天を渡るは海の音   作:ちゃちゃ2580

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【第二部・母との再会、そして……】
白銀の世界


 もう夏も近いと言うのに、此処はいつもと変わらず白銀に染まっている。

 

 そうある事が自然であり、摂理だと言うように、人の身には辛い寒さが肌を、毛を凍らせる。毎日のように霰が降り注ぎ、風は轟と唸りをあげ、生物の鳴き声ひとつ許さぬよう。例えそこが世界の全てだとして、決して人は適応するように進化は出来なかっただろうとさえ思わせる程だ。

 

 霊峰だと言う地上での謳い文句は伊達ではない。きっとこの地は人の身に過ぎた場所なのだろう。

 

 トレンチコートを纏った男はふうと息を吐く。ネックウォーマーを通して外界へ出た彼の吐息は瞬時に真白へと染まり、凍りついてしまう。ウォーマーからまだ出きっていない水分さえ、白い結晶へと変わってしまうのだから、今日はきっといつもより寒いのだろう。

 

 皺の寄った顔を隠すかのようにフードを深く被り、両手をコートのポケットに深く突っ込んでいるその老人。年を思わせるその顔付きにしてはどうして、背筋はピンと伸び、彼は吹き付ける霰をものともせずに胸を張っていた。

 

 フードの奥から臨む双眸は、一目に老いを思わせる皺の寄った瞼とは対照的に、瞳は凛と澄んでいて、下界の如く広がる大地をジッと見下ろしている。まるで下界――ジョウトの大地全てを見透かさんばかりだった。

 

 その瞳はゆっくりと動く。

 

 キキョウ、ヒワダ、コガネ、エンジュ、アサギ、タンバ、チョウジ、フスベ……。

 

 そして今は無き、ワカバの町でさえも。

 

 まるで旅路を辿るようなその瞳に、果たして景色がきちんと見えているかは分からない。漠然と方角だけを見ているとした方が、余程現実的だろう。視力も足りない筈であれば、彼の睫毛は凍りつき、降り注ぐ霰によって視界が遮られていて当然なのだから。

 

 しかし彼は最後にジッとワカバの町を臨む。

 

 瓦礫の山、消し炭と化し、黒色に染まった町並みを見下ろし、男はやがて静かに双眸を閉じた。まるで謝罪の言葉を呑むように、自ら罪だと理解する事をあくまで必要だったと割り切るように……。

 

 不意に男の立つ広々とした頂の頂点に、ひとつの足音が響く。

 

「お父さん」

 

 コートの男が振り返る。彼の背後、遠くにある洞窟の出口から、華奢な身体つきの女性が、風上の方を右手で庇って歩んで来ていた。男とは違い、厚手のダウンジャケットをその身に纏い、深く被ったフードからは紫色の髪が僅かに臨む。

 

 ウォーマーの下で、男の顔がうごめく。くぐもった声が出た。

 

「……お前か。外は冷える。中に戻っていなさい」

 

 男は頭を振って、女性を促す。しかしその女性もまた、頭を振った。

 

――ザク、ザク。

 

 と、小刻みに歩を進め、男の元へ向かってくる。

 

「お父さんも中に入ろう? ね?」

 

 男の横に辿り着いた彼女は、男のコートに手を回した。そして一度、二度、その腕を強く引く。しかし男は微動だにせず、引かれる左腕をそのままに、右手をポケットから出して女性のフードへと差し込んだ。当然ながらその手は皺枯れ、やはりどう見ても老人のそれだった。

 

「僕はいい。()()寒くないからね」

「……でも、体調に支障は出るわ」

 

 女性は男の穏やかな声を、跳ねるような声色で切り返す。それでも男の顔は横に二度振られた。

 

 そして男は下界を臨む。

 

「……ワカバを見てたの?」

「あぁ。僕の故郷だからね」

 

 男の視線を追った女性は、きっと懐かしむ彼にはあの炭の色に埋もれた町が美しい町並みとして見えるのだと知る。

 

 昔の、若葉薫るあの町並みを――。

 

「お父さん。戻ろう? お母さんも待ってるよ」

 

 そこでピクリと、男の左腕に反応があった。

 

「……そうだね。戻ろう」

 

 母の名を出せば、驚く程あっさりと彼は頷いた。その様子に女性はクスリと笑う。

 

「……ほんと、お父さんはお母さんには負けるもんね」

「あぁ。彼女に逆らうと後が怖いからね」

 

 ゆっくり、ゆっくり、左足を、右足を、交互に雪に埋める。男の元へ駆け寄った時とは違い、女性は男の歩調に気を遣いながら肩を支えた。

 

 不意に男の膝が笑う。

 

 女性は素早く察知し、左腕を出して彼の身体を転ける前に抱き止めた。

 

「……ふう、すまない。ありがとう助かったよ」

「良いの。気にしないで」

 

 男は女性の腕を伝って体勢を立て直すと、彼女の右腕を今度は両手で掴む。

 

「お前にはいつも世話をかける……」

 

 どこか切なそうに、男は洞窟の出口を見つめながらそう溢して、足を踏み出した。その歩に合わせて女性も踏み出し、「ううん」と首を振っては薄く笑う。

 

「本当にお爺さんみたいだよ? お父さん」

「……ははは。そうだねぇ」

 

 一歩、一歩、ゆっくりと進んで、ようやく洞窟の出口までを戻りきった。女性は先に男を促し、背後を臨む。

 

 いつの間にか霰が止んだらしい。

 

 遠目には晴れ渡る空が見えた。日射しを覗かせ、遠い下界を照らす。しかしその光はこの地までは届かずに、この地の空はまだ厚く黒い雲に覆われていた。

 

 遠目に映る下界。足元の雪原。

 

 そして二人分の足跡。

 

「まだ、大丈夫だよね……。お父さん」

 

 女性は確認するかのように零し、そこで強い一凪の風に煽られてはフードを払われる。中から覗く相貌は、二〇代後半頃の様相。その顔付きは僅かに幼さを残し、『栗色の髪』が、紫色の髪の下に映えた。

 

 男は洞窟の出口へ一歩踏み入れ、女性へ振り返る。そして「うん」と頷いた。

 

「大丈夫、ここに来れるのはレッドと、僕とコトネ、それにお前だけだからね」

 

 男は女性が振り向いて微笑めば、とても穏やかに微笑んだ。紫色の髪を揺らし、彼女も笑う。

 

「さあ、コトネとゴールドが待ってる」

「うん」

 

 

――さっさと帰ろう、×××。


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