パオ・ダイ帝への接見を終え王宮を後にした密使は、車で香江を渡った先の宿泊先へと向かった。密使はだいぶ手前で車を停めさせて降車すると、川沿いを歩た。
フエの王城が造られた場所は、元は香江を中心としたいくつかの大河に囲まれた三角州であり、小さな川も無数にある。王城を綺麗に四角く囲むいくつもの水堀も元は河川で、向きを変えたり曲げたりして整えたものだ。そういった川縁では、低く刈られた草と所々で日陰を作る大木が点在し、いかにもアンナンらしい長閑な風景を作っている。密使はこういった川縁を散策するのが好きだった。
そんなとある木陰の下に、アオサイを着てノンラーと呼ばれる先のとがった三角の菅笠を被った少女が立っていた。普通ならそれはこういったところや田園ではそれも必須の風景の一つのように溶け込んでいるのだが、その少女は違っていた。なぜならノンラーの下から風に揺れる髪が茶色がかった金髪だったからだ。
東南アジアの風景に欧州人というのは違和感が半端ない。こんなところを散策する自分もそう映っているのだろうかと密使は今更に思った。
「珍しいな、こんなところに欧州人の子供とは。ガリアから来たのかね?」
インドシナはガリアの植民地なので、そこで見かける欧州人と言えば大概が現地に駐在するガリア人である。その子供なのだろうと密使は当然肯定する答えが返ってくるものと思っていた。
「オラーシャ」
少女は川から目線を逸らすことなくそう答えた。密使は意外過ぎる返答に驚きを隠せなかった。オラーシャである。あまりにも繋がりを連想するには難しい答えだった。
「オラーシャ? そんなところからなぜアンナンへ?」
そこで少女はうつむき加減になると小さく、しかししっかりとした言葉で言った。
「プロレタリアは団結する」
「ん? ……なぜ共産主義者スローガンを?」
そこで密使ははっと目を見開く。
密使が聞き返したようにそれは共産主義のスローガンだ。ガリアは比較的共産主義思想者の多い国で、私有財産制の廃止を最初に唱え始めた人物はガリア人の思想家である。ガリアでその思想に触れた各国の思想家や革命家、特にその中でもカールスラントのマルクス、エンゲルスによってまとめ上げられた経済理論に影響を受けた革命家がオラーシャに集まりつつあった。彼らは武力革命を目指し、ネウロイ戦乱を利用して無視できない力をつけてきている。その勢力はオラーシャのみならず、コミンテルンあるいは労働者統一戦線によって支援され、世界各地で活動していた。
まさに密使はインドシナの密林奥地にはびこるそれら勢力に痛手を与えた直後だったのだ。
「まさか!」
オラーシャがここにいる繋がりがあった。
だが早い、その反応はあまりにも早すぎる!
銃声は銃身を密使に強く押し当てていたこともあり、それほど響かなかった。
後ろへゆっくり倒れていく密使。仰向けで地面に激突した密使の両目は驚愕で開かれたまま亜熱帯の空を見つめ、やがでその瞳から光は消えた。
「催眠兵士は一部の専売特許ではない」
物言わなくなった死体の胸に少女は1枚の紙片を置く。
ご丁寧にもガリア後で書かれたそれは、先程の少女のセリフと同じだった。
「プロレタリアは団結する」
共産主義者達から資本家、ならびに貴族階級へのメッセージであった。
後日、王党派は「最下層貧民が!」と激しく憤ったという。
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神川丸が入渠しているドックはシンガポール島の北のセンパワン港にあり、パヤ・レバー空軍基地はそこから南東に直線で15kmくらいのところにある。ちょうど中間にシィーニーが駐屯しているセレター空軍基地のあるセレター地区がある。セレターへは軍の定期巡回バスが出ており、2人はまずそれに乗ってセレター基地の南の市街まで行き、そこからは徒歩とした。残るおよそ5km程はのんびり散策というわけだ。帰りは同じ行程か、もしかすると車を出してもらえるかもしれない。
「おねえちゃん、お花買ってー」
セレター地区で巡回バスを降りて市街地を歩いていると、小さな女の子が天音に声を掛けてきた。歳は10才前後といったところか。肌の色は褐色といってもシィーニーほどではなく、顔立ちもマレー系よりはシャムロや華僑系に近いといった女の子だ。両手に沢山の花を抱えている。マレーの花、ハイビスカスもある。
「綺麗だねー。なかなかいいお花だよ。おうちのお手伝い? えらいねー」
「違うよー。弟のミルク代がほしいから、わたしが稼いで買ってあげるのー」
「わあ、それは大変なお役目だね。よぉし、おねえちゃん買ってあげる!」
「ありがとー」
一宮が面倒くさいといった顔を向けた。
「どうすんだ花なんか。施しだと思ってやってんならやめた方がいいぞ。キリねえから」
「施しなんかじゃないよ。ちゃんとこの子のお仕事への対価だよ。それに基地へのお土産にしようと思って」
「軍用施設に花なんか必要ねえだろ」
「基地は殺風景すぎるのよ。玄関とか応接間くらいお花飾った方がいいと思うんだよね。ねえ、あなたお名前は?」
「ファン・イエン・トゥ」
「ファンちゃんでいいのかな」
「ファンは苗字だから呼ぶときはトゥよ」
「あれ、わたし達扶桑と同じ順なの? マレー人じゃないの?」
「アンナンから越してきたの」
「成程そっかぁ。それで名前もお顔も華僑人っぽいんだね。トゥちゃんかぁ。弟思いのいいお姉ちゃんだね~」
よしよしと天音はトゥの頭をなで、トゥはニコニコと花に負けない笑顔を輝かせた。
その様子を遠巻きに見ていた目つきの悪い男達がいた。そいつらは手で合図すると建物の影に消えていった。
女の子が持っていた花を天音が全て買い取ると、女の子がそのお金でミルクを買いに行くという。店は通り道にあるようなので、天音は一緒に行くことにした。寄り道というほどでもないので一宮も何も言わず付いていく。
「トゥちゃんはどうしてアンナンからシンガポールに越してきたの?」
天音は楽しいお散歩という雰囲気のまま上機嫌で尋ねた。ところが。
「お父ちゃん、お母ちゃんの乗ってたお船が沈んじゃって帰ってこなかったの。それで身寄りがなくなって、シンガポールで貿易やってるアンナン人の会社に連れてこられたの。今はブリタニア人のお家で働いてるの」
唐突に思いがけぬ重たい話が飛び出てきて、天音と一宮は驚いた。それにも増して、なんら躊躇うことなくすらすらと言う彼女にも驚いた。トゥは話を続けた。
「おうちの前の海で大きな船が沈んで、お父ちゃんも、周りのおうちの人達もみんな船を出して助けに行ったの。でもほとんど帰ってこなかったの」
天音の顔が次第に悲しみで歪み始めた。
「そ、その大きな船が沈んだのって……」
「ネウロイが沈めたんだって。集まってきたお船もみんなネウロイが沈めたんだって」
天音は歩みを止めた。そしてトゥの方に向き直った。
「お隣のイェンちゃんも、お向かいのシュウちゃんも、みんな家族がなくなったの。それから……」
天音はもうその先を聞けなかった。思わずトゥに抱き付き、天音より背の低い彼女の頭をぎゅうっと包み込んだ。
「ごめんね、嫌なこと聞いてごめんね。わたしが守らなきゃいけなかったのに、ごめんね」
「別に一崎が護衛してた船じゃないんじゃないか? その感じだと単独航行の……」
「一宮君もこんなことが起きないようにする側の人でしょ! わたし達が見つけるのが遅いからこうやって悲しむ人が増えちゃうんじゃない!」
天音はいよいよ肩を震わせ、声を押し殺してすすり泣きしそうだった。
「んなこと言ったって海は広いし、お前が探せる範囲だってほんの数キロなのに」
「お姉ちゃん達は何をする人なの?」
天音の平たい胸の奥でくぐもった声で問いかけるトゥ。
ひっぐひっぎと声にならない天音に代わり一宮が答えた。
「えーとだな、俺達は扶桑海軍の者だ。海に出てきたネウロイを退治するのが仕事だ。一応だな、今年の1月に扶桑を立ってからずっと、ネウロイを見つけちゃあ退治してきたんだ、これでも」
一宮はできる限りのことをしてきたと天音を弁護するつもりだったが、
「ひっぐ、言い訳がましいよ」
当の天音からダメだしされた。
「ごめんね……」
もう一度ぎゅうっと抱きしめる天音。
「そうなんだ。でも、お船が沈んだのは1年くらい前なの。お姉ちゃんお兄ちゃん達が出発するより前だったの。だからきっと間に合わなかったと思うの」
天音は驚いてトゥを胸から解放した。
「1年前!? あれ、わたしが聞いたのでは潜水型ネウロイに初めて船が沈められたのは去年の11月だったはずだけど……」
「お父ちゃんのお船が沈んだのは夏の終わりなの。大きなお船がもっと沈んで、海岸に真っ黒な油がいっぱい流れつくようになったのはもう少し後の冬なの」
「もっと前から潜水型ネウロイはいたってことだな」
「そうだったんだ」
「お姉ちゃん、ミルク買いに行こう」
「あ、うん」
まったく悲しんでる風のないトゥに、逆にたじろいでしまう天音と一宮。涙と汗ばんだ顔をハンカチでごしごし拭くと、トゥと手を繋いでまた歩き出した。
「トゥちゃんは強い子なんだね」
トゥは天音に向くことなく、正面のどこか遠くを見つめながら言った。
「もう泣き疲れたの。いくら泣いてもお母ちゃんもお父ちゃんも帰ってこなかったの。だから生きてる弟だけ見てることにしたの」
天音はまたトゥの体を抱き寄せた。
「うん。そのトゥちゃんをわたしも応援するよ」
そうして並んで通りを歩いていた3人だったが、横に車がすーっとやってきた。そのまましばらくトロトロと並走するので、一宮はなんだこの車、と思ってチラチラ目線を向けていると、いきなり車の後部ドアが開き、出てきた男に一宮は突き飛ばされた。
ズザーッと背中で滑って、「いてー、何すんだ!」と顔を上げると、天音とトゥは出てきた男達に担がれて車の後部座席に押し込まれていた。
しばらく更新止まってたので、2話くらい続けざまにアップしないと。