怜霧は、自らを思う。
――やはり、おかしい。
状況は異常である。
言うまでもない。このような世界に唐突に迷い込み、神社に保護されて人里へ移送され、暫くは帰れないと再度の確定をみて、それでも落ち着いている。あまつさえ、のうのうと恋人の安寧を願う始末。
それ自体はおかしくないだろう。しかしこの状況で行うことか、という話だ。
それに下世話な話だが、異性の家に、こんなに違和感なく(それはこちらだけの話ではなく、向こうにもいえることだ)泊れているというのもおかしい。
怜霧は考える。自分は、そんなに落ち着いた人間だったか?
白霊の知識だって、学んだことをこれほど思い出せたことは、一度たりともない。
「……っ」
一体どうすればいいのか。
白霊怜霧は、貸与された寝具を使うことすらなく、部屋の片隅で自らを冒す恐怖に、そしてその恐怖が少しずつ打ち消されていく事実に、震えていた。
◆
宇佐見蓮子は、一学生だ。
出来ることには当然限界があるし、要不要で取捨選択するのが重要なのも当然だ。それを忘れたことなど、さして長くもない人生のうち、忘れないと決めてからは一度もない。
結局のところ蓮子にとって、安全で安定した安心できる生活なんてものは、メリーを失う恐怖に比べれば、ゴミクズにも劣るものでしかなかったのだ。
故に彼女はここのところ、周囲の眼も講義の単位も何もかも投げ捨てて、メリーの住むその部屋で、彼女の世話に明け暮れていた。
玄関のドアを開ける。蓮子は上着を脱ぐと、薬局のビニール袋とともに部屋奥へと進んだ。
メリーの住む部屋は、ごく普通の学生向けアパートといえるだろう。1Kの小さなものだ。
入って右手がキッチン。部屋自体は水回りを除けば右へ倒したLの字型で、メリーの居るベッドはそのまま進んだ先の左手、間仕切りの向こう側。
蓮子は、ベッドのメリーにおぶさり、囁く。
「メリー」
「……れんこ……?」
抱きしめたメリーの肢体は、もぞりと動くと、蓮子を小さく抱き返した。
◆
時は、高校時代にまでさかのぼる。
中学まであちらこちらへ転校を繰り返しながら過ごした少女は、両親の合意を強引に取り付け、京都で一人暮らしを始めた。
そこで少女は、風変わりな留学生と出会う。
「マエリベリー・ハーンです。よろしくおねがいします」
彼女には奇妙な能力があった。境界を見る眼。彼女には世界が境界で出来ているかのように見え、その力故に、まるで追い出されるかのように日本へと来たのだという。
周囲の人間は気味悪がり彼女を遠ざけた。
宇佐見蓮子。彼女もその一人だ。
「宇佐見蓮子。……まあ、よろしく」
それは五月のこと。蓮子とメリー、この二人は何の因果か(単にくじ運とも言う)タッグを組んで
なんのことはない、単なる課題である。
それ自体は恙無く終わった。ハロー効果というやつか、メリーの能力を低く見積もっていた蓮子はその時彼女を見直すわけだが、それはまあ、いい。
問題はその後だった。蓮子の周囲では、奇妙なことが頻発した。
蓮子自身も、だんだんとそれに蝕まれるのを感じた。
――五月二十一日。月に文字が見えた。
――六月二十日。角に落ちた消しゴムが消えた。
――七月十二日。星が数列に見えた。
――八月四日。鏡の向こうに眼が見えた。
――八月二十九日。人が数字に見えた。
◆
その日、宇佐見蓮子は憔悴していた。
最早隠す余裕もない。ここのところ、彼女の眼は、世界を数字という形で映していた。
それ自体が苦なのではない。むしろ、苦でないことが苦痛だった。
明らかな異常。あまりにも明白すぎるそれが、言い出すには無理がありすぎるそれが、彼女を苦しめる。
特にひどいのは、不眠だった。無数の数字はあまりにも精神を強く揺さぶっている。
感情は、数字。人は、数列。彼女自身は機械でもプログラムでもない、人間である。しかし重なった心労と学者の端くれたらんとする矜持は、友人ですら数字として捉えてしまう自らの眼を憎むことさえも許してくれない。
――最後にしっかり眠ったのは、いつだったろう。
蓮子の視界に映る世界が、応えた。曰く、S-207394、5、6……
次に彼女が見たのは、視界一杯のメリーの顔。
彼女を覗き込むその眼を覗けば、そこには無数の眼があるように見えて、
「蓮子」
「……メ、リー?」
彼女の視界に、数字はなかった。
「一体どうしたの、蓮子。あんなところで倒れているなんて、らしくない」
見ればそこは、メリーの借りたアパートの部屋。
蓮子も何度か訪れたことのあるそこは、その時どういうわけか、自らの家よりも安心できた。
「ごめん、今日、泊め、て……」
そう言って蓮子は、眼を閉じる。睡魔が彼女を襲っていた。倒れていた相手に"らしくない"という奇妙な言動も、気にする余裕どころか、気づく余裕すらなかった。
メリーは蓮子のその姿をみて、わらった。
「……いいわ、聞かないでおいてあげる」
九月三十日。宇佐見蓮子は、マエリベリー・ハーンを受け容れた。
それ以来、蓮子はメリーと共にいる。
能力という檻の中のメリーを外から眺めていた私は、あの時、この
外から見れば気味が悪いだけだったメリーは、今や唯一の支えといって差し支えない存在だった。
故に蓮子はメリーを恐れ、それよりも更に、メリーを失うことを恐れた。
それこそ始めの頃は、彼女が誰かと付き合うと言い出すたびに恐慌をきたすぐらいには。
――でも、彼女の"付き合う"は違うものだった。
蓮子はそう述懐する。
誰が言ったか、"相対性精神学の魔女"。
大学に入って、彼女はまるで朝食を取るかのように男と付き合い、学校に通うかのように虜にし、そしてまるでその期間が嘘であったかのようになんの後ぐされも何もなく別れて、綺麗に関係を断ち切ることを繰り返した。
まるで実験用のサンプルを取るかのように合理的で波風を残さないそれは、"信憑性の薄い噂"として知られる程度には、有名になった。
しかし暫く続いたそれは、七人を数えたところで終わる。
当人は、興味を失ったと言っていた。
そしていままでのものは全て、相対性精神学の"ちょっとした応用"だと、その実験でしか無いと、彼女はいったのだ。
しかし二年次になって少ししたころ、それは唐突に再発した。
故に蓮子は、彼のことを、またメリーの"病気"の犠牲者だと、そう思った。
「メリー」
「なぁに?蓮子」
「あなた、また彼氏作ったんですって?」
「ええ」
「……珍しいわね?いつもなら、」
「『彼氏じゃなくて研究対象ですわ』……いいえ、今回は本当に彼氏なのよ?」
「はぁ、相対性精神学ってのも怖いわねぇ……」
「ふふ、そうかもしれないわね?」
「──面倒ごとだけは起こさないでよ?」
「そのつもりですわ」
「……一応、信用しておくわ」
「あらあら」
◆
だから、宇佐見蓮子は安心していたのだ。
絶対に、こんなことにはならないと。
「……メリー」
背中から伝わるぬくもりはか細く、しかし熱かった。
39.4℃。ヨーロッパ系白色人種らしく平熱の高いメリーからしても、相当な高熱といって間違いないほどのもの。
「ひゃっ、 ……れんこ、つめた、」
「我慢なさい。さもないと、茹だるわよ」
額と腋下、膝裏を拭い、冷却ジェルのシートを貼る。
パッケージには額に貼っている絵がある。楽になるのは確かだが、実は体温的な意味は無いのだ、と、どこかで読んだ豆知識を引っ張りだしていた。
荒く息をつくメリー。発汗が酷い。脱水が心配だが、先にスポーツドリンクを飲ませたときは、冷たさを胃が受け付けなかったのか、そのまま吐き戻す結果を引き起こしていた。
――しょうがない。
「れん、こ……おみず、」
「水じゃまた吐くのがオチでしょ。……ちょっと待ってなさい」
もうこの際、口移しで飲ませてしまえ。
スポーツドリンクを口に含み、キスの真似事をするかのように顔を近づけながら、かつて私が恐慌に陥ったその時、メリーに言われた一言を思い出した。
『大丈夫よ蓮子。私、貴方好きだから』
まったく、と蓮子はつぶやく。つぶやいて、心中でひとりごちた。
――私もよ、メリー。
マエリベリー・ハーンは、わらっている。