ヒワダタウン。およそ大都会コガネに隣接するとは思えない程、町の景色は大きく異なる。空を穿つかのようなビルも無ければ、衣食や娯楽を売る施設さえひとつも無かった。
あるのは自然ばかり。空気は澄んでいて、ワカバタウンよりも木々や林を身近に感じた。心無し住人の歩くペースもコガネやキキョウの人々と比べると遅く、まるで大自然の成長に合わせたかのようなゆったりとした時間の流れを思わせる。
そんな町中をサクラはアキラを連れて歩く。昨夜サキに慰められた彼女は、彼と共に寝て――如何わしい事は無かった。気配すら無かった――、翌朝目を覚ますとサキに『ジム戦の予約』をお願いしてから、アキラの部屋を訪ねた。サキが運び込んでくれたのはポケモンセンターであり、アキラも同じ屋根の下に居たのだ。
『合わせる顔がございません』
『うっさい。いいから出てこい』
陰鬱に拒絶するアキラを、サクラは怒気を孕んだ声で無理矢理連れ出した。向かう先はこれといって決めてはおらず、町外れの『ヤドン』が生息するらしい井戸にたどり着いては、その脇で足を止めた。
「…………」
「…………」
サクラに倣って足を止めるアキラ。サクラは今朝目が覚めてはきちんと風呂を済ませ、化粧をして、身なりを整えていた。対してアキラは、いつもならば誰にも見せないだろうと言う程、みすぼらしく見えるような雰囲気。
桃色の長髪はぐしゃぐしゃで、目の下は黒い隈と泣き腫らした痕が強く残り、着ている服はサクラが最後に見た時のままだった。あれから二日、いや、一晩過ぎたので三日経っているが、どうやら彼女は風呂さえも投げ出して泣いていたのだろうと思わせる。
俯く彼女を振り返り、サクラは右手を高く挙げた。スナップを利かせて強く振るい、アキラの頬を強く打つ。
パァーンと、甲高い音が響いた。打たれたアキラは膝を崩し、地面に転がる。その姿さえ、サクラは怒りを顕にした相貌で見下ろした。
「ねえ、アキラ」
暗い声でサクラは呼ぶ。アキラは応えず、打たれた頬を押さえたまま、動かなかった。まるで打たれるのは『予想外』だったとでも言いたげに、呆然としている。
その彼女の胸ぐらを掴み、無理矢理アキラを立ち上がらせた。
「返事してよ」
サクラのその声はいつもの人懐っこい声ではない。普段からは想像もつかない程に怒気を孕んでいて、アキラはその声に視線を上げて彼女を見据えるが、唇は結んだままだった。
サクラが余った手をもう一度振り上げ、アキラの頬を打つ。
「返事しろって言ってんでしょ!」
少女の表情は恐ろしいまでの怒りで満ちていた。今度は打たれても、サクラに胸ぐらを掴まれていたせいでアキラは倒れない。ただ、彼女にはもう枯れたとさえ思わせていた涙が、頬を伝った。
「ごめ……なさい」
それだけを絞り出す。泣きながらだからか、この三日で枯らしてしまったのか、アキラの声は酷くしゃがれていた。
サクラはその声を受けても眉ひとつ動かさず、睨む双眸を細めて口を開いた。
「なにが?」
その声はやはり低く、少女の怒りを更に煽ったのではないかと、アキラの不安を更に強めた。こんなにサクラを怖く思う事自体、アキラにとっては初めてだった。
「貴女の、気持ちを……考えてなかった」
アキラは謝罪の理由を述べる。ずっと後悔したのはまさしくそれだった。同じくコトネと対面しただろう彼女に、あまりに急に、あまりに惨い事を言った。それは確かだった。
しかし、少女はその言葉に頬をひきつらせて、歯をギリッと鳴らすと、やはり普段から想像もつかない程低い声で溢す。
「違うでしょ」
そしてまた腕を振り上げ、少女の頬を打つ。
「あんた私の親友だろ!」
ついに怒鳴り、穏やかな大自然の中、おおよそ似つかわしくない急いた口調で、アキラを捲し立てた。
「私の気持ちを考えて言わなかった? ふざけんな!! 私がどれだけお父さんに逢いたいと思っているか、博士を大事に思うか、良く知ってるよね!? 事実を知ったら私が悲しむから黙ってたんだろうね。そうだろうね、確かに私は事実を知って泣いたよ! でもね!」
サクラはそこで大きく息を吸って、両手でアキラの胸ぐらを自分に向かって引き寄せた。
「何様だよ『あんた』!!」
アキラは刹那、少女の怒る理由を察した。自分が悔いていた事と、全く別……それどころか、後悔した事さえ彼女は「何様だ」と罵った。
震えるアキラに、尚も少女の怒声が降りかかる。
「
その全てがサクラを想っての事だ。それは間違い無い。間違い無くとも、彼女がその行為を間違いだと言ってしまえば全て間違いになる。
僅かに肩を上下させ、サクラは荒れた息を深呼吸ひとつで無理矢理飲み下すと、うってかわってゆっくりとした口調で語りだす。
「ねえ、あんた私の事考える中で、何をもって何も知らないふりをしたのよ。……私が何も知らずのうのうと過ごして、それで解決する話なの?」
少女の怒りを浮かべる目から、一筋雫が曲線を引いた。
「いつかは解る話じゃん……。アキラが私に話してくれなくて、誰が私に話してくれるのよ……」
そう溢す少女は、やがて力無く膝を折り、剥き出しの地面に尻をつける。アキラは固まったまま、動けなかった。
「アキラ……」
呼ばれて、おそるおそるアキラは視界から溢れたサクラへ向き直る。彼女は涙を溢し、先程までの怒声とは裏腹に、悲しそうな表情をしていた。
「私は知りたいか知りたくないかで言えば、全部知りたいよ。辛くて、悲しくて、落ち込むだろうけど、それを支えてくれるって解ってるから、逃げずに聞くもん……」
アキラは両手で顔を覆った。
膝を折り、サクラと同じように剥き出しの大地に座り、首を横に振っては謝罪の言葉を並べる。
これだけ言われたら呆然自失のアキラにだって彼女の言いたい事は強く伝わる。彼女は真実を与えられなかった事に憤りを感じているのではなく、アキラが、他ならぬアキラが、彼女の心を汲み間違えた事を怒っていた。
他の誰が彼女に同じ対応をしたとて、おそらくサクラは激昂したりはしない。『自分を良く理解してくれてる』と思うアキラだからこそ、彼女は激昂した。
アキラがいる。サキがいる。彼女を励ます人間は既に足りていたのだ。真実を先延ばしにせず、どうせ傷付くのならば励ましてもくれるアキラ達に傷付けられたかった。でもサキは真実を与えられちゃいないし、それが出来るのは他ならぬアキラだけだったのだ。
事は結局アキラから伝えられたが、それは不意に近いものであれば、更にアキラは彼女を励ます事から逃げ出した。少女が怒っているのはこれだったのだろう。
身勝手だとは思う。アキラにとってサクラを想う気持ちは確かにあった。それは事実だし、思い遣りは善意であって、義務ではない。だけど、アキラとサクラは親友だった。その思い遣りを義務にしてしまう間柄は、確かにそこにあった。
そして少女は何よりも『不幸』で、それでも前を向いている。その前を向いて歩いている道に、色を付ける術を持つアキラは、勝手にその色を彼女が『嫌がる』として、隠してしまったのだ。その色を共に好きになる努力をせず、それこそ身勝手に消してしまったのだ。
――なんて、なんて酷い事を。
アキラはサクラに抱き締められた。先程の激昂とはかけ離れた優しい抱擁に、枯らす程に流し尽くした筈の涙は身体中から水分を何がなんでも集めたと言うように流れ出た。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
アキラを責め立てたサクラは、彼女の背をゆっくりと撫で、そしてゆっくりとした口調で溢す。
「……解ってるよ。アキラが私の事を思ってくれてるの、解ってる……。だから八つ当たりしたの。ごめんね、アキラ」
そして、サクラはアキラと目線を合わせて、涙ながらに微笑んだ。
「私も酷いこと言ったんだから、これでもうおあいこでしょ? だからもう合わす顔が無いとか言わないでよ」
「……うん。うん。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
一対一の引き分け。喧嘩両成敗。
アキラの罪悪感と、サクラの絶望感と、イーブンの痛み分け。それさえも、アキラが思いやむと中々立ち直れない事に対する、サクラなりの回答だった。
勿論駄犬にそこまでの算段は無かった。駄犬は駄犬らしく、本能のままにぶち当たって、それが実っただけの話。ただそれは、親友じゃなければ出来ない事だったろう。