きっと誰かは舌打ちをした。
一服もなく話し終え、ふうとサクラは息を吐く。彼女の横でサキは薄く微笑み、天井へ視線を向けてゆっくりと目を閉じた。
「思い出……か」
サキがぼやくと、サクラはうんと小さな声で返した。辺りは静かなもので、どこかでわずかに水が滴る音だけが響く。サキの足でも端から端まで五歩程の広場は辺り一面が湖なので、人気も全く無い。余計に静かだった。
ドクンドクンと胸が鳴る。それでいて先程のような焦燥感は全く無く、どうして心地好い音色のように感じながら、サキは薄く目を開いた。
「なんかごめん」
そう呟いた彼に、サクラは顔をあげて小さく声を漏らす。彼女が見た少年の横顔は、どこか安らかにも、寂しそうにも見えた。
「……どしたの?」
その表情に少女の心はキュッと絞められるような痛みを覚えた。「ごめん」の意図が、少女の過去話を経て彼に否定的な気持ちを持たせたり、彼にとって嫌な思い出を思い出させたのではないかと不安に感じる。
しかしそれさえも否定するように、少年は首を横に振りながら、ゆっくりと俯いた。
「お前と旅立つ少し前にさ、俺すんげえ無責任な事言ったなぁって……」
へ? と、少女は返す。
少年はほら、言ったじゃんと、サクラと触れそうな距離にある左手を挙げて、宙をなぞるように動かした。
「シロガネ山行って、皆守れるくらい強くなって……とか、覚えてねえか?」
不意にサクラの中で、サキの声が響いた。あれは旅に出る直前だったか、サキは……そうだ、言った。
「なあ、サクラ……。旅をしよう。だっけ」
「……復唱は止せと言いたいけど、間違ってはないな」
サキは恨むように横目でサクラを睨み、クスリと笑った。サクラは彼の目を見ながら、それでも真面目な声で「覚えてる。忘れるわけないよ」と、零した。
旅に出られる訳がない。辛くて辛くて、ウツギ博士やワカバの町並みばかりを思い出しては、もう会えないと嘆いた頃。
サキはサクラに、手を差しのべてくれた。
「……無責任なんかじゃ、無いと思う。私はすんごく助けられた。救われたよ」
力の籠った言葉は本音だった。
無責任だなんて、言わないで欲しい。旅に出て、何をして、どうしようと語る彼に、確かにサクラは救われたのだ。その言葉が無ければ、サクラはここに来るまでにもっと時間がかかっているだろうし、一緒に行こうと手を差しのべてくれた彼が居なければ、今こうして肩を並べる事さえもなかった。
サクラの身の安全だけじゃない。今、サクラの胸の中で『ドクンドクン』と高鳴る音さえ、彼が居なければ知らない音だった。
少しじわりと、目頭が熱くなる感覚を覚え、それでも少年の微笑みより、僅かに上乗せした程の笑みで返す。
「私は、嬉しかったよ……」
そう言って、少年の言葉を否定する。しかし彼は、それでも尚首を横に振ると、薄く笑った表情のまま、サクラの方へ右手を差しのべてきた。
「言い足したい」
サキは表情から笑みを消し、真面目な声色で言った。対するサクラは首を傾げながら、「何に?」と零して、少年の右手を、左手で取る。その手は熱を帯びていて、熱く感じた。
「何って……まああの日の口上」
「……でも、私はあれで嬉しかったんだよ?」
「うん」
少年は僅かに安らかな笑みを浮かべ、頷いた。彼が何を言いたいのかが解らず、拒絶されるにしては伸ばされた手が熱くて、まるで受け入れてくれるような心地を覚える。何が言いたいのか、伝えたいのか、それでも彼は暫くそのまま口をつぐんでいた。
先に訪れたのは言葉ではなかった。
サキは、静かにサクラの手を引いて、彼女の身体を抱き寄せた。引いた手を離しては、そのまま倒れてくる彼女の身体にその腕を回して、優しく抱き留める。
「え、ちょっと、サキ?」
ギュッと抱き締め、サキは「いいから」と、少女を宥めた。そしてゆっくり、ゆっくりと、小さく口を開いて、彼は震える声で零す。
「ずっと一緒に居るから……。ずっと、ずっとだ」
少年はそう言って、全身を強張らせた。恥ずかしさを圧し殺すように左腕も彼女の背に回しては、抱き締める腕に力をいれる。少年の力でしかと抱き留められた少女は、まるで胸と胸がくっついたかのように、距離を感じなかった。
ドクン、ドクンと、少女の胸が、少年の胸が高鳴る。
――ずっと一緒に居るから。
少女はその言葉の意味を静かに噛み砕いた。無責任と本人が言った言葉の意味が、ようやくにして伝わった。事実、シルバーが彼を止めるんじゃないかと、サクラは何度か不安になったじゃないか。端からそう言われていれば、もしかしたら不安も少しは減っていたかもしれない。
ずっと一緒に居るから、旅をしよう。
頭の中で言葉をそんな風に繋げて、少女はゆっくりと頷いた。
「ずっと一緒に……だね」
「……おう」
抱き締められるサクラは、ゆっくりサキの背に両腕を回す。そして目を瞑り、彼の肩に頭を寄せた。
喧嘩した事もあるし、打った事もある。意見の食い違いは一度や二度じゃない。僅か二ヶ月足らずで何度ももう喧嘩したし、その度に仲直りした。
ドクン、ドクン。
聞こえる音が心地好くて、自分の音と僅かにずれた少年の音が、なんとも愛しく感じる。噛み合わない音は、それさえも二人の日常を表すようじゃないか。
朝起きるのはサキがはやくて、自分は寝坊ばっかり。旅の指針はどちらともなく決めるものの、いつも自分の都合で彼を振り回してきた。
それでも彼は、一緒に居たいと言ってくれる。
少女は不意に口を開いた。
――……きだよ。
と、その言葉を吐き出すなり、頭に冷水を浴びたような錯覚を覚えた。ハッとして、少女はわっと声を挙げる。
「な、なな何か言った!? 私今なんか言った!?」
そう叫んでは、少年から無理矢理離れ、立ち上がる。唖然とする少年の前で一転し、踵を返した。
「あ、わわっ!?」
と、そのままバランスを崩して、水面へ――。
「ちょ、サク!」
パシリ。と、急いで立ち上がった少年が、少女の腕をしっかりととった。ギリギリセーフと言わんばかりに、少女の手は水面を叩いている。
もしも間に合わなければドボンと落ちて、下着まで丸々ずぶ濡れだったろう。勿論軽くしてきた荷物に替えはない。一応下着はいれてあるが、それは宵越しになった時の為で、ドジを踏んだ時の為ではない。
「な、何やってんだよお前……」
「え、いや、あの……」
顔を真っ赤にして、少女はバランスを崩した状態から、少年に引っ張りあげられる。そして、再度抱き止められた。しかし今度は肩越しに腕を回され、少年は呆れたように項垂れては大きな溜め息を吐いていた。
「もー、ほんっとお前って……」
「……ご、ごめんなさい」
優しく少年が少女の頭を撫でてやり、ふうと息を吐く。少年は少女を解放すると、「もう暴れんなよ」と釘を刺してから、洗って干しておいた料理道具を片付けた。
「まあ、少し時間経ったし、そろそろ行こうぜ?」
「う、うん。本当ごめんね」
「落ちてねえしいいって」
そう言って再度ロロに跨がり、二人は湖を進んだ。
少年は少女の肩に手を置きながら、聞こえた言葉を頭の中で反芻する。
――すきだよ。
その言葉は確かに聞こえていた。耳元で囁かれて間違う筈もないだろう。
親愛か、恋愛か、はたまた情か……。
即座に暴れられてしまって確かめる事は出来なかったが、少年はそれで良かったと息を吐く。もしも本当に恋愛的な意味で好きだと思ってくれているのなら、それはきっと自分から打ち明けてあげるべきなのだ。
男だから、女だからではなく、ずっと一緒に居たいと言ったのは自分だから……。
頬を染めた二人の珍道中は、やっと折り返し地点に着いた。