鈴の塔へ至る道は一つしかない。
エンジュから広がるジョウト中の神話。その全ての中心と言えるかの塔は、普段多くの修行僧によって厳重に護られていた。神話の象徴たるホウオウに認められた者か、はたまた定期的な巡礼か、もしくは御開帳か……何せ特別な時にしか、その道を譲る事は無かった。
その修行僧が今、黙して少女を通した。
彼女はその光景に絶句し、足を崩れかける程に震わせながらも、それでも歩を進めた。
金色たるホウオウを讃える検問場は、血で染まっていた。
ある僧は絶叫の表情のまま下半身を無くし、ある僧は腹部を円くくり貫かれてうつ伏せに寝て、またある僧は頭部を失って壁に張り付けになっていた。
――嘘だ。嘘だ。
少女は震えながら、血の海を歩く。
誰一人生きちゃいなかった。僧が出したのだろうポケモンも、等しく身体の一部を抜かれるような姿で息絶えていた。
――何これ。何これ。
それでも少女は止まれなかった。
思い出せるセレビィとの邂逅の時に見た、鈴の塔の倒壊。
崩れてくる塔の下敷きになる街並み。
「――っ!!」
少女は出口のすんでで膝を崩し、胃から混み上がってくるものを必死に押し止めようとした。しかし波打つように衝動は迫り上がって、やがて汚物として少女の眼前に吐き出される。一度吐き出せば、波は止まらないと言うように、喉を焼いて飛び出してきた。
きもちわるい。きもちわるい。きもちわるい。
目の前に広がる汚物。口も鼻も、つんとする胃液の臭いで染まったかのように感じた。目からは涙が溢れ、身体中が寒気を感じて震え上がった。
少女が一度見た地獄が、また出来上がろうとしている。
――いやだ。……でも、
時間がない。
もう街は襲われている。
このままサクラが行ったら治まってくれるのかは解らないが、逆に行かなければ『ワカバタウン』のようになるのは解りきっている。
――立って。お願い、立って。
震える足に力を込めながら、這うように出口まで進んだ。
開きっぱなしになっている扉の縁を掴む。ゆっくり、ゆっくりと立ち上がった。
怖い。
怖いよ。
――でも、ヒトリデイカナキャ。
震える足を一歩踏み出す。
外に出た。足許の血が、何か引き摺るような跡に変わって、遠目に見える塔まで続いていた。
ゆっくり、その跡を追う。
待っているのは間違いなく、サクラの敵だ。
サクラの母だ。
行ったが最後、殺される可能性が高い。
何故……という疑問はあったが、父が敵対しているらしい以上、母が敵であっても何の不思議も無い。
と、そこでサクラはハッとした。
カーディガンを捲って、モンスターボールを全て展開する。
「ルー!」
ルーシーが我先にサクラへ駆け寄ってきた。
彼女の汚れた口元を拭い、腰にしがみついてくる。
「チィノ」
レオンはサクラの先導をかって出るように、彼女の三歩前で首だけで振り返った。
「ロー!」
サクラの身を支えるように、ロロは彼女の脇下へ潜り、彼女の歩を邪魔しない具合にその身を持ち上げてくれた。
「ブイ」
リンディーはサクラを守るように、一歩前で、こくりと頷いた。
――イカナキャ。
「……みんな、ごめんね。あそこまで行きたいの」
指差すは鈴の塔。
四匹は気高く鳴いた。
――大丈夫よ。サーちゃん、私がいるわ。
――僕が全部倒してあげるよ、サク。
――私が守るよ。サクラちゃん。
――安心して下さい、サクさん。
まるでそんな声を聞いた気がした。
「……うん、行こう」
――ヒトリデイカナキャ。
口元を自分でも拭って、サクラは弱々しくも一歩ずつ踏み出した。
四匹は少女の歩に合わせ、ゆっくり、ゆっくりと、それでも気高く彼女の前を歩く。
砂利を踏み締め、血の跡を踏みにじり、震える足を叱咤する。
胃がまだ吐き出し足りないとばかりに震えるが、喉と腹にありったけの力を込めて押し殺した。
――ねえ、みんな。
佇むは荘厳たる扉の眼前。
ホウオウの姿をした印が大きく彫られた扉は、やはり血で染まっていた。金色の取手には色濃い血の跡があり、鍵穴には鍵が指しっぱなしになっていた。
「……みんな」
その取手を握り、四匹を振り返る。
四匹は少女が扉を開けるのを待つかのように、後ろで立ち止まっていた。
――私、ちゃんと出来てたかなぁ。
レオンは普段、厳しい表情ばかりを浮かべるのに、こう言う時に限って、一番サクラを想ってくれる。だからずっと頼りにしてきた。
朝は彼に起こされる事が定番で、何をするのもいつも先陣をきって促してくれる。サクラの孤独な夜に、横で寝てくれた。きっと、サクラの敵が現れれば、何がなんでも食らい付くだろう。
ルーシーはおっとりしている。朝はサクラと同じ寝坊助で、サクラより早く目覚めた事さえない。それでも微笑みを絶やさないその姿に何度も癒された。
常にサクラを想ってくれる優しい心は、サクラのポケモン嫌いを癒した第一歩だった。今は何がなんでもサクラを護ると決意を秘めた目をしている。
ロロは最初、バトルが苦手だった。ずっとずっと怯えてばかりいた。プログラムを受けて身体能力をリセットしてから、それでもリハビリは必死に頑張っていた。気高いその姿に似合うようにと言わんばかりに、必死にその身体を動かしていた。
尾が折れたミロカロス。それでも綺麗だと言われた時は、どんなに嬉しかったか。今はきっと、少女がどんなに苦境で膝を崩しても傍に居てくれるのだと思わせる。
リンディーは気高い。よくレオンとは喧嘩したり、じゃれあったりしている。サクラの枕元と胸元は彼らどちらかの居場所らしい。
どんな強敵も指示さえあれば突撃していくだろう従順さで、
――ちゃんと、家族だったかなぁ。
私は……。
私は貴方達に助けられて来た。サキやアキラ、色んな人に助けられて来た。
解ってるんだ。この扉を開けたら、お母さんがいる。沢山の人を殺して、お母さんがそこにいる。
私を殺すのにも、きっと躊躇無いだろう。
ねえ、みんな。
そんな所に、連れていけるわけ、ないよね?
ごめんね。
解ってとは言わないけど、モンスターボールからは出してあげたから、もう動けるでしょう?
ごめんね。
本当に、ごめんね。
――ソウダ、ワタシハヒトリデイカナキャ。
私は扉の鍵を抜いた。
扉を引いた。一人分だけ。
皆が入ろうとするより早く入って――。
「ごめんね。みんな」
扉を閉めた。
鍵を、かける。
「バイバイ」
小さく、別れを告げた。
外から、悲鳴のような皆の鳴き声が聞こえた。
――ほんと、唐突なんだよ。こういう別れって。
自分に言い聞かせる。
サキ。アキラ。メイさん。フジシロさん。お兄ちゃん。
他にもいっぱい、いっぱい、お世話になった人達。
ごめんなさい。
謝罪を並べて、振り返る。
やっぱり居た。
お母さん。
「ルギアさえ奪ったら、皆は見逃してくれるかな?」
「うん。そうだね。見逃してあげるよ」
金髪の男の人をくわえたメガニウムを横に従えて、お母さんはそう言って笑う。
「私、抵抗してもいい?」
敵わないのは解ってる。
残るマスターボールを投げたとして、きっとお母さんはスイクンを繰り出してくるだろう。ルギアをちゃんと扱える自信さえ無い私が、敵うとは思えない。
お母さんは優しそうに笑った。
「抵抗されるのは面倒くさいなぁ」
「じゃあ、私の事殺さない?」
「殺すよ? 決まってるじゃん。マスターボールの所有権はサクラだもん」
平然と、淡々と、笑いながらお母さんはそう言った。
「その人は?」
「マツバ。まあ顔見知りだから油断してたしね。あっという間に片はついたよ」
「生きてる?」
「生かしてるの」
お母さんはさぞ満足そうに笑った。
メガニウムが吐き捨てるように男の人を落とすと、その人は呻き声をあげていた。
「まあ折っていい骨は全部折ったから、動けやしないけどね」
そう言って、お母さんはマツバさんの頭を踏む。
実に愉快そうに笑っていた。
「まあ、サクラ。恨んでいいよ。ちゃんと恨んで死んでね。こんな悪い親で本当に申し訳ない」
手を合わせて、祈るようにお母さんはお辞儀した。
「うん。死ねばいいと思う。クソババア」
私はこれ以上無いくらいに笑って返した。
メガニウムの花が揺れて……ああ、成る程。
みんなその子のソーラービームで死んだんだね。
「楽に殺してね。苦しむのは嫌だ。後、サキとアキラと私の手持ちに手だししたら、呪い殺すから」
「オッケーオッケー。まあ、最終的に全員死ぬけどね」
あはは。何言ってんの。
サイッテーなクソババアだ。
ああ、もうメガニウムの充填終わってるね。
綺麗な光だね。
もう、私の事も覚えてないのかな……メガニウム。
「ほんと、英雄の娘なんてくそ食らえだわ」
私の目の前は光に包まれた。
あの時。何がなんでもサキにキスしとけば良かったなぁ。
ほんと、うまくいかないや。
そんな風にごちて、私の目の前は光に――。