壁際の穴は少し長かったが、サクラの言う通り、外へ通じていた。先導した彼女に続いて外に出れば、彼女が伸びをする様子に心から同意した。
地下だと思っていたが、穴が僅かに上向きだったのだろう。外に出てみれば辺りは森に囲まれていた。いつの間にか地上の高さに上がっていた事も驚きだが、何よりは、澄んでいると思っていた洞窟の空気はそれでも曇っていたようで、鼻腔を通る空気のなんと清々しい事か。
サクラに倣って、サキも天へ腕を伸ばしては身体を解すように動かし、体内の空気を入れ替えるように深呼吸をする。
「ここね。秘境って呼ばれてるのよ」
先に伸びを終えたサクラは、そう言って今一度腕を上げた。「秘境?」と聞き返しながらも、サキは彼女が指差す先を視線で追う。
「昼間じゃないのが残念だけど、綺麗でしょ?」
「……すげえな」
彼女が指差した先は、キキョウで見た花畑より、メイのゴチルゼルが見せた幻想より、余程美しかった。
赤、青、黄、緑、白、一目には勘定しきれない程の色彩が、月光の下に輝いていた。二人の存在に気付いているのかいないのか、バタフリーが数匹羽ばたいていて、静かに花の蜜を啜っている。
サクラは昼間じゃないのが残念と言うものの、月光の下と言う事がそれはそれでとても美しく思えた。特にはここばかりは電灯もなく、人の造る物が一切置かれて居ない。何よりはバタフリー達の鱗粉でさえも、この月下の下では微かな明かりを跳ね返していて、キラキラとまたたくようだった。そんな幻想的な風景は尊さを感じさせて、『秘境』と言う言葉にサキも納得をせざるを得ない。
「ここね。実は有名なスポットなんだけど、さっきサキが見逃したみたいに、全然見付からない場所なんだよ?」
サクラはそう言って、サキに向かって微笑んだ。彼は確かに見逃したし、きっと気付けもしなかっただろう。
それに、こんなに美しい場所なのに、サクラの言う通り見付からない場所なのか、人気が無い。花畑だけでも小さな公園程の広さはあるのに、ここには誰も居なかった。
「サクは来たことあんのか?」
ぽつりと零して問う。彼女は首を横に振って、えっとねと口火を切った。
「私が来たいと思って来た事は無いし、見付けたのも偶々なんだけど、お父さんとお母さんの記憶の中で、さっきの穴みたいなのが記憶にあったの」
少女は懐かしそうに夜空を仰ぎ、あの時はお昼だったけど。と付け足す。幼い記憶でこの穴を通って、そして花畑を見ながらご飯を食べたんだ。と言った。
「学校に通ってた頃に、ここの花畑の写真を見たことがあって。秘境って書いててさ」
いつかまた来たいと思っていたと、彼女はそう続けた。
サクラは朗らかに微笑み、花畑の前までゆっくりと歩いて行った。花畑と広場はちょっとした段違いになっていて、サキ達が居る広場の方が高台になっている。その段差に腰かけては、彼女はサキを振り返って隣へ促した。
白いブラウスを揺らし、少女は微笑む。
まるで花畑をも霞ませるような色で、鮮やかに。その姿はまるで幻想のようで、サキはひとつ決意した事を握った拳に誓い、ゆっくりと少女の後ろへ歩いて行った。
前に向き直って、鼻唄を刻むサクラ。
その身体を、背中から、サキはゆっくりと抱き締めた。びくりと跳ね、「え?」と漏らす彼女に、しかし振り向けないように、肩を抱いては頬を寄せる。
「さ、サキ?」
「……うん」
小さく返事にならない返事を受けて、それでもサクラは抵抗をせずに、サキの手をとった。膝立ちで彼女を抱き締めたまま、彼はゆっくりと口を開く。
「あのさ」
そう言って彼は口火を切った。
サクラは音も無く、小さく頷いて、サキの手を掴む指に少しばかり力を籠める。
ドクン、ドクンと音が重なって響く。
「サクラ」
久しぶりに、少年は少女の本当の名前を呼んだ。決意を籠めた拳をほどき、少年はそれでも目を開いて、少女と同じ景色を見ながら、ハッキリと言った。
「好きだ」
その言葉は、まるで花畑を揺らすようだった。同じく一陣の風が吹いて、二人の前で色彩が揺れる。揺れた。揺らいだ。
滲んだ。
「……さっき、私言ったもん」
涙が溢れ、景色が歪む。瞬きをすれば、頬を伝う事なく、はらりと落ちた。
少女の言葉に、少年は静かに頷く。
「聞こえてた。ごめん」
その言葉にふっと笑っては、サクラは涙を流しながら唇を尖らせた。
「……やっぱり。サイッテーだよもう」
「お前こそ、人の台詞取りやがって」
サクラの涙声に、サキは静かに声を被せる。言葉とは裏腹に、声色はとても穏やかだった。
サキの右手がサクラの肩から離れ、代わって頭を撫でる。
「まあ、俺はまだまだガキだから、年も、中身も……」
そう言って、ゆっくりと左手に力を入れた。サクラは振り返るようにサキを臨み、目線を合わす。息のかかる距離に、二人の顔があった。
もう数秒あれば、もう一凪ぎの風に背を押されれば、おそらく二人の唇は重なる。しかしそこで、サクラは悪戯っぽく微笑んだ。
「んじゃ、そう言うのはまだお預けだね」
舌を軽く出して、少年に『キスはしないぞ』と、訴える。すると彼は――。
「……うん。その方が助かる」
そう言って、少年はどさりと力無く横へ倒れた。
そのあまりに呆気ない動作に、思わずサクラは唖然とする。
「……え?」
そう言って、彼へ向き直った。しかし特に問題はないと少年は左手をぷらぷらとさせて合図し、ホッと息をつく。
「いや、もう無理。心臓破裂しそう」
「……お預けは冗談のつもりだったんだけど」
嘘から出た真なのか、少女は口付けの距離にあった少年を冷やかすだけのつもりだったのに、むしろ彼自身いっぱいいっぱいだったと、そう言っていた。
なんとも格好悪いと言うか、初心と言うか。
しかしそんな少年だからこそ、サクラは愛しく思える。愛しく思う。
少女は目尻に溜まった涙を拭うと、優しく微笑んだ。
「ねえ、サキ」
横になった彼は、目を薄く開いたまま、少女へ顔を向ける。その上に覆い被さって、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「さっき意地悪した罰ね」
そう言って、少年の頬に、優しく口付けた。
サクラが顔を離すと、少年は口付けられた頬を一撫で。途端に目をカッと開いてはパチパチと瞬かせた。
「あ、え、え?」
呟き、少年の頬が真っ赤に染まっていく。サクラはその様子に「ん?」と言って微笑んだ。
「うぉあああああ!!」
次の瞬間、彼はまるでバネでも入っているような勢いで飛び起きては脱兎の如く駆け出し、洞窟へ続く穴へ飛び込む。そこから顔だけを出して、頬を真っ赤に染め上げて叫んだ。
「ば、ばばばばかやろー!」
そして穴へ引っ込む。
へ?
と、サクラはまたも呆気にとられたが、不意に少年の行動に理解が追い付いて、腹を抱えて笑い転げた。
「ば、ばかやろーって、ばかやろーってなに!? あははははは! もぉサキ! 笑わせないでよぉ!」
サクラは少年の初な態度と、幼い物言いに本当に可愛いなぁと笑う。しかし穴から僅かに服の端が見えては居るのに、全く反応はなかった。
「んもぉー!」
後を追ってサクラは穴へ向かう。少年は外へ背を向けて膝を抱えていた。
その背を先程の逆の形で抱き締める。
「んもう、ずっと一緒でしょ?」
少年は耳まで真っ赤にして、ゆっくりと、一度だけ、こくりと頷いた。肩越しに回した手をとって、彼は小さく溢す。
「……絶対、守るよ」
少女はその手の温もりを感じながら、こくりと頷いて、小さく返した。
「私も同じだよ」
ずっと、ずっと一緒に居よう。
何があっても守ろう。守り合おう。
きっとどんな困難も越えていけるよね。
例え何回躓いても、何回泣いても。
私はサキが一緒なら大丈夫。
だから、ね。
サキ、旅をしよう。
ずっと、一緒に。
ついぞ少年は照れて、少女とまともに顔を合わせなかったが、その日、二人は手を繋いで隣合って眠りについた。