水音の乙女   作:RightWorld

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2021/11/24
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報告感謝です。 >ゴールドアームさん
 



第172話「天音編(その17) ~決定打~」

 

 427空を待っている一宮の乗る警備艇の周りは、本番当日が迫ってきた祭りのごとく、時間を追うごとに賑やかになっていった。

 大小様々な海上警察や海軍の船は、潜水艦を退艦した乗員を乗せたり、潜水艦を吊り上げている貨物船を調べたり、潜水艦を調べたりとせわしなく行き来している。ブリタニア海軍のコルベットが、反撃するとは思えないのに海上にちょこっとだけ出てる潜水艦の艦尾へ搭載砲をじっと向けているし、先程は潜水艦まで到着した。潜水艦なんか何に使うのかと思いきや、浮上用の圧縮空気を沈んでる潜水艦のメインタンクに送り込んで、潜水艦を浮揚させるのだそうだ。これは第1次ネウロイ大戦時のブリタニアで、試験航行中に浅い海底に沈んだ潜水艦の救助で実績のある方法だと、やってきた技官から聞かされて一宮は感心しきりだった。

 一宮の乗る警備艇はトゥ達を救出した時から潜水艦に接舷しているので、今や桟橋のようにされてしまっている。そんなわけで潜水艦目当てにやって来る者はまずこの警備艇に乗り込んでくるから、話を聞いてると面白いのだ。

 一宮は潜水艦に上がっていた。内外で色々作業をしているが、中だけはまだ見ていない。見たいのはやまやまだが、塩素ガス発生中なので、優奈と千里が開けた穴から中を覗き見るくらいしかできない。甲板には乗員が被っていたガスマスクが散乱しているので、着けて入ってみようかなどと考えていた。

 

 すると聞きなれたエンジン音が近付いてきた。水上機基地から戻ってきた水偵脚達。次々と着水し、水上滑走で警備艇の横にやって来る。一宮は3人のウィッチに向かって大声で話しかけた。

 

「卜部少尉はアンウィン曹長をセレター基地へ連れて行きました! 我々はここで待てとのことです!」

 

 ここでは一番先任の千里が返事した。

 

「卜部さんから聞いている。了解した」

 

 天音は周囲を見回して、飛び立つ前とだいぶ様相が変わっていることに感心した。

 

「うわー、いつの間にかたくさん船が集まってるねー」

「天音、船に上がって休んでなよ」

「うん。優奈は?」

「あたしは平気。ちょっと集まってる船を見て回ってくるわ。千里も休んでていいわよ。燃料の節約節約」

「ありがとう」

 

 警備艇に天音と千里が水偵脚を横付けすると、艇長と水兵が引き上げるのを手伝う。もうすっかり母船である。天音も思わず「ただいまー」と言うので、艇長は喜んで小躍りしてしまった。

 ひと息ついた天音はくるりと周りを見渡し、まだ一宮が潜水艦の艦尾にいるのをみとめると、ぴょんぴょんと潜水艦へと跳ねて行った。潜水艦は艦首を下に向けて海底に突き刺して立っているような状態なので、海面に突き出てている潜水艦の艦尾は今にも潜っていきそうに見える。一宮は舷側からロープが絡まっているスクリューを覗き見ていた。

 

「一宮君、お疲れさまー」

「お、おう。花売りの子は病院行ったのか?」

「うん。でも一人だけ軍の救急車に乗せられてた」

「やっぱり、ウィッチになったせいかな」

「たぶん……。お見舞い、一緒に行こうね」

「俺も行った方がいいのか?」

「行った方がいいよぉ。一宮君もトゥちゃん助けた人なんだから。一宮君いなかったら、いろんなとこで行き詰ってたもん。皆も褒めてたよ?」

 

 天音は一宮の横に来ると、一宮の腕に自分のを絡めて組んで、むふーっと見上げた。この姿はなんだかデジャブする。

 

「一宮君の魔法がいっぱい奇跡を起こしたんだから」

「お、俺は魔法使いじゃねーし。奇跡も起こしてねーし。みんな科学や技術に裏付けられた行動の結果だし」

 

 ぶっきらぼうに答え、一宮は絡まった腕を解こうとしたが、天音がぐいっと力を入れて離れるのを拒んだ。

 

「素直じゃないなあ。トゥちゃんが水中探信できるウィッチで、そんな子にわたしと一宮君が出会ったことなんか一番の奇跡だよ。あれなくしてトゥちゃんを助けることには結びつかなかったろうし」

「神様がいいように遊んでるだけじゃねーか?」

「神様信じるんだったら、奇跡とか運命も1つ2つ信じたっていいじゃない。今回はわたしと一宮君の奇跡にしたいの」

 

 一宮の腕をぎゅっと抱いて、にこにこにこと笑顔を向けてくる天音に、一宮も顔を真っ赤にして帽子を深く被ると横を向いて抵抗するのを止めた。

 

「そう思いたきゃそうしてろ」

 

 ますますニッコリと笑顔で返す天音は、一宮が皆にも認められてたことがちょっと誇らしかった。

 ぺったりくっついて、とくんとくんと胸を高鳴らせて、2人の間に甘ったるい時間が流れるのかと思いきや、そのムードを作っていた天音が急に腕を解いて立ち上がった。

 

「わあ、あそこチャンギの港!? あんなに明るかったっけ!?」

 

 ジョホール海峡の騒ぎのおかげで、チャンギ港には続々と軍や軍属、警察、消防にサルベージ会社をはじめとする民間会社の人が集まってきて、夜とは思えない喧噪が沖からも見て取れた。

 

「あそこから日が昇っちゃいそうだね。見て見て、綺麗~」

「うげぇ、夜だってのに、あれじゃあの辺の家は明るくて寝れねぇな。迷惑な」

 

 情緒もへったくれもない中学生男子の返事であった。夢見る女子中学生の天音はそんなの関係なく一方的に夜景に見とれて、うふふ、わーっと上機嫌に笑みをこぼす。そして地上の星に気を取られて油断し、落ちてたガスマスクを踏んで足を滑らせた。

 

「とあっ! った、落ちる!」

 

 慌ててバランスを取ろうと両手をぶんぶん振り回した。

 

「一崎!」

 

 落ちそうになる天音に一宮も慌てて手を伸ばした。海の方へ傾いていく天音の背中に右手が届こうかというところだったが、あと1mmで一宮の指先が空を切る。

 

「くっ!」

 

 だが一宮はまだ諦めず、まだ残る下半身を掴もうとさらに手を伸ばす。

 そしてかろうじて指が引っ掛かった。

 1枚の布に。

 

「捕まえた!」

 

と思ったが、布はスルッとあっさり下へずり落ちた。

 

「「えええええ!?」」

 

 二人は同時に叫んだ。

 それもそのはず。その布とは……

 

 そう、読者の期待通り、天音のズボンであった。

 

 今日天音はいつもの扶桑海軍の水兵服+水錬着ズボンではなく、ワンピースの完全私服モードで、ちょっと背伸びして大人びた丈が短めのおしゃれなズボンを履いていた。ワンピースも少し身体を揺らせばズボンが見えるような丈。となれば、やや前かがみになって落ちるのをこらえていた天音が一番突き出していたのは自然とお尻の辺りとなったわけで、一宮の指が引っ掛かったのは当然のごとくそこのズボンだったのである。

 お互いのその体制からして、そこでズボンに指先をかけるということは、これまた当然のごとく的確にズボンを下ろすという動作になるしかなかった。

 

「ええーー!?」

 

 足元まできれいに下ろされたことで天音の足は何にも引っ掛かることなく自由度を保ったまま。頭は左下に向かってゆっくり落ちていくところで、何とか残そうと左足が踏ん張った。そうすると落ちる頭とバランスを取るべく右足が上へと持ち上がっていく。

 が、この姿勢はまずいと天音の頭の中で赤色回転灯がぐるぐると回り、警報アラーム音が鳴り響く。

 

 こ、この姿勢はダ、ダメ! やっちゃダメ!

 

 下から視線を感じ、まさかとチラリ目を下に向けるや、一宮が目と口を丸く大きく開けて驚愕の表情で固まっているのがその目に映った。

 

 み、見てる! あられもない姿のわたし、見られちゃってる!

 

 かあーーっと顔が太陽のごとく熱くなり、慌てて手でお股を隠しつつバフっと音を立てて勢いよく足を閉じた。

 結果、両足は甲板から離れることになる。羽もストライカーもないのだから当然空中に留まり続けることなどできない。だがもう甲板に留まろうなどとは思わなかった。むしろ早く彼の視界から逃げたかった。

 

「み、見ちゃダメェーー!」

 

 落下するのに合わせ天音の声もドップラー効果と共にフェードアウトしていき、ドッポーンという音を立て海に落ちていった。

 傾く潜水艦の甲板上には、両手と膝を突いて前かがみに倒れている一宮。その右手の指にはほんのり天音の体温を残した薄いピンク色のズボン。それを目の前に持ってきて、もしやと思ったものがその通りのものだということが確実になると、一宮もあらぬ事態を極めて絶叫した。

 

「ぎええええええ!?」

「どうしたの?」

 

 その奇声を聞いて、天音が落ちたのとは反対側の警備艇上の千里が見上げてきた。一宮はウィッチへの凌辱(りょうじょく)行為シーンを見られたかと思って、真っ青になって、わなわなとゆっくり振り返ったが、千里の無表情ながら純粋に首を傾げて疑問を持っているだけの目と、あの位置からなら見えてないと確信を得ると、あたふたしながら何とか言い繕おうとした。その時思わず上げた右手にズボンが絡まっていたので、大慌てで後ろに隠す。

 

「ひ、一崎一飛曹がこっちの海に落ちました! た、助けに行きます!」

「わかった。私もそっち行く」

 

 やばい、こっち来る!

 

 右手が握りしめているズボンに目をやって、千里が来る前にこれ渡さないとと天音が落ちた海へ目線を戻すと、「一崎ーっ」と叫んで足から海へ飛び込んだ。警備艇の反対側は潜水艦が影になって暗いが、潜水艦のすぐそばでパチャパチャ立てる音で天音はすぐ見つかった。

 

「一崎ー!」

「いやーっ、こないで!」

「そ、そうは言っても!」

「来ちゃダメー! わ、わたし、は、履いてないのよ!」

「だ、だ、だからこそ、これ!」

 

 ズボンを持つ手を振り上げて必死に追いかける。ズボンを取り戻したい天音もさすがに止まった。

 

「だ、大丈夫? こ、こ、これ……」

 

 近付いていって天音の前にズボンを差し出した。暗くても、羞恥心と憤怒とで天音の顔が提灯のように真っ赤になってるのが分かった。今にも鵜飼いのかがり火のように海面を照らしそうである。天音は差し出されたズボンをひったくるように取り返すと、

 

「一宮くんのばかーーっ! きらい! もお責任絶対とってーー!!」

 

と叫んで真っ暗な沖へ向かってすごい勢いで泳ぎだした。

 

「あっ、あぶねーよ、戻ってこーい!」

 

 警備艇から潜水艦によじ登ってきた千里が下に向けて首を出す。

 

「一崎さん見つかった?」

「ひえっ」

 

 一宮はどうするどうすると頭を巡らせる。

 あれですと天音を指させば、なぜ逃げてるのか不審に思われるかもしれない。では千里がもし天音を追いかけていって、救助して水の上に引き上げようものなら、ズボン履いてないのがばれて、一宮がやったのが知れてしまう。つまり即刻死刑。

 

「うおおおお待てー!」

 

 一宮は唐突に泳ぎだした。千里は一瞬驚いたが、一宮の行く先に天音が泳いでるのが見えると、

 

「あ、二人っきりになりたかった?」

 

と表情は乏しいながら頬を少し染めた。、

 

「ここなら補導されることはないけど、ほどほどにー」

 

 見なかったことにしようと一声かけて、気を利かせて戻ることにした。

 一方、天音はばしゃばしゃ背後から音がするので振り返ると、下手くそな泳ぎで一宮が追いかけているのを見て、また叫んだ。

 

「こ、来ないで、えっちー!」

「暗いんだから、がぼがぼ、あぶねー、よ!」

「いやーっ、まだ履いてないんだから!」

「早く、げぼ、履け!」

「来るなー!」

 

 泳ぎとなればそこはさすがの漁村出身者。天音は猛スピードでみるみる遠ざかる。一方の一宮は海のない武州出身。一応沈まない程度に泳ぎを知ってる程度なので、あっという間に離されていく。

 

 暫くして天音は遠巻きにぐるりと回って潜水艦に戻ってきた(途中でズボンも履きました)。

 その頃には一宮は遥か沖にポツンと残され、溺れそうになっていた。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 天音誘拐の知らせからおそよ12時間程が経過して、427空はようやくのこと、天音を連れて水上機基地に戻ってくることができた。大捕り物を終えて戻ってきたウィッチ達を基地の整備兵がバンザイして迎え入れた。

 

 神川丸からは葉山少尉が迎えに来ており、形式ばったお堅い帰還報告が終わると、とたんに葉山は天音に駆け寄って抱擁した。

 

「一崎、よかった。無事で、本当によかった」

 

 ふんわりとした大人の胸に抱かれて少し赤面した天音だが、それにも増して申し訳ない気持ちで一杯だった。

 

「ごめんなさい、葉山さん。皆に心配かけちゃって。艦長さんにも」

 

 護衛を仰せつかったというのに浮かれてしまって、挙句自分が攫われたうえに、そこからブリタニア軍や警察も巻き込んでの大騒ぎに発展したのだから、天音としては会わす顔がないと思っていた。

 

「艦長は戦艦が沈んだより肝が冷えたと言ってたぞ。司令官に怒られに行ってくるって南遣艦隊司令部へ出かけていったよ」

「えっ!!」

「一崎のせいじゃないから気にしなくていいよ。でもそれくらい君には価値があるんだ。これからはもしかすると外出にも不便が出るかもしれないな」

「……はい」

「まずはゆっくり休んでくれ。下妻、筑波、君らも本当にご苦労だった。ありがとう」

「休暇1日潰れちゃったけど、代休取れるの?」

「まあ無理だろうな」

「そんなあ」

 

 どうにかしてくださいよーと優奈は葉山にせがむが、士官の中で一番下っ端の葉山ではどうすることもできない。

 

「それと、卜部少尉と勝田飛曹長は、忘れないうちに戦闘詳報を書いてください」

「え!?」

「休暇明けじゃダメなの!?」

「おフロ入って冷えたビールなんか煽っちゃったら、もう細かいこと覚えてらんないでしょう。明日中に提出するように」

 

 えーっ? とがっくり肩を落とす卜部と勝田。

 

「ちっ、訓練時間とかやりくりして絶対休み作ってやる」

「ボクは連休にしてほしいな」

「あはは、まあ上手くやってくれれば私は止めません」

 

 葉山も苦笑いする。

 

 

 

 

 一方の一宮も、神川丸から来ていた整備班長らにバシバシと背中や頭を叩かれてもみくちゃにされていた。

 

「一宮よくやった!」

「よくぞ一崎一飛曹を守ってくれた! えらいぞ!」

「コノヤロ、一崎一飛曹と二人っきりの間に何もなかったろうな!」

 

 一宮、一瞬真っ青になるが、誰も本気で何かあったとは思っておらず、ガハハハという笑いと称賛と、どさくさに紛れたケリなどが入る中で、そんな気も吹っ飛ばされた。

 

「でも俺、肝心の部品取りに行きそびれちゃいました」

「部品より一崎一飛曹 の方が大事だろう。また明日にでも取りに行きゃあいいじゃないか」

「疲れたろ、甘いものでも食うか? 晩飯も取り置きしてあるぞ」

 

 そして整備班長からも正式に休めの命令が下った。

 

「一宮、今日はあがっていいぞ。ゆっくり休め」

「ストライカーユニットの洗浄とかもいいんすか?」

「それくらいこいつらにやらせろ。飯食って風呂入って寝ちまえ」

「は、はい! 一宮、下がります!」

「おう、お疲れ!」

「お疲れ!」

 

 しかし宿舎に引き上げようとしたところで古参兵に捕まった。

 

「おい一宮、この手荷物の中の首巻きは何だ?」

「あっ!」

「『豪勇穴拭』ってあるぞ! おい、こりゃあ扶桑海の巴御前の首巻きじゃないか?!」

 

 その字を読めるとは大いに驚きである。さすがは古参兵。もとよりこの男、穴拭のファンだった。もちろんあのフィギュア……じゃなくて扶桑人形も持っている。

 

「なんですって!?」

 

 それには少し離れたところにいた優奈までも弾かれるように反応した。白いマフラーを見て優奈が目を見開く。

 

「それさっき穴拭大尉がしてたマフラーじゃない!? あんたナニ盗んでんの!」

 

 えらい剣幕で優奈も整備兵の輪の中に突入してきた。

 

「ぬ、盗んでなんかねえっす! 貰ったんだ。くれたんだ帰り際に!」

「嘘おっしゃい!」

「ホントだって!」

「なんだと、使用済みか!?」

「あー、なんかこれいい匂いがするぞ。もしかして穴拭大尉の香りか?」

「ナニ! キサマそれよこせ!」

「馬鹿野郎、吸い取るんじゃねえ、なくなっちまう!」

「やめなさいよ、変態ども! ああ! 穴拭大尉の痕跡に汗臭い男のニオイが! 機械油が! いやー、やめてー!」

「はいはい、一嗅ぎ10円だよ10円。あ、君2回吸ったね。20円な」

「俺のマフラーだ、返せー!」

「イチミヤくん、モシカシて、トシウエがイインデスカ?」

 

 背後に黒い影をゆらゆらさせた天音も整備兵の輪に加わろうとしていた。

 混乱の輪の外で唖然、もしくは呆れた顔になって行く末を見守る卜部と勝田と千里。

 葉山は「なんて破廉恥な、不潔だ!」と憤る。

 

 

 

 

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 その頃、飛行艇上の智子は酷い悪寒でうなされていた。

 

「ビューリング、私もうダメだわ、きっと死んじゃう」

「しっかりしろ、どういう症状だ?」

「……首の周りを何かにぺろぺろ舐められてるみたい」

「……なんだそりゃ。シンガポールで変な病気でももらったか?」

 

 

 

 

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 オラーシャの労働者統一戦線の本部でも蜂の巣を突いたような大騒ぎになっていた。

 

「おいおい、そんな小娘ウィッチが一人くらいどうかなったって、何をそんなに慌てることがある? オラーシャのトップエースが戦死したって、そんな慌て方なしないぞ」

 

 肩をすくめる男に、別の男がその男の服をぐいっと掴んだ。

 

「同志。あなたの着ているこの制服の生地はどこから来てると思う? 履いている下着は?」

 

 答えが返るのを待たず、パッと手を離すと続けた。

 

「扶桑の綿織物工場で生産されたものだ」

「ああ、扶桑は絹なんかもいいものがあったな。それで?」

「あなたがここに来るのに使っている車のタイヤだって、東南アジアで取れた生ゴムから扶桑がタイヤに仕上げたものだ。最近編成した砲兵隊が使う光学式照準器も扶桑の会社。その腕にはまっている腕時計も扶桑のじゃないか」

「ペルシアに陸揚げされた扶桑物資を途中で横取りしてるのだからな。そりゃあ扶桑製が多いのも致し方ないだろう」

 

 後ろを書類が入った紙箱を持って走る女性職員がステーンと転んで、少し長めのベルトの下から豪快にズボンを曝け出してしまった。あの生地も扶桑製だろうかと男は思うが、それ以上にいい形の尻だと感心して顎を擦る。慌てて立ち上がってベルトを抑えた女性職員が、真っ赤になった顔でこっちを睨んでいるのに気付き、彼は男の(さが)を呪った。多分今後、女性職員達に警戒されてしまうだろう。ロッカールームでの伝播は軍事通信より早いのだ。

 

「ウラル以東は組み立てこそオラーシャの疎開工場でやってるが、ペルシアに届く扶桑の部品の依存度が高い。そのペルシアに扶桑物資が届くのは、問題の小娘が潜水型ネウロイから輸送船を守っているからだ。小娘が死んだら、これら物資は瞬く間に届かなくなる。その物量はそこいらのウィッチが守るトラックや輸送機の比じゃない」

 

 男の周りに他の男達も集まる。

 

「オラーシャのトップエースだって燃料弾薬がなければただの少女だ」

「言っとくが同志。これはウラル以東だけの話じゃない。最近の西の脅威度評価が高くなっているのだ。海の」

 

 男は聞き返した。

 

「海? 西の? 黒海か?」

「地中海も大西洋もだ」

 

 つまりヨーロッパ大陸に接する海全てという事だ。

 

「殺してたらえらいことになるぞ」

「いや、生きてたとしても、巻き込んだとなれば……」

 

 その男はようやく理解が及んでごくりと喉を鳴らした。

 

 海にネウロイが進出してきた今、アジアの物流は天音にかかっていた。そして海への脅威は欧州にも近いうち現れるだろうというのが表裏両上層部の共通した認識になりつつある。であるから、初代対潜ウィッチにして未だ他の追随を許さぬ圧倒的能力を持つ天音は、それが現実になった時必ず必要な人物なのだ。大西洋の海運が止まれば、欧州の人々はイデオロギーに関係なくネウロイの脅威に怯えながら原始生活への回帰を考えねばならなくなる。

 そう、必要としているのは世界なのだ。イデオロギーなどを越えて近代生活を営む人類に、あの小娘が必要なのだ。

 

「同志!」

 

 通信室から飛んできた伝令が電文の束を持ってやってきた。

 

「シンガポールの無電を受信している受信所からです。ブリタニアのバーン大尉から本国宛てに極秘特級の通信が放たれてます。内容は暗号化されてまだ分かりませんが、長ったらしいのが止まる気配なく発信されているとのことです」

「長ったらしい!?」

「もう30分も送信しっぱなしだそうです」

「通信内容が水音の乙女に対して起こった事であるのは明白だ」

「まずいぞ、ブリタニアが動き出すぞ!」

 

 血相を変えた皆のところにさらに悲報が入る。

 

「同志スターリンが逃げた! 部屋はすっからかんだ!」

「なっ……!」

「あの野郎、一人だけ勝手に!」

「我々も危ない。ここを撤収する! 世界中が血眼になって探しに来るぞ!」

「重要書類を破棄しろ!」

「地下へ潜伏するぞ!」

 

 意図せずとも天音に手を出したことで、世界中の共産主義者達はそれから数年、活動を下火にせざる得なくなるのであった。

 共産主義者に限らずあらゆる組織は、自らの経済基盤も、海にネウロイがいる限り天音の護衛力の上に立っているという事を、この事件をきっかけに考え直すに至り、以降裏社会では、天音には決して手を出してはいけないというのが暗黙の了解になったという。

 そしてガリア王党派もまた、自分達でもできなかった共産主義者達の抑え込みをいとも容易くやってしまった天音に畏怖の念を抱くのだった。

 

「水音の乙女、恐るべし……」

 

 

 


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