぷり、とグラスの蒼い中身が揺れた。

 喉に流し込んだ液体が五臓六腑に染み渡ってゆき、じわりと全身を心地好い熱さに包んだ――が、ずきりという鈍重で激烈な痛みが襲いかかり、彼女は艶麗な顔を歪めた。

 

 思わず自分の腹部に目を落とす。そこには、でかでかと巨大な風穴が空いている。

 膿んだ傷口が見えるとか肉が抉れているとかいう生々しいものではなく、ただ衣装の一部が消し飛んだりして綺麗な円を造っているだけだ。だが、なるたけ迅速に処置を施さねば、見るに堪えない状態になり、遂には彼女自身がデリートという路を辿っていたであろう。

 だからこうして魔族を癒やす黒羽毛のソファに腰掛けて、穴がこれ以上開いてゆきデータが流出するのを食い止め、尚且つ徐々に修復されるのを待つ代わりに、四六時中じっとしている事を強要されている。

 

 (ロードナイトモン――薔薇輝石の騎士王)

 

 彼女――色欲の魔王、リリスモンは目を閉じてぼんやりと沈潜し、自ら手に掛けた相手の事を考えていた。

 あらゆる物を腐食させる魔爪で貫いた敵、己の命と引き換えに自分にこの傷を負わせた敵。

 そして敵ながら、憎むと同時に賞賛すべき敵。だがそれ以上に――自分達ダークエリアの眷属からすると、「騎士道」とかいう偶像にしがみつく実に愚かな者の一人でもあった。

 

 愚直なまでに騎士道に殉ずる――そうする事が、何か実利を彼らにもたらすのだろうか? 形あるものを得させてくれるのだろうか?

 確かにロードナイトモンは自らの死を賭して“ロイヤルナイツの希望”若しくは“デジタルワールドの希望”である幼稚な成長期デジモン――ドルモンを守り抜き、無事にリアルワールドに送り届けた。しかもこの七大魔王が一角、“色欲の魔王”たる自分を当分の間行動不能にしてくれた。

 

 だがそれも結局は虚しい。価値などなかった。ロイヤルナイツという連中は大層ドルモンに期待を掛けていたようだが、まるで自分らの力が信用できないばかりに神話に縋っている風ではないか。伝説神話の類など、躯の殆どを尾ひれで埋め尽くされた、干からびた死骸に過ぎないというのをよもや分かっていないはずはない。まるで目を瞑って現実を直視するのを避け、白昼夢に耽っているようだ。

 そうでないとしても、自分が送り込んだ凶悪な闇竜、デビドラモンによってドルモンとやらは今頃くびり殺されている事であろう。

 

 実に滑稽だ。そして思わず涙を零してしまう程に愚かで哀れだと、リリスモンは心の中でせせら笑った。いや、実際に嗤っていたかも知れない。

 

 (わたくしには……やはり分かりませぬ。それ程までに空しさを愛し、偽りを求めるのが)

 

 四聖獣や三大天使など、殆どただの「シンボル」でしかない存在と異なり、実際に稼働しているネットセキュリティ最高位の騎士共にこんなきらいがあるのでは、デジタルワールドも救いようがない。

 

 ――やはり、粛清……浄化の必要がありますわね。 

 

 その作業も然程労力は要らないかも知れない――艶麗な魔王は、ぞっとするような底知れぬ深い笑みを湛えると、グラスの中身をもう少しばかり喉に流し込んだ。

 

 するとその時、リリスモンの正面の扉から何かが擦り抜けるように入ってきた。

 

 「リリスモン様……!」

 

 音もなく宙を走るように入ってきたのは、まさに幽霊、死神然とした風体の者だった。鼠色の布地にすっぽりと身を包み赤いマントを羽織り、身の丈程もある鎖鎌を担いでいる。顔らしき顔もないが、相当切羽詰まった状態であろう事は声からしても明らかだ。

 

 (はて、どのファントモンかしら。アザルに派遣したファントモン?)

 

 同じデジモンといっても一体だけではないし、個体識別番号も名前も付いているわけでもないので見分けるのは困難だ。色欲の魔王は首を傾げつつ姿勢を正すと、相変わらず笑みを浮かべたまま尋ねた。

 

 「ファントモン、ご機嫌麗しゅう。どうしました、そんなに慌てて?」

 

 「そ、それが……」

 

 死神――ファントモンは微かに前傾すると、口籠もった。何とか落ち着こうとしている様だ。

 

 

 「只今アザルより戻って参りましたが……その、私を除く完全体6体成熟期11体……全て、アザルに潜入する前に殲滅させられました……」

 

 忽ちリリスモンの顔から笑みが消え、双眸が拡大し、石の様に固まった。思わず身を前に乗り出す。

 

 「何者なの!? そんな真似をしたのは……」

 

 「“暴食の魔王”、ベルゼブモン……様、です……」

 

 パリン。

 激烈な破砕音がした。

 ワイングラスが床に落ち、粉々に砕け散った。ファントモンが衣の下でひっと短い悲鳴を上げる。

 蒼い中身が一滴余さず零され、黒羽毛のカーペットにじわじわと染み込んでゆく。

 ぎりぎりと握りしめたリリスモンの両の手が、小刻みに震える。

 

 

 「失礼致します、リリ――」

 

 間が悪く扉がギギギと開く。悠然と入ってきたのは、二連銃を携えた貴公子然とした風体のデジモン――アスタモンだった。

 しかし呼びかけた相手の様子が目に入るなり、彼の不敵な笑みはさあっと失せ、舌が凍り付き――そして全身が凍り付いた。

 

 「あの蝿の王……糞山の王めがあ!」

 

 耳をつんざく怒号。

 余りの剣幕とに、その場に居合わせた者の息がぐっと詰まる。アスタモンは肩をびくりと震わせ、唖然とした。

 彼は半開きの扉から身を乗り出したまま、おっかなびっくり獣のマスクの下から目だけ動かして部屋内の詳しい状況を確認する。

 割れたガラス片が散乱したカーペットは、一部がやたらてらてらと濡れて光っている――中身のまだ入ったワイングラスを投げ落としたのだろう――。そして、その張本人であろう者――リリスモンは、ソファに腰掛けたまま身を乗り出し、自分など、いや、そこにふわふわ浮かびおどおどしているファントモンまでも目に入っていないという様に鬼の形相で拳を握りしめ、震えている。

 

 七大魔王が一角、“暴食の魔王”ベルゼブモンとの間に何かがあったのだろう。元々“色欲の魔王”が“暴食の魔王”をいたく嫌っていた事は有名であり、余程の被害を受けたのであればこの怒り様も当然かも知れない。――が。暇潰しのつもりで、ごくごく軽い気持ちで入ってきたつもりだった者の身にとっては、現状は相当応える。

 リリスモンは怨嗟の怒号を続ける。溜まっていた鬱憤を今だとばかりに吐き出す様に。

 

 「今度は我らダークエリアの眷属まで己の欲望を満たすための慰みものにするとは! そして知らぬとは云え我らの妨げとなる……断じて許せぬ……!」

 

 両耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、どうやら部下を徒にデリートされたらしい、とアスタモンは見当を付けた。詳しい事情は知る由もないが、そこでふわふわしているファントモンがたった今事を伝達しに来たのだろう。

 

 「ファントモン、アスタモン!」

 

 「……はっ、何でございましょう」

 

 「は、はい……」

 

 リリスモンの鋭い、だが掠れている声の呼びかけに、二人は驚きながらかろうじて応えた。実際より吃驚しているのは、未だに完全に部屋に入れずに半身だけ乗り出した状態でいるアスタモンだった。自分の事など怒りのあまり目に入っていないものとばかり思っていたのだ。

 

 「“血塗られし瞋恚の館”へ赴き、事の次第を説明するのです。そして、究極体数体を駆動してくれるように約束を取り付けなさい……あの蝿めを屑も残さず叩き潰してくれるために!」

 

 最後の言葉は怪物が発したのかと錯覚する程であった。リリスモンの顔は羅刹さながらの凄まじい剣幕だ。アスタモンは私が行く必要はあるでしょうか、と言い掛けたが、寸前で言葉を飲み込んだ。この状況で何か言ったら、瞬く間に殺されるような気がしたのだ。

 色欲の魔王は、今だけ憤怒の化身に成り果てたように、テーブルを左掌で思い切り叩いた。砕け散りそうな勢いだ。

 

 「粛清よ……粛清! これは粛清! 不遜にも七大魔王の椅子に座りながらも自分の地位がどれだけのものか一切自覚せず、領地を放逐し、気狂いのように戦いだけを求める、糞喰らいの、鉄血喰らいの、腐肉にたかる小蝿の王! それに対する! 本当ならばわたくしが自ら赴きたい所だ――」

 

 そこに、愚かにもファントモンが非常に質の悪い油を注ぎ入れた――もとい余計な事を口にした。

 

 

 「誠に恐れ多いことながらリリスモン様、究極体級のデジモンならばバルバモン様麾下の方が遥かに多く――」

 

 アスタモンの顔がこわばった。馬鹿が、能無しが。空気を読め。要らぬ事を言うな――。

 

 「黙れえ!」

 

 ヒステリックな叫びと共にリリスモンは再び左手を振り上げ、激しくテーブルの面を叩いた。破裂のそれに似た音で部屋内の大気がびりびりと震える。

 

 「あの古狸の名前を出すなあ! わたくしの前で!」

 

 アスタモンはもはや遠目にリリスモンの顔を見る勇気も無かった。色欲の魔王は、暴食の魔王以上にバルバモン――強欲の魔王を嫌っている、というより寧ろ憎悪しているのだった。その程度たるや、言葉で表現してもしきれない。

 

 

 「あの狸爺をこれ以上つけあがらせてやるものですか! 協力を仰いだ所で、此方に究極体級が居ないのを嘲弄しいつもの財産自慢が始まる! それに森羅マッピングの使用権も招集権も全部あの爺が独占している!」

 

 息を荒げながら、尚もリリスモンは続ける。腹の傷に響かないのか、過呼吸にならないのか、その怒号に圧されずにいられる冷静な者がこの場に居たのなら、甚だ心配するだろう。

 

 「それだけではありませぬ!蝿の王をあの古狸が配下に引き入れようとしているのをわたくしが知らないと思って!? それにアザルへの派遣はわたくしの独断! どういう意味か分かりますわよね!?」

 

 リリスモンの眼は血走り、虚空を泳いでいた――というより、見えない相手を空間を超えて睨み付けていた。どういう意味か分かっているのかそうでないのか、いずれにせよファントモンは宙で左右にがくがくと無言で震えている。迂闊な発言を詫びるべきか、詫びた所で焼け石に水だろう――と二途に思い悩む様に。

 

 「アスタモン、外に出ていなさい……わたくしがいいと言うまで」

 

 「は……?」

 

 

 

 一瞬アスタモンにはその意味が分からず、きょとんとして固まった。大体軽はずみな事を言ってリリスモンの機嫌を甚だしく損ねたのは自分でなくて、ファントモンの方だ。間が悪く入って来てしまったのは確かだが、締め出される程の事だろうか。

 約一秒間考えて、アスタモンはやっと得心がいった。そして、ファントモンの方をちらりと見る。此奴に表情というものが無くて、正直良かったと思った。

 

 「……了解しました」

 

 ダークエリアの貴公子はするりと部屋の外に出、扉をしっかり閉めた。古い扉が軋む音がいやに耳障りだ。

 彼は身を翻して扉に背を向け、楽しい事を考えて気を紛らわそうと決めた。扉は古いが防音が完璧な部屋の中で今何が起こっているかを想像するだけ無駄であり、無駄に精神を磨り減らす事にもなる。聞こえなくていい聞こえない音、見えなくていい見えないものに恐れおののく必要などないのだ。

 

 「アスタモン、もう入ってよろしくてよ」

 

 暫く下らない事を思い巡らせて時間を潰していると、先程の羅刹の如く怒声からは一転、耳を疑う程嫋やかな声が扉の向こうよりした。とはいえ、普段の声はこれでありあれが異常なだけだ。

 

 「……失礼致します」

 

 彼はやや躊躇しつつ扉を開け、中に入った。

 宙に浮かぶ死神の姿は跡形もなく消え失せていた。ソファにはさっきの激昂ぶりは夢だったかと思うほど穏やかな様子のリリスモンが座っていた。

 デジモンの命一つで済んだのだから色欲の魔王の瞋恚など大した事はないのかも知れない、とアスタモンは思った。憤怒の魔王のそれは遥かに勁烈に過ぎ、眼に入るもの全てを滅ぼさない事には鎮まらないのだから。

 

 さて、一体どういう事情が蝿の王との間にあったのか、それを知らなければならない。

 

 

 「恐れながら、リリスモン様……一体如何なる事がおありなのでしょうか?」

 

 

 そうアスタモンが訊くと、艶麗な色欲の魔王は身を震わせたように見えた。湧き上がる怒りと戦っているのか。

 

 

 「……わたくしが先日アザルに部下を幾らか派遣したのは知っていますわよね?」

 

 「アザルと言いますと……『黙示のアザル』の事でしょうか?」

 

 「そう、『黙示のアザル』。どういう場所かはお分かりでしょう?」

 

 「無論、存じております」

 

 その場所はダークエリアではなく、光ある地上界に存在する。地下に埋もれたただの砂っぽい巨大な遺跡に過ぎないのだが――実際には違う。ロイヤルナイツでさえ、七大魔王でさえ恐れを成し逃げ出すような存在が深部に眠っていると目されている。それが具体的にどんな存在なのかはアスタモンは知らないが。

 

 「派遣した完全体7体、成熟期11体がファントモンを残して全員、あの蝿の王――ベルゼブモンの凶弾に斃れたというのよ」

 

 「ふうむ」

 

 アスタモンは顎に手を当てる姿勢を取った。暴食の魔王の姿を実際に見た事はない。しかし、かの者が二丁銃を操り、「鉄の獣」とやらを駆って戦いに臨む話は有名だ。その神速で繰り出される銃撃を逃れる術などないという。ファントモンとて標的になったのならば例外ではなかっただろうが、生き延びて戻って来たのはおそらくあの死神の実体が「この次元に存在していなかった」からであろう。流石の神速の銃撃といえども、異次元にまで達しなかったということか。

 だとしたら、この目の前に座っている艶麗な妖女はどのようにしてファントモンを――と考えかけて、アスタモンは思考を止めた。

 

 

 

 「了解しました。“血塗られし瞋恚の館”――でしたね。そこに私が事情を説明し、更に麾下のデジモンを派遣して頂けるよう交渉しに伺えばよろしいので?」

 

 リリスモンは然りと頷いた。

 

 「そうよ。さあ、直ぐに行って唯一の我が同士、デーモンに約束を取り付けてくるのです……!」

 「了解しました。それでは行って参ります」

 

 そう言いつつ、アスタモンは微かに口を歪めた。傍目に絶対分からない程度の――渋っ面である。

 

 (第五圏――か)

 

 さっきこそ状況が状況だったのでろくに考えなかったが、よく考えるとダークエリア第五圏は、鮮血色の泥沼、スティージュの中に広がるひどく気味悪い空間ではないか――という事だ。憤怒の魔王デーモンが統治する場所というだけあって、そこかしこから己の堕天を不当だと激昂するデジモン達が居て、非常に殺伐とした雰囲気が漂う。

 魔王の邸宅同士はテレポーティングシステムで直結しているため、心底気味の悪い沼を潜って館まで行く必要性は全くないのだが、血の霞でけぶったような空気の邸宅それ自体アスタモンは苦手であった。加え、ダークエリア住まいの究極体デジモンにはアスタモンをいけ好かなく思っている者も多く、そういう意味でもアスタモンはどうにも気が進まないのである。

 

 しかし、上司――リリスモンは今こそ収まっている様に見えるが、腹の内は――といってもあの通り消し飛んでしまっているが――相当煮えたぎっている。この状態の色欲の魔王にほんの僅かでも逆らうような真似をすると、即座にデリートされだろう。実際にたった今、消されたうつけがいた訳であるし。

 此処は素直に従うのがリリスモンの為にも――自分の為にもなる。

 だが一方で。 

 

 

 (暴食の魔王――ベルゼブモン様。私が斃すというわけにはいきませんかね)

 

 自分にはメタルエンパイアとのパイプとなる役割があり、またリリスモンの伝令であるという重要なポストにいる。おいそれとそれを投げ出して戦いに赴く訳には行かない、束縛された立場にある。

 実際には、アスタモンは自分の立場を自由に乏しいものだと感じた事はない。だが今、ベルゼブモンという名を眼前に突きつけられ、正直気分が高揚するのを抑えられない。

 

 ベルゼブモンは、リリスモンの名にかけて、怒りにかけて、そして障害を取り除く目的に於いて抹殺されるべきだ。

 だが同時に、同じ銃使いとして――どちらの方が優れているのか試してみたい気持ちはある。右手に携えた二連銃の引き金を、軽くカチリと引いてみる。

 

 (いつか相対する事が出来るその時まで――暴食の魔王よ、生きていてもらいたいものですな)

 

 ダークエリアの貴公子は身を翻して扉の向こうに消えながら、人知れずその胸の内で願った。誰にも打ち明けるつもりはない、打ち明けてはいけない思いだ。

 

 地獄界の闇は深いが、それは何色もの絵の具を混ぜ合わせたような濁りだ。

 




詩篇4-3のテキストをちょっとだけお借りしてリリスモンの台詞に利用しました。別に宗教的な意味とか、コンテクストとかはありません。

アザル=atharはアラビア語で「遺跡」ですが、もしかしたら発音はアダルの方が近いかも知れなかったです。が、私個人の好みによりアザルを採用しております。


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