頭の上からもうもうと湯気を立てた天音は、一宮の正面に立った。
一宮も気を付けの姿勢を取ると、顔をやや上にし、遠くの壁に目線を向けて直立する。
逃げるわけにはいかねえ。しっかり責任とるんだ。どんな罵声が飛んでもおかしくねえ。もしかすると殴られるかもしれねえ。魔法力発動した状態で思いっ切り殴られたらそれだけで死ぬかな? だがそうなってもしようがねえ。それが裁定なら受け入れるだけだ。
一宮は静かに目を瞑ると、天音の言葉を待った。
「い、い、い、一宮、くん」
「は、はい!」
名前を呼ばれたので返事をしたものの、10秒くらいしーんと静寂な時が流れる。
するとぺたぺたと歩み寄る音が近付いてきた。殴られるかと思って体を強張らせた。
が、意に反して一宮の胴体にふわりと腕が撒き付き、胸板にやたら熱を持った頭が押し付けられた。顎の下を細く柔らかい髪の毛がくすぐり、ああこいつのだとすぐ判別ついた髪の匂いで、目を瞑っていてもそれが天音だと分かった。
きゃーっと周りのウィッチ達から押し殺した黄色い声が上がる。
「一宮くん」
それはとても優しい声だった。
「は……い」
「昨日はありがとう。助けに来てくれて、あの子達を助けるのを手伝ってくれて、本当にありがとう。とっても嬉しかったし、心強かった」
優しさと慈愛のこもった少女の声が胸の皮膚を通して体の中にまで届いた。その声を聞くと、不思議と感情が高ぶってきて涙が出てきそうになる。見返りや恩を求めてやったわけではない。だが本当に心から感謝されると、こうも嬉しく心揺さぶられるものなんだろうか。
「……んなの、と、当然のこと、したまでです」
暫らく天音の熱すぎる体温をじんわりと感じる時間が続いたが、すうっと天音が息を吸う音がすると、ぱっと手をほどいて距離を取った。そして目をきりっとさせて一宮を見据えると、一転して強い口調で声を張った。
「い、一宮くん!」
「ぅい!」
一宮も反射的に声を上げて返事する。天音は一宮の鼻っ先に人差し指をぴしっと突き出して、その強い口調で続けた。
「だ、だけどそれとこれは別! そ、そう簡単に責任は取らせないわよ! あんなのわたしは認めないわ! 決定権は女であるわたしの側にあるの。す、少なくともあと3年、わたしは返事しないからね! 一宮くん責任取りたかったらあと3年は、どんなに強いネウロイが出てきて大変な戦いになろうと、ぜったい死んじゃダメよ! わたしも生きる。その時まで二人共ちゃんと生きて、その時もう1回一宮くんに言ってもらう。おれが責任とるって、言ってもらう!」
一宮は呆けた顔を天音に向けた。
「返事はその時だから」
一宮は目をぐるぐるさせた。
『あ、明日どころじゃなく、3年? 死刑判決まで3年? 3年後にまた俺は責任とらせてくださいって一崎に言って、一崎が「わかった、取れ!」っていえばそこで首を物理的にスパーンと切られ、万に一つとないかもしれないが「許す!」って言えば無罪放免されるってか? 俺は死刑執行を3年も引き延ばされ、3年間毎日どっちの判決が下るか戦々恐々としつつ、その間死にたいと思っても3年は死ぬことも許されず、きっと少々瀕死の状態になっても医療ウィッチとかが優先的にやってきて、無理やり復活させられるに違いない』
一宮、死にたくても死ねない人間と、死刑がいつあるか分からない死刑囚の気持ちを、今いっぺんに理解した。
「分かったら、今は戻って!」
天音はふるふる震えながら、行ってと格納庫の扉に向けて指を向ける。
一宮はしばし唖然と固まっていたが、困惑したままの表情で姿勢を正すと敬礼した。そしてがっくり頭を垂れ、格納庫の扉に向かってとぼとぼと歩き出す。
「あ、そうだ。一崎、一宮。後でセレターの軍病院行くぞ。昨日魔法力が発現した娘の見舞いがてらに様子を見に行く」
伝え忘れてたよという卜部の重大発言に、天音も一宮もええっと目をでかくした。ちょっと気まずい別れ方をした直後に、なんでこのタイミングで言うかと皆が思った。
すぐまた顔を合わせなければならないとは!?
場の空気を読まない発言に一宮も抵抗を試みる。
「お、俺、行かないとまずいっすか?」
「お前達2人が見舞いに行くのが一番“裏表がなさそう”で自然だからって、有馬艦長の指名もあった。天音も行きたいって言ってたろ?」
「そ、そうですけど!」
天音も少し抵抗の色を見せる。
「すまんが半分は任務だ。インドネシア領から来たらしいウィッチになった娘をどう扱うつもりなのか、公式発表は今のところないし、ブリタニアの連絡だけでは信用ならないから、直接様子を見てこいというのが有馬艦長のお達しだ」
トゥの事を考えると、一宮には行ってほしい天音だが、さすがにこのタイミングはと、口を尖らせて文何言いたげだが、艦長の指名かつ任務となると、私事を挟む余地がない。仕方なく天音は頷いた。
一宮は死刑にするかどうかの裁定者とまたすぐ合わねばならないのかと思うと気が向かないが、こちらはもっと拒否権がない。「分かりました」と答えるしかなく、卜部に「んじゃ、あとで迎えいに行くな」と言われ、とぼとぼ歩きを再開する。
哀愁漂う一宮の背中が格納庫の外に消えると、ウィッチ達は改めて天音に目を向けた。まさかここでOK出さないとは思わなかった皆は、何でという疑問を視線に乗せて天音を見つめた。優奈が代表して小声で問う。
「い、いいの? 一宮の事。……なんで3年も待たせるの?」
しかし千里がはっと気付いた。
「もしかして、一宮整備兵が17歳になるのを待つの?」
天音はゆっくりとこっくり頷く。それで優奈も理由に思い当たった。
「3年経てば一宮が17。天音は15を超えて16になってる。ってことは……」
この頃の扶桑の民法では、結婚できる年齢は男が17歳、女は15歳である。ってことはである。
「その時もまだ一宮整備兵が責任取りたいって言ったら、一崎さん……」
千里はまた著しく顔を赤くし、足元がふらふらとしだしたので、優奈が慌てて支えた。
「一崎さん、かわいい」
「乙女ね~」
うつむいたまま熟れたトマトになった天音だが、急にぱたんとひっ倒れた。
「一崎!」
「一崎さん!?」
「天音、どうしたの!?」
抱き起こした勝田が頭を触ってびっくりした。
「うわ、熱あるんじゃない?」
「色々あったもんねえ」
卜部はニンマリ笑って、それほど心配はないだろと、てきぱきと指示を出した。
「氷枕持ってこい。そこに布団敷いて寝かせてやれ。勝田、一応軍医呼んできてくれっか?」
「はいよー」
「千里も診てもらうか? 珍しく顔赤いし、足もおぼつかないぞ?」
「だ、大丈夫」
「もう千里ったら、羨ましかったりして?」
「筑波さん羨ましくないの?」
「あたしはまだいいかなー」
「そう。私も歳だけはもう嫁いでいい年齢だから、やっぱり羨ましい」
「千里の恋人はお櫃だと思ってたわ」
「お櫃は友達。いい人と食べ歩くのが夢」
勝田に連れられて基地の歳食った軍医がやってきた。
「なんじゃ、整備班でも若いのが一人倒れたとか言ってきとるが、今日は何があったんだ?」
優奈が手をあげて答えた。
「どっちも恋煩いだと思いまーす」
「それだったらワシの管轄外じゃぞ。まて、ウィッチとか?」
軍医は、それはまずいんじゃねぇの? って顔に描いて隊長の卜部を睨む。
「大丈夫。私が健全な交際で抑えとくから」
「この娘を失ったら世界が黙っとらんぞ」
「私もそうなりたいねえ」
「お前さんはウィッチとしてはもう枯れとるから、そろそろ自分のそっちを本気で心配せい」
軍医は天音の脈をとると、
「のぼせみたいなもんじゃ。このまま頭冷やして、しばし寝かせとけ」
とさっさと立ち上がった。そして、
「さてそれじゃあ、その整備兵の方は少々ぶっとい注射を打ってやらんとだな」
と注射器を手にすると針をキラリと光らせた。
一宮の苦悩と勘違いの3年間はもうスタートしたようだった。
◇◇◇
ブリタニア空軍セレター基地の執務室。
そこでアンウィンはウンウンと唸りながら書類と格闘していた。昨日の騒動の詳細な報告書を書かされているのである。
書き損じてくしゃっと丸められた原稿の脇に、紅茶のカップがコトンと置かれた。
「大変だったみたいですねえ。寝静まってからようやくご帰還されたみたいでしたし」
カップを置いた植民地兵が呑気にのたまうのに、つい声を荒げてしまう。
「寝静まってなんかないでしょう! シンガポールじゅうの基地が大騒ぎしてたのに。あなたあの最中呑気に寝てたの?」
昨夜はいびきをかいて爆睡していたシィーニーは、少し詫びれた色を褐色の肌に浮かべて答えた。
「夕方基地に戻ってから特に命令もなかったので、定刻に業務を終えて就寝しました。でも扶桑の水偵ウィッチさん達が出てたんなら呼んでくれればよかったのに。近々わたしがお世話になる部隊ですよ?」
「バーン大尉の関心がビューリング少尉にいってたから忘れられてたんでしょう」
「その人、統合戦闘航空団にいた方らしいですね?」
シィーニーはHK05船団救援に行ったとき、アナンバス諸島で天音達と共に、501JFWの坂本少佐と宮藤少尉の2人と共闘する機会に恵まれた。それはとても有意義な経験で、シィーニーはいろいろ成長できたと思っている。
「いいなあ、わたしもご指導受けたかったです」
「……あなた行ってたら確実にいびり倒されてたわよ」
「そ、そんなに厳しい方だったんですか?」
「おへその曲がったブリタニア人の代表みたいなもんね」
「えぇ!? 某大尉とどっちが勝ちますか?」
「その某大尉をシンガポール送りにした元凶らしいから、あっちの方が上かしら」
「……い、行かなくてよかった」
そうか、統合戦闘航空団であっても宗主国様のウィッチの場合はやめようと、シィーニーは心に誓った。
「相当恨みつらみが積もってるらしくて、少尉発見の詳細暗号通信を昨日1時間もかけて送ってたそうよ。ビューリング少尉、本国では所在不明になってるらしくて、目撃したら情報求むっておふれが出てたんですって」
「ほえ~ツワモノですね。それじゃあアンウィン曹長の詳細報告書は、百科事典くらいのボリュームを書かないと気が済まされないんでは」
アンウィンは全身の力が抜けて頭が真っ白になった。今日1日缶詰かしら。
「いったいその方はどうやって大尉をシンガポールに左遷したんですか?」
青い瞳にハイライトが戻ったところで、アンウィンがあちこちから聞き集めたことを話す。
「バーン大尉って新米少尉だった頃、オストマルクに赴任してたんですって。ネウロイに手も足も出なかった頃よ。壊滅した部隊をかき集めて再編した部隊でビューリング少尉と一緒になったらしいんだけど、よく意見の衝突があったみたい。まあ想像つくわね」
「皮肉の掛け合いですかね」
「そしたらある日、基地がネウロイの急襲を受けてバーン大尉負傷したんですって」
「ちっ、負傷程度しか負わせられないとは。ネウロイも大したことないですね」
「それで意識ない状態の時に基地脱出ってなって、ビューリング少尉がギリシア方面へ逃げるトラックにバーン大尉を乗せたんですって。原隊はシンガポールって偽造書類持たせて」
「偽造? バレなかったんですか?」
「正式書類なんてネウロイの侵攻で燃えちゃってるから、残ってたものは何でも信用されちゃって、大尉も意識戻らなかったから、ギリシアでシンガポールへ戻る船に移し替えられたんだって。当時まだスエズ運河がギリギリ通れる時で、船は急いで運河通ってシンガポールへ向かったそうよ。バーン大尉が目覚めたのはインド洋を航行中の時だったらしいわ」
「なんでその時、潜水型ネウロイはいなかったんですかねえ」
「シンガポールに着いたら当然こっちの所属ではないって分かったけど、当時司令だったパーシバル将軍が丁度いいのが来たって喜んで、司令部付きに留め置いて、自分に帰国命令が出ると、昼行灯だったスミス大佐に司令官を押し付けて副官としてバーン大尉を付けて、自分のスタッフ連れてとっととブリタニアに帰っちゃったんですって」
「むあ、ってことはそのパーな将軍もマレー方面の平和を乱した片棒を担いだ人ではないですか」
「パーシバル将軍ね。暴言は聞かなかったことにするわ」
「ありがとうございます。お砂糖いくついりますか?」
「勝手にやるからいいわよ。ほら、某大尉が来たわよ」
シィーニーの緊張が高まり、背筋に冷たいものが走る。ツカツカと真っ直ぐ足音が来ると、二人のいる机の横で止まり、シィーニーの緊張がピークに達した。
「シィーニー軍曹。曹長の邪魔をするんじゃない。私がいない間に下った命令から、あのイカサマ銀狐女の言ったこと一語一句漏らさず思い出さねばならないのだから、お前と話してる暇などないのだ」
「ええー……」
「も、申し訳ありません!」
アンウィンは今日はもう終わったと観念し、シィーニーはブリタニア流の敬礼を返して早いとこ脱出しようと謀った。しかし。
「シィーニー軍曹。軍病院へ行くので同行しろ。10分後に車止めで集合だ」
「病院!? わ、わたしどこも悪くありません! お注射は痛いから苦くても我慢するので、飲み薬でお願いします」
「お前の診察ではない。お前よりも優秀な植民地ウィッチに会うのだ」
「わたしより優秀!? も、もしかして、わたしクビですか!?」
「会ってみてから決める」
「そ、そんなあ。もうちょっと働きたいんですけど~、がんばりますから~」
シィーニーは横で揉み手をしながらバーン大尉と一緒に部屋を出ていってしまった。
アンウィンはあの娘に会いに行くのだなと察する。が、今はそれどころじゃないと再び報告書の上を苦悩する表情で覆った。