片翼の天使(笑)で剣をふるうのは間違っている   作:御伽草子

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すみません、お待たせしました






















第八話【懐かしのオラリオ】 後編

 その長身の男は、頭頂から足首まで灰色のローブに覆われていた。

 

 フードは深くて幅があるため、頭に被ると余った布地が肩の辺りで折り重なっていた。ローブもゆったりとした余裕のあるつくりになっているため、わずかでも風に晒されると裾がゆらりゆらりとはためいており、男のシルエットはまるで灰色の靄が揺らめいているような、どこか掴み所の無さを感じた。

 

 しかしリリルカの目には、それが警戒心の薄い雛鳥が羽根をばたばたとはためかせ、必死に空を飛ぼうと息巻いているように見えた。無防備で無警戒で脆弱。狩猟者にとっては格好の獲物だ。

 

 男が纏っているローブは、その布地や織りの緻密さはもちろんのこと、鋼のように重い光沢があった。かなりの高級品であり、下手な鎧よりも耐久性に優れた一品であることが容易に見て取れた。

 

 売ったらそれなりの金額になるはずだ。

 

 ――剥ぎ取ってあげますよ。

 

 リリルカは内心ほくそ笑みながら、ローブの冒険者に声をかけた。

 

「初めまして。突然ですが、どうか僕のお願いを聞き届けてはもらえないでしょうか?」

 

 にっこりと人懐っこい笑みを浮かべているリリルカに、ローブの冒険者が振り向いた。

 

 顔半分を覆い隠すように目深に被ったフードの奥から、不思議な光彩を湛えた瞳がリリルカに向けられた。瞳孔は縦に細長く、暗闇の中に浮かぶ猫の瞳のように見えた。

 

 ローブの冒険者が自分の存在を認知したのを確認したリリルカは続いて言葉を発した。

 

「ずばり、あなた様は冒険者様ですよね」

 

 リリルカの問いかけにローブの冒険者は「……そうだ」と一言だけ答えた。

 

 やはりそうか、と確信すると同時に、リリルカは『この冒険者のローブを剥ぎ取る』という目的を達成するための取っ掛かりを掴んだ手ごたえを感じた。

 

 無関係の他人が道端で突然声をかけてきたら、大抵の者は警戒する。だからこそ最初にかける言葉は非常に重要だった。『お願いを聞いて欲しい』などと道をすれ違った赤の他人が無遠慮に突然言ってくればまずは困惑するだろう。だからこそ選んだ言葉だった。これが『ちょっとお話を聞いてくれませんか』や『少しお時間よろしいですか』と、伺いを立ててから相手の返答を待つような第一声では失敗である。一言目で拒絶されるか無視される可能性が高い。

 

 しかしリリルカは相手に思考する隙を与えず続けて『冒険者ですか』と問いかけた。『はい』『いいえ』だけで返せる単純かつ他愛ない言葉だ。相手にこちらの要求を最初に伝え、続く会話のキャッチボールを返させることで、相手に自分と対話させるための下地を作らせることに成功した。

 

 警戒されることには変わりは無い。しかしその中に、あてずっぽうでも適当でも〝冒険者である〟ことを言い当てたことに対して、ほんのわずかでも関心が含まれるなら、取り入るための第一歩として成功であると言えよう。

 

 さて、ここからが問題だ。

 

 まずは〝お願い〟の中身を簡潔に伝えなければならない。

 

「どうか僕を助けてもらえませんか? あなた様の冒険にほんの一時でいいので、サポーターとして同行させてもらいたいのです」

 

「悪いが他を当たってくれ」

 

 ばっさりだった。

 

 まあ問題ない。この対応は織り込み済みである。むしろ荒くれ者が集い、狡賢い小悪党が跋扈する迷宮都市の冒険者として、ここでいきなり食いついてくるようではよほどのお人好しだろう。

 

 ローブの冒険者はリリルカに背を向けると、もう話すことはないと言うように雑踏の向こうへと歩いて行く。リリルカは逃がすものかと、ローブの冒険者を追いかけた。身長が倍以上違う両者の歩幅には大きな差があり、小人族(パルゥム)であるリリルカでは自然と小走りになってしまう。短躯には驚くほど不釣合いな巨大なバックパックが背負われており、しかし一切の重みと負担を感じさせず、リリルカの歩みと共に上下にゆさゆさと揺れていた。

 

「僕の名前はリリルカ・アーデと言います」

 

 自己紹介から始まり、自身の境遇を虚偽を混ぜながら、同情を引くように脚色して語った。

 

 ファミリアの仲間に邪魔者扱いされてパーティーに入れてもらえない。役立たずで肩身が狭いので本拠(ホーム)に居場所が無く、安宿を巡り歩いている事。サポーター一人ではダンジョンに潜ることが困難なため収入が無く、困窮していることをひたすら語った。

 

 しかしローブの冒険者からの返事は無い。

 

 リリの言葉に何の反応を示さないまま、前へ前へと歩いて行く。まるで壁にでも話しかけているみたいだとリリは思った。

 

「哀れなパルゥムを助けると思ってどうか御一助いただきたいのです」

 

 そこでローブの冒険者の足がぴたりと止まった。

 

「あいにくだがしばらくダンジョンに潜る予定はない。繰り返して言うが、他の冒険者を当たってくれ」

 

 それだけを告げ、こちらを一瞥することもなく、ローブの冒険者は再び歩を進めた。

 

 中々付け入る隙を見せてくれない。どう攻めようかと考えを深めていたリリはふとある事に気づいた。

 

 ローブの冒険者を追いかけていたリリの、小走りだった歩みが平素の歩幅に戻っている。

 

 ――ひょっとしてリリの歩くスピードにあわせてくれていたのだろうか。

 

 違う。そんなはずは無い。あれは冒険者なのだ。自分勝手で横柄気ままな冒険者が、卑しいサポーターに対してそんな殊勝なこと考えるはずではないではないか。

 

 リリは自分に何度も言い聞かせた。しかし胸の奥に蟠ったわずかばかりの疑念は取り払うことができなかった。

 

 自分の有用性を語り、サポーターの重要性を語ったが、ローブの冒険者は何を言っても興味を示さなかった。

 

 ここまで取り付く島もないのは初めてだった。

 

 しかしリリに対してまったく無視をしているかというとそうでは無い。

 

 一度リリが転びそうになった時。地面に向かって、つんのめった体をいつの間にかローブの冒険者の腕が支えていた。軽く肩を押され、前倒しになりそうだった体は元に戻った。

 

「あ……ありがとうございます」

「他にサポーターを必要としてる連中はいくらでもいる。何も俺でなくてもいいだろう」

「そんなこと言わずに……あ、今なら、お試しということで報酬はいりませんよ」

 

 無報酬ならためしに、となるパターンが多い。もっともその分は後でごっそり頂くので問題ないのだが。この条件を告げれば、大抵は「じゃあ、まあ使ってやるか」となるのだが、ローブの冒険者は一向に興味を示さないでいた。

 

 ローブの冒険者はギルドに入って行く。

 

 リリもギルドの中まで追いかけていく事はしない。出来ないというのが正しい。盗みを生業にするリリにとって、それを取り締まるギルドに入る事は、自ら虎穴に飛び込む事に等しい。いくら魔法で変装しているとはいえ、取り締まる側のギルドの職員に自らを印象付けるようなマネは極力避けたい。

 

「あー、もう!」

 

 悔しそうに地団太を踏むリリ。

 

 ここまで無視されるとは。

 

 冒険者に声をかけて、サポーターとして無報酬で働かせて欲しいと言って一欠片の興味も持たれないことは初めてだ。

 

 警戒されるならまだしも、興味すら持たれていない。

 

 よっぽど大手のファミリアで、外部からのサポーターを必要としないのだろうか。最もそれならそれでやり方を変えるだけだ。常套手段としては徐々に取り入って、油断させ、隙が出てきたところで金目の物をいただく算段だが、多少強引でも短期勝負に出るべきだろうか。

 

 自分の情報を与えて大手のファミリアを敵に回すことは避けたい。自分の所のソーマ・ファミリアに迷惑をかけようが関係無いが、それによって自分に不利益がかかる事は避けたい。

 

 ローブの冒険者がギルドから出てきた。

 

 まだいたのか、という目で見られたが関係無い。

 

 むしろ「お待ちしてました」と皮肉を込めた言葉を告げ、にっこりと愛想の良い笑みを浮かべた。

 

 ローブの冒険者は何も言わず、リリの横を歩き去る。

 

 

 

 

 

 しかし目的のローブを得る機会は思いの他、唐突に訪れた。

 

 

 それは人通りの少ない路地を進んでいる時のことだ。

 

「……少し持っていてくれるか」

 

 そう言ってローブの冒険者は身に纏っていたローブを脱ぎ捨て、リリに投げ渡した。あれだけ苦労したのにこうもあっさりローブを手にする機会を得た事に拍子抜けするように惚けたリリだった。

 

 意味が分からない。

 

 まるでローブの存在が邪魔だとでも言わんばかりの行動だ。動きが阻害されると何かマズイことでもあるのだろうか、ダンジョンの中でもあるまいし。

 

 しかし。

 

 その冒険者の容姿に、リリは見覚えがあった。 

 

 会った事はないし、実際に見たのもこれが初めてだ。しかしその容姿については伝え聞いていた。英雄譚に語られる今代最強の冒険者。

 

 【片翼の天使】セフィロス・クレシェント。

 

 最大規模の派閥【ロキ・ファミリア】所属にして、迷宮都市オラリオにおいて唯一Lv.9に上り詰めた剣士。

 

 頭の中が真っ白になった。

 

 マズイ人物を標的にしてしまった。いや、マズイどころではない。相手は下手をすれば単身でファミリアを一つ二つ滅ぼしかねない化け物である。Lv.1のリリではどう足掻いても逃げることは不可能であった。

 

「少し下がっていろ」

 

 セフィロスはリリに告げた。その意味する事を、リリはセフィロスの視線を辿って察することが出来た。

 

 男がいた。見上げるような長躯は、鋼のような筋肉の鎧に覆われていた。錆色の短髪に猪の耳。なによりリリを恐れさせたのはその眼光だ。鋭くも猛々しく、近寄るもの全てを威圧するような強者の風格。

 

「……ひッ」

 

 リリは小さく悲鳴を上げた。男のかもし出す雰囲気は、今までリリが相手にしてきた冒険者がまるで赤子に見えるほどすさまじいものだった。

 

「……オッタル」

 

 セフィロスがぽつりと呟いたセリフに、リリは戦慄した。

 

 オッタル。その名はセフィロスと同じく迷宮都市の最強候補として名が上がるもう一人の冒険者である。

 

 【猛者(おうじゃ)】オッタル。

 

 【フレイヤ・ファミリア】所属の冒険者であり……オラリオで語り草になるような殺し合いじみた決闘を繰り広げた男である。

 

 セフィロスとオッタル。

 

 共に何度も殺し合いのような決闘を繰り広げた両雄が……今、目の前で対峙しているという現実がリリの頭を混乱と恐怖に落とし入れた。

 

 仮に。

 

 もし仮にだ。

 

 この二人がこの場で衝突したら……。

 

 そう恐怖せずにはいられないような強烈な気配がリリの目の前でぶつかり合い、高まりあう殺気の衝突点では、死神が手薬煉を引いている姿を幻視した。

 

 ここにいて万が一戦いに巻き込まれでもしたら……殺される……ッ!

 

 しかし足は動かない。混乱と恐怖で足がすくみ、何より物音を立てて怪物二人の意識がわずかでもこちらに向けられるのが恐ろしくてたまらなかった。

 

 慄くリリを他所に、二人は歩み寄り、その距離が数(メドル)まで近づくとぴたりと止まった。最初に口を開いたのはオッタルだった。

 

「……奇遇だな」

「ああ。お前は、見た所ダンジョン帰り……それも長期間潜っていたな。フレイヤの傍を離れたがらないお前が珍しい事もあるものだ」

 

 セフィロスはオッタルが背負っている皮袋を見ながら言葉を重ねた。女神フレイヤの腹心中の腹心であるオッタルが、彼女の傍を離れることなど滅多に無い。フレイヤからの命令か、それともやんごとなき事情があって自分の意思で離れたのか。

 

「許可をとってある。フレイヤ様に関してもアレンに任せてきたから問題ない」

 

 アレンとは【フレイヤ・ファミリア】に所属するLv.6の冒険者だ。猫人(キャットピープル)の男性で二つ名は【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】である。

 

「興味があるな。フレイヤに仕える事を第一とするお前が、そうまでしてダンジョンに潜った理由に」

 

 セフィロスの問いかけに、オッタルはぴくりと眉を動かした。

 

「それは興味本位の問いかけか? それとも……」

 

 その瞬間、オッタルは剣を抜いた。刀身と柄のみで構成された無骨な剣。その刃がセフィロスの首元に添えられる。しかしセフィロスに焦りはない。射抜くような視線はオッタルに真っ直ぐ向けられている。

 

「対立するファミリアの一団員としての間諜の真似事か?」

「…………それならば、どうする?」

 

 しかし、いつ抜いたのか。セフィロスも愛刀をオッタルの首元にひたりと添えていた。

 

 お互いがお互いの首筋に刃をつきつけ合っていた。横溢する殺気と敵意。共に幾多の修羅場を潜り抜けた豪傑同士、そのむき出しの刃のような鋭い闘気は目にこそ見えないが、混じりあい衝突して、空気を軋ませていた。

 

 幾ばくか睨み合っていると、オッタルがフッと口を笑みの形に変えた。それにつられてセフィロスも小さく笑った。

 

「もっとも、お前がそんな狡い真似をするとは思わんがな」

「分かっているなら、くだらんことを聞くな」

 

 口調を和らげた二人はお互いの獲物を相手の首元から除けた。オッタルは剣を肩に担ぎ、セフィロスは納刀する。

 

「だが、安心した」

 

 オッタルがぽつりと零した。牙を見せつけるように獰猛に笑った。

 

 それは先ほど、刀を抜いた時のセフィロスの動きを評しての言葉だった。

 

「もしランクアップに浮かれて己の鍛錬をおろそかにするような愚物に成り下がったのなら、この場で首を刎ねてやろうかと思ったがどうやらその心配はなさそうだな」

 

 仮に今、この二人が衝突しあえば、軍配はオッタルに上がる。

 

 確かにセフィロスはLv.9になり、オッタルより高いランクに到達した。しかし今まで自身の力を超える強者との戦いなど、この二人は数え切れないほど経験してきた。オッタルとセフィロスは互いの手の内を知り尽くしている。いくら速く動こうと、いくら力が強かろうと、連綿と続く攻防の中でわずかでも隙を見せればそこから一気に勝負を決められるだけの地力がこの二人にはある。そして今のセフィロスには大幅に上がった【ステイタス】と引き換えに、自分自身の力を完全に御しきれていないという弱点がある。それが綻びとなり、戦闘の中で致命的な隙を生む事は火を見るよりも明らかである。相手が格下なら問題はない。例え同ランクが相手だとしても膨大な戦闘経験を持つセフィロスなら、戦闘中に己の戦闘スタイルを既存の【ステイタス】に最適化させることをやってのける。しかしセフィロスの手の内を知りつくしたオッタルが相手ではその余裕すら持てない。持たせてもらえない。

 

 オッタルの言葉は決して虚勢でもまやかしでも無い。【ステイタス】の差をひっくり返すだけの戦闘経験がオッタルに、そしてセフィロスにもあるのだ。

 

「俺のランクアップの事も聞いていたか」

「いや。だがお前がオラリオに帰ってきて、剣を合わせた時に確信した。お前の振るう刀の中に息づく鬼の成長をな」

 

 剣を合わせた時。オッタルはセフィロスの潜り抜けてきた修羅場の数を感じ取っていた。鬼気迫る、とでも言うのだろうか。【ステイタス】の更新こそされていなかったが……いや、されていなかったからこそ、かつてのセフィロスより遥かに地力が伸ばされ、強さを増しているのを感じ取った。

 

 オッタルは続けて宣言した。

 

「一ヶ月だ。あと一ケ月で、俺はお前を超える」

 

 オッタルは剣の切っ先をセフィロスに向けた。それは次の勝負の申し込みであり、挑発的な勝利宣言でもあった。

 

 オッタルという男は無意味な嘘はつかず、見栄もはらない。己を偽るような器用な真似は出来ない、良くも悪くも真っ直ぐな男なのだ。そのオッタルが一ヵ月後にはセフィロスを超えると言った。

 

 つまり。

 

「――俺は、お前を倒す」

 

 そう思えるだけの確信と自信を、オッタルは手に入れたのだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆     ◆     ◆     ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………………………。

 

 

 

 ……………………………………。

 

 

 

 ……………………………………。

 

 

 

 ……………………………………いい加減にしろよ、この野郎。

 

 

 

 勘弁してくれよ、この野郎。

 

 そんなに俺が憎いのか、この野郎。

 

 タマ取る気満々じゃないか、この野郎。

 

 そろそろ許してくれよ、この野郎。

 

 勘弁してください、この野郎。

 

 どうしたら回避できるだろうか、この野郎。

 

 ……………………………………。

 

 

 

 ……………………………………。

 

 

 

 ……………………………………。

 

 

 

 ……………………………………ああああああああ、もう!!! オッタルぅ! お前って奴は!! お前って奴はぁっ!!!??? どうしていつもこう俺をつけ狙うんだ!?

 

 本当に勘弁して欲しい。

 

 今までにもオッタルからの勝負の申し込みはあった。普段から隙あらば「少し手合わせするか」程度の軽い(俺にとっては重い)感じの勝負の誘いを仕掛けてくるオッタルだが、こういった改まった形で勝負の申し込みは、実は数えるほどしか無い。

 

 しかしそういった形で勃発した勝負の場合、それは文字通り死力を尽くした戦いになる。

 

 オッタルの場合【ステイタス】の面で引き離したから勝てるとか、そういう次元では無いのだ。

 

 どれだけ実力を引き離したと思っても、何かぶっ飛んだスキルでも発現しているんじゃないかと思えるほどに、毎度毎度勝負の中で肉薄してくるのがオッタルである。

 

 もはや成長とかそういう次元で無く、戦いの中で進化しているとしか思えない。

 

 今回の場合もおそらく、その勝負の果てにあるのはどちらかが死ぬかどうかの瀬戸際になる可能性が高い。

 

 ……ホント、いい加減にしろよ。俺はのんびりとした人生を送りたいんだよ。

 

 思えばオラリオに帰ってきてから災難続きであった。

 

 アイズとの戦い……は、まあ良い。アイズの生い立ちについては、フィン達からかいつまんで伝え聞いている。俺との戦いの結果、それが良い方向に転んだようだったので、そこは諸手を上げて喜ぼう。

 

 しかし、アイズは良くともリヴェリアはただそう思っているだけではないらしいと思うような出来事があったのは、次の日の朝だった。

 

 ………………………………睨んでる。

 

 めっちゃ睨んでる。

 

 俺が食堂でアイズと共に朝食をとっていると、突き刺すようなすさまじい怒気を感じた。

 

 外の世界で腹の探り合いや化かし合いを数多く経験した中で、殊更に鋭敏になった悪意に対するセンサーがガンガンと警報を鳴らしていた。

 

 一応気配にはそれなりに敏感である。

 

 だからこそ気づいた。気づけてしまった。

 

 背後でリヴェリアが俺を睨みつけていることに……。

 

 背中にバシバシと怒気が叩きつけられる。しかしリヴェリアが俺に向ける感情の中には悲しさのような哀の感情もまぎれているのを感じた。

 

 どういうことだろうと思ったが、その疑問はすぐに氷塊した。

 

 リヴェリアは俺の隣に座ろうとして、考えを改め、アイズの隣の席に腰を下ろしたのだった。 

 

 そして時折、悲しさやら申し訳なさのような感情を向け、俺に対してはこいつどうしたらいいか分からないといった目で見てくる。

 

 娘のように思っているアイズに申し訳なさ。俺に対しては睨みつけてから、コイツどうしてくれようかである。

 

 ……例えるならこれはそう……まるで…………守れずセクハラを受けてしまった娘をかばうような母の構図である。

 

 ……いや。

 

 ……待って。

 

 ……弁解させて。

 

 確かに俺は二十代後半に入り始めた年で、アイズは十六歳である。だからと言って……肩を寄せ合って食事をしたくらいでセクハラってのはちょっと乱暴……いやしかし日本では目が合っただけでセクハラで告訴されるというアクロバットな事件もあったしな。

 

 そもそもだ。

 

 昨日はアイズと勝負して、力ずくで気絶させて、気を失ったアイズを抱きとめて……じ、じつはちょっぴり胸が当たったりとかして………………あ、あれをリヴェリアが見ていたとしたら……ッ。

 

 ――チクショウ、判決有罪!

 

 その後、リヴェリアの視線に耐え抜いたが、正直何を話していたか覚えていない。リヴェリアがアイズの隣に座ったのも、視線で俺の動きを牽制する説が濃厚である。実際の所は不明だが、確かめる勇気は無かった。

 

 

 

 

 

 その後数日はオラリオ帰還に対する事後処理に追われていた。

 

 ギルドでしばらくカンヅメされたせいで半ギレになったロキを宥めたり、書類整理や神々への挨拶周りなんかで時間をとられ自分自身の時間はほぼ残らなかった。

 

 しかしその中でも、ファミリアの後輩達へのスキンシップは忘れなかった。

 

 なにせしばらくオラリオを離れて旅に出ていた放蕩者が突然帰ってきたのだ。ファミリアに貢献しなかったくせに、これで偉そうに先輩面してあれやこれやと口を出そうものなら、陰口の絨毯爆撃確実である。

 

『あいつ偉そうだよねー』

『突然帰ってきて何様って感じ? あ、英雄様か~、それじゃあしょうがないね(嘲笑)」

『家出息子(笑)』

 

 ……こんなこと言われたら俺は泣く。

 

 心の弱い部分にクリティカルヒットすること間違い無しだ。

 

 そんなこんなで俺は時間の許す限りファミリアの後輩達と会話を重ね、時に戦闘訓練を請け負い、コミュニケーションを深める作戦に出た。

 

 結局の所、誰かと仲良くなるには実際に会って会話を重ねるのが一番である。

 

 

 ゴブニュの所では正宗の扱いに関して花丸を貰えたのでヨシとしよう。

 

 ゴブニュは昔から武器の事に相談を乗ってもらったり、良くも悪くも裏表が無く取り繕ったり飾らない性格なので付き合いやすかった。いつの間にか神相手だというのに敬語が抜けていた。波長が合った、というのが一番的確な表現だろう。

 

 その後、男の子に会った。

 

 パルゥムの男の子だ。サポーターはいりませんか? と言われたが俺には必要ない。無料でも良いと言ってくれたが、それこそ俺以外の者と組むべきだろう。サポーターの手を借りたい者などたくさんいるのだ。

 

 嘆かわしいことに冒険者の一部ではサポーターのことを卑下する者もいるが、その認識は正しく無い。サポーターがいるといないとではダンジョン攻略の効率が全然違うのだ。荷物を持ってもらえる、という一点だけ取ってもとても助かる。

 

 ……もっとも俺が前にちょっとサポーターとしてダンジョンに潜ってくれないか、と同じファミリアの仲間に頼んだときの返答はおおむね「勘弁してください」や「俺には無理です」だった。

 

 うん……なんか…………ゴメンね。

 

 それにこのパルゥムの男の子から、なんというか嫌な気配を感じるというのも大きかった。このオラリオは場所によってはどこぞのスラム以上に治安が悪い。

 

 心根は悪い子には見えないが、色々事情があるのかもしれない。

 

 ……しかし、そんな所にヤツが現れた。

 

 

 

 平穏を脅かす悪魔――オッタルである。

 

 

 酒の約束を取り付けておけば、次にいきなり勝負を挑んでくることはないだろうと思っていた俺が馬鹿だった。

 

 しかもあの野郎、こっちが拒絶の言葉を発する前に、極彩色の魔石をこちらに投げてきて「そういえばダンジョンで不吉なものを感じた」などと抜かし始めた。

 

 お前こそが不吉の象徴だよ? と言いかけたが、話の内容がフィン達、遠征に出ているメンバーに関わる事案となれば耳を傾けないわけにはいかなかった。

 

 そしてオッタルは言う事言ったらすぐさま「この件はフレイヤ様にも報告せねば」と言って飛び立ってしまった。

 

 勝負を断る隙を与えずに。

 

 それも今回に限れば、フィン達に降りかかる危険を事前に知らせてくれたのだ。

 

 ……恩が生まれてしまった以上、断るのは難しくなってしまった。

 

 

 そういえば、いつの間にかローブを投げ渡した男の子が消えてしまっていた。

 

 何となく察しはつく。

 

 ――ゴメンね! 怖かったよね俺達!?

 

 あの子の事を忘れてオッタルと睨みあってしまった。殺気とかバシバシ飛ばし合ってたから逃げるのもしょうがないことだろう……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆     ◆     ◆     ◆

 

 

 

 

 

 迷宮都市の中央に屹立する塔、バベルの地下一階にダンジョンへの入り口がぽかりと開いている、直径十(メドル)ほどの大きな穴で、円周に沿うように階段が螺旋を描いている。

 

 オラリオの地下に広がるダンジョンは深い階層になるほど、一層ごとの面積が増える特徴がある。

 

 五階層で中央広場と同じほどの広さであり、それが四十階層ほどの深層ともなれば、その面積は迷宮都市オラリオ全土に匹敵するほどの規模の大空間となる。

 

 ダンジョンに遠征に訪れていた【ロキ・ファミリア】の一団は現在、四十四階層を進んでいた。岩肌は燃えるような朱色で、彼等の歩みを邪魔するようにいくつもの巨大な岩がそこかしこにごろごろと転がっている。壁面は炭化したように黒ずんでいて、稲妻のようなひび割れがそこかしこに刻まれていた。亀裂の合間から赤い光が胎動するように明滅していた。その光は太陽の日差しのような朗らかなものとは縁遠く、むしろ生物の内臓を覗きこんでいるような薄気味悪ささえあった。

 

「……リヴェリアはなに落ち込んでいるの?」

「さあ?」

 

 ティオネとティオナが囁き合っている目の前では副団長のリヴェリア・リヨス・アールヴが歩いていた。

 

 凛とした姿は親交の浅い者にはとても落ち込んでいるようには見えないが、同じファミリアで背中をあずける仲間として普段から深い関わりを持っている二人には――いや、多くの仲間達がリヴェリアの不調を感じ取っていた。

 

 戦闘となれば意識の切り替えは問題ないが、ふとした拍子に見せる雰囲気というか言葉でうまく言い現せない埒外の何かが、彼女が気落ちしていることを知らせていた。

 

 実際の所、リヴェリアの心の中には澱み、というか引っかかることがあった。

 

 それは数日前、ダンジョン遠征に出発する当日の出来事であった。

 

 朝食をとるために食堂を訪れたリヴェリアの目に映ったのは、セフィロスとアイズが仲睦まじく話している姿だった。

 

 その時、リヴェリアの胸中を埋めつくした感情は嫉妬である。しかしその嫉妬の感情は果たしてどちらに向けられたモノなのか、リヴェリアには分からなかった。想い人の隣で彼の視線を独占しているアイズに対してなのか、それとも本当の娘のようにすら思っているアイズの心根を引き出したセフィロスに対してなのか。

 

 ……はたまた両方か。

 

 答えは出ない。自分の内から湧き上がってきた醜い感情から目を逸らすのは簡単だが、心の底に押し込めた澱みがいつか自分の心を醜悪に歪めてしまうのではないかと思うと恐ろしかった。

 

 しかし今の感情を隠しもせず周囲に撒き散らすことは、同胞に誇られるべきエルフの王族としての矜持が許さなかった。

 

 意識を切り替えたリヴェリアのとった行動は、二人の輪に入ることだった。逃げる事も溜める事も出来ない想いなら、せめて正面から向き合う事がリヴェリアが唯一取れる選択であった。

 

『おはよう二人とも』

 

 セフィロスとアイズに声をかけたリヴェリアは、二人の返事が返って来ると、今度はアイズに向けて話しかけた。

 

『もう大丈夫か?』

 

 体と心。二つの意味を込められての言葉だったが、リヴェリアの意思を汲み取ったアイズは面映そうに頬を染めながら、小さく頷いた。

 

『あまり無茶はするな……なにかあればいつでも頼れよ』

 

 偽り一つない言葉だった。むしろもっと頼ってくれたほうがリヴェリアとしては安心するというものだ。

 

『……うん、あと……その……リヴェリア……ありがとう』

 

 リヴェリアはくすっと笑うとアイズの頭を一撫でしてからセフィロスの隣に座ろうとした。

 

『……本当に母親みたいだな』

『からかっているのか?』

『いや、感心しているだけだ』

 

 セフィロスと会話を重ねながら椅子を引いたところで、リヴェリアは気づいた。アイズの表情に。

 

 寂しげに眉根を寄せ、眦が悲しげに下がっている。

 

 まるで迷子になった子供のような寂寥とした表情である。その瞳はセフィロスの後頭部の辺りに向けられている。

 

 リヴェリアにしか見えなかったその仕草で「ああ……」と感じ入るものがあった。

 

 セフィロスとリヴェリアが二人だけで話していることに、アイズはまるで自分が置いてけぼりをくらって、除け者にされているみたいな寂しさを感じているのだろう。

 

 リヴェリアは内心で苦笑した。

 

 手間の掛かる子だ、と思いながらセフィロスの隣に座る事を止めアイズの隣に腰を落ち着けた。

 

 少し驚いたように眉を上げたアイズにリヴェリアは声をかけた。

 

『どうした? ほらさっさと食べてしまえ、遠征に出てしまえばしばらくは暖かい物は食べられなくなるぞ』

 

 セフィロスも言葉を重ねた。

 

『そうだな。ほら、俺の分も食べていいぞ』

『い、いや……それは流石に悪い……かな』

『セフィロス……お前はお前でこれからやることが山ほどあるだろうが、腹は膨れさせておけ。それにおかわりくらいならいくらでも用意できる』

 

 それからいくつか会話を重ねた。

 

 とりとめのない、日常の中で有り触れた他愛無い会話だ。例えその会話の内容が、セフィロスと二人だけで完結するような内容でも、アイズを間に挟んで言葉を交し合っているため自然な形でアイズも会話の輪の中に入っていた。

 

 気づくとアイズの表情には笑みが浮かんでいた。

 

『どうしたアイズ、ニコニコして?』

『……べつに、なんでもない』

 

 ちょっと困ったようにもじもじとうつむくアイズに、リヴェリアは内心でふと思った。

 

 ……このやり取りは、まるで親子みたいだな、と。

 

 ハッとした。

 

 ――何を考えているんだ私は。

 

 アイズには本当の両親がいる。自分もよく知っている者達だ。

 

 アイズが両親の事を何よりも大切に思い、求めている事かを幼少の頃より世話を焼いてきたリヴェリアには痛いほどよく分かっていた。幼い頃に両親に会いたいと泣きじゃくっていたアイズの姿が鮮烈に思い起こされ、申し訳なさでリヴェリアの胸は締め付けられた。

 

 例えそれが一瞬であっても、両親の立ち位置を自分と挿げ替えてしまった事にたまらない罪悪感を感じる。自分の想像の中で完結した出来事であることなど関係無い。アイズの心の宝物を土足で踏みにじってしまったような申し訳なさが、リヴェリアを悔恨の底に叩き込んだ。

 

 しかし表情には出さない。セフィロスやアイズに自分が勝手に感じ入った葛藤で余計な心配をかける事など、恥の上塗りをしているようなものだ。

 

 これ以上の無様は晒せない。

 

 しかしアイズを挟んでセフィロスと会話を重ねる事に、心の底からあたたかい感情が溢れだしているのも事実だった。

 

 リヴェリアの内心では幸福感と罪悪感が鬩ぎ合っていた。忙しい内心だ、と頭の中の冷静な部分が、自分の行動に対して呆れていた。

 

 ……しかし遠征に出発して、日を重ねるごとに、あの時の出来事に対する自分の捉え方も変わってきた。

 

 一時の幸福は酔いのようなものだ。しばらくすれば冷めていく幻である。しかし罪悪感は心につけられた傷口だ。時間をおいても中々治らず、長い間じくじくと痛みで胸を蝕んでいく。

 

 あの時は幸福と罪悪感の天秤がつり合っていた。しかし時間が経つにつれ、幸福感は薄れ、罪悪感のほうが強く残っていた。

 

「どうしたの、リヴェリア?」

 

 普段とは違うリヴェリアの雰囲気に、アイズが声をかけてきた。しばらく様子を見ていたようだったが、ついにたまりかねたようだった。

 

「いや」

 

 なんでもない、と言おうとしてリヴェリアは思いなおした。しばらく考える素振りを見せてから、アイズに問いを投げかけた。

 

「アイズ、セフィロスの事をどう思う?」

 

 アイズは予想外の質問に少し困ったように視線を宙に彷徨わせ、ぽつりと呟いた。

 

「……いたら……」

「ん?」

 

 アイズは胸の前で手を組み、恥ずかしそうに身をよじった。

 

「お兄さんがいたら……あんな感じ……だと、思う?」

 

 疑問系だった。しかしそれがアイズらしい気がした。

 

「そうか」とだけリヴェリアは答えた。しかし次の瞬間には肩を揺らし始めた。アイズが不思議に思って顔を覗きこむと……笑っていた。エルフの麗人がそれはもうおかしそうに声を押し殺して笑っていた。

 

 あっけにとられたアイズだったが、その笑いが自分の返答に対するものだとすぐに察して頬を膨らませた。

 

 なんで? と問いかけると「なんでもない」とリヴェリアは答えた。なんでもない、なんてこと無いはずだ。じゃなきゃ自分はこんなに腹を立てていない。

 

 むー、むー、唸り始めたアイズに、リヴェリアは今度こそ声を上げて笑った。声を上げて笑うことがはしたない事だと感情を乱すことが少ないエルフの王族の意外な姿に、周りにいた団員達がギョッとした目で見遣ってきた。しかしリヴェリアはそんなこと関係無いと言わんばかりに笑っていた。反面アイズはますます頬を膨らませている。リスみたいだ。

 

 笑いすぎたリヴェリアは眦に涙を溜めながら、今度はこう問いかけた。

 

「アイズ、じゃあ私のことはどう思ってる?」

「……知らない!」

 

 つっけんどんな返事だったが、それさえもおかしいというようにリヴェリアは笑った。

 

 ……たった一つの問いかけで、心のつっかえは驚くほど簡単に取れてしまった。なぜかは自分でもよく分からない。自分の感じてたものと、アイズの感じていたもの。微妙にかけ違ったようなちぐはぐな関係が可笑しかったのか、それともまた別の理由か。 

 

 とにもかくにも、この時の想いは、明確な形にするのは無粋だ。曖昧なままで良い気がした。

 

 ――リヴェリアの馬鹿ぁっ!! と珍しく聞くアイズの大声を聞きながら、【ロキ・ファミリア】を率いる団長であるフィン・ディムナは「あいかわらず騒がしいなぁ」と苦笑を零した。

 

 フィンは一団を率いる者として周囲の敵に警戒しながら、仲間達の隊列やコンディションに気を配り歩を進めていた。

 

 ダンジョン遠征。ここまでの道程に特に問題は無かった。幾多のモンスターと交戦し負傷者が出る事もあったが、魔法や薬で完治できる程度のものだった。薬などの消耗品の残数も想定の範囲内に収まっていた。

 

 ……しかし、疼くのだ。

 

 フィンは自らの親指に視線を落とした。

 

 わずかだが疼く親指。それは危険が差し迫っていることに対するシグナルであった。虫の知らせという言葉がある。潜在意識や感情の動きで、よくないことが起こりそうだと感じるという意味の言葉だが、フィンの親指はまるで〝虫の知らせ〟を知らせる器官そのものであった。今まで自分を含めたくさんの仲間達がこの親指の疼きのおかげで、危険を察知して窮地を退けた事が数え切れないくらいある。

 

 その親指がわずかだが疼いていた。

 

 ――なにか起こるかもしれない。

 

 コップ一杯の水に墨を一滴落としこんだようなおぼろげな不安が、フィンの頭の中に生まれた。

 

 なにが起こってもすぐに対処できるように、いっそう気を引き締める。

 

 次の目標は野営地として最適な五十階層。ダンジョンの中にいくつか存在するモンスターが生まれない安全階層(セーフティーポイント)である。しかしその前に四十九階層の大荒野(モイトラ)の攻略がある。そこは仕切りの無いただひたすらに広大な空間で、四方からモンスターの大群に襲われる場所である。大所帯である遠征では、素早く斬り抜けることは出来ず、向かってくるモンスターをひたすらに蹂躪しながら前へ進まなければいけないのだ。

 

 五十階層に到達するための最大の関門である。

 

 何か危険が起こるかもしれない、というのはダンジョンにおいては常に頭に置いておかねばならないことだ。

 

 例えどんな予想外の自体が起こっても、被害を最小限に留め活路を開くのが自分の役目である、とフィンは静かに疼く親指を掌の内に握りこんだ。

 

 ……しかし。

 

 【ロキ・ファミリア】が現在足を踏み入れている四十四階層。その更に下層の五十一階層では、とあるモンスターの断末魔の悲鳴がこだましていた。

 

 強竜(カドモス)

 

 Lv.6相当の階層主(ウダイオス)より、力だけなら上とされ、第一級冒険者でも単独での討伐は大きな危険が伴う強力なモンスターである。

 

 強竜(カドモス)を倒したのも、またダンジョンに生息するモンスターである。それは本来ならありえない事態である。モンスターをモンスターが倒すなど共食いに等しい行為だ。

 

 彼等はまだ知らない。知る由も無い。

 

 既存の常識にすら当てはまらない、強竜(カドモス)すら命を落とした異常事態(イレギュラー)が、フィン達【ロキ・ファミリア】の面々の前に、明確な脅威として立ち塞がろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 翌朝未明。 

 

 最低限の休息を取り、ダンジョンに潜るための準備を終えたセフィロスは、『黄昏の館』の自室で戦装束である黒いコートに袖を通した。愛刀である正宗の感触を確かめてから腰に佩く。

 

 主神であるロキから受けた任務は二つ。

 

 一つ目は情報収集。ダンジョンに起こっている異変をその目で確かめること。

 

 二つ目はファミリアに襲い掛かろうとしている慮外の危機の打破。

 

 準備を整えたセフィロスが黄昏の館を出ようとすると、門番をしている二人の冒険者の姿が見えた。

 

 つい昨日もセフィロスが訓練をつけた男女の冒険者であった。

 

「お前達か……悪いな次に訓練につき合うのはしばらく先になりそうだ」

 

 セフィロスがそう告げると、二人は敬礼を返した。

 

「御武運を!」

「皆さんのお帰りをお待ちしています!」

 

 二人の返答に、セフィロスは小さく笑った。

 

「ああ、では行ってくる」

 

 朝焼けに烟る、空の下、【片翼の天使】セフィロス・クレシェントはダンジョンへ出撃した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆     ◆     ◆     ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうしよう」

 

 リリは手にしたローブを眺めながら悩んでいた。

 

 【片翼の天使】セフィロス・クレシェントのローブである。

 

 あの時、あの二人の睨みあいの最中で一瞬気絶したリリだったが、気を失っていた時間は十秒にも満たなかった。

 

 意識を取り戻した時には、怪物二人は毒々しい色で輝く魔石について話し合っていた。なんだったのだろうか、あんな魔石は見たこと無い。もっとも自分のようなオラリオの底辺にいる者には関係無い話だと思うが、天上人の話の内容など自分の知るところでは無い。

 

 逃げるなら今しか無い、と忍び足でその場を離れ、大通りに出た瞬間全力疾走で逃げたリリだった。

 

 問題は一緒に持ってきてしまったセフィロスのローブだった。

 

 売却目的で狙ったローブだったが、あんな恐ろしい殺気を放つセフィロスの持ち物とくれば恐ろしくて売却など出来なかった。下手すれば自分の今のこの姿が魔法で偽ったものだということにも気づいているかもしれない。

 

 ローブを盗んだままでいたら、いつかあの恐ろしい冒険者が自分の元に報復にやってくるのではないかと考えられずにはいられない。

 

「返しに……いこう……」

 

 今ならまだ不可抗力で持ってきてしまいましたという言い訳がたつ。

 しかし体の震えが収まらない今の状態では、とても【ロキ・ファミリア】を訪ねる勇気がわいてこなかった。

気がわいてこなかた。

 

 あと数日後……と先延ばしする事を決めたリリ。

 

 しかし……

 

 なぜ無理を押しても、〝あのエルフ〟がいないあの時に、ローブを返しに行かなかったのかとリリは後悔することになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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