和室。
そこには、床に伏せる老人が一人。
老人、その名を、白霊礼司という。
すぅ、と、虚空に線が走る。両端がリボンで留められたそれは、ぐい、と開く。
裂け目から現れたのは、紫色の道士服。
得体のしれない、異質さと違和感と美しさをミキサーに掛けたような、女。
老人が、口を開いた。
「これで、白霊は博麗へと還る……我等の大命も、果たせる」
「ええ。貴方方の大命は、彼で終わるでしょう」
「礼を言う。八雲の、貴女のおかげだ……」
老人は微笑んだ。
しかし、笑みは崩れる。ほかならぬ、その女の言葉で。
「礼は無用ですわ。その大命、果たして頂かねば、私が困るのですから」
老人は、目を見開いた。驚きと、怒り。
「……八雲、まさか、!」
貴様、と続けようとして、咽る。死が近い。鎌は、今にも振り下ろされんとしている。
「冥土の土産にお持ちなさいな。白霊への大命なぞ、
「きさ、八雲、貴様、ぐっ!」
「ふふ」
道士服の女は、嗤った。
老人は、その顔に凄まじいまでの憤怒と苦痛を表した。
「さあ、お眠りなさいな。貴方は十分に働いてくれた。後は、その働きへの裁きをお待ちなさい」
「や……く、も……!」
そして鎌は振り下ろされる。
最期の最後に裏切られた老人は、死んだ。枕元に、遺言状を残して。
女は、遺言状を拾い上げる。裂け目の向こうへとそれを投げ込むと、服の内からよく似たものを取り出して、置いた。
「──全て八雲にお任せあれ、なんてね?」
朝の盆地の冷えた空気が、骸に残る体温だったものを拭い去ってゆく。彼の魂とともに。
女は裂け目をくぐる。否、その直前、はたと思い出したように立ち止まり、首だけで振り向いて、虚空へとひとつ言葉を吐いた。
口元には、笑み。
「死人に、口無し」
女は、裂け目をくぐった。
◆
「つあっ!?」
ばちり、痛みが走る。
そして僕はここが博麗神社の境内ではないと気づいた。次いで、自分が眠っていたこと、外が明るいこと。そして、近づく足音。
す、と障子が開く。巫女服の少女がそこにいた。
――巫女服?
「気がついたようね」
少女の声。
「ここ、は」
「博麗神社よ」
神社。いつの間に中に入ったんだ。いや、それよりもこの少女は一体。
巫女服ということは、巫女だろうか?いや、あの荒れようでは少々考えにくいだろう。
だが、何にしろこんなところにいた覚えはない。何らかの原因で意識を失っていたのだろうか。
それに、あの先輩に似た女性は……。
「あなた、境内に倒れていたのよ。手当はしておいたけど、痛むところはある?」
「いえ、どこも……あ、怜霧といいます」
「え?」
「白霊怜霧。京都総合大で学生をやっています。あの、あなたは……?」
唐突だったかもしれない。少女には混乱が見えた。
口ぶりと状況からして、彼女が助けてくれたらしい。それ故の自己紹介。
だが、それが原因ではないのだと、直後に僕は知ることになる。
「霊夢よ」
「え?」
「博麗霊夢。見てのとおり巫女をやっているわ」
◆
たっぷり30分ほどだろうか。巫女……霊夢に状況を聞かされ、僕は愕然という感情を覚えていた。
「帰れない?」
「本当ならあなたのような外来人を帰すのも私の仕事なんだけど、ここのところ結界強度の割に"外"との繋がりが弱体化してて厳しいのよ。"外"の神社が壊れでもしたのかと思っていたのだけれど」
いわく、ここは幻想郷なる領域。忘れ去られ、幻想となったもののたどり着く郷であるという。
博麗神社はその成立に強い意味を持つ"博麗大結界"の要にして幻想郷の楔であり、"博麗の巫女"と呼ばれる人間、つまりは霊夢が管理しているのだという。
出入口は端にあるものであり、外と繋がるところでもある。
「つまりあの古神社は、この……幻想郷、の入口だということですか?」
「そういうことらしいわ、実感ないからなんとも、ね。しかし一体どこで綻びが出たのかしら」
最近は綺麗にズレててくれてたんだけど、と霊夢は首を捻る。わけがわからないという風だがそれはこちらだ。
幻想郷?博麗の巫女?冗談も休み休み、と言いたいがまったくの冗談とも思えない。
それはやたらと濃い空の色も、まったく繋がらないモバイルも、空をかっ飛び新聞を"配達"していった黒い影も、それら全てが原因だが、それ以上に、"白霊"として教えられた伝承があった。
「それで、あなたは?」
問われる。
「博麗の名は特別な意味を持つ。 ……外の世界に残っているはずはないわ」
博麗。その名には憶えがあった。
祖父の語った"白霊"の歴史。そのはじめに、その一族は現れる。
「……白霊だけど、博麗ではありません」
何よりも先ず、字が違う。
僕は、白霊を語った。
とどのはじまりは、その昔在ったという"博麗"の一族。彼等は血ではなく、その異様な鋭さを誇る勘と霊的能力という共通点により繋がっていたという。
失うことを恐れられながら、しかし存在そのものを恐れられてもいた彼等が、自分達の実状を隠蔽するため、そして実際に一族が失われた時の保険として作ったのが、"白霊"一族。
代替にして、外張り。白霊は博麗の下ではあるが博麗と同等の力を持ち、代償として管理され教育され使役される、光にして影であり、しかし本質ではないなにかだった。
……もっとも、流石にそれも昔の話。実際に博麗が失われてみれば、"大命"(なんと時の天皇から下された勅命だというが、実際はどうなのかわかったものではない)を受けた一部を除き、白霊は少しずつ減っていったという。管理や教育を行っていた者がいなくなれば、彼等の血の繋がりは脆いものであった。
「つまりあなたは、"外"の"博麗の代替"の最後の末裔、ということね」
「そういうことのようです。しかしこの話も祖父から伝え聞いたのみで、あとは白霊としての心構えやら儀式やら」
「白霊としての教育は受けた、と。なんというかねぇ……」
霊夢は、巫女は呆れたような表情を作る。何がいいたい。
「あんたまさか、なんか妙なことやらかしてないでしょうね」
ぽかん。
そう形容するのが正しいような、妙な空白が脳裏に生まれる。
「……何の話ですか、それは」
「違うわけね。いいわ、それならそれで」
即時に突き放される。一体何なのだ。
答えは自ら語った、白霊の知識にあった。
("……血ではなく、その異様な鋭さを誇る勘と霊的能力という共通点により……")
「紅白めでたい巫女の勘、ですか」
「物分かりがいいわね」
皮肉げにこぼれた言葉もさらりとかわされる。
「あなたはめでたくなさそうね? もう少し喜んでいいと思うわよ、こんな美少女に介抱されてたんだから。 ――ああ、素敵な賽銭箱はそこよ」
……反撃までおまけされてきた。本当に巫女か、こいつ。
なんというか、そう、こういうのがふさわしい──"勝てる気がしない"。
「白旗です」
「よろしい。それじゃ、境内でもみてまわるといいわ。池とかそれなりに手入れしてるし、見るものには困らないでしょ。私はやることあるから、とりあえず落ち着いたら次どうするか考えましょ」
まあ、妥当か。
僕は一つうなずくと、ふと沸いた、ある種当然の疑問を投げかけた。
「……そういえば、荷物は?」
「そこよ」
指さされた先に、ボロボロになった登山用のザックがあった。
境内に出てみれば、霊夢の話はますます真実味を増す。
神社裏の"見覚えのない"古い石段も、鳥居先の"不自然に途切れた"獣道も、──記憶より遥かに広い境内も、その全てが霊夢の話を肯定していた。
「少なくとも、こんな池はなかったな」
石段は見落としたとして、獣道も元からあんなだったとして、境内の広さも気のせいだと押し通して、それでも流石に池の有無までは覆せそうになかった。
というか、なんなんだこの池。池自体は普通だが棲んでるものが普通じゃない。
「どうした、若人。深刻な顔をして」
海亀である。
「玄爺と呼んどくれんか。割合他よりも経験豊富での」
海亀が池にいる。海ではなく池、つまりは池亀? いや、それよりも亀が何故喋る。というか、名乗られたぞ、亀に。
「……失礼、白霊怜霧といいます」
「ほう、ご主人と同じ名とはの。これはまた珍しい」
お前が言うな。どう考えても喋る上に池に棲む海亀の方が珍しいだろう。
──しかしその後結局意気投合し、霊夢に呼ばれるまで話し込んでいたのは、なんとも奇妙な事実であった。
◆
「紫、いるんでしょう? 彼の言っていたことは事実なの?」
怜夢が神社境内の散策に出てから霊夢は壁に身を預け、箪笥と壁、床と柱、梁と屋根──隙間という隙間を視て言葉を投げかける。
視ること、それは意味づけること。意味づけられた隙間を広げ現れたのは、リボンで端を止められた裂け目。紫とも黒とも取れるその内からは有象無象の眼が覗き、そしてそこから、紫の衣の女性が現れる。
「はぁ、これほど隠れているというのにすぐ視つけられてしまうんですものねぇ……」
歴代随一の天才とはいえ、あまりにも……胡散臭い笑みを浮かべつつそう嘆くのは、"神隠しの主犯"にして"境目に潜む妖怪"、"幻想の境界"と恐れられる大妖怪──八雲紫。
「質問に答えなさいよ。あんた相変わらず面倒ね」
その大妖怪を一蹴する少女も只者ではないのは当然だ。博麗歴代最高級の天才と謳われる"楽園の素敵な巫女"──博麗霊夢。
「で、どうなのよ」
「そう急ぎ為さんな。聞きたいのは"白霊"のことね?」
急かす霊夢、そしてふわりと受ける紫。
悪戯っぽいその表情の奥には一体何があるのやら。
「嘘ではないと私の勘が言っているのだけど」
「なら、その通りでしょうね」
「……あのね」
霊夢は頭に指を当てる。頭痛をこらえるかのように。