Fate/Zero ~Heavens Feel~ 作:朽木青葉
深夜。臓硯に攫われたアイリスフィールを奪還するべく結託した、アサシン、綺礼、雁夜の3人はある場所から間桐邸を監視していた。
その場所とは――いつぞや、凛と士郎も身を隠した間桐邸前の裏路地である。
「――狭い」
思わずアサシンが小言を漏らす。
比較的小柄な凛と士郎でさえ狭いと感じた裏路地へ、今2メートルに届こうかという大男と危篤寸前の病人の3人で身を寄せ合っているのだ、当然だろう。
だが、そんなアサシンへ綺礼が真顔のまま注意する。
「静かにしろ、見つかるだろう」
「いや、そう言われてもな……」
綺礼の注意も最もだが、どう考えてもこの状況はおかしい。
しかし、文句を言うアサシンを、綺礼は鼻で嗤った。
「ふん、仕方があるまい。本来ならばお前が霊体化し、高台で監視をするのがベストだが……如何せんお前にそのような芸当はできまい」
「う……っ」
そう断言されてしまうと言葉に詰まる。確かに、霊体化できないのはアサシンの弱点だ。
――だが、それを踏まえてももっとやり方があったのではないか。少なくとも、大の男たちが3人揃って身を寄せ合う以外の……!
そんなアサシンの心中を察してか、癪に障る相手を小馬鹿にしたような調子で綺礼が釘を刺す。
「間桐臓硯の不在が確認できた所で侵入のタイミングを逃しては意味がない。臓硯の留守を確認ができ、かつ迅速に作戦を開始するのならば、この陣取りがベストだ。
安心しろ。位置は近いが、隠匿用の結界は万全だ。――どこかの誰かが声でも漏らさぬ限り、万に1つも見破られはすまい」
「いや、そっちの心配をしてるわけじゃないんだが……」
もっとこう……人間の尊厳的なものを失っているような気がした。
そもそも、その留守を狙う作戦自体、アサシンには疑問があった。
「なあ、本当に突撃は夜中なのか? 昼間の方が良いんじゃないか?」
あちらの世界で、臓硯の出鱈目さは身に染みている。やるならば、活動が活発になる夜よりも、動きの鈍い昼間の方が良い気がしたのだ。
しかし、アサシンのその意見には雁夜が抗議した。
「いや、あいつは日中屋敷に籠ってる。屋内には日光が届かないからな。――屋敷は奴の体内だ。サーヴァントのあんたはともかく、真っ当な魔術師じゃあ屋敷の中では逆立ちしたってあいつには勝てない。狙うならあいつが留守の時だ」
「なるほど」
勝てないならば、そもそも戦わない。格上を相手にするときの定石だ。
しかし、臓硯がいなくなってもバーサーカーが残っている可能性はある。その時のために、アサシンだけでも戦えるよう心の準備をしておく。
――と、そんなアサシンの横顔を雁夜は不思議そうに見つめていた。
「……なあ、君たちはどうしてそこまで――」
そう、雁夜が何かを尋ねようとしたその時、
「――無駄口はそこまでだ」
綺礼が強引に口を塞いだ。正面を見れば、今まさに臓硯が玄関前に姿を現した。
3人の空気が一気に張り詰める。
玄関へ鍵をかけ、普通の老人の様に家を後にする臓硯。しかし、霊視すればその背後にはバーサーカーを従えているのが分かった。
臓硯は念入りに屋敷へ鍵――結界を敷いたあと、坂道を登って行く。遠坂邸へ向かったのだろう。進行方向がこちらと反対なためか、まったくアサシンたちへ気づくそぶりは見せない。
「……よし」
そうして臓硯が完全に見えなくなった所で、アサシンは腰を上げる。
しかし、すぐにそれを綺礼に手で制された。
「待て」
「なんでさ」
「屋敷に侵入すれば、間違いなく奴に気づかれる。入るのは、奴が気づいてもすぐには駆け付けられない程度、屋敷から離れてからだ」
「むっ」
確かに、言われてみればその通りだ。
仕方なく、それからもう5分ほど、3人とも団子状態で路地裏に身をひそめる。
そして、
「……よし、もういいだろう」
綺礼のその言葉を合図に、一斉に路地裏から飛び出した。
数時間ぶりに広い場所へ出たアサシンはたまらず体を伸ばす。
「く……体が固まった……。雁夜さんは大丈夫か?」
「ああ、ありがとう。けど大丈夫、狭いところに隠れるのは慣れてるから」
気を遣うアサシンへ、笑顔で応じる雁夜。
……あの状態に慣れる生活はどんなものなのだろう?
首を傾げているアサシンへ、同じく何ともなさそうな綺礼が告げる。
「何をしている。お前の出番だ。早くしろ」
「あ……ああ」
そうして、3人揃って間桐邸の玄関前まで歩み寄った。そこからアサシンは屋敷の結界を凝視する。
「どうだ?」
「……やっぱり、俺じゃあ忍び込むのは無理そうだな。そもそも俺、魔術には詳しくないから、アンタに無理ならお手上げだ」
今が聖杯戦争中だからか、間桐邸の結界は、あちらの世界の物よりも強力になっていた。アサシンレベルではこの結界に気づかれない様侵入することも、結界を誤魔化すこともできない。
綺礼も同じ結論だったのか、アサシンの言葉にゆっくり頷く。
「そうか。――では手筈通りに頼む」
「了解」
綺礼の短く応じ、玄関前に立つ。
アサシンンの実力では間桐邸へ忍び込むことは出来ない。――が、結界を跡形もなく、壊すことは出来る。
「……
いつもの呪文を口にして、ある物を思い浮かべた。
――『
あちらのキャスターが持っていた、契約破りの短剣だ。
投影したそれを振り上げ、結界の要であろう玄関のカギ穴へと差し込んだ。途端、あれほど強固だった結界がまるで初めからなかったかのように白紙に戻り、消えていく。
その様子を見た雁夜は、我が目を疑うように目を見張っていた。
「本当に結界が壊れた……並の魔術師じゃあ解除に数か月はかかる代物なのに……改めてサーヴァントっていうのは出鱈目なんだな」
「俺の力じゃないけどな」
と、雁夜の称賛にアサシンは苦笑した。
そこへ、綺礼が会話する2人を窘めるように、一歩前進する。
「無駄口はいい。ここからはスピード勝負だ」
「ああ、悪い」
アサシンは短くそうとだけ答え、気を引き締め直す。
間違いなく、今ので臓硯に気づかれただろう。奴が返ってくる前に、桜と聖杯を見つけなければならない。
そこで雁夜の出番だ。
「じゃあ雁夜さん、案内を頼む」
アサシンが声をかけると、雁夜はそれに応じるように胸を張った。
「任せてくれ。桜ちゃんのいる蟲蔵はこっちだ」
そうして、雁夜を先頭に3人は間桐邸へ侵入する。
そして、一階には目をくれず、一目散に2階のある壁の前へ。そこで立ち止まり、アサシンはあることに気づいて声を上げた。
「……確かに。ここの間取り、少しおかしいな。まさか間桐邸にこんな空白スペースがあったなんて……」
気づかなかった過去の自分を思い、後悔の念がアサシンを襲う。
しかし、それも一瞬、すぐに目の前のことに集中し、顔を上げる。
そして、
「じゃあ、開けるよ」
雁夜の一言と共に、壁の隠し扉が開かれた。
ぱっくりと口をあけた地下への通路から、湿った空気が漏れてくる。その耐えがたい腐臭に雁夜以外の2人が思わず顔を歪めた。
3人は、湿った石畳を下りて行く。
「ここが間桐の修練場……」
そう呟いて目眩を覚えた。嫌悪や悪寒からではなく、後悔と嘔吐しそうなほどの怒りから。
話には聞いていた。聞いていたが、まさかこれほどまでとは思わなかった。――いや、聞いていながら、それでも現実から目を背けていた。
ここは紛れもなく、現世に再現された地獄そのものだった。
「――――――っ」
こんなものを、今まで野放しにしていたなんて。
こんな場所で、桜を1人にさせていたなんて。
別世界だから。優先順位が低かったから。敵サーヴァントがいたから。マスターの監視が厳しかったから。――そうした言い訳でここ数日、この場所を見過ごしていた自分が恨めしい。現界してすぐ、真っ先にここへ足を運ぶべきだったのだ。
そして、蟲蔵の最深部。
最も蟲の多い、一画で蟲に埋もれるその人影を見て、アサシンは叫んだ。
「――――桜!!!」
一刻も早く、ここから連れ出そうとわき目も振らずに駆け寄った。
だが、
「――待て!」
「っ―――――!」
綺礼の呼びかけのおかげで、寸前のところで気づき、その奇襲を迎撃する。
桜の元へ駆け寄ったアサシンへ放たれたのは干将莫邪。彼以外に、この双剣を持っているものは1人しかいない。
双剣の投げられた方向を睨み、あちらの世界から続くすべての怒りを込め、その人物へ叫んだ。
「――臓硯!」
「カカカッ」
果たして、返答はすぐに返ってきた。
薄暗い蟲蔵の中で、その歪な影が怪しく揺れる。蟲の王が背後に従えるは無数の使い魔と狂気の騎士。
アサシンはそんな彼らへ怒りを隠さず、挑み立つ。
――今、因縁の戦いが始まろうとしていた。
因縁の敵を前に激昂するアサシン。
しかし、そんなサーヴァントに対して、マスターである綺礼は極めて冷静だった。
現れたその人物とサーヴァントの姿を見て、激しい怒りを露わにするアサシンと、悲鳴のような声を上げる雁夜を冷めた目線で眺める。
「爺ィ――!? それにバーサーカーまで! どうして、お前らが――」
「バカ者。貴様の行動などお見通しと言ったはずじゃぞ、雁夜」
にやりと悪質な笑みを浮かべる臓硯。
――こちらの作戦が看破されていた?
確かに、屋敷に侵入してから臓硯が姿を現すまでがあまりに早すぎた。おそらく、初めから奇襲を予期し、あえて留守に見えるよう外出するふりをしたのだろう。
しかし、綺礼も臓硯の監視には細心の注意を払っており、周囲に使い魔の気配もなかった。なのになぜ……。
不可解な現象に、綺礼は首を傾げる。
が、答えはすぐにアサシンが口にした。
「――っ! そうか、刻印虫!」
その答えに、臓硯が感心した様子で呟く。
「ほう。サーヴァント風情が、刻印虫を知っておるとは……。応ともよ。貴様らといるそこの雁夜には体内に儂の蟲どもを寄生させておる。例え、離れていようとも貴様の行動などお見通しじゃ。――おぬしらはまんまと儂の術中にはまったわけよ」
「くっ――」
スパイである蟲の存在にアサシンは歯噛みし、雁夜が顔を青くする。
「そんな……じゃあ、俺のせいで……」
「……大丈夫だ。雁夜さんのせいじゃない」
自分が足を引っ張ってしまったことにショックを受けているらしい雁夜へ、アサシンは優しく声を掛ける。
そんな2人を見て、綺礼は鼻で嗤った。
――滑稽だな。
罠にはまった者同士、傷をなめ合ったところで状況は好転しない。臓硯が帰ってきてしまった以上、勝ち目は薄い。今すぐ脱出するべきだ。
「……ここまでだな。撤退するぞ、アサシン」
そう判断し、指示を伝える。
しかし、
「――ダメだ」
と、アサシンは臓硯を一心不乱に睨みながら首を振った。
その頑なな姿勢に、思わず綺礼はため息を吐き、臓硯はまるで道化でも眺めるかのように意地汚い笑みを見せた。
「随分と豪気なサーヴァントを持っておる様じゃな。言峰綺礼」
「……ふん」
余計なお世話だ、と、綺礼は臓硯の嘲笑に鼻を鳴らす。今更名前を知られていることには驚かない。
それが愉快だったのか臓硯は更に笑い声を上げ、再びアサシンの方へ向き直った。
「ハハハ、余程儂を殺したい様じゃなアサシンのサーヴァントよ――だが、申したはずじゃぞ。貴様らはまんまと儂の術中に嵌った、とな」
「何?」
臓硯を睨みながら身構えるアサシン。
だが、事態はすぐに動いた。
「――がはっ」
「っ――!」
と、突如、雁夜と桜の体が這ね、苦しみ始めたのだ。
「雁夜さん! 桜!」
アサシンは声を上げるが、その叫びは届かない。
2人の痙攣と共に、修練場の隅から際限なく蟲どもが溢れ湧く。その数は広いこの部屋を一瞬で埋めるほどで、アサシンと綺礼はたちまち囲まれてしまった。
――だから、早々に退却すべきだったのだ。
悪化するばかりの状況に綺礼は内心で毒づいた。
が、事態は更に苛烈を極めて行く。
「――しかし、この程度では貴様らにはちと不足じゃろう」
と、勝ち誇る老魔術師は、更なる1手を加える。
「っ…………!」
高々と掲げられる臓硯の右腕。そこに刻まれた聖痕を目にし、綺礼はこの場に来てから初めての動揺を覚えた。
何故なら、それは本来その人物が所持し得ぬもの。
世界でただ1人、綺礼敬愛する人物のみが所持を許された聖杯戦争の象徴。
それは、
「…………預託令呪っ」
「な――っ!」
綺礼の言葉でようやく事態に気づいたらしいアサシンが同じように絶句する。
無理もあるまい。預託令呪とは、監督役の神父が代々管理している、過去消費されなかった令呪のストックだ。この預託令呪は聖言によって保護されており、本来ならば例え監督役を殺害し、腕をもぎ取ろうと奪えないものだが――現在、それが臓硯の手に渡っている。
臓硯がどのような手法を取ったのかはこの際関係ない。その事実が意味することに綺礼は総身で震えた。
その令呪は世界でただ1人、言峰璃正だけが所持を許されたものだ。
令呪が臓硯の手に渡っている。
その事実が、何よりも雄弁に――父、璃正の死を告げている。
厳しくも、綺礼へ常に正しい道を説いた、尊敬すべき父。今度こそは自身の悪癖を打ち明けようと昨晩誓った父は、もうこの世にはいない。
そんな尊敬する父の死を目の当たりにし、綺礼は――
「――――ああ」
――後悔していた。
しかし、それは父を殺されて悲しかったからではない。
……ああ、知っているとも。結局、父へ問いかけるまでもなく、言峰綺礼とはこういう人間だったのだ。
『大切な者の不幸に歓喜する。生まれながらの破綻者』
再び、その事実を目の前に突き付けられ、綺礼は――顔を歪め、笑った。
それは新たな自身の誕生への喜びか、愚かな息子の父への懺悔か。それとも、自身の手で父を■■ことができなかった、後悔の――――。
「う――っ」
頭痛がおきる。
――これ以上は考えてはいけない。
綺礼の最も深くにあるものがそう訴える。
――それは何だったか? 今となってはどうでも良い。
その時、頭を抱えながらも歓喜する綺礼を眺め、
「――やはり、な」
と、臓硯もまた極上の笑みを浮かべていた。
「一目見た時から、よもや、と思ったおったが……綺礼よ。貴様からはワシと同類の匂いがするぞ。腐肉の旨味に這い寄って来た蛆虫の匂いがな」
「…………」
綺礼は答えない。
それを肯定と捉えたのか、臓硯はより一層嬉しそうに破顔し、綺礼へ手を差し伸べる。
「――そこで提案なのじゃが……どうじゃ、小僧。儂と来る気はないか?」
同類が、囁きかける。
黒くよどんだその手をこちらへ向けながら。
――お前は本来、こちら側の人間だろう、と。
「…………」
変わらず綺礼は答えない。
だが、答えは既に決まっていた。
――同類? ああその通りだ。
その事実を否定するべく、何十年と苦行に耐えてきたが、結局覆すことは叶わなかった。
父は死に、これで本当に綺礼の問いへ答えてくれる者もいなくなった。ならば、これ以上無意味な意地を張っていても仕方がない。
このまま臓硯と手を組み、英雄王の言う通り、己が望むまま快楽を貪り尽くすのも悪くないだろう。
そうすれば――先ほどから一層と激しく痛む、この頭痛も収まるかもしれない。
だから、綺礼は、
「私は……」
と、頭痛を振り払うように顔を上げる。
すると、そこには――
「――ふざけるな」
そう、綺礼と臓硯の間に立ち塞がる、小さな背中があった。
まるで綺礼を庇うように――それでいて、綺礼へ挑みかるようなその背中は臓硯へ吐き捨てる。
「失せろ、吸血鬼。あんたの戯言に耳を貸すほど、言峰綺礼は弱くない。勿論、桜もだ。もう誰1人、お前の好きなようにはさせない――俺の家族を返してもらうぞ」
「っ――――――」
――言葉を失った。
アサシンは綺礼の同類だ。
綺礼が他人の不幸を糧にして生きるように、この男も誰かを助けることでしか他人と関われない。
両者は徹底して誰か1人を愛せない。
だというのに、
「この期に及んで、まだ貴様は……あの娘を『助ける』のか……?」
当惑の声が漏れる。
――あり得ない、と。
生涯を賭したこの生き方を、この歪みを、
しかし事実、今この男は――たった1人の少女のためだけに立ち塞がっている。
昨晩の問答で、綺礼はアサシンが家族を助けるのは、不幸なだけの赤の他人だからだと早合点した。
――しかし、この激情は果たして他者へ向けられるものか?
……もう、答えを見つけることはないだろうと覚悟していた問答を今一度問う。
「何故だ……何故お前はそこまでその少女へ固執する……」
この男も、綺礼同様、誰も愛することができないものだと思っていた。
しかし――
「――桜は俺の家族だ。例え、よく似た別人だろうと、並行世界の住民だろうと、俺は絶対に俺の家族を見捨てない」
愛しているのだ。と、その男は告げた。
この男は――答えを見つけたのだ。
綺礼と同じ、破綻者の身でありながら、愛すべきたった1人の人間を。
「……はは」
自然、綺礼の唇から笑みは漏れる。
ようやく見つけた。そうか、貴様こそが、
――私の
だが、信じられないことに更にその同類は続けて言う。
「だけど、桜だけじゃない。爺さんも、アイリさんも――イリヤも。雁夜さんや遠坂、無論マスターだって全員まとめて救ってみせる」
「私も……?」
理解できない。
分かっているはずだ、
「何故だ……私は……」
父の死さえ悔やみ事のできぬ、破綻者だ。
だというのに、目の前の男は至極当たり前な顔で、醜い神父へほほ笑みかけた。
「当たり前だろう。あんたは俺のマスター何だ。言ったはずだぞ、
――あんたが道を踏み外さない限り、俺はあんたを守る」
今まさに、道を踏み外そうとする男へ――まだ大丈夫だ、と、アサシンは微笑みかける。
「―――――っ」
頭痛が激しさを増す。
同時に脳裏をよぎるのは、ある風景と瀕死の女。
最後の試みも虚しく終わり、結局綺礼は生涯誰も愛することができなかった。
ならば、こんな男に生きている意味はないだろう。
『――私にはお前を愛せなかった』
顔を歪め、綺礼は語る。
だが、そんな彼に対し、記憶の中の女は血に染まりながら微笑み、
『――いいえ。貴方は私を愛しています。――ほら……』
「それにほら――――お前。今、泣いているだろう?」
その微笑みが、記憶の中の妻と重なった。
「っ――――――」
――頭痛が…………晴れた。
この2年、靄の掛かっていた視界が一瞬にしてひらける。
――無論、泣いてなどいない。
心の中で、かつて女にそう返したように、アサシンへも訴える。
しかし、その瞳からは自然と何かが零れ落ちた。
…………遠い昔の話だ。
女は綺礼を愛していた。
綺礼も女を愛そうと考えた。
「…………ああ」
――ようやく思いだした。
そうだ、衛宮切嗣など足元にも及ばない。
同類であるアサシンさえも、その女の前では姿が霞む。
この先の人生において彼女以上に綺礼を理解し、癒そうとするものは現れない。そう確信した。
しかし、そんな彼女でさえ、綺礼の空白を埋めることはなかった。
だから―――――彼女の死を、無意味にだけはしたくなかったのだ。
妻は綺礼を愛していた。
綺礼も妻を愛そうとした。
それだけの、簡単な答えだった。
「……つまらん。結局貴様も、雁夜と同じ愚か者じゃったか」
蟲蔵に、臓硯の言葉が響く。
なれ合いはここまでだ。
「くっ―――」
戦闘態勢に入る臓硯へ、アサシンはそう苦虫を噛み潰す。
絶体絶命な状況に変わりない。ここで間違いなく、アサシンと言峰綺礼は命を落すだろう。
しかし――それがどうしたというのか。
「待て、アサシン」
と、最後の戦闘を前に、綺礼は分かりきっていることをアサシンへ確認する。
「現状、間桐桜を助けることは不可能だ。助けたければ、あと1年遅かった。あの娘は確実に死ぬ。今すぐではないが、数年あるいは数十年先。苦しみながら。あるいは多くの人間を殺しながら。それでも、お前は助けるというのか?」
「ああ、そうだ。――例え、それが後数日の命だとしても、俺はあいつを助ける」
そうアサシンは即答した。
「そうか……ならば、殺すな。救った女が目の前で死ぬのは、なかなか堪えるぞ」
「ああ――そのセリフはあっちでもう聞いた」
ぶっきら棒に答えるアサシン。
その答えが意味することに、綺礼は目を丸くする。
「ははっ! そうかあちらの私も!」
――ここまで至ったか。
ならば、もう迷う必要はない。救われる必要も。答えを見つける必要も、もうなにもない。
何故ならとうに、言峰綺礼は、
「――30秒だ」
「え?」
「それ以上は守り切れん。あの娘と雁夜を救いたくば、30秒以内にバーサーカーを仕留めて見せろ」
「っ――! 十分だ!」
と、綺礼の言葉を聞き、アサシンは嬉しそうに正面を向く。
――私がこのような男に肩入れするなど、遂に焼きが回ったか。
そう自分で自分の発言に苦笑する。
だが――――悪くない。
「――行け、アサシン。己が使命を真っ当しろ」
「ああ!」
マスターの指示に、サーヴァントは力強く応じた。
そんな2人へ、臓硯は憎むような目線を送る。
「……やれやれ、理解できん」
そうして首を振り、勝利を確信した臓硯は、令呪を高々と掲げ、告げた。
「ならば、望み通りにしてくれよう――令呪を持って命ずる」
臓硯の言葉と同時に、無数にある聖痕の一画が光、薄暗い修練上を不気味に照らす。
「――宝具を開帳し、アサシンを殺せ。バーサーカー」
「――――Arrrrrrrrrrrrrrrrrrr!!!」
令呪と共に、漆黒の剣が現れる。
同時に、それを握ったバーサーカーの能力値が跳ね上がった。
あれは――『
その彼本来の宝具を手に取り、狂気の騎士が歓喜の雄叫びを上げる。
同時に綺礼と地に伏せている雁夜目がけ、無数の蟲どもが波の様に押し寄せた。
綺礼はその蟲から雁夜を庇うようにたち、黒鍵を構え、アサシンは静かにバーサーカーを見据える。
――勝率の低い戦いだ。
しかし、不思議と2人に迷いはない。
マスターとサーヴァント、初めて両者の
――――今、2人の共闘が始まる。
「――行け、アサシン。己が使命を真っ当しろ」
「……ああ!」
そうにやりと笑って命ずる綺礼に、アサシンは力強く応じ、自身の敵を睨んだ。
横で臓硯が何かを話しているがアサシンの耳には届かない。
――眼前にとらえるは己が敵のみ。
臓硯の令呪が光る。
同時に現れたのは漆黒の剣。
だが、――関係ない。
衛宮士郎ではどう足掻いたと所でバーサーカーには敵わない。
どれほど策を練ろうと、その事実は覆らない。
――殺される。
その事実に恐怖しないはずがない。
足が震える。マスターに忠告されるまでもなく、全身が逃げろと叫んでいる。
だから――
「――勘違いしてた」
そう呟き、片目を閉じた。
その瞳には、最早バーサーカーの姿さえ映っていない。
自身の内面へ。心の中へと思考を飛ばす。
――思えば、セイバーと1騎討ちをできたことに己惚れていたのだろう。
脳裏に浮かぶのは、知らぬはずの騎士の言葉。
『いいか。お前は戦う者ではなく、生み出す者にすぎん』
『忘れるな、イメージするものは常に最強の自分だ。外敵など要らぬ。お前にとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない』
――その通りだ。
衛宮士郎は剣士ではない。
俺ではどう足掻いたところで、究極の1たるサーヴァントには敵わない。
――ならば、今1度原点に立ち返ろう。
瞼の裏に浮かぶは、あの英霊の姿。
再び、吹き荒ぶ逆風の中、立ち向かうように佇む、その幻を見た。
――思えば、こちらに召喚されてからというもの、その背中ばかり追っていた。
けれど――
『――――ついて来れるか』
蔑むように、信じるように。
彼の到達を待っているその背中へ、今1度首を振る。
「――――ついて来れるか、じゃねえ」
視界が燃える。
体にありったけの熱を注ぎ込み、
「――てめえの方こそ、ついて来やがれ!」
渾身の力を込めて、再び目を見開いた。
「――――Arrrrrrrrrrrrrrrrrrr!!!」
バーサーカーと間は、距離にして10メートル。
奴ならば、詰めるのに1秒とかかるまい。
――故に。
勝敗は、この一瞬で決される。
「――――」
呼吸を止め、全魔力を左腕に叩きこむ。
『衛宮士郎では目の前の敵に勝つことはできない』
だから、
――奴に勝てる武器を幻想する。
もっと前へ。
あの幻を超えて、衛宮士郎は、衛宮士郎自身を打倒する――
「――
双剣は破られた――――『干将莫邪』では敵わない。
弓術は防がれた――――『赤原猟犬』では届かない。
奇襲は看破された――――同じ手段は通用しない。
聖剣も彼と同郷だ。一瞬で看破される。
必要なのは圧倒的力。
すべてをねじ伏せる暴力の化身。
故に、呪文を唱え、幻想するは――――ある少女の守護神。
「――――行くぞ」
左腕を天へと掲げ、巨人の大剣を投影する。
「――――Arrrrrrrrrrrrrrrr!!!」
気づかれた。
その武器の危険を本能で察知したか、湖の騎士が蟲蔵を駆ける。
「――――」
だが、これでは足りない。
走りくる漆黒の騎士は1撃では止まらず、通常の投影など通じまい。
故に、
「――――
あの時同様、脳裏に9つ。
体内に眠る27の魔術回路その全てを動員して、1撃の下に叩き伏せる。
――1歩。
それだけで、騎士は眼前に迫る。振り上げられる魔剣。
その踏み込まれる1足を1足で迎え撃ち。
8点の急所に狙いを定め、
「
振り下ろされる音速を、神速を以って凌駕する――――!
「Ar―――――…………!」
倒れない。
逸脱した神技か。あるいは令呪の恩恵か。
関節が曲がっている。骨も1つ残らず粉砕している。立っていることさえ不思議な程の致命傷。
しかしそれでもなお、全身を撃ち抜かれながら、バーサーカーは健在だ。
「は――あ――…………!」
とどめを刺すため、再び踏み込んだ。
未だ健在とはいえ、バーサーカーは虫の息。折れた腕で剣を振りかざすが、圧倒的にこちらが速い。
大剣を胸元まで持ち上げ、槍の様に叩きこむ。
しかし――
「――重ねて令呪を持って命ず!」
その刹那、戦場に臓硯の声が響いた。
「――アサシンを追撃せよ! バーサーカー!」
「Ar――――!!!」
直後、道理はねじ曲がり、動くはずのない体が動く。
「っ――!」
振り下ろされたバーサーカーの剣によって、巨人の大剣が折られる。
更に、振り上げられる『無毀なる湖光』。
――負ける。
こちらにはもう武器がない。
――負ける。
先の一撃に全力を賭したため、魔力も空だ。
――負ける。
剣が迫る。
セイバーの聖剣によく似た魔剣。
その剣に頭を吹き飛ばされる瞬間に視線が凍る。
だが――
「ぉ――――」
再び、回路へ火を灯す。
――もう、大剣は作れない。
それでも――
「オオオオオオ――――!」
叫び、原初の幻想を思い起こす。
それは初めて夢に見た――今はなき黄金の剣。
その剣を見たバーサーカーが、刹那――――
「……Ar…………thur………………」
そう呟き、動きを止めた。
そこへ――
「――――――」
…………一瞬だった。
『
――まるで、泡沫の夢のように。
「…………」
2人は、突き刺し、突き刺された姿勢のまま動けない。
お互いのすべてを一瞬のうちにぶつけた、刹那の激闘。
そして――――バーサーカーが、光の粒となって姿を消してゆく。
その間際――――
「……まさか、今1度……その剣を目にすることができるとは…………」
消えゆく湖の騎士に、1時の理性が灯った。
砕けた幻想を懐かしむように目を細めた後、穏やかな眼差しで――見事だ、と目の前の少年を称える。
「さらばだ、錬鉄の英霊よ……どうか、我が王を………………」
裏切りの騎士は、最後にその君主の名を呟き……。
――最後の残光と共に、その存在を霧散させた。
――答えは未だ得ず。
――されど、願いはその手に。
神父は永き逡巡を終え、今戦場へ――――