「ん」
博麗霊夢が優雅極まる午睡から目を覚ましたのは、ちりちりとした奇妙な感覚によるものだった。
大結界からのフィードバック。基本的に「博麗の巫女」からすれば馴染み深いそれは、通常であれば何かを感じるというものではない。つまりは、何かを感じた時点で異常事態である。
自らが昼寝していられなくなる程の強い感覚。霊夢は、それなりの異常事態であると認識した。
――せっかくの昼寝が。
「……ゆかり、いるんでしょ」
心地よく乾いた畳から上半身を起こし、霊夢は眠気の混じった不機嫌そうな声を上げる。否、まさに彼女は今不機嫌であった。
彼女は、幻想郷そのものに拘束されているといっていい。何者にも縛られない、それを本質とする能力をもつ霊夢という少女が、ただ博麗であるというだけで縛られている。
それそのものは当然のものとして受け入れて(或いは諦めて)いる霊夢だが、それ故か、彼女の数少ない娯楽である昼寝とお茶、それらを邪魔されることを嫌う。
数少ない楽しみなのだ。当然といえば当然のことであった。
「ゆかりぃ?」
しかし、その声には何も返らない。
彼女にとっても、別に初めてではない。確かに、大結界がこういう感覚をよこすほどの異常をきたすような事態であらば、八雲紫は七割方動く。
裏を返せば、三割ほどは動かないということだ。特に冬場は「冬眠」と重なることもあり、まず動かない。
――冬眠って時期じゃないけど、まあ紫のことだし。
霊夢はそう考えた。何しろあの胡散臭いスキマのことである。なにがあるやらわかったものではない。
しかしながらそれならそれでそのうち、スキマ妖怪の式が、八雲藍がやってくる。そして霊夢は彼女にせっつかれ、あちらこちら確認して調整して回ることになるのだ。
「……」
霊夢は藍が嫌いだった。いや、嫌いというほど積極的な感情ではない。「面倒くさい」というのが最も近いだろう。
彼女は、紫と違い一気に結界の状況を把握するほどの演算能力も応用可能な特殊能力も持たず、霊夢と異なり結界に繋がれているわけでもない。素体である九尾狐のもつ妖力、行使者である紫の異常性のそれぞれはたしかに彼女の「機能」を極めて強力なものとしたが、それでも「所詮」紫の小間使いでしかない。
ではどうやってことを済ませるのかといえば、つまりは足で稼ぐのだ。
大結界には無数と言っていいほどの"点"と、複数の点をまとめる"線"がある。
といってもそれは霊的実態どころか、物理的実体すら精々「ちょっとお清めして祝詞刻んだ程度」の杭が一本や二本刺さっているだけ。
要するにそれは、補助具である。自転車に乗れない子供が補助輪で走り回るように、力の足りないものが結界の維持を行うときに使うものだ。
つまり、霊夢にとってどうでもいいものでしかない。霊夢で力が足らないなら、この結界はとうに存在すらしていないだろう。しかし、藍にとってはそうではない。彼女にとってそれは唯一無二の窓口だ。コンソールのような役を果たすそれがなくば、修復どころか、状態の確認すら難しい。
霊夢が終わったと言っても、藍はすべてを調べ尽くすまで調査を終えない。霊夢とて人の子だ。どうでもいいと知っていながらも、健気に一つ一つ調べて回る彼女を放置していい気はしない。意外と抜けたところのある彼女のことだ、調べている間に襲撃される恐れすらある。
「……もー、面倒くさいわねぇ」
要は真面目すぎるのだ。式がそういうものであるというのは霊夢も重々承知していたが、嫌いなものは嫌いである。
さっさと出発して先に直してしまおう。急速に覚醒し始めた意識に、霊夢はそう思った。彼女の勘も、今ならまだ間に合うと告げている。
「あーもう、いきゃいーんでしょいきゃあ」
急かすような感覚に声を上げ、霊夢は神社を発った。
◆
大気中に存在する事のできる水蒸気の量は、主としてその気温によって決定される。低温の水に入れた大量の塩を溶かすにはかき混ぜつつ水温を上げてやればいいように、水蒸気も気温が高いほど大量に存在できる。
では、気温が低下すればどうなるか? 水蒸気といえど化学式H2Oの水には違いない。彼らはあたかも塩の結晶が析出するかのように凝結し、極小の水滴となるのである。
極小の水滴は、当然ながら一つにとどまらない。そして無数に現れた水滴たちは、その特性によりミー散乱と呼ばれる事象を引き起こす。つまりは、白い影を生み出すのだ。
人間はこの現象のうち、天空のそれを雲、地上のそれのうち濃いものを霧、薄いものを靄、人の視線より低い領域のものを地霧と呼称する。
あの白い影が水滴であるという証明はひどく簡単である。あの中を自転車で突っ切れば、衣服表面がうっすらと濡れるのがわかる。足に自信があるなら、走ってもいいだろう。徒歩では空気の流れに乗って避けていく水滴も、ある程度の速度があれば思い切り、しかも大量にぶつからざるを得ない。
但し、眼鏡を掛けているならやめておいたほうがいい。無数の小さな水滴が表面に張り付き、レンズを曇らせ視界を塞ぎに掛かるからだ。
「寒いっ」
京都総合大学が誇る福利厚生棟、冷暖房も随分と高効率・ハイパワーなものが備え付けられたその建物から出るなり言ったのは、蓮子だ。
周辺はひどく濃い霧に覆われている。大学構内どころか京都府とその周辺という広い範囲を、異常なほど濃密な霧が、なんと三日に渡って覆い続けている。
気象庁は本来注意報までしか存在しないところを濃霧「警報」と宣言し、京都府庁は周辺自治体と連携し自家用車の利用中止を呼びかけつつ交通の統制を試み、方々の努力で住民はどうにか平常通りに暮らしていた。
当たり前の事だが、霧が出るということは気温が低いということである。その効果の程はともかく霧自体が多少なりとも太陽光を遮る上消失する際に気化熱まで持っていくので、仮に太陽が出ていてもますます寒くなりやすい。
その上その霧が濃密で、しかも三日連続で、風は気配すらなく空は(見えないが)曇り、となると本当にどうしようもない。
「そう? 言うほどでもないでしょう。涼しくて過ごしやすいわ」
「先輩、人種が違います」
本当にわかっていない風のメリーに、げんなりした様子の怜霧が返した。
少なくとも事実の一端を指していることだけは確かではある。ヨーロッパ系の白色人種は年月を経てきた地域が地域、日本人と比べ寒さに強く暑さに弱い。蒸し暑くなんてなると悲惨である。
実際のところ怜霧は厚めのジャケットを引っ張り出し、寒がりの蓮子にいたっては冬物のダウンを調達していた。ちなみに本日は七月七日。月平均気温26.8度(最低・最高で言えば23.2度・31.5度)のところ、朝の予報によれば最低6度、最高14度という前代未聞の七夕である。
そんな中、春物のワンピースに薄手を少々重ねた程度で悠々と過ごしているメリーは、まさに人種特性の面目躍如。
が、当然ながら事実かどうかと答えが気に入るかは別問題である。メリーが憮然とし、怜霧が慌て、そばの蓮子がため息一つ。ひとまずリセットと相成った。
蓮子が言う。「ここのところの異常気象はどうなってるのかしら」
「霧もそうだけれど、妙な気候が続いてるでしょう。春なんて五月頭にやっと来たと思ったら一週間も保たなかったじゃない」
「そうね」メリーも言う。
「だからこそ使いそびれた春物、今更着ているのだけど。四月なのに大雪が降ったりしてたわね」
「惑星科学科の知り合いは喜んでましたけどね、卒研のテーマが見つかったって」
怜霧が応える。惑星科学科は理学部に属する学科だ。この手の学科にしては珍しく名がきっちり体を表している。
ちなみに、天気天候の類はこの内地球物理学教室の大気圏物理学講座を受講し、物理気象学研究室で突き詰めるのが京都総合大学の流儀である。気象予報士を幾度も輩出していることからそれなりに人気がある。
怜霧の挙げた知り合いとは、憧れの女《ひと》を追っかけて全力を尽くし、高倍率を突破して研究室まで合わせ仲良くなったはいいが卒研テーマを決めかねていたという"愛すべき馬鹿"であった。
「解明してくれればいいのだけれど、なんかこう凄まじく無理臭いのがアレよねー。なんか未だ未解明部分が大量にあるらしいじゃない、気象って」
「案外岡崎教授に聞いたらわかるんじゃないかしら? 超統一物理学が影響してるらしいって最近言われてるみたいだし」
投げやりな蓮子にメリーが言う。異常気象とここ三日の霧に、一部学者が出し始めた見解だった。
既存の理論がどうやっても通用しないというあきらめから上がっていたぼやき同然のものだったが、ネットではことさら大きく取り上げられ「超統一物理学、気象まで征服か」などと
「では、岡崎研へ?」
「ううん、どうかしら。私は予定ないから、構わないけれど」とメリー。
「いいえ」蓮子はそれを否定した。「今日はそれどころじゃないわ」と。
「そろそろ聞かせてもらおうかしら? あなたが一体
◆
「……つまり今幻想郷では『
「そう。だから私もこの部屋を少々強引だけど軽く異界化して位相をずらし、魔界へと接続して凌いでいるわ。そうでもしないと肉体の維持なんて不可能だし、これでも結構無理してるのよ?」
なにせいつもの体は一旦破棄したぐらいですからね。青い少女はそう言った。
そこは常よりも随分と禍々しい雰囲気をまとってはいたが、間違いなく魔法の森のマーガトロイド邸であり、アリスの私室である。
「だからってなんでそんな昔懐かしい格好なんだよ」
「魔界に繋ぐんですもの、この格好が一番都合いいのよ」
青い少女、魔界時代の姿を一時的に使うアリスは、首を傾げて続きを促す。
「ああ……ええと、書き換えは基本的に『見えない部分』から進んでいて、少なくとも通常の人間や動植物に影響は少ない」
「私の実験結果が正しいのならね。それに、影響は少ないといっても間接的な分も含めたら相当でしょうけど」
「それは……そうだな、まあ人里は大丈夫だろうさ、他は知らないけどな」
「なに、魔理沙。心配?」
くすり、笑うアリス。魔理沙は背もたれに思い切り寄りかかると、「今度ばかりはな」と俯いた。
「これが妖怪だったら、私がぶちのめしてやればいい。単なる異変だったら、私がダメでも霊夢がなんとかするだろう。だけどな」
顔が、悔しさに歪む。アリスはそれに食い縛る歯が軋むような音を聞き、そして自らの失敗を悟った。
(この体に引き摺られたかしら――)
魔理沙が、吐き出す。
「世界原則? 魔法部分に致命的な影響? 私に何が出来るっていうんだ!」
「魔理沙……」
「なあ、アリス……私はどうすればいい、私は? 私に何が出来る?」
それは普段押さえつけられた感情の奔流そのものであったに違いない。
ひどい顔だった。アリスですら、一瞬気圧されるほどに。
あれほどまでに意思と、活力と、希望と、それらのもたらす笑顔に満ち溢れていた"普通の魔法使い"は、その顔を怒りと悲しみと苦痛とひとさじの狂気と、たくさんの涙にまみれさせていた。
テーブルについた腕は震え、目は見開かれ、歯は互いを砕かんとばかりに押し合い、……そのどれもこれもが、彼女の追い込まれようを現していた。
「魔理沙」
「何も出来るものか! 私はな、私はな、アリス! ここに来るまでに飛ぶことはおろか、妖怪と交戦することすらままならなかったんだ! その私に何が、」
「魔理沙!」
ぺちん、
小さな音が響いた。
それは平手打ちである。影響を限定するため、常より小さな古い体躯に収まったアリスが、まさにその姿の相応しい幼い力を以って、足らないリーチをテーブルに乗って無理に補って放った、妖怪どころか目前の"ただの少女"にすら余裕をもって受け止められる一発である。
しかして、それは止まることはなかった。『原則の書き換え』によるものではない。魔理沙が自身に秘すことを課し続けてきた感情に弄ばれていたからでもない。
「……アリス」
「いい、魔理沙」
「迂闊な言動をしたのは謝るわ。でもね、」
それは、アリスの真摯さによるものである。
「