その日、成瀬順は緊張していた。今日はお母さんの再婚相手と初めて顔合わせをするからだ。朝から落ち着きがなく家の廊下を行ったり来たりしていたのだが、それもお母さんに止められ順は困り果てて椅子に座っていた。二人が来るのは16時すぎと聞いていたし、まだ二時間もある!と安心していた。お母さんは仕事を持って帰って来ていて今は自室にこもっている。順は落ち着くためにホットミルクを自分で淹れ、のほほんと飲んでいた。しかし、そんな現実逃避をしていても仕方がない。そう思いコップを片つけ部屋の掃除を行う。私の……いや私たちのこれからの部屋は、一番大きく、大きな窓のある日当たりのよい部屋だった。順はこの家でこの部屋が一番好きだった。なぜなら窓にお城のような格子が掛けられているからである。お城に憧れていた順にとってこの部屋はまるでお城に中にある、自分のお部屋だったのだ。
(まあ、今この部屋が好きなのは日当たりが良くてお昼寝が一番気持ちいいからなんだけどね)
順は父親の浮気を見たお城が、嫌いになってしまっていた。嫌い……というか苦手になったものがもう一つあった。それは父親というものだった。父の去り際に言った一言が心から離れない。今回の再婚相手の父親は大丈夫な人だと母の話から分かるのだが、順は不安で仕方がなかった。失礼をしないかだとか、愛想を悪く振舞ったりしないかだとか、心配事しか頭に浮かんでこない。
(駄目だ駄目だ!ちょっと休もう!)
階段を下り、椅子に座って少しがたった時だった。母親が部屋から出てきたと思えば玄関を開け、誰かと会話をし始めうちに招き入れたのだった。聞いていた時間より30分早い到着。順がパニックになるのも仕方がなかった。
(なんで!?16時じゃなかったの!?何も考えてないよ!?)
考えている間に、リビングのドアが開く。順はその場から動けずにいた。
「順、ご挨拶しなさい。」
母のこの一言でようやく体が動き出した。しかし、動くのは体だけで頭は全くと言っていいほど動いていなかった。何を言えばいいのかわからない。いつもの癖でお腹の前で手を繋いでしまう。下を見ているせいで顔が見えない。沈黙が続く……沈黙を破ったのは再婚相手だった。
「こんにちは、順ちゃん。えっと……新しいパパになるんだけど……よろしくね。」
向こうから挨拶をしてくれた。しかし、順はそれでも挨拶を返すことが出来なかった。さらに、パパという単語で鳥肌が立ってしまい、下を向くことしかできなった。次に聞こえてきたのは母の怒声だった。
「順!ちゃんと挨拶しなさい!」
その一言は順を追い詰めた。順はリビングを抜け出し、二階に行き自分の部屋のお気に入りの場所に座り込んだ。
(あぁ……やっちゃった……また、お母さんに嫌われちゃうのかな……)
そう思うと自然と涙があふれてきた。必死に涙をこらえていると、誰かが階段を上る音が聞こえた。
(お母さん……順を叱りに来たのかな……)
さらに泣き止もうと鼻をすする。そして肩を叩かれた。振り返ると予想とは違う人物がいた。その人は自分と同じ歳くらいの少年だった。長い髪に一本のアホ毛、整った顔の中で違和感を醸しだす少しだけ濁った眼、少年はこちらをじっと見ていたが、スマホを順に渡してきた。
『初めまして、だな。俺は比企谷八幡だ。』
そこには簡素な自己紹介が書いてあった。比企谷八幡、はちまん……思い出した、再婚相手の息子さんだ。順は自己紹介を返すためにスマホを返して、自分の携帯をポケットから引っ張り出す。
『こちらこそ初めまして。順は成瀬順です。順って呼んで』
呼び方まで指定したメッセージを送る。すると八幡君はもう一度スマホを渡してくる。
『そうか、なら順は誕生日はいつなんだ?どっちが上かははっきりさせておきたいしな。』
つまり、私がお姉ちゃんか妹かを知りたいのかな?私はずっと優しいお兄ちゃんが欲しかったので妹になりたかった。
『12月2日だよ?八幡君は?』
私は次の八幡君の返答にドキドキした。お兄ちゃんなのかな…弟君なのかな…
『なら俺が兄貴だな、8月8日だ。』
これを読んだ瞬間、順は嬉しくて飛び上がりそうだった。ついつい、顔を緩めて笑顔になってしまう。にやにやして止まらなくなる。
『ほんと!?やった!!お兄ちゃん欲しかったんだ!お兄ちゃんって呼ぶね!!』
順はテンションでこんなことを書いてしまい、引かれないかと心配になったけどお兄ちゃんも満更ではなさそうなので安心した。
『好きに呼んでくれ。まあ、ここからが本題なんだが……さっきはどうして逃げ出したんだ?』
順は正直答えたくない。これはあまり人に言うことではないのだと思う。ましてや実の息子の前でなんて……そう思ったのだが、お兄ちゃんは真剣な目で順を見ていた。そのとき、順はなぜかわからないけどこの人なら大丈夫、ちゃんと受け止めてくれる。そう思った。
『実はね、お父さん……っていうのが少し苦手なんだ……』
初めて誰かに言った。順は少しだけ緊張して手が震えたけど、お兄ちゃんは、少しも気にせずにスマホで文字を打つ。
『なあ、もしよければ何があったのか聞かせてくれないか?辛いなら無理にとは言わないが……』
順はお兄ちゃんになら、と思い全部ありのままに伝えた。少しだけ色々思い出して泣きそうになったりしたけど泣かなかった。
お兄ちゃんは少しだけ何か考えた後スマホで文字を打ち、渡してくる。
『そうか……それは辛かったよな…でもな、順のせいじゃないと思うぞ?父親の浮気が原因だしな……って言っても無理だよな……だからさ、せめて、俺にだけは甘えてくれよ、俺はかわいい妹にこんなことを一人で抱え込ませたくない。だから泣きたいときとか、辛いときは俺に言え、何でもしてやるから』
それは、順には魔法のような言葉だった。
(甘えてもいいんだ……もう、一人で抱え込まなくてもいいんだ……もう、順は、ひとりじゃないんだ)
涙があふれてくる、目の前の少年は、もう、順のお兄ちゃんなんだ………
頭を撫でてくれる手がとても優しく、温かい、順はもう一人じゃないよ、と教えてくれているようでとても、とても、嬉しかった。
一通り泣いた順はお兄ちゃんに
『ありがと、お兄ちゃん。』
と、最も言いたいことを簡潔に笑顔で伝えた。
『お、おう……さ、下に行こうぜ。』
リビングへ行こうとするお兄ちゃんを順は止めた。
(お兄ちゃんは、順が支えてあげる)
そう決意し、打った言葉をお兄ちゃんへ見せる。
『お兄ちゃんは?お兄ちゃんはどうして声が出なくなったの?』
これは、お兄ちゃんにとって、触れて欲しくないであろう内容、しかし、順は引くつもりなどなかった。順はお兄ちゃんのことを知りたいのだ。そのためなら卑怯なことをしてでもいいと思えた。
『お兄ちゃんは順のこと聞いたけど、順はお兄ちゃんのことを知らないよ?順、そんなの嫌だもん……』
こうして、お兄ちゃんの逃げ道を塞いででも聞いたお兄ちゃんの話はとても順には耐えがたいことばかりだった。クラスメイトからの、暴力、暴言、いやがらせ、無視、様々ないじめを4年間、誰にも相談などせず耐えていくなんて順にはとてもじゃないが出来ない話だった。
順はお兄ちゃんは本当に実の妹である小町ちゃんが大切なのだと感じ、少々嫉妬したが、それでもお兄ちゃんにふさわしい言葉をお兄ちゃんに送りたいと思った。
『お兄ちゃんは、小町ちゃんを心配させないために黙ってたんだよね?お兄ちゃんは<頑張ったね>。』
頭を撫でながら、お兄ちゃんにそう伝えると、お兄ちゃんは相当我慢してたのか、ぽろぽろと、泣き出してしまった。順はそんなお兄ちゃんを、抱きしめた。恥ずかしかったけどきっとお兄ちゃんはこうしてほしいんだと思い、優しく抱きしめ続けた。
泣きつかれてお兄ちゃんは順の腕の中で寝てしまった。どうしようかと思ったが、雨が上がり、日差しが差し込むようになった部屋は暖かく順も眠くなったので、そのままの体勢で寝ることにした。
(ねえ、お兄ちゃん、これからもよろしくね……おやすみ。)
少年と少女は体を寄せ合いながら、静かに眠りにつくのだった。
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