梅雨前の土砂降りの中、僕は走っていた。目的地は大学近くの――僕の住むアパート近くの、公園。
そして、そこにいるメリー先輩。
右手に傘を、左手にも予備を。濡れアスファルトが滑るが、構わず走る。
近いとはいえ、歩きでは約五分。電話越しに聞こえた先輩の声は、なんとなく様子がおかしかった。
思考が焦げる。焦がすのは、不安だ。
――急がなければ。
最後の角を曲がり、公園にたどり着いた僕が見たのは、ずぶ濡れのメリー先輩。
「先輩ッ」
駆け寄った。
ひさしも何もないベンチ。そんなところに居ては、風邪をひいてしまうだろう。こじらせれば、風邪だって危ない。傘を。
「……
力のない、ほにゃりとした微笑み。
「先輩、一体どうしたん、!?」
腹部に感じる感触は唐突で、突発的で、発作的で、冷え切っていて。
降りしきる雨が、音を立てなくなった。
――抱き着かれている。
「せ、」
「ごめんなさい」
「……先輩」
「少し、このままで……」
哀願。
いつもの、いっそ胡散臭いほどの自信に溢れる先輩の姿は、そこにはなかった。
◆
二年前、五月十八日。
「へぇ、超自然現象のエミュレート」
「はい、ここは学生の独自研究を支援していると聞き及んだもので」
初夏の陽気の中を歩く僕は、ほわほわとした金髪の女性に声を掛けられた。
マエリベリー・ハーン。綺麗な人、という第一印象とともにそう名乗った女性は、僕と同じ京都総合大学の一年上……つまり、二年次生だという。
「ふふ、そうよねぇ、普通はそんなことしてくれないわねぇ」
「……ハーン先輩もですか?」
「メリー、って呼んでちょうだいな。親しい人にはそう呼ばせているの」
何故か祖父のことを知っていて、僕のことは、その祖父経由で知った、と。
不思議な人。僕の中での彼女の評価は、入った喫茶店で話しているうちにそう書き換わった。
「私はねぇ、相対性精神学。人の境界をみているのですわ、なんてね?」
そういって紅茶を口にした彼女の眼は、まっすぐに僕を見つめる。
不思議と嫌な感じがしない。それを僕は、奇妙だと思った。
事実上祖父に育てられた僕は、白霊《ハクレイ》(何のことはない、小さな神社を護った一族だという)の末裔として、普通の勉強以外のものを学んだ。それ故か同年代とは話が合わないことが続き、自分から人付き合いを避けた身だ。
避けるうちに異様な目で見られることもあったし、いじめの対象になったこともある。
人の視線は、嫌いになったはずだった。
「貴方、人嫌いなのね?」
「!」
「ふふ、正解」
見透かされた。そう思った次の瞬間、
「ね、私と付き合ってみない?」
さらりと告白されていた。
「何故、ですか?」
「さぁ……一目惚れ、かしら? 貴方を見つけた瞬間にね、捕まえておかなきゃ、って思ったの」
壊れかけの、機械のちょうちょみたいに見えたのよ。先輩はそういって微笑んだ。
この人は一体、なんなのだろう。
祖父と面識がある人。大学の先輩。初対面の人間と喫茶店に入り、付き合わないか、と誘う人。
――気まぐれ、なのかな。
「ふふ」
だけど、不思議と……そう、不思議と嫌な感じはしなかったのだ。
初対面の一日はそのまま、デートになった。
翌日。
担当の教授が研究室を爆発させたとかで三限目が休講になり、今日の予定が半分になってしまった僕は、とりあえず昨日訪れた喫茶店へと足を向けた。
大学の広場から西へ抜け、一本北の道。京都らしくない(というと大学周辺一帯がそうなのだが)洋風の、こじんまりとした建物。
「おや、いらっさい」
「こんにちは、マスター」
この店は、メリー先輩のお気に入りだ。昨日、この喫茶店で会計を済ませるそのとき、彼女はそういって笑っていた。
「二日続けてとは嬉しいねぇ。コーヒーかい?」
「いえ、紅茶で……昨日、先輩が飲んでいたものをお願いします」
「あいよ、ちょっと待ってな」
同じモノを飲んでみれば、少しは気持ちがわかるだろうか。
「青春だねぇ……」
これが、そうなのだろうか。
だとすれば、大切にしたい――僕はそのとき、そう思った。
数日ほど後のこと。
僕は半ば耄碌したような名誉教授の、退屈な講義のノートをとりながら、
「メリー……っておい怜霧、まさかあのマエリベリー・ハーンか!?」
右隣、絵に書いたような軽薄野郎が小声で叫ぶ。器用な奴め。肯定。
「かー、羨ましいぜ畜生! 俺ってばハーン先輩を一目見た時にピンと来たんだよなぁ、この人は人気出る! ってさぁ」
「だが良くない噂も多いな」
左隣がうそぶく。常に冷静を装う(逆にいえばそれだけの)通気取り。
「多くは彼女の人気に対するやっかみだろうが、中には信憑性のあるものも多い」
「ほうほう、例えば?」
右隣が食いつく。左隣は得意げに語る。
「曰く、オカルトに傾倒しているとか、妙な能力を持っているとか」
「ほほう」
「彼女は"彼氏"と書いて"サンプル"と読むとか、彼女の人気は彼女が心の距離を操る実験の被験体だからだとか」
「ほうほう」
「やっかみだろう、ってのになるとビアンだとか、"親友"という名のセフレだとか」
「なんとまあ……」
どれもこれも、まさかそんなことは、と思うようなものだ。
しかし、
「だけどハーン先輩ならそのどれが本当でもあんまり驚かないなー。むしろ全部完全にハズレって方がなさそうな感じするぜ」
「そうだ、そのイメージこそが原因だろう。火のないところに煙は立たないともいうことだしな」
そう、あの独特の雰囲気は、その妙な噂を肯定するような……
「怜霧も気をつけろよぉ? 気づいたら洗脳されてポイ、なんてことにならないようにな!」
「はは、怜霧は珍しいサンプルだろうしな」
浮かぶのはあの微笑み。それだけで何となく許せてしまう気がした僕は、
「……そう、だな」
――もう、手遅れだ。
◆
ある日、祖父が死んだ。
僕には、両親というものの記憶がない。
別に記憶喪失でもなければ、ネグレクトというのも違う気がする。ただ親が仕事に身を捧げていて、主に面倒を見てくれたのが祖父だというだけだ。
祖父は僕に手紙を残していた。
遺言となった手紙には、老人特有の崩し字。
白霊家縁の古神社の場所、そして、その手入れをしろという指示がそこにはあった。
僕は珍しく顔を合わせた両親に面倒ごとを押し付け、先輩に連絡を入れ、遺言を遂行すべく動いた。今日までの礼を篭めて、せめて遺言は速やかに。
そして今、僕は罰当たりかな、なんて少し思い、いや荒れ放題だったところを綺麗にしたわけだし許してくれるだろう、とも思いながら、この古びた神社の境内のはずれに小さなテントを張り終えた。今日は、ここで夜を明かす。
月明かりの中、蓄光樹脂の無電源灯で手紙を読み返す。
「……メリー先輩、どうしてるかな」
明かりに誘われるかのように、恋人のことを想った。
メリー。マエリベリー・ハーン。今年で京都総合大学の四年次生。
あの日あの時、どのサークルの所属でもない僕が先輩と出会ったのは、まったくの偶然だった。
ああ、素晴らしき哉。
「あら? あらあら?」
「貴方ね? 白霊さんのお孫さん」
そう。確か、初めて掛けられた声がそうだった。
爺さん。あなたのおかげで、僕は。
そこまで思って、打ち切って、空を見上げる。
どうやら僕は相当、先輩に入れ込んでいるらしい。いや、今更か。
彼女と出会ってから二年と三日。二周年記念にと観た映画(残念なことに派手なだけの駄作だったが、先輩との一日というだけで十分に価値はあった)ですら中身をあまり憶えていないというのに、二年前の出来事が焼きついたように離れない。
と。
「……もし?」
「!」
声。どこだ。
「こちらですわ」
後ろ。
「……メリー先輩?」
振り返ったその先に、思わず目を見開いた。見とれる。
長い金髪。夜だというのに開かれた日傘。紫を基調とした服には文様が刻まれ、まるでこの世の人ではないようで、そして、
――似ている。
何が、ではない。
全てが。
「ふふ……」
その人は悲しげに微笑むと、ぱし、と、扇を鳴らした。
はたと、我に返る。地面が消えた。
「あ、」
僕が声を上げたそのとき、ずるぅりと音を立て、僕はこの世界からズレた。