転生
「ん……ぁ……」
浮上した意識に体が小さくぴくんと跳ねる。
どうやら俺は組んだ腕を枕にして、いつの間にか机に突っ伏して眠っていたらしい。
「くぅっ……」
だらしなく垂れた涎を拭うと、一度大きく伸びをする。その動作に合わせて背筋がポキポキと小気味良い音を立て、首も左右に倒せば同じように骨が鳴った。
そうして体中に纏わり付いたストレスを一通り解消したところで、俺は寝惚け眼で辺りを見渡した。
そこは、カフェのようであった。
バーテンダーを思わせる年老いた男が、カウンターの向こう側で湯気の立つティーカップに口を付ける。客の入っていない円形の木製テーブルを幾つも見遣りながら、自らの淹れたコーヒー、或いは紅茶の香りを堪能しているようであった。
ここは、閑古鳥の鳴く古めかしい喫茶店。店内にいるのは店主であろう老齢の男を除いて俺だけのようであった。
(あれ……? なんでこんなところにいるんだ、俺は?)
微睡みから覚め、意識がはっきりしてきたところで疑問が湧き上がった。
それに従ってどうしてここにいるのか。
そもそもここに来る前は何をしていたのか。
そういった諸々を思い出そうとして、
(んー……てか第一、俺は
最も根本的な問の前に掻き消されてしまった。
欠如していたのだ。丸々抜き取られたように綺麗さっぱり。自分の名前さえ分からず、頭の中には何の残り香もなく記憶がすっぱりと欠落していた。
奇妙な現象だ。
だが、そんな事態に遭遇したにも関わらず、不思議と不安は生まれなかった。
それは時がゆっくりと流れるこの店独特の空気のお陰か。それとも窓の外から照り返す暖かな陽光故か。恐怖と言うものは芽生えなかった。
(……まぁ、いいか……)
深くは考えず、ティーカップに手を伸ばす。
木目のはっきりした黒テーブルに寝入る前から置かれていたであろうそれは、今では冷めてしまって香り立つ湯気はのぼっていない。
けれども、
一口、口に含む。
マスカット特有の爽やかな香りが鼻を抜け、目を瞑って余韻に浸る。
素人ながら、記憶とは別――知識の片隅にある「アイスワインティー」という茶葉と似通っていることに気が付いた。恐らく、同種なのだろう。
俺は何度かその豊かな芳香を楽しむと、すっと目を開いた。
「自分が誰か、それは分かるか?」
「……は……? え……? ん?」
いつの間にか、正面に男が座っていた。
許可した覚えはないが、相席しているという事は俺の知り合いなのだろうか。
それにしては告げられた言葉は意味深だ。まるで心を読んだようにピンポイントで探ってくる。
とは言え、何の情報もない現状、素直にその疑問に返事をした。
「いや、分からないな」
「そうか。ならばお前が次の対象で間違いなさそうだ」
「対象……?」
花の縁取りのあるソーサーに、ティーカップをかちゃりと置く。
まだ入っていた赤い液体が波立った。
「そうだ。ここに迷い込み、且つ記憶のない者は本来の輪廻から外れた者。そういった“はぐれ者”を“輪”の中に押し戻すのが俺達の役目。その対象が今回はお前、というだけだ」
「なるほど……」
つまり、俺は死人、という訳か。
こうやって物に触れ、味も匂いも温度も感じておいて、既に死んでいるとは実感が沸かないこと甚だしい。が、逆に考えれば、先程から立て続けに不可思議な事象を体験している事こそが、ここが死後の世界である事の証左なのか。
そう考えると打って変わって素直に面白いと感じられる。
「それじゃぁ聞きたいんだが、何でその『はぐれ』とかいうのに俺は?」
「さぁな。お前は死んで、しかし
「へぇ、ならずっとここにいればいいのか? それとも何か手伝おうか? 俺の事だし」
「手伝いはいらん、素人では邪魔にしかならんし。――代わりに、準備が整うまでの退屈しのぎとしてお前にはある世界に行って貰う。人が作った物語をベースとした世界だ、精々楽しめ」
「ふむ……それはありがたい、のか?」
人の作る世界ほど良い意味でも悪い意味でも、滅茶苦茶なものはないと知識が告げている。
剣の一振りで山が崩れ、海が割れ、空が落ちて来る、なんて事もあるそうだ。そんな人の形をしながら人をやめたような者と遭遇してしまえば、どうなるかなど分かったものではない。
潰すべき時間を潰す間もなく、先に命が潰されるのは目に見えている。
正直、有難いかどうかの判断は付き難い。
「さぁ、知識として覚えているなら住み易いかもしれんが……所詮、なるようにしかならんよ」
諦めも肝心か……。
「意志が固まればその紅茶を飲み干せばいい。それだけで世界を渡れる」
「随分簡単だな」
「暇潰しでしかないなら単純で当然。俺はもう行く。ここには残らずお前もさっさと行くんだぞ」
「ああ、了解した」
そう言って男が席を立つと同時に、俺も残りの紅茶を飲み干す。
空になったカップに倣うようにして急速に薄れゆく意識の中、視界の隅で店主が腰を折ったような気配がした。
◇
場面が転換した。
おぎゃあおぎゃあと、俺の口から赤子の産声が発せられる。気道確保の為に未熟な喉が震えている。
人の作った世界ではあるが、どうやら無事に転生を果たしたようだ。
さてはて、一体どのような世界なのか。
目は開かず、水中にいるかのように音が遠くに聞こえて状況の把握が困難を極める。
今分かるのは、助産師と思しき人に羊水を拭われて布に包まれた事くらい。そうして何か床のようなところに置かれ、布越しに硬質な感触が柔肌を刺激した。
母親の腕の中でない事に一抹の不安を覚える。もしかすると出産の負担が大きかったのかと、そう考えて胸騒ぎが大きくなる。
母親は無事か。息はあるか。
意識としては赤の他人でも、子としての本能が母の生存を憂慮した。
しかし、それは杞憂であって、
「……やっと、会えた……」
慈しみに溢れる指で頬を触れられ、優しげな女性の声で囁かれた。
胸の何処とも分からぬ場所から安堵の気持ちが湧き上がる。赤子にとって大きな心的疲労を理由に、俺の意識は沈んでいった。
ぴちゃん、ぴちゃん、と。喉に落ちた雫のむず痒く流れる不快な感覚に覚醒した。
獣の唸り声が聞こえる。この世に生を受けた当初より明瞭に音を捉える耳が、更に男女の会話も拾っていた。
「……クシナ、もう命が持ちそうにない……そろそろ八卦封印をやるよ……。……最後に一言、言いたい事を言っておこう……」
死の間際に必死に絞り出そうとする男の声音。荒い息を吐き出す呟きに出てきた名前は、どこか聞き覚えのあるものだった。
どこだったか。何の物語であっただろうか。
命を賭して伝えられる言葉を前に、深く考えることなど出来なかった。
体がどうしてか酷く熱い。
血液が肌の上にまで
止め
ぼやけた視界の中、鋭利なもので貫かれた男女が精一杯の微笑みを浮かべていた。
長い赤髪の女性に、金髪の青年。
彼等が俺の両親なのだと、一目見た瞬間に理解出来た。
「……ナルト、一緒にいられなくてごめんね……」
特徴的な名前をキーに、蓄えられた知識の中からその物語が引き上げられる。
一瞬で脳裏を
しかし、脳内を占めるそんなものはかなぐり捨て、俺は彼等に触れようと腕を伸ばす。助けようと、そんな力もないのに一心不乱に
「……ナルト、好きな人を守れる男になるんだぞ……」
さよならを言うように、父は柔らかく笑みを浮かべる。
日常であれば――死に追われていなければ、何よりも安心感を抱かせる筈のその表情は、後悔を直接的に表す母よりも──耐え切れずしゃくり上げて泣く母よりも、何倍にも痛ましかった。
そんな父の唇が、動く。
「八卦封印──」
腹から熱いものが流れ込む。同時に、
ともすればそれは、『チャクラ』と呼ばれるこの世界固有のものだった。けれど、冷静に判断するには理性が欠け過ぎて、
「ぁぁあああああああ゛あ゛あ゛あ゛っっ……!!!!」
慟哭する。
喉が潰れても構わないと、出せる限りを振り絞る。
未熟な肉体で寝返りをうち、
体が重い。鉛のように鈍重だった。
それでも生きている内に少しでも触れたいと強く願い、どうして体は動かないのかと心の底から悲嘆した。
(動け……! 動いてくれ! 父さんが……! 母さんが……! まだそこで生きてるんだ!)
両親を貫いていた九尾の爪が煙となって掻き消える。
重力に従い次第に傾いて行く父母の体。
眠たげに
そこで唐突に閃いた。
九尾の骨格で――人柱力として尾獣化直前のあの狐の骨格で、愚鈍な四肢を支えようと。最初にして最期に、親の温かみを知る為に、九尾のチャクラを利用する事を。
(
深く深く、心の奥底に語り掛けた。
◇
「またワシを閉じ込めるか! 小賢しい!」
精神世界。
檻の中で朱色の狐が吠えている。
けれども、施された封印は小揺るぎもしない。俺の中に押し込めた九尾を逃がさず、その役目を
そんな巨大な門を前にして、俺は薄く水の張った場に赤子の姿のまま立っていた。
「何だ小僧! 丁度良い、貴様如き食
その瞳に俺を認めると一層猛る。牙を剥き、両親を刺し殺したように観音開きの門の隙間から俺を狙って爪を立てる。
決して届きはしないが、九尾とてそれは百も承知。俺を萎縮させ、主導権を奪いたかったのだろう。
だが、唯の赤ん坊でない俺に見掛けの恐怖など効果はない。
「……
「っ!? ぬ、
「なら、力尽くでも奪い取ってやる……!」
見るからに未成熟な子が喋った事に九尾は
だが、悠長に話している暇など欠片もない。対話は後回しだ。
母──うずまきクシナは封印術に優れたうずまき一族の血統。その血は俺にも流れている。
ならば、俺に封印術が使えない道理はない。
印なんぞ知らん。チャクラの練り方なんぞも知らん。全ては封印が為された時の感覚に従って、元々人並以上のチャクラを練り上げる。
「自由にしてやる代わりに力を貸せ!」
力任せに四象封印をこじ開ける。今し方の封印を逆巻くように、身に起こった感覚だけで手探りで解封する。
「阿呆が小僧!」
『封』と書かれた札が剥がれ落ち、重々しい音を伴い動いていく。鍵もなく、無理矢理弾けるように解錠され、ゆっくりと開いていく門の隙間に九尾は鼻から体を捻じ込んだ。
吹き飛ぶように開門する。
それを黙って見守る筈もなく、
「確かこんな感じ、かっ!」
精神世界故か、忍術の融通がかなり利く。チャクラを練り、明確なビジョンを思い
それだけで虚空から無数の鎖が、門の前を走る巨大な通路で二者を隔てるように展開される。
原作では母が九尾を縛り付けた術だが、現状、動いている者を縫い付けるには俺の経験値が足りていない。所詮想像でしか
だからこそ、隙を生じぬ二段構え。駄目で元々、九尾を捕縛する鎖と道を封鎖する鎖を並行して発動する。そうする事で二度手間にはなるが、最終的には足の止まったところで九尾を雁字搦めにしてやれる。
「もういっちょ金剛封鎖!」
「ぐぬぅっ……!? 何故貴様のような赤子がこうも
黄金の鎖で磔にされるように、四方に四肢を引かれた
戸惑うのも無理はない。だが、答えてやる余裕もない。九尾の力を引き出す“綱引き”が先決だ。
掌から鎖の付いた
これで逆に取り込まれようものなら俺の器はそこまでであったという事。勝敗の目安は単純だが、絶対に果たしたい願望がある。それを無謀にも抱いてしまったのだ。意地でも負ける訳にはいかった。
「お前には全てが終わった後で教えてやる!」
破城弩の如く、幾重にも束ねた楔を撃ち出した。
朱色の巨躯からチャクラだけが剥がれ掛かる。綱引きの要領で鎖により引っ張り出したそれは、しかし全体の3分の1にも満たなかった。
時間がないというのに抵抗を受けて思うように進まない。
焦りを抱けば引き戻され、手を煩わせる奴だと思えばまた引き戻される。負の感情がそのまま九尾の持つ憎しみによって増幅され、付け込ませる隙になっていた。
「うぉぉおおおお!!!!」
雄叫びを上げ、頭に響く怨嗟の一切合切を斬り捨てる。思いの丈だけ、身の丈以上の力を振り絞る。自らを叱責し、宥め、純粋な想いだけを持って鎖を引く。
ぐぐぐと、九尾の形をしたチャクラが漸く半分顔を出した。
「ガキが図に乗るなァァアアアアッ!!!!」
ぐわっと開いた口内で黒い気泡が収束する。
肌を刺すような威圧感。大気を震わす重圧は、紛れもなく尾獣玉。
正面から食らって精神体がどうなるか分からない以上、むざむざ溜めが終わるのを待ってやる義理はない。
「こんにゃろっ!」
「ッ!?」
綱引きならぬ鎖引きの補佐をしていた手を離し、九尾に向けて開き──閉じる。呼応して虚空からその長い口を巻くように鎖が伸びて固く縛った。
更にもし、尾獣玉を放たれても軽減出来るよう、通路に格子状に、蜜に、三重の金剛封鎖を展開する。
向こうの攻撃はこちらのチャンス。尾獣という強者故の奢りは当然あって然るべき。俺を「仕留めた」と錯覚させたその隙に、力の全てを抜き切ってやろう。
「小賢しい!」
轟ッ! と鎖の壁の向こうで轟音が鳴る。
やはり口を縛っただけでは足りなかったか。通路を形成していた壁や天井が呆気なく吹き飛ばされ、中空を支えとした黄金の壁だけが軋みを上げて耐えている。
だが、あまりの威力に千切れ
果たして本当に金剛封鎖の“壁”によって放たれた尾獣玉の威力は減衰しているのか。
最後の1枚となった“壁”の中央が焦げるように変色する。
綱引きに興じている主要な鎖だけはギリギリのところで繋ぎ止めてはいるが、右掌に感じる断裂音が不安を煽って仕方がない。その感情を押し込める。
この手には母と父が手伝ってくれているのだと、そう自己暗示を掛け続ける。
“壁”は揺るごうとも俺は決して揺るぎはしない。そんな事は許されない。両親の温もりを知らずに生きていくのは耐えられない。
だからこそ、それを掴む為に最高のタイミングで精一杯鎖を引くのだ。
最後の“壁”が崩壊した。
少しも衰えていないように見える尾獣玉が、途轍もない勢いで床を
世界を砕かんばかりに轟音が鳴る。
俺を隠した砂埃の向こうで、
鎖が緩み、引かずとも自らの中に戻っていくチャクラを見て、殺すまではいかずとも満身創痍となった俺の姿を想像したに違いない。それが罠とも知らずに。
この瞬間を待っていたと言わんばかりに、静かに唸り担ぐようにして一気に引く。
ずるりと、引き抜いた感触が伝わった。
引き抜いた九尾の力が俺の精神体に吸い込まれ、俺のチャクラと融和する。
それは不思議な感覚だった。両親の愛を感じ、子としての愛で応えようとするそんな温かさがあった。
「ッ!? ガキがッ!! 巫山戯るなァァアアアアッ!!!!」
切羽詰まった罵倒。
代わらず四肢を封じているが、それでも滅茶苦茶に暴れようとしているのが分かった。でも、暴れようとしているだけ。それだけだ。
「お前を自由にしてやるのはまた今度だ。今は眠れ」
痩せ衰えていく
◇
現実へと引き戻され、急速に意識が鮮明になる感覚があった。
水面から顔を出すように何らかの抑圧から解放され、目を開けば俺の
「あぅ、あ、あぁ……」
歯の全く生えていない口で呻くように声を出す。
間に合わなかった。赤子の足掻きは届かなかった。
虚無感。
そう言えばいいのだろうか。努力が報われなかった虚脱感に見舞われる。
視界がぐにゃりと歪む。
尻から生えた狐の尾骨が地面を貫き体重を支えているため、体が不安定に揺れている訳ではない。かと言って九尾の肋骨が肩の上から胸元を覆い、首の安定に貢献するため頭が情けなく揺れているのでもない。
涙だ。
耐えようとして耐え切れず。
留めようとして留められず。
ただの憑依であるなら俺がこれ程心を揺さぶられる筈がない。一歩下がって傍観するであろうが故に、他人事で済む筈だ。
だが、何故ゆえこれ程悲しいのだ。
何故、これ程に苦しいのだ。
「あぁ……」
これは俺が、この世界に1人の子として確かに生まれ落ちた証拠に違いない。家族の繋がりを持って誕生したからに違いない。
(母さん、俺を産んでくれてありがとう……)
母の元まで近付き、髪を掻き分け、頬に手を当てる。
まだ温かく柔らかい。
そして父にも手を当て、頭を撫でる。
つんつんと反発する金の髪。それが心地好く、笑みが漏れる。
(父さん、名付けてくれてありがとう)
子が成長していく上で両親の存在は大切だ。
だが、文字通り俺の中に2人は生き続けている。
それを俺は知っている。
なら、親が死んだと悲しみ続けるより、彼等に胸を張っていられるように歩き続ける方が建設的だ。
だから、涙を流すのは今だけ。
今だけは、両親に甘えよう。
本来、九尾との綱引きは原作の神殿のようなところでないと出来ないと思いますが、封印忍術の得意なうずまき一族の血筋という事で無意識下で神殿と酷似した精神世界が結界によって形成されている、という独自設定。また、精神世界内でのナルトのチャクラ消費はゼロで無限に術が使えますが、術の行使には正確なイメージが必要。加えてチャクラ同士で本体の精神が当たり負けするとナルトという我は死亡し、九尾に乗っ取られる。